迷った時に
仕事の悩み・問題について。
タロットリーディングのご相談では、仕事に関することが多くあります。
これは、「仕事」という形を借りた、「自分の生き方」の問題になっていることが本質であることも、しばしばです。
ほとんどの人は、仕事の部分では、大なり小なり、悩み事を抱えていることでしょう。
問題は、現代の「仕事」というものが、生活(経済)のためなのか、生き甲斐(やりがいあり、充実した状態と考えられるもの)のためなのかという葛藤を起こしやすい構造になっていることが大きいのではないかと思います。
言ってしまえば、お金の(食べていく)ために仕事をするか否かの問題が根底にあるので、であれば、まずは仕事とお金(生活のためのベース)が切り離せるような体制(システム)があればいいということになります。
従って、私個人の意見としては、ベーシックインカムのような、国民全員に最低限の生活が送られるための公助と共助があればと考えています。
まず食えない恐怖、のたれ死ぬのではないかという不安を、皆さんの合意のもとで助け合い、国としてシステム化するということです。
もちろんその代償としての税負担の増大とか、いろいろと問題がないわけではないでしょうが、まずは、こうした基本的な生活の不安と恐怖から解放することが、実は心理的にも大事ではないかと思います。
タロットで表現すれば、ベーシックな経済や生活の部分と、それが失われる(保障されない恐怖)というのは、4の「皇帝」と「13」(逆)で表すことができます。
そして、「皇帝」も「13」も、ともに隣の数のカードとセットで相補することができます。13には14「節制」、4「皇帝」には3「女帝」ということです。
「女帝」は計画性・先行きのビジョン、理想・アイデアを意味し、「皇帝」としての意味での現実生活の安定のためには、計画性や先進的なビジョン、理想とする世界観の必要性があると言えますし、「13」の示すベースのなくなる不安や恐怖は、助け合い・融通を意味する「節制」によって補助・解消されます。
そうして、とりあえず、食べていくことはできるという保障があれば、お金のために働くという意識が薄れ、突然の解雇や無理矢理の勤務という不安と苦痛からも逃れられ、皆に心理的余裕が生まれます。
そこから、生きる(お金や生活の)ためだけに働くという意識も変わり、仕事の概念自体の改革も期待できるというものです。
そうして次第に、働くこと、仕事をするということは、生き甲斐のため、自分の人生をより充実するため、人々や社会に貢献するためというものに(お金儲け一辺倒のものから)シフトしていくように思います。
仕事の選択ももっと自由になり、仕事の種類や働き方の時間も、大幅に変わっていくことも予想されます。
とはいえ、これは社会システムから見た仕事問題のひとつのアプローチであり、社会ではなく、個人単体で考えた場合は、人それぞれ(個別)の問題がありますし、社会改革を待っていられないこともあります。
それでも、本質的には、仕事をするからにはやりがいのあるもの、自分が充実するものをしたいという思いが、いずれの人にもあるように思います。
そのうえで、現実的な問題として、経済と生活のことも関わるので、思いだけでは解決しない葛藤や悩みが仕事問題で現れます。
もうひとつは、仕事は、一人コツコツとしてやっていくようなものは少なく、たいていは他人と関わることになり、それもプライベートのような親しい人たちだけでやっていけるものではありません。序列や階級もあり、組織として動かなければならない場合がほとんどです。
従って、人間関係の問題が主(本質)の「仕事の問題」もあるわけです。
これはお金の問題(のこともありますが・・・)ではなく、いわば人の心の問題に関係し、数値化もできず、決まった答えもないため、なかなか解消しづらいところがあります。まあ、その対象人物と関わらない環境になれば、問題はあっさり解決するのですが・・・そうできないので厄介なのですね。
それらも含めて考えますと、仕事の問題というものは、マルセイユタロット的に見ますと、
●経済・お金(生活していくための手段)としての問題
●心理的・気持ち(人間関係含む)の問題
●常識を超えた次元(魂や霊的な次元)での問題
がある言えます。
そして解決策として、
●最優先のものを決めて選択する策
お金が最優先なのか、心の満足が一番なのか、働きやすさや生き甲斐に価値を置くのかなど
●バランスや間を取る策
