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聖性と俗性

マルセイユタロットの象徴性には、二元性から一元性への統合(その逆として、一元から二元、多様性への分離)という見方があります。

大切なのは、タロットそのものの論理性や感性、いわば「象徴性」を、タロットだけの世界で見るのではなく、私たちの現実と意識、さらには宇宙全体への考察と適用をし、個と全体を関連させつつ、俯瞰していくことにあると考えられます。

つまりは、タロットは私たち自身とその周囲のモデルとして活用できるわけです。

さて、そのマルセイユタロットからの二元性と一元性の象徴ですが、これは陰陽原理に始まって、あるゆる局面と種類で表されるものです。

その中でも、あまり普段は考えないものとして、「聖性」と「俗性」について、見てみたいと思います。

タロットの構成上、大アルカナと小アルカナというふたつのパート・種類で分けることができますが、実はこれも、大アルカナが聖性で、小アルカナが俗性という見方ができます。

ただし、ここが重要ですが、タロットは「象徴」ですから、いかようにでも解釈が可能で、ある概念や考え方があったとしても、それが「決まり」「絶対」ではないということです。あくまで、そうした見方もありますよ、となります。

そして、大アルカナの中にも聖性を示すカードと、俗性を示すカード、そのどちらでもなくて、またどちらでもあるようなカードたちに大別できるかもしれません。

もちろん、これは全体として俗性分野と見られる小アルカナにおいても同様で、見ようによっては、小アルカナの中でも、聖・俗に分けて考えることも可能です。

さて、ここで言いたいのは、そうしたタロットから見ても、私たちには「聖性」と「俗性」という二元でのとらえ方、感性があるということです。

例えば、時間(経過)においても、何となく過ぎる日常時間(俗的時間)と、特別に意識する時間(聖なる時間)があります。

空間(場所)においても、聖なる非日常的な場所と、俗なる普通で日常的な場所があり、もっと極端に言えば、まさに神社仏閣、あるいは貴重な自然あふれる清らかな場所に対して、いわゆる「夜の街」のような、飲み屋や歓楽街といった雑多な空間もあるわけです。(観察すればわかりますが、神社仏閣と歓楽街はセットとして成り立っているところが多いです)

仕事でも、聖職というのに対し、普通の仕事という対比がありますし、企業の中でも、理念や理想を掲げ、社会や人々に貢献する部分と、利潤追求、儲けを得るため、社員の生活のためという活動理由も当然あります。

そして、何より、私たち誰もが、聖なる部分と俗なる部分が混交した存在であり、それこそがまた「人間」の特徴だと言えましょう。

人は神性または天使性、仏性や菩薩性を持つつも、欲望にまみれ、我よしと利己に走ったり、悪や堕落に陥るおそれも持っています。まさに正義と悪が一緒になった存在です。

ところでマルセイユタロットの動物象徴として、最高度の解放性(序列的な意味ではありません)を持つと考えられる「鷲」は、鳥ですので、当たり前ですが「羽」として、ふたつの翼を持ちます。天使も同じです。

そして、鷲が地上に降りる足は、一本足ではなく、これまた当然ですが、二本足です。しかし、体や頭はひとつであり、またヤタガラスのように、三本足の象徴性(ふたつとひとつ)を見る場合もあります。

何が言いたいのかと言えば、結局、これも二元が一元になる二元統合であり、二元を聖と俗で考えれば、その両面を併せ持ちつつも、ひとつとして統合された時、完成に至る(真の自由に飛翔できる)ことを物語っているのだと想像されます。

「アプラクサス」という、異形ののシンボル・神の使いのような存在が伝えられています(鳥自体はアプラクサスに向かう存在、アプラクサスを知る存在と見る向きもあります)が、これも古代の二元統合のシンボル神と言えましょう。

