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他者のいる世界で。

マルセイユタロットの大アルカナを眺めていると、ふたつのもの、ふたつの生物(人間・動物)を扱っていたり、描かれていたりするのに気づきます。

これは、究極的なことを言えば、二元から一元に統合する過程や、その反対に、分離していく様を表していると考えられますが、現実的な意味で見ても、私たちの世界はふたつで表現できるところにある、存在しているとタロットは語っているように思えます。

ふたつの世界とは、こちらの世界とあちらの世界、自分の世界と他人の世界、その他、もろもろで表される「世界観(感覚)」です。

人間関係に置き換えてみると、人は人(他人、自分以外の者)によって傷つけられ、苦しめられることになりますが、同時に、人は人によって、助けられ(救われ)、成長することもできます。

自分の知らないことを人から教わることができますし、逆に、自分の知っていることを人に教えることもできます。

要するに、自分だけではいいにしろ、悪いにしろ、自分では経験ができない世界の部分(一面、別面、側面)については、他人が請け負ってくれるという仕組みです。

これが私たちの住む世界であり、「現実」と認識している世界でもあります。

マルセイユタロットによれば、人はもともと完全性をもった存在(ひとつなるもの)です。

従って、誰しもが、一人で完全なる者ではあるのですが、現実の世界においては、男女や個性で分かれ(分離)し、個別の世界観を、一種の共有データによって同居させている状態になっていると考えられます。

そのため、大事なのは、最終的には一元に還る(完全性)というものであっても、普通の現実世界においては、分離した個人、自身の不完全性も認識しておくとよいのです。

もっと別の言い方をすれば、人は一人では生きておらず、人に影響されて生きる存在であり、人によって苦しいのも当たり前ですが、逆に世界は、ちゃんと救いも人によってもたらされるようにできているということです。

自分は弱い、一人では何もできないと認めてしまうと楽になれ、他人の助けを借りることができ、他人から素直に学べて、自身の完全性を補い、成長させることができます。

本当は「完全性を補う」のではなく、思い出すと言ったほうがいいのかもしれません。

たとえ閉じこもっていても、あなたが生きるために口にするモノは、誰が作り、誰が運んできたのか、あなたが住んでいるところ、水道、ガス、電気などのエネルギー・ライフライン、さわっているモノ、見ている作品・・・これらはすべて自分ではない他人が用意してくれたものなのです。

どこに逃げても、現実世界においては人の影響は避けられません。

時に人に傷つけられたり、ひどいことをされたりすることもあるでしょう。

だからと言って、黙ってそれを受け続ける必要はなく、あなたにはあなたを認め、救い、癒す、他人もいるのです。

ですから、あまりに自分にとってひどい環境であるならば、逃げるもありです。

他人の世界も、また「ふたつの世界」があり、あなたにとって厳しい他人の世界と、あなたにとって優しい他人の世界とのふたつがあるのです。

あなたにとって、その他人が厳しい世界であるならば、ほかのところには、あなたに優しい他人の世界があります。

そしてまた、厳しい世界と優しい世界も、これまたふたつの表現であり、ひとつに戻すと、愛のふたつの示し方ということが言えるかもしれません。

このふたつの世界(感覚)は、魂の一種のゲームだとも言え、完全性を味わうために特殊設定された世界が、まさに私たちの現実フィールドとも考えられます。

ゲームなのですから、解決の道はどこかに隠されています。

面白いことに、他人の影響する(この現実)世界も、自分の中にある「ふたつの世界」(よい・悪いと思う反応の世界)によって見え方が異なるようにもできており、結局、様々に「ふたつの世界」に見えるゲームの解読の鍵は、ふたつの間の中立性や統合的な観点にあるのではないかと想像されます。

ともかくも、苦しい時は、一人だけの世界に逃げがちですが、そういう時こそ、他者との交流があなたを救うことになります。

ただし、自分が依存になっていた(依存していた)関係の他者、今までの状態でつきあっていた、自分が苦しくなる他者は、優しいように見えて、あなたには厳しい他人であったと考え、その人とのこれまでの関係性から脱却し、ほかの他者との関係を築いたり、(救いを)求めたりしたほうがよいでしょう。

