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タロットへの向き不向きと壁。
タロットの(タロットを読んだり、扱ったりする)才能や、タロットに対する向き不向きについて、受講生の間で話題になることがあります。
たいてい、皆さん、「私には才能がない」「タロットに向いていない」と言われるのですね。(笑)
まあ、自分自身で「自分は特別なタロットの才能がある」「自分はタロットに向いている」と言っている人は、ほとんど聞いたことがないですから、安心していただきたいと思います。たいていは、他人が言ってくれるものです。
そして、受講生でも、どういう時に「向いていない」とか、「才能がない」と嘆くのかと言えば、タロットリーディングの壁にぶつかった時、リーディングがなかなかスムースに行かない時です。
普通に考えればわかりますが、何事においても、障壁や停滞もなく、スーと上達していくことはありません。
どんな天才の方でも、高みを目指すとなれば、一度は壁にぶつかったり、進化がないと思うことがあるはずです。
むしろ、壁に当たった時というのは、裏を返せば、今までその壁の存在・レベルさえ気づいていなかったわけですから、そこまで到達した証でもあるのです。
タロット、特にタロットリーディングにおいて、私の経験から言わせていただければ、リーディングが上達・進化・発展する際には、以下のようなことが現れやすいかと思います。
●壁や限界を感じる
これは先述の「壁」にぶち当たったように感じる状態です。ひどい時には、さきほど述べたように、「自分はタロットには向いていない」「やめよう」と思うこともあります。
しかし、これもすでに説明したように、その時点での知識と技術、感性に限界が見えた時であり、またこれまで積み重ねて来たものが開花したり、ブレイクしたりする直前状態とも言えます。言い換えれば、変容する前の停滞・準備です。タロットで言えば、「吊るし」の状態です。
ここで何とか踏みとどまり、苦しいけれども、タロット(リーディング)を継続していくことにブレイクのチャンスも訪れます。
また、この状態の人で、一時的にはタロットから離れてもよいこともあります。一種の気分転換・リセットをすることで、急にアイデアや覚醒が起こることもあるからです。精神が疲弊すると、その回復自体に時間を要しますので、思いきってタロットからしばらく離れてみるのも一案です。
●これまでのやり方が通じない、積み上げたものが崩壊した感じがする
この状態は、壁に当たるようなものよりも、さらに深いものです。言わば、大変革の前触れです。
壁に当たったと感じるものは、小さな段階別の障壁と言ってよく、これはこれで大変ではありますが、まだましなほうなのです。その段階でタロットから離れても、また戻ってくる可能性も高く、戻ってきたら、案外、またスムースに続けられる場合も多いのです。
しかし、この、「すべてが通じない」「もう終わり」「ガラガラと崩れてしまった・・・」という大きな衝撃を感じる状態の時は、とても強烈なものであり、完全にタロットから離れてしまう危険性が大です。タロットから離れるというより、自分自身や人生に対しての疑問や喪失という感じさえあります。
私は二度ほど、これを経験しております。もうこの時は、本当に大変でした。信頼していたものが何だったのか、自分のやってきたことは間違っていて、すべてが空しいと感じるほどでした。
何とか、この衝撃的体験、奈落に落ちるような境地を越えると、回復、いや回復というより、死からの再生(蘇生、新しい命が宿る)というイメージで復活します。タロットで言うと、「審判」でしょうか。
この時、ステージというものが明らかに変わり、リーディングは別物として、新たなものが出現します。一見、やっていることは同じでも、質が違うという状態です。これは実は、大きな喜びでもあります。
●困難なケースやクライアントが現れる
ボランティア、プロ問わず、他人に対して、本格的に相談・タロットリーディングをしていると、ある時、とても難しいケースのクライアントに出会うようになります。
こうした場合、普通に今までのタロットリーディングをしているだけではなかなかうまく行かず、途方に暮れるような状態にタロットリーダーがなります。
結局、うまくリーディングできず、自分のふがいなさや、クライアントに満足なものが提供できなかったことを悔やみます。それでも、自分はどうすれば良かったのかがわからない・・・と言った状態です。
これもひとつの壁に当たった状況と言えましょう。この場合は、特にクライアント側から知らせてもらえるという「お告げ」のような形です。「新しいリーデイングスタイル・レベルになる時ですよ」という意味とも考えられます。クライアントは、そのために現れたメッセンジャーとも言えます。
