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「正義」タイプと「星」タイプの問題

タロットで人の相談をしていると、その問題の種類は様々ですが、ある基準において、二種類のタイプに分けられます。

そのひとつは、自分の行うとしていること、行ってきたことの正しさを求める相談、そしてもうひとつは、正しさではなく、自分を認めてほしい(承認や裏付け、後押しがほしい)という相談です。

仮に前者をマルセイユタロットのカードになぞらえて、「正義」タイプ、後者を「星」タイプと呼びましょう。

「正義」は正しさに通じますし、「星」は絵柄から見ても、女神のような存在が、優しく、すべてを受け入れ、エネルギーのような水を流して後押ししているように見えるからです。(「斎王」でもよいのですが、水の流れがあるので、「星」のほうがふさわしいように感じます)

実は両タイプとも、本質的には同じといえそうてすが、やはり微妙に異なるところもあります。

正義タイプは、自分は正しい選択を選びたい、自分が間違っていないことを確認したい人です。

ただその正しさというものは、自分の信じている価値観や世界観によったものとなり、本当の意味では、正しさというのは、別の世界観を導入すれば、無に等しいもの、どちらでもないものになります。

しかし、信じている世界観・レベルにおいて、正しい選択をしたい、間違ったほうには進みたくないのです。

それで、結局のところ、自分の世界観における「効率」や「結果」というものに、シビアに目が行きがちとなります。

これは男性、もしくは、男性性的な傾向が強い女性に多く見られます。

一方、「星」タイプは、正しいか正しくないかよりも、自分に存在価値があるか、今までやってきたこと、あるいはこれからやろうとしていること(方向性含む)が、ほかの人から見て否定されることなく、応援されたり、それはいいね!と言ってもらえたりするかという思いの人でもあります。

一般的に常識はずれなものであったり、ちょっとおかしなことであったりしても(つまりは正しくないと思えることでも)、「それでいいよ」「今のあなたでOK」という自分への賞賛・承認がほしいわけです。

まあ、つきつめれば、これも自分が正しいと認めてほしいことなので、正義タイプの本質に近いのですが、ある世界観での正しさを求めるより、自分の存在そのものの承認が中心ですから、正しいことよりも、自分の存在価値こそが一番の鍵になるという違いがあります。

これは女性、もしくは、女性性的な面の出る男性に多い傾向があります。

本当に自立した精神では、正しさにおいても、存在価値の承認においても、自分自身で選択と納得が行くものなのですが、なかなかそれも難しいことです。

正義タイプの人は、他人評価でのジャッジで正しいと多くの人に言われいる(評価されている)道を確認したいと思いますし、星タイプの人は、たとえ自分の中に決まっていることがあったとしても、それが他人から承認を得られることで、やっと自分(の選択、あり方など)に自信がもてるようになるのです。

人は、自分一人だけの世界では生きておらず、必ず他人のいる社会(世界)に生きていますから、他人の存在が、よくも悪くも重要になってくるわけで、他人からの働きかけ、他人からの反映が、自らを確立させるうえで、どうしても必要な段階があります。

ですが、正義タイプ、星タイプ、どちらにおいても、その構造に気づかず、いつまでも堂々巡りのように、同じことを繰り返してしまう場合があります。

正義タイプでの堂々巡りでは、正しい・正しくないという求めが、ひとつの狭い世界観でしか通用しない考えであることに気づく必要があり、そうしないと、まさに正しさと結果を求めてのラットレースの中にグルグルと回り続けることになります。

正誤の世界から抜け出す思考は、一言でいえば、グレーゾーンや割り切れないものにも価値と納得感を見出すことでもあります。未解決、未決着、放置もよしとするのです。

星タイプで堂々巡りに陥っている人は、もうすでに自分で選択できている、決めている事実を重要視し、それに自信を持つことであり、いわば癖のように他人への承認を求めてから動くというパターンになっているのを、勇気をもって壊すことです。

