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原因と問題、タロットリーディング
タロットリーディングでもそうですが、問題の原因がわかると、対応策・解決策も出しやすいですし、人は安心できます。
しかしながら、必ずしも原因がわかるとは限りません。
病においても、現代医学でさえ原因がわからないことは結構あるものです。
いや、すべてに本当は原因と言いますか、問題が起きている根本的な理由というものはあると考えられます。
それでも、その起こっている現象の原因はひとつではないかもしれず、たいていのものは、様々な要因がからんで、結果として出てきているのではないかと思います。
とすれば、原因追及というのが、問題解決の最善とは言えないこともあるでしょう。多くの要因をすべて明らかにすることは難しいからです。
また、たとえひとつの原因だったとしても、それがわからないことも、実際的にはあるでしょうし、原因が発見できたからと言って、現象が消えるとは、また言えないことでもあります。
ところで、マルセイユタロットの「月」というカードがあります。
このカードの象徴性に、あやふやなこと、はっきりしないことというのがあげられます。
このことから、時には、そういう(はっきりしない)状況も受け入れたほうがよいことを言っているとも考えられます。世の中、白黒つけられることばかりではないからです。
一方、「月」と同じ「8」という数を持つ大アルカナカードに、「正義」があります。
面白いことに、「正義」の場合、「月」とは真逆の、それこそ、白黒決着がつくような、明確なものを示唆します。
「正義」と「月」は同じ数でつながりながら、反対の意味合いにもとれるのです。(ただし、やはり同じ数を持つ共通性もありますが、今回はそれについては省きます)
今回言いたいのは、原因を求めて(はっきりさせて)の解決策という視点ではなく、状況(現象)を受け入れ、その状況と、どう向き合うか、つきあっていくか、あるいは、原因追及はせず、起きている問題・現象そのものを、とにかく改善したり、生活ベースにおいて気にならなくしたりするようにしていくことに重きを置く対応も、必要な場合があるという話です。
さらに、そのことは、最初に出した、タロットリーディングにおいても言えることだと、つけ加えておきたいです。
「こういう原因でそれが起こっている」と知りたいのは山々ですが、知ったところで問題が解決するわけではないこともあるのは、前述した通りです。
そこで、タロットリーディングにおいても、ふたつの方法が考えられます。
1.原因追及的アプローチをするのではなく、先述したように、原因はともかくとして、どう対応するかに重点を置くリーディングをする方法
2.原因それ自体は本当ではないかもしれないが、ストーリー(物語)として、あえて原因をタロットから読み、その解決策もタロットから、一連の(クライアントの)ストーリーとして創作的リーディングを行うという方法
1はわかるかと思いますが、2はどういうことなのか?と不審に感じる人もいらっしゃるでしょう。
実は、私の思うところ、タロットリーディングというのは一種の創作であり、クライアントと一緒に、リーダーがクライアントにふさわしい物語(ストーリー)を、タロットというツールを駆使して作り上げる行為なのです。
創作物語なので、極端な話、嘘のこともあり得るわけです。正確には、真実か嘘かはわからないというところで、結果的に、クラインアントの問題が解決したり、よい方向に行ったりすればOKというものです。
ただ、タロットはその象徴世界において真実だと言えますから、出たカード(の意味するところ)がまったくの嘘であるということはあり得ないというが、タロッテイスト的な考えになります。従って、クライアントに何らかに関係するカードは出ているはずなのです。
けれども、それを脈絡のある話として作り上げられるかは、また別のことです。ですから、カードは真実であっても、ストーリーそのものは嘘であることもあるわけです。
とは言え、嘘か真かは、問題とその解決(癒し・気づき、改善も含む)においては、さほど重要ではないのです。それは原因がわかることと、問題現象の解消とは別であるのと似ています。
要は当人が楽になればよいので、真実か嘘か、原因がわかる・わからないは、実質、関係ないのです。
それでも、クライアント・カードの当事者が納得するには、それなりの物語性が要求されます。でたらめだと、やはり、説得力に欠けます。
先述したように、タロットが本来、当人や問題と関係あることを必ず出す(表している)というのなら、すべてデタラメになることはないです。ですから、タロットカードは、説得(納得)感あるストーリーを作りやすいわけです。
ここまでは、原因追及をしない話を主にしてきましたが、当たり前ですが、それは絶対ではなく、原因追及をしたほうがよいケースもあります。むしろ、その方がノーマルかもしれません。
ただ原因そのものも、タロットリーディングにおいては、ストーリーを作るもの(素材)であるので、それが事実かどうかはあまり重要ではないこともあります。
原因がわかれば、ほっとし、安心できることで、現象は消えなくても、悩みがほぼ消えることもあります。
あるいは、問題そのものが消えることがないとわかったとしても、よい意味のあきらめ(諦観)で、問題状況を受け入れ、うまくその状態と折り合いをつけ、原因がわからず悩んでいた時よりも、積極的に生きていくことができる場合もあるでしょう。
原因追及がよいかどうかは、まさにケースバイケースと言えます。そして、タロットリーディングにおいては、さらに、ストーリー創作の要素として、原因が本当か嘘かも、あまり関係ないこともあるという話でした。
あなたは旅をしているか?
