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タロットカードとの会話

タロットに親しんできますと、タロットと直接会話するような雰囲気(心で会話する状態)も出てきます。

これには、とても簡単なレベルのものから、高度な魔術的レベルのものまで、様々に実はあるのですが、高度なものは手順や儀式も重要で、ある意味、いい加減にすると危険なところもあります。

ですから、霊的というより、心理的レベルに留めておくのが、タロットの使い道としては安全なところもあるのです。

ともあれ、タロットカードを生き物のように扱い一枚一枚と会話するかのようにイメージしてみると、意外な気づき、あるいは心の声といったものを得ることができます。

心理的レベルで扱っている場合は、結局、タロットから出るイメージや声のようなものは、自分の内的な(様々な自分の人格の)姿の一部として見ることができます。

従って、変に「高次のメッセージ」とか、「正しい示唆」とか、「本当の心の声」とか、なにかの(得るべき)基準や判断として扱ってしまうと、余計に混乱してしまうことがあります。

確かに、タロットから得られたものというのは、心理的に見れば、自分の中のどれかの声・意識に違いはないのでしょうが、それが「正しい」とか「正しくない」とか、「気づかなければならなかったもの」とか、「本当の自分の気持ち」とかであるとはわからないもので、様々な心の声(姿)のひとつが、カードに投影されて出て来ているものとして見たほうがよく、やたら感動したり、逆に避けようとしたりする態度は、実は考え物なのです。

もちろん、何かの判定、基準として見る方法もあり、それはまた別のやり方となります。大切なのは、タロットにおける「設定」と「考え方」なのです。

ちなみに、心理的にはタロットは(心の)投影画像となりますが、タロットは心理的な投影画像として機能しているだけではありません。

この場合、自分の見え方も大事ですが、それ以上にタロット画像が示す普遍的な象徴概念も極めて重要で、ここにタロットカードの象徴の意味を学ぶ必要のひとつが出て来るのです。

心理カードレベルで扱うのはタロットでなくてもできることですし、その意味においては、むしろタロットよりもうまく機能するカードもあります。

(絵や記号のついた)カードには、このように、心理的投影装置としてよく機能するもの、また、占いツールとしてよく適合するもの、さらにそれらを含みつつも、精緻で高度な象徴システムを表現しているものなどがあります。

カードは自分(人)が選ぶものですが、使う目的によっても相性があり、自分がそのカードが好きというのもありますが、実は、自分のやっていること、目的に叶っている(合っている、よく機能する)からこそ、そのカードを選択している・使っているということがあるのです。

これまでと、あなたの目的やレベルが異なってくれば、当然カードもまた機能しにくくなり、そこに気がつかずに、自分の技術のせいにして悩んでいる人もいます。

そこで、器用な人は、複数(種類)のカードを持って、目的別に使う人もいますね。

さて、話が少しそれましたが、カードと会話することは、タロットリーダーや、タロットを自分に使う人のためには、かなり効果的な方法になります。

最初は大アルカナから始め、その中でも、人物が中心として描かれているカードとの会話がやりやすく、よいでしょう。

カードナンバーが上がる(数が増える)に連れて、次第に画像は人物から離れて、会話もしにくくなりますが、それだけにカードナンバーが大きい数のものは、面白くもあります。

個人的に皆さんにお勧めするのは、「正義」と「悪魔」のカードのふたつとの会話です。

この二枚は、名前の意味が正反対のように(笑)なっていますので、自分の中の「正義」、自分の中の「悪魔」を見ることができ、とても興味深いものを提供してくれます。

さらには社会正義とか社会悪みたいなものまで考察でき、正義がよいもの、悪魔は悪いものという観念に揺らぎを与えてくれるでしょう。

私も、最近、カードの「悪魔」と会話しまして、大欲のために、もっと小欲を出せと言われました。(笑) 大欲のためには小欲も意外に大事なんですね。

皆さんも、自分のカードと会話をしてみてください。


「なぜなにタイプ」と「それこれタイプ」

私自身、特にグノーシス的な探求に、ここ一、二年はシフトしており、その中で、どうしても厭世的になる思想もあるので、時に、生きる気持ちというものが薄くなってくることがあります。

これは一般的な「死にたい」という気分とは違います。

いわば、この現世でのシステム、幸不幸の矛盾、皆が幸せになれない原因などを追求していくと、グノーシス的な思想と関連して、解決が不可能な次元(平たく言えば袋小路)に陥ってしまうということに起因します。(がないわけではありませんが)

