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思考と感情、理屈と直感で迷った時に。
物事の判断のもと(基準)として、よく言われるのが、「思考」(論理)か「感情」(感性)かの問題です。
※思考と論理、そして感情と感性は厳密には違いますが、ここでは同様なものとして扱います。
似たようなものとしては、理屈・論理と直感・感覚の違いとか、客観性と主観性のような対立概念で言われることもあります。
いずれにおいても、究極的には、どちらがいいか悪いかはないものと考えられますが、事と次第によっては、当人にとっての良し悪しは出ます。
今回は、この思考か感情か、あるいは論理か直感かの判断で困った場合についてを書いてみたいと思います。
まず、一般的に性差(女性・男性)での偏りはあると考えられます。
これは肉体的・機能的・構造的に、同じ人間といえど、やはり性別によるそもそもの違いはあるので、どうしても相違は出ると推測されるからです。
霊的な意味でも、男性と女性の役割やエネルギーの質の違いは言われているところです。
そして、女性は直感や感情、感性での判断、男性は思考や論理での判断が適しているとされています。
これはマルセイユタロット的に見ても、言えることだと思います。
従って、迷った場合は、この性差の判断傾向に従い、女性は直感・感覚的なもの、男性は論理・思考的なものの判断が一番しっくり来るのではないかと思います。
ただ男性であれ、女性であれ、性差によるものは確かにありますが、同じ人間として、一人の内に完全性も存在すると考えると、基本はそうであっても人によってはまた違いもあると言えます。
自分のこれまでの傾向を知り、どの判断のレベルの時が、自分にとっては結果的に良かったのかを見るとよいでしょう。
論理20、感覚80くらいがいいという人もいれば、その逆くらいの人もいるわけです。
またこういう場合もあります。
女性の場合、自分の感性・直感力(直感的に本質を受け取る巫女性ともつながります)を磨くため(復活させるため)、あえて逆の論理や思考を鍛える(接する)ことにより、その統合した力によって、これまで以上の直感力が出てくる(蘇ってくる)というパターンがあります。
こうなると、過去の、論理や客観的根拠(エビデンス)にこだわっていた自分は解けて、より女性性の本質らしい感性を信頼する自分になってきます。
反対に男性は、直感や感性を中心すると女性性に接し、それを受け入れることで、自分の中の高次の知性・論理性が発動してくるようになります。いわば、感性を分析していくことで、もっと高いレベルの論理に導かれるのです。
どちらにしても、判断のスピードは速くなり、自分にとっての重要なもの、本質がわかり、選択での迷いも少なく、あるいは迷っても前のレベルとは違う次元のものに変化します。
ということで、女性でも男性でも、実は思考と感性の狭間で悩むことは、悪いことではないのです。
それから、階層やレベル(次元)の混同という問題が、思考と感情の判断でよく現れます。
感情レベルの問題(判断)は、心の次元であって、魂や高次のレベルと関係してはいても、多分に自分の物語(自分寄り)が中心です。
もっと言えば、かなりの部分で好き嫌いか、自分にとって心地よいと思うもの、満足するものという選択基準になっているということです。
これに対し、思考や論理はどちらかといえば他人寄りであり、組織や集団においての(利や正義が)選択基準になってきます。これは現実的判断とも言えます。
その判断や選択が、どのレベルにおいてもっともよいとするものを求めるのか?によっては、感情・感性で選んだほうがいい場合と、思考や論理での判断がよい場合とがあるわけです。
先述したように、自分寄り、あくまで自分の満足感を中心とした選択では感性・直感でもいいでしょうし、自分よりも集団・組織・グループなどの集合的なものの利や正義に適うほうが、この場合はよい(それが結局自分のためにもなる)と思えるのなら、思考や論理中心となります。
もうひとつ言えば、魂の基準となってきますと、論理と感情は超えたものになってきて、マルセイユタロットでは「神の家」の判断ということになります。
それは理屈が通っているとか、気持ちいいとか、ワクワクするとかとは別次元の選択です。
思考と感情(感性)での扱いには、思考を感性の刺激(触媒)とするものと、感性(感情)を思考の刺激(触媒)として判断するものとがあります。
