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「縁」の良し悪し、扱いとレベル。
マルセイユタロットの「恋人」カードと「運命の輪」のカードを並べると、ほとんど人間の運というのは、実は縁(えん・えにし)でできていると感じます。
この縁というのは、もちろん人間同士がつながる縁とも言えますが、人間以外の存在やモノとのつながりも意味しています。
このふたつのカードでも、人間以外の存在が描写されていますし、そのことが、縁の運びや繋ぎ、さらには断ち切りについても、関係していると考えることができます。
しかし、私たちは「縁」について、何かしら、現実(見えるもの)を超えた働きがあるだろうことは想像していても、実際には、自分が働きかけたり、人から働きかけられたりして、つながるものと認識します。
つまりは、現実的に普通の「人間」が動いて縁が生じるということです。
このことは「恋人」カードでも象徴されており、絵柄の下の三人は、人間同士の実際の働きかけ、行動を示していると考えられます。
そのため、昨今の効率主義やデータ主義、成功や勝利を目指す傾向の人たちにおいて、縁結び、いわば人間関係においては、自分のためにならない人とは交流しないという態度の人もいるようです。
確かに、ある目的をテーマとした場合、その達成のためには、効率のよいつきあいや交流というのもあるでしょう。会って話していても、何の得にもならない、時間の無駄だという状態(関係)を避けるという選択です。
人生は平均80年だとしても、時間・寿命は限りあるものですから、一刻も無駄にはできないというのもわかります。
一方で、ダメとわかっていてもズルズルつきあってしまう関係、一般的によいとは思えない人との縁、切ろうとしてもなかなか切れない縁など、言ってみれば悪縁・腐れ縁みたいな選択を続けてしまう人もいます。
後者(悪い縁をつないだり、続けたりする人)のほうはダメ人間で、前者のほうは、無駄を省いたつきあい方と縁を結んでいくので、成功する可能性も高く、一般的に見て望ましい態度と言えるかもしれません。
しかし、目的のために効率よく縁を結んでいく人は、それは結局、自分の得になる人間関係か損する人間関係かで、縁を推し量っているところがあるのではないでしょうか。
この損か得かという観点は、自分にとっての「ある価値観」を基準にした二元判断であり、必ずしも、その価値観が絶対的に続くとは限らず、成功か失敗か、いいか悪いかのふたつの相克観点からなかなか逃れることができません。(気が休まらない)
自分の望む縁が結べたり、いい関係ができたりすればよいのですが、そうならなかった時の焦燥感や挫折感も大きなものになるおそれもあります。
片方を求めれば、もう片方が捨てられことになるのは明白であり、その捨てられたほうの世界に、実はもっと違った意味での良さや成功も隠されている可能性もあるのです。
自分が無駄と思っていた人との縁やつきあいの中に、自分を飛躍的に成長させるものがないとは限らないのです。
けれども、だからと言って、悪縁や腐れ縁を続けてよいということでもありません。
こういった悪い縁というものには、よく霊的なことや過去生データのようなものを心配する人がいますが、ほとんどは自分の心理的な要因が影響していることが多いものです。
※自分の思ういい縁に対しても、変にスピリチュアル過ぎる見方をする人も注意です。
たとえ霊的なものの影響があったとしても、やはり心理的・肉体的なコンディションと環境に、まずは注意を払ったほうがいい場合があります。
縁(の影響)でひとつ大切なのは、ほとんどは、自力(と他人のサポート)で何とかできるということです。
悪縁は自分で断ち切ったり、そういう縁を呼び込む心理的・肉体的パターンを、セラピストなどから気づかせてもらったりすることができるのです。
反対に、ある目的のためによいと思われる縁を結んでいくことも、自分の行動として、現実的に何かできるはずです。
タロットなどする人は、やたらと超越的な他力(スピリチュアルな何かのようなもの、超越存在など)を頼りたがる方がいますが、こと、マルセイユタロットにおいての示唆は、まずは自力と現実の周囲からということが求められているのです。
その上で、次の段階も示されています。
効率のよいつきあいや縁だけを大事にするという態度と、誰でもダラダラとつきあいをしてみたり、腐れ縁・悪縁を続けてしまったりする態度とは、真逆の関係にありますが、どちらも実は、人間だけを見ている縁と言えます。
