ブログ

生きづらさの肯定から観る。

人生とは、ダイナミックで、どんな人にとっても、あとで振り返ればドラマティックなものであり、「素晴らしきかな、我が人生」とか、「物事はすべて完璧なタイミングとバランスでできている」とされて、この世に神なる完全性を見る姿勢があります。

あくまで、自分視点で見れば、人生は、自分がいかにそうしたことを多く体験し、また思考して実感できるかで、生きやすくもなり、充実することもできるということになるでしょう。

現在の多くの心理系、スピリチュアル系の方の主張も、これに類するように思います。

自分の思い方次第で、自分を中心とする範囲の世界は幸せになるかもしれませんし、なにはともあれ、とりあえずはそれ(自分の幸せ)が先決、大事と考えるのはおかしなことではないと思います。

自分自身が幸せや充実感を覚えていれば、それだけ自分の見る世界も幸福に満ち、外部の世界、自分以外の人たちに対してでも優しく、穏やかな目で見ることができます。

世界は私のために優しい、愛がある、幸せを提供してくれていると思えるからです。この「世界」の部分を「宇宙」とか「神」に置き換えても同じことになります。(すると宇宙や神に感謝の念もわき起こるでしょう)

ですから、自分を大切にすること自分がいかに満たされ、幸福な状態になることは重要であり、それゆえ、先述したように、たくさんの方々は、自分方向への愛と充実を訴え、その方法を提供してくれているのです。

そのおかげもあって、自分を解放し、自分らしく生きている人も増えました。

一方、そうは言っても、私たちは現実的には、他者の世界、外に見る世界に、あるいは自分が現実の世界で体験することも含めて、理不尽と思えること、悲惨とも感じるようなこと、多数の人が自由に活き活きと暮らしているとは言い難い状態がシビアに確認できます。

タロットによる相談をしたり、タロットの象徴的思考から世の中を観察したりしても、生きづらさをずっと感じ、この社会に不安システムの問題を思い、どこにいても、何をしても気が晴れないという人も、少なからず、いらっしゃるのではと感じています。

実は私自身も、こうした思いはずっと昔から持っているものです。

いくら心理やスピリチュアルを学び実践しても、また経済的な成功を目指して頑張っても、どこか違和感を覚えたり、うまく行かないと感じたり、それで(これで)いいのだろうか?と疑問に思い始めている人たちがいます。

それはまた、技術とか、自分も含めて「個人」の問題とかではないのではないか?という疑念も生じている場合もあるでしょう。

ちょっと前にブログでも取り上げました「君の名は。」のようなアニメ映画なども近頃では流行り、特に若い人たちがたくさん観ているようです。

これを「現実離れ」や「軽い(ライトな)傾向」と、批判する向きをありますが、今のこの時代、この社会の中で逃げられず、希望も見出せず、どうしようもない閉塞感に行き詰まってしまっている反動として、非現実的表現の奥にあるピュアな(純粋な)もの、もっと言えば「イデア的なもの」に向かっている(観ようとしている)と、考えることもできる気がします。

こうした人たちが感じる「生きづらさ」とは何かを見ていくと、色々なことが見えてくると思います。とはいえ、陰謀論とかの話の次元ではありません。

とにかく、今は楽しくあること、楽であること、リアルを充実させること、目一杯人生を味わうことなどが推奨されていますが、それはそれで素晴らしいことなのですが、そういう気持ちに全面的になれないどこか引っかかる、何かがおかしい、何か違う・・・と感じている人も少なくないのだということです。(むしろ増えている気がします)

それは確かに心理的問題、心のブロックということもあるのでしょうが、それとは別の次元の、普遍で根本的なものがあると、私は感じているところなのです。

言い方を換えれば、心のブロックというとらえ方そのものが、すでに、本当の問題を隠してしまっているということです。

タロットを使う次元にも様々なものがあるのですが、一般的に対人的なリーディングや占いにおいては、心理次元や現実次元の問題と対処を見て、クライアントの実際生活での調和(成功や夢の実現、個としての自分本来性の発揮、自分の好きなことで生きていくなど)を見ていくことが多いものです。

これはタロットを使う(もちろん、タロット以外のことでも)たくさんの先生方がされていることであり、それを上手に指導したり、アドバイスを与えてくれたりする人がいらっしゃいます。