これらの象徴から見ても、私たちの中の「鷲(真の智慧、自由・解放性)」を飛び立たせるのは、実は聖意識だけではなく、俗を受けて入れる基礎が大事だとも考えられます。

また逆に言えば、俗だけの時空にどっぷり浸かっていては、飛び立つこともできず、三本目の足も出ないということになるでしょう。この状態は、卵の殻に閉じこめられている(殻を破る「くちばし」として、三本目の足が出ていない)ものとして、見ることもできます。

マルセイユタロットの「運命の輪」の象徴とも関連しますが、聖と俗、俗と聖の二重(入れ替わり)構造とその回転により、私たちは、閉じこめられた自身を解放するきっかけを得ます。

それは、聖と俗を、まずはきちんと区別することから始まり、やがて、俗なるものに聖なるものが宿ること、聖なるものは、俗なる土壌の上に浮かび上がるものであること、また聖には堕落がつきもので、逆に俗の極限には、清浄なものを見ることが可能であることが、言わば、「卵から鳥をかえす」ことにつながるのです。

例えば、私たちに俗を思い起こさせるものには、「セクシャル、性(の行為)」というものがあります。

しかし、だからこそ、そこには崇高な「聖」があることに気づけるのです。生殖行為としてだけの部分を見ても、子孫・命を誕生させることができるという、すばらしい奇跡が起きています。

しかし、最近は性についても、あまりに肉体的なものにとらえられる人が多すぎ、性から聖を抽出する過程で、肉欲的なものに拘束され、その欲望を満たす欲求のために、詭弁として「聖」に言い換えている、置き換えている風潮が多くなっているように感じます。

もちろん、性を汚いものと見ることも、それは性を俗として見過ぎていることと同じになります。

結局、過剰な俗は、人しての俗を強化し、例えば「お金・物欲」というものに転化されていくことも多く、とても性が聖とは言えないものになっています。

ほかにも、パワースポットブームというのもありますが、これも聖を俗にしてしまう転化に陥っているものと言えましょう。

最初は聖なる場所であっても、多くの人がお陰信仰的な思いで訪れれば、そこが物理的にも(人が多くなって、特別な場所ではなくなる)、また見えないエネルギー状態としても、清いものが汚され、俗なるものになっていくことは明らかです。利己欲のために、せっかくの聖地を俗地化させてしまっているわけです。

普段は「日常」なので、どうしても俗が中心となりますが、シンボルを意識すれば、俗の中で聖を浮上させることができます。

聖性を象徴するシンボル・象徴を絵図や形として置いたり、見ることで、いつもの日常的な自分から意識を切り離し、聖なるものへと移行させることができるわけです。

これはタロットの活用としてもできることです。

私たちは、かつては、おなじ家の中においても、聖と俗の空間が分けられていましたし、地域社会としても、日常と非日常の時期と場所がきちんと区別されていました。

今はそれが悪い意味で混交されてしまっています。

こうなると、自分が何者であるかもわからず、尊い存在や、逆に利用したり、支配したりするような邪悪の存在、両者の意識の区別もつかず、魂の真の解放のための発動も起きず、感情的・肉体的に反応するだけの、動物的人間となってしまうのです。

統合のためには、まずは分離として、きちんとした区別ができなくてはならないのです。

特に現代人は、聖性を意識する必要があるでしょう。

それは教義の意味でのスピリチュアルに関心を持ったり、信じたりするということとは別なものです。そはむしろ、俗性の強化に近いものです。


「力」のカードがあなたを変える。

今日、浮かんだ来たマルセイユタロットのカードは、「」でした。

女性がライオンをうまく扱い、従えているように見えるカードです。

タロットは象徴なので、色々な意味がカードの絵柄から出てきますが、今回、この「力」のカードを通して伝えたいのは、皆さんの中に眠る可能性や、まさしく“力”のことです。

この「力」の女性は、実は普通の人間ではないとも考えられるのですが、一方、すべてのカードは、私たち自身を象徴していますので、やはり、皆さんの「人間」としての「ある側面」を表していると言えます。

いや、むしろ、これはマルセイユタロットの秘儀的なことになりますが、私たちが、カードに象徴されている「ある事柄」に気づくと、完全性に至るという意味でもあり、それは通常では気づいていないだけで、それがわかれば、今の自身を超越したものになるという教えが隠されています。

