迷った時に

タロット慣れの方への選択と決定

タロットを引いて何かを決めることは、普通によくされていることです。

いや、タロットの実際場面でのほとんどの使われ方は、それにあると言っても過言ではないかもしれません。

しかし、物事の選択や決定にタロットを使うにしても、意外に、タロットをよく知る人ほど、単純に物事が決められなくなってきます。

それは、タロットの象徴性が多重であることに気づき、また同時に、この世や宇宙の仕組みが究極的にシンプルであっても、人間レベル・現実レベルにおいては多様性と複雑性を持ち、人それぞれの世界の象徴としても関係してくることを理解しはじめるからです。

簡単に言えば、イエス・ノーのような単純な解読ができなくなってくると言えます。(タロットがいかようにでも読めてくるので)

そのことはむしろ、真理のへの探求、自己の成長性においては喜ばしいことなのですが、現実的には困ったことにもなりかねません。

そこで、タロット学習とリーデイングにおいては、本当はまずいのですが、ここではあえてそれをやってみるという方法で、複雑化の読みの弊害、つまりは決めることがかえってできなくなることを、避けることができます。

それはタロットにおける「記号読み」というもので、要するに、タロット一枚一枚(特に大アルカナ)に対して、ひとつの意味を決めておくやり方です。

もしくは、吉凶(良し悪しの)レベルの程度を最初から設定してく方法も有効です。

記号読みですと、例えば、「手品師」は「最初の選択肢」、「節制」は「経済的にリーズナブルな方」、「悪魔」だと「純粋に楽しい方」を選択するという感じに決めておきます。(この意味はあくまで事例ですので、自分でタロットをもとにして決めましょう)

この時、ほかの解釈や意味は考えずに、ひとつのカードにひとつの決めた意味で判断します。(たくさんの意味を見出すと、それは「象徴」になり、選択がしづらくなります。本来はそれがタロットというものなのですが・・・)

吉凶設定も、本当はこういうのはタロットでやるのは望ましくないのですが、現実的な選択・決定場面では、そうした設定の採用が、かえってわかりやすいところもあります。

大切なのは、今自分はどのレベルや設定(世界観)において、タロットを引いているのかの自覚です。

それさえしっかりしていたら、引いたあとの解釈に困惑することは少なくなります。

ということで、ここではタロットを一枚一枚、(自分なりの)吉凶、良し悪しを決めておきます。

例えば、「世界」が最高とか、「太陽」は吉だとか、「戦車」は勝利するとか、13は止めたほうがよいとか、そういうものです。

すると、当然、いいカード・悪いカードができますから、引いたカードによって、自分の考えている選択肢がよいのか悪いのか、至極単純に判断できます。

いずれにしても、タロットに聞く(聴く)という時は、それだけ真剣に行い、一回やって、「あ、これはいい(期待した)カードじゃなかったから、もう一回やっみよう♪」みたいに、何度も引き直さないことです。

それをすると、最初の設定や世界観を自分が壊していくことになるからです。(言い換えれば、何度でもやり直しの効くタロット引き、つまりは混乱の世界を演出することになります、それは物事の決定には不向きな設定です)

タロットに記号のように、ひとつの意味だけ決めて読むことや、カードに吉凶・良し悪しをつけるのは、先述したように、本来は望ましくありません。

しかしながら、私たちの世界(観)には様々なレベルがあり、究極のひとつの次元的なものから、私たち一人一人の、とても現実的で自我(エゴの)欲求が中心となった次元など、多様に同時存在していると考えられます。

タロットに吉凶があってもいいレベルというものもあり、それは人間の実生活と創造的なエネルギーにリンクし、結びつきが強いところでもあるので、そうした使われ方も一概に悪いとはいえず、要請されることもあるのです。

特にタロットリーダーで占いの世界に入っている人(占いの仕事をしている人)、不特定多数の人にタロットリーディングを実施している人は、生々しく、感情的で自分勝手でもある(普通・低次の)人間性の部分と、人のために役に立ちたい、自己を成長・拡大させ、高いレベルへと回帰していきたいという崇高で高次な部分との両面を鑑み、特に「人間性」の部分にも、共感とすばらしさ(同時に哀しさでもあります)を見出す感性が必要です。

