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タロットリーデイングの上達を考える前に
タロットリーディングの上達というのには、観点(目的)を変えれば、その意味は違ったものになります。
例えば、私自身はこれを目的としたり、その技術を教えたりはしていませんが、「当たること」「未来を予見すること」というような観点ならば、タロットから読み解ける内容が、バシバシ当たる、当たっているという感じになればなるほど、その意味でのタロットリーディングは上達していると言えるでしょう。
これは、一般の人の思う「占い」感覚でのタロット(の上達)かもしれません。従って、当たる占い師、当てる精度の高いタロット占い師は、すごい人、高度にタロットが読める人と思われることでしょう。
また、当たる・当たらないよりも、自分自身(クライアント)の悩みごと、問題と思っいることが解決したり、すっきりしたり、癒されたりするためにタロットリーディングが行われるという目的・観点で見れば、タロットリーディングの上達というのは、いかなる問題でも、またどんな相談者に対しても的確なアドバイスがタロットから導ける状態になっていく、というものになるかと思います。
たとえ、過去や現在、さらには未来の状況を当てること(当人にはわからない情報が与えること)ができたとしても、今悩んでいる相談者自身がすっきりとしない(問題が解決しない)状態では、せっかくの能力・技術も無駄になります。
むしろ、下手に当てたり、未来を指し示したりすることで、選択肢の自由な範囲を狭めたり、クライアントに恐怖心、逆に、何の努力や行動も必要としない超楽観的な姿勢を植え付けてしまったりする危険性もあります。
やはり、思うに、私たちの現実の人生には、すべてがわからないような仕組みがあり、全部を解明していく態度や方向性は許容されても、すべてを知ることそのものよりも、すべてを知ろうとするそのプロセス自体に意味があるのだと考えることができます。
究極的な意味では、ただ一人、唯一の存在が全体そのものなのかもしれませんが、現実認識の世界では、私たは個性を持ち、一人一人独立した存在です。
従って、その意味を想像すれば、自分という人格と個性を持つ現実的意識の「自分」では、すべでは解決できず(知ることができない)、ほかの人との協同作業、関係性で真理が目覚めていく世界だと想定できます。
このことから、自分が未熟だと思ったり、悩んだり、わからない状態にあったりする時は、人に相談すること、人の力を借りること、人から学ぶことはよいということになります。(むしろ、そういうことになっている世界と見る)
しかし、忘れてはならないのは、(現実認識の世界において)自分と他人はあくまで別であり、人のアドバイスや教えが、これまたすべてではないということです。(人が解決したり、悟らせてくれたりするのではなく、自分でする)
ここで、最初に書いたこととリンクしてくるのですが、タロットで当たるからと言ってその人がすべて知っているわけではなく、また解決を提示してくれるリーデイングにおいても、それもまたすべてで完全ではないということです。
つまり、人からの示唆は、あくまで「示唆」や「情報のひとつ」であって、あなたそのもの、自分そのものではないのです。
当たるためのリーディングも、問題解決のためのリーディングも、上達を目指す意味では、どちらも有用な情報を提供する努力と言えるかもしれませんが、いくら読みが上達しても、それが相手にとって完全情報ではないのですから、タロットリーダー自身もうぬぼれることがないようにしたいものです。
クライアント側も、タロットリーダーや占い師が、自分にとっての正解や、すべてを知っているわけではないと、極端な依存を避ける必要があります。つまり、「自分自身で正解を導き出す」ための情報や刺激のひとつが与えられていると考えるのです。
アドバイスも、タロットリーダーからクライアントに与えられる情報(のひとつ)であって、クライアント自身を直接救うものではないのです。
人と自分は違います。だから自分を救えるのは自分だけです。
