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タロットによるセラピーの区分

世間では、タロッセラピストを名乗る方もいらっしゃいます。

タロットはいろいろなツールとして使うことができるため、もちろんタロットを使ったセラピーも可能だと思えます。

また、セラピーとは何なのかというセラピーの定義づけによっては、タロットによるセラピーの種類や方法も変わってきます。

一般的に、セラピーといえば、心身の癒し・治療を行うものと考えられます。

ただし「治療」と言ってしまうと、日本では法的な問題があるので、医師や、その他特別に許可された資格を持つものではないと、「治療」を謳うことができませんので、厳密には治療とセラピーと異なる部分もあるでしょう。

ともかく、タロットを使って占いやリーディングをするにしても、相談に来た人、クライアントが何らかの形で癒されたのだとすれば、それはセラピーだと大きな意味では言えそうです。

ただ、例えば、当たることを重視する占いであったり、カードを読み解いて、単なる「ある情報」を与えるという意味でのリーディングであったりすれば、それは受け取る側も、与える側も、セラピーをしているような雰囲気にはならないでしょう。

セラピー・癒しといっても、どの部分(程度・レベル)まで癒されるのか癒すのかを考えると、クライアントを深く癒していくことまで志せば、「癒し」というよりも、言葉として「浄化」「変容」というニュアンスに近くなる気もします。

ということで、私は現実的に考えて、タロットを使ってのセラピーを考える場合、次のような区分をまずは想定するとよいと思っています。

こうした種類分けをしておくことで、自分の知識、経験、実力によって、どの区分をメインとするセラピーをするのかが整理できるからです。

 

1.占い・状況判断的タロットリーディングによって、結果的にセラピーとなっているケースがあるもの

2.表面的意識の情報を超えた(あるいは、表面とは別の意識の)情報、心理的情報などをタロットリーディングによって探知し、クライアントに認識してもらうことでセラピーとなるもの

3.タロットを使って、能動的に浄化・変容を促し、治療を施していくセラピー

 

1は、タロット占いや、何かの判断を求められるリーディングを行い、結果的に、クライアントが癒されたと思うことで、セラピーになっているというものです。最初からセラピーを意識しているわけではないという点がポイントです。

2は、特にマルセイユタロットリーダーを目指す人には想定してもらっているメインのところ(そのレベルを中心フィールドとする)になりますが、タロットリーディング(必ずしもタロットリーディングの手法だけとは限りませんが)で、主に心理的情報も読み、クライアントが気がついていなかったり、常識的観点で抑圧してしまったりしている部分を探査し、それをクライアントに認知してもらうことで、心理的統合、あるいは心理的物語の調整が図られて、癒しが起こるというセラピーです。

重要なのは、能動的態度で、相手を癒す気持ちでタロットリーディングを行うのではなく、あくまでリーディングを行っているうちに、その読んだ情報が、クライアントの心の解放や調整につながっていくものになるという形式です。

次の3との違いにもなりますが、クライアントの不快な症状とか心理的問題を治療したり、軽減したりすることを第1目的とはしていないというところなのです。

それはむしろ心理的治療、あるいはサイキックな治療としての専門家が行うべきもので、能力や知識、経験にもよりますが、タロットリーダーがそこまで担うものでもないと言えます。

簡単に言えば、クライアントの「気づき」までのサポートを行う役割で、その気づきに至る情報も、(治療的にも)正しいとか正しくないというところにはなく、あくまでタロットと、リーダーの主観も伴った「ひとつの情報」であり、それが1の区分と同じように、結果的にセラピーになっているということなのです。

1との違いで言えば、1のほうが心身の癒しが、クライアントからは必要とされない場合も多く、要は判断や決断の示唆、選択の良し悪し情報みたいなものが中心となり、それに対して2は、1よりも、心の癒しや浄化の視点を持ってタロットリーディングを行うという点にあります。

そして、3は、タロットを使っての治療も目的とする(治療も視野に入れての)セラピーであり、クライアントの回復と大きな変容を目指す、セラピー中のセラピーと言えましょう。

