迷った時に
自由と責任 責任と自由
自由と責任ということはよく言われます。
(マルセイユ)タロットにおいても、そのどちらも表すカードは存在しています。
例えば、「正義」とか「皇帝」とかのカードは、端的には「責任」というものを表すカードと言えますし、逆に「愚者」や「世界」などは、「自由」を象徴しているカードと見ることができます。
しかし、これはカード単体の意味で見た場合のことであり、究極的には、どのカードにおいても、自由と責任ということは、そのレベルの範囲で象徴されていると言えます。
先に挙げた「正義」にも自由はありますし、「愚者」にも責任はあります。(ただし、「愚者」の責任というのは、常識的には考えつくことが難しいものではありますが)
この、どのカードにも自由と責任が象徴されているという考えは、実は現実的にも適応できるものです。
言ってみれば、その考え方を持てば、生きる上で混乱することが少なくなり、人と意見が違ったり、争うようなことになっても、感情的になり過ぎずに済むという利点があります。
それは簡単に言えば、世界を色分けして見る、区別して見るというようなものに近いです。
もう少し別の言い方すると、ある常識・正しいとされている共通したルールを持つ世界が、それぞれにあるという風に見る方法です。
例えば、法律的なことで言えば、憲法レベルで言っているのか、条例レベルで言っているのか、というものでも、その世界観は違うわけです。
人は結局のところ、自分(の認めた、信じた)ルールに従って行動したり、主義・主張したりするわけですが、それでも、明文化された法律とか、その職場や学校、クラス、仲間うちで通用するような常識、慣用、習慣みたいなものがあるわけです。
まあ、他人様がいるのがこの世界ですから、自分のわがままだけ押し通すわけにはいかないのは当たり前です。
スピリチュアルなものを志向したり、心理的なものを解決や解放の根拠に置く人の傾向にはありがちの考えですが、「人は本来自由であり、何も縛られるものはなく、従って、いいも悪いもなく、それを決めているのは、自分や他人のジャッジだ」というのがあります。
確かに究極的には、私もその通りかなとは思います。
しかし、人の世界、共通したルールに基づいて形成したり、合意したりしている世界それぞれにおいては、そこに優劣や正誤、良い・悪いという線引きは確かにあるのです。
法的なものが整備されている国において、その国の法律で犯罪だとされているものは、その国おいては、やはり悪いことで、犯罪なのです。
要するに、人間として現実生活を行う限り、レベルや次元の違いはありますが、どの層・世界においても、あるルールや守るべきもの、法則が存在し、その意味において、責任が生じたり、いい・悪いという二元の判断はあるということです。
もし、そのいい・悪いの判断(ジャッジ)から逃れたいのなら、自分の自由度と責任を、その世界観のものとは別にしていくこと(世界観が適用される範囲から、はずれること)が求められます。
ひとつには、単純に、その世界(観)から、移動する、別の場所に行くという方法があります。
日本ではダメだけれども、別の国に行けば認められるとか、この仲間うち、職場のルール(掟)では自分が苦しい、自由になれないので、別の仕事に変える、そのグループから離れるというやり方です。
しかし、非常に広範囲に設定されているルール・規則・法則のもとでは、逃れること自体、現実的には困難で不可能な場合もあります。
例えば、物理法則から逃れるとか、普通に裁かれずに法律から逃れられるのも難しいことでしょう。人間としての機能・感覚から逃れるのも、超人にならないと無理です。(笑)
しかし、物理的なことも、工夫したり、身体を鍛えたりして、ある程度自由度を増すこともできますし、明文化されていないルール・規則、つまり、内的なことや、思い・感情的なことなどは、自分自身で自由度を上げていくことが可能です。
いわば、自分ルールを変えることによって、自分の自由度、選択度を上げていくということです。
肉体的には確かに限界があるかもしれませんが、心の自由度は、かなりのところで可変でき、心の縛りのようなものを解いていくことで、気持ちは解放され、その分、自分の囚われも少なくなり、今まで見えなかったことが見えてきたり、できなかったことができたりするようになります。心理的アプローチで現実を変える根拠は、こんなところにもあるのです。
ただ、注意点があります。
自由と責任と書いてきたように、自由には常に相応の責任が生じます。
これは自動的にそうなるようなものなのですが、その広がった自由分の責任を取らないと、違うことでのバランス調整が働き、拡大した自由が奪われたり(つまり責任が取れないので、元に戻される)、その自由をコントロールできずに、失敗したり、身の破滅に向かったり(これも、自分が本当に責任が取れる自由度の状態に調整される作用と考えられます)します。