ということは、私にもあなたにも、「力」で象徴される「何か」があるのです。

「力」のカードの名前はフランス語ではフォルスであり、英語ではフォースとなります。「パワー」ではないことに留意する必要があります。

近年、新シリーズが公開され、最近また話題になっている「スターウォーズ」というSF映画においても、「フォース」という言葉が出てきます。

スターウォーズでは、魔法のような力を持つ闇側の勢力(有名なキャラクターではダースベーダーがいます)と、光側の騎士団勢力(ジェダイの騎士)の対立と抗争が物語の核を占めています。

そのふたつの勢力が使う魔法的な力が、「フォース」と呼ばれているものです。

映画では、ジェダイの騎士たちは、「May the Force be with you」(フォースとともにあらんことを)という祝辞・祝言のような言葉で戦場に送り出していました。

ちなみに英語の慣用句では、このフォースの部分は「(GOD)」であり、つまりは、「神とともにあらんことを」というものから来ていると聞いたことがあります。

そうすると、このフォースが神性由来の神的な力であるとも解釈できます。(マルセイユタロットでは「神の家」との関係で見ることができます、

もっとも使い方次第では「悪魔」のカードにもなるかもしれません)

スターウォーズでの「フォース」は、ライトセーバー(光剣)さえ操ることができ、相手に物理的な支配力として作用させることもできます。ジェダイの総長であった「ヨーダ」は、かつての主人公ルークが乗ってきた戦闘機さえ、フォースと想念を使えば、沼から浮上させることができたほどです。

ちなみに、このスターウォーズは、象徴的には、かなり(西洋)魔法や密儀・秘儀的な力の話、あるいは宇宙的争いの元型を、スペースオペラのような映画として表現したものであると感じます。

さて、そのフォースが、私たちの内にあることを、「力」のカードは告げているのです。

フォースが何であるのか、ここでは詳しく推測したり、仮説をあげたりしませんが、とにかく、私たちの中に普段は眠っている、ある種の目に見えない力だと思えばよいでしょう。

よく言われるように、私たちは、ほんの一部しか人間としての能力を使っておらず、その潜在能力は、おそるべきものがあると考えられています。

通常、訓練や修行などして、限界を突破すると、そうした超人的な能力が出るとされています。

おそらく、これは、私たちが、その眠っている能力さえ自由に使ってしまうと、その力は実は生命維持のオートマチックな機能としての部分とも関係していて、下手に使うと、命や存在自体の危機にもなるおそれがあり、通常はアクセスできない(使えない)ようになっているのでしょう。

修行のうちに鍛えられ、少々のことでは大丈夫となっていくことで、少しずつ、眠れる力の覚醒と、使える量、そこにアクセスする権限が、表面意識(自我の意識)に移譲されていくものと考えられます。

ただフォースは、スターウォーズでも表現されていたように、かなり想念に影響されると見てよく、意識の力とでも言うべきところがあります。

すごく低いレベル(の例え)にはなりますが、結局、それはシンプルに言えば、自分自身をどう思うかによって変わる力と述べてもよいかもしれません。

私たちは、普段からいろいろな制限を受けたり、教育されたり、時にはお叱りも受けたりして、自分を小さく見がちです。

さらには、個人として、表現される能力、外見、得た物理的結果などで、常に比較される対象でもあり、何かと人と比べさせられ(そう自分が意識せざるをえない環境)、自己卑下に陥ったり、自分の価値を自ら貶めたり、あるいは外から貶められたりしています。

従って、よほど自由な人か、馬鹿者か、わがままで尊大な人かでない限り、普通は、皆、何かしら自分を小さく見ているところがあるものです。

それが謙虚さというのではなく、本当に、人間としての力と可能性を閉じこめてしまっているのだとしたら、もっと自分を開き、自分の価値を正当に評価することで、眠れるフォースの一部でも、解放させることができるのではと、「力」を見て思うわけです。

