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何がカードを引かせ、何が表されているのか?
タロットの講義をしていて、よく聞かれるものに、〈1〉タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか? そして、〈2〉出たカードはいったい何を表しているのか? というものがあります。
あくまで私の考えですが、結論から言いますと、両方とも、「答えはいろいろ」(笑)となります。
まず、〈1〉の、タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか?
という質問から見ていきましょう。
大きく分けて、これにはふたつの考え方があります。
ひとつは「自分」が引くという説、もうひとつは、自分以外の存在の何かが引かせているという説です。
自分が引いている(選んでいる)というものでも、顕在意識としては、普通、よほど特殊な記憶力でもない限り、タロットの表側(絵柄側)が見えないようにシャッフルして引きますので、何のカードかを自覚して引いているわけではないというのは当然わかります。
ということは、自分の中の潜在的、あるいは無自覚な意識(無意識)が引いていると言わねばなりません。
ただ、「そもそもすべては偶然」であり、そこに意図や意識(無意識含む)からの操作はないとしてしまえば、タロットは自分が「行為」として引いているだけで、その引かれた(選ばれた)カードに特に意味はないということになります。
それではタロットリーディングや、引いたタロットカードを象徴として解読していく作業自体(の考え)が成り立たなくなりますので、とりあえず、それは置いておきます。
ということで、タロットは自分が引いている説(それが単なる偶然ではないという説)を採るとしますと、ほぼ自分の無意識層・潜在意識層とカードの絵柄か何かにリンクして(関係して)、選ばせていると見たほうが合理的のようにも思えます。
もしそうであるならば、やはり引かれたカードは、自分の通常意識以上の情報が出ている(投影されている)と見てもよいことになります。
けれども、もし最初にカードの絵柄全体を知っていたとすれば、それを見た時の記憶が脳の中のどこかにあり、その印象をもとに、カードが選ばれているという考え方もできますが、これはまったくカードを知らない人、あるいは全体の絵柄を知らない人が相談者では多いので、あまり当てはまらないかもしれません。
それでもカードリーダー自身が自分でカード引く時、または引くカードのことを知識的・映像的に知っている相談者には、該当することもあるとは思います。
この場合は、自分の希望する絵柄、カードを意図的に(本人の自覚はなくても)出している可能性はあるでしょう。
たとえそうであっても、自分のあまり知らない意識層の願望が投影されたとして考えれば、それはそれで出たカード(の示唆)は有意義なものとなります。
そして、自分が引いたという説でも、心理的な意味での意識(メンタル部分)を超えて、魂的な部分が引かせたと考えられる場合もあります。
しかしながら、そこの区分けは難しく、結局、そうした次元や層の区分の話は、引いたあとで考察していくのもあり(リーディングする時に決まってくる)かと思います。
次に、自分以外のものが引いたという説です。
これは神とか天使とか悪魔とか、サイキックな存在とか、何か自分ではない何か、それも人を超えた(目に見えない)存在、エネルギー的な何かがカードを引かせたという説です。
こうなってきますと、もはや憑依と言えますし、カードをツールとした霊媒とか異能という表現にもなってきます。
タロットリーダーが特別なサイキック能力や巫女的な能力を持っていたり、託宣的にタロットカードを使ったりする場合は、こうしたこともあるかと思います。
またタロットの世界(特に西洋魔法的なもの)では、タロットの精霊という存在を扱う(コンタクトする)場合があり、そうした世界観と次元では、自分がカードを引くとはいえ、タロットの精霊との共同作業と言いますか、むしろカード自体が精霊の依り代のようなものとなり、カードを引くことがタロットの精霊とのコミュニケーション・コンタクトそのものになっていることもあるわけです。
それからかなり邪道というか、おかしな場合ですが、タロットリーダーや占い師の強烈な念・意志によって、相手に引かせるというケースもあります。
相談しながらクライアントを支配しているようなものですね。無自覚でされている場合もあるので注意が必要かもしれません。
最後に、究極的な説をご紹介しますと、引いた時にカードに絵はなく、いわば白紙の状態だったものが、引いた(カードを引いた人が見た)瞬間、絵柄が出てくるという説です。
まあ、量子的な考えとでも言いましょうか。実はこれはタロットをやっているうちに、私自身が思いついたものですが、正しいか正しくないかは別として、私自身は気に入っている説です。(笑) あ、でも、これを押しつけるわけではないですよ。あくまでこれもひとつの考えです。
次に、〈2〉の、出たカードはいったい何を表しているのか?