問題の起因となった他者を変えようとしても、かえってあなたには厳しくなるばかりなのです。


「恋人と「審判」、恋の変容に見るもの。

マルセイユタロットの「恋人」カードと「審判」のカードは、特にその絵柄の構図からも、とても似通っており、一見して、両者が何らかの強い関連性、対称性のようなものを持つことがわかります。

しかし、同じカードではないのですから、似ているようで違っている部分が当然あり、それが意味として、重要なところがあります。

その詳しくは書けませんが、見た目のところから判断して、同じ構造としては、天使と三人の人物という点で共通しています。

そして、そのうえで違いはと言えば、天使の大きさ、人物の服と裸、視線などで、さらに「審判」には棺のような四角いものも登場しています。

「恋人」のほうの人物たちは、どうやら上空の天使(キューピッド)には気づいていないようですが、「審判」のほうでは、巨大な天使の存在を、少なくとも恋人カードの人たちよりも察しているか、やはり気づいているのではと思える描写になっています。

「天使」が文字通り、「天の使い」であるのなら、私たち地上の人間、「地」の者に対して、天からのメッセージ、働きかけを仲介している存在・状態として見ることができます。

すると、「恋人」カードの状態では、その天の作用やメッセージがまだ十分ではなく、人間の常識的・日常的感覚、判断が主になっているものと考えられます。

一方で、「審判」になると、直接、天のメッセージ、働きかけを受け取ることができている(常識を超える感覚・情報を持つ)ものだと想像できます。

これをもう少し表現を変えてみれば、天上(神性・霊的)意識への目覚めと気づき、そのレベルを象徴していると言えましょう。

「恋人」カードが、恋愛模様を描いているようにも見えるのも、偶然ではないばずです。

人は恋をした時、理想と現実、希望や願いと、それが叶ったり叶わなかったりする状態を経験します。

それは、「恋」というのが、必ず、相手・対象を必要としており、自分だけの思いや行動では決まらないものであるからです。

両思いで天国のような気持ちを味わう時もあれば、片思いや報われない恋をして、地獄のように苦しむこともあります。

相思相愛のよい恋愛状態であっても、気持ちが冷め、あるいは、たとえお互いに熱いものがあったとしても、諸々の事情などで、別れたり、失恋したりすることもあります。

ただそれは、確かにひとつの愛(愛情表現・恋としての)の形ではあっても、まだ天から見た認識レベルにおいては、やはり地上的(物質・束縛的)で、その恋において、天使からの本当に告げられるメッセージは、地上性とは別のところにあるというのが、「審判」との違いと言ってもよいでしょう。

ギリシア哲学風に言えば、天上の女神(ウラニア)と、地上の女神(パンデモス)との恋の違いのようなものです。

「恋人」のキューピッド(現実で出会う縁・恋愛での関係)が、「審判」の天使(天の真のメッセージ、その関係性の本質の認識)に変容した時、本当に高次の愛を知ることになります。

同時に、自分も、失った恋の痛手から、大きな全体の愛に包まれる(包まれていた)喜びを知ることになり、次元の上昇が導かれます。いわば、天使の本当の働きを知るのです。

従って、「審判」にある棺は、今まで覚醒していなかった自分の部分であり、しかし、それは自らの高次で純粋なものを浮上させるための、現実の体験フィールドでもあるのです。

そこから目覚めた者が、初めて大天使としてのラッパ、天使の情報を聴くことができます。(真の意味、答え合わせができる)

天使でいえば、「節制」というカードも天使の絵柄です。

体験によって、あるいは気づきによって、目覚めたあなたは、今度は「節制」となって、今苦しんでいる人、変容中の人を、現実において(心)の「天使」として、手助けすることになります。

だからこそ、「節制」の数の前に、「1」のカードがあり、7を基準にした関連性では、「恋人」(6)と「審判」(20)の間には、「13」が入ることにもなるのです。

「恋人」レベルの状態で、この人だけ、この人こそ真のパートナーと思っている時であっても、それがかなわない場合(別れたり、受け入れてもらえなかったりする時)は、実はその関係性と、そこまで思い悩むこと自体が、あなたのレベルを変容させようとしていることに気づくとよいでしょう。

