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自分リーディング、他人リーディング
私は占い師ではありませんので(占い店で占い師の経験はありますが)、自分占い(自分のことについて占うもの)が可能なのかどうか、それについては言えません。
しかし、経験上、自分占いはなかなか難しいことだと思っています。
それと同様に、自分のことをタロットでリーディング(自己リーディング)するのも難しいという話があります。
それは確かにそうでしょう。
一般的に、自分のことを見る場合、文字通り、主観ですから、逆の客観にはなれず、中立・冷静に判断することは困難と言えます。
一方で、自分だからわかる(自分のことは自分が知っている、他人にはわからないところがある)という点もあります。
だから、このふたつのいいところを取れば、普通に質問者(問いをする者、クライアント)とタロットーリーダー(タロットを読み、クライアントを導き、支援する者)に分かれて、リーディングという行為がなされればよいことになります。
つまり、「客観」としてのタロットリーダーの示唆によって、自分でしかわからない「主観」としてのクライアントの問題が、まさにクライアント自身で気づくことになるというわけです。
よく「答えは自分の中にある」と言いますが、たとえ自分が答え持っていたとしても、それが答えであるのかは自分一人では実はわからず(気づかない、またはどれがよいのかわからない)、結局、他人との共同作業によって答えが見つかる(答えだと気づく、答えだと決める)のです。
これが分離しているのが基本の、現実社会の仕組みのひとつと言えましょう。分離しているからこそ、自分と他の人との融合によってたどりつけるものがあり、それが(あるテーマにおける一時的な)統合でもあるのです。
人は完全性(神性)や宇宙を内在させているとスピリチュアル的には言えますが、だからと言って、実際(現実)では、覚醒している全人的状態ではないので(分離・個の状態)、簡単によい答えが一人で見つかったり、一瞬で全能・幸福状態になったりしないのです。(一人でなれる場合でも、必ず、何らかの別の要素があって完全性が訪れます)
男女のペアなどが顕著ですが、例えば愛し合うカップルが至福感に包まれることがあるのも、男女統合による「全」的なものに移行する瞬間があるからです。
逆に言いますと、私たちは常に片割れ感、分離感があり、それは不足感のもとにもなって、モノや愛情など、電気のプラス・マイナスのように求めてしまうのだと言えます。
このあたりは、マルセイユタロットの「恋人」カードや「節制」が物語っているように思います。
何が言いたいのかと言えば、私たちは、この分離感によって悩むようできている存在だということと、だからこそ、一人だけでもがいていても解決しないことが多いという話なのです。
もっと言えば、一人引きこもっていても余計つらくなることがあり(ただ「吊るし」のように一人で籠る防御も必要な場合はあります)、他人、もしくは違う場所、環境、考え、思いなどにふれていく(交流する)ことで、統合的状況が訪れ、その問題やテーマにおいては満足する(つまり解決であり、完全性に戻ること)可能性が高まるでしょう。
私は、マルセイユタロット講座において、タロットリーディングの技術と意味をお伝えしていますが、他人リーディングに興味がなくても、少しは他人に対してリーディングしたほうがよいことをお勧めしています。
その理由は、上述したように、主観だけでは成長は難しく、客観が必要だからで、他人をリーディングすることにより、反対に、よりカードや自分のことがわかる場合があるからです。
もちろん、「自分のことは自分でしかわからないことがある」とも言ったように、自分自身で自分をリーディングしたからこそ気づくこともあります。
ただ、多くの人が誤解していますが、他人リーディングの技法(例えばタロットの展開法など)をそのまま自分リーディングに適用しても、難しいものがあるのです。
自分リーディングと他人リーディングは別モノです。
だから、自分を見るには、それなりの方法を取らないとなりません。その方法や要点は、私の動画(受講生用)や講座でお伝えしています。
マルセイユタロットを扱ってきますと、私たちがいかにひとつの視点でしかものを見ていないのかがわかります。
少なくとも、両方向は必要ですし、さらには、三つ、四つの視点も入れて、多角的に見ることで、物事の本質が浮かび上がってきます。