という質問です。
一番いい加減で、実は面白い答えが、「何も表していない」「ただの絵ですよ」という説です。(苦笑)
つまりは、意味づけるのは自分(タロットリーダーやクライアント)だということです。
これでは、今一納得できない方もいらっしゃるでしょうから、ほかのいくつかの説を述べてみましょう。
そのひとつは、カードは「正しいことを示している」という考え方です。
タロットの示すものは正しいという前提のもとで、タロットの象徴が私たちを正しい方向に導いてくれるというものになります。
ただ、この考え方で問題なのは、その「正しさ」の基準は何なのか?ということです。
一般的な(現実的な)成功とか幸せでの意味なのか? 心の満足のことを言うのか? はたまた神目線とでもいうべき、私たち人間を超越したレベルの智慧でもって示す正しさなのか?
そうやって考えていくと、いろいろと難しいことになります。
従って、占いにおいては、いいカード、悪いカード、またはカードによるポジジョン(位置・方向性など)によっての良し悪しを決めて、わかりやすくしている場合もあります。
しかしそれであっても、カードの(示す)正しさとは何か?という根底の疑問は残るでしょう。
これとは違い、カードは何かの良し悪しを示すのではなく、絵柄としての象徴があるだけで、それが心理的に投影されて意味を持つのだという説があります。
つまりは、心(潜在意識含む)の投影、心の鏡のような装置として現れるという説で、カードは端的に、引いた人の心を表しているというものです。
これなどは、もともとのカードの意味とか正しさとかが問題ではなく、どう見えるか?ということが大事で、いわば、ロールシャッハテストみたいな、模様の見え方が心や思いを示すということが主題になってきます。
従って、繰り返しますが、カードが表しているものは(絵柄を通して見る)自分の中の思いや意識ということになりますね。
そしてこれは投影ではない考えになってきますが、場合によっては、他人の意識や心も表すという考え方もあります。
その前提として、意識が自分と他人と(全員)で繋がっているというものがあり、だから、自分、あるいはタロットリーダーの引いたカードが、知りたい情報を示しているということで、それが(知りたいと思う)他人の気持ちであるのなら、まさにその情報が表れていると見るものです。(そのため、占い目的で使われることが多いのです)
その他、心の投影から切り離した考え方で見ていくと、ある「思想」とか「モデル」の位置・段階との関連を示しているという説が出てきます。
タロットには、様々な思想や宗教の教義と関係するものがあり、それが絵の形で伝承されていると見る向きがあります。
そうした「ある思想」「ある教義」では、タロットカードはそれを表すモデル図、象徴図、平たく言えば「紙芝居」(その思想を受け入れる者にとっては「神芝居」)のようなものとして考えることができます。
こうしたものでは、たとえカードに心が投影されることはあっても、自分の心が先ではなく、「カードの示す思想やモデルが先にありき」で、引いたカードの象徴によって、自分のレベルや段階、心境や状況を考察したり、あてはめたりするという形になります。
もしタロットがキリスト教の教義を説明するものであるのならば、「審判」というカードを引けば、それはキリスト教の説く「最後の審判」と関係すると見るような感じです。(普通、キリスト教でタロットなど使うのはおかしなことですので、厳格な信仰ではありえませんが)
先述した「正しさ」の基準でいえば、そのモデル、思想図としてのタロットが「正しい」となり、地図、羅針盤、航海図のようなものとしてタロットを扱うことで、今の自分の迷える状態を修正したり、導いたりできるという考えになります。
この場合は、うまく解釈していくには、教義や思想に盲目的にならない、タロットの絵柄の詳細な検証、知識が求められます。
その代わり、活用が正しく行うことができれば、象徴的に非常に高次のものを扱うことできると考えられます。