●直感と知識の間で葛藤が起きる
これは女性のタロットリーダーに多いのですが、タロットに対して、自分の直感性で得た情報と、学習して身につけた知識からの情報とが、自分の中で対立するかのように感じ、今まで読めていたものが、固まってしまったようになって、うまく読めなくなってしまうというケースがあります。
慣用的な言い方をすれば、右脳と左脳の対立、また、女性性と男性性との葛藤とも言えます。
女性はもともと巫女性と言いますか、直感が開かれている方が多く、むしろ、何も知識がなかった時のほうが、その直感力でタロットを感覚的に読み取っていた(情報をチャネリングしていた)のですが、知識が入ることで、左脳的な論理性や整合性を求めるようになり、それは、右脳的とも言える直感性での合理とは異なるものなので、対立してしまうようになるという仕組みです。
これとは逆に、本来ある直感力を封印していたり、閉じてしまっていたりして、男性的・論理的に生きてきた女性が、タロットと接することで、女性性や右脳的なものが開かれつつあることで、その過程でフリーズや葛藤を起こすという場合もあります。
男性の場合は、タロットの知識を得ることで左脳的な論理性を上げられるので、タロットを知識的に読むことができ、つまりは、男性としてはタロットに対して、とっかかりができやすく(アプローチがしやすく)なり、リーデイングがスムースになる場合があるのです。(しかし、やがてその読み方に限界が来ますが)
どちらにしても、自分の中の女性性・男性性の統合のテーマが、タロットリーディングを通して現れているとも言え、それぞれ、逆の性を受け入れつつも、何よりも、自分の性をもっと受容することで、この不協和音状態を克服していくことができるでしょう。やはり、これもひとつの「壁」です。
まあ、いろいろと壁や一時的な限界は、誰にでも訪れるものですが、タロットに向いている・向いていないで言えば、つまるところ、タロットが好きかどうかという点に尽きるのではないかと思います。
本当にタロットに向いていない人は、そもそもタロットに出会うこともなければ、たとえ出会っても、タロットを勉強しようと思ったり、使おうと思ったりはしないものです。
あなたがいまだタロットに関わっているのなら、それは向いている証拠です。
そして、あなたがタロットが好きなのであれば、必ずタロットはあなたに、タロット的な表現で、応えて(答えて)くれるものなのです。
タロットとお金の話
私は自分で言うのも何ですが、お金儲けが苦手です。(苦笑)
心理系・スピリチュアル系の人の言い方を借りれば、おそらく「お金に対するブロック」や、「お金に関するよくない思い・心のデータ」のようなものがあるのでしょう。まあ、個人的にはそのブロックも、決して悪いことばかりではないと考えていますが。
人にはタイプや性格のようなものがあり、私自身はどうも学者や清貧な(笑)聖職者・宗教家タイプみたいなところがありますので、どうしても、お金を稼ぐというのには、ストレートになり切れないところがあります。
さて、そんな私でも、一応、タロットによるスモールビジネスを行っているわけなので、まったくお金に無縁に生きられるものでは当然なく、むしろ、もっと真剣に考えないといけない立場でもあります。
それゆえ、以前はお金に対する研究や学びも行っていました。しかしそもそも、その態度自体がすでに「学者」タイプであることをに如実に物語っているのであり(笑)、ビジネスマンなら、勉強も大事ですが、何より、どんどん行動していくのが普通です。
さて、そうしたお金の学びの中で、いろいろと気づいてきたこともありました。
まず、お金による豊かさを追求するには、物質的アプローチと精神的アプローチとがあると思います。
物質的アプローチとは、お金やモノへの投資をしたり、モノや知識を商売したりなどし、文字通り、物質・モノにフォーカスしてお金を増やす(動かす)方法です。
一方、精神的アプローチは、そのまま「精神」に焦点を当て、前述したような、お金に対する自分の(ネガティブな)思い込み、ブロックを解除したり、お金に対すアンバランスな気持ちを調整したりして、また時には自分自身を洗脳までして、お金を稼ぐことに積極的に取り組める気持ちにさせるというものです。
物質的アプローチをしていく中で、自然に精神的なブロックがはずれる場合もあれば、精神的アプローチによって、心の中のお金の思いを変えないと、何を行っても、実際に効果がないという人もいます。
もちろん、両方のアプローチを同時進行していくと、より効果的になるという人もあるでしょう。
ところで、タロットでお金を得るというテーマで見た場合、どのようなケースが考えられるでしょうか?