そういう時は、体のほう(肉体・現実ベース)に意識を向けさせるようにバランスが働き、思考に偏りすぎないよう調整されるようです。タロット的には、剣の組から玉(コイン)の組へと強制移行させられるみたいな感覚ですね。

思えば、タロットにも流れる四大元素の思想は、もはや物理学(科学)的にも医学的にも時代遅れのものではありますが、しかし物事を本質というものでとらえるとするならば、いまだ十分に通用するどころか、重要な示唆があるものだと考えられます。

四大と言えば、4つの気質や本質を示すものですが、これも大きく分ければ、錬金術的には、ふたつの要素に分けられ、その要素がさらにふたつずつあるので、それらが組み合わさって、4つの気質になると考えられています。

いずれにしても、4つをさらに大まかに分けると、2つになるということであり、東洋的には陰陽の世界ということで、太極(根源・ひとつのもの)からふたつに要素が分かれるというところまでは、洋の東西で共通と言えます。

さて、そうしてみると、人には、大きく分けて、ふたつのタイプがあるということになります。

もちろん男女とか、性別で分けるのがもっとも基本となりますが、性格や気質みたいなことでも分けることができるでしょう。

それで、タロットを見ていて、あるいは、タロットで相談していて思うのは、以下のふたつのタイプを想定することができるということです。

A 原因・理由タイプ(なぜなにタイプ)

B 目的・結果タイプ(それこれタイプ)

Aは物事の原因や理由を追い求めたいタイプで、法則や規則、論理、マニュアル、書籍、普遍性を重視しがちで、自分が納得できる他人の言葉を求めます。(なぜ?何が?と求めるので、「なぜなにタイプ」です。)

とにかく、大事なのは自らが理由・理屈として納得すること(それは必ずしも論理とは限りませんが、自分だけの納得ではなく、人への説明も可能であるものということがポイントになります)にあります。

このため、結果がたとえ伴っていても、なぜそうなったのか、どうしてそれが可能になったのかということがわからなければ、真の意味で満足することがありません。

ただ、この納得感は、自分の中のストーリーであってもよく、それが正しいかどうかというより(正しいことにこだわる傾向もありますが)、自分自身と、そして人に対して説明するに当たって、両者の間で筋が通っていると認められたらOKというものなのです。

一言で言えば、原因と結果のつながりの明白さということになるでしょう。

一方、Bは、原因や理由よりも、ある目的のために結果が出ればよいのだという姿勢です。(それだ、これだ、その目的、この結果が重要というタイプですので、「それこれタイプ」とします)

つべこべ言うよりも、行動して望む結果や効果を出す、出れば満足するということになります。

まったく原因に関心を示さないわけではありませんが、なぜそうなったのかという原因そのものよりも、今起きたこと、これから起きること、実際のありのままに現れていることが、それよりも重要なのです。

原因に関心がある時でも、望みの結果のために必要だと思った時に、それを調べるみたいなことになるでしょう。

今、あるいはこれからを納得するための原因(ひとつのデータ)でしかないというのがBタイプの傾向です。

Bタイプは、人にわかってもらえなくても(説明できなくても)、自分の中で納得していればよく、そのため行動も素早くなることが多いです。

ですから、他人の言葉に関心は示しますが、それはあくまで参考意見であって、自分の納得のための後押しに過ぎないという印象です。(Aタイプは自分が納得するための根拠として、人の言葉を思います。Bタイプと似ているようで違います) 

A・Bタイプの悪い例をサスペンスドラマ(笑)で例えれば、犯人が罪を犯した要因、事件が起きた原因ばかりを探して、結局、犯人逮捕が後回しになって犯人を取り逃がしてしまうのがAタイプで、とにかく犯人を捕まえること、事件を終結させることに終始し、慌てて犯人だと決めつけて誤認逮捕してしまうようなのがBタイプと言えましょう。

Aのタイプはまた誰にも通用しそうな理論を求めるのに対し、Bのタイプは、自分や個を大事にし、自分自身に通用することが重要だと考えます。(と言っても、どちらのタイプも、それなりに個と全体には配慮します。個から入るか、全体から入るのか傾向の違いだけです)