例えば、「自分は自由に恋人を何人も持ってつきあうんだ、それが俺流、わたし流」と、自分の心の自由度を上げたと思っている人でも、その、何人もの人とつき合うための「責任」ということも拡大されるのです。
複数の人とおつきあいするわけですから、皆さんがいがみあったり、嫉妬したりせず、満足させる状態になければなりませんし、世間的な常識(というひとつの世界観の世界)の自由度の人たちからは、非常識だと非難される恐れも高くなります。
それらのことに対して、心を乱したり、うまく対応できなかったりするようでは、本当の意味で、自由を獲得した(自由度を上げた)とは言い難いわけです。
自由と責任が、ひとつの世界の中で、ある形のような感じで決まっており、それはもちろん一定ではなく、世界(観)が変われば、それに応じて、自由と責任も変化していくのですが、世界(観)を混同して、すべて同じレベルとルールのように思って「自由」を主張していくと、属している世界それぞれのルールによって、正しさの争いが起き、混沌・殺伐とした状態になってしまいます。
自分が主張しているものは、どの世界観・レベルで言っているのか、また相手も、どのような世界観で言って来ているのか、よく見極めることです。
それを把握しないと、話し合いは平行線のままに終わりますし、ともに「自由」の認識も異なって、それに伴う「責任」も不明確になります。
わがままな人は総じて、世界観を飛び越えた究極の自由、あるいは自分ルールばかりを拠点とした自由のみを主張し、それに伴う責任にはついて無自覚か、あえて(わざと)避けようとします。
逆に、必要以上に、本来、その世界観では取らないでいい責任まで自分に課して、自由を自ら奪っている人もいます。
人は、一人で何でもできるわけではなく、また一人の人は、逆にそれほど無力でもありません。
自由と責任、それには階層種類、レベルの違いもありますが、どこにおいてもバランスは常に働き、そこからはずれていると、自動調整されたり、自ら責任を取るように働いてきたりします。
だから、逆説的になりますが、もっと伸び伸びと自由を求めてよいのです。
なぜなら、先述したように、自由になった分、責任は自動的に働いて来るからで、最初から自由に対する責任の恐れを持ちすぎて、解放をためらうのはもったいないからです。
しかし、同時に、「拡大する自由の選択は、その応分の責任が働く」ことも、(過剰にではなく)自覚しておくと、成長や解放の道も、よりスムースに進むことができるでしょう。
自分の見方・考え方が変わっていくタロット
マルセイユタロットをやってきて、良かったと思える点はいろいろとありますが、年々、そのシステム(構造)がわかってくるにつれ、改めて、マルセイユタロットは実によくできているものだと感心しますし、自分の認識力が変わってくる(上がってくる)ことを実感します。
それがマルセイユタロット(を学び、扱っていく)ことの良さとしてあげられます。
その理由のひとつは、物事を一面から見なくなってくるということです。いわば、一度自分への解体が起こり、さらにはそれが統合されたものになる繰り返しなのです。
私たちは、ともすれば、ひとつのモノの見方(感じ方もあります)、自分のこれまでの経験や常識として教えられたこと、自分の築き上げられた価値観によって物事を見たり、判断したりします。
それはそれで、普通のことではありますし、慣れた見方で処理していくのが、楽(言ってみればオートマチックな状態)でもあります。
しかし、ずっと同じ見方・考え方をしていては、問題が生じたり(新しいことにうまく対処できない)、自分を成長させたりすることがてぎなくなります。他人や世の中の見方も変わらないままです。例えば、自分にとっていい人と悪い人の線引き、物事の良しあしも同じなままです。
でも、もしかすると、あの人はあなたが思うような人ではない(厳密にいうと、違う部分を持っている)のかもしれませんし、あなたが知っている今まで報道されてきた世界の状態には、嘘があるのかもしれません。
また、何より、自分はこれだと思っていた自分自身が異なっていたり、さらには、自分にはほかの部分(人格やキャラクター、能力、その他)があることにも気付かないかもしれません。
これが、マルセイユタロットの象徴で見ていくことにより、物事の見方・考え方に多様性が出て、いわば、観察眼として、タロットの数だけ持つようなことになり、表だけではない裏の姿、形や物質だけにはとらわれない性質や意識、エネルギーのようなものも、カードの象徴として見ることができるようになります。
すると、自分の外側の世界、つまり他人や外に見ているリアル(現実の)世界、そして内側の世界、意識や精神・心、魂の世界とが、一面的なものではなく、いろいろのもので構成されている(ように見える)ことがわかってきます。
