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「太陽」の二人、太陽の船団
マルセイユタロットに「太陽」というカードがあります。
「太陽」のカードは、二人の人物が肩を抱いたり、手を出したりして、特別な関係にあることを想像させる絵柄となっています。
このカードは、人物に限らず、あらゆる二元的な分離を統合していく象徴として、原理的に解釈していくことができますが、人間関係のフィールドや次元に置きますと、やはり「特別な二人」「影響の強い二人」として見ることができます。
だからと言って、単純にこのカードが、例えば恋愛や人間関係の問題において出た(引いた)からと言って、特別な二人を表すとは限らないところが、象徴としての「タロットカード」ではあります。
ここではリーディングでの意味や解釈のことではなく、このカードの絵柄の象徴性から見る、特殊な人間関係のお話です。
人は人生において、この「太陽」のカードのような、自分以外の特別な他人を(血縁や家族以外で)持つことがあります。
持つというより、そう思わせる人というのに近いでしょうか。
おそらく自分の人生に、他人として(あとで恋人や友人、家族となるにしても)強い影響を及ぼすと考えられるのは、どの分野においても三人程度だと考えられます。
それは、例えば数秘においても、関係性や調和を象徴する「6」の数が、「3+3」、または、1を基点にして、3つの連続する数「1+2+3」とか「7+8+9」の合計数の数字根(単数化したもの)が、「6」となって、その構成が先述したように「3」の倍数(3のペア)になっていることからも想像できます。
しかし、本当の意味で重要となる人物は、自分のほかにあと一人という、ペア的、対称・対照・対象的人物、すなわち「太陽」のような二人(自分とあと一人)ということになるのではないかと思います。
それは一言でいえば、魂の共有とでもいうべき人物で、現実的な意味での友人や恋人という範疇を超えた関係性、魂の共鳴を持つ人ということです。
ただ魂の共鳴と言っても、対称性として現れた場合は、まったく正反対、あるいは違和感が強いけれども、どこか同じ核・コアを感じさせるような人となることもあると考えられます。
いわゆるソウルメイトと言えばソウルメイトですが、ロマンチックな恋愛感情のもの、恋の運命の人というのとは違い、この人生(あるいは別の人生においても)魂的なサポーターであったり、伴侶であったり(現実の夫婦という意味ではありません、そういう場合もありますが)します。
そのような人が若くして現れる場合もあるでしょぅが、たいていは、中年以降に実際に現れたり、認識できたりすることが多く、それは、若年の時には、この人生での創造的可能性を考慮して、あえて現れないようになっているとも考えられます。
しかし、年を重ねて、現実的地位が固まってきたり、ある程度の経験をしてきたりしたところで、特に物質よりも精神(心)、魂への観点へと変化していくことが多くなりますので、そういう関係の者(魂のつながり、共鳴者)であることを認識しやすくなるというのもあるかもしれません。
またそのつながりは、もっと大きなグループ(ソウルグループのようなもの)とも関連し、そこの意志を実現するために、特別な二人として意識されることもあると想像しています。
逆に言えば、「太陽」で象徴されるもう一人の人物に会うことで、あなたの本当の使命、魂の生き方というものを思い出すことになるかもしれません。
このような人同士(太陽の二人)は、すべてが理解しあえると思ってはいけません。
このカードは、段階や次元で見た場合、霊的・魂的次元を象徴しますから、その次元において共鳴したり、理解したりできるということです。
ですから、実際的(現実的)、感情的(心・精神)にわかりあえる、意気投合する、気が合うという感じでもない場合があるのです。
このあたりが、ロマンチックなソウルメイト願望の対象者とは異なるところでもあります。
いずれにしろ、「太陽」の人物たちは、お互いに、それぞれにある「太陽」「本質」を燃え上がらせ(情熱的になるということではありません)、自らの魂の表現を可能な限り、この人生において実現しようとシフトし、その援助をともにしていきます。
その人の存在があなたの太陽であり、また相手にとってもあなたが太陽になるのです。(現実の生活や仕事の面で相手を輝かせるというニュアンスとは違います。そうなる場合もありますが)
これは陰陽的な、月と太陽という関係性とは違うので、留意する必要はあるでしょう。
たとえ「太陽的」な人が現実にいないとしても、見えないネットワークの中で、すでに二人は出会い、無意識の中では共有しているかもしれないのです。