正論や常識、法律、倫理観など、上から目線でえらーそなことを言われても、人は皆がそんな高尚に生きられるものではないですし、悩むからこそ人なのです。(マルセイユタロット「恋人」カード参照)

しかしながら、また、その(悩みの)次元に留まり続けることも問題です。

タロット(特にマルセイユタロット)は様々なレベルに寄り沿いながら、結局は、あなたを高みへと導く象徴図・表現体として活用できるものなのです。


思考と感情、理屈と直感で迷った時に。

物事の判断のもと(基準)として、よく言われるのが、「思考」(論理)か「感情」(感性)かの問題です。

※思考と論理、そして感情と感性は厳密には違いますが、ここでは同様なものとして扱います。

似たようなものとしては、理屈・論理と直感・感覚の違いとか、客観性と主観性のような対立概念で言われることもあります。

いずれにおいても、究極的には、どちらがいいか悪いかはないものと考えられますが、事と次第によっては、当人にとっての良し悪しは出ます。

今回は、この思考か感情か、あるいは論理か直感かの判断で困った場合についてを書いてみたいと思います。

まず、一般的に性差(女性・男性)での偏りはあると考えられます。

これは肉体的・機能的・構造的に、同じ人間といえど、やはり性別によるそもそもの違いはあるので、どうしても相違は出ると推測されるからです。

霊的な意味でも、男性と女性の役割やエネルギーの質の違いは言われているところです。

そして、女性は直感や感情、感性での判断、男性は思考や論理での判断が適しているとされています。

これはマルセイユタロット的に見ても、言えることだと思います。

従って、迷った場合は、この性差の判断傾向に従い、女性は直感・感覚的なもの、男性は論理・思考的なものの判断が一番しっくり来るのではないかと思います。

ただ男性であれ、女性であれ、性差によるものは確かにありますが、同じ人間として、一人の内に完全性も存在すると考えると、基本はそうであっても人によってはまた違いもあると言えます。

自分のこれまでの傾向を知り、どの判断のレベルの時が、自分にとっては結果的に良かったのかを見るとよいでしょう。

論理20、感覚80くらいがいいという人もいれば、その逆くらいの人もいるわけです。

またこういう場合もあります。

女性の場合、自分の感性・直感力(直感的に本質を受け取る巫女性ともつながります)を磨くため(復活させるため)、あえて逆の論理や思考を鍛える(接する)ことにより、その統合した力によって、これまで以上の直感力が出てくる(蘇ってくる)というパターンがあります。

こうなると、過去の、論理や客観的根拠(エビデンス)にこだわっていた自分は解けて、より女性性の本質らしい感性を信頼する自分になってきます。

反対に男性は、直感や感性を中心すると女性性に接し、それを受け入れることで、自分の中の高次の知性・論理性が発動してくるようになります。いわば、感性を分析していくことで、もっと高いレベルの論理に導かれるのです。

どちらにしても、判断のスピードは速くなり、自分にとっての重要なもの、本質がわかり、選択での迷いも少なく、あるいは迷っても前のレベルとは違う次元のものに変化します。

ということで、女性でも男性でも、実は思考と感性の狭間で悩むことは、悪いことではないのです。

それから、階層やレベル(次元)の混同という問題が、思考と感情の判断でよく現れます。

感情レベルの問題(判断)は、心の次元であって、魂や高次のレベルと関係してはいても、多分に自分の物語(自分寄り)が中心です。

もっと言えば、かなりの部分で好き嫌いか、自分にとって心地よいと思うもの、満足するものという選択基準になっているということです。

これに対し、思考や論理はどちらかといえば他人寄りであり、組織や集団においての(利や正義が)選択基準になってきます。これは現実的判断とも言えます。

その判断や選択が、どのレベルにおいてもっともよいとするものを求めるのか?によっては、感情・感性で選んだほうがいい場合と、思考や論理での判断がよい場合とがあるわけです。

先述したように、自分寄り、あくまで自分の満足感を中心とした選択では感性・直感でもいいでしょうし、自分よりも集団・組織・グループなどの集合的なものの利や正義に適うほうが、この場合はよい(それが結局自分のためにもなる)と思えるのなら、思考や論理中心となります。