ただ、私はこうしたものも考えたり、アドバイスをしたりもしますが、もうひとつ、今日後半に述べたきたようなことである「この世の矛盾や生きづらさ」をどうとらえ、どうすれは現実次元と純粋次元の統合を図っていくことができるのかということに関心が主体として移っており、それに共鳴する人に対して、マルセイユタロットを教えたり、マルセイユタロットを使ったリーディングをしたりすることが多くなってきました。

一言でいえば、「世の中の生きづらさの肯定」であり、それを現実の世界で、どう調整して行くかというテーマと言えるでしょう。(この「調整」は、時に、いい意味での「離脱」ともなりますが、依存や一般的な意味の「現実逃避」とはまた別です)

またこのことは、単独(自分一人だけ)でどうなるものでもないというテーマですので、マルセイユタロットに関心のある皆さんと一緒に考え、実践していこうという思いでもいます。


恋人と審判による選択性の違い

マルセイユタロットの「恋人」と「審判」は、非常に絵柄の構造的に似ているカードです。

間違いなく、意図的に似させていると考えられるもので、その根拠もまさに絵柄自体と、その象徴にあると言えます。

一言で言えば、ふたつのカードは、あること(同じこと)のレベルや次元の違いを表しているのですが、これは、何もこのふたつのカードに限ったことではなく、ある基準をもとにしたカード同士たちに言えることです。

もっと大きなことで例えれば、宇宙やこの世はそういう仕組み(ある本質を、次元やレベルで違えているもの)でできていると思わせます。

こうした次元の違いをリーディングにも入れることができるのが、マルセイユタロットのよいところであり、また実は難しいところでもあるのです。しかし、このことがわかってくれば、とても物事の理解が早く、確実になります。

さて、「恋人」と「審判」の、その次元・レベルの違いは、具体的に言うとすると、これまたいろいろあるのですが、今日は、「選択の自覚性」という観点で述べたい思います。

簡単に言えば、「恋人」カードは、自己の選択について真の意味で自覚しておらず、「審判」のカードのほうは、それを自覚していると考えられます。

今はそれがなぜこのカードたちから言えるのか?ということより(それはタロット講座で説明する範囲です)、そうしたふたつの選択の違いがあるのだということを理解されるとよいでしょう。

私たちは意外にも、自分の選択において、自覚していないことが多いのです。まさに選ばされている感覚とでもいいましょうか。

例えば、買いたくもないのに買ってしまったもの、食べたくもないのに食べてしまったもの、気乗りがしないのに誘いに乗ってしまったこと、本当はやりたくないのにやってしまったこと・・・などなど、思えば、「なんとなく」や、はっきりとした理由もなかったり、何かの迷いや葛藤があって、渋々のような形で選んでしまったりすることがあります。

その迷いそのもの(自分が迷っている、葛藤していること)については自覚している部分もあるのですが、なぜ迷ってしまうのか、どうして自分の気持ちに正直になれないのかが、今ひとつ確信が持てず、あるいは、ふたつの間のどちらを優先していいかわからず、悩むわけです。

一方、最悪なのは、本当に無自覚で、周囲や雰囲気に流されるままに、選んでしまっていることです。

いずれにしても、自己の選択において、自覚がない場合は、結果的に自分が選んだという感覚がないため、責任の所在があいまいで、だからこそ、環境や運、他人のせいにすることがあるのです。

すると、自分の人生を主体的・創造的にできず、ほとんどのことは、他人や外側、結果、さらには目に見えているものを中心で評価する姿勢になります。

言わば、自分で何とかするのではなく、誰かが、恋人が、配偶者が、友人が、神様が、幸運が、偶然のお金が、趣味が、与えられる仕事が、自分を何とかしてくれるという思考になるわけです。

こうした状態は、マルセイユタロットのほかのカードでいえば、「運命の輪」の中でグルグル回っている様子とも言えます。

これに対して、自分がなぜそれを選ぶのか、行うのかをきちんと理解し、選択における自覚が行われている場合、当然迷いなく決断しているわけですから、物事もスピーディーに運び、その分、結果も早くついてきます。