有り体に言えば、ほかの人との深いつながりの可能性もあるかもしれず、その人が運命の人とは限らない(もちろん運命の人の場合もあるのですが、その人が絶対だったり、すべてであったりするのではない)ということなのです。

そういう思いになれることが、「審判」への変化でもあります。

(一人の)人への強い愛は、そのエネルギーを拡散すれば、たくさの人の愛のエネルギーにも匹敵します。

あなたがそこまで深く思えるのは、深い愛のエネルギーを有しているからでもあります。

しかし、それを(一人に)集中させてしまうことは、地上性での人としての性(さが)でもあって悪いことではありませんが、一方で、地上性・現実性に囚われからの解放を天使が働きかけてもいるのです。

失ったように見えても、何も失っていないどころか、まだほかの可能性(相手や表現)もあり、さらには次元の違う大いなる可能性と喜びも確かに存在していることが、「審判」には記されています。


「世界」と「節制」と「戦車」の物語

今日はちょっと、スピリチュアルというか、ファンタジーな話になります。

あまりそういうものが合わない人は、飛ばしていただいてもよいです。

ただ、ファンタジー的なものは、逃避もある分、癒しや現実を超越したものをもたらすこともありますし、常識的に見ても不可解なこと、矛盾したことの多い現実の世の中にあって、自己の納得する個人的物語(ストーリー)を紡ぎ出すことがあります。

要するに、生きにくさのための清涼剤にもなれば、活性剤にもなるというわけです。

そういう意味も込めての話です。

マルセイユタロットでは、大アルカナの「戦車」、「節制」、「世界」は、7の数を核として、ある種の共有したもの、関連性を持つカードたちになります。

その関連性には、いろいろな意味が考えられるのですが、今日は、そのまま単純に、三枚の名前や意味を見た時に現れた、ファンタジーな世界観を紹介します。

それは、あなたは、「世界」を救済するために現れた、別“世界“の

「天使」であり「戦士」であるということです。

このうち、「世界」は、すでに言葉が直接出ていますが、「救済」や「天使」という言葉は、「節制」のカードがら出る主要な意味であり、「戦士」というのも、「戦車」からイメージできるものです。

これで、3つのカードがすべて登場しているのがわかります。

では、この文章の意味とは何か? です。

この現実(現状)の世界は、楽しくもありますが、苦しいことも多く、簡単にすべての人が楽に幸せに生きられる世界ではないのは、皆さんも実感しているでしょう。

それゆえ、この世を天国、幸せに満ちた(あるいは、誰もがそういう状態になれる可能性の)世界ではなく、むしろ地獄や悪魔の創った、とんでもなくひどい世界であると認識する考え方もあるくらいです。

自分・個人としてどう思っているのかはともかく、多くの人の状態を見れば、少なくとも誰にでも優しい世界とは言えず、かえって難しい(厳しい)世界であるとも言えましょう。

そういう困難な世界にあえて挑戦し、戦士として来訪することで、この現実世界に立ち向かい、同時に、天使(的な使命感)として、他者のサポートや救済に回ることを行っている人がいると想定してみます。

ただ、戦士の自覚、天使の自覚がまだなく、自分が困難な世界に来たという感覚だけは残っており、そのため、違和感や生きづらさをひどく感じて、苦しんでいるという者も存在すると見ます。

この世界に来訪する際に、そのショックで、ほぼ元の記憶を失う仕組み(おそらく相当な次元転移があったので、弊害としてそうなる)があり、ある意味、それを承知で来ているわけですが、一部の人は思い出すこともでき、その人たちは、戦士や天使としての自覚を取り戻し、厳しいこの世界に使命をもって活動していくことになります。

しかし、いまだ思い出せない人は、次元転移のショックが続いているため、いわば戦士の屈強な心身から麻痺や劣化した状態にあり、普通以上にナーバスになったり、弱い人となっていることも考えられます。

とはいえ、元は戦士であるので、何らかのきっかけで、ショックが癒され、たとえ完全に記憶が戻らなくても、ある程度の回復があれば、勇気と力が湧き起こり、救済側の天使(役)として、他者のサポートに活動していく(そのような志を抱く)ことになるでしょう。