第一にイメージできるのは、タロット占い師での成功パターンでしょう。
あとはタロットを教える講師とか、タロットをほかの技術と組み合わせたり、メニューに加えたりして、人様の相談援助をするビジネスに用いるということや、タロットカードなどカードそのものを(仕入れて)販売するということも考えられます。
いずれにしても、ボランティアや低額の報酬を得るような趣味レベルではなく、ビジネスとしての利益を出すことが求められます。
ということは、結局、お客さんや顧客を集める「集客」という技術(知識)と実践が、タロットからお金を生み出す(お金に換える)ためには大事だということがわかります。
お金はタロット自体がコインやお札に変わるものでもありませんし、虚空から出現するものでもなく、お客さん、人が運んでくれる(買ってくれて来る)ものだからです。当たり前のことですが。(笑)
いくらタロットのことを理解している、知識がある、読める技術があると言っても、お客さんに来てもらう営業努力や行動を起こしていないと、お金は来ません(運ばれません)。
お金はエネルギーという人もいますが、もしエネルギーという表現をするにしても、実際には、お金は目に見える物質ですから、(抽象的な)エネルギーを物質化すること、物質(お金)に交換することが行われなくては、自分のもとにお金を出現させることはできません。
労働で賃金を得るという行為も、結局、労働のエネルギーが、給料というお金に変化しているわけです。
何が言いたいかと言えば、抽象的なことに留まっていたり、思考や感情が、形・物質としてまだなっていない状態のままだったりすれば、お金という物質にはならない(それはお金ではまだない)という至極単純なことです。
要するに、お金へ変換する技術・システムを、間にはさまないといけないわけです。
思いや知識だけでお金が来ないのは、まず当たり前の話として、お金に換える努力や行為、システムがないからと言えます。
次に、お金にしやすいタロットが活用できるフィールドというものがあります。
それは、より現実的であるフィールドということです。
スピリチュアルな観点では、現実的=物質的と言え、それだけお金に換えやすい状態の世界(次元)があるのです。一方、精神や高次の霊的な世界となりますと、物質に下降していく(固めていく)のに、次元の変換を何度か行う必要があります。
ではタロットを使う場合で、より現実的なフィールドとはどこか?と言えば、人々の生身の思いが色濃い(言い換えれば人間的な思いが渦巻く)場所であり、平たくいえば、今のところで言えば、占いの(学問的な占いではなく、実際の相談の場としての占いの)世界です。
ここでは現実的な悩みをもって相談に来る人たちがたくさんいます。現実的であるからこそ、お金や物質の世界とも近くなります。
ちょっと悪い表現をあえてすれば、「お金を払ってでも解決したい」「お金を払うから何とかしてほしい」と思っている人が来る世界ということです。
ゆえに、(プロの)タロット占い師になると、お金が入りやすくなります。
ただし、たくさん入る(稼げる)かは、腕次第、あるいは、この人にお金を払ってでも占ってもらいたいと思わせる技術・魅力(それは個性・他者との差異と言ってもいいです)があればになりますし、集客技術はまた別の話です。
つまり、手っ取り早く、タロットからお金を生み出したければ、すぐにお金が動く世界で活用すればよく、とはいえ、その(入るお金の)量を多くさせるには、やはりそれなりの違いを生み出したり、単価や数を増やしたりする必要があるということです。
一方、こうした占い・現実次元とは違うレベルでのお客さんを相手にする(タロットを活用した)ビジネスももちろんありますが、長くなりますので、それはまた別の機会にお話しします。
少しだけ言っておくと、どのレベルにおいても、バランスやルールはそのレベルにおいて存在し、占いや現実、生身次元の相談を超えたところにフォーカスしたタロットによるビジネスとなりますと、供給・提供側もそれなりのレベルになっておくことが求められますし、どんどんサービスや内容が抽象的にもなってきますので、詐欺や幻想でだまされる(だます)世界と見分けがつかなくなってくる危険性もあります。
ともかくも、タロットに限らず、お金を稼ぎたいという人は、今の(経済社会)世界においては、人間の感情・欲求を見て、生身や本音、現実次元の世界に焦点を合わせておくことも大事かと思います。
牢獄のおとぎ話
今回はおとぎ話風の話をします。マルセイユタロットとも関係する話です。
内容については、正しいか間違いかの考えで判断しようとすると混乱するかもしれませんので、本当に、おとぎ話、そんな話もあるのね、くらいの感じで読んでいただければいいかと思います。
それでも、この話を読んで、もしかすると、楽になったり、共感を覚えたりする人もいるかもしれませんし、反対に反感や違和感を覚える人もいるかもですが、それもまた人それぞれで、どれが正解というものでもありません。
さて、この世の中について、皆さんはどのように感じていらっしゃいますか?
