迷った時に

タロットによる選択のこと

タロットリーディングの技法、いや、もう少し限定的な言い方をいたしますと、タロット占いの技術で、どちらか迷っていることを決めるとか、たくさんの選択肢の中からベストなものを選ぶというものがあります。

これは、私の考えるタロットリーディングにおいては、あまり意味を持たないものになるのですが、決して無意味というわけではありません。

タロットリーディングという定義において、あまり選ぶこと、どちらかに決めるという発想自体が、そぐわいなものになるということです。

つまり、求めるもの、回答の導き方、あるいは、答えを出すというプロセスと、その求められる答えというものの質と次元が違うということです。

しかし、逆に考えれば、選ぶこと、選択肢の中からよいものを決めたいという、そのやり方と、レベル・基準においての答え(この場合、まさに選ばれるものが答えですが)やはりあるわけです。(実際に、ひとつに選ばないといけない場面が人間生活にはあるということ)

そうしたものに対応することも、タロットはできないわけではありません。むしろ、占いのフィールドや技術として、とても求められるものだと言ってもよいでしょう。

これは、言い換えれば、私たちの生身の感覚現実や生活において悩んでいることの答えが求められる質のものなのです。簡単に言えば、すごくリアルな欲求であり、現実的な求めなのです。

タロットはあらゆる範囲・レベル(の答え)に適用できると考えられますが、マルセイユタロットにおいては、大アルカナと小アルカナ、特に小アルカナの数カード(数札)と、大アルカナの絵柄はかなり違います。ここから大と小には明らかな適用範囲の違いが見て取れます。

あくまで私の考えですが、マルセイユタロットでは、大アルカナが魂や霊的解放・完成に向かうのに対し、小アルカナは現実・実際面での調整・選択・安定に適しているパートだと思われます。いわば、天に向かうのが大アルカナで、地に向かうのが小アルカナです。

さきほど、選択を求める回答は、現実的、人間的欲求からのものであると言いましたが、そこからしても、小アルカナが選択的な回答に応えるのには適していることがわかります。

有り体に言えば、(現実的な)選択には、小アルカナを使ったほうがよいというか、使うべしなのです。

これは本当に簡単な話で、また論理的(明白)なことなのです。

なぜなら、特に数カードは、数をメインに象徴するカード群で、考えてみれば、私たちが現実の生活で選択に悩むことと言えば、数値に関わることが大半だからです。

時期(年・月・日・時間)もそうですし、数量(金銭・人数・分量)などもそうです。

ただ、私たちは「人間」なので、単純に数値だけでは割りきれない心・感情部分を持ちます。数値的な合理性から見れば、明らかにこちらだと判断できても、「いや、確かにこちらのほうが料金は安いけれども、だからこそモノが悪いのではないか?」とか、疑い・思うこともあるわけです。(笑)

だからこそ、単なる数だけではない分野と性質が、小アルカナには付与(分類)されているのです。それが、四大元素を基本とした、4組の分類です。

一般的にはソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、私が伝えるマルセイユタロットでは、剣・杯・杖・玉と言っておりますが、このような4つの性質・種類に分けることで、無機質な数や合理性だけで振り分ける機械的選択になることを、タロットは避けています。

むしろ、この4つのものがあるからこそ、分析もしやすく、自分の価値観、選択がどの要素を中心にされているか(自分の選択の要のようなもの)もわかるのです。

タロットの小アルカナはこの4つの性質に分かれているので、選択においても、自分の選択中心がわかるだけでなく、どの要素がこの場合の選択において重要であるか、基準にすべきかのガイダンスも示します。

私たちの普通(現実)の選択における悩みにおいて、小アルカナを使った技術を使うのは、こういう意味でも適しているのです。

さて、ここでちょっと話題を変えましょう。

選択において、タロットが示すものとは何なのでしょうか? こちらがよいと示す根拠と言いますか、その「よい」の基準のようなものです。

実はこれを考えると、とても難しい問題になります。タロットへの信用と信頼にも関わるからです。

ただ、私から言えるのは、小アルカナは、さきほども言ったように、地上生活への適応をメインとしますので、すなわち、現実的に生きやすい方向性・ポイントを示すのだと考えられます。

しかし、大アルカナが示すのは、逆に地上を超えたものでもあります。(使い方にもよりますし、タロットの種類にもよります) ですから、大アルカナは必ずしも、(人間的)現実生活を充実させるためのことを表すとは言えないわけです。

では小アルカナと大アルカナを併用して、選択を決めるというようなものはどうなのでしょうか?