しかしながら、人に頼ってはいけないという意味でもなく、逆に、自分一人では解決しないことがほとんどという設定の世界でもあるのです。矛盾のようですが、この意味を思うことは、とても生きるうえで大事です。
それは、単純に、人は生まれてくるのも育つのも、自分一人ではできないこと、そして、自分が生きよう、救われようとしなければ、他人がたとえ物理的に助けてくれても、その人の心は死んだままに等しいことなど思えば、わかってくることもあるでしょう。
結局、タロットリーディングにおいても、リーダーとクライアントの協同(共同)作業だということです。
タロットを通して、タロットリーダーは、クライアント自身の生きるサポートを行いますが、それは相手(クライアント)を支配したり、自分の価値観(自分がいい・悪いと思うこと)に染めたりするものでは当然ありません。
クライアント自身が知る(成長的覚醒の)ために、タロットリーダーが知っていること与え、同時に、情報(ここでいう情報とは物理的・言語的データを超えるものも含みます)の交換が行われるのです。
ですから、タロットリーダーも、クライアントによって、「知る」ことができ、成長する(本質に回帰に近づく)こともできるのです。
恋愛やパートナーシップの3つのペア性
二人が夫婦や男女の恋愛の関係にある時、当然ながら、二人はカップル・ペア性を持つことになります。
もちろん、それ以外の関係であっても、二人という人間の間の交際においては、カップル性が生じています。
マルセイユタロットでも、特にカモワン・ホドロフスキー版のタロットを扱う人は、特に大アルカナのカップル性・ペア性を象徴として見ます。
そうしたタロットにおけるカップル性の概念によって、実際のカップル・ペアを見ていくと面白いことがわかります。
その一例をご紹介したいと思います。
今回の記事は、本来は、数年に一度、たま~にやっている(笑)恋愛セミナーのネタのひとつでもあります。
ある区分によると、人は女性でも男性でも、3つの層があると考えられています。
それは象徴的な年齢層でも例えられ、簡単に言えば、
1.少年・少女
2.成熟した(大人の)男性・女性
3.老年の男性・女性
という3つの区分けです。
さきほど、これらは「象徴的」と述べたように、見た目や実年齢とは限らず、精神的な年齢、状態も表します。
この3つは、つまるところ、宇宙の創造と終わりのサイクルも意味します。(創造・維持・破壊)
また、極性と中立性の統合による完全性も象徴しています。
さて、マルセイユタロットのカップル的なカードで見た場合、1の少年・少女は「手品師」と「力」で表され、2の大人のカップルは「女帝」と「皇帝」、3の老年ペアは「斎王」と「法皇」で象徴することが可能です。
もちろん、ほかの(カードでの)考え方も可能ですから、あくまで一例ということです。
こうした3つのペアが男女で形成されるということは、形にすると、三角形(3つの区分)がふたつ(男女)というものになります。それを重ね合わせると、上下三角形での六芒星となります。
ちなみに六芒星、これは「恋人」のカードにある象徴でもあります。(人間が恋し、カップルとなる仕組みを描いているのが、「恋人」カードなのです)
このあたりを詳しく説明するのは、いつか行われるかもしれない(笑)タロットによる恋愛セミナーで、ということにしておきますが、ここでは、シンプルに以下のようなことを述べておきます。
男女(あるいは同性でも、そのような状態にある)二人の関係性において、先述した3つの層が、お互いに入れ替わっていることがあります。
具体的に言いますと、自分が少女で、相手がお爺さんという場合(孫と祖父の関係)や、自分が少年で、相手が大人の女性(つまり息子と母の関係)など、本来のペアとは異なる年齢層の存在(ペア)になっているケースがあるわけです。
これはどのカップル・ペアにおいても、一時的・瞬間的には入れ替わっているものなので、病理的なものではありません。
ただ、本来のペア性とは違う形で固定してしまうことに問題があります。
それにはどちらか、あるいは双方に、トラウマや生育歴での家族問題が隠されていることが多いです。