このタイプは成功と失敗とか、正しい正しくないということでの葛藤では本来ありませんから、そもそも結果はどう出てもよいのです。

本当は、うまく行かなかったことで自分が否定されること、自分が認められなくなることが怖いだけなのです。

誰もそれほどあなたのことを気にしていませんし、他人に承認を求めすぎると、逆にうざいと思われて、自分否定の波動を人から薄々感じてしまって、逆効果です。

他人への確認がないと心配な人は、象徴的存在(神とか天使とかをイメージしたもの)に仮託して、その存在に聞く、承認してもらうという形式を取ってもいいでしょう。そうやって、次第に他人への依存から離れていくようにします。

また、承認欲求を刺激させるSNSは、あまり見ない、やらないこともひとつの手段でしょう。

もちろん、ふたつのタイプにも段階と必要な状態はあり、一概に否定されるものではありません。

しかし、ふたつのタイプの罠にはまってしまっている人は、少しずつ脱出を試みて、自立した状態へと移行させていくことが求められます。


タロットを学ぶ人のバランス

マルセイユタロットには過度にスピリチュアル傾向になることも、また反対に唯物主義と言いますか、霊的・精神的なもの、見えないもの、感覚的なものなどを退けてしまう傾向にも、どちらへも傾き過ぎないバランス機能が働きます。

とはいえ、全体・普遍としてはそうなのですが、個人それぞれの特質、価値観もありますので、人である限り、その影響は必ず受けます。

よって、同じマルセイユタロットを学んでいても、やはりどちらかに傾くところはあるわけです。

ただ、タロットが好きとか、タロットを学びたいというように人は、多かれ少なかれスピリチュアルな傾向を含みますから、物質的・論理的な傾向と言っても、あくまで一般のものとは違っていて、スピリチュアルなことに関心はあるけれども、何か自分の中で整合性や論理的な理由がほしいものが強い人となるでしょう。しかしそのような人でも、普通の人よりは、十分スピリチュアル(苦笑)なのです。

今の時代は、インターネットの普及によって、莫大な情報に接することのできる反面、SNSに参加する人も多くなって、実は、逆に友達とか仲間内とか、スモールな世界、似たもの同士がつながり合い、情報交換しているようなところがあります。

似たもの同士と言いますか、同じ趣味志向性を持つ人たちとのつながりになりますから、そこから入る情報も、当然偏っているわけです。

すでにご存じの人も多いように、SNSではデマ情報も数多く存在します。時には、意図的な操作のために、ある情報がセンセーショナルに流されていることもあります。

今では画像や動画も簡単にねつ造・加工が可能ですし、その画像自体は事実であっても、書かれている文章とは関係なかったり、時期が異なっていたりということはよくあるケースです。

また、誰もが簡単に自分から発信できるようになりましたから、思い込みだけで書いているものもあるわけです。

自分から発信が容易にできるということは、反対に、どうしても人に認められたい、自分の発信していることに共感してほしい、反応してほしいという承認欲求が過度に刺激されることになりますので、勢い、自意識過剰な中二病的(笑)な発言とか、客観的要素の少ない感覚的なもので書かれたものも増加していくことになります。

話がそれてきましたが、何が言いたいかと言いますと、タロットをするような人は、もともとスピリチュアルな傾向がある中で、さらにSNSの活用によって、同じ性質の人たちとの狭い世界と情報に偏る(過度のスピリチュアルな偏りの)ところが出てくるということなのです。

その偏りが迷信の域にまで来ているところがあり、「スピリチュアル」が悪い意味でのオカルト化していることすらあります。(本来の「オカルト」の意味は、今の一般の使い方のような意味とはニュアンスは異なりますが、ここでは一般の意味で使用しています)

悪く言えば、非現実的、逃避的、退行的傾向が助長される(されている)ということです。

非現実的、逃避的、退行的と書いたこれらの傾向は、実は解放と自由との背中合わせにあるものです。

つまり、常識や当たり前の全体価値観に染まってしまい、大人として正しくふるまわねばならないという縛りによって、本来の自分、自由性を持つ自分を失った状態に、楔を打ち込むのが非現実的なものにあるのです。