たとえ結果が思わしくないものであっても、それは自分が選んだものであるという自覚がありますから、自己の責任であるということが明確に意識されます。

自分の責任ですから、自分でまた改善すればいいのだという切り替え、またはあきらめ(手放し)も早いということになります。

また、ここが一番述べたいことですが、自覚した選択であれば、他人がどうこういうことではなく、あえて人が見て苦労する道とか、困難な方法とか、はちゃめちゃと思える人生を選択するのも、その人の自由だと言えます。その人はそう自分で自覚し、そのように歩みたいと思っているわけです。

いわゆる「一般的な、常識的な幸せ」な人生でなくても、その人の魂が望む意味での幸せならば、一般範疇での幸せ概念からは、はずれることもあります。

ですが、そうしたことを自覚せず、ただ「人と違ったことをする私かっこいい」とか、理由もわからず、いつも本質的に同じ選択を繰り返し、一般的な意味での不幸と思える人生を送っている場合は、マルセイユタロットの象徴的には「恋人」カードの問題状態のままと言えます。

「審判」はそうした人に覚醒(自覚)を促すカードです。

「審判」が、リーディングにおいて登場する時、それまでのレベル・次元から上昇することを示唆すると同時に、自分が自覚して選択しているかどうか、見直す必要があると言えます。

しかしながら、そうしたことに導かれるのも、無自覚な選択によって、自分が困っている状態、迷っている状態、悩んでいる状態を経験しているからにほかなりません。

そこに、聖なる祝福性を気づけるかどうかが重要なのです。


アニメ映画「君の名は。」に関して。

アニメ映画「君の名は。」が大ヒットしているようですね。

私も今や、映像作品は、ほぼアニメばかり見ている(笑)状況(これには、単純にアニメが好きという以外にも理由があります)ですので、もちろん、無関心ではいられませんでした。

ただ、「君の名は。」は、普段アニメを見る層を超越して、多くの一般の人にも受ける形となったので、かえって後回しして鑑賞しようという気持ちでもありました。

ということで、先日、ようやく「君の名を。」を観てきました。それで、幾つかタロットに関連したり、普段思うところとも関係したりすることがありましたので、それを簡単に書いてみたいと思います。若干のネタバレもありますので、まだ観ていない方はご注意ください。(鑑賞後に読むほうがよいです)

この作品は、基本、ファンタジーであるので、そこからスピリチュアルなことに関係させて、すでに多くの人が論評したり、指摘したりしています。

ですから、私ごときが今更言ったところで・・というのがあるのですが、私なりの視点で思ったことを書きたいと思います。

まず、マルセイユタロットでは「斎王」、他のタロットでは、「女教皇」と呼ばれる存在が、この作品のキー(鍵となる人物)として描かれていました。

この存在は、その象徴性を深く辿って行くと、巫女的なものや、女神信仰と結びついてきます。言い換えれば、私たちが今忘れている精神性の奧にある霊性を直接感応する力、平たくいえば、見えない世界の情報をキャッチする能力、異次元認識と情報を直感的に自分に下ろす器といってもよいでしょう。

マルセイユタロット的には、ほかの女性的なカードとも関係し、特に「」のカードとのつながりは、この作品においても深いものがあると感じます。

映画では、主人公ふたりの女性側の人が、この巫女的な系統にあることが描かれ、その巫女の体内からのものと融合したお酒が、もう一人の主人公の男の子(マルセイユタロット的には「斎王」に対しての「法皇」とも取れますし、そもそもの二元的エネルギーも象徴しています)をトランス状態に導くような描写がありました。これらは、女神的な力が、日常を超越したパワー、聖別なる神聖な力があることを象徴しているとも言えましょう。

この主人公男女二人の意識が入れ替わるというのも、もはや古典的表現ではあるのですが、全体を通して見れば、お互いの立場・視点の意識的交換として、見るもの見られるものを統合し、新たな視点(境地)を獲得していく示唆だとも取れます。(マルセイユタロットでは、「恋人」や「月」に関係してきます)

もうひとつの、この作品の(ストーリー的な)特徴として、時空を越える、あるいは時空を無視して、人物同士が繋がる(コンタクトする)というものがあります。

それが主人公二人というわけなのですが、そのつながりの象徴、あるいは超越するためのワープ道具的扱いになっていたのが、糸を組み合わせる組紐(くみひも)でした。

時空をジャンプするようなことはファンタジーであり、いわば現実離れしていて、私たちが感じているリアルな世界では、まず起こることのない現象なために(しかし夢だとありえるということでもあります)、だからこそ、そこに夢やロマンを感じ、作品では感動を与える核となっていました。