もうひとつ言えば、魂の基準となってきますと、論理と感情は超えたものになってきて、マルセイユタロットでは「神の家」の判断ということになります。

それは理屈が通っているとか、気持ちいいとか、ワクワクするとかとは別次元の選択です。

思考と感情(感性)での扱いには、思考を感性の刺激(触媒)とするものと、感性(感情)を思考の刺激(触媒)として判断するものとがあります。

これは、先述したように、性差においては、基本となるものが、女性(的な人)では直感や感性、男性では思考や論理なので、例えば、女性ですと、自分の感性や感覚に、さらに信憑性や信頼性を増すために、思考によって感性に刺激を与えて、「やっぱり自分の直感は間違っていなかった」と確信させるもの、腑に落とすものとして扱うという方法です。

反対に男性(的な人)だと、自分の思考、論理に飛躍をもたらすために、直感やヒラメキ、感性をも取り入れてみる、重視してみるということになります。

ここで大事なのは、どちらか(思考か感情かの判断)で迷うというのではなく、あくまで基本の判断は思考か直感かで決めておき、その底上げや、判断のための情報・資料として、思考または感性を取り入れるということです。

思考中心の人が、理屈を凌駕するほどの感覚を覚えたら、その決断には直感・感覚的なものを重視する必要性があると言え、逆に普段は自分の直感・感性的なものを信頼していても、科学的・客観的データが明らかに揃っている場合、自分の直感力がその時はぶれている、クリアーではないと見ればいいのです。

どちらにおいても、修正すること(改革をすること)も受け入れる、柔軟性が求められます。

最初からふたつを相克させたり、葛藤させたりすると判断が難しくなります。

これは先に書いた、両者(思考と感情)の統合によって、さらに高いレベルに自分の判断力を上げるための方法と似たものでもあります。

なお、タロットをしている者は、小アルカナで、剣(ソード)か杯(カップ)で思考と感情を代表させて、出たカードによって、どれを重視するかの判断材料とすることもできます。


心理的問題を追及し過ぎている人

タロットリーディングをしたり、いろいろな人の記事を見たりしていますと、今の時代、心理的観点で自分の問題を見る方が増えたと感じます。

いや、それが普通のことなのかもしれません。今までがむしろ、心理的観点というものを無視していたか、あったとしても、現実には大した影響はないのだと思い込んでいたかでしょう。

しかし、あらゆる情報が簡単に入手できたり、披露されたりする中で、心(の中のデータ)に問題があるから生きづらくなっているという考えを受け入れるのも、今は当たり前のようになってきました。

そうしたことで、自分のつらさや心苦しさ、表面的にはそれなりにうまく生活できているようで、実は社会や集団に適用できていない自分を感じていたような人には、その心理的な原因もわかって救われるという人も少なくありません。

ところが、一方で最近は、あまりに深く自分の内面を掘り下げようとしている人がいるように感じます。

しかも深くという深度だけではなく、横にも拡張して、手を広げているという印象です。横というのは、自分の問題を心理的な原因として見て、その(原因の)見方を、様々なものからアプローチするというものです。

いわば、「原因はこれではないか」「あれではないか」と探り、その解決法に対するのもまた同じで、「この方法がある」「あの方法が効果的」「これさえ学べば問題は解消する」・・・みたいに、次々と問題要因の仮説と、その対処法・解決法の技術を調べあげ、実践もするという態度です。

それで癒されたり、現実(外面・環境)と自分の内面が調整されたりして、すっきりすればよいのですが、どうもこうした傾向にはまる人は、問題が解決してしまうことを恐れていたり、自分個人の範囲を超えた問題の分野まで入り込もうとしていたりするのではないかという危惧があります。

問題が解決してしまうことを恐れているというのは、簡単に言えば、自分の問題が解決してしまうと、自分の(存在)価値がなくなってしまうからです。

そこには、「問題を持って、生きづらくなっている、ほかの人とは違う自分」という、マイナスの特別感のようなものがあります。

裏を返せば、「自分には生きている価値がない(少ない)」とか、「人とはいろいろな意味で違っているから、うまく生きることができない」という感情で、それは劣等感といえばそうなのですが、厳密には劣等感とはちょっと違うものであり、社会に適応できないいらだち、恐れ、不安、虚無、あせりのようなものが一緒になった複雑なものと言えます。