妥協や二足のわらじ的なものも含む
●冒険したり、夢に向かって走る策
なるようになれ!と思いのままに行動する リスクを取ってでも夢にかける
●ペンド・そのままにする、状況観察、時間経過を待つ策
状況推移や時間の解決を待つ あるいは我慢したり、放置したりする
などがあります。
個人的意見としては、どの選択をするにしても、自分の責任ということを自覚し、他人や運、環境のせいにせず、行動していくと、それなりに満足したものに最終的にはなるのではないかと思います。(自分への責任の意識と実際の行動が、自分自身の力を取り戻させることになるため)
あと、私の経験で言いますと、毎日ずっと死ぬことを考えるくらいになるまでに至っているのなら、その仕事を辞めたほうがいいと思います。
自分で死を望まない限り、つまり逆に言えば、生きていこうとする思いがある限り、なんとかなるものだと感じるからです。(死を望む毎日は、自分を殺している、自分が死んでいる、自分が殺されているのと同じです)
そして、甘えの気持ちからではなく、自分で生きていくという意志をもっていれば、その上で、何でも一人でやろうとせず、困っている時は、きちんと助けてもらえる人や組織、機関などに頼ることです。
捨てる神あれば拾う神ありで、救いは探し求めれば、必ずあります。
数多(あまた)いる本当の自分
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
日としてはただ一日変わるだけなのに、年が変われば何かが変わったような気がするのは、人間の面白い心理で、これには舞台装置が大がかりであればあるほど、つまりは環境的に・社会的に雰囲気がそうなればなるほど、個人も気分的に信じやすいということはありますね。暦がなければ、いったい、毎日はどんな意識になるのか、興味深いところです。
それはさておき、「変わる」ということで言えば、変わらないこと、変えられないことで悩む人も、昨年(というか、ここ最近)は多かったように感じます。
ややこしい話ですが、「変える必要もない自分に変わろうとする自分に悩む(笑)」というパターンの罠に、はまった方もおられるようです。
これでは、何を言っているかわかりませんよね。(笑)
つまり、「変える必要のない自分」とは、本来の自分(偽っていない自分)という意味と、「そもそも変えなくていいんじゃね?(苦笑)」という意味での、変える必要のない自分(今の自分ということ)があるのです。
だからふたつの意味があります。
ひとつは、ありのままの自分、本来の自分というものがあって、それには気づいているものの、そうなれない自分に悩んでしまうということ。
もうひとつは、本当の自分や、自分が本当に求めているものが何かわからなくなって悩むというパターンです。
前者は、本来の自分というものがわかっている、つかみかけていますが、後者は、その本当の自分というもの自体がわからないということで、どちらにしても、「今の自分とは違うものに変わらなくてならない」と苦悩するので、前述の文章のような「変える必要もない自分に変わろうとすることで悩む」ということになるわけです。
これは、他人に影響され過ぎが大きいかと思います。
それと、変わる=ポジティブという信仰、さらには、本来の自分で生きるのがベストだと思われている信仰があるでしょう。信仰と書いたように、こういうものは真実とは限らないと言えます。
まず、言っておきたいのは、本来の自分や本当の自分は一人(の人格)ではないということです。心の声と言っても、心には何種類もの人格があり、さらには脳の機能がちょっと変化しただけでも、一般的に言われる心(性格)は簡単に変わってしまいます。
本来の自分というものも、固定されるものではなく、波のように変化するものだと考えられます。しかも、その時その時の快適さを求めて、いろいろな自分の中の人格、心の声が内部的に常に争ってもいます。
マルセイユタロットを心理的に観察すれば、このことは容易にわかります。
誰が、何が、あなたの性格を決め、そして自分の性格はこれだとか、本来の私はこうあるべき、と決めるのでしょうか。この問いは簡単なようで難しいものです。
そうは言っても、本来の自分、本当の自分で生きていると自分が思った時(そう選択した時)、私は楽になった、生きていると実感したと言う人はいます。
では楽で活き活きとする自分が本来の自分なのでしょうか?
もしかすると、それは仕事や環境が決めているのではありませんか?
