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モノと心の成長性と魂の成長性

マルセイユタロットには、前からここでもずっとふれてきているように、霊的な成長の絵図として語られるところがあります。

霊的という言葉が難しい場合、魂的と言ってもいいかもしれません。

ただ、ここでの魂というのは、いわゆる「心」ではなく、もっと深く、高次の部分・状態を指しています。

振動や波動でいうと、高いバイブレーションを持つのが魂で、心はそれより劣ると言いますか、変化の波が激しいものだと考えられます。

スピリチュアルなことに関心を持つと、最初は物質的・地上的とも言われる面への一辺倒な見方から、見えない部分への視点へと移行していきますが、この段階では、「心」の面に注目していることが多いものです。

「自分らしく」とか、「ありのままの自分」とか、そういった言葉で表現される方向性へとシフトしつつも、その「自分らしい自分」というのが、たいていは、心・感情のレベルで語られることがあるわけです。

この感情レベルというのが厄介で、知性においても高い低いのレベルがあるように、感情にも崇高な愛の部分から、低次の好き嫌いレベルまで様々に存在します。

ここが、さきほど言ったように、「心には波がある(すなわち一定ではない)」というところにつながります。

「本当の自分」と思っていたものが、実は単に好き嫌いで見た自分の「好き」を選択した自分、嫌いなものから逃れた自分というものになっている場合があるのです。まあ、平たく言えば、わがままで見るエゴです。

大切なのは、心の面でも、統合的視点、好きも嫌いも見分けて、両面を受け入れ、本当に自分の部分として消化(昇華と書いてもよいです)することにあります。

つまりは単純に好きを選ぶというのではなく、嫌いなことや嫌なこと、避けているところ、見たくない部分など、影にも着目し、その存在をつきとめる(認知する)ことなのです。

感情レベルであっても、素直に好きを選べないのはなぜなのか、もう必要のない、自分を縛っている心のルールはないのか・・・こうしたものを見つめることで、影との統合も図られてきます。

言ってみれば、光も影も仲良くつきあう心に調整するというのに近いでしょうか。

結果的に、より純粋な心の選択ができやすくなり、それは葛藤が少ないものであるがために、生きやすくもなる(たとえ選択した結果が良くなくても、納得できるものである)というわけです。

こうした統合・調整をしないまま、好きなこと、楽なことばかりで動いていると、一時的には好きなことの選択だけで良くなったように見えても、影の部分は常にあるわけですから、事ある毎に、影から存在のアピールをされ、それによって、まさにいろいろな「影響」を受けるのです。

現象・心情としては、「満足したようでどこか満たされない」「順調だと思っていたことが急に悪くなる」「これでいいのかという疑問が、いつもつきまとう」「あと一歩踏み出せない」「何事も中途半端で終わる」「モヤモヤ感がある」「人の言葉や記事にすぐ影響されてしまう」「成功者、カリスマ、順調に行っている人をモデルとしつつも、そうなりれきれない悩みが出る」「うまく行っている他人と自分を比べてしまう」「スピリチュアルな願望達成法に執心(頼って)してしまう」「堂々巡り・ループのような状態に陥る」「好きなことが好きでなくなったり、好きなことが次第にわからくなってきたりする」・・・などのような形で現れます。

心の統合・調整プロセスにおいても、上記のようなことは同じように起きるのですが、違いは、ある段階で抜けたような感覚が伴い、それまで悩んでいたり、疑問に思っていたりしたことが気にならなくなる(あるいは、回答を得たような気持ちになる)ということです。

これは統合による次元上昇でもあります。

タロット講座でも述べていることですが、同じレベルでの好き嫌い・価値観による線引きを続けていても、真の成長は停滞するばかりです。

見た目はうまく行っているように思えても、同じ範囲のところの片面を必死で選択しようと、そこに留まっているだけで、必然、もう一面は切り捨てられています。

ところが、その切り捨てられたほうに、成長の飛躍の元があるのです。

植物でも動物でも、まったくの無機質、光(太陽光・天気)だけでは育たず、そこに有機物、影(雨、夜など)が必要です。

その成長とは、心・感情というより、魂的なものに近いので、成長や飛躍の基準としては、抽象的で見えにくいものでもあります。

よいものだと思っている片面の選択を頑張ってやり続け、その片面だけに留まる状態を長く保つことは、見た目の成長としてすばらしく映りますし、それは現実的・経済的な成功、心の豊かさのように思えるものです。