それゆえに、そういう人には孤独感がつきまといますが、だから実は心の奥底では、そういう孤独な自分を受け入れてほしい、わかってほしい、認めてほしい、愛してほしいという感情も渦巻いています。

そのためには、自分が普通になっては困るのです。普通だと特別ではなくなりますから、自分に注目してもらえなくなります。

そして、ここがもっともポイントですが、それは他人に認められたいというものよりも、実はもう一人の自分自身に認められたいという、内部構造の分離と統合に関係しているのです。

心に問題を抱えている自分(子どもの自分)が解消されてしまうと、もう一人の自分(大人といってもいい自分)に見捨てられるという恐怖が根底にあります。

「子どもの自分」と「大人の自分」と書くと単純ですが、これは便宜上、そう書いたまでで、マルセイユタロット的には、本当は反転しており、大人こそが子どもであり、子どもこそが大人で、結局は、魂の反抗みたいなところになっているのです。

そのことが現代心理学(アカデミズムの心理学)では説明されないので、せいぜい潜在意識と表面意識みたいなモデルで扱われ、その統合や調整という観点になってくるので、逆に、問題を探求していく姿勢が崩れないのです。

魂の反抗とは、霊性回帰のためのレジスタンスであり、現代社会に巣くう歪みからの脱出を意味します。(言葉を換えれば「グノーシス」となります)

そのプロセスとして、心理的に、奥深くの心の問題を探ろうとしたり、様々な原因と解決策を見出そうとしたりという方向性になってくるのです。

しかし、当人には、自分の生きづらさや問題が、何か心の中にあるデータが問題を引き起こしているのではないかと思っているため(実際、そういうことがありますし、その構造を明らかにするのが心理学的な説明とひとつの治療になります)、すべてがすっきりする「これだ!」という原因と解決法が見つかるまで、探求は止めないのです。

けれども、霊的(グノーシス的)な観点から見れば、そのこと(探求)自体が、霊性回帰のポーズであるということです。

従って、心理次元において、どこまで行っても、本当の原因は見つからず、それでも、何か原因(と解決策)という「宝」はどこかに埋まっているはずと、掘削作業を続けていくのです。

心理的要因(原因)を追求してはならないということを言っているのではありません。

その段階は人によっては必要なものですし、実際にそれで楽になったり、救済されたりすることはあります。(だからセラピーは有効で、セラピーの方法もたくさん存在しているわけです)

ただ、セラピーは個のレベルでは終わっているのに、「まだまだだ!」と、さらに先に進もうという人は、まるで賽の河原の石積みのように、積んでは壊しを繰り返している状態でもあるわけです。

さらには、個の次元を超えて、集合的無意識の世界(のネガティブ要因)まで背負おうとしている人もいます。(そういう役割を自覚・自認している人はいいのですが)

すべてを一気に統合しようとしたり、浄化しようとしたりせず、正義と悪の分離をきちんとしたままで、自分が認められるものと認められないものを分けて考え、段階別に割り切る(処理できる能力と範囲を厳然とし認識する)も必要だと思います。

掘削作業をし過ぎている人は、同じレベルの問題を、「見方や論点を変えてまた新しい問題として再生させている」という、自作自演の「問題のゾンビ状態」に気をつけ、はまっているループ地獄から出る視点を持つことです。

それは問題を見る(原因・要因、解決策の探求をする)のではなく、問題そのものから離れる(問題もひとつの事件や悪として象徴化して受け入れ、ひとつのパターンとして自分の歴史として風化させる)ことなのです。(単純に言えば、現実と将来に目を向けた、次に向かう未来志向)

もちろん、先述したように、心理的問題を分析し、それを解消していく段階も必要な人はいますので、それはそれでいいのです。

しかしながら、ずっと堂々巡りのようになっている人や、近頃はわざと商売的に心理的問題の解消のセラピーが必要だと、大げさに宣伝されて、ありもしない問題まで自分で作り上げてしまう(あるいはや、他人によって作り出されてしまう)場合もあるので、そうした注意を述べているわけです。