これは、先述したように、性差においては、基本となるものが、女性(的な人)では直感や感性、男性では思考や論理なので、例えば、女性ですと、自分の感性や感覚に、さらに信憑性や信頼性を増すために、思考によって感性に刺激を与えて、「やっぱり自分の直感は間違っていなかった」と確信させるもの、腑に落とすものとして扱うという方法です。
反対に男性(的な人)だと、自分の思考、論理に飛躍をもたらすために、直感やヒラメキ、感性をも取り入れてみる、重視してみるということになります。
ここで大事なのは、どちらか(思考か感情かの判断)で迷うというのではなく、あくまで基本の判断は思考か直感かで決めておき、その底上げや、判断のための情報・資料として、思考または感性を取り入れるということです。
思考中心の人が、理屈を凌駕するほどの感覚を覚えたら、その決断には直感・感覚的なものを重視する必要性があると言え、逆に普段は自分の直感・感性的なものを信頼していても、科学的・客観的データが明らかに揃っている場合、自分の直感力がその時はぶれている、クリアーではないと見ればいいのです。
どちらにおいても、修正すること(改革をすること)も受け入れる、柔軟性が求められます。
最初からふたつを相克させたり、葛藤させたりすると判断が難しくなります。
これは先に書いた、両者(思考と感情)の統合によって、さらに高いレベルに自分の判断力を上げるための方法と似たものでもあります。
なお、タロットをしている者は、小アルカナで、剣(ソード)か杯(カップ)で思考と感情を代表させて、出たカードによって、どれを重視するかの判断材料とすることもできます。
「呼ばれた」感の安全と注意
これは先日配信したメルマガ(講座受講者・修了者専用)に書いたことで、そのフォローの意味と、また一般的にも書いておいたほうがいいかもしれないと思い、ブログ記事にすることにしました。
聖地、神社仏閣などに行かれる人で、そこの神なるものや、特別な存在などから「“呼ばれた”からここに来た」のだと主張する人が見受けられるようになりました。
今回は、そのような存在がいるのかいないのかの争点ではなく、一応、そういったものが存在するとしての前提で、そのような存在から「呼ばれる」という感覚(「呼ばれた」感)はどうなのかということが主題です。
さて、そうした感覚の中には、安全なもの(もしくは当人や他人があまり気にしなくてもよいもの)と、危険なもの(本人や他人にとっても問題と考えられるもの)があるように思います。
安全なものの傾向としてのひとつは、その人に何かしらの感応力(巫女的な能力、次元の異なったエネルギーや存在を感じ取ったり、コミュニケートできたりする能力)があり、実感としてきちんと受容・コントロールできている場合です。
これはもともとの能力とともに、ある程度の修行、自己統制力も必要とされるでしょう。
こういうタイプは、サイキックや心霊的なことのプロ(そういった世界で生きている、生業としている)の人たちに多いもので、当然ながら別次元の存在や通常とは異なるエネルギーへの扱い、作法・儀式、自己と他人への抑制・コントロールにも長けているところがあります。
そしてもうひとつのタイプは、「呼ばれた」感覚そのものがライトなものであり、そのため、影響もライトなものになるという種類です。
例を挙げれば、ライトなスピリチュアルブームに乗って、ちょっとした旅行感覚で聖地を訪れ、そこで参拝などしてるうちに、「なんかここの神様に呼ばれた感覚がする~ありがとう~感謝♪」みたいな感じのものです。(笑)
一見、ふざけているようでもありますが、聖地を訪れるという純粋な感覚は持ち合わせており、意外に本人たちには、その時(聖地にいる時)はまじめな部分で参拝しています。
それでも、全体としては、やはり旅行の一環のようなもの(ライトなもの)でもあります。
しかし、もし神様のようなものがいらっしゃるとすれば、まるで、おじいさんがかわいい孫を見るようなもので、旅を楽しんでいること、神や自然は敬っていることは伝わって来ていて、たぶん(神様は)大目に見てくれるものだと考えられます。
これに対し、問題なのは、「呼ばれた」感覚にかなりのリアリティを本人が持ち、壮大な役割とか、特別な使命を言われたと信じ込むようなケースです。
それも、俗地、日常生活を行っている場所にいる段階から「呼ばれた」感か強くなり、居ても立ってもいられなくなり、とにもかくにも聖地や神社などにかけつけます。
そうすると、そこの神様から語りかけられて、私の使命を告げられることになっていた・・・みたいなストーリーが典型です。
