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タロットを捨てる タロットが消える
タロットを扱う者として、過激なタイトルの記事(笑)ですが、まあ、聞いてください。
タロットリーダー、タロティストにとっては、タロットが大切なものであるのは言うまでもありません。
しかし、当たり前ですが、タロットを知らない人、関心のない人にとっては、その人の世界にはタロットは存在しないと言っていいものです。
それでも、ちゃんと皆さん生きていらっしゃいますし、さして困ることもないです。(笑)
ただ、真理や自己探求を志す者、人の悩み事の相談をする人などにとっては、タロットに出会うと、とても有意義になることがあります。
私などは、その一人と言ってもいいでしょう。
しかし、そのような志の人であっても、タロットではないツールに導かれる人もいれば、そもそも道具とかではなく、技術やメソッド、思想、考え方として、何かに出会うということもあるでしょう。
そうして、自分の信じたもの、相性のよいと思うもの、効果があると思うもの、適応するものとして、自分とのコンビを組むことになります。
たとえば、タロットに近しいものとして、各種の哲学的・心理的な象徴カードや、思想・技法として占星術・カバラーなどもあります。そちらのほうが自分に向いているという人もいるわけです。
ところが、それがタロットであれ、何であれ、ずっと信じて使い続けていると、ある種の偏り、囚われ、見方や思考の癖というものも、必ず出ます。
タロットで物事や探求を理解・把握しやすくなるのは確かですが、反面、タロット的な見方に囚われている自分というのが形成されているおそれもあるわけです。
ですから、タロットをしない人から見れば、タロットをしている人は、タロットをしているからこそ問題があると指摘することも可能になるのです。
これは「タロット」の部分を、自分が信頼しているもの、使い続けているものなどに置き換えれば、同じことが言えると思います。
「あなたが“それ”をしている限り(それを通して物事を理解している限り)、その枠でしか判断できない」と言うこともあり得ます。
だから、タロットをしている人は、どこかで、「タロットを捨てる」という思いも持って、取り組むとよいと考えています。(最初からではなく、ある程度習熟するようになってから)
捨てられないものは、大切なものでもありますが、ある意味、「執着」でもあります。
執着は自由・解放とは言えません。
と言っても、いずれタロットから離れるにしても、段階というもの意識したほうが安全(混乱しなくて済むの)です。
例えば、最初は当たり前のように、タロットカードをシャッフルするなどしてカードを引きます。
その出たカードに何かの意味があるとして、私たち、タロットリーダー、タロテイストは考えます。(クライアントとしてもそう思う前提があります)
ただ、次第にカードを引くという使い方にこだわらなくなってきます。
自分の中で、タロットという絵柄の象徴の理解が進み、物理的な「カード」としての必要性がなくなってくるからでもあります。
つまり、言い換えれば、もはや自分の心の中にカードがある状態と言えます。
すると、偶然引いた(出た)カードに意味を見出すという、一種の「ストーリー」「物語」「そういう設定」の世界で遊んでいるのだという、いわば「幻想」のようなものも見え(気づき)出します。(ただし、カードを引くというのは、まったくの意味のない行為ではありません)
最終的には、カードという存在が、心の中からも消えていき、本当の真実というものだけが現れてくるようになるでしょう。(そこまでの境地には、私自身、至っていませんが)
この過程で言うと、タロットは「杖」のようなもの、途中まで進ませてくれる補助エンジン、私たちが囚われている「幻想」をあばくための、別の幻想道具(手品道具)のようなもの、と表現できるでしょうか。
だから、最後にはタロットから離れることになるはずなのです。
しかし、最初から、「タロットで物事を見たり、考えたりすることは間違っている」「タロットは迷信である」「ほかの技術やツールのほうが優れている」などと見る向きは、それこそ、ひどく囚われていると見たほうがよいでしょう。
確かに、何かを通した見方・理解は、今まで述べたきたように、それを使ったひとつのフィルターを通じた見方で、色メガネのようなものですが、色メガネをかけてみないと、見えてこないものも、逆にいえばあるのです。
今まで信じていたもの、常識だと思って疑問を持っていなかったもの、これらに別のフィルターを通すことで、違ったものとしてとらえ直すわけです。
そして、それ(とらえ直したもの)もまた真実ではありません。さらなるフィルターや段階としての考え方が、次に用意されてくるでしょう。
そうした繰り返しの末に、幻想は次々と破壊されていき、破壊のために補助してくれていたツール・メソッドたちも、役を終えることになります。