自分が変わったからその仕事(環境)を選択したとも言えますが、その仕事(環境)だから自分が変わることができたという場合もあり、どちらとも言えることでしょう。
生きたいように生きると言えば、かっこいいように思われますが、人間は経済や物質も重要で、自分以外の人とも関わる社会があります。そう簡単に、好きなこと(快楽、心地よさ)だけで生きていくというわけにはいきません。
結局、何が言いたいのかと言えば、本来の自分はひとつ(一人)と決めつけたり、本来の自分で生きること=正しいこと、楽なこと、充実することなどと定義づけしりたせず、もっとラフに考えればいかがでしょうかということなのです。
タロット的に言えば、私たちには22(または21)人の人間を抱えているようなものです。
ですから、結局は、その選択で生きているのだと思うと、本質的に「愚者」になれます。つまり、結果より過程を楽しむような姿勢になり、何かを正しく決めなければならない、回答はひとつというスタイルから離れていきます。
もちろん、「本来の自分」「本当の自分」というのを見つけ、「これが私の生きる道」というように生きていくのもありだと思います。
でも、それは、上述のタロット的22(か21)人観点で言うと、やはり、その中の一人を「私」だと決めて、生きていくという形になります。
それ(自分が思う本来の自分とされる、一人の人格・生き方)で、生き甲斐を感じ、充実した人生を送ることができれば、その人物的には成功だと言えましょう。
しかし、そう決められない人とか、本来の自分がわからず、迷ってしまう人、または、現実と理想の狭間に葛藤し、「吊るし」のような人生(でもそれもひとつの選択)を送ってしまう人がいます。
ここで「本来の自分」を発見できない自分に罪悪感や焦燥感を持つ必要はなく、ただその時々の選択として、ひとつの人格・生き方を調整して、選択しているのだと見ると、もっと楽になると思います。
何もひとつと決めずに、「悪魔(エゴや悦楽)の要素」「節制(天使や救済者)の要素」、それぞれ合わせた(混交した)人物でもよいのですし、仕事では「皇帝」(経済・現実・支配)、プライベートでは「星」(貢献・自然・調和)を重視したバランスで行くとしてもよいと思います。
今までは「斎王」だったけれども、今から数年は「愚者」になって、「運命の輪」となり、「力」に変わると決意するのもありです。
要するに、すべては自分であり、自分で自分の選択の責任を取って、どの自分になるか、どの自分で行くかの表現を、自己の心理と、外から与えれ、かつ自らが創造する環境(状態)とともにして行動していけば(生きていけば)よいのだと思います。
「愚者」になるのに時間がかかる人もいれば、突然衝動的に「戦車」となって走り出す人もいるでしょう。
どれが正しい、間違いではなく、どの自分が今は選択・表現され、そのどれもが愛すべき「本来の自分」であり、ただ自分だからこそ、他者ではなく、自分自身(の選択)としての責任もしっかり自覚しておけば、どの自分も本来の自分として活き活きとしてくるということです。
私は簡単に生きたいように生きる人よりも、選択に苦悩し、葛藤し、それでも何とかその狭間においても、固定的に(演じる必要のあったひとつの)縛られた自分だけではなく、ほかの自分も表現しようと見せ始めた方のほうが好きです。
どちらかに決まらないからこそ、それを超えた、どちらでもない、あまた(数多)の自分の姿を見て、結果的に自分自身を受容することにつながり、その自分の宇宙の偉大さを認識していくようになるのです。
本年も、少しでも、マルセイユタロットで、悩める皆様のサポートができれば幸いです。
ロマンチック(を自分に)あげるよ
先日、声優の鶴ひろみさんが大動脈剥離で他界されました。
高速道路で車を路肩に止めて、ハザードランプまでつけての最期だったということで、死が迫る激痛の中、まともに運転できない中での車の処置はすごいとしかいいようがありません。
鶴ひろみさんと言えば、アンパンマンのドキンちゃんなど、いろいろなアニメでのキャラを演じていらっしゃいますが、やはり私には、世代的にもドラゴンボールのブルマ役(特にブルマが若い頃のもの)がもっとも印象的です。
鶴ひろみさん声の「孫くん」が、すぐ脳内再生されます。その声がもう聞けないとなると、限りなく寂しい思いがします。心よりお悔やみ申し上げます。