マルセイユタロットにおいても、タロットの人物の視線によって時系列が表現され、過去側(それは内面とも言えます)を見ているのではなく、未来(新しいもの、新ステージ、新次元)側に視線を切り替えていく重要なポイントが、きちんと示されています。


学び、自身のタロット学習を事例として。

学び、受け入れる象徴のカードとして、マルセイユタロットでは、「2」の数を持つ「斎王」というカードがあります。(一般的なタロットカードの名称としては、「女教皇」と呼ばれるものに該当します)

マルセイユタロットでは、カードの数の並びにも秘密がありますが、次の「3」の数を持つカードは、「女帝」というカードになります。

「斎王」という人物と「女帝」という人物の視線を見ると、その方向も変わり、図像全体の雰囲気自体、まるで違うものになっています。

もちろん、それは意図的な描き方をしているものですが、ここから考えても、単純に、学んだ(学ぶ)ことによって、何らかの変化が起こったことが感じ取れます。

ところで、タロットを学ぶ(学びたいと思った)場合、人によって、理由はまちまちでしょう。

趣味を持ちたいとカルチャー教室なんかで、たまたま出会ったとか、友人の誘いがあったとかという気軽な理由あるでしょうし、最初からタロットというものを本格的に学んでみたいとか、タロットということはもともと眼中にはなかったのに、タロットで示されている内容が、自分の学びたいものに合っていたという、比較的真剣なものや、探求の目的に沿っていたからというものなど、様々です。

何でもそうですが、学びには、最初からある目的や意図があったほうがよいとは言われますが(つまり、何のためにそれを学ぶのか?という自分なりの答えを用意していること)、一方で、おかしな表現になりますが、学んでみて初めて、自分の学びたいこと、やりたいことがわかった(わかる)というケースもあるのです。

言ってみれば、学習するうちに、学ぶ目的を発見したという、学ぶ目的が最初から明確にあったのとは逆のパターンです。

またこういうこともあります。

最初の目的は「これこれ」だったのに、学んでいるうちに別の目的・興味に変わっていた・・・という場合です。

私のタロット学習(のきっかけ)をふりかえって見ると、本当に今書いたようなものでした。

マルセイユタロットを最初に学ぼうと思っていた頃、私は公務員を辞める可能性が高くなっていました。

ですから、「もし公務員を辞めて何か仕事をしようとすると、自分には何ができるのか?」と考えていて、今思うと、占い師をなめていて、大変プロの占い師に失礼なことでしたが(^_^;)、『「占い師」にでもなろうか』と思い、占いの技術を学ぶところを探していたのでした。

その時、偶然、ある本にマルセイユタロットを学ぶ学校の記事と広告を見つけました。

ただ私自身は、占いの分野でも、実はまったくタロットには関心と興味がなかったのですが、その記事内容にひかれ、勇気を出して(私にはとても勇気のいることでした)、その学校に電話したのでした。

その電話に出られたのが、その学校の主宰の先生であり、「すぐに関西で講座があるので、関西在住なら申し込むとよい」というお話を受けたのでした。(学校自体は東京にありました)

そんなわけで、電話しようと思った時は、学ぶにしても、まだ少し先のことだと思っていたのですが、そういうタイミングもあり、あれよあれよと、マルセイユタロットをすぐに学ぶことになってしまったのでした。

そして、実際にタロットの講義の初日で、私は衝撃を受けました。

その衝撃とは・・・マイナスな衝撃です。(苦笑)

まず、参加メンバーのほぼ全員(と言っても受講生自体は少数でした)が、ある程度マルセイユタロットになじんでいた(本とタロットに接していた)ことで、超初心者は私だけだったのです。

タロットのタの字も知らず、とにかく、カードを並べるのにもひと苦労で、皆さんからは遅れまくり、冷や汗が一杯出ました。

そして実際のリーディング練習においても、まったくタロットが読めず、先生からは「君は頭が固いな、公務員だね」と言われる始末でした。(苦笑)

この時、私は「タロットは、絶対自分には向いていない」と思ったものでした。(今でも私マルセイユタロットに相性が良かっただけで、タロット全般としてみると向いていない性質だと思っているくらいです(^_^;))