これはひとつには、大アルカナの小アルカナ化という縮小転移と、もうひとつは、反対に小アルカナの大アルカナ化(厳密にいうと大アルカナの構成要素として見ること)によっての統合上昇という面が出てきます。

何を言っているのか、わからない人もいるかもしれませんが、物事の選択ひとつとっても、タロットは実に複雑なことを見せてくれる(技法や答えはシンプルであっても)ということです。いわば、路傍の石に宇宙を見る、日常の好きだ嫌いだの中で、人生全体の悲哀や歓喜を見るみたいな意味です。(笑)

ともかく、「選ぶ」ということは、私たちが現実に生きるこの人生の中で、何度も、そしていろいろな分野とレベルで行われれていくものです。

いい人生を送ろうと、皆必死で、あるいは楽天的に、毎日を選んでいるわけですが、長い目で見れば、選ぶことの結果ではなく、選ぶプロセスそのものが私たち自身でもあり、人としての一生を象徴しているとも言えます。

大アルカナで言えば、「恋人」カードの葛藤と迷い、選択はいつも行われ、そこに「神の家」を見たり、「月」のようなさらに深い葛藤と選択に入ったり、「審判」のような気づきや覚醒を起こしたりするようなことです。

大いに迷い、大いに選択していきましょう。そして、いつもあなたが選んでいる基準が変化していることも学ぶ(気づく)とよいです。

あなたにの中には、選ぶ基準の違う、選択そのものを楽しんでいる別の人間もいるのです。


他人軸、自分軸の選択

以前にも何回か書いたことがありますが、人生に目的とか使命のようなものがあるほうがよいのか、ないほうがよいのかという意見に対して、私自身は、(タロット的に見ても)、どちらでもいいという立場です。(笑)

その理由は、簡単に言えば、「人それぞれ」だからです。

目的や使命感を持つほうが、それに向かって歩むことで、より有意義に生きることができるという人がいますし、特に目的はなくても、毎日毎時間、その時その時を大切に生きていれば、自ずと充実してくるという人もいます。

結果に向かってプロセスを積み重ねていくものが面白いと感じるか、プロセスそのものが結果と同じであると思うかの違いと言ってもいいかもしれません。

タロット学習においても、何のためにタロットを習っているのか、タロットを学習してどうしたいのかということを明確にしたほうが、学びの意図・方法・力のかけ方(抜き方も含む)もわかって、やりやすいという人がいます。

これと反対に、とにかく興味や関心に従って、どうなるか、どうしたいかははっきりせずとも、やりたいからやるんだ、学びたいから学んでいるんだと、自分の感性(その時その時の心)に従ってやっていくほうが性に合っているという人もいます。

これは、やはり個性の問題と言えますし、学びのスタイルにも、人それぞれの相性のようなものがあると考えられるからです。

しかし、それ(個性の問題)だからこそ、留意しておきたいことがあります。

それは、自分の思い・選択が、他人軸か自分軸がのどちらであるかをはっきりさせておいたほうがよいということです。

個性とはエゴ(悪い意味のものではなく)であり、要は自分が人とは違っているという部分を自覚する自分らしさ(自我)です。

かなり多くの人が誤解していると思いますが、(心理的あるいは全体的)統合や霊的な向上のためには、先に個の確立が求められるのです。いきなり相手と融合(融和)するのは危険であり、しかも幼稚な段階と混同してしまうおそれがあります。

つまりは言い方を換えれば、エゴの理性的な確立が必要なわけです。

これがないと、おそらく簡単に洗脳されたり、操られたりする不安定な自我のままになるでしょうし、他人との和合を一時的にできたように見えても、自他の闇の部分をコントロールできずに、理由のわからない嫌悪感や不安感によって、激しい対立・葛藤を今度は迎えてしまうことが予想されます。

ですから、先に自分と他人の軸の違い(それは最終的には観点の違いとして認識でき、結局同じものとして理知的に了解できるものだと考えられますが)を明確にしておくことが重要だと考えられるのです。

自他の違いをはっきり認識し、そのうえで、さらなる和合・統合ができれば、それは両者の違いがまだあまり見えていなかった時に、同情的に共感していたレベルのものより、もっと高次なものだと言えます。