しかも、その旅の過程において、「私が訪れることがすべて決まっていた」「次々とシンクロや特別なことが起こり、これが真実だと告げていた」・・・というようなものも、よくこのストーリーには付随します。
このようなケースで注意する(疑問に思う)ことは、まず、神様と崇敬される特別(異次元)の高次存在が、なにゆえに、普通であるその人を呼ぶのか? 使命を与えるのか? ということです。
先述したような修行をしてきたり、特別な巫女的な能力の家系に生まれてきたりした人などは別としても、普通の、ちょっとスピリチュアルに関心のあるくらいのあなたが、なぜ神様に選ばれるのか?ということになります。
これは心理的には、裏を返せばわかることで、つまりは特別な存在に選ばれる=私は特別である、特別でありたいということであり、さらには、そう思うことは、そのままの自分という存在に価値があまり認められない、人と比べて自分を見て、どこか劣っていると思っているという心の構造が見えてきます。
そもそも、わざわざ呼ばなくても、高次な存在なら、時間と空間を超越し、あなたのいる今の場所にコミュニケートすることは可能でしょう。
ストーリーとしては、困難だと思える所や、通常の人ではたどりつけないと言われる場所に自分がたどりついたこと(試験にクリアーする物語とか、ほかの人では扉が開かなくても自分には開くというもの)、それは、物語創作のうえでは人を感動させたり、面白くさせたりするセオリーであり、この場合は、「自分を感動(洗脳)させている」わけです。
だから、「呼ばれて(選ばれて)」「行く」ほうが、自分の特別感(ストーリー)のためには(都合が)よいのです。
それから、ここまでではなくても、自分のやっていることに、どこかしら自信や確信がなく、神的な特別な存在からお墨付きのようなものをもらったという感覚(ストーリー)によって、自信を得る仕組みになっていることもあります。(見方によっては「神の名」を利用していることと同じです。しかし、神託を得たい気持ちも人にはありますので、一概には悪いこととは言えませんが)
あと、これはあくまで私見ですが、もしサイキック的な影響がある場合、それは神とか(高次存在)ではなく、人の思念、または低次存在から来ているということも考えられ「呼ばれた」と思っている人の中には、結構こうしたものと高次のものとの区別がつかず、誤解しているようなことも多いのではないかと推測されます。
そうした(人や低次の)存在からのものでは、「呼ばれた」のは、興味本位目的や、あなたを惑わして、それを見て楽しむという「余興」のためとかであり、また、あなたの生命エネルギーを奪うためなどのことも考えられ、あまりよいものとは言えません。
「呼ばれた」感を中心として、やたら壮大で綿密な、自分と神様との救済物語のようなものがあり、それが本人が何か言う度に内容が変わっていたり、強迫的なものとして、その人自身の自由な行動に制限がかけらる状態になっていたりする時は、心理・精神的には「統合失調症」のおそれも否定できません。
他人から見て、あまりにもひどい押しつけや妄想的になれば、それは病的な状態とも言えますし、その人と交流している周囲の人にも混乱が及びます。
一方、「呼ばれた」感の中でも、現地(聖地・神社仏閣など)に行ってはじめて感応するような場合もあります。
これは少しニュアンスが違い、「呼ばれた」のではなく、その場所自体や、敬われている存在(像や絵で象徴化されていることが多い)に対して、何かしら自分に理由がある、因縁(良い悪いどちらでも)があると考えることができます。
現実的な理由・縁(何かの思い出とリンクしていた、たまたまその場所の雰囲気と自分の気持ちが合ったなど)もあれば、前世的データや見えない部分での縁もあるかもしれません。
人間には物質的・常識的・肉体部分で感応する部分と、それを超えたり、通常は隠れて見えない部分だったりするもので感応するところがあります。
いわば、アンテナ能力が複数層に分かれているようなものです。
人から崇められたり、祈りを捧げられたりした場所は、人々の様々な思念も溜め込まれていると考えられます。
そうしたものと、今の自分の中にある何かのデータとリンクすれば、反応を起こすことも想定できます。
それを縁と言えば、縁なのかもしれません。
心の鍵のようなものが、ある聖地的な場所や、神・仏の祀られているところと感応して、開く場合もあるわけです。
例えば、ある観音像を見て、自分のなかの観音心(癒しや救済の力)を想起させ、自らで自分を救う気持ちが生じることがあります。