人間だけ、目に見える範囲だけというのが普通の人の縁に対する見方と行動になるのですが、縁というのは、もっと奥深く、時間と狭い現実的な世界観を超越したものでもあります。
悪縁にひかれる傾向、つかまってしまう傾向の中に、大きく自分を霊的に成長させる何かがあります。
それは一般的価値観や、普通の占いでの運の良し悪しさえ超える、魂の求め(因縁と浄化にも関連)に関係します。
そして目的達成の効率を求める縁の過程では、計算通りには行かないことが時には起き、自らを混乱に貶めます。その後、自分を縛っていた、自分の作った幻想ともいえる「運命の輪」に気づいていくのです。
「縁は異なもの味なもの」と言われますが、まさに生きていてわかるものと死んでからわかるもの、さらに、この輪廻の果てを超えて見えてくる縁というのもあるのだと思います。
いわば「縁」とは自分のレベルいかんよって、縁のレベル(ネットワークレベルのもようなもの)の見え方、繋がり方も変わるわけです。
ちょうど、言葉だけでつながっているコミュニケーションと、インターネットや電波を通して、見えないものでもつながっているコミュニケーションとの違いのようなもので、どちらも同時に存在していますが、そのネットワークレベルにつながっていないと、あるいは使えないと、存在しないに等しいものなのです。
どの縁も、ある世界(レベル)においてはいい縁と悪い縁に分かれますし、それを意識した生き方もありでしょうが、またそれらを超えたところでは、いいも悪いもなく、もっと言えば、すべての縁は愛(神であり自分)だということもできるでしょう。
「罠」と「出口」として見るカードの読み方。
タロットでは、カードをそれぞれを吉凶的に見る人が多いようです。
吉凶的に見るというのは、あるカードはいいカード(吉カード)、そしてあるカードは悪いカード(凶カード)と判断する見方です。
これには、いいところと悪いところがあります。
よいところは、誰でもカードで占いがしやすいという面で、いわばおみくじのようなものですから、出たカードで問いにおける良し悪し、状況判断が一目瞭然です。
ですから、イエス・ノーとか、いいか悪いかなど、何かをを決めること、向き不向き、運不運のレベルで、何かをはっきりさせたい時にはよい見方と言えます。
しかし反面、カードにあらかじめ吉凶の意味を決めていますので、物事の両面性を推し量ることができず、複雑で統合的な見方を獲得することが難しくなります。
簡単に言えば、今の(よい悪いを決めている)価値判断基準から抜け出ることができにくいということで、言い方を換えれば、今のレベルにおいての選択ごとでしか、物事の処理や解決ができない意味にもなります。
これは、もっと上の視点や、本質的なものへの視点への移行が遠ざけられることになり、総合的な自己の成長という意味では、あまりよくないと考えられます。
そのため、私自身は、カードを吉凶的に見るやり方は採っていません。
ですが、カードを単純に吉凶的に見るのことではないものの、少し似たような感じのものとして、カードを二つの面から読む方法もあります。
これはカートを吉凶的に見るやり方と、カードをフラットに見るやり方との、中間的な方法と言えましょう。
それはカードそれぞれに、物事の出口(解決)とトラップ(罠)があると考える方法です。
わかりやすく言えば、カードには、ポジティブな面とネガティブに考えられる面とのふたつあるという読み方です。
まあ、これは別に珍しくもない方法で、吉凶的にカードを見るやり方でも、たとえば凶カードとされているものの中にも、ポジション(正逆やスプレッドの位置など)によっては反対によい意味になることもあるとか、ある状況では、凶が吉に転じるとか、読むこともあります。
ただ、それとは少しニュアンスが異なるのです。
例えば、「運命の輪」というカードがあります。
普通はその名の通り、運命や流れがうまく回っている、乗っているというような読み方がポジティブな面では出ますが、もう一面から見ますと、悪い流れにはまっている、自分ではわからないシステム(輪)の中にはめこまれ、脱出ができない状態(あるシステムに気づいていない状態)と読むこともできるのです。
いいことを逆に読めばいいだけでは?と思うかもしれませんが、確かにそうなのですが、それもやや、この読み方の本質とは違います。
特にネガティブ面を見る場合は、「トラップ」「罠」と見ますので、いわば、私たちが動物のように自然の野山を駆け回っていても(つまり生活や人生を送っていても)、そこかしこにトラップが仕掛けられており、それは自分では見えないことが多く、いつのまにかそのトラップに引っかかってしまい、それが問題状況やうまく行かないことの要因となっているとし、そのトラップ・罠がカードそれぞれで象徴されているというものです。