とはいえ、結局、心が求め合っている関係だと言うこともできます。
自分が子どもで、相手によしよししてもらいたい、叱ってほしいという願望、自分が上の立場て、下の者に慕ってほしい、尊敬してほしい、かわいがりたい(そうしてもらって自尊心・保護欲を満たす)というような望み・・・そういうものがお互いに一致しているわけです。
ある意味、別の形の相思相愛です。
自分と相手の、象徴的な年齢関係をきちんと自覚できていれば、お互いにとっては健全な形で、癒し合い、補い合うことができます。
もっと高度になれば、お互いのトラウマを浄化し合い、完全性の愛に向かって、両性具有的な結合(つまりそれは神の境地)を目指すことも可能です。
それは、マルセイユタロットでは、「戦車」を中心に語られることです。(最終的には「世界」のカードが象徴)
女性・男性、肉体レベルの結合もあれば、精神レベルの統合もあります。
よい相手に巡り会えた時、あるいはお互いを信頼し、愛によって高次へと導こうと二人が志す時、両性は3層を持ってそれそれが回転しつつも、3つのカップル(ペア)性で結合し、完全を体現していくことになるのです。
楽しい、楽な人生の選択で悩む人に
タロットの学びは精神世界やスピリチュアルなことと関連することが多いものです。
そういった世界でよく言われるのは、自己の解放です。
そしてまた、自己の解放と結びつけて主張されるケースで、楽しさや好きなこと、ワクワクするものを選択する人生というテーマがあります。
その趣旨は、結局、楽な人生、楽しい人生(「楽」の字が2回出るように、「楽」が中心観点)が送ることができるかにあるように思います。
ということは、自己の解放は、「楽に生きられるかどうか」「自分が楽しく感じられるかどうか」が論旨にあることになります。
ここで人によっては、反応がふたつに分かれてくるのではないかと思います。
ひとつは、楽な人生というのはどうよ? そりゃ、つらい人生は嫌だけど、ある程度の苦労は必要なんでは?
というものと、もうひとつは、
その通り、苦労する人生なんてわざわざする必要はない、楽しい人生、幸せを感じる人生を過ごしたいというのが一番、またみんなが楽で幸せであってほしい
という感じのものです。
つまりは、「楽」というものに抵抗を感じるか、まったくその通りだと肯定するかです。
前者はいわゆる常識や普通の感覚を持つ人に多く、後者は解放系ともいえる、自身も自由な生き方をし、スピリチュアルや精神世界の先導的・講師的な人物に多いような気がします。
わざと変な見方で言いますと、前者は後者の顧客や信者になることが多く、後者は前者を洗脳することもあります。(笑)
もちろん、よい意味でいうと、前者は後者の囚われを解放し、後者によって、前者はさらに自分の意志と生き方を肯定できる(力・フォースを解放する)ことになります。
後者の人はよいのですが、前者の人はいろいろと「楽」や「自由」について悩んでいることもあるかと思います。
そこで、その悩みに整理をもたらす考え方の幾つかを提示しておきます。
●「苦楽」を「善悪」や倫理観で考えない
苦楽を善悪や倫理の観念と強固に結びつけてしまって、困惑している場合があります。
自らが、楽をすることは悪、楽しいことばかりはありえない、楽をすると必ず罰がある(バチが当たる)、楽して稼ぐことは悪、仕事に楽はない・・・みたいな、世間が作りだした観念・ルール、一種の信仰のようなものに縛られていることがよくあります。その時その時の社会状況や時代の影響も結構あります。
ですから、その考えは本当なのか、例外はないのか、なぜそのようなルールや思いになっているのか、誰にその観念を学び、植え付けられたのか、そういうことを冷静に検証することで、「楽」そのものを中立で考えることができるようになります。
●子どもと大人(未成熟と成熟)というふたつの目で考える
自分が大人なのか、子どもなのか、つまり未熟か成熟か、独立か保護にあるかで、フィールドや分野ごとに分けて考えます。
まだ自分が成熟していない、一人前になっていないという分野では苦労が必要なことがあり、独立している部分、成熟している分野では楽を選択することができる(苦をわざわざ選ぶ必要がない)ということです。