話を戻します。

自分を中心にした選択が自分軸でのものとすると、他人を中心としたものは他人軸でのものとなります。

人から「こういうことすればいいよ」「こうあるべきよ」「これをすることを勧めるよ」「あなたはこれが使命なのよ」などと言われ、そのまま鵜呑みにしてしまう態度、あるいは、影響を受けすぎて、コロコロとその度に変わってしまう態度、人から言われたことで混乱し、何を(選択)すればいいのか、何が正しいのかわからなくなってしまっている状態・・・これらは、まさに他人軸に自分の軸を移してしまっているものと言えます。(子どもの頃はまだ自我が未成熟なので、仕方ないところはありますが、大人になれば、独立性を高めなければなりません)

自分軸のセンターにフォーカスし、一歩立ち止まり、本当に人から勧められること、言われることは、自分軸に合っているのか、自分の軸を中心とした回転に同調することができるのか(回転を大きくしたり、鋭くしたりしてくれるものなのか)を、感性と理性(両方必要です)で考慮することです。

ここで、他人からのものは悪いとか間違いとか、自分軸とは異なるから排除しなければならないものだとか、とは違うので注意が必要です。

人は一人で生きていませんから、他者の影響なしには現実世界では存在しえません。むしろ、それによって変化、成長するのが人間です。

大事なのは、影響は受けても、判断・選択・行動するのは自分であるということ、自らは「自分という国の王」であり、「他者の国の王の配下・属国・奴隷」ではないということなのです。

マルセイユタロットにおいても、大アルカナの「皇帝」(ほかのカードと関連して見る)位置、王的なものを示す王冠の象徴のあるカードなどを見ても、その重要さがわかります。

他人の影響なくして、自分を成長させることはできず、また、だからと言って、他人の人生や考えを、自分がそのまま受け入れて、まさに他人のクローンを生きるようなことになるわけにもいかないのです。

「私はわたしである」こと、これを自覚し、ここからブレなければ、あまり選択に迷うようなことも少なくなるでしょう。

ちなみに自分軸と言っても、単なるわがまま、好き嫌いの低レベルの感性から出る選択、相手や周囲の立場・状況に配慮できないものは、言わば、他人軸と自分軸がくっついてしまって(癒着してしまって)おり、「ドラえもん」のジャイアンのセリフではありませんが、「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」のような、幼児性状態と言えるので、区別が必要です。(例えには出しましたが、ジャイアンの言葉の本当の意味は別にあるのですが・・・まあ、これは余談です)

自我の確立での大きな落とし穴は、このような自他の癒着状態(自我の未成熟、退行)と、自我(から出る欲望)の際限ない拡大(自我の肥大)と考えられますから、だからこそ、理性での峻別が求められるのです。

従って、心・感性だけの判断には危険性があるということになりますが、同時に、理性だけというのも、他人や世間(それは実体のない不特定多数の意見のことが多い)での「正しさ」に偏ってしまう(他人軸に移管してしまう)おそれがあります。

感性と理性、両方必要であると言ったのは、こうした理由があるからです。


仕事の悩み・問題について。

タロットリーディングのご相談では、仕事に関することが多くあります。

これは、「仕事」という形を借りた、「自分の生き方」の問題になっていることが本質であることも、しばしばです。

ほとんどの人は、仕事の部分では、大なり小なり、悩み事を抱えていることでしょう。

問題は、現代の「仕事」というものが、生活(経済)のためなのか生き甲斐(やりがいあり、充実した状態と考えられるもの)のためなのかという葛藤を起こしやすい構造になっていることが大きいのではないかと思います。

言ってしまえば、お金の(食べていく)ために仕事をするか否かの問題が根底にあるので、であれば、まずは仕事とお金(生活のためのベース)が切り離せるような体制(システム)があればいいということになります。

従って、私個人の意見としては、ベーシックインカムのような、国民全員に最低限の生活が送られるための公助と共助があればと考えています。

まず食えない恐怖、のたれ死ぬのではないかという不安を、皆さんの合意のもとで助け合い、国としてシステム化するということです。

もちろんその代償としての税負担の増大とか、いろいろと問題がないわけではないでしょうが、まずは、こうした基本的な生活の不安と恐怖から解放することが、実は心理的にも大事ではないかと思います。

