ブログ
答えはあなた(自分)が知っている(のか?)
タロットリーディングや、その他、心理的・精神的・スピリチュアル的な相談の世界でも、よく言われているものに、「答えは自分が知っている」というものがあります。
相談を受ける側・アドバイスする側から言えば、「答えはあなたが知っているのですよ」という言い方になります。
では仮に、答えを自分(クライアント・相談する側)が知っているのなら、なぜ悩んだり、相談しに来たりしているのか?という素朴な疑問と言いますか、矛盾に行き当たります。(苦笑)
まあ、これに対しても、よくある回答(まるでQ&Aみたいですが・・・)で言うのなら、「答えは知っていても、それに気づくことができていない」ので、アドバイスする側は、その「答えに気づいてもらう導きをする」ということになります。
では今度は、なぜ、答えは知っていても、気づくことができていないのか?、そしてまた、相談を受ける側・アドバイスする側は、それに気づかせることができるのか?という質問も出てきます。
それには、主に、ふたつのことが考えられます。
そのひとつは、答えというものが、必ずしも、顕在意識、つまり自分が明らかに認識している(自覚し、わかっている)意識のところにあるとは限らないということ、
そして、もうひとつは、答えが複数(の可能性が)あることです。
前者は説明するまでもなく、真の答えの存在場所が、自分の表面や、今自覚している意識のところにはないので、いくら自分が探しても見つからないことになります。
ところが、そこにアプローチできる手法を持って他人が臨めば、一緒にそのありかまで探求することができ、その(答え)の発見が可能となるわけです。
この時、相談を受ける側は、いわば密林や洞窟にある宝の場所までガイドする役になりますが、ガイド自身が宝そのものを知っているわけではなく、今までのパターンなり、知識なり、技法なりで、宝のありかを探索したり、予測したりする技術に長けているということなのです。
そしてこの密林や洞窟、そこに埋もれている宝、つまり真の答えは、まさにクライアントの中にあるのですが、自分の中にあっても探索・発見する方法がわからないので困っているわけですね。
胃の中に何か詰まっているのは感じるけれども、医者に胃カメラなどで診てもらわないと確認できないみたいなものです。(笑)
従って、誤解なきようにしたいのは、ガイド側が答えそのものを知っているわけではなく、それはあくまで推測や予想の範囲のものであり、ガイドさんが素敵なアドベンチャーのサポートはしてくれても、宝物自体まで用意してくれるわけではないということなのです。
仮に宝物が用意されていても、それはあくまでガイドが用意した仮のもので、あなた自身は、本当の意味では納得できないものです。
ここに依存の問題を指摘することができます。
次に、答えがあっても自分ではわからない理由のふたつ目、答えが複数あるということについてです。
人はすっきりしたいがために、数学的回答のように、ひとつの絶対的な答えがあると信じ、それを求めます。
どちらが正しいかとか、どれが正解かみたいな思い方で、それは現れます。
しかし、一人の人間にも、実は複数の人格(性格・パーソナリティ)があり、さらには低次・高次のような、人間的部分と霊的部分、天使性と悪魔性、動物的(エゴ的)部分と友愛・共助的部分など、様々な多層構造があると言えます。
そして、それぞれに答え、回答を用意しているのです。
マルセイユタロット的には、一人の人間の中に、22人の主要人格がいると例えることができ、さらにそれが4つの性質をメインにして、56という現実フィールドに分離されていきます。
こうした複数のあなた(クライアント)が、それぞれ自分の答えが正しいと争い、葛藤しているわけです。
言っておきますが、これはどれも正解なのです。(少なくとも間違いではない)
しかし、一応、多くの人格の代表格である日常のあなたは、ひとつの回答ですっきりし、「正しい」と思える答えにしたいのです。
実は、自分の中で、複数の人格と話し合い、協議していくことで折り合いをつけること(回答を選択すること)ができるのですが、重大な選択と思えば思うほど、そして経験則や従来の知識では対応できない混乱した事態が起きれば起きるほど、人格の分離が激しくなり、何人もの強い主張者が自分の中で言い争うことになります。
この状態では、普段の自分では、収拾をつけることが難しくなります。
よって、他人の力を借りることになるのです。
他人といえど、同じ人間、人類としての共通の人格や思考・感情パターンを持っているので(ユング的には「元型」となります)、一緒に対応していくことができるのです。そして他人だからこそ、文字通り、客観的になることができます。
結局のところ、他人目線を通じて、自分の中の複数の答えを整理し、今回、納得できる選択を、自分ができるようにするわけです。
すでに自分の中で話し合いをして、薄々出しかけていた(選択しかけていた)ことを、他人によっても確認し、後押しを得るという意味もあります。