一言でいえば、「あなたはもっと大きく、価値ある存在」だということです。

現実的には、できない、無理だと思うことは少なくありません。

それでも、最初からそう思うのではなく、本来何事もできる可能性を持っているけれども、たまたま思いや条件に制限をつけているため、不可能だと信じさせられている(思い込んでいる)と、心で思い直してもよいのではないでしょうか。

もともと、「自分はできる存在だ」「私にはその力がある」と思って取り組むのと、「自分は何もできない」「自分には力がない」と思ってやるのとでは、きっと、最初から達成力に違いが出てくるものだと想像できます。

※親から、「あなたはやればできる子」とよく言われていた人は、逆にこの言葉が、実際場面で何かできなかった時に、ブロックとして発動する場合があるので、注意が必要です。誰かの言葉ではなく、自分自身で自らの眠れる力を確信していくことが大事です。

あなたの自我意識が認識できていない、もっとすごい力、内なる可能性が、あなたにはあるのです。

それはあなたが自分にはない、できない、ダメだとしている(そう信じ、決めている)から見えない(発現しない)だけで、そこ(自分)にあるのです。

「力」のカードのように、見えないエネルギーをライオンとして実体化、視覚化することで、その力も実感し、それをコントロールすることにもつながります。

自分の力、フォースを信じた時、それは現れるのです。

面白いことに、マルセイユタロットでは、「」は「11」の数を持ち、その前の「10」のカードは、「運命の輪」です。

つまり、運命を超えるのが、「力」のカードというわけです。

人は運命さえ超えられる力があるのだと信じてみましょう。きっとあなたの人生は変わってきます。


人は性悪か、性善か。

天使(神)と悪魔とか、天国と地獄とか、ポジティブ・ネガティブとか、人の心には二面性(多面性)があると言われます。

どんな聖人であれ、またどんな悪人であれ、迷う心もあれば、利己的な思いにかられたこともあると想像されます。

ましてや一般人ともなれば、エゴと良心、利他と利己でグルグル巡るのは、むしろ当たり前の状況だと言えましょう。

と、普通に考えれば、人というのは、よい心(良心)もあれば悪くもなる(悪意もある)のが日常、普通のことだと、冷静に見ることもできるのですが、これまた人の性(さが)と言いましょうか、たいてい人は自分中心に物事を見てしまいますので、自分にとっていいことが続けば、世の中はいい人ばかりの良心で満たされた世界だと思ってしまい、また不幸の連続だと感じている人は、世の中、いい人などいない、みんな自分のことばかり、ひどいやつらであふれかえってやがる・・・なんて思ってしまうことでしょう。

一般論としても、人は性善説か、性悪説なのかで議論が交わされてきた歴史がありますし、そういうことは、たくさんの物語のテーマにもなっています。

気弱な優しい人とか、ナーバスな人、スピリチュアルや精神世界を志向する人の多くは、どちらかと言いますと、世の中の善を見ようとする傾向があり、人は信頼と愛で結ばれるはずと思い込んでいる節もあるのですが、逆に、人々の悪しき心や利己的な行動が目について、嫌悪感を必要以上に覚える人もいます。

だからと言うのではありませんが、私は、むしろ、「人の性悪説」を採用したほうが、生きやすくなる人が多くなるのではないかと思うところがあるのです。

それは、深くはグノーシス的な思想と結びつき、その思想を受け継いでいると考えられる(あくまでひとつの説ですが)マルセイユタロットにて探求をしている者には、自然に起こってくる考え方でもあります。

ただし、ここで言う「性悪説」は、「そももそ人は悪人である」とか、「善をもって生まれてきていない」とかの意味ではありません。

むしろ善を持って生まれてきている可能性も高いのですが(性善説に近い)、残念ながら、現実次元(普通の生活レベル)においては、ほとんどの人は、本当の意味で人のことを労ったり、気遣ったりすることはないという意味なのです。