つまり、仏(神)像は、その仏(神)の表す特徴によって、人である自分のその特質の神性・仏性を目覚めさせる役割もあるわけです。
またこれまで祈られてきた人々のそれぞれの思い(それは悲しみや苦しみもあります)が仏(神)像、聖地の場所に溜め込まれ、それらの内の何かが、自分の中で受け止め、感応することもあります。
(歴史などを調べると、その像や場所に捧げられた祈りの質と、集団の背景がわかって、自分と心理的、前世的に関係していることがわかることもあります。いわば、共鳴した理由とでも言えるものです)
それは自分に似たところや何かしら関係があるためで、やはりご縁と言ってもいいでしょう。
このようなものは、(外から)「呼ばれた」感とは違い、自分自身が神仏の象徴を通して呼び起こしたものと考えてよいと思います。
「運命の輪」に見る時間感覚
マルセイユタロットを見ていますと、たわしたちの現実感覚、現実次元を認識させるための大きな装置のひとつが、「時間」であると感じられます。
マルセイユタロットにおいては、特に大アルカナのカードで、すべての事象を説明することができるのですが、やはり、大アルカナにおいても、ある特定の事象とのつながりが深いカードというものも出てきます。
「時間」をテーマにすれば、最も「時間」に象徴的なのは「運命の輪」だと考えられますが、同時に、すべてのカードが「時間」というものの一側面を表していると見ることが可能です。(こういう見方が、マルセイユタロット的な特徴でもあります)
「運命の輪」で見た場合、このカードはその名の通り、大きな回転する輪と、その輪に付随するような形で、二匹と一匹の奇妙な動物たちが描かれています。
この動物の配置と形態には重大な秘密が隠されていますが、ここでは、時間を主題にしたある見方を提示しておきます。
この三匹は、時間的に見ると、「過去」「現在」「未来」という括り(概念とでもいうべきもの)を象徴していると考えることができます。
私たちが「時間」を「時間」として実感するには、時の差、時が動いている、進んでいるという感覚が必要です。
現在の今この瞬間を中心にして、過ぎ去ったものが「過去」、これから訪れるものが「未来」とし、そうすることで、時計(計測)的な“差”を実感することで、時間が流れている、経過していると思うわけです。
逆に言えば、この3つの括りがないと、私たちは時間の進みを感じ取ることができないとも言えます。
通常、私たちはこのように時間が進む感覚をもって生活していますが、時折、時間がなくなるような感覚、あるいは時計の進みが一定ではないような感じを受けることがあります。
それは、何かに熱中している(もしくは囚われている)時で、また、とても嬉しいことや非常にショックなことが起こった時など、通常の意識状態にはない時に起こりがちです。
いわゆる変性意識といってもいい状態で、時間が停止したり、変化したりする感覚を味わうのです。
まさに、意識と心の状態が、時間の感覚を変化させると言えますし、反対に、意識と心の状態が時間を司っているとも考えることができます。
時間は、個人の精神で流れる時間と、万人に共通な、天体の回転を基準にした時計的・計測的時間があると言われています。いわゆるカイロス・クロノス時間と呼ばれる違いです。(ほかにも種類があるのですが、ここではふれません)
私たちが過去・現在・未来と、一定の時間の流れで進んでいると感じている空間が現実で日常ですが、その時系列がバラバラになったり、時間の進みが時計的な進みとはまるで違ったような感覚を得たり、時が止まったかのような感じを受けたりしている間は、現実を超えたところ(特別な意識による別の空間)に移行していると考えることができます。
そして、その別の空間にこそ、現実を超えるヒントがあると想像できるのです。むしろ、そうした空間から私たちは現実へ降りてきているとも言えますし、意識が空間を作り出している(意識状態によって空間認識が変わる)と想定することもできます。
現在を中立として見た時、過去と未来は二元に分かれた分離意識とも言えます。
マルセイユタロットに描かれていることですが、私たちが総合的に進化し、成長するためには、個人としても分離した二元的性質を統合していくプロセスが求められます。
時間の統合(通常時間感覚からの脱出)というテーマでは、過去と未来を現在に集約させ、統合していく作業とも言えます。