タロットの精霊的な表現ですれば、精霊たちに出会い、仲良くなり、一緒に過ごしながら、最後には別れていく(消えていく)という感じになるでしょう。
その時、あなたはこう言うでしょう。
ありがとう、そして、さようならタロット(たち)・・・
こののち、その言葉を述べるあなた自身も消えていき、有と無、静と動、すべてが一体となった状態、あるいはその律動のようなものが現れてくるでしょう。
それは「世界」のカードの表現でもあります。・・・と、考えている内は、タロットと、まだまだ仲良く過ごす期間です。(笑)
「皇帝」と「月」を例にして。
マルセイユタロットの「皇帝」と「月」のカードからの示唆について、ちょっと書いてみたいと思います。
この二つのカードは、ある配列では関連するように並べられるのですが、普通に見ると、真逆のように感じるカード同士かもしれません。
「皇帝」は現実的・実践的・安定的で管理的なものをイメージさせるのに対し、「月」は幻想的・感情的、不安定でとらえがたい波のようなものをイメージさせます。
ところが、量子の世界ではありませんが、粒子と波(波動)という関係で見てみると、「皇帝」は粒子、「月」は波・波動というもので見ることもできそうです。
ということは、物事や現実というものを形で見るか、イメージ・エネルギーのようなもので見るかというのが、「皇帝」と「月」の違いと、一面では考えられます。
つまるところ、これはマルセイユタロットの見方そのものになりますが、すべてはひとつであるものを、色々な見方・とらえ方によって、カードごとに現れて(表れて)くるように描いていると言えます。
そう、「皇帝」も「月」も、正反対のようで、本質は同じ(どのカードも本質的にはひとつ)なのです。
ただ、リーディング(特に対人リーディング)というものは、私たち生身の人間と、その現実認識による実際の世界で行われます。
そもそもタロットカードというものも、物理的な紙としての形を持って、私たちの前に登場しています。
形を持ち、現実世界に認識されるということは、私たち一人一人が違う姿形を持ち、個性をもって見えているのと同じことで、別々の、バラエティあるものとして出ているわけです。
たとえまったく同じ製品であっても、細かい点まで調べれば、どれひとつとして同じ形のものはないはずです。
このように、「現実」とは、違う「モノ」が寄せ集まって見える世界であり、タロットの象徴する世界も、現実として現れれば、別々の形式(図像)をもって登場することになるのです。
「皇帝」と「月」、実際の場面では、その絵柄の違いはもとより、タロットを引いて出たカードが、「皇帝」であるか「月」であるかという違いにおいても、それは現実的な意味では、とても重要だということです。
例えば、先述した「粒子的」「波動的」な違いとして、「皇帝」と「月」の違いを考慮すれば、「月」が出た場合は、そのタロットへの問い・テーマでは、波動的、つまり、現実では形としてはとらえがたいものということで、私たちの心・感情が鍵だということが読め、「皇帝」だとその逆で、結果や成果、形として表されるものがキーとなると読めます。
ここで大切なのは、ただ単に、「カード別に、そのような意味が出ますよ」ということを言っているのではなく、本質的には同じことを象徴していても、現実世界というフィールド、または世界観の違いによっては、表現されるレベルが異なってくることで、その世界観に合わせた読みが、カードから象徴されてくるということなのです。
そして(対人援助の)リーディングとは別の、タロットを自己認識や自己解放の目的に使っていくためには、今回の例(「皇帝」と「月」の例)で言いますと、今度は「皇帝」と「月」の違いから、そのふたつを合一させるような、本質次元へと回帰する考察が必要になってきます。
これは例えば、アニメーションで描かれる世界と、私たちの認識する現実世界が、実は本質的に同じものの型でできていることの気づきに似ています。
またファンタジー小説を読んで、普通は空想世界にふけるかもしれませんが、物語の中において、シビアな現実を見るということもあり得ますし、逆に現実の世界にファンタジーのような不思議で奇跡的なことも、意識としては思うことが可能です。
「皇帝」を引いたからと言って、「月」のような読み・意味がまったく無関係ではないですし、逆に、「月」が出たからと言って、「皇帝」が無視されるわけでもないのです。
もちろん、そのカードを引いた特定性は、先述したように意味があるものですが、同時に、ほかのすべてのカードも背後には隠されており、あなたが今、実際(他人のいる現実世界)で求められる表現と、本質次元・魂の次元(すべてがひとつの世界)への導きとは、まったく違うようでいて関連していることを、そうしたタロットの全体性と、自分(あるいはクライアント)の引く特定(個別)のカードによって思い至ることができるのです。
問題を捨てる、問題探しをやめる。