しかし本当の魂的な意味での成長観点からは、停滞として見えてきます。

一代限り(永遠性の魂を設定しない場合の)、人生の現実的・表面的充実としては、その選択もよいとは思います。

ただ、マルセイユタロットを深くやっていくと、そのレベルとしての人生を扱わなくなり、魂の成長を志向するようになってくるのです。


バーチャル世界の危険性

タロットはイメージの世界とも言えるほど、タロットとイメージは関係が深いものです。

イメージもつきつめて行けば、非常にリアルなものになってくるのですが、これと似たものに、最近とみに発達してきたバーチャル世界、バーチャル体験があります。

しかし、個人的に思うのは、今、技術的にもリアル(現実感覚)にほとんど近づきつつある、機器によるバーチャルな世界は、かなり危険があるように思います。

今のバーチャル世界は、実はイメージとは関係なくなり、言ってみれば自分がイメージするのではなく、勝手に機械が作り出した世界を仮想現実として体験しているに過ぎない状態です。

マルセイユタロットにある秘伝的な思想では、この現実・リアルですら仮想空間のようなものだと語られます。

そのうえ、さらに現実の中でバーチャル空間が作られるわけですから、仮想の仮想ということで、何重にも自分をだましていることになります。

マルセイユタロットの教えによれば、私たちの認識不足、認知が曇らされているために、この現実への認識も、真実の姿ではなく、仮想的なものとして、真実の投影空間のように体験していると示唆しています。

このことを、「牢獄に入っている(囚われている)人間の状態」と例えられることもあります。

それなのに、さらに偽物(影)をモデルにして、そのまた偽物を作って楽しむというのがバーチャル世界です。

言わば、牢獄の中にさらに牢獄を作るようなものです。

マルセイユタロットの教えでは、私たちが霊的(な覚醒)に重要なのは、この牢獄状態から抜け出すことにあると語られますが、人類は、バーチャル世界の発達により、ますます牢獄ライフを加速させようとしています。

私から見れば、バーチャル世界は、牢獄ライフからのさらなる逃避(麻痺の加速)であり、真実から遠ざけるものと映ります。

自分でイメージを喚起して、思索を象徴的に高度に進めていくのとは逆で、バーチャルはイメージによる創造・思索を放棄し、私たちを一層、奴隷にしてしまう世界(装置)だと言えます。

ほかに、アニメーションもイメージ・二次元の世界ですが、この世界に入りたいという人や、どっぷり二次元に浸かってしまって、二次元キャラしか愛せないというのは、逆にイメージに囚われ、バーチャル世界に反応的・奴隷的になっているのと同じと言えます。

アニメの描くイメージとストーリーの世界から、思索を深め、感性を高め、創造性を刺激し、プラトン的に言えばイデアに接することが大切なのです。

ただ、何事も悪いことばかりでありません。バーチャル世界においても、よいことはあるでしょう。

例えば、バーチャル世界の擬似的環境の体験によって、ストレスの軽減、ちょっとした心の解放、心理的なセラピー、ホルモンバランスや脳内物質の調整などのために、使える余地は残されていると思います。

ただあくまで、一時的なものであり、ずっと使い続けたり、その世界に浸りすぎたりするのは、霊的な退行と言えるものを自分にひどくもたらせてしまうのではないかと危惧されます。

(マルセイユ)タロット的な言い方をすれば、自分が悪魔のエネルギーに取り込まれ、エゴの肥大と、自我(提示の自分)と自己(高次の自分)の分離を激しくさせてしまうと考えられます。

マルセイユタロットの教えには、自分の神性に目覚めるというのがありますが、自分の内に神を見ようとするのと、自分が神であると思うのとではまったく反対ではあるものの、実はプロセスとしては似たようなところもあり(これは説明すると難しいですので、ここでは割愛します)、神性が悪魔にすり替わり、妄想世界の自我に囚われる危険性もあるのです。