分野は、次元やレベルに置き換えることもでき、自分の成熟した(と考える)範囲やレベルにおいては自由や楽が選べ、さらにそこから成長したり、拡大したりする時には、あえて苦労を選択したり、苦がやってきたりするものだという見方です。
エネルギーや運動性においては、圧縮と解放(によって動き)があるように、プレッシャー・圧力を苦労と例えるのなら、それをかけないと解放や大きなジャンプも導かれないとう自然の摂理からすると、成長のために「圧力」は必然といえます。それを苦として感じるかは、志や目的によっても変わるでしょう。
●「楽」を、本当の意味で自分が楽しいかどうかで見る
楽や楽しさというのを世間や他人の尺度で感じず、あくまで自分の感性でもって見るということです。
他人から見れば、それは楽しそうに見えなくても、自分にとってはそれは楽しい、やりがいがあるというものならば、それは「楽」だと考えます。
これが自分の表面意識では、まだわからないところもあります。
他人はおろか、自分でさえ、「つらい」「苦しい」と思うものであっても、それは自分の奥底の気持ちでは「楽しい」という場合もあるのです。
まあ、楽しさの質や演出が違うみたいなものでしょうか。
同じゲームでも、難しいほうをあえて選択するのが好きで楽しいという、マゾ的でへそ曲がりといえばへそ曲がりなのですが(笑)、そういう選択を魂をしたがっているという見方もできます。
ただ、ずっとそういう(表面的な苦、奥底では楽という)一生ではなく、ある程度の経験が十分にできれば、今度は表も裏も楽をしていく人生という選択に変わることもあるでしょう。
●究極(抽象)次元と個別(具体)次元を分けて考える
多くのスピリチュアリスト、特に先述したような解放系を体現しているような人の物言いは、一元的や究極次元から語っていることがあります。
高い次元、大きな次元からいえばその通りではあっても、私たちは個性を持ち、一人一人違った性格や人生観、生育史を持ちます。
よって全員に共通して通じるところと、一人一人、程度や割合、さらにプロセスとして、異なってくることがあるのも当然です。
要するに、人の言うことは鵜呑みにしたり、全部が正しいと受け入れる必要はないということです。
違和感を持ったり、反感があったりしても、それが個性としての今の自分なのです。
しかし抵抗や反感もよい刺激になるので、そのことをきっかけに、自分が成長したり、もっと解放できたりすることもありますから、悪いわけでもないのです。
自分なりのステップとやり方で、自由や楽を目指せばよいですし、その間に苦や痛さの経験があってもよいと思います。
●やり方や方法よりも、あり方や器を変える
もしくは、イエスかノーかの考えをやめる
楽を選択する人生がいいのか悪いのか、ワクワクしたり自分らしく生きたりすることがよいのか悪いのか、それは正解なのか間違いなのかというように、どちらがいいか・悪いかというイエス・ノー的な二元的考えに囚われると、結局、葛藤と争い・相克の世界に自分を置くことになって、それがそもそも「楽」ではなくなってくるという矛盾、本末転倒な状況を生みます。
また何とか楽をしたい、楽しく生きられるようになりたいと、方法やメソッドばかり探して、自分自身のあり方や自分の器、枠をそのまま放置してしまっていることもあります。
方法自体がよくするのではなく、方法によって自分を縛っているルールや枠、または小さな器を壊したり、大きくしたりすることのほうが大事です。
それは一言でいえば「統合」または「次元上昇」と言えます。
楽しいと思うことを選択するより(楽しいを選択していると人生がうまく行くというより)、苦や楽と今まで思っていたことが、どちらでもなかった、そう判定していたレベルの自分に気づいたということが(人生を楽しいと感じるレベルに自分が上昇する視点を持てば)、結局、「楽」な状態になっていることと同じになるのです。
ただ、「楽しい」「楽」を選択していくことで、自分の考えや枠、タガがはずれ、自然に次元が上昇していることもあります。行動から結果を起こすという方向性です。
それは先述したように、人によって個性があるので、選択も違ってくるでしょう。