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そういう二人の場合は、実際に肉体をもって現れる必要がないため、現実の人生で出会うという形を取っていないと言えます。
「太陽」の二人、そのグループは、例えれば船団のようなもので、船のこぎ手としてペアになる二人であり、それが集まってひとつの船となり、その船がまた集まって、ひとつの目的に向かって航海していく船団を形作っています。
マルセイユタロットの「太陽」の絵柄にも、水のような流れが描かれており、向かって右側の人物の足下には、白い島(大陸)も現れています。
太陽の船団は、その白い島に向かっているのでしょう。その島にたどりつくと、二人は歓喜に包まれるのです。
私たちの現実の人生も、この旅の演出のひとつなのかもしれません。そこにペアとなる人は、どこかにいるはずです。
セラピスト・相談者としての「仕事」
タロット手を学習する人の中では、タロットリーダーになって、人(の問題)を癒したい、援助したいという人がいます。
最初からそう考えている人もいますが、どちらかと言えば、タロットを学んでいるうちにそうなってくることのほうが多いかもしれません。
タロットに限らず、何かセラピーを受けたり、そのメソッドを学んだりしていくうちに、自身の問題が解決されたり、救われたりして、今度は逆に、他人を救いたいと思うようになる人が増えます。
それはいいのですが、その段階になると、問題がいくつか浮上してきます。
ひとつは、そのメソッドやツールに執心し過ぎて、半ば新興宗教の勧誘みたいになってしまい、人を助けたいのか、自分がそのメソッド・ツールを広げたいのか、その区別がつかず、混乱してしまうことです。
また、使う技術とかツールの出所・管理が組織的なものになっていて、資格制のよう形式で、さらに経済的報酬が、人を勧誘することや、セラピーを他人に行うことの数と連動的につながっていると、もはや本末転倒のような状態で、組織とそれに貢献する自分、経済的に潤う自分が優先されるようになってましうおそれもあります。
次に、相談者やセラピストのレベルの問題があります。
ここでいうレベルとは、セラピー・相談の技術レベルのことだけではなく、ひとつの世界(観)・次元の相違も意味しています。
このことは、以下の質問で考えることができます。
「セラピスト・相談者は、いくらいてもいいのか、あるいは一定数でなければならないか?」
セラピストになった方、それを志している方ならぱ、一度は、「セラピストとかカウンセラーは、何人いてもいい」と聞いたことがあるかもしれません。
それは人は悩める生き物であり、だからこそ、大なり小なり、潜在的なものも含めると、人は皆、相談する人、援助してくれる人を求めていると言えますし、また反対に、皆が皆、相談してもらう立場になることもできるからです。
しかし、それは究極的な意味での話です。
世界は様々なレベルで同時存在しています。言い換えれば、ひとつの世界は、ある基準・ルール・モノの見方を変えれば、その世界が現れてくる、見えてくるわけです。
ここでひとつのルールというか、決まりを入れましょう。
「セラピストが職業で成り立つ、つまり経済的に営業していけるレベルでの必要数はどうか?」で見ます。
すると、その数に限界はないということはできないでしょう。経済原理の基本として、需要と供給(のバランス)というものがあるからです。
もちろん、その原理で言えば、需要さえ掘り起こせば(創造すれば)、供給数も多くすることができます。
まだまだ需要(相談・セラピーをプロに求めるという欲求、姿勢、需要)が足りないということであれば、まだこの先、プロ的(経済的に成り立つ)セラピストは必要とされるわけです。
しかし、もはや供給過剰、市場としては飽和状態だと見れば、セラピストはもういらないとなり、場合によっては淘汰され、減少させられるかもしれません。
こうやって、ある括り、範疇、レベルを想定して考えると、セラピストや相談者を目指す人も、冷静に自分の位置や目標を定めることができるでしょう。
商売人であれば、需要を喚起したり、創り上げたりすることは定石のはずですから、セラピー業界の供給側につくのなら、セラピーを受ける人を、必要以上に創造(ひどい場合はねつ造)することもあると考えられます。
また、需要側を新たに見出すということでは、供給側のカラーを単色からカラフルに、あるいは、ほかとコラボ・複合したりして、特色をつけることで、従来のセラピー層とは違う、ほかの需要層からのシフトで、招き入れることもできるでしょう。