ただ、その過程においては、一時的には自分の実体、自分自身が何者なのかわからなくなって、現実逃避的になったり、空虚な感じになってしまったりすることもあります。それは一度、固定観念のようなもので縛られていた自分、これまでの体系でできていた自分(常識の価値観に染まっていた自分)の解体(破壊)が始まるからです。
しかし、肉体を持つ私たちは、結局は再び(精神・心が)地上に戻り、現実的に生きられるようになります。ただ、タロット的に解体、再生した形になっていて、今までの自分とは明らかに変化し、モノの見方・感じ方・考え方も変わっているのです。
そうしていくと、例えば、何かを選択すること、迷っていることがあった、起きたとして、「恋人」のカードや「運命の輪」の象徴で表せる考え方が、自分の中に生まれてきます。
選択の悩みにある時、たいてい人は、AかBかのようなことで迷っているわけです。また、そもそも何をすればよいのか、何を選べばよいのかがわからないという場合もあります。
通常、どちらかを選ばなくてはならない時、どれかや何か選び、決めなければと思っている時は、自分の利益を得たり、よい運になったり、とにかく自分の人生にとって悪くないほう(よいほうを選ぶこと)にするのだと考えています。
あなたがもしマルセイユタロットを知り、その象徴性で自分と世界を観察していくようになれば、先述したように、まさにタロットで描かれているような見方が現れてきますので、選択時にも何種類かの考え方、モードのようなものでもって見ることができ、悩む自分を客観視するような姿勢になります。
いくつか例をあげると、「何を選んでも、もともと選ぶことは決まっている」という考え方や、「選ぶ時、自分は何をもっとも重視しようとしているのか」という観点による見方などがあります。
もし前者の見方があれば、結局、あれこれ悩んでも仕方ない(結果はすでに決まっている)という境地になり、選ぶこと、悩むことそのものが一種のゲーム、演劇的表現であることに気づき、選択で悩む自分を救済することになります。こちらはスピリチュアルと言いますか、統合的観点です。
そして、後者は、いわば分析的観点であり、分離的観点と言え、先ほどとは逆で、自分が今悩んでいること(現象)の要素を分けて理解することで、今の選択の基準を明確にする(例えば、今はお金・経済的なことがメインだと考えるような)ことができます。そうすると、判断、決定もスムースに行くことがあるのです。
これらは、タロットを知らなくても、仕事や生活での経験的学びで出てくることもありますが、タロットを知るほうが、より体系的で整理されており、何より絵としての象徴がありますので、視覚的にも思考・感情を実体化(表面化)できるという効果があります。
ただ、タロットならば何でもよいのかと言われると難しいところで、マルセイユタロットは、とてもシステマチックにできているので、こうしたモノの見方を深めたり、高めたりすることでは、やりやすいように構築されていると、私自身は思っています。
そもそも、マルセイユタロットは、カードを引いて占うことに使うのではなく、一体と個別のシステム(象徴モデル図面)として見立て、宇宙や人間の構造を把握していくためのもの、言い換えれば、自己を知り、他人を知り、世界や宇宙を知り、それらは最終的には同じであり、しかし現実では違う表現であると理解して、この現実世界を楽しむためとも言えますし、より自由や解放的に生きる(無謀や放浪生活をするという意味ではありません)ため(現実を超越すること)に使われていくものだと思えますから、今日述べたような変化のためには、最適なツール(タロット種)だと言えるのです。
壊れたがっているあなたの部分「13」
数日前に、私の使っているパソコンが急に壊れてしまいました。
だいぶん古い代物だったので、だましだまし使っていたところもあったのですが、とうとうダウンしたという感じです。
結局、新しい物に買い替え、いろいろと設定をやり直すことになり、急だったこともあって、その作業は結構大変でした。
しかし、こうでもならない限り、旧パソコンでのやり方・データなどを見直す機会はありませんので、結果的にはまさに強制終了して、新バージョンに移行したという感じで、終わればとてもすっきりしたものになりました。
「今までなんでこんな面倒なことしていたのだろう」とか、新しいほうがよいとはわかってはいても、慣れた古いやり方になじんでいた手前、なかなかリニューアルを図れなかった自分に気がつきます。ひところ流行った断捨離ではありませんが、余計はものは捨て、身軽になった気持ちになります。
この状況はマルセイユタロットでいえば、「13」で象徴されます。
「13」は前や未来(マルセイユタロットにおいては向かって右方向)に進む場合は、その大きな鎌で刈り取りながら、自身を変容させ、まったく新しいものに生まれ変わろうとします。しかし、その作業は苛烈を極め、生易しいものではないのは、その骨と皮になった姿で表されています。
一方、これが逆さまになって、後ろ向き(マルセイユタロットでは向かって左側)になればどうでしょぅか?