それは精神においては、基本的に物理的時間を超えて、過去や未来に意識を(イメージとして)飛ばすことが自由にできますので、統合するチャンスがあると言えます。
しかし、過去に心残りのような未消化でネガティブなデータがあったり、未来に大きな不安を抱えていたりすれば、意識・心は分裂し、統合が困難になり、より時間を意識した世界に閉じこめられると同時に、自分が強く意識する過去か未来に囚われてしまい、今この時に全力で生きられないエネルギー状態(今が空虚な状態)となるおそれがあります。
そういう意味でも、過去や未来へ傾き過ぎた思いを中立に、今に戻していくことが重要です。
過去ワークや未来への思いの手放しなどが有効なのも、こうしたことが考えられるからです。
それは結局、囚われからの解放になり、今をもっと自由に生きることにつながるのです。
(心)霊的次元の和解、救い
今日の話は、一段とファンタジーと言いますか、狭義のスピリチュアルな話となります。
マルセイユタロットの絵図の語るところによれば、この世界はいわゆる現実、普通に私たちが生まれて死ぬまで過ごす世界だけではなく、肉体を超えた死後の世界のような、(心)霊的世界があると示されています。(もっとも、これも受け取る人の考え方に左右はされますが)
ところで、私たちが自分を自分だと認識し、他人を自分とは違うその人だと思う状態というのは、主体と客体感覚を伴う「自我意識」を持っているということになります。
精神世界・スピリチュアルな世界観でよく述べられているように、人が宇宙・大元・「ひとつ」としての統合次元まで至ると、そういった自我意識は消失するものと考えられています。
言わば、統合されればされるほど、(哲学的・宗教的に表現すれば)悟れば悟るほど、人の意識は希薄というか、抽象的なものになり、自分や他人を分けて認識することがなくなっていくもの推測されています。
ですから、そういった究極の次元からの視点では、個人の悩みも喜びも、また他人を意識する世界すべても、幻想である(認識として存在しない)という説になるのは当然です。
そもそも、喜怒哀楽の感覚というのも、比較対象や波のような上下左右の「差」があって初めて「それ」として表せるものでもあり、そういった差異がない世界・意識においては、すべてはあってないという、不思議な超越状態とも考えられますから、現実での結果やプロセス、思いに至るまで、個人としての意識は無意味であると言えます。
しかし、現実問題、私たちは究極まで悟っていないのが普通ですし、毎日起こる出来事、過ごす日々、環境において、感覚・感情・思考様々に変化し、悩みや苦しみ、そして喜びや楽しみも味わうことになります。
それに意味がないと言っても、意味があると世界(という設定・条件)から逃れられない(あるいは選択して来ている)私たちにとっては、究極次元で語れることに違和感があるのも理解できます。
そこで最初の話に戻ります。
先述したように、究極のひとつの次元、大元、ひとつであり全体しかないという状態(超越意識状態)と、自我意識を持ち、現実で生きている私たちの普通の意識状態との間に、中間としての意識層もあるのではないかと想定するのです。
これが死後の世界とか、(心)霊的世界(心魂の世界)と言ってもいいかもしれません。
その次元では、人は肉体を持たないので、肉体(物質・現実)次元での欲求・縛りからは解放されるものの、自我意識が完全に消失してるわけではなく、データのようなものとして、自分が現実世界でどのような人間として生き、どのような自分以外の人たちと関わり、心に思いを残してきたかということは存在していると見ます。
まさに意識的に、ひとつ・全体に至っている状態と、自分と別々の人がいるという状態の中間と考えられます。
この次元で重要なのは、意識が肉体から解放されていることであり、つまり物理的・時間的干渉、制約から完全ではなくても、ほぼそこから逃れられていると考えられることと、より、「素」の状態、心と個の魂同士が相互に、しかもダイレクトにアクセスしやすくなっていると思えることです。
それは心のデータ的に、ほとんど隠し事ができずに、自分と他人とコミュニケーションできる状態だと言えます。もっとわかりやすく言えば、誰もが裸のつきあいみたいになる(笑)ということです。
これはかなり恥ずかしいことでもありますが(^_^;)、ほかの人の真意が理解できることでもあります。