さて、一方で、この作品の別の面での特徴があります。それは、妙にリアルさがあるということです。

先述したように、この作品では、霊的な世界や時空を越えるようなファンタジー要素、つまりは反リアリティ(非現実的・現実逃避・現実遊離的なもの)が核となっているのに対し、一方では、この監督の作品の特徴でもあるのですが、背景や街・自然の描写が超絶なほどきれいで、言ってみればリアル(写真的・見たまま)なのです。(まあ、この監督の他の作品や、短編作品ほどではありませんでしたが)

それから、おそらく多くの人(特に私たち日本人)が、衝撃を受けたであろう、物語の「転」に当たる、「災害」が大きく関係していたというシーン。

これは東日本大震災も含めて、今年の熊本や九州での地震被害、北日本での台風被害、さらに近年での様々の自然と人災的な災害の数々を、日本人なら思い起こさずにはいられない部分です。つまり、これも観る人によっては特にリアルなところなのです。

そうして、導かれていくこの作品からの印象は、このような言葉で置き換えることができるでしょう。

「今、日本で(日本人に)何が起きているのか? 起ころうとしているのか?」

それは、同じアニメ出身監督、庵野氏が監督した実写映画で、こちらも今年ヒットした「シン・ゴジラ」にも、同様のテーマがあると見えるものです。

昔なら、アニメや特撮映画の世界というのは、一部の特殊な人、マニアックな人が見るものでした。しかし、時代は変わり、アニメのような表現は、多くの人になじみのあるものになり、私たち日本では、すでに普遍化したと言ってもいい状態です。

「君の名は。」のヒットにも、戦略的なものもあるでしょうが、アニメーション表現に抵抗のなくなった人々が増えたこと、そして、この作品には、恋愛という要素を元にした、見えない部分の純粋性が描写されていたこと、さらには、その背景に、リアルなものもあり、完全なファンタジー、お伽話としてではなく、物質性や現実性の意味もうまくマッチング・風味付けされていたこと、などがヒットの要因としてあるでしょう。

ただ、さらに奧を見ていくと、監督や制作者たちの意図も超越し、日本人のもつDNA的(組紐的なもので象徴)な元型(イデア)に接触し、それが時空(時間と空間、つまりは私たちが通常認識している現実感覚)や、個別的な人との隔たりも越えるような統合的方向性を示唆していたものと考えられます。

災害のことを入れたり、リアルな日常の(特に東京という大都会の象徴)世界を細密に描くことで、私たちに日常や現実性を意識させつつも、この作品には遠景や空(ソラ・宇宙)、星といったものが象徴的によく出てきており、先述したように、作品自体はファンタジーであるので、現実から離れたような世界を描きます。

何よりも、これは実写ではなく、すべてが絵で構成されている、現実にはない世界を描写するアニメという作品です。

 

この作品を見て、ファンタジーの世界でピュアなものにふれ、それで感動したというのもよいでしょうし、リアルな面でありえない、ツッコミどころ満載(実際、私もそれは感じた部分はあります)という点で、このような作品は合わないとし、批判したり、それほど感動もなかったりしたという人もいらっしゃるでしょう。

それはまた一人一人の個性の違いであって、どう感じたか、思ったかについては自由で、いがみ合うことではありません。

ただ、なぜ多くの人に、今、こうしたアニメ作品が受けたのか、話題になったのかということを考察していくと、上述の「今、日本で(日本人に)何が起きているのか? 起ころうとしているのか?」ということに関連して、商売上や現実的観点から以外の、霊的なテーマとして浮かび上がってくるものがあると思います。

そしてその問いの答えは、皆さん自身で、映画を観ながら探してみてください。


何かの選択に迷った時 タロットによるサポート

何かを決めたり、続けたりしたい(あるいは反対にやめたい)と思った時、通常の情報(常識や見に見えるものなど)だけではわからず、直感やインスピレーション、自分の身に起こる現象などによって、判断する(される)ことがあります。