タロット占いでは、視点とか価値観がひとつであることが多いので、どうしても画一的なものになり、また二元的な良し悪しで判断してしまう傾向が強く出ます。
タロットの意味も、「単語」として覚えてしまって、「象徴」という機能が使いこなせないことになりますし、最初に述べたように、自分を占うことができにくくなります。
やはり、占いではなく、タロットリーディングとして、様々な視点、観点、見方を持って、考察していくことが、よりタロットを活かすことになろうかと思います。
自分へのリーディングも、技法を変えればできることになります。(ただし、占いのような、いい・悪いの鑑定・判断を求めると、自分リーディングも困難になるのは言っておきます)
最後に、ひとつ、意外に小アルカナは自分占いには使えるということは指摘しておきます。
実は大アルカナは自分を見るのに不向きなところがあります。しかし、逆説的ですが、真の意味では、大アルカナは自分を見るためにあるのです。
何を言っているか、わからないかもしれませんが、あえてそんな不思議な表現をして、今日は終わります。(笑)
マルセイユタロット講座とご感想
最近、マルセイユタロット講座へのお問合せがちらほらありますので、講座に関してご案内しておきます。
まず、基本的に、私のタロット講座は、タロットを全く知らない人でも、ほかでタロットを学習した人でも誰でも対象になるものです。
ちょっとこのブログが小難しいことも書いているせいか(苦笑)、「私、タロットを知らない初心者ですけど、大丈夫ですか?」みたいに聞かれる方がいらっしゃいます。その心配はまったく無用です。むしろ、何も知識がないほうが、変な偏りがなくてよいくらいです。
同時に、他所でマルセイユタロットを学んだという人でも、希望する部分を強化したり、補足したりすることもできます。その場合は、本来のカリキュラムに、すでにご存じの部分・学習済みの部分を省き、その代わり、もっと学びたいところ、知らなかったことなどを、時間をかけて教えていくことができます。
ただ、たいていは、結局、学び直しみたいになることが多いです。ですが、学び直し(繰り返すこと)だからこそ、より理解も深まりますし、確実に自分のものにしていくことができるのです。
基本は、基礎講座(基礎コース)というものになり、今はオンライン(Zoom)のみです。マンツーマン、個人講義形式であり、お一人に毎時間(一回につき2から3時間)、じっくりと講義していくスタイルとなります。スケジュールの組み方も自由で、決まった曜日でなければならないということはないです。(時間帯の制約はありますが)
それにタロット以外の知識もかなりの量で伝達していくため(タロット以外の知識は自由選択可)、全課程は40時間程度(人によってはそれ以上)の長期的なものになります。
マルセイユタロット講座で、ここまでお一人様に対して濃密に講義しているものはないと思います。
一対一なので、その人に応じたものにすることも可能で、だからこそ、初心者から、すでにマルセイユタロットを一度学習した人でも、可能になるのです。当然、講座中もタロットを展開して、自分を見て行くこともしますから、言わば、自分と向き合う貴重な時間となり、自己受容や自己変容が伴って、終わる頃には認識の変化(それに伴う現実の変化)、自分がバージョンアップしたことを実感します。
マルセイユタロットの基本的な象徴知識はもちろんのこと、秘教的歴史、リーディング技術など、多岐にわたって講義します。マルセイユタロット講座では、大アルカナだけというところも少なくありませんが、この基礎講座では、きちんと小アルカナについてもお伝えし、その使い方についてもわかりやすくお教えします。
特に小アルカナの使い方は、私が研究したものが含まれ、どこにもないオリジナル性があります。
そして、終わってからもいろいろと特典があります。
マルセイユタロットの学びで困るのは、実は講座後なのです。ほかのタロット、例えばウェイト版と違い、マルセイユタロットは日本ではマイナーです。従って、どこで継続的に学び、技術を向上させていけばよいのか適切な場所とか講師が見つからず、悩まれている人も出てきます。マルセイユタロット学習難民(笑)みたいな話です。
私のところで学べば、終わったあとでも、講座の勉強会、メルマガ、動画視聴、個人的な相談、仲間同士の交流など、様々な場・機会を用意しております。そのほとんどが無料です。公開していないので実際に見てもらえませんが、その質と内容には驚かれると思います。