精神やスピリチュアルな活動・仕事で、人の役に立ちたいと思う人の中には、そういう意志も働いているのかもしれません。

そして、さらには言えば、なぜにわざわざこの厳しい現実の世界に来るのかと言えば、ほかの人の救済という意味だけではなく、そうすることの切実なる必要性、理由があるのではないかと推測できます。

それは、向こうの世界が退屈であるか、何らかの危機に瀕しているかということです。

バランスを欠いているとも言えますし、保たれているバランス状態のレベルが、意図するものより、低いものになっているということも考えられます。

こちらの現実世界と、戦士たちがいるあちらの世界とは、何らかの形で鏡像関係、対称性や関連性をもっており、いわば、ふたつでひとつのような世界観になっていると思えます。

向こうの世界は、こちからから見れば、一見、極めて平和で調和が保たれているかのようですが、長い間刺激もなく、オートマチックな、機械的ともいえる暮らしに支配され、創造性が失われつつあるのかもしれません。

自由や楽ではあるものの、退屈やパターン化に支配されているおそれもあるでしょう。

また反対に、向こうは問題もなく、それなりに活性化して個性あふれる社会なのかもしれませんが、こちら側との相互リンクがあるため、ちょうどこちらの世界が、天気や自然で災害が起こるように、向こうの世界もネガティブなこちらの世界の影響を受け、天変地異が起こったり、何か自然がおかしくなってきているのかもしれません。

いずれによ、こちらの世界とあちらの世界の再調整のために、向こうからこちらに介入しなければならないことが想像されます。

どちらの世界においても、別の意味で自由や解放、平和が脅かされている状態となっているわけです。

通常は、次元が異なるので、両者の行き来はできないものの、ある条件をもとに、向こうからこちらに行くことはできるのではないかと思えます。

ただ、先述したように、それはかなり大変なことであり、欠点として、記憶を失う(場合が多い)ことがあるのだと考えられます。

しかしそれでも、戦士・天使に目覚めるプログラムは、こちらの世界の条件次第ではある(復活する)ので、頑張って志願する人も多いのでしょう。

こちらの世界(と人々)が少しでも癒され、変化することで、あちらの世界は、きっとこちら側が思っている以上の恩恵が得られるのだと思います。

この二つの世界を並行次元で見るか、上下次元で見るかによって、いろいろな神話や思想の型をあてはめることができます。

このような話が、そのまま事実だというつもりは毛頭ありませんが(笑)、この型・パターンが、私たち人類の意識にあること自体に、実は興味深いものがあると言えます。

少なくとも、現状(地球・社会の今のシステム、多くの人の共有している型)に違和感を覚えることは、現実逃避や悪いことではないと思っています。


人間の調整力と、合わせる生き方

人間には、すばらしい調整力があります。

このあたりは、マルセイユタロットでいうと、「節制」のカードがよく表しているように思います。

「節制」のカードを見ますと、ふたつの壷を持った天使的な人物が、壷からの水を混ぜ合わせている様が描かれており、そのことで端的に調整力・適合力を示してると言えましょう。

ところで、最近は、自分主義と言いますか、自分の好きなことをする、自分らしくありたい、自分らしく生きたいということを求めたり、そうすることを後押ししたりする人が増えてきました。

確かに、自分を押し殺し、したいことも言いたいことも抑えて、我慢したまま生きつづけるのは、誰のための人生か、と言いたくもなります。

たとえ人のために生きるのであっても、それが嫌々や道徳的な押しつけではなく、本当に自分の喜びであることが大事ではないかと思います。

そう思えることのひとつには、単純に、「人のために何かをすることが好き」という性格や傾向から出ているものがあるでしょう。

そして、もうひとつには、人の喜びが自分の喜びと感じられる考え方(意識)の拡大・変容によって、得られることがあります。

前者はもともと持っている人の性格みたいなものですから、置いておくとして、後者は、学びや気づき、経験の蓄積など、自身の向上によって獲得することができます。

つまるところ、それは自分中心の見方からの転換、あるいは多方面・多角的観点から、人と環境を思いやれるかどうかにかかっていると言えましょう。

自分らしく生きたい、自分の好きなことをして生きていきたいと言っても、私たちは一人で生きているわけではありません。

そこにはたくさんの別の個性を持った人々がおり、その人たちと時には対立したり、合意したりして生活しています。

従って、当たり前ですが、ただ自分そのもの(いわゆる「わがまま」)を強く押し出しても、うまく行かないことが結構あるわけです。

ただ、だからと言って、穏便に済まそうとしたり、自分だけ我慢すれば周囲は円く収まるのだと自分を押さえつけたりしても、「この人は何も言わないから了解している、(何でも)OKだと誤解されて、ますます、立場が悪くなったり、無理難題を押しつけられたりしてしまいます。