アニメファンにとって(そうでない人も)、自分の幼い頃、若い頃に聞いていた声の持ち主である声優さんがお亡くなりになることは、とてもショックがあります。何かその時代の大切な何かを喪失してしまうかのような感じです。
そんな鶴ひろみさん声のブルマをもう一度聞きたくなり、元祖のドラゴンボールを改めて見ていました。
ドラゴンボールは、今では世界中の人が知る有名な漫画・アニメとなり、今も新シリーズがアニメとして放映されていますが、やはり、元祖、一番最初のものは少年ぽさ、冒険もののワクワク感にたまらないものがあります。
初期のアニメのエンディングは、そのブルマがメインで描かれていて、「ロマンチックあげるよ」という歌になっています。この歌詞と曲がなかなかにいいものです。大人になった今だからこそ、余計に心にしみるものがあります。
その歌詞は、「わかったふうになってあきらめたり、型にはまったりしていてはダメだよ、もっとロマンを感じて、ワクワク感を思い出して、勇気をもってやってみようよ! そうしたら世界はすばらしいものを見せてくれるよ、いや、世界はすばらしいものだと改めて感じることができるよ!(超意訳です)」というような意味に、私には取れます。
まあ、だからと言って、ここで子どもの頃のような気持ちになって、活き活きと行こうよ、純粋な心は大切だよ、というつもりはありません。(笑) そんなことは当たり前というか、誰でも言えることです。
大人は大人なりの心とルール、認識があり、また同時に、子どもには子どものそれがあります。
大人になったからこそ、無茶というものがわかってきますし、逆に、どうしても社会のルールに治めよう、他者や外側のものに合わせよう、適合させようとなっていくのも当然になってきます。
時にロマンチスト、特にリアリスト、そのバランスと波によって、人生を泳ぎながら味わっていくものだと思います。
私がこの歌詞を今聴いて、改めて思うのは、「この世界の仕組み」や、「生きることの意味(意義)」のようなものです。
一言でいえば、「現実という世界のゲーム感」でしょうか。
自分が「知らない」という状態は、「知りたい」という欲求を生み出します。
そして、見たい、知りたい、経験したい、という冒険心として私たちを突き動かします。タロットでいうと「愚者」になるわけです。
「知らないこと」と「知ること」(「経験していない」ことと「経験していること」)との間、その瞬間(プロセスと言ってもよい)こそが、実は宝物なのかもしれません。
なぜならは、もっとも「ない」と「ある」(知らないと知る)が融合する瞬間だからです。スパークする瞬間とも言えますし、二元が統合する至福状態といえるかもしれません。
最初からすべてを知っていて、それが簡単に思い出せるようになっていては、何のワクワクもドキドキもありません。スパークするエネルギーが生み出されないと言ってもよいでしょう。
だからこそ、私たちはこの世に生まれた時、本当は魂レベルでは知っていても、すべてを忘れ、一から始める設定で人生を生きていくようになっているのだと思います。
まれに真理や悟りに至って、居ながらにしてこのゲームを攻略する人もいるのかもしれませんが、なかなか一筋縄ではいかない超難関、かつ、スリルと興奮あふれるゲームです。
この世界を楽しむ秘訣は、つまるところ、知らないことを自覚し、知ろうとすることにあるのかもしれません。
とすれば、知った風になってしまうこと、わかったふうになることは、ゲームをつまらなくしてしまう大きな要因でもあります。
(喜びをもって)知るには、心をオープンにし、自らが経験すること、そして人や周囲のものからも教えてもらうことであり、反対に、自ら知ったことを人に教えることで、知ったと思っていることが、実はまだまだであった、もっと次の段階があることに気づきます。
すると、また楽しみが増えるわけです。
ただ、心やハートをオープンにするというのは、まったく疑いを持たないとか、バカになることとは違います。
思考や論理を働かせて、物事を見極めることを許す、受け入れるという心のオープンさも含まれるわけです。(思考を排除することが必ずしも、マインドオープンになるとは限りません)