ところが、講義が進むにつれ、先生の語るタロットの世界は、私が思っていたタロットや占いというイメージとはまったく異なるもので、そもそもその先生は、タロットを占いの道具としては教えていなかったのでした。

マルセイユタロットをもとに語られる豊潤で複雑な象徴大系、古代の密儀・伝統を受け継ぐタロット・・・そしてその実、とてもシンプルな構造をもった宇宙や私たち自身を表すモデルとしてのタロット・・・講義を受講しているうちに、自分の何かが熱を帯び、そして輝き出すのを感じました。

講座が終わる頃には、すかっりマルセイユタロットの世界に魅了され、すでにその時には、占い師になる目的というより、自身の変容、真理の探究というものに自分の目的も変わりつつありました。

タロットを使うにしても、占い師という形ではない仕事や生き方、対人援助、サポートの方法があると思い、それらの道を進むことにも変化しました。

その後もいろいろとありましたが、とりあえず、そんな感じで、今に至っているというわけです。(笑)

この私の例からしても、学ぶことにおいて、当初の目的から変わったり、漠然とした状態でも、次第に学習の過程で、はっきりしたものに変化したりということはあるものです。

私も特に強い意志や明確なイメージをもって、その当時は人生設計や将来を見ていたわけではありません。

むしろ現状や将来については不安と恐れもあり、あやふやな感じ、カードでいえば「月」や「吊るし」のような状態にあったと言えましょう。

ですから、いわゆる引き寄せや、ポジティブイメージシンキングでの願望実現ということでもなかったわけです。

運命ということがあるならば、私の場合は、マルセイユタロットとの出会いは、偶然のような運命の導きにも見えます。

ですが、運命ということよりも、混沌や混迷にあった状態の中で、魂の根底の部分ともいえる何かが発露することになり、それがマルセイユタロットとの学びと邂逅させたと言えるかもしれません。

いわば、自分の表面意識を超えたところの望みの活動に入ったとも言えるでしょう。それが私の場合は、マルセイユタロットとの出会いからであった(その前からすでに始まっていましたが)と考えられます。

皆さん自身も、「本当の自分」の望みとしての活動・表現が、ある時から始まると思います。何かを学びたいという欲求は、それなのかもしれません。

そして学び自身が実は目的でもなく、学びを通して、学びの必要がなかったことを知るという、一見矛盾した結論も出るでしょう。それは決して、学ぶことは必要ないという意味ではないのです。

このことは、自分があることを学べば学ぶほど、知っていくことになると思います。


「悪魔」の選択

マルセイユタロット(に限らずでしょうが・・・)は、実はどのカードも解釈には難しいところがありますし、その反対に、シンプルに見るとすれば、ワンワードで示すことも可能です。

それでも、どうしてもシンプルに考えたり、読んだりできないカードがあるのも確かです。

代表的なものでは、「月」のカードがあります。また、別の意味では、「悪魔」のカードも、解釈や意味の取り方が難しいと言えるかもしれません。

「悪魔」を単純に悪いカードとして見ると、それほど困難ではないのですが、「悪魔」にポジティブな意味を見出したり、深い考察をしていったりするとなれば、一筋縄ではいかないカードとなります。しかし、そういう見方こそがこのカードの極意を知ることにつながります。

それで、今日は、この「悪魔」のカードについてのリーディングの一考察として、比較的ポジティブに見るもの(のひとつ)を取り上げたいと思います。

「悪魔」は、ここでは詳しく解説しませんが、人間の欲求とその表現、及び充足(満足)と関係し、悪魔自体は高次の存在でありながら、低次なものに親密性を持つ影響と力があります。

言い換えれば、私たち人間の、低俗なものも含む、欲求をかなえさせようと刺激して来る存在です。

これを悪い意味(目的)でそうしているか、あるいはいい意味(私たちの成長や解放につながる目的)なのか、さらにはまったく混沌としていて、目的も何もなく、ただ悪魔自体の習性や好みとして行っているのか、それは悪魔に聞いてみないとわからないのかもしれません。(笑)