ほかにも整理する考え方は色々ありますが、今日はこのあたりにしておきます。
小アルカナ 玉(コイン)と肉体
マルセイユタロットの小アルカナと呼ばれるパートは、4組という4つのエレメントを象徴化させた構造が中心となっています。
これに対して、大アルカナというパートもあり、タロットにおける大と小のアルカナの違いは、色々な考え方・見方がありますが、概ね、本質と具体、精神・魂と現実面での象徴の違いという分け方がされています。
大アルカナと小アルカナはともにタロットのシステムとして必要であり、両方あって象徴の完全性がなされます。
このことについて、さらに詳しく書いてみたいところもありますが、それはまたの機会としまして、今回は小アルカナの中でも、さらに現実面を象徴すると考えられる「玉(コイン)」のパートについて述べたいと思います。
先述したように、マルセイユタロットと言いますか、だいたいのタロットの小アルカナは、「4組」という構成になっており、それは剣・杯・杖・玉、一般的な英語の言い方では、「ソード・カップ・ワンド・コイン(もしくはペンタクル)」と呼ばれています。
4組にも階層・次元の異なり(いわば波動や周波数の違い)があると考えられ、中でも、玉(コイン)は、もっとも低く、かつ安定したものを象徴しています。
ただし、小アルカナ(もしくはタロット)での高い低いの次元は、いい・悪いとは別です。
「玉」は端的に言えば、物質性や形となる基本・土台を表し、多くはコインの象徴そのままのお金や経済を意味しますが、私たちを構成する基礎そのものとして見ると、まさに「肉体」を表すと言ってもよいでしょう。
スピリチュアルなことや精神世界に関心のある人は、その名の通り、心や精神にどちらかといえば、傾きがちです。
そしてセッションや相談においても、問題の原因は心や精神性(思考と感情)にあると考えたり、解決の糸口を見出したりします。
これはタロットの大アルカナ・小アルカナでいえば、大アルカナ中心の見方ですが、あえて小アルカナの範囲だけで考えれば、剣(ソード)・杯(カップ)を中心にした見方(とアプローチ)とも言えます。
確かに、心が変われば現実(行動とその結果と環境)も変わることが多いものですが、反対方向の見方も普通に成立すると思えます。
それ(反対方向)は小アルカナで言えば、「玉」からの方向となります。
言い方を換えれば、具体からのアプローチであり、お金や形、肉体や土台から原因と解決を求めるということになります。
ここで肉体をクローブアップしてみます。
私たちの問題は、案外、体と、その体に取り入れるものに起因していることがあるものです。
最近は、腸内環境や微生物の働きが、思考や感情にまで影響を及ぼしているという説や研究が、結構発表されています。
自分が考えるから、思うから、問題や結果が出ているのではなく、肉体とそこに存在するもの(微生物)たちが、私たちの思いや考えを規定し、大げさにいえば自分の世界を創造しているのだ考えることもできるわけです。
また私たち、人の肉体は、特殊な幾何学構造(数値と比率)でできており、それは古代の神殿や崇高な場所に施されてきた構造原理と同じであるという説もあります。
それが心の構造とも関係しているのですが、肉体もそうだということです。
簡単に言えば、私たちの体そのものが聖なる神殿なのです。
ところが、その神殿が、本来あるべき姿から離れ、破壊されたり(自分で破壊している)、アンバランスになったりして、聖なる波動とかけはなれた器(うつわ)になっていると考えられます。
それは自分が摂取している食べものや、周囲の影響からということもあるでしょう。
どこかに体をぶつけたり、傷を負ったり、また心理的なトラウマなどで、体が知らず知らず変形してしまっていることもあるかもしれません。
結局、肉体というベースに問題があるため、いくら知識を入れたり、思考や心の想い方を変えようとしたりしても、体・器としてのものが悪くなっているので、それに応じたものしか思考できないことになるのです。
変わろうと思っても変われない、同じ問題がずっと続いている、原因不明で、何かしらずっと体調不良があるというのも、肉体そのものと、摂取している食べもの、バランスに問題があるのかもしれません。