今幸せな人は、すばらしい世界、生きいてよかったと心から思える世界かもしれません。反対に、不幸でつらい状況にある人は、まさに地獄のような世界と感じていらっしゃるでしょう。
それは、個人ベース(の状況や感情)で見た世界と言えましょう。
では客観的に、世間のニュースや、自分以外のこと(社会や国、世界規模)で、これまで起こってきたことを思い返してみるとどうでしょうか?
よいこともたくさんありますが、どちらかと言えば、理不尽なこと、悲惨なこと、納得できないことのほうが多いのではないでしょうか。
もっとも、報道されることは「事件」であることがほとんどなので、その事件も、よいニュースよりも、悪いことのほうが非日常感・インパクトがありますから、マスコミやネットから流される情報は、ネガティブな世界をイメージさせてしまうこともあると思います。
しかしながら、世界はすべての面で完璧であるとは言い難いところがあるのも確かです。
ということで、仮にこの世界がすばらしい天国のような世界ではなく、逆に「牢獄」のようなところだと仮定してみます。(思いきっりネガティブですが・・・)
言わば、この世界は地獄のようなところだとする説です。そしてここからは、実際の私たちの世界というより、おとぎ話的に、ある架空の世界の話だと読んでいただければいいかと思います。
さて、この世界は牢獄の世界だとしても、実は、ほとんどの人は牢獄に入れられている自覚がない状態です。
牢獄は巨大な牢の中であり、一見したところ、自分が牢屋に入っていることなどわからず、むしろ自由に選択も可能な、広々とした、無限の可能性に満ちた世界だと錯覚しています。
事実、一応、牢獄といえど、モノにあふれ、囚人たちも生産しており、それらが流通もしています。そしてその流通をさらにスムースにするため、牢獄内だけに通じる価値券(お金)のようなものがあり、それを集めること、たくさん持ったものが、牢屋内で強い権力を持ちます。
とはいえ、価値あるモノを生産する技術をもっている人、発見した人も、それなりに尊敬されることになります。
こうした牢獄内で人々は暮らし、喜怒哀楽の感情を味わいながら、暮らしています。
ところで、自分が牢獄内にいることに気づく人も、ある日現れます。よく見ると、自分の住んでいる世界の果て(限界)に、格子や壁があることを発見したわけです。
自分が牢獄にいることに気づいた人は、それはそれは大層衝撃的な出来事だったわけですが、しかしながら、どうあがこうと、自分が外に出られないことも同時に理解しました。格子が非常に堅牢・強力なうえに、牢獄を監視してる牢番たちもいたからです。
そこで、今度は逆に、牢番とコミュニケーションし、牢屋内における自分の地位の向上、便宜を図ってもらうため、牢番と交渉するようになりました。
牢番もなぜか、そういう囚人たちを特別扱いし、いろいろと道具とか知恵を格子越しに与えました。しかし、牢屋から出ることだけは絶対に許さず、その話をすると、はぐらかされます。