さらには一人勝ちみたいに、同じ業界でも、エッジを際立たせる(つまり、どんな形であれ目立つこと、ほかとの区別が明確である)ことで、自分が選ばれるという、需要の拡大ではなく、すでにある範囲から自分に需要を集中させるという手もあります。
いずれにしても、セラピーを経済的な意味での活動と結びつければ、市場の経済・競争原理から無縁ではいられなくなるのが、実態です。
それをスピリチュアル・波動・愛などという言葉で、目を背けても、自分が逆に苦しくなるだけです。
一方、経済的なことの縛りや括りから、はずれた世界・レベルで活動するというセラピストであれば、自分がアマチュア的、ボランティア的レベルで行うのも自由となりますから、その技術・表現も、お金で計られない世界で活動することが可能になります。
例えば、身近で知っている人に、ちょっとしたセラピー・癒しを与えるレベルもあれば、プロと変わらない技術はあるものの、利益にはこだわらない、比較的純粋な気持ちで行っていくという方法もあるでしょう。
そうしたすべての活動形式(セラピスト表現)や思いを入れると、セラピスト・相談者という人は、いくら(何人)いてもいいことになります。
よく、「好きなことを仕事にする」と言いますが、その「仕事」が、経済的な、生活面もすべてカバーする「生活手段的なもの」なのか、人や社会に貢献することを自身が実感する「生き甲斐的なもの」なのか、あるいは、その中間・折衷としての存在なのか、「(人・自分、その他に)仕える事」として、セラピスト・相談者を目指す人は、改めて「仕事」について、考えてみるのもよいのではないかと思います。
全員が同じ形・表現にならないのがこの世界であり、現実です。
あなたにとってふさわいセラピストと仕事としての形、組合せ、表現があるはずです。自分が納得すれば、人と違っていていいのですし、それが当たり前と言えば当たり前なのです。
タロットリーディングのレベル
タロットを一番簡単なレベルで読むとすれば、単純に、一枚一枚に意味を記号的にあてはめるようなことが考えられます。
まあ、ただ、この方法だと、極端にいえば、自分で白紙のカードに、「進め」とか「止まれ」とか、「耐える」とか「楽しむ」とか「お金」とか、何か言葉(意味)を書き込んで、質問に対してそのカードを引くというやり方でも同じだと言えます。
つまり絵柄の象徴の意味は、ほとんど考慮されないということです。この方法を取る場合、わざわざタロットを使う必要はないでしょう。
それでも、いわば「言葉」のオラクル(託宣)みたいに考えると、これはこれでシンプルで、強烈なメッセージと言えます。
ただ、先述したように、こうしたやり方をしたい人は、タロットを使う必要はなく、自分でカードを作ったほうが面白いとは思います。自分が作った(カードに書いた言葉の)メッセージと、その(言葉が書かれている)カードを引いた偶然性が合わさると、余計に強さが出るからです。
次に易しいレベルで言えば、タロットに吉凶の判断をつけて、解釈するというものになるでしょうか。
カードによってよいこと・悪いこと(という状態である、ということが起こる・・)と判断するものです。
占いの世界では、結構この読み方をしていることもあります。
人は良し悪しとか、吉凶とか、何か白黒はっきりするものに安心する(悪いことだと出ても、「悪い」とはっきりしたことで安心する部分もありますし、それに対処しようと心構えもできます)傾向があり、そのため、これがよいことなのか、悪いことなのか、タロットにおいてもはっきり提示してもらったほうが、「答え」を知った感覚になって、納得するわけです。
しかし、一方でこの方法は、簡単だからこそ、実は大きな問題点・危険性もあります。
その最大のものは、カードを全体性を通して考えることができないというところです。言い方を換えれば、統合的観点を持つことが難しくなるのです。
(もうひとつの大きな問題点は、吉凶カードの通りに、そういう事象を自分が引き起こそうとする力が働いてしまうことですが、今回はそれについてはふれません)
カードそれぞれに吉凶をつけるというのは、色を濃くすることであり、しかもその色は、例えれば白黒の二色だけです。
ということは、物事をはっきり二つに分けて見るという傾向か強くなり、何事もある線引きにより、いいか悪いかで判断し、結局、悪いと思うことは排除したり、避けたり、経験しないよう図ったりしてしまいます。
いわば、世界を一面からしか見ようとしなくなるわけです。悪いと思ったもの、避けようとしたものの中に、本当によいことはないと言い切れるでしょうか。
「運命の輪」というカードにおいても、「禍福は糾える縄のごとし」、吉凶が入れ替わってしまうこと、それぞれがそれぞれの原因であることを象徴しています。
そもそも、いい・悪い、吉凶は誰が決めているのでしょうか?