タロットなどをやっていますと、どうしても人の心とその問題というものを考察するようになります。
ネットで自己発信することが簡単にできるようになったことで、その恩恵も多大なものがありますが、反面、マイナス面もそれと同等に発生しているように感じます。
それの大きな問題点としては、ひとつには承認欲求の肥大、そしてもうひとつには心理的な問題の創造(ねつ造)と囚われがあると見ています。
前者はSNSの活用の発達とともによく問題提起されていることなので、今回は省きます。
問題は後者です。
前にも書いたことがありますが、精神や心理関係のビジネス普及も相まって、それほど気にしなくてもよい自分の心理、感情、トラウマぽく見えているものなどに対して、無理矢理掘り起こされ、それを癒す必要があると、一斉に皆が求める風潮に置かれていることです。
ただそれは、よい言い方をすれば、むしろ今までがおかしくて、自分の精神・心理状態への配慮・ケアーがあまりなされていなかった時代があり、ようやく、そういう部分の治療・調整まで、一般の人が理解を示すようになったとも言えます。
すべて気のせいとか、根性なしだからとか、努力が足りないとか、世間がそういうことで片付けていた時代から、変わってきたのだと。
これもカウンセラー、医師、精神的ケア・セラピーをされる人、心理・精神・スピリチュアルなものへ関心を寄せ、啓蒙を続けてきた方々などの努力があってのものだと思います。
そして、経済原理の中で、ケアーや治療、癒しという目的よりも、ビジネス(お金儲け)としての性格でも扱われるようになました。
それで、勢い、対象となる心理的・精神的・(霊的)問題を抱えたクラインアントを生み出す必要性に駆られ、無駄にクライアントがねつ造され、自分の心の問題にひどくフォーカスされる(宣伝・告知される)事態にもなってきました。
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そういうビジネス目線のものであっても、その技術・ケアー・考え方などで救われる人がいるのも事実ですが、必要以上に自分にトラウマがあると思わされ、また自己の成長・発展のためには、自分の中に眠っている問題を、次々と掘り起こしていかねば、自身の安寧、幸せは訪れないと思い込まされ、いわば、問題という鉱脈・宝をずっと探し続ける炭坑夫(婦)のような状態に置かれている人がいます。
スピリチュアル・霊性からいえば、究極的には個人の問題はないと言えます。
問題というのは、あくまで演出であり、ストーリーであり、幻想でもあります。ただ、その幻想は、普通の現実(と認識していること)でもあるのが厄介なのです。
私たちには感情があるので、確かに、生まれてからの人生において経験した出来事によって、何らかの感情的データは記憶としてあると考えられます。
ところが、霊的真実においては、本質的には何も起きていないので、その感情データはいわば、自らで生み出したデータの一種に過ぎません。
例えば、映画でドキドキワクワクしたり、恐怖したりしたことは、自分の味わう感情としては事実ですが、起こっているそのものは映画の世界の出来事で、現実とは別です。
本質は映画ではなく、映画を上映している大本にありますから、それに気がつけば、映画での感情に囚われることはおかしなことになります。
しかし、確かに味わってしまった感情があるので、感情だけに注目すれば、それが悪いものになっていたとすれば、クリアーにしたり、浄化する必要は出ます。
たとえ映画でも、ものすごく怖いものを見たと思い、日常生活に影響が出るほどになれば問題だからです。
そこで、この「映画」が私たちの「現実」だとしても、現実の中(つまり自分の人生)で植え付けられた感情データのリセット・修正は必要なわけです。
その意味では、確かに心理的・感情的な、特に自分もよくわかっていない潜在的問題は掘り起こすことはいるのかもしれません。
ですが、映画は忘れていたのに、無理に思い出さされ、あるいは、映画を観ても、その時は感情的に強くデータ化されていたわけではないのに、誰かから「実はあの映画は、君にはひどい意味になるんだ」とか、「こういう隠されたシーンがあったの知っている?」など言われて、それからというもの、映画が気になってしょうがないということになれば、ネガティブ感情データ(問題意識)が、ねつ造されたと言ってもいいわけです。
とにかく、ありもしない問題(の意識)を、炭坑夫として、内面・潜在意識まで降りていって、石炭ならぬ、自分の人生を悪くしている原因だという「それ(問題・感情的データ)」を掘り起こしている人がいるわけです。
石炭はエネルギーに変わりますから、要するに、問題を掘り起こすことで、ビジネスを仕掛ける側はお金というものにエネルギーを変換させますし、クラインアントは、自分自身の免罪符、自分が自分でないことの弁解のエネルギー、さらにいえば、生きるためのエネルギー・糧にしているのです。
なぜ生きるためのエネルギーになるのか?