そして、ネット世界もバーチャル世界と似たところがあるので、ここも誘惑と堕落の罠に満ちています。

自分に自信がなかったり、現実に嫌気が差していたり、不幸だと思ったりしている人は、自我(エゴ)を一時的に満足させてくれる、ネットにおいてのカリスマ的な人や、そうした人が話す言葉、書く文章、見せる技術に魅了されます。

しかしそれは、ネットにおいて作られた虚像ということもあるのです。

ネットでの虚像がすでに強固に、自分がそれに囚われると、たとえリアルに面会しても、その虚像が自分に生き続けることがあります。

なぜなら、リアル・現実も虚像のひとつ(投影する空間)だからです。

確かにリアルのほうが実像に近くなってくるでしょうが、二重の投影が一重になるだけで、あまり変わらない場合もあるのです。

まあ、それでもそれらも含めて、人生、現実、すべてが味わい、体験だとすれば、いいも悪いもなく、バーチャルでもネットでもすばらしいものと言えます。

もし問題があるとすれば、まったく無自覚な状態にいることであり、提供されるもの、目の前にあるものに、ただ反応しているだけという人生になることでしょうか。

それでも充実した人生だったと思えれば、十分なのかもしれません。

バーチャル世界とは別にして、現実とは何か、どんな価値があるのか、については、いろいろな意見や考え方があるでしょう。


タロットで物事を選択すること。

人は生活をしていく中で、判断に迷うこと、選択に悩むようなシーンに置かれることは多いものです。

こういう時、タロットが役に立つ・・・と思われているようですが、私の考えでは、これはそうと言えるところもありますし、そうでもないとも言えるのです。

占いでも、タロットは「卜占(ぼくせん)」の分野として、偶然出たものから何かの判断をつけること、選択を提示することには適していると考えられており、実際そのように使われることは普通です。

ここで、二択、三択など、複数の候補から何かを選ぶという問題で、それをタロットで決めたいという時、その選び方の基準がどうなのか、どうなってるいるのかを冷静に考えてみると見えてくるものがあります。

結局、そのような場合、タロットカードに何らかの良し悪し、優劣を設定いるから判断できるものだと気づくでしょう。

ではその良し悪しの基準は何なのか? とさらに見ていくと、カード自体にある良し悪しなのか、カードの絵図・意味から推定される良し悪しなのかということになってきます。

カード自体にある良し悪しとは、タロットカードのシステムや伝統性に基づいて象徴されている(決められている)意味合いのようなものであり、カードの絵図・意味から推定される良し悪しとは、そのままカードの絵柄を見て出てくる感覚、意味から判断される良し悪しです。

前者と後者は似ていますが、前者が最初から「ある基準」で統一されているのに対し、後者は感覚的なものも含みますから、流動的な基準になることがあるということです。

そして後者の場合は、タロットリーダーの人間的判断が多分に入りますから、そのタロットリーダーの持つ価値観に影響されることが強いのです。そのため判断の度に、ぶれることがあります。

まあ、タロットというものはほぼ主観に基づく判断になりますので、個人的価値観が入るのもむしろ当たり前のことで、悪いわけではありません。

前者の場合は、タロットリーダーの感覚はあまり関係なく、ある決まり、法則によって判断されるので、ぶれることがありません。

ただ、画一的になりやすく、その決まっている法則・基準が、どのモード(世界観・ルールの背景)で決められているのかを知っておかないと、出す判断には、クライアントには合わないことがあります。

普通、私たちが何かに迷い、それでも決めなくてならない時、何らかの価値基準・ルールに沿ったもので判断します。しかしその基準が、一人の人間の中で複数あるからこそ悩むのです。

例えば、お金・経済・数値の基準、好き嫌いとか快・不快、気持ちの基準、時間的(短期・長期など)基準、合理性・多数・平均化の基準、人情・義理などの基準、見栄・プライドなどの基準・・・数々あるわけです。