よくインナーチャイルドの問題が心理的には問われますが、霊的な観点では、インナーチャイルドの問題は、必ずしも悪いわけではなく、魂の純粋性や神性への回帰、そのうずきとして起こってくることがあります。

その過程では、一時的に退行的になったり、空想的になったり、引き籠もったりもあると考えられます。

こういう場合は、いわば正しい退行みたいなところもあるのですが、仲間内、あるいは登録しているSNS(の友人・グループ)から流れてくる自分の好きな情報で、承認欲求を慰め合い、自分たちの傷をなめ合って、言わば子どもへの退行のような現象を起こしている人も少なくないのです。(これらも全部悪いわけではなく、一時的には必要なこともあります)

いろいろな心理的・スピリチュアル的知識と技術を求めてさまよい、大量のお金と時間を消費していく人もありますが、その人たちの中には、結局、承認欲求が働いていることがあるのです。

「自分を見つけたい(自分探し)」というのは、自分を自分として承認したいという欲求につながっており、それが自分による自分への承認ならばいいのですが、つまるところ、他人からの承認へとすり替わっていくことが多いのです。(実はその「他人」とは誰かに気づくためのの作業でもあると言えます)

心理的には、たいていこのようなケースは、自分の親や、これまでの人生で、心理的に重要な位置を占めていた人からの承認(が欲しかった)ということが見られます。

過度のスピリチュアルに傾いたり、まずい退行状態に足踏みしたりすることのないように、やはりバランスが大事であり、疑いや反感が出る自分も認めること、違和感を放置しないこともポイントです。

またスピリチュアルの世界では、常識的なことは嫌われますが、常識との葛藤・悩みはバランスの意味でも、自分の成長の意味でも重要なことなのです。

何事も、そしてどの世界にもルール・段階があること、おいしい話や、一足飛びに進むことは、それなりの危険性・リスクがあること(格段の飛躍はできないわけではありませんが、やはり、それなりのできる理由とリスクがあります)

しかし、リスクは反面、冒険・チャレンジでもあるので、ずっと慎重であり続ける必要もありませんが、現実世界における物理法則のような法則性がある(その法則性の性質は異なりますが)ことは、見えない世界を扱う場合でも、理解しておいたほうがよいでしょう。


「聲の形」「君の名は。」コミュニケーション。

今年はアニメ映画、「君の名は。」のヒットにより、普段アニメを見ない一般の方にも、アニメに接していただいた年と言えるかもしれません。そして、「君の名は。」に隠れてしまっていますが、実は、もう一作品、皆様にも見てもらいたい良作のアニメ映画があります。

それはアニメファンの間では有名な、京都アニメーションが制作した「聲の形」(こえのかたち)という映画です。

耳の障害を持つ子が、主人公の一人(正確には本当の主人公に関わる最重要人物)として出てくるので、多くの人はこの映画を話だけ聞くと、障害者がテーマの映画だと勘違いしてしまいますが、実は、この映画は、人間同士の「コミュニケーション」という普遍的なものがテーマと言えます。(それだけではないのですが)

障害を持つ子はそのシンボルという役割になっていて、実のところ、どんな人の部分にもある、共感性と逆に排他性のような、複雑な心の多面性を、それこそ多彩で高度な象徴をもって描いています。

私はかつて「君の名は。」のことをブログで書いて、マルセイユタロットで言えば、「斎王」と関係する物語と評しましたが、この「聲の形」は、面白いことに、マルセイユタロットでは「斎王」と特別なコンビネーションを形成する「法皇」と関連する映画だと感じています。

「法皇」は、いろいろな意味がありますが、特に、「伝える」というコミュニケーションを示唆してるカードであるからです。

また、「君の名は。」が、いわば、時空を超えたファンタジー的な結びつきを表現していたのに対し、「聲の形」は現実的・リアルな人間関係(舞台は学校ということで、その集まり、組織も重要です)の意思疎通を描いていました。