それは、「問題」という、自分にとっての「宝」を探さないと、本当の自分を生きていないという恐怖や誤解と向き合うことになり、そうすると、生きていることに疑問を持ったり、後退を余儀なくされたり、自分自身の価値をなくしてしまったりするからです。
平たくいえば、何か問題に向き合っている私かっこいい、素敵、成長しているという思いになるからです。
話を映画のたとえに戻しますと、実は映画で得られた感情というのも、つまるところ幻想に行き着きます。
いや、たとえその映画から受けた感情があっても、映画を観ている自分という設定そのものがわかれば、感情は自動的に癒される・調整されると言ってもよいでしょう。
「なぁんだ、あれは嘘だったのか」という思いによる安堵みたいなものです。
もっといえば、映画を観て感情を覚えたということも、ひとつのストーリーとして見ることができるのです。
感情データは確かに、映画だという気づきを得るまでは、調整される必要はあるかもしれません。言い換えれば、あくまで常識という現実の中で生きて、一般的価値観の幸せ・平穏を求めるのであれば、ということです。
いわば、心と現実の調整を図る生き方です。
しかし、一方で、あまりに心に原因を求めすぎると、自己の心のさらに奧にある集合的意識の次元まで入り込み(その次元からすくい上げ)、終わりのない膨大な(人類の)データからの感情を拾いあげていくことになります。
それは自分で自分の心理的・感情的問題を生み出し、それを現実の事柄(実際に起こる問題)として認識するシステムの、堂々巡りを意味します。いわば、自らで自分を縛っているのです。
同じような問題を繰り返し見つめ続けている人は、それは自分の問題とリンクはしていても、すでに、他人の問題として取り入れてしまっているか、自分が問題を創らないと(自分が問題を常に意識していないと)、自分の価値がない、言い換えれば自分としてのエゴ・個性が見い出せない(自分が自分であるための要素として問題を生み出す)という負の連鎖に陥っているおそれがあるのです。
問題探し、問題創造の達人(それがひとつのことでも、それにこだわれば悪い意味の達人レベルになります)も、ある意味、個性だからです。
そして、一方では、お金儲け的なビジネスのいいカモになってしまっていることも考えられます。
とはいえ、問題を創り上げてしまったり、堂々巡りで囚われしまったりしても、その体験(構造)は反転すると、大きな創造エネルギー、飛翔の元となり、真の解放の燃料として重要になる場合があるのです。
限定の時間と永遠性
私たちが「現実」と思う重要な要素に、「時間」というものがあります。
時間という認識があるからこそ、過去・現在・未来という一方向の流れに「生」が積み重なり、時間の経緯とともに生きている(また死ぬ)ことを感じています。
ということは、ある「時間」という区切りや単位というものが、私たちの生活を彩り、その状態を決めていると述べることもできます。
つまり、もっとシンプルに言いますと、時間こそが現実意識(認識)の要であり、時間が私たちに生活感覚を与えていると言えます。
これは、言い方を換えれば、時間枠があるから、私たちは喜怒哀楽のような感情も体験しやすくなっている仕組みだと考えられます。
要するに、制限ある「時(とき)」という思い(込み)が、私たちに限定した意識を生み出させて、その限定された生活・人生というひとかたまり(時間が区切られたひとかたまりの時空)を、濃密に味わうことができているということなのです。
「マルセイユタロット」で時間・刻(とき)を象徴するカードといえば、「運命の輪」がイメージされますが、その輪の中こそが、ひとかたまりの私たちの時間認識と制限時空間だと言えます。
「運命の輪」は、見ようによっては、その輪の中に囚われている動物と感じられ、この動物が私たち自身の何かの象徴性であるならば、私たちは輪の中、すなわち、今回のテーマでは、時間というものに囚われていると読むことができます。
その一方で、「運命の輪」の中には、輪に囚われていない動物も描かれています。この動物が何なのかは、ここでは話しませんが、今回の記事のことでは、明らかに時間から逃れている存在というように見えます。
ところで、「時間」という漢字も面白いです。「時」の(と)「間」という漢字が組み合わさっています。そう、「間(ま・あいだ)」というのがあるわけです。
時の狭間、間とは何か? それを考えると、時間というもの、時間への囚われというものも見えてくるかもしれません。
さて、今回は言いたいことは、そうした時間と現実の仕組みを理解しつつ、時間を意識する生き方としない生き方のふたつを、まさに時に応じて(笑)、うまく取り入れながら、生きていくとよいというものです。