現実世界では仕方なくこうしていたものの、それは本意ではなかったとか、本当は謝りたかったとか、あなたを愛していたけれど、現実世界ではどうしようもできなかったとか・・・現実での物理的・空間的・時間的制約、あるいは肉体的・生存的欲求のための強い自我から来る心情的虚偽や方便を使ってしまったことなどが、中間の心霊的状態ではその干渉がなくなり、ほぼ魂の真意のようなものが露わになるということです。
先にも言ったように、これはかなり恥ずかしかったり、厳しいところでもあったりする反面、やっと本当の気持ちが確認でき、個の魂としての交流ができる癒しや愛を実感できる次元だと思えます。
現実では報われなくても、この世界、この次元では報われる可能性があるという、救いの世界でもあります。(反対に現実よりシビアに真実がわかる、さらされるという次元でもあります)
ですから、こう思うのです。
現実世界では何らかの事情で交流できなかったり、別れてしまったり、誤解があって対立したりした人でも、自分の真意は忘れず、自分も相手も責めず、いつか魂の(霊的)次元で癒し合い、和解することができると信じれば、この世が苦しみの世界であっても、生きながらすでに救いの気持ちも生じてくるでしょう。
そして、だからこそ、一気に全体次元、ひとつの統合次元に向かうことには抵抗してしまう部分も、人にはあるのだと感じられます。
言ってしまえば、できるだけ現実次元に留まりたい、せめて心霊的次元で和解したり真意を伝えたたりしたいという意識です。
個としての意識がなくなれば、それは究極の救済でもあるのでしょうが、個人として現実次元での生きた証しのようなものも消えてしまい、まだかすかに個の意識が残る段階での、その昇華や浄化を行いたいという強烈な望みのようなものがネックになると思われます。
そういった意味で、現実次元、心霊的次元、超越・統合次元の順で、できるだけ自分が思い残しをなくしたり、調和を働かせたりするということが、人類全体の進化にも関わってくるように感じます。
現実次元においては、簡単な言葉でいえば、できるだけ、「仕方ない」で済ますことのないような人生を送っていきたいというものになりますし、私たちは決して現実次元に生きるだけの存在ではない(望み・救いは多層の次元の目的と用意がある)という思いです。
引き寄せとお金のこと。
いわゆる「引き寄せの法則」のように、同じ波動や振動を持つものは引き寄せ合うというスピリチュアルな考え方があります。
タロットなどしていますと、引き寄せ的な言葉を使う人に出会うことも、しばしばあります。
引き寄せについては、個人的には、そうだと思う部分と、全面的には受け入れられないところとがあります。
それにしても、だいたい、極端なこと、印象的なことが起こった時に対して「引き寄せた」という表現を使っている人が多いような気がします。
その(「引き寄せた」と語る出来事の)多くは、自分にとってポジティブなもののようですが、逆に、ネガティブなものもあるようです。
いずれにしても、先述したように、自分にとって印象的なことが発生した時、引き寄せたと言っているわけで、では普段の何でもない出来事は、自分が引き寄せていないのか?という疑問も出てきます。(笑)
ただ、「それはあまりにも日常的過ぎて、意識していない(されない)だけで、やはりそれも自分が引き寄せているのだ」という主張もできないわけではありません。
では、自分が発する波動や状態に応じて、事が引き寄せられるのであれば、その日常的なことも、印象的に強い出来事も、波動の違いこそあれ、一連の波のようなものとしてつながっており、その極端な上下のピーク点が印象的な事柄として起きているものであり、その他の部分は日常的なものであると例えることも可能でしょう。
すると、波の振幅の幅が重要ということになってきます。また、振幅の幅の平均値と言いますか、振幅の中心を結ぶ直線が梯子のように上下で示され、人によって、その位置が異なるものとも想像できます。
これがレベルや次元などを象徴しているのかもしれません。
ともかく、なかなか思うことが引き寄せられない、期待に反したものが引き寄せられたと感じる人は、そもそも人の波動のようなものは一定ではなく、振幅があり、その都度、変化しているものだと考えると、それも当たり前のように見ることができるでしょう。
そして、この点もあまり言われていなところですが、人の体は肉体以外にも、見えないエネルギー体のようなものがあると想定されており、それはいわゆるエーテル体とかアストラル体とか(説によって、その種類も数も違います)で名付けられているものです。
それぞれに中心となる部分があり、そこが大元の振動を各々に発しているとすると、肉体振動以外のエネルギー体の振動もあると考えられます。