前者が時空を超えてもわかりあい、伝わり、理解し合うものなのに対し、後者は同じ空間と時間を共有しながら、しかも気持ち的には決して最初から排他的なものを持っているわけでもない中で、集団とその力学、人間のエゴなどによって、伝わりにくく、誤解してしまうこともある私たちの生活においての現実性を見させてくれます。

そして、さらに言えば、「君の名は。」の中においても、時空を同じにする者たちの間では、理解が難しい点は多少表現されていました。(ただしその現実的和解や理解は見ているほうに想像させる手段を取っています。これを放置とするか、あくまでファンタジー性のほうをメインとしていたため、あえてそうしたのかは評価は分かれるところです)

一方、「聲の形」にも、時空を超えた理解と言いますか、シンクロが起こるシーンがあり、これは現実的な物語性からすると、かなり異質とも言えるものなのですが、そういうことも起こりうることを、それまでの象徴的なシーンの積み重ねで表現しています。

それから、「君の名は。」にしても、「聲の形」にしても、違う性質もの同士(たとえば異性同士)の結びつきが、現実空間で「生きる」「存続」を協力し合う力となること、それが永遠性(死であったり、反対の現実を超越する力であったり)にも関係してくることが描写されているのは、今のこの時代で、日本の映画だからこそという気もしています。

私はこのふたつの映画を観まして、特にコミュニケーションということにテーマを絞った時、まさにマルセイユタロットで言えば、「斎王」性と「法皇」性、さらには「太陽」、「審判」や「恋人」などのカードとの関連も見て取れました。

すなわち、私たちには現実的なコミュニケーションと非現実的なコミュニケーションがあり、また言い方を換えれば、言葉や文字などで、「形」として成っていて、意味がわかるものとして伝えられる形式と、言葉にならない声とか、テレパシーのような声なき声、はっきりとしていない何かインスピレーションのような感覚のもので伝え合ったり、伝わってくる、「形が見えないもの」の形式があるということです。

見えないほうは、時空や現実性も超えて、時にはロマンのように、ソウルメイト、過去生つながりような人同士を繋げることもあるでしょう。

立場や性別、年齢、国籍さえ違っても、何か同じ部分で共感できると言いますか、同じ使命・意志をずっと共有し合う仲間のような、そんな人たちとひかれあい、声なき声でコミュニケーションが可能になることもあります。

一方、人は、ひとつの時空の決まった中での人生を過ごします(個人としての一生)。

そう、現実的な人生・生活です。ここでは、ロマン性もありますが、多くは現実性の認識、きちんとした形というものが求められ、コミュニケーションにおいても、はっきりしたものが要求されることが多いです。

しかし、伝えたくても伝えられなかったり、伝わらなかったり、些細なことで誤解を呼んだりすることもあります。本当の心が、言葉や形・環境・やむを得ない現実の選択によって、曲げられているような感覚です。

そういう場合、形の見えないコミュニケーションが救いを呼ぶことがあるわけです。

ですが、きちんと形として伝えないと伝わらないこともあるのが、この現実の世の中です。

現実的な形あるコミュニケーションもあれば、心や見に見えない感覚でのコミュニケーションもあり、その両方を人は持っています。現実に生きる意味では、実はどちらも重要なものなのです。

現実的なコミュニケーション、あるいはひとつの人生・時代での伝わり方が困難で、誤解を生んだままでも、時空を超越して見れば、そういったことも表面を覆っていた鎧やコーティングのようなものとしてはがれ落ち、真実でわかりあえる瞬間が来るかもしれません。