まるで左側へ鎌を振り下ろしているように見えますし、そのまま強く振り下ろしすぎると、自分自身の身にまで鎌が来てしまうことになるかもしれません。変革の時は来ているのに、それに抵抗し、空しく鎌を振り続けているかのようにも感じられます。また視線の方向は正立の時とは違い、マルセイユタロットでの方向性の過去側に向いて、何かそこに強いこだわりがあるようにも見えてきます。
一方、「13」の前の数12を持つカードは、「吊るし」で、そのカードの絵柄では、人物が逆さまになって止まっている状態が描かれています。すると、本来、右側で未来に進まねばならない「13」であるのに、新規改革・断捨離等を拒否し、過去に執着してしまうと、その鎌で自分か他人を傷つけたり、空しく宙に向かって振り下ろすかのように、不安を示したり、本来しなくてもいい行動を繰り返したりすることになるわけです。
宇宙の理に、創造・維持・破壊という三つの流れがあると言われます。すべてのものは始まり、頂点を迎え、やがて終わりを迎えるのです。特に、物質社会の中では、モノや形が中心で、それが変わっていくこと、変動していくことが当然としてある世界です。
次の新しいステージに向かう(あることの終わりと次なるものの始まりの)タイミングが来た時、すでに自分でも旧来のバージョンが古くなって、今後の人生でうまく適応していかなくなることを予見しています。
そのタイミングに呼応するかのように、自分や内側だけでなく、外側や環境自体も変化や終わりを告げてきます。言ってみれば、内外が象徴的にリンクし、終わりと始まりのタイミングを知らせるわけです。
よく、モノや機械が壊れる時が、何かの変化の時だと言われるように、モノそれ自体の替え時であると同時に、自分自身の内側の何かも変え時、新しくなる時なのです。
これに対して、「13」の逆位置で示したように、ひどく抵抗したり、滅んでいく古きをあまりに守りすぎたりしていると、それへの対応にエネルギーをとられ、心も不安と焦燥にかられ、知らず知らず疲弊していくことになります。しかも、どんなに抵抗しても、自然の摂理・宇宙の理に従い、最後には強制的に手放す(手放させられる)ことになります。
これはモノだけではなく、恋愛や人間関係なども同じであり、永遠はある種のイデア、元型、魂の次元としてはありますが、現実世界の中では、始まったものは、何らかの形で終わりを迎えることになるのです。しかし、終わりという過程で、新しいものとして変容をすることができた時、それは別の始まりでもあり、その意味においては、変容し続ける限り、永遠性はあるといえます。
例えば、恋愛でも、当初のような恋愛感情・スタイルは二人の間に消えたとしても、二人が新しい愛の形・関係として変容すれば、それはまた二人の新鮮な関係として始まるのです。(具体的にそれが結婚であったり、付き合い方の変化であったりです) それができないときは、やはり終わりとして別れを迎えるかもしれません。
ここは、幻の恋愛セミナー(笑)で語ることですが、「13」と、「恋人」や「審判」のカードとも関連させて、なぜ恋が終わってしまうのか、また、恋を続かせることができるのかの考察が可能なところなのです。
ともあれ、何かが壊れる時、あなたの内なるものも壊れたがっていますが、それは悪い意味での破壊とは限らず、むしろ古い殻を壊したがっている自分の部分であり、壊れることは不安や恐れ、やっかいごととしてあるのも確かですが、そこに至らないとわからない新天地・新境地、新たな可能性のあなた自身を知ることはできないのです。
変わらなければと思いつつも、失うことをおそれてだましだましやってきた人、ぬるま湯のように今までの環境に浸かってきたことで、心身の退屈さや問題が出始めている人、足踏みしているうちに、ストレスがかかったり、強い衝動の気持ちが抑えられなくなってきたりしている人は、勇気を持って立ち向かい、「13」となって終わらすための鎌を、前進的にふるってみましょう。
その過程は大変ではあっても、きっと大いなる祝福があなたに訪れるでしょう。
タロットによる選択のこと
タロットリーディングの技法、いや、もう少し限定的な言い方をいたしますと、タロット占いの技術で、どちらか迷っていることを決めるとか、たくさんの選択肢の中からベストなものを選ぶというものがあります。
これは、私の考えるタロットリーディングにおいては、あまり意味を持たないものになるのですが、決して無意味というわけではありません。