タロットで表現すれば、ベーシックな経済や生活の部分と、それが失われる(保障されない恐怖)というのは、4の「皇帝」と「13」(逆)で表すことができます。

そして、「皇帝」も「13」も、ともに隣の数のカードとセットで相補することができます。13には14「節制」、4「皇帝」には3「女帝」ということです。

「女帝」は計画性・先行きのビジョン、理想・アイデアを意味し、「皇帝」としての意味での現実生活の安定のためには、計画性や先進的なビジョン、理想とする世界観の必要性があると言えますし、「13」の示すベースのなくなる不安や恐怖は、助け合い・融通を意味する「節制」によって補助・解消されます。

そうして、とりあえず、食べていくことはできるという保障があれば、お金のために働くという意識が薄れ、突然の解雇や無理矢理の勤務という不安と苦痛からも逃れられ、皆に心理的余裕が生まれます。

そこから、生きる(お金や生活の)ためだけに働くという意識も変わり、仕事の概念自体の改革も期待できるというものです。

そうして次第に、働くこと、仕事をするということは、生き甲斐のため、自分の人生をより充実するため、人々や社会に貢献するためというものに(お金儲け一辺倒のものから)シフトしていくように思います。

仕事の選択ももっと自由になり、仕事の種類や働き方の時間も、大幅に変わっていくことも予想されます。

とはいえ、これは社会システムから見た仕事問題のひとつのアプローチであり、社会ではなく、個人単体で考えた場合は、人それぞれ(個別)の問題がありますし、社会改革を待っていられないこともあります。

それでも、本質的には、仕事をするからにはやりがいのあるもの、自分が充実するものをしたいという思いが、いずれの人にもあるように思います。

そのうえで、現実的な問題として、経済と生活のことも関わるので、思いだけでは解決しない葛藤や悩みが仕事問題で現れます。

もうひとつは、仕事は、一人コツコツとしてやっていくようなものは少なく、たいていは他人と関わることになり、それもプライベートのような親しい人たちだけでやっていけるものではありません。序列や階級もあり、組織として動かなければならない場合がほとんどです。

従って、人間関係の問題が主(本質)の「仕事の問題」もあるわけです。

これはお金の問題(のこともありますが・・・)ではなく、いわば人の心の問題に関係し、数値化もできず、決まった答えもないため、なかなか解消しづらいところがあります。まあ、その対象人物と関わらない環境になれば、問題はあっさり解決するのですが・・・そうできないので厄介なのですね。

それらも含めて考えますと、仕事の問題というものは、マルセイユタロット的に見ますと、

●経済・お金(生活していくための手段)としての問題

●心理的・気持ち(人間関係含む)の問題

●常識を超えた次元(魂や霊的な次元)での問題

がある言えます。

そして解決策として、

●最優先のものを決めて選択する策
お金が最優先なのか、心の満足が一番なのか、働きやすさや生き甲斐に価値を置くのかなど

●バランスや間を取る策
妥協や二足のわらじ的なものも含む

●冒険したり、夢に向かって走る策
なるようになれ!と思いのままに行動する リスクを取ってでも夢にかける

●ペンド・そのままにする、状況観察、時間経過を待つ策
状況推移や時間の解決を待つ あるいは我慢したり、放置したりする

などがあります。

個人的意見としては、どの選択をするにしても、自分の責任ということを自覚し、他人や運、環境のせいにせず、行動していくと、それなりに満足したものに最終的にはなるのではないかと思います。(自分への責任の意識と実際の行動が、自分自身の力を取り戻させることになるため)

あと、私の経験で言いますと、毎日ずっと死ぬことを考えるくらいになるまでに至っているのなら、その仕事を辞めたほうがいいと思います。

自分で死を望まない限り、つまり逆に言えば、生きていこうとする思いがある限り、なんとかなるものだと感じるからです。(死を望む毎日は、自分を殺している、自分が死んでいる、自分が殺されているのと同じです)

そして、甘えの気持ちからではなく、自分で生きていくという意志をもっていれば、その上で、何でも一人でやろうとせず、困っている時は、きちんと助けてもらえる人や組織、機関などに頼ることです。