この場合、直接的なものと間接的なものがあり、直接的なものとは、実際にタロットを体に当てたり、心理的治療ツールとして使ったりするというもので、間接的なものは、タロットカードの象徴を利用して、カウンセリングしたり、精神分析したりして、クライアントに(心理的・サイキック的)治療を施していくというものです。タロット以外の道具や技術も使用することもあります。

こちらのほうは、先述したように、法的問題があるので、実際にやっている方は少ないかもしれません。

また、この区分でのセラピーは、普通はタロットリーダーとしては目指す必要もないでしょう。治療までやって行きたいと望む人が踏み込む分野です。

もっとも、2と3の中間のような人もいらっしゃいますし、それはその人の個性、能力、知識にもよってくると思います。

セラピストを名乗ることで、癒しを求めている人に訴える意味も出ますが、一方で、何が何でもクライアントを癒さねばならないとか、癒しのための気づきを与えねばならないとか、変なプレッシャーがかかって、セラピストとしての自分を縛る結果になる危険性もあります。

素直にタロットの情報を多角的に読んでいくことで、結果的に癒しが起こるという程度に考えていくほうが、タロットセラピーと無理に言わなくても、セラピーがやりやすいこともあるかもしれません。

またいくら癒しが目的であったとしても、クライアントを過大評価したり、よいことばかりを言ったりするのは、セラピーにはならないでしょう。

マルセイユタロットでも「13」と「節制」が、数の上での並びでも向き合っているように、苦しみ、自分がつらいと思っていることに向き合うことで、本当の癒しが起きます。

つけ加えると、逃げることが決して悪いわけではなく、時に逃げて安全な場所を確保することも大事です。つまり、自分を本当の意味で大切することであり、その視点では逃げるのもありとなります。

自分を大切にするということでは、自分の人生に起こったことに対して真摯に請け負っていく態度が求められるます。

単なる逃避、ヤケ、怠惰、他人への迎合、自己卑下、抑圧などは、むしろ自分をひどく扱っていることになるのです。


正しさの判断がわからなくなっている人に。

マルセイユタロットの全体としての見方では、上昇や下降しての、いわゆる「レベル」や「次元」の上下という成長(調整)方向と、それとは異なる、すべてをひとつと見ることを前提としながら、逆にバラバラに分析していくような方向性(分離と統合)とがあります。

実はその両方を同時に見ていくことが鍵でもあるのですが、こうした物事の把握の仕方をしていくと、矛盾しているようなことも、案外と自分の中では整理したり、理解したりすることが可能になることがあります。

例えば、物事には順序・段階があり、何事も簡単にできるものではなく、ひとひとつの積み重ね、様々な経験を通して成長していくものだという考えがあります。

これがさらに強調されると、成功や目標、幸せも、簡単には手に入らない、それ相応の努力と、確かな経験を積まないと達成(完成)しないのだという、実は皆さんが好む、サクセスストーリーの裏話(実は影ではものすごい努力をしていた・・・みたいな話)のようなことになります。

ところが、現実には、努力をしなくてもうまく行っている人もありますし、目標に向けて、それなりの作業や行動はあったとしても、それが「努力」や「つらいこと」「苦行」「成長のためのたくさんの経験」のようなものとして、必ずしもいるわけではないこともあります。

また、最近では、心理系・スピリチュアル系ではよく見られる主張ですが、努力とか、頑張ることはしなくてもよい、自分がしたいこと・したくないことをはっきりさせていくことで自分らしさが出せて、周りの人も「自分(周囲から見れば「あなた」)」のこともよくわかってもらえて、のびのびと生きやすくなるという人もいます。

そうかと思えば、人としての成長は、たゆまぬ努力、他人や周囲との軋轢や気遣いなども経験して、大人になるものだという人もいます。いわば圧力や試練が人を成長させるという話です。