もちろん、優しくしてくれる人、自分のことを大切にしてくれる人も、実際の関係性の中ではあるでしょう。

しかし、「黙っていても、いつか自分のことはわかってくれる」とか、「本当の気持ちは伝わっているはず」「きっと私のことは察してくれる」だとか、淡い期待とでも言いますか、相手に対して、相手が変わること、わかってくれることを期待しても無駄であることが多いと理解したほうが、楽な面もあると言うわけです。

言ってみれば、普通、人は自分のことしか考えておらず、利他のようで利己が基本として見るほうが楽になるということです。(一見、利他のように見えても、その人が利他行動をすることで、自分が満足しているのなら、利己だと言うこともできます)

この利己に傾く基本構造を「性悪」気質と見れば、人の性悪説になるわけです。

利己と言えば、聞こえは悪いかもしれませんが、しかし、これは、考えてみれば、実は当たり前で、利己というのを「利個」、あるいは「個人・自分・個性を中心とする思考、感情、志向」と見れば、この意味もわかると思います。

私たちは一人一人、違った世界観・個性で生きていますから、真の意味で同じ次元(同じレベルとオーダーで統一された世界観)においての、相互理解はないのです。

たとえ同意した、共感したと言っても、それは、あくまで個人個人の中での思い込みによる同意であり、幻想とでもいうべきもので、双方では、実は厳密には違った理解・同意をしているはずです。

ですから、結局は自分がどう思うか、感じるか、の世界に生きているわけですから、自分次第ということが、ほとんどのパートを占めるのです。

ということは、(同じ次元においては)、他人は自分のことを真に理解することはないと考えたほうが合理的になります。

あえて言えば、自分の一面(その人に見せる一面、相手が見る一部の自分)を同意させる、承認してもらうみたいなことになるでしょうか。

従って、相手にわかってもらうおうという努力をし過ぎると、自分が消耗し、時間とエネルギーもかなり浪費することになってしまいます。

それよりも、「ああ、これはいくら言ってもダメだな」と割り切って、自分のしたいことや、実現したいことに集中し、方向転換したほうが有意義な場合もあるわけです。

もっと簡単に言うと、「人がわかりあえない部分があることを、自分は認める」ということになります。

人に理解してほしい、愛をもって共感、共通理解に至るはず、というのも、自分の思い込みや幻想ということがあるのです。

さらには、それも自分の欲求であり、実は傲慢なところから出ていることもあります。(他人に承認してもらえないと自己の存在が確立できない、安心できないというものだったり、自分は他人より優れていなければならないというプログラム・データのようなものだったりする)

そして、ここも重要なところですが、人は認めてもらうこと、理解してもらったと感じること、共感や同意してもらうことなどに、快感を得るわけです。

まあ、愛されたり、賞賛されたり、承認されたりしたら、人は気持ちいいとなる(感じる)のですね。

「気持ちいい」「心地よい」と感じることは、脳内ホルモンなど、快楽物質も流れていて、少なくとも、気持ちよいという経験を実感してしまいますので、それを繰り返そうとする、また味わいたいと思うのも、人の性といえば性です。

これがルーピングしてしまうと、中毒化症状も考えられます。

ところが、現実次元においては、人は自分(個別)のことが中心という利己の基本構造にありますから、なかなか承認してもらえたり、同意してもらえたりすることも少ないわけです。

ただ形式だけなら、それも少なくはないのですが、たとえ共感してもらえたり、認められたりしても、一時的であり、また、どこかで空虚なものを感じてしまうこともあるのです。

それは、本質的には、同じ次元で理解しあえないということに、実は気づいているからです。(表面的な、利己同士の契約同意のようなものに過ぎないことを知っている)

そう、言ってしまえば、自分の本質、根源においては、人は普通の生活レベルにおいて、ほとんどが利己であることを認識していて、それは利己を「悪」的にとらえれば、言い換えると、「性悪次元に生きていることを知っている」ということになります。

この意味において、私たちは普通に、みんな性悪気質で生きている、性悪説だと取ることができます。(笑)

しかし、さきほど述べたように、「本質」の次元では、すべて知っているので、真の意味では、やはり「善」でもあると言え、人は高次において性善(説)であると、表現してもいいのではないかと思います。