ここまで書くと、タロットがなぜ心の整理に役立てることができるのか、そして他人リーディングで人をサポートできるのかが、わかると思います。
今までの説明では、つまるところ、答えはやはり自分(クライアント)が知っているということになります。
不思議な言い方をすれば、知っているけれど知らない、知らないけれど知っているということですね。(笑)
実は、これとは別に、他人が本当に答えを知っているということもあり得ます。
まず、当たり前ですが、他人のほうが実際に見聞したり、経験していたり、知識的・数学的答えを知っていたりしたら、自分ではなく、他人が答えを知っていることになります。
バカらしいほど当たり前ですが、こんなことすら、下手にスピリチュアルに傾倒してしまうと、わからなくなってしまうこともあるので注意です。単純に自分が知らないことはあり、それは知っている人に聞けば早いということです。(笑)
なるほど、自分の神性はすべてを知っているかもしれませんが、現実の人間のあなたは、知らないことが実際のフィールドではあるのです。
だからこそ、人は教え教えられ、助け合って生きています。
そしてまた、他人があなたの鏡になっていたり、反転した自分存在として、別の答えが用意されているということもあります。
この場合、言ってみれば、自分に答えはあるようでなく、むしろ、他人を介することで本当の答えが「創造される」という形になります。
そのようなことから見れば、自分が答えを知っているとは、完全には言い切れないものなのです。
「13」 もっとも大切なものを失う時
マルセイユタロットに、名前のない数だけの「13」というカードがあります。
そのあまりに強烈な図像の印象から、ほかのカードで、この数をもったカードは「死神」とさえ呼称されることがあります。
しかし、私たちマルセイユタロットを扱う者は、事実としてカードに名前が記載されていませんから、「名前のない13番」とか、「13」として数で呼ぶことになっています。
名前は実はかなり重要で、皆さんにもお名前があって、名前で呼ばれることは個人を特定されるようなことにもなりますし、親近感を抱いたり、逆に親しくもない人に呼ばれることは嫌悪感が出たりと、名前を呼ぶということは強い影響が出るものです。
神や悪魔(その眷属)を、正式な名前で呼ぶことによって、そのエネルギーを自身のものにすることができる、支配することができるとさえ言われています。
ということで、名前は「性格・性質」、「力」そのものでもあるわけです。
ですから、「死神」と言ってしまうことは、このカードを不吉なものに結びつけることになるのです。
それでも「13」は、名前を呼ぶことが出来ないほど、「13」そのもの(13のカードの本質)は、強力なものでもあります。
しかし、畏れ多いものではある反面、その強力なエネルギーは、私たちを大きく変えることに寄与します。ゆえに、このカードは、積極的な意味において、変容と次元の上昇に関わっているといえます。
また大きな鎌を持っていることが「13」の象徴図の特徴であり、この鎌は、つまりは農作業の刈り取ること、収穫をイメージさせます。
私たちはついつい、この鎌を武器や殺傷道具ように思ってしまいますが、本来的には収穫の道具なのです。ということは、その大地には、何かが実っているということになります。
同時に、やはり鎌は刃物でもあり、刈り取るだけではなく、削ぎ落とすということも考えられます。削ぎ落とされながらも実るものという、一見矛盾めいた象徴もあります。
ところで、私たちそれぞれの人生において、つらいことは必ず誰にもあるものです。
それが病気であったり、経済的なことであったり、家族の心配ごとであったり、人間関係や恋愛のことであったりと、まさに様々です。
そして、人生のターニンポイントに、喜びごとと苦しみごとによるものがあります。
その中で、苦しみごとの場合において、もっともつらいもののひとつが、自分にとって一番大切だと思っていたものを捨てたり、離れたり、関わることが許されなかったりしなければならない事態に陥った時と言えるかもしれません。
それはもう、もっとも大切に思っていたものものの喪失ですから、強烈な落ち込み、気が狂うほどのつらさであり、自分でも信じられない事態で、世界の終わり、人生が終わったかのような思いを持つようなことと言えるでしょう。
人によっては、このようなことが、不幸にも発生することがあります。
これがマルセイユタロット的には、「13」の象徴事件として表されます。
「13」の象徴レベルにも数ありますが、やはり「13」を実感するには、そうした、もっとも大切なものを失う体験が近いのかもしれません。
しかし、さきほど、「13」の鎌は収穫でもあるといいました。何より、先述したように、「13」は変容であり、変革であり、自分の次元を上昇させる象徴でもあります。
もっとも大切だと思っていたものを捨てる時、もっとも大切な新たなものを得ることができるのです。