実は、かつて牢屋の中は、モノもあまりなく、生産する設備や、さらにはモノを交換する券などもなかった時代がありましたが、牢番の介入により、次第に便利な道具が牢獄内にもたらされるようになり、牢獄内でのよい生活が営まれるように、様々な知恵も提供されていたのです。
その結果が、今の牢獄内の人々(囚人)の(便利な)暮らしでした。
牢獄内を自覚しながらも、牢番との癒着で自分たちを特別な存在にしている者(特別囚人)たちは、牢獄から出られないことはわかっているので、この権力や地位が脅かされないよう、世界(牢獄)の格子を隠し、限界に近づかせないように施しました。
こうして、牢獄内の多くの人々は囚人としての自覚はないものの、一応、モノと牢獄内での自由が許される世界で、それなりに過ごしていくことになったわけです。
ただし、やはり牢獄であるので、理不尽なこと、ひどいことも起きます。この中では争いや奪い合い、時には殺し合いさえも起き、価値券を得るために、何でもOKの人も出ています。
中にはそれが嫌で、平和運動をしたり、人々の調和を訴えたり、広い牢獄内で隠遁のような生活(引きこもり)を送ったりする人もいますが、どこに逃げようと、何をしようと、結局は牢獄内の中の話となります。
一方、普通の人(囚人)は、牢獄にいる自覚はないので、この世界こそすべてだと思い、人々は牢獄内で幸せを感じるための勉強をしたり、技術を磨いたり、成功を収めようと努力したりします。
それらすべては、牢獄内の生活をエンジョイしたり、充実したり、安心させるための手段・技術・知識となっています。
こうした牢獄内の成功のための知識や技術の売り買い(価値券によってなされる)もさかんです。また精神的なことでも、牢獄内(自覚はなく)で、いかに安らかに過ごすかのテーマで語る人もいます。
さらには、「神」という概念を入れることで、牢獄内が神による恩寵の場所、神より与え賜れた場所として、牢獄であることをますます忘れさせられるようになります。
さて、かつて牢獄内の果てまで冒険し、この世界が牢屋であり、中の人は、自分も含めて囚人であったと気づいた人々の内には、さきほどのように、牢獄の支配層を目指す者と、牢獄の実態を一般の囚人であるほかの皆にも教えようとする者とがいました。
後者は牢獄からの脱出(脱獄)をあきらめておらず、何らかの方法はあるはずと探求を続けていく一派となります。
前者は、そんなこと(脱獄)は無駄なので、むしろ牢番と同調し、現実を見て、牢獄の中の暮らしを充実させたほうがよいという一派になります。(この中にも、支配層になる自己中心的な派と、とにかく牢獄内の生活(一般の人々の暮らし)をもっといいものにするため、牢番からの情報を利用しようとする他者貢献的な派などが出ます)
おそるべきことに、囚人は死んでも、牢獄から出されることはなく、魂も再び、牢獄内に転生してくる構造となっています。中には一部、牢番に転生する者もあるという話ですが・・・
果たして、牢屋とは何なのか? 牢番とは何者なのか? そして、この牢獄はなぜ作られており、囚人たちはどうして囚人なのか? なぜ、牢獄内がこれほどまでに自由で、モノが多様にあることを許されているのか?