なお、トラップは、「人が作り出すもの」と「自分が作り出すもの」、さらに環境や社会として「一種の世界が作り出しているもの」があります。
また一例を出すと、「法皇」というカードは、言葉やコミュニケーションが生み出すトラップであり、特に洗脳や敬意の過剰、あこがれ・自尊などとも関係し、「悪魔」のカードより弱くても、身近にあるトラップとして検証できます。
そしてまた、こうした罠を抜け出る仕掛み自体もカードにあり、それが出口とか解決を呼ぶものになります。
そのことを一枚のカードで象徴すれば、「吊るし」となるのですが、「吊るし」はおそらく、一般のタロットでは、「吊された男」とか「吊され人」とかの名前で、それこそ逆に、罠にはまって身動きがとれない状態としてしか見えないかもしれません。
それでも、そこには出口や解決策があると見ることが可能です。
そして、この世界全体が罠そのものとも言えるのですが(笑)、そのことは難しく、通常の人では混乱しますので、講座などでお話することにしています。
自分を中心として設定し直す。
今日、タロットを見ていますと「皇帝」や「力」のカード強く出てきました。
そして、それらから、「自らが主人公になる」ことのメッセージを受けました。
当たり前の話ですが、人は誰でも、自らの人生においては自分が主人公です。
しかし、意外にも、そのことは当たり前すぎて、かえって意識することがありません。
それどころか、いつの間にか、他人が主人公のように思ってしまう人生を歩んでいる場合もあるものです。
「いやいや、普段意識はしていなくても、自分が中心だという思いはありますよ」
ということを言う人もいらっしゃるでしょう。
けれども、どうでしょうか。
私たちは、多くの場合、他人と比較し、自分の劣っているところを気にしたり、人を羨んだりしています。
そうでなくても(人と比較する意識が強くなくても)、このあまりに複雑で巨大と思える社会と仕組みの中で、自分の役割や使命、貢献感といったものはゼロに等しい、まったく埋もれてしまっている存在(存在感のなさ)だと感じている人もいらっしゃるのではないでしょうか。
つまりは、自分が主人公ではなく、他人か、主人公そのものが不在という状態に感じているわけです。
たまに自分に中心が戻ってくることはあって、忙しく多様な社会にあっては、またすぐに自分を見失い、というか、消えてしまい、空虚な物語を演じるか、他人が主人公のストーリーに身を投じる(意識の中心が外に向かう)ことになります。
ですが、もう一度、当たり前のことを思い出し、自分の人生は自分が主役で、自分が中心としてすえられているのだと自覚することです。
自分がいなければ世の中は何も始まらないし、終わりもないし、そもそも発生すらしないのだというくらいの意識です。
なぜ、今の人たちがこのような、自分を主人公として実感しづらくなっているのかは、いろいろな理由はあると思いますが、タロット的(古代象徴的)に見れば、歪な客観性の世界観が普通となってしまったからだと言えます。
これは、占星術・天文学的に言えば、天動説から地動説に置き換わったというようなものです。
物理的に(ただ見えるものだけの観点で)観察する思考をもってすれば、確かに地球ほか、各太陽系の惑星が太陽を中心にして回っているように見えますが、象徴的・精神的な世界観では、かつては地球、つまり自分自身を中心として星や宇宙が回転していたのです。
それは昔は科学が劣っていて、肉眼で観察する範囲でしかならず、ほとんど迷信の世界に陥っていたからだと一般の方は考えるでしょうが、次元を異にした見方では、自らを中心とした天動説的な宇宙観のほうがしっくりくることもあるのです。
どちらが霊的に見た場合に正しいかというような視点とも言えるでしょう。
いずれにしても、私たちは、おそらくどこか(の時代)で自分の立ち位置と他人の立ち位置が逆転して、他人視点でしか自分というものを実感できない客観世界を確立してしまったのが、逆に自立性や自身の存在感の確かさというものを希薄にさせたのだと感じられます。
自分は確かに宇宙の中心であり、また一部でもあり、だからこそ、全体からも欠けることのできない存在自身であるという実感が、ひしひしと昔の人はあったのではないかと推測できます。
今は、単なる機会のパーツのような感覚になってしまい、もしそのパーツが壊れても、ほかから補うことができると見られ、自分などいなくてもいいとさえ考えてしまう思考様態になるのも、無理もないと言えます。