まあ、引いた(選んだ)カードが何を表しているのかということも、答えはひとつとは言えず、いろいろな考え方があるわけで、それはつまるところ、自分が採用する考えによるでしょう。
思考と感情、理屈と直感で迷った時に。
物事の判断のもと(基準)として、よく言われるのが、「思考」(論理)か「感情」(感性)かの問題です。
※思考と論理、そして感情と感性は厳密には違いますが、ここでは同様なものとして扱います。
似たようなものとしては、理屈・論理と直感・感覚の違いとか、客観性と主観性のような対立概念で言われることもあります。
いずれにおいても、究極的には、どちらがいいか悪いかはないものと考えられますが、事と次第によっては、当人にとっての良し悪しは出ます。
今回は、この思考か感情か、あるいは論理か直感かの判断で困った場合についてを書いてみたいと思います。
まず、一般的に性差(女性・男性)での偏りはあると考えられます。
これは肉体的・機能的・構造的に、同じ人間といえど、やはり性別によるそもそもの違いはあるので、どうしても相違は出ると推測されるからです。
霊的な意味でも、男性と女性の役割やエネルギーの質の違いは言われているところです。
そして、女性は直感や感情、感性での判断、男性は思考や論理での判断が適しているとされています。
これはマルセイユタロット的に見ても、言えることだと思います。
従って、迷った場合は、この性差の判断傾向に従い、女性は直感・感覚的なもの、男性は論理・思考的なものの判断が一番しっくり来るのではないかと思います。
ただ男性であれ、女性であれ、性差によるものは確かにありますが、同じ人間として、一人の内に完全性も存在すると考えると、基本はそうであっても人によってはまた違いもあると言えます。
自分のこれまでの傾向を知り、どの判断のレベルの時が、自分にとっては結果的に良かったのかを見るとよいでしょう。
論理20、感覚80くらいがいいという人もいれば、その逆くらいの人もいるわけです。
またこういう場合もあります。
女性の場合、自分の感性・直感力(直感的に本質を受け取る巫女性ともつながります)を磨くため(復活させるため)、あえて逆の論理や思考を鍛える(接する)ことにより、その統合した力によって、これまで以上の直感力が出てくる(蘇ってくる)というパターンがあります。
こうなると、過去の、論理や客観的根拠(エビデンス)にこだわっていた自分は解けて、より女性性の本質らしい感性を信頼する自分になってきます。
反対に男性は、直感や感性を中心すると女性性に接し、それを受け入れることで、自分の中の高次の知性・論理性が発動してくるようになります。いわば、感性を分析していくことで、もっと高いレベルの論理に導かれるのです。
どちらにしても、判断のスピードは速くなり、自分にとっての重要なもの、本質がわかり、選択での迷いも少なく、あるいは迷っても前のレベルとは違う次元のものに変化します。
ということで、女性でも男性でも、実は思考と感性の狭間で悩むことは、悪いことではないのです。
それから、階層やレベル(次元)の混同という問題が、思考と感情の判断でよく現れます。
感情レベルの問題(判断)は、心の次元であって、魂や高次のレベルと関係してはいても、多分に自分の物語(自分寄り)が中心です。
もっと言えば、かなりの部分で好き嫌いか、自分にとって心地よいと思うもの、満足するものという選択基準になっているということです。
これに対し、思考や論理はどちらかといえば他人寄りであり、組織や集団においての(利や正義が)選択基準になってきます。これは現実的判断とも言えます。
その判断や選択が、どのレベルにおいてもっともよいとするものを求めるのか?によっては、感情・感性で選んだほうがいい場合と、思考や論理での判断がよい場合とがあるわけです。
先述したように、自分寄り、あくまで自分の満足感を中心とした選択では感性・直感でもいいでしょうし、自分よりも集団・組織・グループなどの集合的なものの利や正義に適うほうが、この場合はよい(それが結局自分のためにもなる)と思えるのなら、思考や論理中心となります。
もうひとつ言えば、魂の基準となってきますと、論理と感情は超えたものになってきて、マルセイユタロットでは「神の家」の判断ということになります。