 これらのふたつのタイプも、あくまで大まかなもので、実際にはいろいろな要素が枝分かれして、それぞれに個性を持つのが人間です。

ですから、AのようでBの要素もあったり、反対にBが基本だけれども、Aの時もあるということになるのが普通です。

ただ、こうして、自分の傾向を見ることで、修正を図ったり、自分の個性に正直になったりで、無理のない、自分に合った生き方がしやすくなるのです。  


選択の次元 恋人カードから。

タロットは、何かを決めることによく用いられています。

占いにおいてタロットは、長期的な運勢の流れや傾向を知るというより、短期的で、局面的な、何かの選択判断を伴うことに向いていると言われます。

私は占いとしてのタロット活用をほとんどんしませんので、こうした時間の長短や、選択の幅・範囲において、タロットの向き・不向きを感じることは少ないです。

それでも、一般的活用の傾向はあり、同じタロットデッキ中でも、例えば、大アルカナより小アルカナのほうが具体的・短期的なものの判断に使いやすいというのはあります。

それは感覚的なものではなく、きちんとした論理的な理由があります。

タロットを習って最初のうちは、タロットで(占い的)に、例えば「どちら(どれ)がいいか?」」とか、「いつがよいのか?」など、選択判断に使うのは楽しいと思いますし、通常の情報からの判断だけではなく、こうしたタロットからの示唆が、実際に効果的にもなります。

しかし、ずっとタロットをやってきますと、そうした使い方自体にも、また、そもそも選択の迷いから何か一番よいものを決めるという作業そのものに、疑問がわいてくるようになるのです。

もちろん、人間の現実的な生活においては、判断・決めごとはつきものであり、人はそれで生きているようなものです。

とはいえ、迷うことが悪いわけでもありませんし、決められないことの意味を考察するほうが、今何かを無理に決めてしまうことよりも、大切な場合があります。

誰しも、効率的なほうの選択、運がよくなる選択、幸せになるほうの選択、満足感を伴うほうの選択をしたいと思っています。

いろいろな視点(選択で重要視される基準)はありますが、結局のところ、自分にとって「最高の選択」と思える結果にしたいということに尽きるでしょう。

ところが、ここが問題でもあるのですが、その『「最高」とは何か?』となると、実は難しいことになるのです。

現実的・心理的な側面だけではなく、目に見えない部分、霊的なところまで視野に入れると、いったい、何が最高の選択となっているのか、わかづらいものです。

だからと言って、「どんな選択をしてもよいのだ」とか、「人生の選択に悩む必要はない」というつもりはありません。

現実のルールや価値観、それぞれの信ずる世界観、状況によっては、確かに「正しい選択」「効率的な選択」「最大多数の幸福選択」というものが存在します。

その中で、一番よいものを選ぼうと情報収集し、分析し、いろいろな努力をして、やっと選んだという行為は、人として称えられるものだと思います。

その一連の過程、エネルギーの投入が、「経験」としても大事なものになります。

「生きる」「生きている」というのは、結果(ポイント・点・静止)だけではなく、(決断や選択の)過程・プロセスそのもの(点のつながり、面・立体、運動)であると言えるからです。

その結果が悪かったとしても、おそらく、悪かったと現実的(自覚的・意識的)に思う自分の判断とは別に、反対の「良い」と考えられること、現実を超えた意味での判断(判定)がどこかで下されているのではないかと感じます。

それを象徴しているのが、マルセイユタロットの恋人のカードです。

今述べたことが、このカードに描かれている人間達と、上空の天使(キューピッド)によって表現されているとイメージできます。

「すべては宇宙や天に任せればいい」という考え方がスピリチュアルな人の間ではありますが、このカードを見る限り、それは基本姿勢としてよいにしても、現実で生きる私たち人間自身が、迷いながらも選択の努力をすること、一生懸命生きることが重要だと見えてきます。

つまり、任せきっりではなく、よく言われるように「人事を尽くして天命を待つ」みたいな、人として実際にできることはやったうえでの(天からの)縁が生じると思えるものなのです。

そして、現実では、よいとか悪いとかと思う、私たち人間の感じる結果は、「天」のような別次元から見ると、それはまた違った判断と裁定になるものであろうとも想像できます。

要するに、結果は現実次元では重要ではあるものの、別次元では反対のものになったり、まったく違う価値となっていたりする可能性があるということです。

そして私たちは、リアルな現実次元に生きている感覚と同時に、実は別次元にも生きている存在であり、その両方においての生き方があるわけです。

ですから、私たちのしている「選択」は、両方に関係しているものなのです。


夢の作用 現実と非現実

風邪でブログを少し休んでおりましたが、ほぼ回復し、体調も戻ってきましたので、ブログを再開したいと思います。

さて、体調不良で、寝ている時に、をいろいろと見ました。

私は普段でも、よくというか、ほぼ毎日夢を見ていますが、病気などの時は、眠りが浅いので、頻繁にまた見るわけですね。

ちなみにタロットをやるようになりますと、イメージの世界を喚起していきますから、全員ではないですが、人によっては、夢を見ることが多くなります。しかも、色つきになってくることもあります。