大まかな傾向では、やはり、自分が違和感を覚えたり、そのことに対して、何回も悪いようなことが、特に外側の現象(精神的に感じるだけではなく、実際に悪いことが事実として起こる)として生じた場合、それはノーであったり、保留であったりの意味のことが多いと考えられます。

少なくとも、内と外の投影として見ても、自分の中に何かゴーとかイエスにならない、葛藤する心があり、それが外に現れていると想像することができます。

言わば、外側のシンクロ的な現象も、自分が起こしている、自分で自分に見させているわけです。

ですから、判断に迷った時でも、それは選択しようとしていることが正しい・正しくないというよりも、何かしら自分は、そのことに疑念があったり、すっきりしない部分があったり、凝り固まったりした心があるのだと見るとよいでしょう。

それが実は、自分を縛っていること(逆に言えば守っているものでもあります)なので、それが浄化されれば(クリアーになったり、統合されたりすれば)、予想外の、今まで以上のよいと思えるようなことが現実に発生したり、そもそも選択に迷う、その事柄自体がなくなってしまったりするようなことになるのです。

人生を大局的・長期的視点で見た場合、たいていの選択ごとは取るに足らない(無意味とか軽いものという意味ではありません)ものになり、その局面では非常に重要に思えるものでも、俯瞰して後で見ると、選択後の結果の良い・悪いに関係なく、その体験こそがとても味わい深いものであったと気づくことが多いものです。

その意味では、警告のように思えた外側のシンクロ現象も、結局、いい・悪いのお告げではなく、内なる葛藤の表現だとわかり、よいものを選ぼうとするこだわりが少なくなります。

とはいえ、短期的、自分の思っている価値観の範囲、そして一般の常識的な観点からでは、確かにいい・悪いという次元があります。いわば自我の幸不幸という感覚です。

自我次元(自分の価値観やその時の思いに添った世界観)において、不幸であれば嫌ですし、幸福であれば気持ちのいいことです。それは人間である限り、快不快、痛みと快楽にも似た普通の感覚で、ここからは通常、なかなか逃れることはできません。

そこでタロットによる選択へのフォロー、参考情報を得る技法があります。

ここでもタロットが示すものが絶対正しいという考えでいては、実は余計にタロットを使うと混乱することになるので、そのようには考えないほうがよいでしょう。

その理由とか、反対にタロットが正しいと考える方法などもあることも、お伝えしたいところですが、それはまたの機会に譲り、今回は理屈よりも、技法・やり方のほうを、一部ご紹介したいと思います。

まず、自分にとって、選択時におけるよいカード、あまりよくないカードという色分けを使う方法があります。

本来、カードには吉凶とか良し悪しはないのですが、あえて自我次元の選択においては、それに色をつけましょうというものです。

これは、数とか意味で色をつける(良し悪しを見る)場合もあるのですが、一番いいのは、自分にとってよいカード、悪いカードみたいな判断です。

つまり、自分にとっては、「力」のカードはいいとか、「悪魔」とか「月」が出ると今ひとつとか、このカードは最悪とか、そういう感覚を、カードリーディングの蓄積によって覚えておくのです。

人によってカードの良し悪しは違ってきます。

 

やり方は、物事の選択に、「これをするのはどうか?」という問いで、カードを引きます。

一枚だけではなく、数枚引いたほうがいいでしょう。そして引いたカードで、自分にとって良き知らせといえるパターンのカードが出ていればOKで、その逆はノーということになります。

また、これとは違い、カードの位置、つまり正逆で見る方法(正立はよし、リバースはノー)もあるのですが、正逆ははっきりし過ぎるがために、引く時に迷いや恐れが強すぎて、かえってぶれてしまうことがあります。ただ、正逆で見るほうに確実性が高まる人もいますから、これも個人の性質とタロットの出方によります。

マルセイユタロットの場合、次元の違いが大アルカナと小アルカナでは明確なので、自我次元の選択には小アルカナを使うほうが明瞭になることがあります。

特に、時期、場所、人物などの具体的なことをはっきりさせたい場合は、小アルカナを使うほうがよいでしょう。そういう風に、小アルカナはできているのです。

小アルカナでも、4組に分かれていますので、その選択する事柄が何なのか?ということで使う組も分かれます。恋愛なのか、セミナーの選択なのか、お金に関することなどかによって、異なってくるわけです。