これらが複数絡まり合うのが「人間」ですから、判断に迷うことになるのです。

タロットの場合は、そのシステムによって、カードに最初から基準や意味が決められています。ですから、この場合は合理性で行くべき、お金や経済基準が中心、気持ちが主要な選択基準・・・と出たカードで判断できるのです。

人が生活シーンで迷う主要因は、タロット的には4つの分野に集約することができ、すなわち、裏を返せばこれは4つの基準ということになります。

この4つの基準が明確なのは、タロットにおいても小アルカナというパートになり、従って、小アルカナを使うことは、私たちの実際(生活・現実の人生)の悩みに、その時々で基準や判断を示してくれるのには向いていると言えます。

一方、タロットには大アルカナという絵柄のついたカードたちがあり、このカードは絵柄があるために、イメージで読みやすいのですが、反対に、いろいろな意味も出てきて、いわば抽象的な世界観を表すようになります。

カードシステムの基準ではなく、あくまでカードの絵柄から判断しようとすると、このように多様に読めてしまうカードにあっては、判断もまさしく多様になり、かえって決めにくくなることもあるわけです。

そのため、タロットの世界ではスプレッド(展開法)を決め、カードを置く位置、またはカード自体のポジション(正・逆)によって、良し悪しを判断する方法が確立しています。

ということで、大アルカナ、小アルカナ、どちらか、あるいは両方使う場合にしても、タロットでは、判断を下せるような読み方・方法があるので、最初にも述べたように、占いなどのシーンで、迷いの決断に使われることが多いのです。

と、ここまでいろいろと書いてきましたが、もしかすると、何人かの人は気づいたかもしれません。

カード自体に良し悪しの基準があったとしても、出たカードを感覚的に読んで良し悪しを決めるにしても、カードに従うのが正しいのかどうか?と、そもそもの疑問に思う人・・・

また、「カードは、確かに今の判断に重要となる基準・観点は示してくれるかもしれないが、自分としては、ほかの基準も大事なように思えたり、見たカードの感じが、タロットリーダーの言っているものとは違うように感じたりする」という人もいて、カードの、あるいはそれを見てのタロットリーダーからの判断が、素直に納得できない(何かもやもやする)という場合もあるのでないか考える人・・・

そうなのです。そのような疑問を持つのも当然と言えば当然なのです。

これはタロットに限らず、カードやモノで何かを判断すること自体の信頼性の問題にも関わります。

ここまで疑問になってくると、もうカードを使った判断をするのには関わらないほうがよいかもしれません。まあ、そういう人は、そもそもカードに関心も抱かないとは思います。

しかし、タロットに興味があり、タロットの学習とその活用を望む人の中でも、こうした疑問を抱いてくる人もいると思います。

そして、この記事の最初に戻るのです。

何かを決めることに、タロットが役に立たないこともあると書きました。

そう、タロット(マルセイユタロット)は、何かを決めることには向いていないというか、そういうものの使い方ではないと、今の私は考えているところがあります。

もちろん、長々と説明したように、タロットによって決める、決めることができるという「世界観」「ルール」のようなものは確かにあります。

しかし、決めることを補助するというタロットの使い方ではないものもあり、そのほうがタロット活用の本質に近いのではと推測しています。

その意味について解説すると長くなりますので、タロットの講義や、別の機会に譲りますが、簡単に言えば、「迷い→決める」というプロセスそのものに意味があり、決めることを目的とする考えではないということです。

いやだからと言って、人生において、決めることの意味はないと言っているのではありません。

実際場面(現実問題)では、決断しないとならないことは、仕事やプライベートにおいてもたくさんあるのが私たちです。

そしてその決めたこと、決断したこと、選択したことによって、人生が大きく変わることがあるのもまた事実です。

そういった現実においての選択の重要性を見て、できるだけいいと思える方向を示唆するのも、生きる術のひとつでしょう。それにタロットというカードを使う方法もあるわけです。

その一方でまた、人(人生・現実)を違う見方で俯瞰するような視点もあり、そのためのツールとして、タロットが活用できる場合もあるのです。

必死になってよい方を探す道(そういう時)もあれば、「どっちでもいいや、出した決断には責任は持つけど、楽しんで行こう」という、旅人のように考える時もあるのが私たち人間であり、そのどちらにもマルセイユタロットは使えるものなのです。