これは失ったものが与えてくれる場合もあれば、まったく新たなものとして創出されてくる場合もあります。
「13」という数には、「3」という創造性を象徴する数が含まれています。
実は失うことや得ることは、形や意味としてそう感じるだけで、本質的(究極的)には何も失っておらず、何も得ていません。
しかし、個々人の物語にあっては、それは確かに失ったり、得たりしているものです。ということは、その波の経験こそが大事だとも言えます。
かと言って、失うことと得たことが、個人として意味のないものというわけではありません。経験した内容はその人にとって、とても大切で、かけがえのないものです。
肉体と感情をもった、あなたという「個人」でないと経験できない、貴重なものなのです。
失った、もう元には戻ることのできない状況に、とても悲しく、つらく思う日々はあるでしょう。それはすぐに回復できるものではありません。もっとも大切なものだったのですから、当たり前です。
ですが、少しずつ、時間とともに(失い得るという感覚は、時間と空間の感覚があるからこそ生じているものなので、時間は現実において、重要な回復ポイントになります)、あなたが失った代わりに新たに得たものや、まったく新しい自分の境地として、モノの見方や愛の次元が変容していることに気づくでしょう。
たとえ失ったこと、そうならないといけなかったことが不幸と感じたとしても、不幸によって、この世の根本的な問題に気づき、魂的に覚醒していくチャンスが与えられていくことにもなります。これは、「グノーシス」(神性への覚知)とされているものでもあります。
「13」には、マルセイユタロットの秘伝図から、どうしても「審判」のカードとの関連が出ます。
「13」は言わば、「審判」とのセットにて、その象徴性が生きるとも考えられますし、「13」の次の数を持つ、「節制」ともやはり関係します。
「審判」も「節制」も天使の絵図が描かれていることにも注目です。
このように、タロットの象徴図をもって、個々の人生に当てはめれば、つらいことも、転化・変性・昇華させていくことができるのです。
タロットを学ぶことを決める際に。
9月に入りました。季節は秋へと移行し、過ごしやすい日も増えてきます。
暑い夏が去って行き、気力体力も回復・充実してくる人も多く、学びの季節でもあり、タロットを学習してみたいという方もいらっしゃるでしょう。
私のほうでも、秋から基礎講座など予定していますが、私の講座は個人対象や少人数がメインで、当方で日程を最初から組んでの募集発表もありますが、どちらかといえば、受講希望される方のスケジュールに合わせて講座を組んだり、一般に募集したりする傾向がありますから、受講を希望される方は、まずはお問い合わせいただくとよいかと存じます。
基礎講座は10月からの大阪での開講を予定しています。ほかに入門的なものも計画するかもしれません。これは地域はまだわかりません。希望が何人かあれば、東京開催も検討したいと考えています。
また、内容的には基礎講座に該当するスカイプでの講座も随時募集しております。こちらはマンツーマンで、教室に通うことなく、自宅で学べますので便利です。スカイプ講座は、東京や神奈川など、関東の方がよく受講されます。
いずれの講座も詳しくはこのHPの「教室・講座」をご覧ください。
さて何度かここでも書いていますが、特にタロットには縁や相性というものがあり、また絵柄で象徴されたカードということで、描かれている絵の雰囲気が、自分に合うかどうかということが、結構、選択の重要なポイントとなります。
ただ、最初は、合うかどうかもよくわからないところもあるでしょうから、少なくとも、タロットの画像を見て、気持ち悪さや、強い違和感がなければよいかと思います。
たとえ最初に少々の違和感があっても、カードについて学んで行き、自分がタロットにふれていくようになると、印象が変わってくることもあるので、必ずしも、最初の感覚が決定的というわけでもありません。
私の例でいいますと、たまたまマルセイユタロットから入り、そのままずっとマルセイユタロット一筋だったので、ほかのタロットについてはふれることがほとんどなかったという状況があります。
この前の「タロットとの出会い」の記事でも書いたように、もともとタロットに対する印象はあまりよいものではなく、むしろ嫌っていたところがあったのですが、後でわかりましたが、それはマルセイユタロットの絵柄のイメージではなく、ほかのタロットからのものでした。
そもそもマルセイユタロットは日本ではマイナーなので、あまり絵柄自体を見かけることは少なかったからです。
ということは、もし、マルセイユタロット以外のタロットの案内とか講座があったとしても、私はおそらく関心を持ったり、講座を受けたりする可能性は少なかったと言えます。
マルセイユタロットの講座を最初に受けた時、私自身は、そのカードの絵柄の印象に違和感はありませんでした。だから続けることができたと考えられます。やはり、絵柄の印象は重要なのです。