それから、小アルカナの場合は、何が選択の基準として一番大事かということも、4組に分かれているので、明確になってきます。

例えば、我々は「玉」と呼ぶコインの組のカードが多く出れば、結局は経済的なこと、お金の投資性・効率性によって選択されるみたいなことがわかるわけです。

これに対して、大アルカナでも選択の判断には使えますが、本当は大アルカナは自我次元を超えることを象徴しますので、マルセイユタロットの大アルカナに習熟してくると、先述した大局的な俯瞰したような目線が現れ、自我次元における、いい・悪いという選択基準がなくなり、どちらでもよいとか、どちらでもないとか、「ま、どう転んでも経験を楽しめばいいか」みたいな不思議な境地になってきます。

タロットで確かに選択のサポートはできるのですが、私見ですが、最終的には、その選択へのこだわりから脱却するためにタロットを使っていると言っていいものだと思っています。


ソウルメイトに出会わない幸せ

恋愛やパートナーシップの問題で、理想のパートナーや、スピリチュアル的なソウルメイト、ツインソウルというような話題が出ることがあります。

人生で最高の、そして私とこの人とが、ほかでは考えられない今生でのベストカップル、一生のパートナーという人がいれば、ロマンとしては、すばらしいことだと思います。

そういう人を想像すると、まるでお姫様と王子様のハッピーエンドの物語のような、うっとりとして、幸せな気分に浸ってしまいますよね。

実際、そのような方と巡り合え、一生添い遂げていく、幸せな人生を送っていらっしゃる(組合せの)方もいるでしょう。

ですが、それは多数であるかといえば、残酷なようですが、あまりそういう関係の人たちを現実に見ることはありません。むしろ、そのような人たちは、実際には少数派ではないかと思います。

おかなしことを言うようですが、理想のパートナー、ソウルメイトに巡り合わない幸せもあるのだということを、今回はふれてみたいと思うのです。

ソウルメイト願望の問題のひとつには、ソウルという文字の通り、お互いがひとつの「魂」の片割れであり、だからこそ相性もよく、結び合う最高の組合せなのだという「設定」があります。

プラトンの「饗宴」にも出てくる話ですが、もともと人間は両性具有的な男女で一体の者と、ほか男男、女女で一体となっていた状態があり、それが神・ゼウスによって分断されたため、お互いに、ひとつの時だった体を求め合うのだというものがあります。

それはともかく、こうしたもともとひとつの魂、あるいは一体だったことによる幸福感を知っている者同士の片割れが、引き合い、再び一緒になる喜びを求めるという設定は、よく聞く話です。

ただ、この設定のようなことを信じてしまうと、その瞬間、「自分は片割れである」という認識が強くなります。そうでなくても、どこかに「私のことを本当に理解する、もう一人の自分ともいえる存在がいる」と考えてしまうのも、やはり同じ「片割れ」「半身」認識となるわけです。

片割れとはつまり、不完全を意味します。

自分一人でいては満たされない、不完全であるという思いが、次第に強くなって行き、それが高じると、もはや自分一人での完全性はありえないというあせりまで行き着いてしまいます。

このことは、マルセイユタロットの「恋人」カードに象徴されていると言ってもよいでしょう。また恋愛ごころとは、そうした(片割れ、半身、不完全である思いを相手との合一感で補う)衝動から生起するものとも、カードからも推測できます。

その鍵を握っているのは、恋人カードでは、上空に描かれている天使(キューピッド)ということになります。

マルセイユタロットでは、完全性は一人の人間の内にあると語ります。ただし、それを忘却し、隠された状態にあるため、不完全だと思いこまされている状態だとも示唆します。

完全性を復活させるため、私たちは人として生まれ、数々の不足、差異、違いを経験します。それは、完全性を思い出すためには、「違い」というものが必要だからだと、ひとつには考えられます。

ソウルメイトのような人であっても、また普通の恋人やパートナーであっても、さらには、友人・仲間、特別な感情もわかない義理のつきあいのような人であっても、人との関係と交流によって、私たちには実は完全性の復活(思い出し)が発動していきます。