まあ、今は後者は時代遅れの話として、嫌われているところがありますが、それも結構誤解されていると思うのは、試練に耐えて成長した暁には、逆に自分らしさを、適切に、しかも自由に出せる胆力とか気風とか、判断力がついているという前提があります。

刀を鍛えて完成すれば、すばらしいものになり、何でも切れるし、防御もできる無敵の刀が誕生するというイメージです。ですが、鍛え方を間違うと、途中で折れてしまったり、曲がったりしてしまうので、鍛えるにしても、その加減が大切ではありますね。

それはともかく、話を戻しますと、これだけ今の時代、いろいろな方が、様々な話をすることで(情報がスコールのように降り注ぐ時代で)、「自分はいったいどうしたらいいのだろう・・・」「誰の言っていることが正しいのだろう・・・」と悩んでしまう人もいると思います。

問題のひとつは、「正しいものがひとつしかない」と考えることにあります。

たとえ真理がひとつであったとしても、この現実次元は、一人一人個性をもって生きている世界です。

従って、すべてはオーダーメイド、処方箋(自分に正しく作用するもの)は一人一人違うのです。現実においても、医者が処方する薬自体は同じでも、その種類の組合せ、容量・用法は一人一人違うことが多いものです。

身体は当然のこと、ましてや思想や精神まで考慮すると、一人一人違っているのは当たり前ですから、正しいものも、人の数だけある世界と考えるのが妥当です。

というのが、上下方向に、成長・下降を考える観点です。レベルの違い、次元の違いで見る方向性ですね。

究極は人は皆同じ、「宇宙」そのものであったとしても、現実次元では個別であること、そうした表現になっており、逆に言えば、「正しさ」というものが、どのレベル(範疇)で述べられているのかによって見ていくと、「正しさ」に関する悩みも少なくなるでしょう。(ただし、同じレベルの中では正しい・正しくないがある世界ですから、そこでの悩みはあります)

しかしながら、上下方向(で見ること)の欠点は、どうしても高い・低いの優劣みたいな段階を投影してしまいがちなので、その階段を登るために、努力しなければ成長できないという発想に囚われることにあります。

そのため、上下ではなく、左右や全体を円のようにしてみる見方も取り入れるとよいです。

上下では、自分が下にいて(あるいは上にいて)、登る(上る)か降りる(下る)かの視点になりますが、円的な観点では、自分を中心に置き、あらゆる要素が周囲に散らばっていると見るか、円そのものが自分であり、その円の中にすべてのものが入っていると見るわけです。

そうすると、自分自身は本来、円として完全、あるいは中心点として、どこに行くこともないし、周り(か、円の内側)のどことも関係しているという図形的特質からの感覚が出てきます。

そこから、「自分はもともと完全だから、欠けていると思っていところや、黒く塗りつぶされている部分を回復させればいいのだ」という発想になってきます。

こうなると、上下方向に階段状に成長していく、試練によって鍛えられていくというのではなく、今、気づきさえすればいいい自分の中心を取り戻せばいいということになってくるのです。

これは、努力したり、試練を受けたりして頑張って成長するというよりも、自分(らしさ)、自分軸・自分としての中心点を回復させることのほうが重要という見方になってきます。

だから、この観点では、人は一瞬でかなり変われることもあり得ますし、段階を踏まずとも、急に成長したかのようになることもあるわけです。

ただし、これもどちら(上下垂直的観点と、左右円的観点)が正しいかと言っているのではなく、観点をいろいろと持っていれば、「様々な人の言っていることを矛盾に感じたり、迷ったりする自分の心」を整理したり、納得させたりすることができるのだと述べているわけです。

もちろん、人ですから、誰でも好き嫌いのような感情はあります。

「この人は嫌いだから、この人の言うことは間違っている」と感じたり、「あの人の言っている内容は自分も好きで納得できるから、たぶんあの人はいい人だ」みたいになったりすることがあるわけです。