脱獄は許されないのに、牢番が牢獄ライフをよくするために、知恵や技術を一部貸してくれるのはなぜか? 仮に脱獄すれば何が待っているのか? 牢獄(牢屋)を脱出しても、また新たな壁が現れるのではないか? 囚人たちの真の自由とはどのような状態なのか? 囚人(無知)でいることのほうが幸せではないのか?・・・など、
このおとぎ話には、いろいろ考えさせられることがあるのではないかと思います。
牢獄に天国と地獄があるのか、はたまた牢獄外にあるのかも、想像してみると面白いでしょう。
すべては真実、すべては嘘と見ると・・・
マルセイユタロットの図像を見ていると、これまで蓄積したり、信頼してきたものをバッサリ切り落としたり、疑ったりするような内容と思えるカードがあります。
図像を並べていくと、それが一連のストーリー、流れの中でのポイントとなっていることがわかります。
このことは、現実的な意味においても、なかなか重要な示唆があるのではないかと思います、
私たちは信じているものがあるからこそ、前向きに、ポジティブに、あるいは信念を持って生きていけると言えます。
しかし、その信じていたもの(者ということもあります)が嘘であるとわかったり、それほど全面的に信用できるものではないとわかったり、今までの経験がまるで役に立たない事態に遭遇したりすると、かなりのショックを受けます。
中には人生が終わったかのような、何もかも信じられない気持ち、すべて投げやりになってしまう人もあるかもしれません。
しかし、考え方によっては、このことも興味深いことになるのです。
ここでもし、すべては嘘であるか、すべては真実であるか、または、すべては虚偽と真実が織り混ざったものか、そのうちのどれかが世界であると見ていくと、意外に納得できるものになってきます。
このうち、ちょっとした悟り感と言いますか、一見わかった風なものですと、一番最後の、いろいろなものが混ざったのがこの世界であるという認識が出るのかもしれません。
実は、「間(あいだ)を取る」とか、「中間で落としどころにしておく」というのは、何でも無難に説明できたり、時には逃げの理屈にも使えたりするものでもあります。(笑)
だいたいにおいて、「極端」というのは間違っていたり、バランスを欠いたりしたものとして非難されがちです。
それでも、ここでは、あえて「極端説」を採ってみましょう。
すなわち、すべては嘘の世界と見るか、すべては真実の世界と見るか、です。
この両方は、まったくお互いに逆説となりますが、実は、反転して同じものと考えることも可能です。
それは、「すべてが嘘という意味での真実の世界」「すべてが真実であるというように見せかけている嘘の世界」という言い方をすれば、少しわかってくるのではないでしょうか。
すべてが真実だとすれば、一人一人、そしてあなた自身が思ったり、考えたりしたことはすべて事実であり、真実だとなります。しかし、真実ではあるのですが、その考えたこと・思ったことに疑いを持つこともまた真実になります。
要するに、あなたの思い(思うという行為)が真実であり、思った内容自体は飾り・演出・題材でしかないという考えです。となると、演出の元そのものが本当の真実であり、私たちの経験している世界自体は嘘も真実もないということになります。
ただし、私たちの(見たり、経験したりしている)世界が演出上のものだとすると、演出された中の世界では真実とか嘘はあってもおかしくはないです。
わかりやすく言えば、映画やドラマのストーリーの中では、嘘もあれば真実もあるということです。
よく探偵ものとかでは、最初は嘘の証言とか誤解の目撃談とかがあって、探偵が調査と思考を巡らせて、真実や真犯人がわかるというようなストーリーになっていますが、この探偵ものの世界(ストーリー)の中では、確かに真実と嘘が明確に存在しています。
しかし、その物語を見てる私たちのほうでは、物語の中の真実や嘘が何であろうが、関係はありませんし、嘘も真実もないと言えます。
そして、ここからがまた面白いのですが、そうは言っても、物語の中で嘘と真実が分かれていないと、見ている側は面白くありませんし、物語を楽しむ(ドキドキする)意味では、物語の中の嘘も真実も、見ている者に影響は与えています。
まあ、嘘なのか真実なのかわからないストーリーというのも、それはそれで面白いのですが、どちらにしても、嘘であれ真(まこと)であれ、「これはいったいどういうことだろう?」とか「これは嘘だったのか!」とか、「うわ、真実はこれか!」みたいな心の動き・反応があるのは、見ている側にあるのは確かです。
つまりは物語の真実・嘘などを確かめるより、見ている側のほうに感情の動き、思考を巡らす動き、それらが起こることが重要なのではないかという洞察です。