ですが、カードコレクタータイプの人のように、もうとにかく絵のついたカードが大好きで、見ているだけで幸せという人も中にはいらっしゃいます。
こういう人は絵柄の雰囲気・質にはこだわりがなく、むしろ、いろいろな種類にふれたいと思うくらいですから、別にどんなカードでもよいでしょう。
その分、多くのカードの講座を学ぶことにもなるでしょうが、それはまたその人の趣味・個性であり、たとえば将来、こういうタイプの人は、カードリーダーというより、コレクションを活かしてカードを販売したり、骨董品屋のようなお店を開いたり、手品師や大道芸人のように、複数のカードを使いこなす占い、カード芸などして、「芸人」みたいな形で人々を楽しませることもできるでしょう。
次に、これも以前書いたことがありますが、タロットを独学で学ぶか、先生・講師について学ぶかの選択があります。
ただ個人的には、独学は難しいのではないかと思います。
これは何事においても言えることで、タロットは一種の芸事みたいなところもありますから、個性的に自分でできることもあるとはいえ、基礎・土台は誰かに学んだほうが結局は理解と実践において早いと思います。
そして芸事的であるので、先生の選択も重要になってきます。
中でも、どのレベルにしろ、最初に学ぶ(選択する)先生の影響は非常に大きく、これは自分でも気がつかないところにも関係しており、「鳥が卵から産まれて最初に見たものを親と思う」というのに似ているくらい、最初の先生の教えとスタイルは、かなり、学ぶ人に影響するものです。
逆に言えば、先生側でも、強い影響が生徒さんに及んでしまうことに注意したり、意識したりする必要もあると言えます。
まあ、しかしどんな先生に学んでも、結局は自分がどうしたいのか、タロットを学んで、自分としてはどう活かしていきたいと考えているのかということが大事で、それさえしっかりしていれば、混乱することはないでしょうし、複数の先生に学ばれても大丈夫でしょう。
あと、付け加えておきますと、学校とか組織になっているところは、先生が複数いたり、ローテーションを組んで教えたりしていて、しかも資格取得や進級と段階制度を取っているところも多く、自動的・機械的に学ばされないよう注意しておくことも必要です。
一方で、全国規模だったり、学びやすい体制を整えていたりと、便利なところももちろんあります。
ただし、言っておきますが、タロットの資格(書)というものは、もちろん公的なものでも、世間的な評価を受けているものでもないですから(苦笑)、資格があるから仕事になる、タロットの一流であると証明するものでもなんでもなく、他人なとっては、極端に言えば、一機関や一個人で出しているただの「紙切れ」に過ぎませんから(あなたにとっては、努力とお金を傾注した証明の「神着れ」かもしれませんが)、そのことはきちんと自覚しておきましょう。
最初のうちは、学ぶ目的とか、タロットを学んでどうして行きたいのかというのが、まだはっきりしていないこともあります
学びながらそれを固めていくというのもありです。
また、先生の選び方においても、自分がやりたい方向・性質が同じような人とか、自分が目指すことを実現されている先生とかで選ぶとよいでしょう。
その先生がブログとかHP、SNSで何か書いていらっしゃるなら、それをよく読んで、自分と合うかどうか、学びたいと思えるものがあるかどうかの判断にもなってくると思います。
やたらと集客的な宣伝をしたり、タロットとは無関係なことばかり書かれていたりして、内容がスカスカなものだと、ライトに学ぶ目的ではいいかもしれませんが、本格的に学ぶのには向いていないかしれません。
ただ書き方とか文体は好みのものですし、スピリチュアル的な傾向もあれば、現実的、論理的なものも先生によってはあります。それも先生の個性です。
それ自体は良し悪しの判断材料にはならず、やはり、自分との相性、自分が何を求めるかの問題・判断になってくるでしょう。
よく言われることですが、師を目指すのではなく、師の目指そうとしているものを目指す、つまりは、師になることが目的ではなく、師が得ようとしていたもの(得たもの)、奥義や本質のようなものそれ自体をつかむことが大事であるということです。
あくまで学びはあなた自身が主人公であり、先生は脇役でしかありません。
先生を肯定することもあれば、否定することもあり、しかしそれは、好き嫌いのレベルのものではなく、自身の成長・探求・拡大・発展・目的達成のための過程としてとらえられるものです。
最初にも述べたように、タロットは相性や縁ということもよく関係します。
学ぼうと思っても学べないこともあれば、自然な流れでそこに行き着くこともあります。
特にマルセイユタロットは独特な霊縁のようなものがあるように感じます。
そうしたものに導かれ、マルセイユタロットと出会い、しばらく眠っていたあなたの中の魂の求め、発動を目覚めさせることになるのです。