ただ、これも「感情」というものを中心にした見方です。これに対して、よく言われるように、反対概念として「思考」があります。

言わば、心が感じるか、頭で考えるかみたいなことです。

そしてたいていまた、スピリチュアル系統になりますと、心・ハートで感じたほうの選択がよしみたいなことで言われるのですが、ここで、心も頭も、あくまで人に備わったひとつの見方・観点としても見るのも面白いです。

マルセイユタロット的には四大元素と第5元素の思想が伝わっていますので、それを援用すると、私たちは心や頭(で感じたり、考えたりすること)それ自体が本分ではないということであり、結局、感情も思考も材料みたいなもので、それらを判断し、統合する「本質の自分」というものがいるわけです。

てすから、その視点からすれば、心で感じたことが正しいとか、頭で判断したほうが正しいとかの、まさに「正しさ」での発想・悩みとは異なってくることになります。

まあ、人によっては得意とするタイプがありますから、心がセンサーとして感度が高い人もいれば、思考のほうがそうであるという人もいます。性別的な違いも考えられます。

ですが、それは、自分の本質そのものではなく、自分の一部であるということです。(ただし一部ではあっても、違うレベルにおいての全部にもなっているというところが密儀的にはあります)

いつも全体を俯瞰している「魂の部分」と言いますか、もう一人の自分、本質の自分ともいえる者がおり、それらは心や頭で判断する(判断したと思っている)自分とは別です。

その本質に気づいていくことが、おそらく霊的な観点や成長につながるのではないかと、マルセイユタロット的には考察できるのです。


心の分野に使うタロット

(マルセイユ)タロットの活用は、このブログでもいろいろと言及しておりますが、「占い」を除き、最近よく知られるようになっているのは、心理的活用、言い換えれば、心の整理・調整、浄化に使うというものがあげられます。

今や、タロットをはじめ、ある主の象徴的カードの類は、確かにまだまだ一般的には「占い」の道具という認識はあるものの、ほとんどこういった心理次元で扱うのが主流になってきているのではないでしょうか。

(「いや、スピリチュアルな使い方が増えているのでは?」と思うかもしれませんが、狭義の意味でのスピリチュアルは、ほとんど心理かサイキックの次元だと言えますので、このように書いています)

それは、いわば自己洞察やセラピーでの活用と言えます。

私自身は特に自分に対しては、魂や霊的次元での考察へと、タロットへの視点は移っておりますが、それは別としまして、このように、今の多くは、タロットを心の次元、心理の分野での使い方が、実際的になっているということです。

それで、心の分野で使うということは、どのようなことなのかを(いろいろとある中で)、簡単にひとつ説明したいと思います。

実は、先日行ったブログ上でのリーディングゲームも、ゲームではありましたが、この、自分の心を整理したり、認識させたりする意味での目的もありました。

たぶんこのブログを読んでいるほとんどの方は、もう気がついている(知っている)でしょうが、心の分野への活用として、タロットを自分や他人の心の投影(または表出)装置として使う方法が、よく使われるものと言えます。

これは皆さんが思っているより、非常に重要な技術なのです。

心というのは、目に見えないものです。しかもいろいろな層に分かれているうえに、移ろいやすく、余計にとらえがたいものとなっています。

自分でわかっている心情もあれば、深くデータとして残って、潜んでいる場合もあります。

これを絵柄の形で表に出すこと、目に見える形にすることが、タロットを使う役割でもあります。(さらに言えば、それを言葉で表現するのも、セラピーの一環になり得ます)

しかもマルセイユタロットの場合は、意識・心の、人類共通のある種のパターン(ユング的にいうと「元型」)を象徴しますから、タロットカードに投影したり、表出したりしたものが、どのパターンであるのか、分類や分析が可能になります。

ほかの人と一緒にタロットを見る場合は、ある問題が、このパターン・象徴を通じ、その場にいる者の共通要素として登場し、人によってはもちろん見方や感じ方は異なるのですが、それこそが個性でありつつ、人として共通するものでもあるので、同じパターンを介して、自分と人との違い(違いがあるからこそ、自分らしさを認識し、それが自我の成長と安定にもつながるものです)と、実は皆同じなんだという、大きな安心感・一体感につながりもします。