主張すべきところは主張し、自分がやりたいことは表現するようにしたほうがよく、そのうえで、他者や周囲の環境との調整がなされて初めて、調和がもたらされると言えます。

好きな仕事をしたいというのもいいのですが、皆が皆、それぞれのしたい仕事をそのまま通していたら、世の中は社会機能的に成り立たなくなるおそれがあります。

だから、自分のほうが、今の仕事や職場、あるいはすでに成り立っているもの、現実的に就きやすい仕事・やり方に対して、調整して合わせていくということもありうるわけです。

ただそれは、向こう側からの欲求や押しつけを鵜呑みにしたり、そのまま何でも言いなりに受け入れたりするというものではなく、自分のしたいこと、自分らしさというものも自覚したうえで、相手(すでにあるもの)と調整し合い、両者が混ざり合ったとところで、納得して生きるというようなことを言っています。

場合によっては、そこでの調整不可ということもあり得ますので、その時は、辞める、逃げる、新しいところにチャレンジするという選択も、別の意味での「調整」になります。

最初にも述べたように、人にはなかなかの調整力・適合力が備わっているので、自分が思っているより、自分のほうが相手に合わせることができ、その合わせた自分を改めて見直す(合わせられている自分を評価をする)ことで、新たな喜びを感じていくことも可能になるわけなのです。

いわゆる「食わず嫌い」という言葉もあるように、現時点で自分が思っている好きなこと、自分らしさ、苦手なものというのは、あくまで途上の段階のものだと考えることもできます。

本当に好きな仕事とか、自分らしい生き方なんていうものは、今のあなたの考えだったり、誰かの言葉や情報で、そう思い込まされたりしているだけで、未来には変化していることもあるかもしれないのです。

自分を内的に知ることも大事ですが、何かを体験し、経験することで、自身の中にあった可能性が発現し、それが好きなものになる、生き甲斐となるという、行動・体験によって(外側から)自分を確認するというパターンもあるわけです。

「節制」には助けるという意味だけではなく、助け合うというものも見出せ、それは他者がいるからこそ(自分以外のもの、既知と未知の交流で)、自分が存在する、自分がよくわかるという意味でもあるのです。


「悪魔」の選択

マルセイユタロット(に限らずでしょうが・・・)は、実はどのカードも解釈には難しいところがありますし、その反対に、シンプルに見るとすれば、ワンワードで示すことも可能です。

それでも、どうしてもシンプルに考えたり、読んだりできないカードがあるのも確かです。

代表的なものでは、「月」のカードがあります。また、別の意味では、「悪魔」のカードも、解釈や意味の取り方が難しいと言えるかもしれません。

「悪魔」を単純に悪いカードとして見ると、それほど困難ではないのですが、「悪魔」にポジティブな意味を見出したり、深い考察をしていったりするとなれば、一筋縄ではいかないカードとなります。しかし、そういう見方こそがこのカードの極意を知ることにつながります。

それで、今日は、この「悪魔」のカードについてのリーディングの一考察として、比較的ポジティブに見るもの(のひとつ)を取り上げたいと思います。

「悪魔」は、ここでは詳しく解説しませんが、人間の欲求とその表現、及び充足(満足)と関係し、悪魔自体は高次の存在でありながら、低次なものに親密性を持つ影響と力があります。

言い換えれば、私たち人間の、低俗なものも含む、欲求をかなえさせようと刺激して来る存在です。

これを悪い意味(目的)でそうしているか、あるいはいい意味(私たちの成長や解放につながる目的)なのか、さらにはまったく混沌としていて、目的も何もなく、ただ悪魔自体の習性や好みとして行っているのか、それは悪魔に聞いてみないとわからないのかもしれません。(笑)