では、少し前に私のオンラインマルセイユタロット講座を卒業された方のご感想をご紹介いたします。
東京都のUさんのご感想
『当初は終活目的で始めましたが、終えてみて実感するのは、「終活などしている場合ではない」という思いです(笑)
若い頃は活発に動き回り、積極的、前向きに人や社会とかかわりな
その後、子が成人し、気が付けば還暦間近となり、やっと得られたアルバイト仕事で社会復帰をするも、若さは去り、以前のような輝く世界には戻れず、不安 焦り 諦め 老いや死への恐怖という中で数年過ごしておりました。ああ、このまま人生が終わってしまうのか、という絶望に近い状態
もういいや、という投げやりな気分だった頃に突如起きた新型コロ
「人生では必要なことしか起こらない」とは言いますが、私にとってこの出会いは必然であり、必要不可欠なものだったと言
結果として、この一年で得られた最大のものは、内的環境の安定で
本当にありがとうございました。』
マルセイユタロットを学ぶきっかけは様々です。それでも、誰もが、何らかの学ぶ意味があってのことであるのは間違いないと思います。(あとで真の意味がわかることがあります)
このマルセイユタロットは、「タロットが人を選ぶ」とも言われます。日本語で言えば、とても「縁」というものが重要で大切なものなのかもしれません。
ですから、無理に学ぶ必要もありません。違和感があれば止めておいたほうが無難です。また私の講座では、タロット占いの伝達はしておりません。だから占いを学びたい人、スピリチュアルなことで現世利益を得たいとか、他人が評価する幸福を求める人にはまったく向いていないと言っておきます。
お話したように、講座は一対一の個人講義形式ですので、枠がもともと少ないです。そして一度埋まると、終わりまでに時間を要しますので、空きが数カ月、半年以上先と言うことにもなりかねません。
まあ、この方法ではまったく非効率で、ビジネスとしては問題なのはわかっていますが、このスタイルがマルセイユタロットを学ぶのに合っていると私は考えていますし、タロット講座はビジネスというより教育的事業で、それに対してお布施的なもの(笑)をいただいているという認識ですので、このようにしています。
現在、講座枠は残り僅かですから、ご興味のある方は、お早めにご連絡ください。
節制」の天使、救い・救われること
今日から9月ですね。
さて、本日、マルセイユタロットから浮かんできたのは、「節制」からのメッセージでした。
「節制」は、天使姿の人物が、ふたつの壺を持って、液体を注ぎ入れているような絵柄です。つまりは、「天使」「ふたつの壺」「液体、水」というようなところが重要な象徴となっているわけです。
今回はこのうちの“天使”に関わるもので、「救済」がテーマとなります。
マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型を表しているという説があります。もう少し別の柔らかな言い方にしますと、自分の中にある22枚の性格、姿、キャラクターなど示すと言ってもよいです。
その考えでは、誰しも「節制」という一枚が、心の中に住んでいるのです。
ならば、「節制」の天使の意味から出て来る、救いや救済というものも、人の心にあるわけです。
私たちは「救われたい」という思いと同時に、「救いたい」という思いも持ちます。おそらく、人間は、この両方を欲求として持っていますし、どちらも満たされないと、充実した感覚にはならないのだと思われます。
苦しい時、ピンチや危機に陥っている時は、助けてほしい、救ってほしいと願い、自分に余裕のある時、またそうではなくても、困っている人を前にした場合、やはり、たいていの人は助けたい、救いたいと思うものでしょう。
意外に感じるかもしれませんが、いつも救われたいと思っている人でも、反対の、救いたいという思いも奥底では持っているのです。
言ってみれば、助けられるだけの存在ではダメで、私も誰かを助けられる人になりたいという願いが込められているわけです。つまり、救いたい欲求の反動で、救われる立場を自分に演出するという状態です。
それは、救いたい(という思い)がために、救済の状況・場面に自分を置いて、救い・救われの循環の中からはずれないようにしているからたと考えられます。
この救い・救われという構造は、よく考えますと、二元分離であり、救いたい人が満足するためには、救われなければならない人が存在しないといけないことになります。
決して、片方だけの存在で救済は成立しないわけです。