また人の意識にも階層やレベルの異なりがあり、それによっても、一人の人の中でも、振動数に違いがあると思われます。
結局、どれが主体となるのかはわかりませんが、現実的には肉体をもって活動し、それが人々の意識の中では普通ですから、まずは物質的・肉体的波動・振動が基本であるのは想像がつくことです。
この部分を安定させたほうが、ほかの部分の振動の変化があっても、ふらつくことは少なくなりそうな感じがします。
一方で肉体次元の振動に囚われすぎると、変化が少なく、常識世界の虜となるおそれもあります。
ところで、引き寄せ的なものを信奉する人の中で、お金(経済的豊かさ)の引き寄せを願う人は少なくないようです。
それがうまく行く人もいれば、そうでない人いるでしょうが、ここにもやはり落とし穴があるように思います。
引き寄せ的には、豊かさの思いや波動のようなものを出せば、それと同じく、現実的にお金が入ったり、豊かさの環境に整えられていったりすると考えられています。
通常とは逆転の発想で、お金がないのは、貧困な意識や思い・その波動にあるということで、ならば、先に裕福な波動、豊かな状態を意識の中に生み出して、それを安定させることで、現実に、そのような状況を引き寄せるというものです。
仮にそれが正しいとしても、「先に豊かさの意識や思いになる」というのが、なかなか難しいものだと言えます。
鶏が先か卵か先みたいな話ですが、普通はお金がないから不安になるのであり、お金がすでにたくさんあったり、入る勝算があったりすれば、人は安心するものです。
お金がどんどん失われる、入ってくるアテもない、経済的に苦しい状態が続いていて先行きも不透明・・・ということであれば、不安になるのが当たり前です。
後者のような状態で、「豊かさを先に感じろ」と言われても、一時的にはできても、それを持続させることは困難でしょう。
ということは、先にやるべきことは、願いや思い、波動のうんぬんではなく、お金が入る状態、もしくはこれ以上に無駄に流さないようにする現実思考と行動になります。
ただ、ここで言いたいのは、だから引き寄せやスピリチュアルな考えは使えない、ダメだということではありません。
ここでは引き寄せが正しいかどうかは議論しませんが、その法則を信じるのであれば、その法則を厳密に適用すべきと言っているのです。
先に豊かさを感じ、それが安定していくことが求められるのですから、そのための環境や行動は整えられてしかるべきというものです。
お金がない心配、稼げない不安に苛まされたまま、ただ豊かさを願っていても、意識の中では葛藤と矛盾の連続であり、これまで説明したように、振動の幅が極端になって安定せず、そのまま不安定な状況を「引き寄せる」ことになるわけです。
とりあえずは、豊かさの前に、少しでも「ほっとした状態」「不安が軽減される状態」が長くなるように、現実的に行動することが求められます。
しかし、実際にお金があまりなかったり、これから入るアテがなかったりする人でも、心の底から、それこそ、宇宙や自分自身の豊かさを信じられ、実感できるような思考・感情・意識に持続して浸ることができれば、お金を引き寄せることができるか、あるいは、お金でなくても、実際にその人が豊かであると感じられる環境に身を置くことができるでしょう。(引き寄せ的なものが正しいとした場合)
その意味では、お金について、必ずしも現実的に収入アップや支出抑制などの行動をしなければならないわけでありません。極端に言えば、瞑想していてもいいわけです。
ただ、普通の人は目に見える範囲、常識的なモノとしての価値で「豊か」であることを「実感」しますから、現実にお金がなく、どんどん流れ、入っても来ないという状態で、豊かさをイメージするのは困難でしょう。
そういう不安の高い人、常識を超えての豊かさの確信に至りにくい人は(それが普通ですが・・・)は、やはり現実的に、現代社会での豊かさの象徴となっている「お金」を稼いだり、減らさなかったりする手段を講じていったほうが効果的です。
そうすると、引き寄せ的には意識(振動)が安心(安定)に向かい、それによって、実際に最初の時点では手にしている収入は少なくても、やがて経済状況が改善されていく可能性が高いと考えられます。
不安や心配のまま、「自分は豊かである」とアファーメーションしたり、瞑想したりしても、実際にそう感じられない状態が多いのでは、効果がないのもむしろ当然ではないかと、引き寄せ的にも考えられるのです。