微生物や腸内環境にあっても、本来調和すべき割合とは異なる比率で、何かが過剰になったり、不足になったりしているおそれもあります。
もちろん、思考や環境によって影響することもあるかもしれませんが、逆に考えれば、肉体のほうが問題だから、そういう思考・状態に、どうしてもなってしまうという発想もありえるでしょう。
私も整体に通っていますが、その先生から、肉体が全体を調整しようとしたり、その時の状態を記憶したりする仕組みついて、聞いたことがあります。
肉体は、問題(怪我とか打ち身とか)が発生しても、その機能の範囲内で恒常性(ホメオスタシス)を保とうと、結局、歪な状態での肉体に変化してしまいます。
それが体癖となり、そのせいで、かえって命を削ったり、問題を引き起こして症状としても出たりすることがあるようです。
言わば、うつ病で例えると、うつにはうつになる体があるということです。(うつになってしまう体へ変化する)
それは心が原因かもしれませんが、実は、ずっと我慢していたことで、うつ状態を発生させるような肉体の形に変化してしまい、それが固定されることで、余計、うつからの回復も難しくなってしまうわけです。
そして、その原因は、仕事とか人間関係などでの要因以前に、もともと、うつ病の体になりやすい微生物バランスや体内の目に見えないエネルギー状態にもあった可能性があるのです。
うつの人が、自然の中の大地に接したり、海に入ったりすることでよくなることがあるのも、そうしたものが(自然のイオンバランス等によって)整えられるからという理由が考えられます。
鶏が先か卵か先かの話みたいですが、いずれにしても、肉体と精神(心)は密接にからんでいるのは確かです。
小アルカナでは、原因だけではなく、「現実」へのアプローチ、働きかけの方向性として、具体分野が出ます。
小アルカナを使い、「玉」ということがメインとしてリーディングできたのなら、肉体ベースから原因と改善方法を探ることもできます。
細かく言えば、玉の数カード10枚、宮廷カードの玉の4枚で、具体的な肉体とのつながりもわかるかもしれません。
たとえ精神的なことでも、瞑想をするより、実際に体を動かしたり、整えたり、食事内容と方法を変えたりしたほうが、効果が出る場合もあるのです。
精神的な相談をされる方は、自身も含めて、肉体ベースをないがしろにしない、別の意味でのグラウンディング(地上・肉体との調整)が必要なことも覚えておくとよいでしょう。(考えすぎる傾向のクライアントにも言えることです)
夢を見ること、夢の扱い
夢というのは不思議なものです。
夢(の言葉使い)には大きく分けてふたつありますよね。
ひとつは、叶えたい夢というニュアンスで使う「夢」
これは願望であり、今実現していないけれども、実際に現実化する可能性もあるビジョンみたいなものです。
それに対し、寝ている特に見る「夢」があります。
これはどこまで行っても現実ではなく、あくまで「夢」であり、リアルな生活とは別のものです。
しかし、正夢というものもあり、夢で見たことが現実になったという経験を持つ人もいます。
そういう意味では、願望の夢と眠っている時に見る夢とは、その時には非現実のビジョンやイメージではあるものの、現実になる可能性は両方ともあるわけで、実は区別がつかないものと言えるのかもしれません。
魔法や秘伝の技法には、夢見術というのがあり、夢を見ることで現実に影響を及ぼしたり、夢と現実を入れ替えたりする技術があると伝えられています。
ということは、私たちは、どちらの「夢」にしても、「夢」を見ることを忘れてしまうのは、まさに願望の「夢」に近づけなくなること、現実がまったくコントロールできない状態になってしまうというおそれも考えられます。
少なくとも、夜見る夢は意図的に見るのは(普通は)無理ですが、願望・ビジョンとして描く夢は、自分で意識して見ることが可能です。
理想と現実という例えがよくされますが、現実は理想があるから変革が可能であり、また理想は現実を経験して適応と調整がなされ、新たな理想を生む基盤となります。