捨てる神あれば拾う神ありで、救いは探し求めれば、必ずあります。


数多(あまた)いる本当の自分

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

日としてはただ一日変わるだけなのに、年が変われば何かが変わったような気がするのは、人間の面白い心理で、これには舞台装置が大がかりであればあるほど、つまりは環境的に・社会的に雰囲気がそうなればなるほど、個人も気分的に信じやすいということはありますね。暦がなければ、いったい、毎日はどんな意識になるのか、興味深いところです。

それはさておき、「変わる」ということで言えば、変わらないこと、変えられないことで悩む人も、昨年(というか、ここ最近)は多かったように感じます。

ややこしい話ですが、「変える必要もない自分に変わろうとする自分に悩む(笑)」というパターンの罠に、はまった方もおられるようです。

これでは、何を言っているかわかりませんよね。(笑)

つまり、「変える必要のない自分」とは、本来の自分(偽っていない自分)という意味と、「そもそも変えなくていいんじゃね?(苦笑)」という意味での、変える必要のない自分(今の自分ということ)があるのです。

だからふたつの意味があります。

ひとつは、ありのままの自分、本来の自分というものがあって、それには気づいているものの、そうなれない自分に悩んでしまうということ。

もうひとつは、本当の自分や、自分が本当に求めているものが何かわからなくなって悩むというパターンです。

前者は、本来の自分というものがわかっている、つかみかけていますが、後者は、その本当の自分というもの自体がわからないということで、どちらにしても、「今の自分とは違うものに変わらなくてならない」と苦悩するので、前述の文章のような「変える必要もない自分に変わろうとすることで悩む」ということになるわけです。

これは、他人に影響され過ぎが大きいかと思います。

それと、変わる=ポジティブという信仰、さらには、本来の自分で生きるのがベストだと思われている信仰があるでしょう。信仰と書いたように、こういうものは真実とは限らないと言えます。

まず、言っておきたいのは、本来の自分や本当の自分は一人(の人格)ではないということです。心の声と言っても、心には何種類もの人格があり、さらには脳の機能がちょっと変化しただけでも、一般的に言われる心(性格)は簡単に変わってしまいます。

本来の自分というものも、固定されるものではなく、波のように変化するものだと考えられます。しかも、その時その時の快適さを求めて、いろいろな自分の中の人格、心の声が内部的に常に争ってもいます。

マルセイユタロットを心理的に観察すれば、このことは容易にわかります。

誰が、何が、あなたの性格を決め、そして自分の性格はこれだとか、本来の私はこうあるべき、と決めるのでしょうか。この問いは簡単なようで難しいものです。

そうは言っても、本来の自分、本当の自分で生きていると自分が思った時(そう選択した時)、私は楽になった、生きていると実感したと言う人はいます。

では楽で活き活きとする自分が本来の自分なのでしょうか?

 

もしかすると、それは仕事や環境が決めているのではありませんか?

自分が変わったからその仕事(環境)を選択したとも言えますが、その仕事(環境)だから自分が変わることができたという場合もあり、どちらとも言えることでしょう。

生きたいように生きると言えば、かっこいいように思われますが、人間は経済や物質も重要で、自分以外の人とも関わる社会があります。そう簡単に、好きなこと(快楽、心地よさ)だけで生きていくというわけにはいきません。

結局、何が言いたいのかと言えば、本来の自分はひとつ(一人)と決めつけたり、本来の自分で生きること=正しいこと、楽なこと、充実することなどと定義づけしりたせず、もっとラフに考えればいかがでしょうかということなのです。

タロット的に言えば、私たちには22(または21)人の人間を抱えているようなものです。

ですから、結局は、その選択で生きているのだと思うと、本質的に「愚者」になれます。つまり、結果より過程を楽しむような姿勢になり、何かを正しく決めなければならない、回答はひとつというスタイルから離れていきます。

もちろん、「本来の自分」「本当の自分」というのを見つけ、「これが私の生きる道」というように生きていくのもありだと思います。

でも、それは、上述のタロット的22(か21)人観点で言うと、やはり、その中の一人を「私」だと決めて、生きていくという形になります。

それ(自分が思う本来の自分とされる、一人の人格・生き方)で、生き甲斐を感じ、充実した人生を送ることができれば、その人物的には成功だと言えましょう。

しかし、そう決められない人とか、本来の自分がわからず、迷ってしまう人、または、現実と理想の狭間に葛藤し、「吊るし」のような人生(でもそれもひとつの選択)を送ってしまう人がいます。