ただ、あまりにもびったりとした関係性であると、その時点での充足感に幻惑され、そのふたりの人間関係の時だけに、合一感、統合感、完全性を感じることになり、ほかの場面での完全性を探求しようとしなくなる傾向もあります。

この現実世界は完全性を伴いながらどこまで言っても、現実感覚では個別性であり、分離したものとして表現されます。

一日が昼と夜で分かれているように、そしてずっと昼とか、ずっと夜とかの「一元」ではないように、現実は必ず二元表現によって表されている世界です。

「私たちはソウルメイト、一心同体」だと思っている関係でも、ともに空気のように生きているわけではなく、どちらも肉体を持ち、人として現実に存在しているわけですから、やはり二元から逃れることはできません。

自分たちの中で一元を味わうことはあっても、実際には「二人」という個体であり、外の世界は多様性ある個別、分離世界です。

面白いことに、ソウルメイト関係で一元を体験しても、一元たる自分たちと、そうではない(ソウルメイトに巡り合っていない人たち)という、「二元」が現れるのです。

とすると、ソウルメイトというのは、真の統合において、出会っただけでは完成していないのがわかります。極論すると、ソウルメイトは自分たちだけの切り離された統合感の世界と言えます。

ただ、一人の時の不完全性から、相手との融合感によって、本当の完全性を思い出すことができた場合、その時はソウルメイトと思えた相手を特別視することはなくなるのではないかと思います。

真の一元や統合のために、多大な貢献をしてくれる相手ではあったものの、それが達成されれば、相手は特別ではなくなる(分離てだはなく、統合、一元になるため)ということです。

ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや出会わないからこそ、完全性を取り戻していくチャンスもまた別に増えていきます。

完全性は、つまるところ、二元分離からの統合と言えますから、それは現実において至るところで経験できます。上述したように、現実は分離の世界がだからです。

現実が分離の世界であるならば、現実を超えたり、脱出したりしなければ統合にはならないのではという理屈になりますが、確かに、グノーシス的にはそういうことになるでしょう。

では統合とは現実逃避なのかといえば、これは難しい問いですが、そうとも言えますし、そうとも言えないところです。(笑) 

現実世界は基本、二元分離ですが、一元が許されない世界でもなく、いや、正確には一元の中に二元があり、その逆でもあると考えられます。(入れ子構造のようなもの)

わかりやすく言えば、マンション全体で見れば「ひとつの建物・家」ですが、号室別に見ると、100個も部屋と家がある、「たくさんの状態」という感じです。

言わば、観点・見方・見る目(レベルの違い)によって、見えてくる状態が違うということです。

ソウルメイトのような関係で、普通は分離した状態で体験する現実世界を、助け合うかのように、生きやすくしていくことは可能だと思います。

スピリチュアル的なファンタジーで言えば、生まれる前の魂の約束で、現実世界で巡り合った時、「生きづらい世の中で、お互い助け合おう、ふたつがひとつになれば、たとえ分離した世界でも、私たちだけは統合の力を発揮できる」としたのかもしれません。

ですが、ソウルメイト幻想に過剰に入り込みすぎると、おそらくそのような存在と感じる人に出会ったとしても、ふたりの間だけの融合感の至福性はあっても、一人の時では逆に不足感、無力感(相手がいないと完全ではないという思い)も強まるでしょう。そして、出会わなければ、ますます焦燥感に駆られ、これまた不足感が増します。

「二人だと完全」という思いは、一人での完全性の追求という観点から、はずれていくこともあります。

そうすると、ある種の縛りの中から脱出することができにくくなります。

統合は、逆に言えば、分離と対立した、もうひとつの状態といえますから、人のエネルギー(人間同士)だけでなく、物質にも、精神にも、あらゆるところで分離が見られるのならば、統合のチャンスはあるわけです。

ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや、出会わないからこそ、ほかの重要なことに気づいていくこともあり得るのです。

最後に、ひとつ、ソウルメイトはこの世(現世)で創造していくこともできるのです。

皆さん、過去とか前世にこだわり過ぎ、今生で出会った人の魂を尊重すること、そして新たに魂的にも、特別な関係にしていくことができるということを忘れています。

ひとつの魂の片割れ的な思いから抜けることができれば、魂のふれあう関係、支え合える関係として、一人だけではなく、幾人かの人を、ソウルメイトとして創造していくことができるのです。


Top