何よりも重要なのは、見えないものが見える、わからないものがわかるという、その過程と結果(一連の流れ)です。

人はわけがわからないもの、見えないもの(認識できないもの)、理解できないものに、強い恐れや不安を抱きます。

例えば暗闇の中で、何かが動いている感じがすると、とても不気味で怖くなりますが、電気をつけてみると、「部屋で干していた洗濯物がエアコンの風に当たって動いていただけだった・・・」とわかれば、「なぁんだ、それだったのか」と、すごく安堵するわけです。

自分の心、内側が見えないために、わからず混乱していたところ、それそのものではなくても、形として、絵として、タロットの図柄(象徴)で確認することができれば、少なくとも一歩前進し、その正体に近づくことができます。

得体の知れないもの、エネルギー的なもの、観念的なものは、あえて形にしたり、キャラクターとして人物化させたりすると、実はそれを扱いやすく(コントロール)することができるのです。

「問題」という原因そのもの、正体そのものがはっきりわからなくても、「問題」を「それ」「これ」として、ひとつの形や人間のように置き換えてみることで、「それ」「これ」と対話したり、実際に手で触ったりすることができるようになるわけです。

いわば、五感という、人間の感覚器官に収めることができるのです。

サイキックや心理の次元では、物質に転嫁したり、投影させたりして、あたかもエネルギーのように、物質的には実体があやふやなものを、モノ(見える形・現実の物)に移行させて、処理をするという技術があります。

お祓い的な行為も、こうしたシステムが一部使われている面があると言えます。言ってみればモノや形への象徴化が、実の効果を伴うというわけです。

さらに、タロットカードそのものを意識や心の投影として見るだけではなく、タロットの絵柄の近くにある空間に現れる(イメージ)される事柄も、また心の何かが表出されていると見ます。

マルセイユタロットの場合は、カードに描かれている人物の視線が強く描かれていますので、前の記事の「リーディングゲーム」のように、その人物の視線の先に浮かんだものを、自分の内にあるものととらえる場合もあります。(視線だけではなく、カードを取り囲む空間の方向性それぞれに想像できたものに対して、意味を見出すこともあります)

もちろん、それ(イメージされたもの、意識から浮上したもの)はカードの絵柄があってこそのものなので、空間に現れたものもカードと無関係ではありません。

しかし、単純にカード一枚に心をあてはめるだけではなく、カードに描写されている絵柄の導き(人物の視線や持ち物、その他もろもろを)通して表出してくる心の動き、イメージ、感情などにも意味があると考えるわけです。

それは、マルセイユタロットの場合、ひとつひとつ細かな絵や人物の視線などに意味があるから、その作業に意図を見出せるのです。

人はつまるところ、自分の思考と感情で生きているようなものなので、心や精神の分野、自らの内側を見つめ、整理・浄化していくことは、生きやすくなるうえでは、不可欠ともいえる重要なものです。

しかしながら、大きな意味から言えば、それもあくまで技術のひとつで、タロットでいえば、「手品師」の操作に近く、タロットの活用の目的は、心だけのものに留まるものではないことは言っておきます。


心理的問題を追及し過ぎている人

タロットリーディングをしたり、いろいろな人の記事を見たりしていますと、今の時代、心理的観点で自分の問題を見る方が増えたと感じます。

いや、それが普通のことなのかもしれません。今までがむしろ、心理的観点というものを無視していたか、あったとしても、現実には大した影響はないのだと思い込んでいたかでしょう。

しかし、あらゆる情報が簡単に入手できたり、披露されたりする中で、心(の中のデータ)に問題があるから生きづらくなっているという考えを受け入れるのも、今は当たり前のようになってきました。

そうしたことで、自分のつらさや心苦しさ、表面的にはそれなりにうまく生活できているようで、実は社会や集団に適用できていない自分を感じていたような人には、その心理的な原因もわかって救われるという人も少なくありません。