は一般的には、起きている時に日常受けていた、心と記憶の整理になっていると言われますが、それはその通りではないかと、私も思います。

ただ、私が考えている夢の「整理」作用とは、一般的な意味を超えたところも想定しています。

私たちの中には、いわゆる現実感覚、これは常識とか日常のリアリティ感とか、時間の流れとか空間・場所とかと言い換えてもいいのですが、そういう現実感覚と、それに対してイメージや心模様などで感じる非現実的なものとがあります。

これは、目に見えるもの・見えないものという関係で語られることもありますし、外的に視覚がとらえているものと、内的にイメージで見ているものという言い方で表現されることもあるでしょう。

そして、起きている時の意識と生活が「現実感覚」である前者で、寝ていて夢を見ている時が、後者の非現実感覚だと言うことができます。

私の言う夢の整理作用とは、この現実意識・非現実意識を調整しているのではないかという推測であり、ただ起きている時の記憶を整理しているだけではないということです。

一般的には、私たちが起きている時の意識が基本とされ、それ(その意識状態)がいろいろと経験したものを整理・休息するため、眠りと夢があると考えるわけです。

しかし、タロットをするような者から見ると、逆のことも同時に考えられ、夢の世界・非現実と思える世界が、現実(日常起きている意識で感じている世界)の調整・整理・浄化を行うために、眠りと夢があると見るわけです。

変な言い方になりますが、「現実」という夢を見るために、眠りと夢という「別の現実」が調整してくれているということなります。

極端に言えば、基本と主体は寝ている時であり、むしろ、起きている時の状態が「従」であるという見方もできるのです。

この境界線をわざとあいまいにしていくことで、意識に揺らぎを生じさせ、霊的な覚醒を起こす手法も、洋の東西を問わず、昔から伝えられているようです。

それはさておき、どちらにしても、夢の世界と現実の世界は、ともに作用し合い、双方でエネルギーの補充と発散、ショックの中和・軽減・浄化などを行っていると感じます。

夢の場合は、非現実性ですから、当然通常の時空概念を超越しますし、ストーリー性も一方向の時間の流れで見るものではないので、バラバラな感じを受けたり、空間的にも常識ではあり得ない出方、過ごし方になったりします。

こういう世界があの世的というか、実は霊的なものだと考えられます。

従って、夢の世界では、過去や未来が同居したり、多元(重)的な世界を経験できたりするので、そこに重要なメッセージや未来予知、過去(過去生的なデータも含む)での忘却していた出来事、パラレルワールド(選択によって別に起こる世界・事件、アニメ的には世界線の違う世界)を観ることによるアイデアやインスピレーションの受信などが起きることがあります。

ただし、先述したように、現実と夢の相互による調整作用という働きもありますから、メッセージや示唆というより、やはり記憶の整理や浄化・調和のようなことも、夢にはあるわけです。

その意味においては、夢を特別視したり、お告げのように扱ったりするのは過剰だということになります。

それでも、普段起きている自分の意識が何を強く思い、何に深く影響されたかということは、(の整理・浄化作用)によって知ることができます。

意外なものが心(感情)には作用しているものです。

あと、あまり知られていませんが、占星術をされる方は、むしろ起きている時の世界より、寝ていて夢を見ている世界に注目するほうが、面白いことがわかると思います。「アストラル」という星を意味する言葉とエネルギーは、夢の世界にも通じているからてす。

夢と現実、どちらも見方を変えれば、現実であり、夢なのです。まさに、夢うつつ(現実)と例えられている通りです。

従って、両方(の関連性と無関係性)を見ていくことで、ある特別な視点(マルセイユタロットで言えば「運命の輪」の上の視点)が導かれますし、心理的にも、自らの心の整理ができ、感情に振り回されずに感情を味わうことができ易くなります。

ちなみにマルセイユタロットの「」のカードは、ひとつには、このの構造や仕組み、働きを語っているものです。


「月」のカード 感情に関係して。

マルセイユタロットの「」のカードは、解釈やその意味についても、一筋縄ではいかないところがあります。

その不思議な絵柄と、はっきりしない感じから、わかりづらさが余計際立ってくるのですが、実は、そのわかりづらさ、はっきりしないことこそが、このカードの真髄と言ってもいいでしょう。