さらには、この世界のゲームそのもの(ゲームシステム)を知ろうとするワクワクもまたありだと思います。それもまたロマンであり、冒険なのです。
冒険には準備と仲間がつきものです。(一人でもできますが、仲間がいたほうが楽しいですし、助け合うことができます)
大人には大人の冒険のやり方があります。それでも、内面や象徴的には、子どもの頃の冒険と同じなのです。
冒険でも、あなたが主人公である冒険物語と、ほかの人が主人公で、あなたはそのパーティーの一員、サブキャラの物語があります。
どちらの立場からも考えてみると、(現実における)冒険というものが、同じシーンでも多重に構成されていることがわかります。
ロールプレイングゲームのように、ある条件が整うと発動するイベントというものが現実でもあるように思います。それが「運命」と呼ばれるものものと関係している可能性もあり、カルマとの関連もあるのかもしれません。
つまりは、冒険やイベントは、自分がしようと思っていなくても発生することがありますし、また、やはりイベント発生の条件を整えるためには、人に会ったり、何かを経験したり、考察を深めたりの、自分のレベルを上げていくことが必要なのだと考えられます。(イベント自体も自分の成長のためにあると言えます)
人生に、場面や時々において節制とコントロールはいりますが、全体的には自分が拡大成長、ゲームを楽しむという意味もあると考えられますので、自分に制限をかけるより、やりたいことを悔いなくやっていくのがよいのではないでしょうか。
自己を抑制し、ルールや掟を身につけて社会に適応する必要のあった若い時代は別として、もう十分に大人になった年代の人たちは、自分の気持ちに正直に、まさに自分を生きる、自分の個性を表現していく、自らの本当のしたかった冒険をしていくという生き方にシフトしてもいいと思うのです。
あなたの中の7つのドラゴンボールを集めましょう。
なお、マルセイユタロット的にも「7つ」は重要な象徴でもあり、グノーシス的には7つを超えることが命題にもなります。つまり、7つが集まる(7つを超える)ことで願いが叶う(真実に到達する道が開く)のです。
タロット慣れの方への選択と決定
タロットを引いて何かを決めることは、普通によくされていることです。
いや、タロットの実際場面でのほとんどの使われ方は、それにあると言っても過言ではないかもしれません。
しかし、物事の選択や決定にタロットを使うにしても、意外に、タロットをよく知る人ほど、単純に物事が決められなくなってきます。
それは、タロットの象徴性が多重であることに気づき、また同時に、この世や宇宙の仕組みが究極的にシンプルであっても、人間レベル・現実レベルにおいては多様性と複雑性を持ち、人それぞれの世界の象徴としても関係してくることを理解しはじめるからです。
簡単に言えば、イエス・ノーのような単純な解読ができなくなってくると言えます。(タロットがいかようにでも読めてくるので)
そのことはむしろ、真理のへの探求、自己の成長性においては喜ばしいことなのですが、現実的には困ったことにもなりかねません。
そこで、タロット学習とリーデイングにおいては、本当はまずいのですが、ここではあえてそれをやってみるという方法で、複雑化の読みの弊害、つまりは決めることがかえってできなくなることを、避けることができます。
それはタロットにおける「記号読み」というもので、要するに、タロット一枚一枚(特に大アルカナ)に対して、ひとつの意味を決めておくやり方です。
もしくは、吉凶(良し悪しの)レベルの程度を最初から設定してく方法も有効です。
記号読みですと、例えば、「手品師」は「最初の選択肢」、「節制」は「経済的にリーズナブルな方」、「悪魔」だと「純粋に楽しい方」を選択するという感じに決めておきます。(この意味はあくまで事例ですので、自分でタロットをもとにして決めましょう)
この時、ほかの解釈や意味は考えずに、ひとつのカードにひとつの決めた意味で判断します。(たくさんの意味を見出すと、それは「象徴」になり、選択がしづらくなります。本来はそれがタロットというものなのですが・・・)
吉凶設定も、本当はこういうのはタロットでやるのは望ましくないのですが、現実的な選択・決定場面では、そうした設定の採用が、かえってわかりやすいところもあります。
大切なのは、今自分はどのレベルや設定(世界観)において、タロットを引いているのかの自覚です。