ところが、一方で最近は、あまりに深く自分の内面を掘り下げようとしている人がいるように感じます。

しかも深くという深度だけではなく、横にも拡張して、手を広げているという印象です。横というのは、自分の問題を心理的な原因として見て、その(原因の)見方を、様々なものからアプローチするというものです。

いわば、「原因はこれではないか」「あれではないか」と探り、その解決法に対するのもまた同じで、「この方法がある」「あの方法が効果的」「これさえ学べば問題は解消する」・・・みたいに、次々と問題要因の仮説と、その対処法・解決法の技術を調べあげ、実践もするという態度です。

それで癒されたり、現実(外面・環境)と自分の内面が調整されたりして、すっきりすればよいのですが、どうもこうした傾向にはまる人は、問題が解決してしまうことを恐れていたり、自分個人の範囲を超えた問題の分野まで入り込もうとしていたりするのではないかという危惧があります。

問題が解決してしまうことを恐れているというのは、簡単に言えば、自分の問題が解決してしまうと、自分の(存在)価値がなくなってしまうからです。

そこには、「問題を持って、生きづらくなっている、ほかの人とは違う自分」という、マイナスの特別感のようなものがあります。

裏を返せば、「自分には生きている価値がない(少ない)」とか、「人とはいろいろな意味で違っているから、うまく生きることができない」という感情で、それは劣等感といえばそうなのですが、厳密には劣等感とはちょっと違うものであり、社会に適応できないいらだち、恐れ、不安、虚無、あせりのようなものが一緒になった複雑なものと言えます。

それゆえに、そういう人には孤独感がつきまといますが、だから実は心の奥底では、そういう孤独な自分を受け入れてほしい、わかってほしい、認めてほしい、愛してほしいという感情も渦巻いています。

そのためには、自分が普通になっては困るのです。普通だと特別ではなくなりますから、自分に注目してもらえなくなります。

そして、ここがもっともポイントですが、それは他人に認められたいというものよりも、実はもう一人の自分自身に認められたいという、内部構造の分離と統合に関係しているのです。

心に問題を抱えている自分(子どもの自分)が解消されてしまうと、もう一人の自分(大人といってもいい自分)に見捨てられるという恐怖が根底にあります。

「子どもの自分」と「大人の自分」と書くと単純ですが、これは便宜上、そう書いたまでで、マルセイユタロット的には、本当は反転しており、大人こそが子どもであり、子どもこそが大人で、結局は、魂の反抗みたいなところになっているのです。

そのことが現代心理学(アカデミズムの心理学)では説明されないので、せいぜい潜在意識と表面意識みたいなモデルで扱われ、その統合や調整という観点になってくるので、逆に、問題を探求していく姿勢が崩れないのです。

魂の反抗とは、霊性回帰のためのレジスタンスであり、現代社会に巣くう歪みからの脱出を意味します。(言葉を換えれば「グノーシス」となります)

そのプロセスとして、心理的に、奥深くの心の問題を探ろうとしたり、様々な原因と解決策を見出そうとしたりという方向性になってくるのです。

しかし、当人には、自分の生きづらさや問題が、何か心の中にあるデータが問題を引き起こしているのではないかと思っているため(実際、そういうことがありますし、その構造を明らかにするのが心理学的な説明とひとつの治療になります)、すべてがすっきりする「これだ!」という原因と解決法が見つかるまで、探求は止めないのです。

けれども、霊的(グノーシス的)な観点から見れば、そのこと(探求)自体が、霊性回帰のポーズであるということです。

従って、心理次元において、どこまで行っても、本当の原因は見つからず、それでも、何か原因(と解決策)という「宝」はどこかに埋まっているはずと、掘削作業を続けていくのです。

心理的要因(原因)を追求してはならないということを言っているのではありません。

その段階は人によっては必要なものですし、実際にそれで楽になったり、救済されたりすることはあります。(だからセラピーは有効で、セラピーの方法もたくさん存在しているわけです)