タロットとの出会い その2
タロットの出会いまでのお話、前回からの続きです。
公務員生活で、うつ病やパニック的ともいえる不安神経症になってしまったことで、かえって自分の人生や生き方というものを考え直さざるを得ない状況になったところまで語りました。
実は、このうつ病時代の話では、阪神大震災とからむ、運命的ともいえる、大災害・カタストロフィの中での自己救済のストーリーがあり、時々、マルセイユタロットの講義中において、「13」「審判」の象徴性のエピソードとして語ることがあります。
しかし、今回はそのことについてはふれず、また別の機会に譲ります。
公務員で休職復職を幾度が繰り返すうちに、心と体が抵抗しているのか、復職しても出勤時に身体が硬直し、足がなかなか前に進まず、何とか外に出ても、息苦しくなり、再び家に戻ってしまうようようなことが多々出るようになりました。
そんな中でも、かろうじて職場に行き、何とか軽減された仕事内容で、定時までこなして帰るという状態が続きました。
大きなパニック的不安は少なくなって、日常生活は何とかできていたものの、出勤時の困難さ、疲労感は大きく、このまま公務員を続けていくのには無理があるのではと感じていました。
また、一人前の仕事もできない自分に、周囲の目線も気になり、悶々とした日々でもありました。
その間、人生の探求に、いろいろな本を読むようになり、同時に、完全な治療・復活を求めて、普通の医療では難しいと思い、代替医療から心霊的な治療、祈祷師、拝み屋さん、怪しい占い、新興宗教に至るまで、治療や回復のきっかけができるものと思えば、あらゆるものに手を出すようになっていました。
それこそ、全国を駆け回ったという感じです。関西に住んでいますが、北は北海道、南は九州まで行きました。さすがに沖縄には行けませんでしたが・・・(苦笑)
この間に使ったお金は相当な額になりました。中にはだまされたと言っていいものもあります。
今思えば、平常心とバランスを失い、かなりのあせりもあったのだと思います。
それでも、今だから言えるのですが、この間の経験も、ネタとしてなかなかのもの(笑)があり、よいこともあったのは確かです。いいも悪いも含めて、自分の修行(実際的・霊的両方)に、実はなっていたのです。
しかし、結局、たくさんのものを試しましたが、完全によくなったという実感を得ることはできませんでした。
その実感を得たのは、なんのことはない、他人や技術に頼らず(依存せず)、自分が治すのだ、自分がよくなるのだ、よくなりたいんだという意志の結果でした。つまりは、自己責任をきちんと認めた(自分を受け入れた)時に、完全に症状は治まっていったのです。
言ってみれば、自分が病を起こし、自分が中途半端にさせ、自分が最終的には治したのです。(注意:全員にこれが当てはまるということではありません。いろいろな条件と実際の治療が重なったうえで、気づきと時間の効果もあって、自分を受け入れることで、回復がなったということです)
そして、ほぼよくなりかけた時、最後に出会ったのがマルセイユタロットでした。
その時、大分、心も体も落ち着いてはいましたが、まだくすぶっているものもあり、さらには、すでに自分の中では、公務員を辞めることになるだろうという思いも固まってきた時で、辞めたあとの仕事のことなども考えていた時でした。
公務員は、天下りの人や、特別な資格のある仕事の場合は別としても、辞めてしまうと、まさにつぶしがきかず、どうやって新たな職を得ればいいのか、悩むところでした。
児童相談所で親御さんの相談をしていた経験とか、病気の経験のこと、そしていろいろな本を読むようになったこともあって、おこがましくも、皆さんにアドバイスできるような仕事ができればと思うようになりました。
そして思いついたのが、「占い師」という仕事です。(苦笑)
これは当時ば、興味があったというのもありますし、占い師をなめていたところとか、公務員で世間知らずのところがあって、勉強すれば仕事としてできるようになると考えていた節があり、思いついたものです。今思うと、かなり恥ずかしい着想の過程です。
最初は東洋的な占いに興味と関心があったのですが、たまたま見た雑誌の特集で、タロットが載っていたことで、タロットにも興味が向いたのでした。
その雑誌とは、前に書いた「ムー」です。(笑)
そう、再び、たまにですが、私はこの時、「ムー」を読んでいたのです。精神的なものにまた関心が行くことで、大人になって、少年の頃とは違う目で見ていたでした。(長期的な視点で見ると、少年期の「ムー」の愛好は、将来の布石であったと取れます)
その、たまたま見た「ムー」の記事に、当時、「タロット国際学院」と言っていた旧タロット大学、現イシス学院の主宰でいらっしゃる大沼忠弘氏が書いた「カモワンタロット」のものがあったのでした。
それまで私は、タロットというものにまったく関心がなく、西洋の怖そうな絵のついた、おどろおどろしい占い道具だと思っていました。