それは理屈が通っているとか、気持ちいいとか、ワクワクするとかとは別次元の選択です。
思考と感情(感性)での扱いには、思考を感性の刺激(触媒)とするものと、感性(感情)を思考の刺激(触媒)として判断するものとがあります。
これは、先述したように、性差においては、基本となるものが、女性(的な人)では直感や感性、男性では思考や論理なので、例えば、女性ですと、自分の感性や感覚に、さらに信憑性や信頼性を増すために、思考によって感性に刺激を与えて、「やっぱり自分の直感は間違っていなかった」と確信させるもの、腑に落とすものとして扱うという方法です。
反対に男性(的な人)だと、自分の思考、論理に飛躍をもたらすために、直感やヒラメキ、感性をも取り入れてみる、重視してみるということになります。
ここで大事なのは、どちらか(思考か感情かの判断)で迷うというのではなく、あくまで基本の判断は思考か直感かで決めておき、その底上げや、判断のための情報・資料として、思考または感性を取り入れるということです。
思考中心の人が、理屈を凌駕するほどの感覚を覚えたら、その決断には直感・感覚的なものを重視する必要性があると言え、逆に普段は自分の直感・感性的なものを信頼していても、科学的・客観的データが明らかに揃っている場合、自分の直感力がその時はぶれている、クリアーではないと見ればいいのです。
どちらにおいても、修正すること(改革をすること)も受け入れる、柔軟性が求められます。
最初からふたつを相克させたり、葛藤させたりすると判断が難しくなります。
これは先に書いた、両者(思考と感情)の統合によって、さらに高いレベルに自分の判断力を上げるための方法と似たものでもあります。
なお、タロットをしている者は、小アルカナで、剣(ソード)か杯(カップ)で思考と感情を代表させて、出たカードによって、どれを重視するかの判断材料とすることもできます。
「呼ばれた」感の安全と注意
これは先日配信したメルマガ(講座受講者・修了者専用)に書いたことで、そのフォローの意味と、また一般的にも書いておいたほうがいいかもしれないと思い、ブログ記事にすることにしました。
聖地、神社仏閣などに行かれる人で、そこの神なるものや、特別な存在などから「“呼ばれた”からここに来た」のだと主張する人が見受けられるようになりました。
今回は、そのような存在がいるのかいないのかの争点ではなく、一応、そういったものが存在するとしての前提で、そのような存在から「呼ばれる」という感覚(「呼ばれた」感)はどうなのかということが主題です。
さて、そうした感覚の中には、安全なもの(もしくは当人や他人があまり気にしなくてもよいもの)と、危険なもの(本人や他人にとっても問題と考えられるもの)があるように思います。
安全なものの傾向としてのひとつは、その人に何かしらの感応力(巫女的な能力、次元の異なったエネルギーや存在を感じ取ったり、コミュニケートできたりする能力)があり、実感としてきちんと受容・コントロールできている場合です。
これはもともとの能力とともに、ある程度の修行、自己統制力も必要とされるでしょう。
こういうタイプは、サイキックや心霊的なことのプロ(そういった世界で生きている、生業としている)の人たちに多いもので、当然ながら別次元の存在や通常とは異なるエネルギーへの扱い、作法・儀式、自己と他人への抑制・コントロールにも長けているところがあります。
そしてもうひとつのタイプは、「呼ばれた」感覚そのものがライトなものであり、そのため、影響もライトなものになるという種類です。
例を挙げれば、ライトなスピリチュアルブームに乗って、ちょっとした旅行感覚で聖地を訪れ、そこで参拝などしてるうちに、「なんかここの神様に呼ばれた感覚がする~ありがとう~感謝♪」みたいな感じのものです。(笑)
一見、ふざけているようでもありますが、聖地を訪れるという純粋な感覚は持ち合わせており、意外に本人たちには、その時(聖地にいる時)はまじめな部分で参拝しています。