ただ、セラピーは個のレベルでは終わっているのに、「まだまだだ!」と、さらに先に進もうという人は、まるで賽の河原の石積みのように、積んでは壊しを繰り返している状態でもあるわけです。

さらには、個の次元を超えて、集合的無意識の世界(のネガティブ要因)まで背負おうとしている人もいます。(そういう役割を自覚・自認している人はいいのですが)

すべてを一気に統合しようとしたり、浄化しようとしたりせず、正義と悪の分離をきちんとしたままで、自分が認められるものと認められないものを分けて考え、段階別に割り切る(処理できる能力と範囲を厳然とし認識する)も必要だと思います。

掘削作業をし過ぎている人は、同じレベルの問題を、「見方や論点を変えてまた新しい問題として再生させている」という、自作自演の「問題のゾンビ状態」に気をつけ、はまっているループ地獄から出る視点を持つことです。

それは問題を見る(原因・要因、解決策の探求をする)のではなく、問題そのものから離れる(問題もひとつの事件や悪として象徴化して受け入れ、ひとつのパターンとして自分の歴史として風化させる)ことなのです。(単純に言えば、現実と将来に目を向けた、次に向かう未来志向)

もちろん、先述したように、心理的問題を分析し、それを解消していく段階も必要な人はいますので、それはそれでいいのです。

しかしながら、ずっと堂々巡りのようになっている人や、近頃はわざと商売的に心理的問題の解消のセラピーが必要だと、大げさに宣伝されて、ありもしない問題まで自分で作り上げてしまう(あるいはや、他人によって作り出されてしまう)場合もあるので、そうした注意を述べているわけです。

マルセイユタロットにおいても、タロットの人物の視線によって時系列が表現され、過去側(それは内面とも言えます)を見ているのではなく、未来(新しいもの、新ステージ、新次元)側に視線を切り替えていく重要なポイントが、きちんと示されています。


時の「円」観点。(夏至通過から)

一年の周期でも、大きな節目、ポイントである夏至の日を過ぎました。

皆さんの中では、もしかすると、個人的にこの日を境に、何か大きな変化があるのではないかと期待と不安を抱いていた人もいらっしゃるかもしれません。

昨今は、いろいろな方が、スピリチュアル的に、ある年や日の時間的ポイントを、全員に共通する変容点として強調される人が増えたせいで、一種の思い込みのように、自分もそういう「時」のポイントが来たら変化するはず、いや、「変化しなければならない」と信じ込んでいる方も見受けられます。

これは見方を変えれば、ある意味、洗脳(意図的ではなくても)でもありますから、人からただ言われたからとか、人が言っているからというのではなく、自分自身の感覚、または知性的判断というのも、バランスの意味で、取り入れることをおすすめします。

仮に何らかの「変化」があると言っても、それは人によって程度もありますし、受け取り方、対応の仕方によっては、マイナスの変化もプラスの変化もあるわけです。

そして、この点も大切なことですが、ポイントはあくまでポイント、サインであって、その一点からすべてが一瞬にして変わるわけではないということです。

つまり、皆さんの中には、直線的に時のポイントを見ている人が多いのではないかと考えるわけです。

たとえば一年という「時」であっても、それを円(円環)でイメージして見るのと、1月から12月を、直線でただ進んでいくと見るのとでは、かなりポイントの性質と見方も異なってきます。

直線的に見る場合、あるポイントというのは、まず「通過点」として表れ、さらに直角とか、角度をもって上か下かに直線的に曲がることを(方向性の変化として)想定すると、そのポイントから急激に変化する「点」だと感じられます。

しかし円で見た場合、円周上のあるポイントは、円としてつながっている中のひとつの点であり、同時に、仮に円にその点から円の中に伸びる直線を引くと、ほかの円周上の点に行き当たり、その点との関係性も生じます。

そこから考えても、直線で時を見るというのは、ただの通過点としてポイントを見るか、急激な変化点というデジタル的、白か黒かのようなもので見るかということになり、一方、円で時をとらえれば、つながりの中の点、関係性の点、あるいは、特にポイント(点)が際立つというより、円全体として見えてくるということにもなります。(むしろ大事なのは円そのものと、その円の中心点であるということ)