ここで「本来の自分」を発見できない自分に罪悪感や焦燥感を持つ必要はなく、ただその時々の選択として、ひとつの人格・生き方を調整して、選択しているのだと見ると、もっと楽になると思います。

何もひとつと決めずに、「悪魔(エゴや悦楽)の要素」「節制(天使や救済者)の要素」、それぞれ合わせた(混交した)人物でもよいのですし、仕事では「皇帝」(経済・現実・支配)、プライベートでは「星」(貢献・自然・調和)を重視したバランスで行くとしてもよいと思います。

今までは「斎王」だったけれども、今から数年は「愚者」になって、「運命の輪」となり、「力」に変わると決意するのもありです。

要するに、すべては自分であり、自分で自分の選択の責任を取って、どの自分になるか、どの自分で行くかの表現を、自己の心理と、外から与えれ、かつ自らが創造する環境(状態)とともにして行動していけば(生きていけば)よいのだと思います。

「愚者」になるのに時間がかかる人もいれば、突然衝動的に「戦車」となって走り出す人もいるでしょう。

どれが正しい、間違いではなく、どの自分が今は選択・表現され、そのどれもが愛すべき「本来の自分」であり、ただ自分だからこそ、他者ではなく、自分自身(の選択)としての責任もしっかり自覚しておけば、どの自分も本来の自分として活き活きとしてくるということです。

私は簡単に生きたいように生きる人よりも、選択に苦悩し、葛藤し、それでも何とかその狭間においても、固定的に(演じる必要のあったひとつの)縛られた自分だけではなく、ほかの自分も表現しようと見せ始めた方のほうが好きです。

どちらかに決まらないからこそ、それを超えた、どちらでもない、あまた(数多)の自分の姿を見て、結果的に自分自身を受容することにつながり、その自分の宇宙の偉大さを認識していくようになるのです。

本年も、少しでも、マルセイユタロットで、悩める皆様のサポートができれば幸いです。


ロマンチック(を自分に)あげるよ

先日、声優の鶴ひろみさんが大動脈剥離で他界されました。

高速道路で車を路肩に止めて、ハザードランプまでつけての最期だったということで、死が迫る激痛の中、まともに運転できない中での車の処置はすごいとしかいいようがありません。

鶴ひろみさんと言えば、アンパンマンのドキンちゃんなど、いろいろなアニメでのキャラを演じていらっしゃいますが、やはり私には、世代的にもドラゴンボールのブルマ役(特にブルマが若い頃のもの)がもっとも印象的です。

鶴ひろみさん声の「孫くん」が、すぐ脳内再生されます。その声がもう聞けないとなると、限りなく寂しい思いがします。心よりお悔やみ申し上げます。

アニメファンにとって(そうでない人も)、自分の幼い頃、若い頃に聞いていた声の持ち主である声優さんがお亡くなりになることは、とてもショックがあります。何かその時代の大切な何かを喪失してしまうかのような感じです。

そんな鶴ひろみさん声のブルマをもう一度聞きたくなり、元祖のドラゴンボールを改めて見ていました。

ドラゴンボールは、今では世界中の人が知る有名な漫画・アニメとなり、今も新シリーズがアニメとして放映されていますが、やはり、元祖、一番最初のものは少年ぽさ、冒険もののワクワク感にたまらないものがあります。

初期のアニメのエンディングは、そのブルマがメインで描かれていて、「ロマンチックあげるよ」という歌になっています。この歌詞と曲がなかなかにいいものです。大人になった今だからこそ、余計に心にしみるものがあります。

その歌詞は、「わかったふうになってあきらめたり、型にはまったりしていてはダメだよ、もっとロマンを感じて、ワクワク感を思い出して、勇気をもってやってみようよ! そうしたら世界はすばらしいものを見せてくれるよ、いや、世界はすばらしいものだと改めて感じることができるよ!(超意訳です)」というような意味に、私には取れます。

まあ、だからと言って、ここで子どもの頃のような気持ちになって、活き活きと行こうよ、純粋な心は大切だよ、というつもりはありません。(笑) そんなことは当たり前というか、誰でも言えることです。

大人は大人なりの心とルール、認識があり、また同時に、子どもには子どものそれがあります。

大人になったからこそ、無茶というものがわかってきますし、逆に、どうしても社会のルールに治めよう、他者や外側のものに合わせよう、適合させようとなっていくのも当然になってきます。