しかし、このように、悪魔の目的を多方面から考えることで、「悪魔」のカードをネガティブなだけではなく、ポジティブな意味や、高次覚醒のための支配(介入)と見ることも可能になるのです。

ところで、私たちは、この前の「聖性と俗性」の記事ではありませんが、純粋で利他的な思いで行動する場合と、わがまま・利己的な意味で選択するようなことがあります。

また、やってはいけないことや、この選択は悪いもの、欲求に飲まれているものだとわかっていても、やってしまうようなことがあります。

もちろん、法律に反すること・犯罪、人に多大に迷惑がかかることなどは、行うべきでもありませんし、カルマ的観点、自己を貶める意味でも問題と言えますが、欲望・わがままにつき動かされているのか、直感的に正しいと見ていいものなのか、どちらとも判断がつかない時というのは、結構あるものです。

そういう場合、人によもよりますが、冷静になりすぎず、衝動的にも似た、自分のやりたいと思う方向を選択したほうがよいこともあるのです。

それがたとえ、自分の欲望・欲求・エゴから出ているものであっても、です。

大なり小なり、実は人はエゴ(個としての自分の思い)で判断しているものです。

それが世のため、人のための思いから出ているものであっても、結局、それをして喜び、満足するのは「自分」ですから、大きな意味では、すべてエゴの選択と言えます。

ですから、それが正しいものか、欲望やエゴから出ているものなのかどうかと精査せず、単純に自分の(したい・やりたいという)思いに従うという選択もありだと考えられます。

そうすることで、自分の欲求を満足させたうえで、次(のステップ)に向かうことができたり、別の自分を覚醒させたりすることにつながる(場合もある)からです。

いわば、自分の飢餓感をなくすための充足を実際に求め、行動するということになります。これが、「悪魔」の(言い換えればエゴに従う)選択(笑)として、考えられるものなのです。

そして、自分の飢餓感は、実は自分のものではないこともあります。

親族から受け継ぐ、やりたかったことなのに断念してしまった残滓、心残りデータとか、ある同じ思い(悔いを持つ)集団的感情データ、過去世からの思い残しなど、自分(の心と魂における保存部分)が、成し遂げられなかった悔恨や飢餓を持っていた場合、それが今の自分の思いとして、肩代わり、プログラム再生していることがあるわけです。

それが「欲望」のようなものとして、自分の感情に湧き起こっているというケースもあると想像されます。

ですから、飢餓感を実際的に満足させることは、データの消去に役に立つ場合があるのです。

ただし、まさにただの自分の欲望から来ているものだったり、その飢餓感の解消が、別の次元にあるもの(例えば親の愛情を得ることであれば、それを自覚しない限り、恋愛という仮の愛情充足劇を繰り返しても、満たされないことになります)だったりすると、逆効果になることもあります。

ですが、自分に縛りをかけすぎていて、自分の欲求にすら気づけず、ひたすら他人や外の法(ルール・規範・社会常識への模範)に従って来た人にとっては、エゴだろうが何だろうが、自分のしたいことにつき進むという、今までの自分から見れば、まるで「悪魔のささやき」に耳を貸す(笑)ような選択が、自己の解放に寄与することがあるのです。

少なくとも、自分を縛っていた強固な綱(常識的思い込み・自分ルール)が緩くなるのです。(「悪魔」のカードにはつながれた二人の人物がいますが、彼らの綱は緩いです)

ええーい、もうやっちまぇ! もうどうでもいい! 何が起こるかわからないけど、やりたいからやる! 好きなことをして何が悪い! そう私の悪魔(本能・エゴ)がささやくのよ! という声に従った選択は、無茶苦茶だからこそ、混沌と(定番の)破壊を生み、いいも悪いもない、それでいて実は豊潤なる世界に誘ってくれる作用があるのです。

この誘惑と勧誘に、悪魔が登場します。

面白いことに、マルセイユタロットの並びでは、「悪魔」の次に「神の家」が来るように(数的に)配置されています。

そう、「悪魔」を見なければ、「神」は現れないとも見えますし、「神」そのものが「悪魔」でもあり、またその逆も言え、結局、すべては神(神性・完全)の表現のひとつ(神のアバター・化身として悪魔も存在する)と考えられるのです。


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