スピリチュアリストは、この高次的・本質的次元で人を語りますので、愛や平等、自由、性善説的な視点となるのです。

ただ、現実次元においては、そうもいかないのがほとんどの人間なので、利己的な世界観で生きることに、スピリチュアル的な思い持つ人、優しく・ナーバスな人は苦しむのです。

天国はこの世にある(深い統合的認識や感性、高次の精神・霊的構造を体感する、その一瞬の状態にある)のかもしれませんが、通常は利己と分離、競争の修羅的・悪魔的・地獄的世界にいるのが普通だと思うと、そりゃ、苦しいのは当たり前であり、流行した言葉で述べると、他人のことを忖度(笑)し過ぎるのはまずく、それは、ますます自分をつらくさせ、苦しめることになるのです。

これは、愛や統合の世界がないと言っているのではありませんし、人がまったくの性悪のままだと言うわけでもありません。人の本質は愛であり、その可能性はすばらしいものだと考えています。

この、人の性悪的な認識・理解からが、実は性善に戻るスタートになるのです。


一枚引きの活用あれこれ

タロットの展開法、スプレッドでもっとも少ない枚数のものは、一枚引きというものになります。

実は、タロットを引かないエアータロットエアータロットリーディング(笑)というのもないわけではないですが、これはタロットの図像を、完全に一枚一枚イメージできるくらいになっていないと難しい技です。

ということで、実際にカードを引くという意味では、当たり前ですが、一枚引きが、枚数的には、もっともシンプルな展開法となります。

しかし、だからこそ、実は一番解釈が難しいものと言えるのです。

それは情報(量)がたった一枚しかなく、そこにすべての象徴性を見出さないといけなくなるからです。

これに、正逆のポジションの意味の違い(解釈の取り方の違い)を設定として入れると、ポジション別という新たな情報が加わりますので、まだ読みやすくなります。

ただし、以前の記事ではありませんが、展開法のルール設定として、ポジションの正逆を最重視するのか、引かれたカードの象徴性を優先するのかの違いをはっきりしておかないと、かえって解釈が難しくなります。

いずれにしろ、一枚引きというのは、それくらい、特に何かの判断をつける意味では、難易度が高い展開法なのです。

ただ、もちろんよいところや、易しく解釈できる点もあります。

まず、タロットの初心者においては、カードとなじむ、カードと遊ぶ、仲良くなるという過程では、最初に大いにやってもらいたい技法でもあります。

また自分(の心理や見えない意識)を投影して解釈する第一歩(入り口)としても、複数のカードを出すより、一枚をシンプルに引いたほうが、鏡として見やすいことも確かです。

さらにオラクル・託宣、自分への強いメッセージとして、一枚引きを行う方法もあります。

実際のリーディング場面においても、本格的で複数の枚数が出る展開法とは別に、最初か最後、クライアントへのメッセージ・託宣として、一枚カードを引いてもらうことで、勇気や決断の後押しになることもあります。

人はあれこれ、複雑に色々と言われるよりも、単純にただ一言、「こうです」と言われたり、あるいは「これ」といった画像・シンボルをひとつ見せられたりしたほうが、しっくり来ることがよくあるものです。

この点は、タロットリーディングの進め方としても、あまりにたくさんのことをクライアントに言い過ぎ(カードを読みすぎ)て、かえって混乱させたり、「結局、私何をするんだったっけ? 「いろいろ言われたけど、どの選択をすればいいのか、かえってわからなくなった・・・」みたいにならないよう、言い過ぎ、解釈のし過ぎには注意することと関係します。

託宣、メッセージ的に一枚引きを行う時は、解釈もシンプルにし、そのカードのキーワードのような言葉(意味)を言ったり、受け入れたりすればよいです。いわば、記号(一言)的な読みで十分です。(いろいろな意味を言い過ぎると、かえって託宣としては機能しません)