大元の真実はもともとありつつも、それそのものの(大元の)世界にいることは、すでにすべで真実の世界なので疑いようもなく、ただ純粋にひとつのものだけになると考えられます。
しかし、大元から演出された物語の世界では、一人一人においても、また信じること(内容)も、考えること・感じることの違いによって、虚実が次々と変転していきます。
言わば、本当の真理と物語上の真実(嘘も含む)は別物だということです。
ここに、私たちが現実世界で生きる意味、私たちがこの(現実の)世界に浸かる(経験する、楽しむ、喜怒哀楽を味わうことの)意味があるのだと考えられますし、同時に、この世界を対象として真理を見ようとしても、物語や個人的な真理にたどり着くだけであって、それは大元の真理ではないということになります。
ということは、いくら探究を自分の(この世界の対象とするだけの)経験からしていこうとしても、グルグルと演出の中で回り続けることになります。(マルセイユタロットの「運命の輪」が象徴的です)
だから、この世界を対象としない、さらに現実を超えた思考、感覚が真理の探究では求められます。しかし、それは、そういうことを望む人に言えることであり、普通は、この演出の世界を楽しむことのほうが重要になってくるのかもしれません。
それで、最初に戻りますが、私たちが信用していたもの、信じて疑わなかったもの、または逆に、とても疑わしいと思っていたもの、嘘だと信じていたものから反転(逆転)するような認識に至ることがあった場合、それは二元の統合のチャンス、もしくは演出された世界のルールに、ほころびや穴を発見することにつながるかと想像されます。
つまりは、大ショックな価値転換があることは、真理到達の意味では大きな恩恵になるのではないかということです。
マルセイユタロットでも、大きな変革を示唆するカードたちは、そのようなポイント(の位置)に登場します。
そして、私たちは、大元の真理と、演出された世界の真理(ルール)とを見分ける能力、それぞれを感じとる力があるものと推測されます。
別の言い方をすれば、認識レベルの違いによる複数の自分がいるということです。
従って、どのレベルに主にフォーカス・同調しているかによって、真理や正しさの意味は異なってくることになるでしょう。
通常はなかなかのその違いを自覚することも困難かと思いますが、混同・混沌から、まずは分離を始め、やがて再統合をしていくことが道筋となります。まさに、錬金術で言われるところの、「解体して統合せよ」なのです。
運命が決められているという考え
人間の人生(一生)の仕組みを知ろうと努めていくと、やがて陥ってくるのが虚無感のような、ニヒリストのような、空しさ、投げやりな気持ちかもしれません。
人は物心がついてきますと、自分というものを強く認識するようになります。
幼く、まだ未熟な状態では、せいぜい母親とか父親、兄弟、家族、自分に関わる周囲の人たちとの区別がぼんやりつくくらいだったものが、学校へ行き出し、多くの他人と接する世界に放り込まれると、自我(自分を意識する心)の成長(発達)とともに、その分、他人との違いも意識されるようになります。
すると、「どうも人はまったく同じではない」「不平等な存在(一人一人違うもの)だ」ということが、現実的にわかってきます。
すごく運動神経がいい子もいれば、頭がよくて勉強のできる子がいる、お金持ちの裕福な家庭に育っている子もあれば、とても貧しい家の子もいる・・・すでに学校時代から様々な違い、もっといえば不公平感を味わうわけです。
だからこそ、逆に学校の先生たちの言葉や、理想的な教育論では、「人間誰しも平等」ということを強調します。
そして、さらに成長していくと、学校から社会に出ます。
そこでは、さらに過酷な不平等感を経験しますが、成熟していくことで、平等の意味合いも変わり、権利の平等性と生得的な区別(差異)との理解も増し、きちんと両者を分けて考えることができるようになります。(残念ながら、この区別が、まだついていない大人たちもいますが)
ここまでは、常識的な範囲内での「差異」とか「平等」への意識(への成長)なのですが、もっと人間について見ていこうとすると、目に見えない領域や、魂のことまで考えるようになってきます。
そこで、正しいかどうかは別としても、輪廻転生(それに付随するカルマ)のことや、前世や未来世、つまり一代限りの「自己」を超えたものを意識するようになるケースがあります。
こうして、現実的な意味での人間の一生を、通常の時空感覚(の意味)からだけではなく、超時空的な長期的・全体的視野を入れるようになりますと、果たして、人の平等性や違いというものは、本当はどういう仕組みや規則で決められているのか、わからなくなってきます。
そこで、卑近な例でいえば、人の運命とか生まれ持った気質などを(占い、その他の理論から)学ぼうとする人もいるわけで、そこから見れば、やはり人は生まれながらにして平等ではなく、あらかじめ決められた個性をもって生まれてきており、しかもそれを背負いながら一生を過ごしていくということを知ります。(何度も言いますが、それが正しいかどうかはわかりませんが)