災害とお祭りに思う。

今の時期、京都では祇園祭がありますね。

だいたい夏の時期のお祭りは、火除けや疫病除けなどの祈願に関わっているものが多く、ムラでは稲を中心とした作物への、順調な生育への願い(虫除け的なものなど)が込められていたようです。

ところで、このところ、日本では災害があまりにも多くなっています。

これは日本だけとは限らず、おそらく地球規模の変動に関係しているものと思います。これが単なる自然だけの原因ではなく、間違いなく人間の要因もからんでのものでしょう。

というより、人間も地球や自然の一部であると考えれば、災害や天変地異も、当然、人に関係しているものと考えられます。

災害で被害を受けたり、脅威にさらされたりするというような、「被害側」「受容側」だけの意識ではなく、私たちも気象の変化、災害を起こしている側に関係しているのだという加害的・能動的認識も、今必要だと思います。

そこで祇園祭の話に戻ってきます。

祇園祭は、貞観(およそ860-70年)年間に起源を持つと考えられ、最近では、東北大震災の影響で、貞観時代との関連が取りざたされ、災害から見た祇園祭の意味が見直され始めています。

貞観年間は、恐ろしく災害の多かった時代で、東北大震災・津波、阿蘇山・富士山などの噴火、播磨や京都での地震など、まさに日本列島全体が鳴動していた時代と言えます。

そして、現代もおそらく、この時代と同様の、列島の活動期、あるいは災害多発時期に入ったとものと推定されます。

祇園祭も、姫路の広峰神社から牛頭天王という神格を勧請し、疫病・災厄から京都を静めようと祭が始まったとされています。

この牛頭天王が何者であるかを考察するのも興味深いのですが(マルセイユタロット的にもある法則に基づくカードたちで象徴されると考えられます)、それは今回は置いておきまして、ここでのポイントは、災厄を静めるために、その当時、すでに地震のあった播磨地方(今の地名では姫路を中心とする地域)から、強力な神を招き入れ、京都(当時の意識での全国の中心)を安定させようとしたということです。

そしてそれが、「祭」という行為でもあったことです。

災害や天変地異が起こると人は祈りますが、前もって無事や災難に遭わないようにと祈ることもします。

科学的に、祈りは、大地や気象などの自然に何も効果も及ぼさないと、今は考えられているでしょう。

しかし、当時はお祭り(祀り)によって、それを行おうとしていたわけです。

「昔の人は無知だから仕方ないよなあ」「今はただの観光的お祭りでしか意味ないよ」と人は思うかもしれません。

私も下手なスピリチュアルな感じで、祈れば大地が静まるということを単純に述べたいわけではありません。

私は大学時代、「環境民俗学」なるものを提案されていた教授のゼミに在籍していましたので、民俗学的観点で見た環境保護のシステムを知っています。

これとは厳密には異なるのですが、民俗的行事や信仰、行為が、実は意外な働きをしているということがあり、それで考えると、祇園祭も含めて、災厄除けのお祭りとその祈りには、私たち自らの心を安定させる効果によって、環境そのものにも影響及ぼすシステム(メカニズム)が働いているのではと思うことがあります。

私たちが祭り・祀りというハレ的な行事・行為を行うことによって、もちろん、信仰的なものによる、神のエネルギーの発露やその享受という意識も芽生えるのですが、同時に、皆でひとつの大きな行事を行うことで、意志の統一が図られ、厄除けであれば、「厄」すなわち、今の時代でいうならば「災害」に目(意識)を向けることになり、神に祈ること、神に静めてもらうこと、守ってもらうことという「ストーリー」によって、祈る人間自らの心の安定をもたらせていたと考えられます。

これが、多くの人がリアリティを持つ、強い「神」であればあるほど、効果も高くなります。

しかも行事・儀式を行うことで、それが現実に見える形での像として記憶され、その体感により、より「静めの儀式を行った」という安心感(実感)につながります。(敬虔な祈りの部分と、楽しく、あるいは激しく行う祭り行事との融合で、ネガティブな気持ちが解消、浄化、発散される効果もあり)