それは自分(タロットを読む人)であり、その人が持つ価値観(ルール・モノの判断の基準・拠り所)ということになります。そして、たいていそれはその時代の社会や、多くの一般の常識で思う「良し・悪し」、さらにはその基準(理論や判定のモノサシ)を作った過去の時代、人・思想の観点になりがちです。
自己の成長を図ろうとする時、既成概念や枠というものを超えなければならない場合があります。(それは破壊でもあります)
また真の意味で、解放や自由というものを追求していく時、それは自分の持っている、あるいは属している環境の価値観、規制といったものから自分を脱出させる必要があります。
それは、今まで自分の持っていた、いい・悪いの線引き、ルール、モノサシを変えることでもあります。これは一言でいえば、従来の自分が決めていた「いい・悪い」の価値観の統合であり、どちらでもない次元へのシフト・上昇です。
タロットカードに吉凶的意味をつけて、物事を判断している限り、その同じレベル・次元(同じ価値観での世界への見方)での解決・調整しか図ることができず、まったく違うレベルの対応・解決策というアイデアそのものが出ないのです。
このことは、すでにマルセイユタロットでは、大アルカナナンバーが21あるところの、わずか3番目である「女帝」が示しています。(既成のものや対立からの調和・統合に向けて、新しい発想・アイデアが必要なこと)
さて、次になるレベルの読み方になってきますと、絵柄の象徴から類推してのもの、それによる物事への考察ということから、さらにタロットカードへの心理的投影というものになってきます。
いわば、目に見える実際のことの判断だけではなく、タロットを心の問題の浮上・分析装置として使うというものです。つまりは、問題の本質が心(の中)にあると読む(心を読む)レベルです。
ただ長くなりますので、ここには書きませんが、これにも問題点があります。(しかも、この場合も、必ずしもタロットカードでなくてよい場合があります)
しかし、まさに読み方(リーディング)も、絵柄の象徴を活用するレベルになり、複雑なもの、多重な読みというものが求められる代わりに、問題の本質というものに行き当たることが多くなります。
その効果性に、タロットの真の活用はここにあると考えている方もいるでしょう。
しかし、個人的にはまだまだ読み方・活用のレベルには先があると考えています。
そのひとつには霊的なレベルの読み方があります。
こうなると、カードの象徴性は極めて高度になり、一般に言われているカードの意味とはかけ離れたものも出てくるようになりますし、そもそも普通に思うようなリーディングの行為自体が、必要でなくなってくることもあるのです。(私がこのレベルができると言っているわけではありませんが・・・)
話を戻しますが、やはり、タロットリーディング技術のレベルアップ、タロットリーディングをより活性化したいと望む場合、意味を記号的にあてはめるレベルの段階はもちろんのこと、カードを一面(ネガとかポジ、いい・悪い)で見るところからの脱却を図る必要があります。
特に、現世利益的な価値観からの視点を超えることが重要です。
それにはいろいろな方法がありますが、実は、カードからいい・悪いの意味をたくさん出すという、あえて白黒はっきりつけることから始めるやり方もあるのです。
しかし、カードに色分けしていくのとは違い、一枚一枚について、それぞれに両面性を見るのです。
すると、例えば「悪魔」というカードに対して、なかなかいい面・ポジティブな意味が見いだせないというようなことも出てきますし、反対に、ほとんどよいことだけしか思い浮かばないカードというのもあるかもしれません。
正逆のポジションでやれば、その両面を見て行きやすくなりすが、ポジション(正逆の位置の違い)で見るのは視覚的変化があるため、実は両面性が見やすく、むしろ、訓練のためには、すべて正立だけで両面を見ていくほうが難しいからこそ、統合視点(対立しているふたつのものの調和、包括した視点)をもたらすためにはよい練習となります。
大アルカナだけでも22枚ありますから、このトレーニングで、都合、22枚の両面で44の視点を得られることになります。
もうそれだけで、結構な自己分析にも、自然になっていることでしょう。
すると、カードに吉凶の色をつけていたレベル(段階)を超越していくようになり、吉凶判断していた本当の問題(これは実に恐ろしいものなのです)に気づくことになるでしょう。
タロットと方角による活用
これはタロットの占い的な技法になりますが、引っ越しや旅行において、よい方向性(方角)というものをタロットで出すことができます。