ここに救いの落とし穴があります。
救済願望、救済のループ(救う者と救われる者の繰り返し)の中で、自分の欲求を満たし、自己の存在(自分が自分であることの証明)を立たせる人がいるのです。
特に、「救われたい」と思っている人の中に、「救いたい」願望(欲求)が隠されているケースがあるのでやっかいなのです。
救い・救われという二元構造の中では、片方だけでは成立しないことは言いました。
ゆえに、どちらの場合であっても、反対側の願望や欲求が隠されていることがあり、救われたいには救いたいが、救いたいには救われたいがあって、セットというわけです。
では、救いたい気持ちも、救われたい願いも、持たない方がよいのか?と言えば、そうではありません。
と言うより、現実次元、肉体をもって一人一人違う自分という意識を持っているこの世界では、むしろ、救い・救われに分離するのか当たり前で、どちらか、あるいは両方の気持ちを持ったことがないという人は、ほとんどいないでしょう。
ということは、この現実世界は、そうなることが設定の世界だということがわかります。
そういう設定ならば、そうしなくてはならないと言いますか、それを経験することがデフォルトみたいなことです。
この構造から逃れようという考え方もありますが、ひとまずは分離体験を味わい、自分が救う側に回るもよし、救われる側に回るもよしとしてみてもよいのではないでしょうか。
それは一種のゲームであり、役割と言えます。
だから人を助け、救う立場をやってもいいですし、そういう人が出ることは、反対の、救われる者、助けられる者がいてこそですから、その立場になるのも必然で、自分は、時と場合によっては、助けられる側になればいいわけです。
しかし、注意しなくてはならないのは、先述した、自己存在のためのアピールのような理由で、救い、救われるものになり過ぎるのは問題だということです。
「救ってあげている(救うことのできる)自分はえらい」とか、逆に、「私は救われてやっているんだ」とか、「助けてもらわないといけない、か弱い存在なんだ」と、助ける者に依存する状態とかを言います。
一般的には助けられ過ぎることには非難がありますが、いわゆる「お節介」という言葉があるように、助け過ぎるのも問題で、あまり言われないか、やっている本人に悪いことの自覚がない(むしろ親切でやっていると思っている)場合が多いです。
お節介は、本来ある相手の力と責任をスポイルすることになり、自立を遅らせてしまいます。典型的な例では、過保護な親とか、一見、優しいようで支配的な上司などにありますね。
ともあれ、「節制」の天使と言えばよい印象になりますが、天使も行き過ぎれば人を堕落させてしまいます。(それは天使というより、悪魔みたいなものですが)
救い・救われ欲求に気をつけながら、この現実世界での救済ゲームに、立場(救う側、救われる側)を入れ替え経験するということは、おそらく霊的な成長のためには必要なことだと考えられます。(救い・救われの感情エネルギーの交流は、すさまじいものがあるからです)
ひとつ言っておくと、神からの救い(神によって救われる)次元ではなく、私たちは、まず人同士の救いの次元を厚く(熱く)経験する必要があるのではないかと、これからの時代については特に思います。
マルセイユタロット 三つの世界
マルセイユタロット、特に大アルカナでは、その構成上、3と7という数が基本となっています。(様々な見方、説があるので、異論も存在します)
今回はそのうちの「3」について考えたいと思います。
さきほど、「7」という数も出しましたが、「7」という数は「3」と「4」の数にも分かれます。
ですから、「3」を考えるには、「4」という数と対比させることで、その性質が浮かび上がることになります。ただ、そのためには「4」への理解も必要で、そうなりますと、もはや、タロットというより、数秘術的な話になってきます。
ここでは、数の話、数秘術を語るわけではないので、詳しいことは省きます。
ただ、「3」と「4」は相対されて、その合計が「7」となっているという構造には秘密と言いますか、マルセイユタロット的にも大いに関係してくる話だということです。
例えば、そのふたつの数をそれぞれに持つ大アルカナと言えば、3「女帝」と4「皇帝」があげられますが、この二人は、ある意味、夫婦であり、カップルであり、別々でありながら二人で一組という特性を持ちます。