タロットリーディングという定義において、あまり選ぶこと、どちらかに決めるという発想自体が、そぐわいなものになるということです。
つまり、求めるもの、回答の導き方、あるいは、答えを出すというプロセスと、その求められる答えというものの質と次元が違うということです。
しかし、逆に考えれば、選ぶこと、選択肢の中からよいものを決めたいという、そのやり方と、レベル・基準においての答え(この場合、まさに選ばれるものが答えですが)がやはりあるわけです。(実際に、ひとつに選ばないといけない場面が人間生活にはあるということ)
そうしたものに対応することも、タロットはできないわけではありません。むしろ、占いのフィールドや技術として、とても求められるものだと言ってもよいでしょう。
これは、言い換えれば、私たちの生身の感覚、現実や生活において悩んでいることの答えが求められる質のものなのです。簡単に言えば、すごくリアルな欲求であり、現実的な求めなのです。
タロットはあらゆる範囲・レベル(の答え)に適用できると考えられますが、マルセイユタロットにおいては、大アルカナと小アルカナ、特に小アルカナの数カード(数札)と、大アルカナの絵柄はかなり違います。ここから大と小には明らかな適用範囲の違いが見て取れます。
あくまで私の考えですが、マルセイユタロットでは、大アルカナが魂や霊的解放・完成に向かうのに対し、小アルカナは現実・実際面での調整・選択・安定に適しているパートだと思われます。いわば、天に向かうのが大アルカナで、地に向かうのが小アルカナです。
さきほど、選択を求める回答は、現実的、人間的欲求からのものであると言いましたが、そこからしても、小アルカナが選択的な回答に応えるのには適していることがわかります。
有り体に言えば、(現実的な)選択には、小アルカナを使ったほうがよいというか、使うべしなのです。
これは本当に簡単な話で、また論理的(明白)なことなのです。
なぜなら、特に数カードは、数をメインに象徴するカード群で、考えてみれば、私たちが現実の生活で選択に悩むことと言えば、数値に関わることが大半だからです。
時期(年・月・日・時間)もそうですし、数量(金銭・人数・分量)などもそうです。
ただ、私たちは「人間」なので、単純に数値だけでは割りきれない心・感情部分を持ちます。数値的な合理性から見れば、明らかにこちらだと判断できても、「いや、確かにこちらのほうが料金は安いけれども、だからこそモノが悪いのではないか?」とか、疑い・思うこともあるわけです。(笑)
だからこそ、単なる数だけではない分野と性質が、小アルカナには付与(分類)されているのです。それが、四大元素を基本とした、4組の分類です。
一般的にはソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、私が伝えるマルセイユタロットでは、剣・杯・杖・玉と言っておりますが、このような4つの性質・種類に分けることで、無機質な数や合理性だけで振り分ける機械的選択になることを、タロットは避けています。
むしろ、この4つのものがあるからこそ、分析もしやすく、自分の価値観、選択がどの要素を中心にされているか(自分の選択の要のようなもの)もわかるのです。
タロットの小アルカナはこの4つの性質に分かれているので、選択においても、自分の選択中心がわかるだけでなく、どの要素がこの場合の選択において重要であるか、基準にすべきかのガイダンスも示します。
私たちの普通(現実)の選択における悩みにおいて、小アルカナを使った技術を使うのは、こういう意味でも適しているのです。
さて、ここでちょっと話題を変えましょう。
選択において、タロットが示すものとは何なのでしょうか? こちらがよいと示す根拠と言いますか、その「よい」の基準のようなものです。
実はこれを考えると、とても難しい問題になります。タロットへの信用と信頼にも関わるからです。
ただ、私から言えるのは、小アルカナは、さきほども言ったように、地上生活への適応をメインとしますので、すなわち、現実的に生きやすい方向性・ポイントを示すのだと考えられます。
しかし、大アルカナが示すのは、逆に地上を超えたものでもあります。(使い方にもよりますし、タロットの種類にもよります) ですから、大アルカナは必ずしも、(人間的)現実生活を充実させるためのことを表すとは言えないわけです。
では小アルカナと大アルカナを併用して、選択を決めるというようなものはどうなのでしょうか?