とはいえ、その「よい」とは何かと考え出すと、こういった技法そのものがあやふやなものとなってきます。
それは、タロットでいえば、大アルカナの世界と小アルカナの世界との違いともつながるものです。
ですが、ここではその考察はいったん置いてみます。
今日の記事は、方角や方向性とタロットの象徴、その活用のことです。
タロットによる方角や方向性は、タロットが象徴カードである限り、当てはめていくことは可能です。
それには小アルカナを使う場合と大アルカナを使う場合があります。(両方使う場合もあり)
小アルカナを使うほうが、実は東洋的にも適合するところがあるので、おすすめですが、マルセイユタロットの場合は、数カードが記号のようになっているので、それそのものでイメージをわかせるというのには不向きかもしれません。
小アルカナをメインで使う時は、数ならば、方角を数的に示すことで表せますし、4組だと、東西南北に配当することも可能です。
その間々の方角は、ほかの数のカード、または宮廷カードで全16方位を示すこともできるのです。(なお、16方向は太陽の角度と信仰にもつながり、実は非常に秘儀的・重要なものが奧にはあります)
一方大アルカナでは、方角をカードの絵柄のイメージでもって、当てはめてみることができるでしょう。
そして、大アルカナを使うもうひとつの良さは、ちょっと変わった願望達成法や、逆に現実からの解放みたいな意味で、方角とともに使えるものがあるのです。
それは、(設定した)方角の位置に大アルカナを引き、実際に自分のいる場所からその方位に行くことで、引いたカードのイメージを持つモノ・人物・事柄を発見したり、体験したり、して、それによって人生に変化をもたらすという方法です。
言い方を換えれば、旅のテーマが、カードで決まるようなものです。
これはなかなか楽しいものでもあるので、皆さんもやってみるとよいでしょう。
やり方はさきほど説明したように、今いるところ(住んでいるところや出発点)を起点に、東西南北4方向か、その間を入れた8方向の位置を決め、そこに大アルカナをシャッフルして一枚ずつ置くか、あるいは、自分でひとつの方角を意識しながら、大アルカナをシャッフルして(この場合はトランプ式シャッフルでもOK)カードを出します。
そして出た大アルカナのカードのイメージをよく記憶しておき(メモしておいてもよい)、気になったカードのある方角に実際に出かけます。
散歩的に徒歩圏内でやってもいいですし、大がかりなものだと、国内、さらには世界規模(笑)でやってみても面白いかもしれません。
この場合は、気になる方角に実際に行ってみて、カードの象徴性のものを探すということになりますが、最初からテーマを決めておき、例えば東西南北の4方向それぞれにカードを引き、その出たカードからイメージされるものを探し出して、全部それを集めるとひとつの答えになるという、宝探し的な方法でも可能です。
実に東奔西走(笑)ではありますが、東に西に、自分のテーマの回答のヒントをカードによって追いかけ、拾い集めて、最後に答えを得たり、変容を促したりするというやり方ですね。
旅先で見つけたものよりも、むしろその旅自体、行動そのもの、過程のほうが大切な場合があります。
別に全部の方向に行かずとも、ひとつ気になる方角に動くだけでも、停滞から活性につながることはあります。
これは吉方位旅行というのに少し似ていますが(そういう風にやってみても構いませんが)、運をよくするというより、カードの象徴性が現実とリンクすることを実感するゲームのようなものと考えるとよいでしょう。
言わば、自分の創造している世界を、自分で探しながら楽しむみたいな奇妙な遊びなのです。
部屋で引いたカードは、すでにあなたの外の、現実のどこかの世界(場所)で現れており、それを確認しにいく旅とも言えます。
今日のも、いろいろとある、タロットの使い方のひとつです。
タロットを捨てる タロットが消える
タロットを扱う者として、過激なタイトルの記事(笑)ですが、まあ、聞いてください。
タロットリーダー、タロティストにとっては、タロットが大切なものであるのは言うまでもありません。
しかし、当たり前ですが、タロットを知らない人、関心のない人にとっては、その人の世界にはタロットは存在しないと言っていいものです。
それでも、ちゃんと皆さん生きていらっしゃいますし、さして困ることもないです。(笑)
ただ、真理や自己探求を志す者、人の悩み事の相談をする人などにとっては、タロットに出会うと、とても有意義になることがあります。
私などは、その一人と言ってもいいでしょう。