時間はつまるところ、限定させるもの、始まりと終わり(創造と破壊・消滅)という、「動き」「変転」を実感させるものといえます。(だから「運命の輪」の輪が回っているのです)
反対に、時間がない、時間から逃れるとなれば、一言でいえば、「静止(に思える状態)」「永遠(性)」を意識することになります。
意識するというより、永遠・無・限定のない無限といったものに合一するような、自分が自分てないような状態になることだと、たとえられます。
しかし、現実という時空で生きている私たちからすれば、そのような意識になる「とき」はあるのか?といえば、面白い言い方になりますが、「とき」という意識を強く持つ限り、そうはならないと言えましょう。
ということは、「その時」とか、「時間」というのを忘れるようなことになればいいわけで、言ってみれば没頭とか熱中とか集中、瞑想など、自分という存在さえ忘れるくらいの何かに投げ出す、作業するみたいなことになるでしょう。
こういう状態になるのは、遊び・仕事・人間関係でも、まずはものすごく楽しい状態か、子どもように無心でやれるものか、たとえ傍目からは厳しいもののように見えても、強い使命感や無私的な行為であれば、成されることがあるわけです。
あと自分をなくせばいいわけですから、大自然とか、自分がいなくなるくらいの広大な空間、海、空、暗闇、巨大なものに投影するというものでもできます。
一方、時間というものを強く意識すること(状態)は、決して悪いことではありません。
時間という区切りがあるため、目的・目標を達成しやすくなりますし、このつらい状況があと半年で終わるとか、時間が経過するという意識によって物事が変わり、つらく苦しい状況にあるある人にとっては、同じ状況は続かないという思いになって、大変な救いになります。
いずれにしても、有限の時間内で色濃く生きよう、活動しよう、結果を残そうという意識が働いて、まさに人生密度が濃くなるわけです。それは、「自分(自身)」を生きている実感とも言えましょう。
しかし、限定された時間は、容赦なく次の時間に流れていくものでもあり、永遠性はありません。
ですから、ずっと一緒にいたいとか、同じ状況が続いて欲しいとか、若いままでいたいとか、経済的な安定が保証されたいとか、ずっと固定されることを望むと、それは囚われとなり、流れていく「とき」の変転事実に、あせりと喪失感が大きくなります。
つかんだものを離したくないと抵抗すればするほど、その人にとって、「とき」は残酷なものになります。
こういう人は、永遠性まで意識できずとも、とても長期的な、肉体次元より魂次元のようなものまで思いを馳せていくと、自分のこだわっていた「とき・時間」は実は一瞬のものであり、たとえば別れた人でも、魂のレベルでは、また輪廻転生を繰り返したり、別次元のエネルギーだったりして、その人の魂を受け継いだものとして、再会することも可能だと想像できるのです。
すると非永遠性で限定性の時空から、広大で永遠である「ひとつ」に自分を帰す感覚となり、逆に、この限られた時間という区切りの中で、
自然な流れのままに、自分らしく生きようと思ってくるのです。
不思議に思うかもしれませんが、一瞬と永遠はまったく違うようでいて、同じと言えます。
区切られ、限定された時間という間に一瞬一瞬があり、永遠はいつもそこにあるのです。
そのことは、分離された意識、私とあなた、上と下、光と闇、現在を中心にした過去と未来という時間軸・・・それらが強く意識されているので見えないだけなのです。
ですから、日常や現実の中で永遠性を感じるには、二元・分離したものなかに統合を見る行為・思考・感覚となってくるのです。別の表現では、「愛」の創造、認識と言ってもよいでしょう。
また私があなたの中にいて、あなたが私の中にいるという気づきの象徴性で語ることができます。これはマルセイユタロットでは、「太陽」の叡智として表現されます。
それは濃密な(生活・人生の)感覚から希薄なもの(しかし真理的には濃密なもの)へと変わるものなのですが、囚われからの解放という観点では、霊化の過程と言っていいものなのかもしれません。
運・運気はあるという現実感
マルセイユタロットで「運命の輪」というカードがあります。
このカードのモチーフは、西洋では普遍的なもので、ほかのタロットにおいても、またタロットやカード以外でも、「運命」のシンボルとしてよく登場するものです。
東洋においても、「運」とか「運気」というものは、特に占いの世界においては重要視されます。