しょせん、自分など、何の特技もなく、役にも立っておらず、一部の才能のある人、成功者が目立つだけで、自分はその人たちを輝かせるコマや飾り、材料のようなもので、空しいものだという感覚です。
しかし、自分中心の世界観を回復してくると、どんな役回りにあっても、ストーリーの中心は自分にありますので、ほかは逆に自分を盛り立てる要素という感じになりす。
ここで変な客観性(つまり他人目線・常識目線)を入れてしまうと、目立つ人が主人公になり、自分の役は端役であったり、目立つ人のための補助的な役だったり、時には消滅した存在とさえなったりします。
こう考えればよいです。
映画でもドラマで、サイドストーリーとか、スピンオフ作品とかがありますよね。
それは最初の主人公とは違った人に光が当てられ、別の人が主人公になったり、たとえ同じ物語でも別の視点で描かれたりします。
そうすると、今までかっこよくて、すごいと思っていた主人公が、実は敵役にもなったり、あまり目立たないことにもなったりするのです。
そう、結局は、実はどにもない、自分が勝手に想像して創り上げた他人目線や社会的評価みたいなものを取り入れて、幻想の客観性とも言えるもの(それは時にリアリティを持つこともありますが)で自分を見ているため、自分は主人公にならず、なってもたまにであり、ほとんど脇役のままになるのです。
というより、この場合、主人公は、その「怪しい客観性自体が人格をもったような存在」だと言えます。それは物語への観客的視点ではあって、演じている役者自身の視点ではないのです。
あなたの人生劇場の主役はあなた自身であり、演じているあなた(役者自身)なのです。
そちら側(役者)の視点を中心としてもってくることで、存在の評価を自分のほうに取り戻すことができます。
どんな立場や役でも、自分が主人公なのですから、たとえ他人のほうが客観的視点ではすごく見えたとしても、それはあくまであなた自身のストーリーを盛り上げるための脇役でしかありません。
こういう視点に立てば、目の前の今のことに集中しやすくもなるでしょう。
つまらない仕事や役をやらせているのではなく、それ(自分と、自分がやっていることそのもの)がドラマのメインであり、主役だと思えば、誰でもドラマチックなものになるのです。
つまるところ、自分を中心として、誰もが何もかもが、あなたの舞台を輝かせるための装置・設定として演出されており、どれひとつ欠けても、そのシーンは出来上がらないことを思えば、「すばらしきかな我が人生」という思いに、少しはなってくるでしょう。
自分を中心にした感覚を取り戻すには、流される環境(多忙でオートマチックに動く環境)や騒々しいところでは難しく、静かなところで、周りには何もないようなところが望ましいです。
そういう意味では、瞑想やリトリートなども効果があるでしょう。
現代は電気で星が見えにくくなっているのも、自分の中心軸感覚を失う要因のひとつなので、星がきれいにたくさん見える場所で、宇宙と自分を想像し、自らが中心だと意識してみるのもよいでしょう。
タロットへの質問はどうすべきか?
よくタロットリーディングでの話題となることのひとつに、タロットへの質問の仕方というものがあります。
占い風に言えば、占的(せんてき)の立て方ということになるのでしょうが、マルセイユタロットは占い活用から、自他の総合的発展に至るまで、様々な象徴性と活用を持ちますので、実は、この質問の問題についても多様性があるのです。
前にも質問のことについて書いたことがあるように思いますが、改めて、このことについて、ふれてみます。
タロットへの質問の仕方について、大きくわけて、ふたつの流れがあるように思います。
ひとつは、詳細に、できるだけ詳しく、的を絞って質問をしたほうがよいという流れ(説)。
そして、もうひとつは、質問は大まかでよいという、ラフな考え方の流れ(説)。
おそらく、多くのタロット教室、あるいは、教え方としては前者であり、タロットへの質問は、なるべきはっきりとして、具体的にしたほうがよいと言われているのではないでしょうか。
一般的に、占い分野でも占的のテーマは重要で、どれに、何に焦点を当てるのかによって、占い技術も読み方も変わってくるという先生もいます。
これは至極当たり前のことで、質問が抽象的で漠然としたものあればあるほど、人の意識や注意もそれに応じたもの(焦点がぼやけるもの)になります。
ですから、出たタロットの展開やカードについて注目しても、あやふやなままの質問では、どこにフォーカスすればよいのか、何について焦点を当てればよいのかが不明確となり、カードからの示唆も得にくくなるわけです。