それさえしっかりしていたら、引いたあとの解釈に困惑することは少なくなります。
ということで、ここではタロットを一枚一枚、(自分なりの)吉凶、良し悪しを決めておきます。
例えば、「世界」が最高とか、「太陽」は吉だとか、「戦車」は勝利するとか、13は止めたほうがよいとか、そういうものです。
すると、当然、いいカード・悪いカードができますから、引いたカードによって、自分の考えている選択肢がよいのか悪いのか、至極単純に判断できます。
いずれにしても、タロットに聞く(聴く)という時は、それだけ真剣に行い、一回やって、「あ、これはいい(期待した)カードじゃなかったから、もう一回やっみよう♪」みたいに、何度も引き直さないことです。
それをすると、最初の設定や世界観を自分が壊していくことになるからです。(言い換えれば、何度でもやり直しの効くタロット引き、つまりは混乱の世界を演出することになります、それは物事の決定には不向きな設定です)
タロットに記号のように、ひとつの意味だけ決めて読むことや、カードに吉凶・良し悪しをつけるのは、先述したように、本来は望ましくありません。
しかしながら、私たちの世界(観)には様々なレベルがあり、究極のひとつの次元的なものから、私たち一人一人の、とても現実的で自我(エゴの)欲求が中心となった次元など、多様に同時存在していると考えられます。
タロットに吉凶があってもいいレベルというものもあり、それは人間の実生活と創造的なエネルギーにリンクし、結びつきが強いところでもあるので、そうした使われ方も一概に悪いとはいえず、要請されることもあるのです。
特にタロットリーダーで占いの世界に入っている人(占いの仕事をしている人)、不特定多数の人にタロットリーディングを実施している人は、生々しく、感情的で自分勝手でもある(普通・低次の)人間性の部分と、人のために役に立ちたい、自己を成長・拡大させ、高いレベルへと回帰していきたいという崇高で高次な部分との両面を鑑み、特に「人間性」の部分にも、共感とすばらしさ(同時に哀しさでもあります)を見出す感性が必要です。
正論や常識、法律、倫理観など、上から目線でえらーそなことを言われても、人は皆がそんな高尚に生きられるものではないですし、悩むからこそ人なのです。(マルセイユタロット「恋人」カード参照)
しかしながら、また、その(悩みの)次元に留まり続けることも問題です。
タロット(特にマルセイユタロット)は様々なレベルに寄り沿いながら、結局は、あなたを高みへと導く象徴図・表現体として活用できるものなのです。
思考と感情、理屈と直感で迷った時に。
物事の判断のもと(基準)として、よく言われるのが、「思考」(論理)か「感情」(感性)かの問題です。
※思考と論理、そして感情と感性は厳密には違いますが、ここでは同様なものとして扱います。
似たようなものとしては、理屈・論理と直感・感覚の違いとか、客観性と主観性のような対立概念で言われることもあります。
いずれにおいても、究極的には、どちらがいいか悪いかはないものと考えられますが、事と次第によっては、当人にとっての良し悪しは出ます。
今回は、この思考か感情か、あるいは論理か直感かの判断で困った場合についてを書いてみたいと思います。
まず、一般的に性差(女性・男性)での偏りはあると考えられます。
これは肉体的・機能的・構造的に、同じ人間といえど、やはり性別によるそもそもの違いはあるので、どうしても相違は出ると推測されるからです。
霊的な意味でも、男性と女性の役割やエネルギーの質の違いは言われているところです。
そして、女性は直感や感情、感性での判断、男性は思考や論理での判断が適しているとされています。
これはマルセイユタロット的に見ても、言えることだと思います。
従って、迷った場合は、この性差の判断傾向に従い、女性は直感・感覚的なもの、男性は論理・思考的なものの判断が一番しっくり来るのではないかと思います。
ただ男性であれ、女性であれ、性差によるものは確かにありますが、同じ人間として、一人の内に完全性も存在すると考えると、基本はそうであっても人によってはまた違いもあると言えます。
自分のこれまでの傾向を知り、どの判断のレベルの時が、自分にとっては結果的に良かったのかを見るとよいでしょう。