「女帝」に3、「皇帝」に4がふられていることに、そのカードの象徴性を思えば、意図的なものであるのがわかりますし、数を詳しく知らなくても、何となく、3と4の意味合いも見えて来るでしょう。
さて、「4」は置いておきまして、「3」に戻りますと、そういうカード単体の数だけではなく、大アルカナ全体としても3の構成を見て取れます。
カモワン流とか、ユング派の(マルセイユ)タロット考察ではおなじみの、大アルカナの3段7列構図というのがあります。
これは大アルカナを横3段、縦7列で構成させるものです。そうすると、都合21枚になりますが、大アルカナは22枚で、あと一枚は「愚者」として、その図とは別のところに配置します。「愚者」は数を持ちませんから、こういうことが可能になるのです。
この構成では3も7も出るわけで、何かしら、3つや7つの段階や階層があるような図として見ることができます。
ここで3つのものにフォーカスしますと、3つのレベル、階層、段階、世界などとして、3視点を持つことになります。
改めて3というものを考えますと、まず、時間感覚、時間のとらえ方というのがあります。すなわち、「過去」「現在」「未来」という見方です。
この3視点があるからこそ、私たちは時間の流れを、まさに「経過」として見る(思考する)ことができるのです。
ほかに、スピリチュアル的にはよく例えられる、スピリット(霊・魂)、マインド(精神・心)、ボディ(肉体・物質)という3つのとらえ方があります。
また、宇宙、世の中の生成の観点では、創造・維持・破壊、あるいは始まり・頂点・終わりというような流れで見ることもできます。これらは、それぞれをつかさどる「神」として表現される宗教や文化も結構あります。
同じような流れとして見れば、「原因」「過程」「結果」という3つもありますね。そして宗教と言えば、キリスト教の三位一体も3が出てきます。
ほかに一般的な見方でも、基本(初級)・応用(中級)・独自(上級)というような段階も3つと言えます。
何事も、大きな分け方としては、陰陽とかの二元(ふたつ)がまずありますが、上記で示したように、次には3つの分け方、見方が登場し、そして4へとつながるのが、タロットにおいても象徴的に示唆されており、とても重要な数の分類です。(四つの基本数、四つの基礎的段階)
そうしますと、2と4の間でもあるのが3ですね。(本当は数秘的には、1と3、それに対する2、そして4という風に考えることも必要なのですが)
3は数秘的な意味では、創造(裏では破壊)ということになっていますが、それは1という完全性から、2、二元(ふたつの分離)状態になり、そこをさらに統合しようという第三の視点が現れる(第三番目が新たな創造点になる)からでもあります。
3は創り、壊す(2の世界を創り変えるため)段階であり、先述したように、対立したふたつを結びつけ、調和させるものでもあります。
ふたつの間に入るものということでは、3は重要なポイント、調整・調律点にあると言えます。
見えるものと見えない世界、光と闇、白・黒、善と悪、理想と現実みたいに、単純にふたつの見方だけに分けてしまうと、その間、過程、段階、グレーゾーンというものが消えしまい、デジタル的なオンオフ感覚で支配されることにもなりかねません。
言い方を換えれば、単純な二元論は、ますます対立を増長させ、全体(統合)が見えなくなってしまうのです。だから、間を取り持つ3という数と視点が大切になってきます。
ところで、仏教の天台宗では、「一心三観」という観法があります。
簡単に言えば、世界を三つで見て行く方法ですが、その三つとは、一切の存在を空(くう)と見る「空観(くうがん)」、仮の現象としてあると見る「仮観(けがん)」、そのどちらでもあり、どちらでもないと同時に見る「中観(ちゅうがん)」というものです。
この考え方と言いますか、見方は、非常にマルセイユタロット(の三つの観点、分け方)になじむと思っています。
また変にスピリチュアルに傾き過ぎたり、逆に現実的過ぎて囚われてしまったりすることなく、バランスを保ち、自己を調整させていくのに、とても有意義な観点だと感じます。
例えば、空観に傾いている人は、ひところ話題となった非二元論(何も分離せず、ひとつだけの世界という見方)の短絡的な思想に似ている(非二元論が悪いと言っているのではなく、それを浅はかに見てしまう人が問題と言っています)ように思いますし、資本主義、競争世界の中で、物やお金、能力による勝ち組を目指す考えは、現象を本当に実体として見てしまう「仮観」的な過剰だと考えられます。