しかし、このように、悪魔の目的を多方面から考えることで、「悪魔」のカードをネガティブなだけではなく、ポジティブな意味や、高次覚醒のための支配(介入)と見ることも可能になるのです。

ところで、私たちは、この前の「聖性と俗性」の記事ではありませんが、純粋で利他的な思いで行動する場合と、わがまま・利己的な意味で選択するようなことがあります。

また、やってはいけないことや、この選択は悪いもの、欲求に飲まれているものだとわかっていても、やってしまうようなことがあります。

もちろん、法律に反すること・犯罪、人に多大に迷惑がかかることなどは、行うべきでもありませんし、カルマ的観点、自己を貶める意味でも問題と言えますが、欲望・わがままにつき動かされているのか、直感的に正しいと見ていいものなのか、どちらとも判断がつかない時というのは、結構あるものです。

そういう場合、人によもよりますが、冷静になりすぎず、衝動的にも似た、自分のやりたいと思う方向を選択したほうがよいこともあるのです。

それがたとえ、自分の欲望・欲求・エゴから出ているものであっても、です。

大なり小なり、実は人はエゴ(個としての自分の思い)で判断しているものです。

それが世のため、人のための思いから出ているものであっても、結局、それをして喜び、満足するのは「自分」ですから、大きな意味では、すべてエゴの選択と言えます。

ですから、それが正しいものか、欲望やエゴから出ているものなのかどうかと精査せず、単純に自分の(したい・やりたいという)思いに従うという選択もありだと考えられます。

そうすることで、自分の欲求を満足させたうえで、次(のステップ)に向かうことができたり、別の自分を覚醒させたりすることにつながる(場合もある)からです。

いわば、自分の飢餓感をなくすための充足を実際に求め、行動するということになります。これが、「悪魔」の(言い換えればエゴに従う)選択(笑)として、考えられるものなのです。

そして、自分の飢餓感は、実は自分のものではないこともあります。

親族から受け継ぐ、やりたかったことなのに断念してしまった残滓、心残りデータとか、ある同じ思い(悔いを持つ)集団的感情データ、過去世からの思い残しなど、自分(の心と魂における保存部分)が、成し遂げられなかった悔恨や飢餓を持っていた場合、それが今の自分の思いとして、肩代わり、プログラム再生していることがあるわけです。

それが「欲望」のようなものとして、自分の感情に湧き起こっているというケースもあると想像されます。

ですから、飢餓感を実際的に満足させることは、データの消去に役に立つ場合があるのです。

ただし、まさにただの自分の欲望から来ているものだったり、その飢餓感の解消が、別の次元にあるもの(例えば親の愛情を得ることであれば、それを自覚しない限り、恋愛という仮の愛情充足劇を繰り返しても、満たされないことになります)だったりすると、逆効果になることもあります。

ですが、自分に縛りをかけすぎていて、自分の欲求にすら気づけず、ひたすら他人や外の法(ルール・規範・社会常識への模範)に従って来た人にとっては、エゴだろうが何だろうが、自分のしたいことにつき進むという、今までの自分から見れば、まるで「悪魔のささやき」に耳を貸す(笑)ような選択が、自己の解放に寄与することがあるのです。

少なくとも、自分を縛っていた強固な綱(常識的思い込み・自分ルール)が緩くなるのです。(「悪魔」のカードにはつながれた二人の人物がいますが、彼らの綱は緩いです)

ええーい、もうやっちまぇ! もうどうでもいい! 何が起こるかわからないけど、やりたいからやる! 好きなことをして何が悪い! そう私の悪魔(本能・エゴ)がささやくのよ! という声に従った選択は、無茶苦茶だからこそ、混沌と(定番の)破壊を生み、いいも悪いもない、それでいて実は豊潤なる世界に誘ってくれる作用があるのです。

この誘惑と勧誘に、悪魔が登場します。

面白いことに、マルセイユタロットの並びでは、「悪魔」の次に「神の家」が来るように(数的に)配置されています。

そう、「悪魔」を見なければ、「神」は現れないとも見えますし、「神」そのものが「悪魔」でもあり、またその逆も言え、結局、すべては神(神性・完全)の表現のひとつ(神のアバター・化身として悪魔も存在する)と考えられるのです。


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