しかし、そのような志の人であっても、タロットではないツールに導かれる人もいれば、そもそも道具とかではなく、技術やメソッド、思想、考え方として、何かに出会うということもあるでしょう。
そうして、自分の信じたもの、相性のよいと思うもの、効果があると思うもの、適応するものとして、自分とのコンビを組むことになります。
たとえば、タロットに近しいものとして、各種の哲学的・心理的な象徴カードや、思想・技法として占星術・カバラーなどもあります。そちらのほうが自分に向いているという人もいるわけです。
ところが、それがタロットであれ、何であれ、ずっと信じて使い続けていると、ある種の偏り、囚われ、見方や思考の癖というものも、必ず出ます。
タロットで物事や探求を理解・把握しやすくなるのは確かですが、反面、タロット的な見方に囚われている自分というのが形成されているおそれもあるわけです。
ですから、タロットをしない人から見れば、タロットをしている人は、タロットをしているからこそ問題があると指摘することも可能になるのです。
これは「タロット」の部分を、自分が信頼しているもの、使い続けているものなどに置き換えれば、同じことが言えると思います。
「あなたが“それ”をしている限り(それを通して物事を理解している限り)、その枠でしか判断できない」と言うこともあり得ます。
だから、タロットをしている人は、どこかで、「タロットを捨てる」という思いも持って、取り組むとよいと考えています。(最初からではなく、ある程度習熟するようになってから)
捨てられないものは、大切なものでもありますが、ある意味、「執着」でもあります。
執着は自由・解放とは言えません。
と言っても、いずれタロットから離れるにしても、段階というもの意識したほうが安全(混乱しなくて済むの)です。
例えば、最初は当たり前のように、タロットカードをシャッフルするなどしてカードを引きます。
その出たカードに何かの意味があるとして、私たち、タロットリーダー、タロテイストは考えます。(クライアントとしてもそう思う前提があります)
ただ、次第にカードを引くという使い方にこだわらなくなってきます。
自分の中で、タロットという絵柄の象徴の理解が進み、物理的な「カード」としての必要性がなくなってくるからでもあります。
つまり、言い換えれば、もはや自分の心の中にカードがある状態と言えます。
すると、偶然引いた(出た)カードに意味を見出すという、一種の「ストーリー」「物語」「そういう設定」の世界で遊んでいるのだという、いわば「幻想」のようなものも見え(気づき)出します。(ただし、カードを引くというのは、まったくの意味のない行為ではありません)
最終的には、カードという存在が、心の中からも消えていき、本当の真実というものだけが現れてくるようになるでしょう。(そこまでの境地には、私自身、至っていませんが)
この過程で言うと、タロットは「杖」のようなもの、途中まで進ませてくれる補助エンジン、私たちが囚われている「幻想」をあばくための、別の幻想道具(手品道具)のようなもの、と表現できるでしょうか。
だから、最後にはタロットから離れることになるはずなのです。
しかし、最初から、「タロットで物事を見たり、考えたりすることは間違っている」「タロットは迷信である」「ほかの技術やツールのほうが優れている」などと見る向きは、それこそ、ひどく囚われていると見たほうがよいでしょう。
確かに、何かを通した見方・理解は、今まで述べたきたように、それを使ったひとつのフィルターを通じた見方で、色メガネのようなものですが、色メガネをかけてみないと、見えてこないものも、逆にいえばあるのです。
今まで信じていたもの、常識だと思って疑問を持っていなかったもの、これらに別のフィルターを通すことで、違ったものとしてとらえ直すわけです。
そして、それ(とらえ直したもの)もまた真実ではありません。さらなるフィルターや段階としての考え方が、次に用意されてくるでしょう。
そうした繰り返しの末に、幻想は次々と破壊されていき、破壊のために補助してくれていたツール・メソッドたちも、役を終えることになります。
タロットの精霊的な表現ですれば、精霊たちに出会い、仲良くなり、一緒に過ごしながら、最後には別れていく(消えていく)という感じになるでしょう。
その時、あなたはこう言うでしょう。
ありがとう、そして、さようならタロット(たち)・・・
こののち、その言葉を述べるあなた自身も消えていき、有と無、静と動、すべてが一体となった状態、あるいはその律動のようなものが現れてくるでしょう。
それは「世界」のカードの表現でもあります。・・・と、考えている内は、タロットと、まだまだ仲良く過ごす期間です。(笑)