それと、これは自信のない時や、不安があるような時に、皆様におすすめしますが、守護(護符・タリズマン)カードのような形として、一枚引きをし、そのカードが、自分の夢や望みを実現させるために後押ししてくれる、勇気を持たせてくれる、エネルギーを送ってくれると見て、いつも目に着くところに置いたり、実際に持ち歩いたりしてもよいでしょう。

護符カード」として活用する場合は、リーディング時に使用するカードとは別にしたほうがよく(持ち運ぶ場合、カードを一枚抜きますから、セット枚数が足りなくなることと、リーディングとは違う扱いとしてタロットカードを使用するため)、さらに、吉凶カード的な解釈をいつもカードにしている人は、凶カード的なものは、もちろんその人の護符にはなりません。

ですからカードをフラットに見ることができる場合において、一枚引きをしての護符になりえます。

どうしてもカードに吉凶的なイメージがついている人は、自分が吉だと思うカードを選択して護符カードにするか、吉として思うカード群を選び、「今の自分に必要なカード、守ってくれるカード」という意識でもってカードを一枚引きし、その出たカードを護符として持つという方法がベターでしょう。

もちろん、フラットに見ることができる人でも、カードを引かずに、一番よいと思われる(目的に沿った)カードを自分で選んで、護符にするということは可能です。

ただ、実際にシャッフルして引いたほうが、偶然性からの必然性が生まれますので、その神秘性からの心理的効果は高いでしょうね。(それだけ特別な意味を、引いた人に持つ)

当たり前ですが、どの技法においても、まずはタロットへの信頼がないとできないことです。

ですから、一枚引きをして、自分に関係することが出ていると読める、感じる過程を経ていくことも重要で、それによってタロットとの関係と信頼関係が結ばれ、たった一枚でも強い印象と効果を残すことができるようになるのです。


過去生データの共有が示すもの

最近、タロットの受講生の方とのメールのやり取りで、面白いことに気がつきました。

気がついたというより、そうではないだろうかと思っていたことに、ある確証というか、ひとつの事例がもらえたということでしょうか。

その方はヒプノセラピー(前世・催眠療法)を経験している人なのですが、自分のある過去生ビジョンによって得たカタルシス(浄化)が、ほかの人からが見た過去生ビジョンとシンクロしていたという話です。

他人であっても、同じようなビジョン(過去の事象・事件・人物等)を見るということは結構あると思うのですが、今回聞いた話で特徴的だったのは、自分の過去生の経験の浄化が成ったと思ったタイミングで、その過去生ビジョンで関係していたであろう時代の人物たちが喜んでいたり、浄化されたりしたビジョンとして、ほかの人が見たということなのです。

つまり、過去生の中の時間が動いているわけです。

正確には、過去のある人物(に関わる)事件や心情が、解決された(浄化)されたように、今(現代)の人たちの幾人かで共有したビジョンを見た(と感じた)ということになります。

言ってしまえば、一人の夢と、その夢の続きを、違う形(別の登場人物や別角度のビジョン)で、複数の人が見ているようなものです。

ここで、私はその過去生が事実かどうかとか、一人の現代人が、その過去生での人物の魂を、そのまま転生して持っているというようなことを言いたいのではありません。

ですから、過去生そののが正しいとか正しくないということがテーマではないのです。

重要なのは、ふたつです。

ひとつは、過去生のようなビジョンを見ること(見るとは限りませんが、とにかく、そういう感覚になること)によって、癒しや浄化が行われる仕組みがあること。たとえ仕組みではなくても、見た人の心には納得できる感覚と、心理的な癒しが起こること。

そして、今回、ここがもっとも私がポイントだと思うのは、その過去生ビジョンやストーリーの共有があることです。

ここから考えると、過去生というものが魂の転生として記憶されているかどうかは別として(つまり素朴で純粋な輪廻転生説は置いておいて)、何らかの過去生のような(と思わせる)情報と、それが保存・ストックされている空間や記憶庫(レコード)の存在、さらに、それにリンク・同期・同調する機能が、人間にはある(感じられる)ということです。