これはひとつには、大アルカナの小アルカナ化という縮小転移と、もうひとつは、反対に小アルカナの大アルカナ化(厳密にいうと大アルカナの構成要素として見ること)によっての統合上昇という面が出てきます。
何を言っているのか、わからない人もいるかもしれませんが、物事の選択ひとつとっても、タロットは実に複雑なことを見せてくれる(技法や答えはシンプルであっても)ということです。いわば、路傍の石に宇宙を見る、日常の好きだ嫌いだの中で、人生全体の悲哀や歓喜を見るみたいな意味です。(笑)
ともかく、「選ぶ」ということは、私たちが現実に生きるこの人生の中で、何度も、そしていろいろな分野とレベルで行われれていくものです。
いい人生を送ろうと、皆必死で、あるいは楽天的に、毎日を選んでいるわけですが、長い目で見れば、選ぶことの結果ではなく、選ぶプロセスそのものが私たち自身でもあり、人としての一生を象徴しているとも言えます。
大アルカナで言えば、「恋人」カードの葛藤と迷い、選択はいつも行われ、そこに「神の家」を見たり、「月」のようなさらに深い葛藤と選択に入ったり、「審判」のような気づきや覚醒を起こしたりするようなことです。
大いに迷い、大いに選択していきましょう。そして、いつもあなたが選んでいる基準が変化していることも学ぶ(気づく)とよいです。
あなたにの中には、選ぶ基準の違う、選択そのものを楽しんでいる別の人間もいるのです。
他人軸、自分軸の選択
以前にも何回か書いたことがありますが、人生に目的とか使命のようなものがあるほうがよいのか、ないほうがよいのかという意見に対して、私自身は、(タロット的に見ても)、どちらでもいいという立場です。(笑)
その理由は、簡単に言えば、「人それぞれ」だからです。
目的や使命感を持つほうが、それに向かって歩むことで、より有意義に生きることができるという人がいますし、特に目的はなくても、毎日毎時間、その時その時を大切に生きていれば、自ずと充実してくるという人もいます。
結果に向かってプロセスを積み重ねていくものが面白いと感じるか、プロセスそのものが結果と同じであると思うかの違いと言ってもいいかもしれません。
タロット学習においても、何のためにタロットを習っているのか、タロットを学習してどうしたいのかということを明確にしたほうが、学びの意図・方法・力のかけ方(抜き方も含む)もわかって、やりやすいという人がいます。
これと反対に、とにかく興味や関心に従って、どうなるか、どうしたいかははっきりせずとも、やりたいからやるんだ、学びたいから学んでいるんだと、自分の感性(その時その時の心)に従ってやっていくほうが性に合っているという人もいます。
これは、やはり個性の問題と言えますし、学びのスタイルにも、人それぞれの相性のようなものがあると考えられるからです。
しかし、それ(個性の問題)だからこそ、留意しておきたいことがあります。
それは、自分の思い・選択が、他人軸か自分軸がのどちらであるかをはっきりさせておいたほうがよいということです。
個性とはエゴ(悪い意味のものではなく)であり、要は自分が人とは違っているという部分を自覚する自分らしさ(自我)です。
かなり多くの人が誤解していると思いますが、(心理的あるいは全体的)統合や霊的な向上のためには、先に個の確立が求められるのです。いきなり相手と融合(融和)するのは危険であり、しかも幼稚な段階と混同してしまうおそれがあります。
つまりは言い方を換えれば、エゴの理性的な確立が必要なわけです。
これがないと、おそらく簡単に洗脳されたり、操られたりする不安定な自我のままになるでしょうし、他人との和合を一時的にできたように見えても、自他の闇の部分をコントロールできずに、理由のわからない嫌悪感や不安感によって、激しい対立・葛藤を今度は迎えてしまうことが予想されます。