理想ばかりを見ていても逃避になりますが、反対に現実ばかりを見ていても、私たちは同じ次元と場所をループすることになり、同じレベルでの苦しみから逃れられなくなります。
大人になると、ワクワクすること、叶えたいことという種類の「夢」だけではなく、夜見る夢でさえ少なくなり、たとえ見たとしても、悪夢になってしまうこともあります。
大人になることで私たちは現実を知りますが、その現実によって、あまりにも自分を閉じこめ、当たり前・常識・仕方ないこととして、あきらめてしまったり、惰性で生きたりするようになり、純粋な夢のエネルギー(を発動させることを)失い、夢見ることを忘れてしまっているのかもしれません。
それでは想像と創造ができなくなり、人(他人)の作り出す現実・ルールに縛られ、その中で起きることに反応する人生となってしまいます。
ところで、皆さんは、(眠っている時に)同じ夢を見ることはあるでしょうか。
機能的には、夢は私たちの心や情報の整理を行っているものと考えられていますが、心理的には、何か、私たちの無意識の領域を示唆しているものと言われることもあります。
特に繰り返し出てくるようなものには、短期的には予知夢のようなものもあるかもしれませんし、長期的には、その人の人生の象徴ということを表しているのかもしれません。
マルセイユタロットは表裏の意識の元型を象徴しているとされ、それゆえ、夢においても、ある種のパターンをタロットを通して分析することも可能です。
慣れてきますと、自分の見る夢がどのパターンなのか、そしてどのタロットの象徴で表させるのかがわかり、意識の状態、統合の過程、さらには自分の魂の使命というか、奥底で、この人生において経験したがっていること、あるいはどの状態が自分にとって喜びや楽しみであるのかがわかったりします。
例えば、私は学校で学ぶ夢と、その仲間と旅をしている夢をよく見ます。
私自身、そういう学びの状態にいることが好きですし、人生は学びをするもの、探求の旅をしていくものと位置づけているのかもしれません。それは孤独になることもありますが、グループで共有する喜びもあるのだとわかります。
マルセイユタロットという、日本では特殊なタロットに関わっていたり、そのマルセイユタロットにおいても、あまり取り上げられないグノーシス的な思想を中心に探求していたりすることも、自分がよく見る夢の象徴性と関係しているように感じます。
さらに、タロットと同じように、心理的に自分の中の多数の人格が、夢を通して表れることもあります。
それは自分の分身でもありますが、重要な他人・別のエネルギーとしての「型」という形でもあるのです。
心理次元の投影や分身という意味だけではなく、霊的な分離と統合のシンボルのような印象です。
自分の心の奥のことなので、あまりこういう場所では詳しく述べませんが、そのような夢の中の人物として、私の夢の中では、ある女性が登場します。
その女性との対話は、とてもつらくて苦しいのですが、夢でのその対話と経験が必要であることがなぜかわかります。
その女性は私を癒してくれるわけではなく、むしろ傷つられたり、私が助けたりするというほうが近いのですが、相手にとってはそうではなくても、会うこと自体が私には喜びでもあるのです。
心理学的考え方に囚われすぎると、ついつい心理分析に傾き、結局どれも自分の生み出す幻想やトラウマ、親とか、自分に影響及ぼした人物、また最終的には自己の像のどれかということで片付けられるのですが、霊的な観点を持つと、ことはそう単純なものではないのがわかります。(自己を超越した範囲に考察が及ぶ)
それでも、マルセイユタロットの象徴性で考えると、心理的なものとは別の見方で、自分の夢の内容や、夢に出てくる人物を推測したり、受容できたりします。
夢の中では反転作用というのがあり、これは、マルセイユタロットでは「吊るし」で象徴されますが、夢と現実ではまったく反対の表現を伴うことがあります。
このことがわかってくると、いろいろと自分のことに気づけますし、この現実も実は夢ではないのかという思いにもなってきます。
いずれにしても、マルセイユタロットを知っておくと、夢の扱いも楽になってくることがあるのです。