従って、まずは、タロットへの質問は具体的ではっきりしたものであるほうがよいという答えになってきます。
ところが、人間とは面白いもので、言葉として発する質問が、本当に知りたいものとは限らないことがあるのです。
いわゆる本音と建て前というものもありますし、自覚しているものと無自覚なものとの、両方が人にはあるものです。
なるぼと、最初は確かに、言葉や文字で質問した内容のことを知りたいのかもしれませんが、自分の潜在意識にあるものや、無自覚ながら、実は問題の本質であるようなものについては、はじめのうちから言葉として、明確に出てくるものではありません。
転職したほうがいいのかどうかという質問をしたけれども、実は転職するかしないかというよりも、もっと別な、自分の自信の確立のことや、生き方、束縛と自由性の問題が本当にはあったということもあるわけです。
いわば、言葉として最初に出てくる質問、もしくは自分が意識している質問や問題とは、まだ表面的なもので、単に形式としてのきっかけに過ぎず、本当の問題は別にあるということは、結構あるのです。
ですから、質問を具体的に、例えばイエスかノーかで答えられるくらいまで細かく設定したとしても、逆にそのことで本質の問題が回避させられてしまい、単純な白黒問題みたいな次元に置換させられることがあるわけです。
言い換えれば、問いや質問を絞り過ぎたたために、表面的・形式的なタロットリーディングになるという危惧です。
ですが、質問をはっきりさせることは、タロットリーディングの学習の過程、リーディング技量の最初のプロセスとしては、重要なことでもあります。
いきなり、「問いは適当でもいいんだ」みたいなことでやってしまうと、先述したように、何に注目すべきなのかさえ不透明になり、ひどい時には、タロットを前にして、頭が真っ白になってしまいます。
要するに、こういうことです。
タロットの質問がそれほど詳細でなくてもいいのは、タロットの象徴性に習熟してきた段階であり、初級のうちになればなるほど、象徴と現実性の距離を近づけないと、タロットを読むことが難しくなるのです。
象徴と現実性の距離というのは、実際の質問や悩み・背景(それは現実的なものです)などと、カードの象徴(これ自体は抽象的なものです)が意味するものとの、両者をリンクさせることができるかという、そのスピードと距離です。
問い・質問が具体的であれば、頭の中には具体的なもの・人・背景・環境などがインプットされてイメージしやすいですから、何に着目すればよいのかとか、出たカードと質問とをリンクさせることは比較的容易になります。
これに対して、質問がおおざっぱのままだと、的が絞りにくく、どう読んでいいのかわからくなりますが、カードの象徴に慣れてくれば、象徴の多重性に気づいていますから、質問そのものよりも、カードが示している本質を読むほうが重要なことと認識されます。
また象徴の現実へのリンク性の距離とスピードは、初級者に比べて格段に短く速くなっていますから、質問を最初から具体的にする必要もなくなってきます。
究極的には、タロットへ質問はなくてもいい、というくらいに考えることもできます。
この場合は、むしろ、カードの示唆(展開から読み取れる象徴性)が、問題を指定する(クライアントも気づいていないかもしれない、重要な問題に気づく)みたいなことになります。
質問を細かくし過ぎると、タロットリーダーのみならず、クライアントも追いつめることになります。
一方、漠然とした質問過ぎると、何をリーディングしていいのかわからず、あやふやでフワフワとした抽象的なリーディングになります。
細かすぎて全体の言わんとしていることがかえってわからなくなっている人は、もっと質問をラフにすることであり、反対に、いつもポイントがずれてしまう、何を読めばいいのかわからなくなってしまうという人は、質問をもっと具体的にしてもらい、的を絞ったほうがよいです。
ほかにも質問についての注意事項は多々ありますが、それらは講座にてご説明しております。
「正義」タイプと「星」タイプの問題
タロットで人の相談をしていると、その問題の種類は様々ですが、ある基準において、二種類のタイプに分けられます。
そのひとつは、自分の行うとしていること、行ってきたことの正しさを求める相談、そしてもうひとつは、正しさではなく、自分を認めてほしい(承認や裏付け、後押しがほしい)という相談です。
仮に前者をマルセイユタロットのカードになぞらえて、「正義」タイプ、後者を「星」タイプと呼びましょう。