心の乱れが自然や環境の乱れにもつながると見ると、私たちが危機感を持ちつつも、安心安寧に意識が変化して行けば、自然もまさに「自然に」治まっていくことも予想されます。(周波数との関係も想定できます)

安心することと油断することとは違い、祭りを行うことで、過去の災害の記憶も伝承され、忘れ行く意識を喚起させることに奏功し、防災意識も働いていた(それが静めにも影響していた)のだと推測されます。

ただ祈れば何とかなるという神頼み的なものではなく、自身の内に神性があること、そして、ネットワーク的に、多くの人が意識することでその部分が覚醒連繋し、静めの効果につながっていくと思えるものです。それは受動的なようでいて、能動的なものです。

むしろ静めるというのは結果であり、そのプロセスのほうが重要かもしれません。

現実的に環境整備や物理的なことの防災を進めていくことも重要ですが、一方で、人々の意識・心が、やたらと騒動するような今の時代にあるからこそ、意識を静めていく(調整していく)行為としての神聖儀式、祈り、お祭り(お祀り)というものを見直し、観光や経済、娯楽の側面だけではないことも思い直すとよいのではと考えます。

人は助け合い、共同的に生きているものであり、自分だけがわがままで生きればよいというのでは調和と言えず、全国的災害規模となる今となっては、全体での意識と働きかけが重要になってくると思います。

従って、今のような災害も、むしろ統合のための災厄としてとらえていくと、起こっている(神仏的には怒っている)理由も、霊的には想像できるものです。

そして貞観時代の再現のように今があるのならば、時代は大きなサイクルで動いていることも考えられます。(マルセイユタロットでは、「運命の輪」「力」に関係します)

しかし、たとえ同じサイクル・回転があったとしても、まったく同じことを経験するわけではなく、もっとひどいことにもなれば、もっと軽くなることもあるわけで、それは回転を螺旋の動きとして見れば、堕落と向上の両方の分かれ道があることが見えてきます。

願わくは、堕落や同じルートのループにはならないよう、脱出、次元を上昇する意識と行動にしたいものです。


タロットによるセラピーの区分

世間では、タロッセラピストを名乗る方もいらっしゃいます。

タロットはいろいろなツールとして使うことができるため、もちろんタロットを使ったセラピーも可能だと思えます。

また、セラピーとは何なのかというセラピーの定義づけによっては、タロットによるセラピーの種類や方法も変わってきます。

一般的に、セラピーといえば、心身の癒し・治療を行うものと考えられます。

ただし「治療」と言ってしまうと、日本では法的な問題があるので、医師や、その他特別に許可された資格を持つものではないと、「治療」を謳うことができませんので、厳密には治療とセラピーと異なる部分もあるでしょう。

ともかく、タロットを使って占いやリーディングをするにしても、相談に来た人、クライアントが何らかの形で癒されたのだとすれば、それはセラピーだと大きな意味では言えそうです。

ただ、例えば、当たることを重視する占いであったり、カードを読み解いて、単なる「ある情報」を与えるという意味でのリーディングであったりすれば、それは受け取る側も、与える側も、セラピーをしているような雰囲気にはならないでしょう。

セラピー・癒しといっても、どの部分(程度・レベル)まで癒されるのか癒すのかを考えると、クライアントを深く癒していくことまで志せば、「癒し」というよりも、言葉として「浄化」「変容」というニュアンスに近くなる気もします。

ということで、私は現実的に考えて、タロットを使ってのセラピーを考える場合、次のような区分をまずは想定するとよいと思っています。

こうした種類分けをしておくことで、自分の知識、経験、実力によって、どの区分をメインとするセラピーをするのかが整理できるからです。

 

1.占い・状況判断的タロットリーディングによって、結果的にセラピーとなっているケースがあるもの

2.表面的意識の情報を超えた(あるいは、表面とは別の意識の)情報、心理的情報などをタロットリーディングによって探知し、クライアントに認識してもらうことでセラピーとなるもの

3.タロットを使って、能動的に浄化・変容を促し、治療を施していくセラピー

 