そう思うと、いつの時も救いはあるのでしょう。

それと同時、現実の今の人生の期間においても、形として一歩踏み出す勇気もあれば、よいのかもしれません。

難しいから面白い、それが人間同士のコミュニケーションと言えるでしょう。


暦とその数。数の二面性。

昨日は11月11日ということで、「1」が並ぶ特別な感じを持たれた方、また新しくなったり、何かが生まれ変わったりすることを述べられていた方もあるようですね

このように、人は数・数字を象徴として扱うことができます。

しかし象徴よりも、記号的と言いますか、あまりにも数を意識し過ぎると、人は数に支配されることもあります。

カレンダー(暦)の数字によって、その数の意味が日や時期に出るという考えは古くからあるものですが、冷静に観てみると、そのカレンダーの数は絶対かと言いますと、そうでもありません。

有り体に言えば、採用するカレンダー、暦によってその数も変わるわけであり、だから、例えば昨日が「1」が並ぶので「1」が特別視される日だったのかと言えば、それはあくまで、今採用している暦による数字によってのことなのです。

別の暦だと昨日という日は、別の数字になってしまうでしょう。

仮に、ある暦だと、「2」が強く意識される日だったとしたならば、、数字的には昨日は「2」に関係する日で、「1」とはまるで違うエネルギーの日と言えてしまうのです。

このように考えていくと、誕生日の数でさえ、それはあなたにとって、その数として意味があるのかどうかも疑わしいものとなります。

けれども、こうも考えられます。

たとえ暦が違っていたとしても、今、自分がリアルと感じている世界(地域・国・世界の別はあっても、自分が属し、現実感覚の強い範疇)が採用している暦から出た数字ならば、それはまさに自分にとっては意味を持ってくるのだと。

そう、私は数において考える時、その数が持つ純粋な意味やエネルギーとともに、その数が設定される環境と、自ら(人)の意識が影響する数の面との、両方が関係し合うものだと想像しています。

そして後者があるからこそ、実は数というものは、普遍的な意味を持つと同時に、個別性も出るのだと考えています。

いわば、数とは普遍的・象徴的・抽象的・イデア的部分を持つのと、反面、時間、お金や計算、リアルな数字として意識される現実性、またそれぞれ個人と強く関係する(電話番号・住所・部屋番号などその他もろもろに個人と関係します)意味での個別性と、二面性があるわけです。

数秘術をされる方でも、これらのことがあまり区別されていない場合があり、混乱を呼んでいます。言い方を換えれば、数における次元の違いということになります。

マルセイユタロットでは(に限らずですが)、数に関係するカードとしては、小アルカナで「数カード」いう名前もついていくらいの、「数」と「4つのスート(組)」を象徴したグループがあります。

一方、大アルカナと呼ばれるカードも22枚あり、そのうちの21枚は数を持っています。

この大アルカナの数と、小アルカナの数カードの数とでは次元が違う場合があり、さきほど述べた数の両面性を、カードのグループの違いで示しているわけです。

従ってマルセイユタロットでは、数カードと呼ばれるパートは、大アルカナとは違って、記号的に描かれています。

このように考えていくと、マルセイユタロットにおける数カードの使い方もわかってくるのですが、それはまた別の話といたしましょう。

ところで、暦のことに戻りますが、数から離れると、結局、私たちのいる地球を中心とした天体の動き、それも太陽と月が重要であることがわかります。それらの周期は基本的に変わることがないからです。

その周期を元にして、起点や終点をどこに置くかによって、暦における数の表記が変わってきます。

ただ周期としての時間軸は地球にいる限りは同じなので、もっとも大切なのは、周期とそれを決めている星の動き(もっと正確にいうと、星と星との位置関係)がポイントになってきます。

暦における数の表記は、暦の種類、採用される暦によって違いますから、むしろその数値よりも、天体の位置関係を示すもの(その数も含む)のほうが、象徴的にも普遍性を持つと見ることができるのです。

ですが、先述したように、採用されている暦が当たり前として意識され、その数と自分がリアルに生活に結びつけられている(当然となっている)場合は、個別にも意味をもってきますので、昨日の「1」が並ぶ日も、人によっては「1」という数とともに、シンボリック(象徴的)でエポックなものとなります。