先述したように、占い師になろうと思っても、それは東洋占でのもので、タロットとか西洋占星術には興味はありませんでした。(特にタロットはどこか非論理的な匂いがして、嫌っていたくらいです)
ところが、大沼氏が紹介し、書いていていらした「カモワンタロット」、つまりカモワン版マルセイユタロット記事内容は、私の心に響きました。
そのタロットが語る教義は、占いを超え、人間の成長・完成に関わる重大な内容が象徴的に表されること、そして一種の絵物語・絵巻物のように、カードの人物を中心にして、タロット自らが物語をつむぎ、語り出すことを、その絵柄とともに知ったのでした。
それはちょっとしたショックでもあり、衝撃でした。
タロット(特にマルセイユタロット)がこんなにも深いものだとは知らなかったのです。
とはいえ、この時の記事も、単に入り口であり、私自身もマルセイユタロットが何なのか、よくわかっておらず、まだまだ「占いのカード」の認識の域でした。
その証拠に、記事の横に、国際タロット学院の告知もあったので、私はここに電話して、このタロットを学んで「占い師」として仕事ができるかを聞いてみようと思ったことからも言えます。
まあ、タロットに精神的なすごさは感じても、現実的な部分での思い(プロ占い師の技術と道具になること)もあったということです。(それが人間というものでもありますが・・・)
そんなこんなで、私は思いきって、国際タロット学院に電話しました。
この時、電話に出られたのが主宰の大沼先生(私には先生になりますので、そう呼ばせていただきます)でした。(この時の私はまだよくわかっていませんでしたが、何かえらい人が電話口に出られたというのは感じました)
私は先生に、不躾ながら、「ムーの記事を見ました。私はまったくの初心者ですが、タロットのプロになれるでしょうか?」と聞いてしまいました。(苦笑)
先生は、「誰でも最初は初心者で、頑張れば、君もプロになることもできる」とおっしゃいました。
なるほど、確かに最初は誰でも初心者だ、こんな自分でもプロになる道
もあるのかも・・・と思い、講座について伺いました。
すると、先生は、「君はどこに住んでいる? ん、関西か、それならば、ちょうど近いうちに大阪で講義があるから、そこに来なさい」と告げられました。
なんと、タイミングよく、すぐに関西・大阪での講座があるとのことでした。
ちょっと躊躇していたのですが、勢いというか、流れで、その場で申込みをしてしまいました。
こうして、私は初めてタロットに接し、学ぶことになったのです。
それが、奇しくも、2002,2,2(初講)のことでした。
あとでタロットが「22」という数が重要なものであることを知り、半ば運命的なものを感じました。
まあ、こう書くと感動的な面もありますが、実際は、最初の講義では、少人数とはいえ、参加者の皆さん、すでに「秘伝カモワン・タロット」という本を読みこなされており、再受講というか、すでにかなりの知識と読みもできる人もいて、私だけがまったくの実は初心者だったことがわかって大変でした。
私など、大沼先生が持ってこられた「秘伝カモワン・タロット」の本とタロットをその場で開封し、皆さんがサクサクとタロットを並べられているところを、何にもわからない状態で、見よう見まねで、冷や汗をかきつつ、必死の思いで、皆さんについていこうとしていたことを思い出します。
いろいろと本は読んでいたものの、いわゆる西洋の、しかも秘伝的な知識とか教養には、ほとんどふれたことがなかったので、自分の乏しい知識にも幻滅しました。
さらに悪いことに、公務員をするほどのマジメな固い性格が災いし、タロットを読む柔軟なセンスと感性に欠け、先生からもタロットリーディングの練習の時には、「君は頭が固いなあ・・・」と言われる始末でした。(苦笑)
ですから私は、「ああ失敗した、タロットなんて絶対向いていない、東洋占にしておくべきだった・・・」という思いが最初のうちはしていました。ほんと、今思っても、この時の落ちこぼれ感はすごかったです。(^_^;)
まあ、でも、この時の参加メンバー自体も、実は優秀な方ばかりだったというのもあります。最終的に、この時の参加者は、ほぼ全員がカモワンタロットの講師になりましたからね。
こんな落ちこぼれの私が、なぜタロットをやめなかったかと言えば、まず、この時の大沼先生の講義とその知識に、すばらしさと感動を覚えたからです。
その語られる内容は、特に神性の内在性、古代象徴をベースに示される宇宙の精緻なシンボリズムなど、私の心と魂を揺さぶりました。
それまで、うつ病などで道を彷徨い、悩みつつのあった人生でしたから、特にでした。
そして、そうした探求に応えることのできるこのマルセイユタロットのすばらしさに、何よりも魅了されました。
それは単に占いという次元では語ることのできないもので、はるかにそれを凌駕した最高度の象徴大系・システムに思えたのです。
まだこの時の理解力は低くても、直感的にそう感じるところが私にはありました。