それでも、全体としては、やはり旅行の一環のようなもの(ライトなもの)でもあります。
しかし、もし神様のようなものがいらっしゃるとすれば、まるで、おじいさんがかわいい孫を見るようなもので、旅を楽しんでいること、神や自然は敬っていることは伝わって来ていて、たぶん(神様は)大目に見てくれるものだと考えられます。
これに対し、問題なのは、「呼ばれた」感覚にかなりのリアリティを本人が持ち、壮大な役割とか、特別な使命を言われたと信じ込むようなケースです。
それも、俗地、日常生活を行っている場所にいる段階から「呼ばれた」感か強くなり、居ても立ってもいられなくなり、とにもかくにも聖地や神社などにかけつけます。
そうすると、そこの神様から語りかけられて、私の使命を告げられることになっていた・・・みたいなストーリーが典型です。
しかも、その旅の過程において、「私が訪れることがすべて決まっていた」「次々とシンクロや特別なことが起こり、これが真実だと告げていた」・・・というようなものも、よくこのストーリーには付随します。
このようなケースで注意する(疑問に思う)ことは、まず、神様と崇敬される特別(異次元)の高次存在が、なにゆえに、普通であるその人を呼ぶのか? 使命を与えるのか? ということです。
先述したような修行をしてきたり、特別な巫女的な能力の家系に生まれてきたりした人などは別としても、普通の、ちょっとスピリチュアルに関心のあるくらいのあなたが、なぜ神様に選ばれるのか?ということになります。
これは心理的には、裏を返せばわかることで、つまりは特別な存在に選ばれる=私は特別である、特別でありたいということであり、さらには、そう思うことは、そのままの自分という存在に価値があまり認められない、人と比べて自分を見て、どこか劣っていると思っているという心の構造が見えてきます。
そもそも、わざわざ呼ばなくても、高次な存在なら、時間と空間を超越し、あなたのいる今の場所にコミュニケートすることは可能でしょう。
ストーリーとしては、困難だと思える所や、通常の人ではたどりつけないと言われる場所に自分がたどりついたこと(試験にクリアーする物語とか、ほかの人では扉が開かなくても自分には開くというもの)、それは、物語創作のうえでは人を感動させたり、面白くさせたりするセオリーであり、この場合は、「自分を感動(洗脳)させている」わけです。
だから、「呼ばれて(選ばれて)」「行く」ほうが、自分の特別感(ストーリー)のためには(都合が)よいのです。
それから、ここまでではなくても、自分のやっていることに、どこかしら自信や確信がなく、神的な特別な存在からお墨付きのようなものをもらったという感覚(ストーリー)によって、自信を得る仕組みになっていることもあります。(見方によっては「神の名」を利用していることと同じです。しかし、神託を得たい気持ちも人にはありますので、一概には悪いこととは言えませんが)
あと、これはあくまで私見ですが、もしサイキック的な影響がある場合、それは神とか(高次存在)ではなく、人の思念、または低次存在から来ているということも考えられ「呼ばれた」と思っている人の中には、結構こうしたものと高次のものとの区別がつかず、誤解しているようなことも多いのではないかと推測されます。
そうした(人や低次の)存在からのものでは、「呼ばれた」のは、興味本位目的や、あなたを惑わして、それを見て楽しむという「余興」のためとかであり、また、あなたの生命エネルギーを奪うためなどのことも考えられ、あまりよいものとは言えません。
「呼ばれた」感を中心として、やたら壮大で綿密な、自分と神様との救済物語のようなものがあり、それが本人が何か言う度に内容が変わっていたり、強迫的なものとして、その人自身の自由な行動に制限がかけらる状態になっていたりする時は、心理・精神的には「統合失調症」のおそれも否定できません。
他人から見て、あまりにもひどい押しつけや妄想的になれば、それは病的な状態とも言えますし、その人と交流している周囲の人にも混乱が及びます。
一方、「呼ばれた」感の中でも、現地(聖地・神社仏閣など)に行ってはじめて感応するような場合もあります。