円的な見方で、たとえば夏至をポイントとして見ると、夏至は対極に位置する冬至とのセットであるということ、また角度によっては春分・秋分との関係も深いこと、もっといえば、それぞれの角度によって、あるポイント(点、すなわち時)とのつながりを持つ点であるということになります。

 

この角度こそ、ある観点、関係性を象徴します。(占星術的にはホロスコープのアスペクトに相当)

太陽の巡りとしては確かにそのポイントは重要な点でもありますが、また別の観点からいえば、円の中のひとつのポイントに過ぎません。

しかしひとつに過ぎなくても、やはり全体としての円のうちのひとつであり、一点でも欠ければ、円として成立しなくなります。(不完全になる)

この夏至点を含む円は、一年という「円」ではありますが、円は全体、あるいは個人としてのトータルなものの象徴として見ることも可能で、言ってみれば「円」という形そのもので、時の巡り(つまり天体の回転)も示せば、個人の人生や人間としての完成も象徴させることができるわけです。

このように、次元(世界)や場所は違っても、円というイデア・象徴としては同じであり、図形で見れば、すべてはつながり、考察することができ、あらゆるものは円の運動、円周と中の関係による事象(表現)として見ることができます。

円を作り上げているのは円の中心(点)です。(コンパスで円を描くことを想像してみてください) 

しかし同時に、円周があるからこそ、円の中心が見えてくるものでもあります。

円の中心とは何か? これは他ならぬ、外の世界を見ている私たち(あなた)自身の本質とも言えましょう。

そして円周から中心点が推し量ることができるように、あなた(コト)の本質も、観察している事象側から見えてくるものでもあるのです。

一年をサイクル、円としてとらえ、夏至をそのポイントとて見る時、夏至はあなた(中心)にとっての何になるでしょうか?

もちろん、夏至だけではなく、ほかの時のポイントが毎日、毎時間、それこそ細かくすればするぼと、無数にあるのです。ところが、太陽サイクルの象徴性においては、夏至はやはり特別なポイントとして色づけされます。

と言っても、あなたの円は、太陽サイクルそのものではないのです。円・サイクルを共通させた「象徴」としての円のひとつです。

ですから、円の象徴性として、太陽サイクルは、なるほど、人の全体として共有する部分はあるにせよ、個別性の円としては(一人一人の人生、個人の時の円として)、まさに人によって、その表れ方も違ってくるのです。

さらに言えば、あくまで夏至といえども円周上のひとつのポイントであることで、円全体として見れば、円周上での移行の過程ということになります。ただ直線の通過点と違うのは、それが円としての全体や、他のポイントとの関連性を持つということです。

ですから、簡単に言えば、夏至を境に急激に変化するというのではなく、ここをあくまでサイン・ポイントとしながらも、グラデーションのように変化している最中であるという認識のほうが、円的な見方となります。

だから、そこをピーク、重要なポイントとしながらも、「次第に」とか、「少しずつ」変わっていくというような言葉のほうが適当と言えます。

夏至(その他の時のポイント)を境に変わった人がいてもいいし、変わらない人がいてもいい、それでもサイクル・円としては何らかの変化が、円という「循環性」の中で生じているということなのです。

また、この円は古代の象徴性でも、マルセイユタロットの中でも表されている「脱皮するもの」でもあり、循環と言っても、まったく同じ内容で戻ってくるのではなく、成長や、時には下降(堕落)を伴いながら、別の円に移行(円抜け、縄抜け)します。

これを立体的に見ると、螺旋状の動きとしてとらえることができます。

上昇しての新たな円のサイクルに入るか、下降して、もっと囚われの円に入るか、それはあなた次第でしょう。

時のポイントは確かにありますが、それにとらわれない観点、自分の中心点をしっかり見据えておくことも、また大事なことなのです。


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