講義が終わっても、個人的に当時は大沼先生とお話できる時間を取っていただき、いろいろと学ぶことができました。現在は、先生とは故あって、交流することができなくなりましたが、今でも先生には恩義と敬意は変わらないものがあります。
一方、マルセイユタロットのすばらしさはわかりましたが、それによるリーディング実践ができなくては、プロリーダーになるということも叶いません。
だから、センスの悪さとか、頭の固さはありましたが、先生の言われるように、地道に、少ない枚数での読みの練習の努力を積み重ねて行きました。
幸い、公務員も辞めようかと思っていた時なので、休みとか余暇は比較的あり、時間は取れました。
そうやって、自己訓練を続けていると、ある日、タロットの語る言葉がふいに理解できるようになりました。
別の表現で言うと、タロットの精霊とのコンタクトが成立したみたいな感じです。
また、論理的にいえば、自分の中のタロットデータの蓄積とトレーニングが、タロットに関する情報処理速度を増し、ある程度の制限・限界値を超えた(器が満たされた)という感じかもしれません。技の習得に近い感覚です。
有り体にいえば、タロットを読むセンスが現れてきたということで、つまりはコツがつかめてきたのです。
これは先生も常々、「タロット(リーディング)はアートだ」とおっしゃっていたので、それがわかった感じでした。
ここから急激にタロットを読むことが楽しくなり、タロットとリーディングというものが、幾層もの重層構造になっていることにも気がついてきました。
しかし、練習(ただ厳しくではなく、楽しくやる練習です)は怠らず、この過程で、いろいろな練習法も思いつきました。これが、今に役立ち、受講生への勉強会でのトレーニングや指導方法にもつながっています。
ただ、自分だけでは読みが偏りますので、同じタロットを学ぶ仲間同士で結束し、リーディングの勉強や実践練習をする会の結成を促し、月一回で親睦も兼ねて集まるようにしました。この回は、関西では、いまだに続いています。(今は私は参加はあまりしていませんが)
こんな感じで、気づけば、どんどんマルセイユタロットの学びと熱中が大きくなり、占い師というより、タロットをリーディングして、人様の役に立ちたいと思うようになりました。
公務員は兼業ができませんから、タロット活動を営業的に行うようにするには辞めるしかなく、しかし、もうほぼこの時には、そもそも公務員を続けていくこと自体が、心身ともにできなくなっていたので、自然に辞めるしかなかったというのが実状でした。
タロットをするために辞めたというより、辞めることとタロットをすることが、自然な流れになってしまったという感じです。
もっと言えば、タロットしかすることがなかったみたいな(苦笑)、状態ですね。
ということで、今に至っているわけです。
マルセイユタロットと出会い、今も続けているのは、いろいろな理由もあるのですが、何より、マルセイユタロットが好きだからというのが一番です。
だからこそ、人見知りで、あまりコミュニケーションも上手ではない私が、こうしてタロットを通した対外的な活動を行えているのです。
タロット活動を本格的にやるようになってからも、講師の道とともに、いろいろなドラマがありますが、それはまたの機会にお話いたします。
個人的なエピソードをお読みいただき、ありがとうございました。
タロットとの出会い その1
いつも難しい言い回しや、象徴的なことばかり書いていますので(苦笑)、たまには雑談のようなものも書いてみたいと思います。
よくタロット講義の時などに、「タロットをやろうと思ったきっかけ、タロットとの出会いはどんな感じだったのですか?」とか、「タロットを仕事にしようと思ったのは、どういう経緯なんですか?」と聞かれます。
今日はそれについて(タロットと出会うまでを)書いてみます。
私は、今はそれをウリというか、あまり表立って言っていませんが、以前は、ブログのサブタイトルにも登場していましたように、私は地方公務員(県職員・一般事務職)をしておりました。
実はその前にも職歴があり、それは某信用金庫の職員でした。(もっとも数ヶ月で退職してしまいましたが・・・)
いやー、これだけ聞くと、えらい堅物、まじめという印象が誰でもするでしょうね。(^_^;)
それがタロットリーダーやタロット講師への転職?ですから、まあ、変わっているといえば変わってますし、今はともかく、ちょっと前までは無謀な選択、安定した職を捨てたバカな人というイメージを持たれてしまうこともありました。
ただ、もともと私は未知なるもの、目に見えないもの、オカルトや占いなどにも興味はありました。
けれども、それは素朴な好奇心みたいなもので、本格的に学んだり、修行したりというものではなく、今も発刊されている「ムー」なるオカルト雑誌を中心にした、今で言うとライトスピ的な興味に過ぎませんでした。