論理20、感覚80くらいがいいという人もいれば、その逆くらいの人もいるわけです。
またこういう場合もあります。
女性の場合、自分の感性・直感力(直感的に本質を受け取る巫女性ともつながります)を磨くため(復活させるため)、あえて逆の論理や思考を鍛える(接する)ことにより、その統合した力によって、これまで以上の直感力が出てくる(蘇ってくる)というパターンがあります。
こうなると、過去の、論理や客観的根拠(エビデンス)にこだわっていた自分は解けて、より女性性の本質らしい感性を信頼する自分になってきます。
反対に男性は、直感や感性を中心すると女性性に接し、それを受け入れることで、自分の中の高次の知性・論理性が発動してくるようになります。いわば、感性を分析していくことで、もっと高いレベルの論理に導かれるのです。
どちらにしても、判断のスピードは速くなり、自分にとっての重要なもの、本質がわかり、選択での迷いも少なく、あるいは迷っても前のレベルとは違う次元のものに変化します。
ということで、女性でも男性でも、実は思考と感性の狭間で悩むことは、悪いことではないのです。
それから、階層やレベル(次元)の混同という問題が、思考と感情の判断でよく現れます。
感情レベルの問題(判断)は、心の次元であって、魂や高次のレベルと関係してはいても、多分に自分の物語(自分寄り)が中心です。
もっと言えば、かなりの部分で好き嫌いか、自分にとって心地よいと思うもの、満足するものという選択基準になっているということです。
これに対し、思考や論理はどちらかといえば他人寄りであり、組織や集団においての(利や正義が)選択基準になってきます。これは現実的判断とも言えます。
その判断や選択が、どのレベルにおいてもっともよいとするものを求めるのか?によっては、感情・感性で選んだほうがいい場合と、思考や論理での判断がよい場合とがあるわけです。
先述したように、自分寄り、あくまで自分の満足感を中心とした選択では感性・直感でもいいでしょうし、自分よりも集団・組織・グループなどの集合的なものの利や正義に適うほうが、この場合はよい(それが結局自分のためにもなる)と思えるのなら、思考や論理中心となります。
もうひとつ言えば、魂の基準となってきますと、論理と感情は超えたものになってきて、マルセイユタロットでは「神の家」の判断ということになります。
それは理屈が通っているとか、気持ちいいとか、ワクワクするとかとは別次元の選択です。
思考と感情(感性)での扱いには、思考を感性の刺激(触媒)とするものと、感性(感情)を思考の刺激(触媒)として判断するものとがあります。
これは、先述したように、性差においては、基本となるものが、女性(的な人)では直感や感性、男性では思考や論理なので、例えば、女性ですと、自分の感性や感覚に、さらに信憑性や信頼性を増すために、思考によって感性に刺激を与えて、「やっぱり自分の直感は間違っていなかった」と確信させるもの、腑に落とすものとして扱うという方法です。
反対に男性(的な人)だと、自分の思考、論理に飛躍をもたらすために、直感やヒラメキ、感性をも取り入れてみる、重視してみるということになります。
ここで大事なのは、どちらか(思考か感情かの判断)で迷うというのではなく、あくまで基本の判断は思考か直感かで決めておき、その底上げや、判断のための情報・資料として、思考または感性を取り入れるということです。
思考中心の人が、理屈を凌駕するほどの感覚を覚えたら、その決断には直感・感覚的なものを重視する必要性があると言え、逆に普段は自分の直感・感性的なものを信頼していても、科学的・客観的データが明らかに揃っている場合、自分の直感力がその時はぶれている、クリアーではないと見ればいいのです。
どちらにおいても、修正すること(改革をすること)も受け入れる、柔軟性が求められます。
最初からふたつを相克させたり、葛藤させたりすると判断が難しくなります。
これは先に書いた、両者(思考と感情)の統合によって、さらに高いレベルに自分の判断力を上げるための方法と似たものでもあります。
なお、タロットをしている者は、小アルカナで、剣(ソード)か杯(カップ)で思考と感情を代表させて、出たカードによって、どれを重視するかの判断材料とすることもできます。