ですから、先に自分と他人の軸の違い(それは最終的には観点の違いとして認識でき、結局同じものとして理知的に了解できるものだと考えられますが)を明確にしておくことが重要だと考えられるのです。
自他の違いをはっきり認識し、そのうえで、さらなる和合・統合ができれば、それは両者の違いがまだあまり見えていなかった時に、同情的に共感していたレベルのものより、もっと高次なものだと言えます。
話を戻します。
自分を中心にした選択が自分軸でのものとすると、他人を中心としたものは他人軸でのものとなります。
人から「こういうことすればいいよ」「こうあるべきよ」「これをすることを勧めるよ」「あなたはこれが使命なのよ」などと言われ、そのまま鵜呑みにしてしまう態度、あるいは、影響を受けすぎて、コロコロとその度に変わってしまう態度、人から言われたことで混乱し、何を(選択)すればいいのか、何が正しいのかわからなくなってしまっている状態・・・これらは、まさに他人軸に自分の軸を移してしまっているものと言えます。(子どもの頃はまだ自我が未成熟なので、仕方ないところはありますが、大人になれば、独立性を高めなければなりません)
自分軸のセンターにフォーカスし、一歩立ち止まり、本当に人から勧められること、言われることは、自分軸に合っているのか、自分の軸を中心とした回転に同調することができるのか(回転を大きくしたり、鋭くしたりしてくれるものなのか)を、感性と理性(両方必要です)で考慮することです。
ここで、他人からのものは悪いとか間違いとか、自分軸とは異なるから排除しなければならないものだとか、とは違うので注意が必要です。
人は一人で生きていませんから、他者の影響なしには現実世界では存在しえません。むしろ、それによって変化、成長するのが人間です。
大事なのは、影響は受けても、判断・選択・行動するのは自分であるということ、自らは「自分という国の王」であり、「他者の国の王の配下・属国・奴隷」ではないということなのです。
マルセイユタロットにおいても、大アルカナの「皇帝」(ほかのカードと関連して見る)位置、王的なものを示す王冠の象徴のあるカードなどを見ても、その重要さがわかります。
他人の影響なくして、自分を成長させることはできず、また、だからと言って、他人の人生や考えを、自分がそのまま受け入れて、まさに他人のクローンを生きるようなことになるわけにもいかないのです。
「私はわたしである」こと、これを自覚し、ここからブレなければ、あまり選択に迷うようなことも少なくなるでしょう。
ちなみに自分軸と言っても、単なるわがまま、好き嫌いの低レベルの感性から出る選択、相手や周囲の立場・状況に配慮できないものは、言わば、他人軸と自分軸がくっついてしまって(癒着してしまって)おり、「ドラえもん」のジャイアンのセリフではありませんが、「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」のような、幼児性状態と言えるので、区別が必要です。(例えには出しましたが、ジャイアンの言葉の本当の意味は別にあるのですが・・・まあ、これは余談です)
自我の確立での大きな落とし穴は、このような自他の癒着状態(自我の未成熟、退行)と、自我(から出る欲望)の際限ない拡大(自我の肥大)と考えられますから、だからこそ、理性での峻別が求められるのです。
従って、心・感性だけの判断には危険性があるということになりますが、同時に、理性だけというのも、他人や世間(それは実体のない不特定多数の意見のことが多い)での「正しさ」に偏ってしまう(他人軸に移管してしまう)おそれがあります。
感性と理性、両方必要であると言ったのは、こうした理由があるからです。