これは少しニュアンスが違い、「呼ばれた」のではなく、その場所自体や、敬われている存在(像や絵で象徴化されていることが多い)に対して、何かしら自分に理由がある、因縁(良い悪いどちらでも)があると考えることができます。
現実的な理由・縁(何かの思い出とリンクしていた、たまたまその場所の雰囲気と自分の気持ちが合ったなど)もあれば、前世的データや見えない部分での縁もあるかもしれません。
人間には物質的・常識的・肉体部分で感応する部分と、それを超えたり、通常は隠れて見えない部分だったりするもので感応するところがあります。
いわば、アンテナ能力が複数層に分かれているようなものです。
人から崇められたり、祈りを捧げられたりした場所は、人々の様々な思念も溜め込まれていると考えられます。
そうしたものと、今の自分の中にある何かのデータとリンクすれば、反応を起こすことも想定できます。
それを縁と言えば、縁なのかもしれません。
心の鍵のようなものが、ある聖地的な場所や、神・仏の祀られているところと感応して、開く場合もあるわけです。
例えば、ある観音像を見て、自分のなかの観音心(癒しや救済の力)を想起させ、自らで自分を救う気持ちが生じることがあります。
つまり、仏(神)像は、その仏(神)の表す特徴によって、人である自分のその特質の神性・仏性を目覚めさせる役割もあるわけです。
またこれまで祈られてきた人々のそれぞれの思い(それは悲しみや苦しみもあります)が仏(神)像、聖地の場所に溜め込まれ、それらの内の何かが、自分の中で受け止め、感応することもあります。
(歴史などを調べると、その像や場所に捧げられた祈りの質と、集団の背景がわかって、自分と心理的、前世的に関係していることがわかることもあります。いわば、共鳴した理由とでも言えるものです)
それは自分に似たところや何かしら関係があるためで、やはりご縁と言ってもいいでしょう。
このようなものは、(外から)「呼ばれた」感とは違い、自分自身が神仏の象徴を通して呼び起こしたものと考えてよいと思います。
「運命の輪」に見る時間感覚
マルセイユタロットを見ていますと、たわしたちの現実感覚、現実次元を認識させるための大きな装置のひとつが、「時間」であると感じられます。
マルセイユタロットにおいては、特に大アルカナのカードで、すべての事象を説明することができるのですが、やはり、大アルカナにおいても、ある特定の事象とのつながりが深いカードというものも出てきます。
「時間」をテーマにすれば、最も「時間」に象徴的なのは「運命の輪」だと考えられますが、同時に、すべてのカードが「時間」というものの一側面を表していると見ることが可能です。(こういう見方が、マルセイユタロット的な特徴でもあります)
「運命の輪」で見た場合、このカードはその名の通り、大きな回転する輪と、その輪に付随するような形で、二匹と一匹の奇妙な動物たちが描かれています。
この動物の配置と形態には重大な秘密が隠されていますが、ここでは、時間を主題にしたある見方を提示しておきます。
この三匹は、時間的に見ると、「過去」「現在」「未来」という括り(概念とでもいうべきもの)を象徴していると考えることができます。
私たちが「時間」を「時間」として実感するには、時の差、時が動いている、進んでいるという感覚が必要です。
現在の今この瞬間を中心にして、過ぎ去ったものが「過去」、これから訪れるものが「未来」とし、そうすることで、時計(計測)的な“差”を実感することで、時間が流れている、経過していると思うわけです。
逆に言えば、この3つの括りがないと、私たちは時間の進みを感じ取ることができないとも言えます。
通常、私たちはこのように時間が進む感覚をもって生活していますが、時折、時間がなくなるような感覚、あるいは時計の進みが一定ではないような感じを受けることがあります。
それは、何かに熱中している(もしくは囚われている)時で、また、とても嬉しいことや非常にショックなことが起こった時など、通常の意識状態にはない時に起こりがちです。