特に今は、日本でも元号表記よりも西暦が世界標準として意識されていますから、そのほうがリアリティをもってきたと言え、普通に西暦の暦(太陽暦・グレゴリオ暦)とその数が、多くの人に共有されたり、意識されたり、意味が出てきたりすることになっていると思います。


カードを立体的に(想像して)見る。

マルセイユタロットは、見た目は平板で、絵柄に芸術性はあまり感じません。

しかし、それはわざとそうしているところもあるのです。

普通に見ると、平板、まさに二次元的なカードの絵柄なのですが、マルセイユタロットの版によっては、三次元的(立体的)に見えてくるカードもあります。

私の推測ですが、それもおそらく、意図されたものではないかと思います。

カードを眺めていると、カードの描かれている人物が立体的に、リアルなホログラフィック画像のように、立ち上がって見えることがあります。

それは、ちょうど人形劇を見ているようなもので、複数のカードともなれば、劇場で出演者たちのセリフを聞いているような感覚にもなります。

先日書いた、カードとの対話のシーンでも、こようような印象として上がってくることもあるのです。

これとは別に、単純に一枚一枚を、イメージによって立体的に絵を見ることで、斬新な気づきが得られることがあります。

立体的ということは、表側の上下左右だけではなく、側面や裏側もあるように見ることになります。

もちろんカードの絵には、裏側など絵としては描かれていませんから、想像するしかないのですが、その想像で出てくるものに意味があるわけです。

例えば、マルセイユタロットの「運命の輪」。

この中でも、特に「輪」を球体のようにイメージすると、「運命」を象徴しているのが「輪」から「球」になり、そうすることで、運命は上下というより、左右も含めての複雑な回転性がイメージされてきます。

「運」が上下のような位置だけではなく(上がったり下がったりするだけのものではなく)、左右への横移動(状態の変化として見る)、さらには、斜め方向への回転(複数要素による「角度(関係)」的なものとして認識される)こともイメージしていくと、運の良し悪しというものが、単純に上下の波のようなものではないことが把握できてくると思います。

ちなみに、運命、特に運(運勢)については、現実生活に影響を及ぼすもので、それを知って活用することは、無視できない力があります。

しかし、このカード『「運命の輪」)のナンバー「10」(大アルカナは、数のついているもので「21」あります』が示唆しているように、それは中間段階でもあり、この段階を超越することが、もっと重要になってくるのです。

占いで、いい運勢をつかみ、それに乗ることは自己の現実フィールド(個の欲求レベル)を充実させる意味では、効果的な方法です。ですから、いわゆる運気の流れを知ることは大切にもなってくるわけです。

しかし、いつまでもそれにこだわっていると、今度は逆に、運勢に自分が縛られることになります。

この「運気的な流れ」を、東洋では「水」や「龍」のような霊獣で象徴させることがあり、まずは龍を信じ、それを見ることがポイントとなりますが、次には龍に乗って、龍をコントロールする段階になり、さらに高次では、龍を昇天させ、龍が自分の一部であること、龍がいるようでいなかったことを認識することが求められます。(あくまで象徴的に述べています)

話がそれましたが、こういうことも、カードを立体的に見るようにしていくと、自分の中に入ってくるものなのです。

ほかにも、面白いのが、「吊るし」です。

「吊るし」は、そのまま見ると、二本の木の間にぶらさがって、じっとしている人という感じに見えますが、立体想像すると、後ろ手に隠しているものをイメージすることになったり、横から見ると、意外にも、止まっているようで、振り子の動きが見えてきたりすることもあるのです。

不思議に思うかもですが、私は「吊るし」の人物の後側にも顔があることを見たことがあります。そのことで、「吊るし」が表す段階や、「吊るし」の人物が何者なのかということを神話的に気づいたこともあります。

このように、タロットカードを立体的に見ることで、新たなアイデアや、常識的を超えた示唆が得られることもありますので、一度やってみてください。


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