時にロマンチスト、特にリアリスト、そのバランスと波によって、人生を泳ぎながら味わっていくものだと思います。

私がこの歌詞を今聴いて、改めて思うのは、「この世界の仕組み」や、「生きることの意味(意義)」のようなものです。

一言でいえば、「現実という世界のゲーム感」でしょうか。

自分が「知らない」という状態は、「知りたい」という欲求を生み出します。

そして、見たい、知りたい、経験したい、という冒険心として私たちを突き動かします。タロットでいうと「愚者」になるわけです。

「知らないこと」と「知ること」(「経験していない」ことと「経験していること」)との間、その瞬間(プロセスと言ってもよい)こそが、実は宝物なのかもしれません。

なぜならは、もっとも「ない」と「ある」(知らないと知る)が融合する瞬間だからです。スパークする瞬間とも言えますし、二元が統合する至福状態といえるかもしれません。

最初からすべてを知っていて、それが簡単に思い出せるようになっていては、何のワクワクもドキドキもありません。スパークするエネルギーが生み出されないと言ってもよいでしょう。

だからこそ、私たちはこの世に生まれた時、本当は魂レベルでは知っていても、すべてを忘れ、一から始める設定で人生を生きていくようになっているのだと思います。

まれに真理や悟りに至って、居ながらにしてこのゲームを攻略する人もいるのかもしれませんが、なかなか一筋縄ではいかない超難関、かつ、スリルと興奮あふれるゲームです。

この世界を楽しむ秘訣は、つまるところ、知らないことを自覚し、知ろうとすることにあるのかもしれません。

とすれば、知った風になってしまうこと、わかったふうになることは、ゲームをつまらなくしてしまう大きな要因でもあります。

(喜びをもって)知るには、心をオープンにし、自らが経験すること、そして人や周囲のものからも教えてもらうことであり、反対に、自ら知ったことを人に教えることで、知ったと思っていることが、実はまだまだであった、もっと次の段階があることに気づきます。

すると、また楽しみが増えるわけです。

ただ、心やハートをオープンにするというのは、まったく疑いを持たないとか、バカになることとは違います。

思考や論理を働かせて、物事を見極めることを許す、受け入れるという心のオープンさも含まれるわけです。(思考を排除することが必ずしも、マインドオープンになるとは限りません)

さらには、この世界のゲームそのもの(ゲームシステム)を知ろうとするワクワクもまたありだと思います。それもまたロマンであり、冒険なのです。

冒険には準備と仲間がつきものです。(一人でもできますが、仲間がいたほうが楽しいですし、助け合うことができます)

大人には大人の冒険のやり方があります。それでも、内面や象徴的には、子どもの頃の冒険と同じなのです。

冒険でも、あなたが主人公である冒険物語と、ほかの人が主人公で、あなたはそのパーティーの一員、サブキャラの物語があります。

どちらの立場からも考えてみると、(現実における)冒険というものが、同じシーンでも多重に構成されていることがわかります。

ロールプレイングゲームのように、ある条件が整うと発動するイベントというものが現実でもあるように思います。それが「運命」と呼ばれるものものと関係している可能性もあり、カルマとの関連もあるのかもしれません。

つまりは、冒険やイベントは、自分がしようと思っていなくても発生することがありますし、また、やはりイベント発生の条件を整えるためには、人に会ったり、何かを経験したり、考察を深めたりの、自分のレベルを上げていくことが必要なのだと考えられます。(イベント自体も自分の成長のためにあると言えます)

人生に、場面や時々において節制とコントロールはいりますが、全体的には自分が拡大成長、ゲームを楽しむという意味もあると考えられますので、自分に制限をかけるより、やりたいことを悔いなくやっていくのがよいのではないでしょうか。

自己を抑制し、ルールや掟を身につけて社会に適応する必要のあった若い時代は別として、もう十分に大人になった年代の人たちは、自分の気持ちに正直に、まさに自分を生きる、自分の個性を表現していく、自らの本当のしたかった冒険をしていくという生き方にシフトしてもいいと思うのです。

あなたの中の7つのドラゴンボールを集めましょう。

なお、マルセイユタロット的にも「7つ」は重要な象徴でもあり、グノーシス的には7つを超えることが命題にもなります。つまり、7つが集まる(7つを超える)ことで願いが叶う(真実に到達する道が開く)のです。


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