いわゆる変性意識といってもいい状態で、時間が停止したり、変化したりする感覚を味わうのです。
まさに、意識と心の状態が、時間の感覚を変化させると言えますし、反対に、意識と心の状態が時間を司っているとも考えることができます。
時間は、個人の精神で流れる時間と、万人に共通な、天体の回転を基準にした時計的・計測的時間があると言われています。いわゆるカイロス・クロノス時間と呼ばれる違いです。(ほかにも種類があるのですが、ここではふれません)
私たちが過去・現在・未来と、一定の時間の流れで進んでいると感じている空間が現実で日常ですが、その時系列がバラバラになったり、時間の進みが時計的な進みとはまるで違ったような感覚を得たり、時が止まったかのような感じを受けたりしている間は、現実を超えたところ(特別な意識による別の空間)に移行していると考えることができます。
そして、その別の空間にこそ、現実を超えるヒントがあると想像できるのです。むしろ、そうした空間から私たちは現実へ降りてきているとも言えますし、意識が空間を作り出している(意識状態によって空間認識が変わる)と想定することもできます。
現在を中立として見た時、過去と未来は二元に分かれた分離意識とも言えます。
マルセイユタロットに描かれていることですが、私たちが総合的に進化し、成長するためには、個人としても分離した二元的性質を統合していくプロセスが求められます。
時間の統合(通常時間感覚からの脱出)というテーマでは、過去と未来を現在に集約させ、統合していく作業とも言えます。
それは精神においては、基本的に物理的時間を超えて、過去や未来に意識を(イメージとして)飛ばすことが自由にできますので、統合するチャンスがあると言えます。
しかし、過去に心残りのような未消化でネガティブなデータがあったり、未来に大きな不安を抱えていたりすれば、意識・心は分裂し、統合が困難になり、より時間を意識した世界に閉じこめられると同時に、自分が強く意識する過去か未来に囚われてしまい、今この時に全力で生きられないエネルギー状態(今が空虚な状態)となるおそれがあります。
そういう意味でも、過去や未来へ傾き過ぎた思いを中立に、今に戻していくことが重要です。
過去ワークや未来への思いの手放しなどが有効なのも、こうしたことが考えられるからです。
それは結局、囚われからの解放になり、今をもっと自由に生きることにつながるのです。
(心)霊的次元の和解、救い
今日の話は、一段とファンタジーと言いますか、狭義のスピリチュアルな話となります。
マルセイユタロットの絵図の語るところによれば、この世界はいわゆる現実、普通に私たちが生まれて死ぬまで過ごす世界だけではなく、肉体を超えた死後の世界のような、(心)霊的世界があると示されています。(もっとも、これも受け取る人の考え方に左右はされますが)
ところで、私たちが自分を自分だと認識し、他人を自分とは違うその人だと思う状態というのは、主体と客体感覚を伴う「自我意識」を持っているということになります。
精神世界・スピリチュアルな世界観でよく述べられているように、人が宇宙・大元・「ひとつ」としての統合次元まで至ると、そういった自我意識は消失するものと考えられています。
言わば、統合されればされるほど、(哲学的・宗教的に表現すれば)悟れば悟るほど、人の意識は希薄というか、抽象的なものになり、自分や他人を分けて認識することがなくなっていくもの推測されています。
ですから、そういった究極の次元からの視点では、個人の悩みも喜びも、また他人を意識する世界すべても、幻想である(認識として存在しない)という説になるのは当然です。
そもそも、喜怒哀楽の感覚というのも、比較対象や波のような上下左右の「差」があって初めて「それ」として表せるものでもあり、そういった差異がない世界・意識においては、すべてはあってないという、不思議な超越状態とも考えられますから、現実での結果やプロセス、思いに至るまで、個人としての意識は無意味であると言えます。
しかし、現実問題、私たちは究極まで悟っていないのが普通ですし、毎日起こる出来事、過ごす日々、環境において、感覚・感情・思考様々に変化し、悩みや苦しみ、そして喜びや楽しみも味わうことになります。