人の生まれながらの性質を知れば(それがわかる技法を身につければ)、最初のうちは興奮し、まるで自分と他人の人生(一生)や、成功(人生における幸せ)のポイントがわかったかのようになって、勝利宣言をするような自信を持つ人も現れます。また、実際に、そういうコツをつかみ、その人の思う、よい人生をつかんでいく人もいるかもしれません。
しかし、さらに学びと実践を繰り返していくと、どうも、理論だけでは済まない(収まらない)事象、さらには運命とかカルマの問題だけでは理解できない部分も出てきます。
あるいは、逆に、人の一生は、最初から決められており、その運命(宿命)からは逃れることはできないと悟ってくることもあります。
ここでいう、「運命から逃れられない」というのは、自由意志と、ある程度の選択範囲を持ちつつも、大きな枠のような流れ(方向性・目的)には逆らえないということを意味しています。もっと別の言い方をすれば、今生で決めた大目的をはずれた選択はできないということです。
マルセイユタロットでこのことを考えた場合、「運命の輪」の輪から逃れられないのが普通であると言ってもよいでしょう。
「運命の輪」は数の上では10であり、この10には数秘的には12に至る前の、現実の構成の完成という象徴性があり、平たく言えば、現実からの支配は10の中にあると表現されるものです。
これをネガティブにとらえれば、結局、人は決められた運命の中でしか過ごすことができない、それがひとりの人間の人生だとなります。
※(ただし、決められた中でなら、選択の自由性・平等性・多様性はあります)
この認識に至ると、一番最初に記したように、空しさも現れてくるわけです。「どうせ、人生は決められているのよね」と。
私もこの罠にはまりました。グノーシスを探求している者にとっても、陥りやすい罠です。
この罠から今もって完全に脱出しているとは言い難いですが、けれども、これは罠でありつつ、実は恩恵でもあるのだと気がついてきました。
マルセイユタロットでは、幸いにして、10「運命の輪」の次にも、まだまだカードが番号的に続きを示しています。大アルカナで言っても、やっと半分なのです。
ということは、先(進化・さらなる認識のレベル)はあると言えます。
つまり、運命の支配を超える道があるわけです。それはまさに完全なる自由への道と言っていいでしょう。
これが一代の人生で達成できるのか難しいかもしれませんが、少なくとも、運命や決められたことだけではない世界があるのは希望でもあります。
しかし厳しい言い方をすれば、そういう世界観は現実離れしているものであり、さきほど述べたように現実を象徴する「10」を超えてしまうと、それは遊離、非現実、形のない精神や霊の世界に入ることとも考えられます。
それは現実的な意味で幸せといえるのか? 目指すべきものなのか?と問われれば、難しいところではあります。妄想と紙一重かもしれないのです。
ともあれ、人にとって(運命が)決められている(決めている)ということならば、その意味ではまさしく人は平等なのです。
しかし、決めたこと、決められている内容が一人一人違うと言えます。平等な中でも差異があり、それが個性となって表れ、さらには、「運命の輪」の中での自由選択と行動によって、(輪の中の)結果も違った人生になるでしょう。
それでも、輪の中を充実させることが、先に進む糧になるのだと考えることも、タロット的に可能なのです。ここでは詳しく言いませんが、私が得たタロットからの知見では、そう説明されるのです。
それを知った時、虚無感は少なくなり、今、この生きている人生が大事であることを、別の意味で悟ってきます。虚無感を受け入れながら、希望を見出す世界へと、さらに探求を進めていると言ったほうがいいでしょうか。
そして空しさは、自分の運命(が決められている)というものに対してではなく、自分一人だけの成功とか現世利益的享受の価値観のほうに対してになり、自身の中で、ある種のシフトが置きます。
なるほど、マルセイユタロットでは14の「節制」に向かうというモデルで、10を超えると示されているというのがよくわかります。
言いたいことは、たとえ運命が決められていても、また一見、それに支配されているようでいても、人は希望を持つことができるし、今の人生を生ききることには重要な意味と価値があるということです。
むしろそうしないと、逆に本当の悪い意味で、運命に支配されるようになってしまうのです。
そして、運命の「枷(かせ)」は、実は、大きな目的を果たすための仕掛けでもあると言えます。その気づきが自らの運命の枷(かせ)を、はずしていくことにもつながってくるでしょう。