今回は、「運」とは何か?ということではなく、むしろ「運」という概念や象徴性が、私たちの生活や、精神的・霊的な探求においても、何か影響があるということについて、ふれたいと思います。
運や運気と呼ばれるものは、(形や見た目として)ないと言えばないですが、結構、誰しも、「運」を言葉して使っています。
運がある・ないとか、(運が)ついている・ついていないとか、(英語的に)ラッキーだったとか、不運だ、運に見放された・・・など、運・運気を思わせる表現は日常的に使われますし、よく見られます。
ということは、意識において、実在性があるものと見ることができます。
この、「意識したものに実在性がある」とする見方(実際的な影響があるものと見る考え)は、「リアリティ」(現実感)というものを考えるうえで重要です。
ここでいうリアリティとは、その人が現実だと思う感覚、意識、世界観と言ってもよく、全員に普遍的にある、(個人のフィルターを通していない)本当の現実というのとは違います。
要するに「運」は、ほとんどの人が普通にあると思っていたり、そういう言葉で表現したりするので、目に見えなくても影響のある「存在」なのです。
それをあえて見える形にしたのが、タロットでは「運命の輪」であり、占い的には運気の流れとして、図やある種の概念として(目や頭(論理)で)わかるように表現していると言えます。
もう少しはっきり言えば、私たちが現実意識をもって生活している限り、運・運気・運命という、目には見えなくても、影響する力として支配されるのだということです。
そうした現実感(運が存在するというリアリティ)をもって、ほとんどの人が暮らしているからです。言ってみれば、運は私たちの集合意識が作り出しているとも言えます。
物質次元から精神へと移行し、それらの両者の統合、また霊的な探求や発展を望む時、現実意識(今までのリアリティ感)を超越していくことが求められます。
従って、そういうことを志向する者は、運・運気というものから逃れる、あるいは運などないという発想になってきます。
ところが、そうは言っても、死ぬわけではないので、肉体をもって現実というフィールドで活動しなくてはならず、そうすると、どうしても、先述した多くの人(の現実感)によって意識されている「運」というものに支配された世界の影響を受けることになります。
いくら「そんなものは関係ない」と言ったところで、多勢に無勢、意識の多数派に負けてしまいます。結局、運に支配されるような世界に、中途半端ながらも関わることになるわけです。
これはおそらく霊的には、肉体と精神、さらに個の魂に刻まれた、いわばカルマのようなデータとも関係し、「運」という、実体はなくても影響するものとして、そのカルマ的な部分にリンクするようになっていると考えられます。
従って、「運」という巨大な意識体から逃れるためには、自分の思考や感情データ(運を意識する考え方や感じ方のこと)の除去や脱却、調整だけではなく、カルマ的な調整・デリート(浄化)も必要になってくると想像できます。
そして、ここが面白いところなのですが、運にリアリティを持つ次元にいる私たちは、いいか悪いかは別にして、普通に、逆から考えると、運(運気)を使って、それに乗ったりしての、現実生活をエンジョイさせたり、現世利益を得たりの、いわゆる一般的な幸せや、よい生活ということを目指すこともできるのです。
また同時に、カルマ的な浄化が進めば、運に左右されないというか、見た目には、運がいいような現実の状況として現れてくるとも言えましょう。
ということは、物質的・現実的な充実を図るにしても、精神的・霊的な探求と解放を進めていくにしても、「運」については、必ず通らなくてはならないポイントであると述べることができます。
これはマルセイユタロットの「愚者」を除く、手品師(1)から世界(21)の大アルカナの数の並びにおいて、ほぼ真ん中に位置する「10」という数を、「運命の輪」が持っていることでもわかります。
しかし、後者の精神的・霊的解放を目指す人は、あまり運を意識し過ぎた生活をすると、運という実体のないものを実体化させてしまうことに傾き、結局、運による支配から逃れられない強固な枠・鎖を自らで作ることになりますから、注意が必要です。
そして、あくまで自分一代の生活を、現実的な意味で充実させたい、地位や名誉を得たい、お金や事業、人間関係など、地上的な意味でうまく進めたいという方には、運の利用、運の流れに乗るということは、とても重要なことになるでしょう。
運を活かすも殺すも、また運というものを実として見るか虚として見るかも、皆さんの目的次第だと言えます。