「正義」は正しさに通じますし、「星」は絵柄から見ても、女神のような存在が、優しく、すべてを受け入れ、エネルギーのような水を流して後押ししているように見えるからです。(「斎王」でもよいのですが、水の流れがあるので、「星」のほうがふさわしいように感じます)
実は両タイプとも、本質的には同じといえそうてすが、やはり微妙に異なるところもあります。
正義タイプは、自分は正しい選択を選びたい、自分が間違っていないことを確認したい人です。
ただその正しさというものは、自分の信じている価値観や世界観によったものとなり、本当の意味では、正しさというのは、別の世界観を導入すれば、無に等しいもの、どちらでもないものになります。
しかし、信じている世界観・レベルにおいて、正しい選択をしたい、間違ったほうには進みたくないのです。
それで、結局のところ、自分の世界観における「効率」や「結果」というものに、シビアに目が行きがちとなります。
これは男性、もしくは、男性性的な傾向が強い女性に多く見られます。
一方、「星」タイプは、正しいか正しくないかよりも、自分に存在価値があるか、今までやってきたこと、あるいはこれからやろうとしていること(方向性含む)が、ほかの人から見て否定されることなく、応援されたり、それはいいね!と言ってもらえたりするかという思いの人でもあります。
一般的に常識はずれなものであったり、ちょっとおかしなことであったりしても(つまりは正しくないと思えることでも)、「それでいいよ」「今のあなたでOK」という自分への賞賛・承認がほしいわけです。
まあ、つきつめれば、これも自分が正しいと認めてほしいことなので、正義タイプの本質に近いのですが、ある世界観での正しさを求めるより、自分の存在そのものの承認が中心ですから、正しいことよりも、自分の存在価値こそが一番の鍵になるという違いがあります。
これは女性、もしくは、女性性的な面の出る男性に多い傾向があります。
本当に自立した精神では、正しさにおいても、存在価値の承認においても、自分自身で選択と納得が行くものなのですが、なかなかそれも難しいことです。
正義タイプの人は、他人評価でのジャッジで正しいと多くの人に言われいる(評価されている)道を確認したいと思いますし、星タイプの人は、たとえ自分の中に決まっていることがあったとしても、それが他人から承認を得られることで、やっと自分(の選択、あり方など)に自信がもてるようになるのです。
人は、自分一人だけの世界では生きておらず、必ず他人のいる社会(世界)に生きていますから、他人の存在が、よくも悪くも重要になってくるわけで、他人からの働きかけ、他人からの反映が、自らを確立させるうえで、どうしても必要な段階があります。
ですが、正義タイプ、星タイプ、どちらにおいても、その構造に気づかず、いつまでも堂々巡りのように、同じことを繰り返してしまう場合があります。
正義タイプでの堂々巡りでは、正しい・正しくないという求めが、ひとつの狭い世界観でしか通用しない考えであることに気づく必要があり、そうしないと、まさに正しさと結果を求めてのラットレースの中にグルグルと回り続けることになります。
正誤の世界から抜け出す思考は、一言でいえば、グレーゾーンや割り切れないものにも価値と納得感を見出すことでもあります。未解決、未決着、放置もよしとするのです。
星タイプで堂々巡りに陥っている人は、もうすでに自分で選択できている、決めている事実を重要視し、それに自信を持つことであり、いわば癖のように他人への承認を求めてから動くというパターンになっているのを、勇気をもって壊すことです。
このタイプは成功と失敗とか、正しい正しくないということでの葛藤では本来ありませんから、そもそも結果はどう出てもよいのです。
本当は、うまく行かなかったことで自分が否定されること、自分が認められなくなることが怖いだけなのです。
誰もそれほどあなたのことを気にしていませんし、他人に承認を求めすぎると、逆にうざいと思われて、自分否定の波動を人から薄々感じてしまって、逆効果です。
他人への確認がないと心配な人は、象徴的存在(神とか天使とかをイメージしたもの)に仮託して、その存在に聞く、承認してもらうという形式を取ってもいいでしょう。そうやって、次第に他人への依存から離れていくようにします。
また、承認欲求を刺激させるSNSは、あまり見ない、やらないこともひとつの手段でしょう。
もちろん、ふたつのタイプにも段階と必要な状態はあり、一概に否定されるものではありません。
しかし、ふたつのタイプの罠にはまってしまっている人は、少しずつ脱出を試みて、自立した状態へと移行させていくことが求められます。