1は、タロット占いや、何かの判断を求められるリーディングを行い、結果的に、クライアントが癒されたと思うことで、セラピーになっているというものです。最初からセラピーを意識しているわけではないという点がポイントです。

2は、特にマルセイユタロットリーダーを目指す人には想定してもらっているメインのところ(そのレベルを中心フィールドとする)になりますが、タロットリーディング(必ずしもタロットリーディングの手法だけとは限りませんが)で、主に心理的情報も読み、クライアントが気がついていなかったり、常識的観点で抑圧してしまったりしている部分を探査し、それをクライアントに認知してもらうことで、心理的統合、あるいは心理的物語の調整が図られて、癒しが起こるというセラピーです。

重要なのは、能動的態度で、相手を癒す気持ちでタロットリーディングを行うのではなく、あくまでリーディングを行っているうちに、その読んだ情報が、クライアントの心の解放や調整につながっていくものになるという形式です。

次の3との違いにもなりますが、クライアントの不快な症状とか心理的問題を治療したり、軽減したりすることを第1目的とはしていないというところなのです。

それはむしろ心理的治療、あるいはサイキックな治療としての専門家が行うべきもので、能力や知識、経験にもよりますが、タロットリーダーがそこまで担うものでもないと言えます。

簡単に言えば、クライアントの「気づき」までのサポートを行う役割で、その気づきに至る情報も、(治療的にも)正しいとか正しくないというところにはなく、あくまでタロットと、リーダーの主観も伴った「ひとつの情報」であり、それが1の区分と同じように、結果的にセラピーになっているということなのです。

1との違いで言えば、1のほうが心身の癒しが、クライアントからは必要とされない場合も多く、要は判断や決断の示唆、選択の良し悪し情報みたいなものが中心となり、それに対して2は、1よりも、心の癒しや浄化の視点を持ってタロットリーディングを行うという点にあります。

そして、3は、タロットを使っての治療も目的とする(治療も視野に入れての)セラピーであり、クライアントの回復と大きな変容を目指す、セラピー中のセラピーと言えましょう。

この場合、直接的なものと間接的なものがあり、直接的なものとは、実際にタロットを体に当てたり、心理的治療ツールとして使ったりするというもので、間接的なものは、タロットカードの象徴を利用して、カウンセリングしたり、精神分析したりして、クライアントに(心理的・サイキック的)治療を施していくというものです。タロット以外の道具や技術も使用することもあります。

こちらのほうは、先述したように、法的問題があるので、実際にやっている方は少ないかもしれません。

また、この区分でのセラピーは、普通はタロットリーダーとしては目指す必要もないでしょう。治療までやって行きたいと望む人が踏み込む分野です。

もっとも、2と3の中間のような人もいらっしゃいますし、それはその人の個性、能力、知識にもよってくると思います。

セラピストを名乗ることで、癒しを求めている人に訴える意味も出ますが、一方で、何が何でもクライアントを癒さねばならないとか、癒しのための気づきを与えねばならないとか、変なプレッシャーがかかって、セラピストとしての自分を縛る結果になる危険性もあります。

素直にタロットの情報を多角的に読んでいくことで、結果的に癒しが起こるという程度に考えていくほうが、タロットセラピーと無理に言わなくても、セラピーがやりやすいこともあるかもしれません。

またいくら癒しが目的であったとしても、クライアントを過大評価したり、よいことばかりを言ったりするのは、セラピーにはならないでしょう。

マルセイユタロットでも「13」と「節制」が、数の上での並びでも向き合っているように、苦しみ、自分がつらいと思っていることに向き合うことで、本当の癒しが起きます。

つけ加えると、逃げることが決して悪いわけではなく、時に逃げて安全な場所を確保することも大事です。つまり、自分を本当の意味で大切することであり、その視点では逃げるのもありとなります。

自分を大切にするということでは、自分の人生に起こったことに対して真摯に請け負っていく態度が求められるます。

単なる逃避、ヤケ、怠惰、他人への迎合、自己卑下、抑圧などは、むしろ自分をひどく扱っていることになるのです。


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