記憶は人間一人の中(脳と脳以外のもの)にありますが、それだけではない、何か大きな記憶の集合体、データベースやデータ空間のようなものが、見えない形で存在していると考えられます。

心理学的には、ユングが述べた集合的無意識とか、唯識では阿頼耶識のような層があり、そこに様々な人類の記憶やデータが備わっていると見ます。

たとえ死んでも、生きていた時の記憶はずっとどこかにアップロードされていて、ひとつの巨大情報空間を形成していると想像することもできます。

これらとリンクしたり、同期したり(つまりデータのダウンロード)するには、いろいろな約束ごと、想念の同調・一致があるのだと推測されますが、ともかく、様々な時代の、色々な人の生きた記憶、それには心情的なデータも含まれており、そうしたものが違う時代の人にも影響を及ぼす宇宙の仕組みがあるのだと思われます。

言ってみれば、時間という縛りをなくした、長大な浄化システムのようなもので、過去生の人間の思い(未浄化のもの、思い残し、ネガティブな感情などの)データが、時という枠組を超えて、未来の人の思いと同調し(逆の、未来側から過去側へというのもあるでしょう)、相互浄化を果たす働きがあるのではないかということです。

今の時代や時間では、ある個人の問題として起きていることですが、それは元をたどれば、過去世などのほかの人、あるいは多くの人の集合体データとリンクしいるもので、それがために、今の自分の問題を解決したり、浄化したりすることは、そのデータ自体の浄化にもつなかっているということです。(過去世だけではなく、今の生きている時代のほかの人のデータの影響も含めて)

ロマンチックな言い方をすれば、過去の人間の思いが、未来の人によって解決される(時間超越の見方では、逆の方向もあり)みたいなことですね。過去と未来の時空を超えた物語(ストーリー)です。

なぜ自分が、ある過去生のデータ(その時代の人物や周囲の人間、事柄)とリンクするのかは、魂が輪廻転生しているからとか、データを受け継ぐ気質があるからとか、同調する同じ性質を今持っているからとか、いろいろと理由は考えられます。

タロット受講生の方のヒプノセラピーの先生のお話では、血縁的な先祖として、ずっと時代を下って縁をたどり、過去生人物の思いが、遠い未来の子孫にリンクしていくことがあるというものでした。

確かに、そういう繋がりでリンクしていくこともあるのかもしれません。(このことは日本人の先祖供養システムの、行事としての本質的意味に関係すると思います)

もちろん、血族や民族性を超えた過去生データとの同期もあると思います。

何度も言いますが、その人が、自分の見た過去生自体をかつて生きていた(同じ魂だった)とか、過去生が事実かどうかという点は、あまり関係ないのです。

個人の癒しの感情、問題の出所が納得する物語(お話、ストーリー)として、たとえ作り話であっても、その人の生活・人生に影響を及ぼすものがあるという点です。

そしてそれらが、一人だけの世界ではなく、同調するかのように、何人かの人とつながり、またデータの書き換えのような、過去生でのビジョンの変更(過去の事件と人物の心情が変わったように感じること)が、感覚として、今生きている人の複数の人で共有されるという現象があることです。

ここから考えると、私たちはやはり個人一人で生きているのではなく、人類全体として、何らかの意志やルールを取り決めて、巨大な集合意識体として生きているということです。

それはいいことばかりではなく、ネガティブなものも共有して蓄積し、時空を超えて影響しあい、それが個人としての表現(それぞれ個人の人生)にも関係してくるのです。

逆に言えば、一人の思いはほかの多くの人にも影響し、よい意味で言えば、意識の浄化・深化・進化が一人でも多く進めば、多数の集合体としての次元上昇が起き、まったく(共通認識で設定される)世界は変わる可能性があります。

マルセイユタロットの大アルカナでも、数の大きいカードは、複数の人物たちが登場し、個人や常識として見える現実、さらには時間と空間で規定された世界を、もはや超越したものとして描写されていることがわかります。

つまりは、人類全体への意識として、気づきや関心がシフトしていくようになるのです。


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