端的に言えば、このカードは人間の「感情」に深く関係しています。もちろん、それだけではない、大きな秘密も隠されていると想像できるのですが、それはまた別の機会や講座でふれたいと思います。

今日はこの「月」のカードの示唆から得た、人の「感情」をテーマにします。

このカードが課題として出る時、対象の人にとって、何らかの感情に関する問題(見つめるべきこと)があると考えられます。

そして、その問題とは、まず、感情をはき出していないこと、つまり抑圧されたものがあること、それは裏を返せば、味わえない感情か、経験したくない感情(とそれを起こした事件・背景・設定)があるということでもあります。

さらに逆のこととして、感情に溺れている、感情を経験し過ぎようとしているという危惧も考えられます。

要するに、自己の体験における感情のバランスということが鍵なのです。

よく言われるように、人間は感情の生き物だと表現されます。それだけ感情は人を動かし、また悩ませ、人を人たらしめている「何か」なのです。

スピリチュアル的な人の中では、人間がこの世に生きている理由、生まれた理由のひとつとして、感情を味わうため、感情を十分に経験するためという説もあるくらいです。

人は無感情に、機械のように生きていくことは難しく、それでは人生、味気なく、まったく面白くないものです。ですから、感情は、人生や生活を彩り、まさに色づけし、リアルにしているものと言うことができます。

従って、現実に生きる私たち人間にとって、感情があること、感情を味わうことは、結果がどうであれ、人の宿命というか、そういうシステムになっているのだと思えます。

さらに言えば、感情といかにつきあうかということも、人の人生にとって大事な要因になるわけです。

ただ感情は、ある意味、自動的に湧き起こるものですから、それをコントロールしようとするには無理があります。

感じないようにする、感情を入れないようにするということは、むしろ逆効果で、感情を一種のエネルギーとして見ると、拡散・爆発しようとするエネルギーを無理矢理封じ込めようとするようなもので、抑圧と強引なコントロールは歪さが出て、エネルギーは暴発を求めて、体内や心の内に行き渡り、どこかに溜め込まれ、やがて体か心を蝕みます。

しかし、一方で、感情にただ身を任せ、なすすべもなく飲み込まれ、感情のままに行動を起こすと、それはそれで危険です。それでは、感情から来る条件反射的な、奴隷みたいな人間になってしまいます。

「人生、楽しけりゃいい」「欲望のままに生きる」「気(感情)の向くまま、好きなようにただ生きる」「感情を殺して、静かに過ぎ去ってくれればいい」というような態度では、本当の自分の目ざめからは、ほど遠い生き方となるでしょう。

ところで感情のコントロールはできなくても、感情の発生する機会(つまり、心のとらえ方、受け止め方)、感情が発生したあとの対処、言わば、自分の行動に対してはコントロールはできるのです。

「月」のカードは、私たちの生きる元には(エネルギーの中には)、「感情」というものがあり、それに着目せよ、バランスを取れと言っているように感じます。

抑圧されたものがある人は、その解放のために、過去に経験し、感情が呼び起こされるような同じ機会を創出しますし、その刺激が強い場合は、非常に感情に混乱を来します。(下手に抑圧されたものを解放しすぎると、洪水になり、危険ということです)

ですが、少しずつでも、その感情を解放・浄化するために、機会に挑戦していくことは、自動に起こることでも、意図的に行うことでも、体験できます。

重要なのは、その自覚です。オートマチックに働く自己浄化作用に気づくことなのです。

一方で、感情に溺れ、感情体験に引き寄せられる時期とか傾向というのもあります。

この場合、別の感情の抑圧とセットになっていることが多いのですが、もっと深く見ていくと、人生経験(感情を味わう体験)が足りないという風に、自分の何かが思っており、そのために、頭や常識では理解できないことを自分がやってしまったり、とんでもない行動をしてしまったりすることがあります。

簡単に言えば、味わい尽くしていない感情をもっと味わいたい、ほかの部分で抑圧されてきた感情を、別の体験で補いたい、解放したいみたいなものです。

これも個々における感情のバランス作用と言ってもいいのかもしれませんし、魂の傾向(今生で味わいたい感情がある)として、何か自分に刻印しているものがあるのかもしれません。

霊的には、「月」のカードが、マルセイユタロット的には高度な位置にあるため、感情のテーマ、感情体験というのは、非常に重要なことであると見られ、霊的成長のためにも、なくてはならないものだと考えられます。


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