学研の「ムー」については、かなり昔から読んでいまして、中学生の頃、それこそ中二病のごとく、「この世界は不思議で満ちあふれている」「自分は何か特別なのではないか、いや、そうありたい」「魔法や特殊な力を得ることができる」などと、「ムー」を読んでは夢想している少年でした。
また、確か「トワイライトゾーン」でしたか、そんな別のオカルト雑誌まで発刊されるようになり、こちらも読んでいまして、謎と不思議の世界へのあこがれをますます強くしていました。
しかし、成長するにつれ、そういう世界から離れ、興味は完全に失ってはいなくても、現実を見ていくようにしましたし、演出や嘘の部分も見えてくるようになり、そうしていつしか、「ムー」を読むこともなくなりました。
やかで社会人になって、先述したように、地方公務員に就職して、さあ、これからは公務員として定年まで、一生生活していくことになるのだなと思っていました。
ただ本当は、なぜ公務員になったのかと言えば、夢としてマンガの原作者になりたいというものがあり、そのために定時できちんと終わる公務員が一番いいだろうと思っていたところがあったのです。
ところが、実際に就職してみると、それはとんだ勘違いで、公務員といえど、普通に残業も多いし、部署によってはかなりの激務であったのです。しかもしがらみも多く、時間的にも精神的にも非常に強い束縛感がありました。
ただ、最初に配属されたところが、意外にも児童相談所のケースワーカーだったので、事務よりも問題児童への親や学校からの相談・対応・処置ということが業務でしたから、一般事務職としては、かなり特殊な仕事内容だったと言えます。
幸い、当時は児童相談所でも分室という田舎の所属でしたので、時間的にはあまり残業などなかったのですが、当初は仕事がまったくわからず、つらい面はありました。
しかし私の勤務していた地方公務員というのは、3年から4年で部署が異動になり、それがまったく違う仕事をするようなことが多く、しかもいきなり、その分野・担当の専門(市町村を指導し、国から指導されるという立場)になるので、なかなか厳しいところがあります。
田舎の児童相談所から本庁に異動になり、私はここで初めて本格的な行政事務を経験することになるのですが、相談の仕事とはまるで違う(本来は事務・行政補助をするのが仕事なのですが)ことに面くらい、極めてしがらみの多い世界で、まじめには見えても、もともと内的には自由や反骨心の強かった私としては、精神が蝕まれていくのを感じていました。
それでも上司や同僚の助けもあって、何とかやっていけていましたが、蓄積されたダメージは少しずつ、かなり自分を浸食していたと言えましょう。
それまでは時間的にまだましだったから良かったのですが、本庁になってきますと残業も当たり前、かつ激越で、特に冬期の残業はとても多く、おまけに、そのストレス解消のせいと若さゆえに、遊び方面にも魅惑され、休日には出かけまくる始末でした。
要するに、精神だけではなく、体力も奪われて、ダメージが積み重なっていったわけです。
人間、「心身」というように、心と体、両方からやられると、確実に故障します。
次の転勤(異動)時に、すでに私は精神と肉体の限界を迎えており、転勤先での事務の引き継ぎを受けている時間、まったく相手の内容が耳に入らないことに気がつきました。
疲れているのに夜は寝付かれず、得たいの知れない不安が日に日に強くなり、出勤しても、まったく頭と体が動かず、しまいには、シャーペンさえも動かすことが苦痛になっていました。
児童相談所時代に、精神科医や心理士との交流もあったので、精神的な不調・病についての知識は少しありました。だから、自分の状態が心の病、いわゆるうつ病的なものであることを予想していました。
しかし当時はまだ今ほど、世間的にうつ病や精神の不調についての理解・認知はなく、いろいろと難しいところがありました。
受診しようにも、いわゆる心療内科的なところは少なく、精神科として精神病での受診の形になって、場違いな対応や医師の処置への不信感も結構経験しました。
とはいえ、もはや朝、起きることすらままならない状態になり、しかも強烈な不安が襲ってくるようになり(パニック症状に近いもの)、とうとう診断書にて、休職することになりました。
公務員は休職の面では民間より、かなり恵まれているところがあります。
しばらくは給料も出ますし(次第に減ってきますが)、精神的な病気療養の場合は、医師の診断がついている限りは、結構な長い休職期間が認められます。
これがいい面と、逆にあだとなるところがあり、おかげで回復することもできたのですが、ある程度の猶予があることで、公務員を続けていくことに対する疑念や、生き方そのものへの模索を考えることになり、復職して、またがむしゃらに働くといことへの揺らぎ、不安、疑問などが起こるようになっていたのです。
つまり、自分は何のために生きているのかという、根本的・哲学的とも言えるテーマに踏み込んでしまったのでした。
少し長くなりましたので、つづきはまた明日か明後日に。
つづく。
タロットとの出会いまで、全然たどりつきませんでしたが・・(笑)