それに意味がないと言っても、意味があると世界(という設定・条件)から逃れられない(あるいは選択して来ている)私たちにとっては、究極次元で語れることに違和感があるのも理解できます。
そこで最初の話に戻ります。
先述したように、究極のひとつの次元、大元、ひとつであり全体しかないという状態(超越意識状態)と、自我意識を持ち、現実で生きている私たちの普通の意識状態との間に、中間としての意識層もあるのではないかと想定するのです。
これが死後の世界とか、(心)霊的世界(心魂の世界)と言ってもいいかもしれません。
その次元では、人は肉体を持たないので、肉体(物質・現実)次元での欲求・縛りからは解放されるものの、自我意識が完全に消失してるわけではなく、データのようなものとして、自分が現実世界でどのような人間として生き、どのような自分以外の人たちと関わり、心に思いを残してきたかということは存在していると見ます。
まさに意識的に、ひとつ・全体に至っている状態と、自分と別々の人がいるという状態の中間と考えられます。
この次元で重要なのは、意識が肉体から解放されていることであり、つまり物理的・時間的干渉、制約から完全ではなくても、ほぼそこから逃れられていると考えられることと、より、「素」の状態、心と個の魂同士が相互に、しかもダイレクトにアクセスしやすくなっていると思えることです。
それは心のデータ的に、ほとんど隠し事ができずに、自分と他人とコミュニケーションできる状態だと言えます。もっとわかりやすく言えば、誰もが裸のつきあいみたいになる(笑)ということです。
これはかなり恥ずかしいことでもありますが(^_^;)、ほかの人の真意が理解できることでもあります。
現実世界では仕方なくこうしていたものの、それは本意ではなかったとか、本当は謝りたかったとか、あなたを愛していたけれど、現実世界ではどうしようもできなかったとか・・・現実での物理的・空間的・時間的制約、あるいは肉体的・生存的欲求のための強い自我から来る心情的虚偽や方便を使ってしまったことなどが、中間の心霊的状態ではその干渉がなくなり、ほぼ魂の真意のようなものが露わになるということです。
先にも言ったように、これはかなり恥ずかしかったり、厳しいところでもあったりする反面、やっと本当の気持ちが確認でき、個の魂としての交流ができる癒しや愛を実感できる次元だと思えます。
現実では報われなくても、この世界、この次元では報われる可能性があるという、救いの世界でもあります。(反対に現実よりシビアに真実がわかる、さらされるという次元でもあります)
ですから、こう思うのです。
現実世界では何らかの事情で交流できなかったり、別れてしまったり、誤解があって対立したりした人でも、自分の真意は忘れず、自分も相手も責めず、いつか魂の(霊的)次元で癒し合い、和解することができると信じれば、この世が苦しみの世界であっても、生きながらすでに救いの気持ちも生じてくるでしょう。
そして、だからこそ、一気に全体次元、ひとつの統合次元に向かうことには抵抗してしまう部分も、人にはあるのだと感じられます。
言ってしまえば、できるだけ現実次元に留まりたい、せめて心霊的次元で和解したり真意を伝えたたりしたいという意識です。
個としての意識がなくなれば、それは究極の救済でもあるのでしょうが、個人として現実次元での生きた証しのようなものも消えてしまい、まだかすかに個の意識が残る段階での、その昇華や浄化を行いたいという強烈な望みのようなものがネックになると思われます。
そういった意味で、現実次元、心霊的次元、超越・統合次元の順で、できるだけ自分が思い残しをなくしたり、調和を働かせたりするということが、人類全体の進化にも関わってくるように感じます。
現実次元においては、簡単な言葉でいえば、できるだけ、「仕方ない」で済ますことのないような人生を送っていきたいというものになりますし、私たちは決して現実次元に生きるだけの存在ではない(望み・救いは多層の次元の目的と用意がある)という思いです。