マルセイユタロットの大アルカナも、象徴を理想的なものとして見過ぎてしまうと、あまりにも抽象的世界に飛躍(妄想・逃避)してしまい、「何もない」という、「無」で、感動も心も何もないような、妙な悟り感覚になってしまうおそれがあります。ニヒリズム、あるいは現実逃避に近いものでしょうか。
また占い的に現実での吉凶判断、現世利益を求めるためのツールとして使うようになってきますと、さきほど述べた「仮観」の世界にどっぷりつかることになってしまいます。
よって、空でも仮でもない、中観的な見方も入れて、大アルカナの象徴性を活用するとよいかと思います。
これも、よりよい「3つ」の視点と活かし方かと考えます。
私の講座では、このマルセイユタロットにおける3の視点を、より詳しく、また理解できるように解説しています。
現代人の陥りがちな盲点と同時に、精神や霊的なことを学ぶ人にも罠となる仕掛けが、3つの視点によって、よくわかるのです。
一方、小アルカナでは4の視点が重要になってきます。結局、3と4で、初めに戻りますが「7」になること(ある意味では、「7」を超えること)が、マルセイユタロットでは求められていると言えましょう。
※秘密情報として(笑)、「運命の輪」と「審判」、つまり10の数を基本とする大アルカナカードには、3と4との世界をリンクさせる仕掛けがあると言っておきます。
「運命の輪」のループと繰り返し
マルセイユタロットの「運命の輪」
大アルカナの中には不思議な絵柄であるカードは少なくないのですが、この「運命の輪」も、なかなか不思議です。
たいていは、人の姿(それは必ずしも「人間」を表すわけではないとしても)が描かれていることが多いものですが、「運命の輪」には、動物(らしきもの)と輪という機械がメインとなっています。
そこからしても、異質だと言えます。
このカードの象徴性や意味はいろいろと考えられるのですか、今日は「輪」に注目したものにしたいと思います。
「輪」と言えば円とか回転がイメージされます。
円の場合、中心と円周、さらにその外側という構造があり、簡単に言えば、内と外があるわけです。
そこで、内(あるいは円周)にずっといる状態と、円の外に出ている状態とが想定できます。実際「運命の輪」でも、円周に乗っている動物と、円(輪)からはずれ、円の外に出ている動物とに分かれた描かれ方をしています。
ここから、円や輪に閉じ込められている者と、そこから脱出している者という構図が思い浮かびます。
ところで、日本のアニメには、ループもの(同じことが繰り返される状況が続くもの)がシチュエーション・物語として結構あります。
今は夏休みですが、夏休みのループものと言えば、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベル原作のアニメが思い浮かびます。
ネタバレになりますが、そのアニメの「エンドレスエイト」という話では、夏休みの8/17から31までの間を延々と繰り返す(8/31が終わる時にリセットされて、またスタートの8/17に戻される)というループ話がありました。
ちなみに、アニメ放映時には、このループを表現するために、同じ話を8回繰り返したという、今や伝説みたいなネタにもなっています。(すべて見るのはかなり苦痛ですが、全部見ないと、のちに作られた劇場版の本当の意味が体感できないことになっています)
以前も書いたことがありますが、私たちは、この話ではありませんが、何かのループに、はまり込んでいるのではないかという思いに駆られることがあります。
それは個人それぞれのループもあれば、全体としてのループもあり、言ってみれば、私たちは二重のループ(あるいはもっと何重にもなるループ)を経験している最中ではないかという疑いがあります。
「運命の輪」に描かれている「輪」も、よく見るとおかしな輪であり、ループがあるとすれば、単純なものではないことが伺えます。
「輪」は回転していると言いましたが、この回転性があるからこそ、繰り返しが起こっていると言え、また同時に、輪の中にいることや繰り返されていること(動きがあること)が、当たり前のようですが、輪の中にいることでわかりづらくなっていると推測されます。(電車に乗っていても、振動等を無視すれば、外の景色が見えないと電車が動ているのか止まっているのかに気づかないのに似ていますし、そもそも電車の中にいることが自覚できない状態とも言えます)
こうして書くと、ループで回っている状態というのは、悪いことのように思えます。
果たしてそうなのでしょうか?
ループをさせているのは、それこそ「運命」という何か大いなる力とか、私たちには計り知れない神のようなものなのかもしれませんが、本当は、私たち自身ではないかということも考えられます。
マルセイユタロットを見てきて思うのは、結局、私たちは、自分が望んでいるものをすべて体験しようとしているということです。
それが普通の意識ではわからないのですが(むしろ望みとは逆のこととか、経験したくない嫌なことだとかとして思ってしまう)、奥底の部分では、同意しているか、それを望んでやっているかもしれないのです。
比喩的な言い方をすれば、神(宇宙)と自分との創造作業であり、それは神の意思でもあり、自分の意思でもあるということです。
ではなぜ、わざわざ何度もループをしているのか、そういう演出を自らさせているのかと言えば、さきほども述べたように、自分がしたいからにほかなりません。
アニメ「涼宮ハルヒ」の話では、ループをさせていたのは自覚なきハルヒでしたが、私が思うに、実はキョンとか、ほかのメンバーも、ループを望んでいた部分があるのではないかと思っています。(アニメを知らない人には、わからない話ですみません(苦笑))
ただし、いくら自分が望んでいるとしても、次第にループと繰り返しが続くと、そのおかしさ・違和感に気づいてくるようになります。
それが、自分にとっての現象(望まない現実の)問題という形で現れ続けて来るようにも思います。
いわば、「もう、ループや繰り返しをする段階ではなくなってきている」という(自らの)知らせでもあるでしょう。
ただ、悪い現象だけではなく、惰性的な、ぬるま湯みたいに繰り返される、一見平穏な日常も問題の場合があります。
ゆでガエルの例えではありませんが、このままだと、やがて破滅を迎えてしまうのに繰り返しをしてしまうという選択です。
つまり、悪い問題(現象)が、本質的には同じこととして繰り返されていると気づいてくる状況と、一見安定していて、よい状態がこれからも続いていく(本当は続いてほしいという願望)と思われる現象において、実のところは、「いや、このままだとやばいんじゃね?」と気づき始めてくる状況との、ふたつのループへの気づきがある(起こって来る)ということです。
どちらにしても、自分の中では「このままではいけない」という思いが、以前より、だんだんと強くなってきており、それがループの終わり、ループからの脱出の時期が来たことを告げていると言えるのかもしれません。
「運命の輪」は数でいうと「10」であり、数秘的には終わりと始まりも意味します。
大アルカナは22枚ありますが、「愚者」と「世界」を別格のものとしてふたつのグループに分けると、ひとつのターン(1から10)が終わるのが「運命の輪」であり、新たに11「力」から20「審判」までのターンが始まる重要なポイントになります。
ここからしても、ループがある程度繰り返されてきて、自分にとって十分な経験が積まれると、次の芽が現れはじめ、これまでのループにおける次元やターンは卒業していき、次なるところへと移行すると見られます。
しかし、ループの卒業を自覚し始めていても、自分ではめた罠を出る方法を忘却している自分もおり(どっぷりと現実に囚われた意識)、さらには思い出すことを妨害する自分(と、ある種の世界勢力)がいて、出ようにも出られない葛藤や苦しみが増すこともあると考えられます。
それでも、出る意識を持てば、しゃれではないですが、円によって縁が運ばれ、出口に導かれることもあるでしょう。
私たちは今、個人だけではなく、全体的で巨大なループからも出なくてはならない時期に来ていると言えます。
それは個人の気づきの集合的な力で、さらに脱出への機会(チャンス)が増えると想像されます。
「運命の輪」の輪と一緒に回っている動物二匹の意識でいる限り、私たちはループから逃れられません。それは、自分にとって、よい・悪いと思うことを、そのまま起こる現象として受動的に経験する姿勢とも言えます。
ああ楽しい、ああ苦しい・・・という、人生への思いの繰り返し、連続です。
人は快楽を求め、苦痛からは逃れたいと思う生き物で、それは当然の心理でしょう。
しかし、動物的に、ただそのふたつを求めるだけでは、なかなか輪の中から出れられないということが、カードには示されているのです。
ループや繰り返しは、起きるべくして起き、自らが実演しているものと言えますが、同時に、出たり、止めたりする選択もでき、もはや必要ないのに、同じ演目が演じられ続けるのは、違和感でしかないのです。