今日は旅をテーマにしたいと思います。
旅と言えば、マルセイユタロットでは、やはり「愚者」のカードが思い浮かびます。
マルセイユタロットの「愚者」は、誰が見ても、どこかに向かって歩いているように見える図柄です。
袋のついた棒を背負い、杖をついて右方向に歩いています。ちょっとした散歩やお出かけのように見えなくもないですが、そのスタイルからすると、これは「旅をしている」ように感じてきますし、もしかすると、長いこと、旅を続けているのかもしれません。
気分転換や癒し、レジャー的な旅行については好きな人が多いと思いますし、趣味にしている人も結構いらっしゃるでしょう。
しかし、旅というものは、いろいろな目的・種類がありますよね。
ビジネスや仕事が目的の旅、すなわち出張も旅と言えますし、精神的・宗教的な目的で、修行の旅もあります。お遍路とか巡礼も、そのうちの一種でしょう。
そして、何より、私たち自身の人生も旅と言えるのかもしれません。
旅は日常や固定性、既知性、普遍性とは逆の非日常を味わい、知らないことを見聞したり経験したりし、旅をしている間は特別な時間・空間になります。
移動するのが旅でもありますので、定住するもの、同じことの繰り返しのようなルーチン的な生活とは真逆の体験となります。
ただ、旅が仕事・日常になっている人がいれば、むしろ、普通の人の生活状態が非日常へと逆転するのかもしれませんね。
それでも、旅というものは、このように、いつもとは違う感覚を味わうものになりますので、そこに大きな刺激や成長のチャンスがあるわけです。
実際的に、旅に出るということは、滞って退屈な日常からの変化になりますし、旅先での経験が自分を拡大させてくれることもあります。
けれども、いつもとは異なるわけですから、危険やネガティブなことも起きます。その対応次第では、拡大どころか縮小してしまうこともあり得ます。
とは言え、旅の特徴としては非日常で、限定的なものである(仕事で旅をしている人、移動が生活のスタイルの人以外は、旅は永続的ではない)ことがあげられます。
ということは、旅はいつか終わるのです。人生がもし旅であるのなら、ある種の特殊な限定的時空体験かもしれず、それならば、死を迎えれば、人生の旅は終わることになります。
そう考えると、日常(生きている時間)こそが実は旅であり、私たちは、本当は非日常にいる(旅であるから)のかもしれないのです。
では、人生が旅であるのとは反対の、旅ではない日常とは何なのか?ですが、それが死後ということになるのでしょう。旅が移動するもの、変化していくものという特徴があるのなら、死後の世界は移動しない、変化しないという次元であることが考えられます。
マルセイユタロットには、「愚者」が他の大アルカナをたどって、「世界」のカードまで行き着くという思想があります。
例えば、ある流派では、このうち「戦車」までが私たちの現実世界であるという解釈がなされますが、これを21枚全部が実は現実世界のことだったという見方もできるのではないかと思います。
「愚者」が移動して、最終的に「世界」のカードでゴールするのなら、「世界」のカードは死後の世界の入り口と見ることができるからです。
そう思って「世界」のカードを改めて観察すると、真ん中の人物は移動しているわけではなく、そこで踊っているか、止まっているかのように見えます。周囲の動物とか天使、雰囲気も含めると、まるで天国のような印象もあります。
「ご冥福」と言う言葉があるように、本来、死後の世界がよきものであるようにも思えてきます。(死後が生前の行為によって裁かれるという思想ならば、死後が悪い世界ということもあるでしょうが)
ただ、あまり変化なく、動きもないとすれば、やはり退屈な世界なのかもしれません。
それに引き換え、絶えず変化のある現実世界と人生は、まさに旅であり、タロットカードでは、21ものシーンのバラエティある世界観で示されているようでもあります。
厳密に絵柄を見れば、20の「審判」で、何やら棺桶のようなところから起き上がっている人が見えますので、この時点で、すでに死後(の入り口)なのかもしれませんが。
となると、これまた面白いことではありますが、旅をしている人生(生きている現実の生活)というのは、棺桶で眠っている夢ということも考えられます。
まるで中国の「胡蝶の夢」(現実が夢なのか、夢が現実なのかという荘子の説話)のような話です。
いずれにしても、人生は旅なのだという観点は、時に人を楽にする可能性があると思えます。旅自体、そういう性格のもの(非日常を体験するもの、エンジョイするもの)だからです。
実際の人生で、たいていの人は、普通の旅行も何度もするでしょうが、それは言わば、旅(人生の旅)の中で旅(現実の旅行)をしているという、入れ子構造的な仕組みにもなっているのに気がつきます。
それは、一日と一年が同じような構造になっている(本質的に)のに似ています。人生という旅の中でも、本当に移動したり、変化したりする時期もあれば、まさに日常的な普通で穏やかな時もあるでしょう。
普通の旅は、自らで行くことが可能です。であれば、人生での旅(変化・変容)も、必要な時に起こすことができると思うことです。
環境や流れ的なもので変化はやってきますが、それとは別に、退屈な時、リフレッシュしたい時、あるいは逆に癒しや休養を必要とする時も、人は普通の旅に出るように、長い人生の旅という時間の中でも、自らの意思で、同様のことができるのです。
旅の中の旅は、チャンス(あるいは回復・治療)を自らの力で起こすという意味でもあります。
ただただ流され、日常の民としてあきらめ・惰性の人生の旅を続けるのではなく、旅は自分で行くもの、計画するものと考えれば、自分にいい意味で、変化もたらせることは可能でしょう。
マルセイユタロットの「愚者」は数を持ちません。これは、ほかの数にもなれる(ほかのカードに移動して、そのカードに象徴されることを経験できる)ことを暗示しているからです。
「愚者」の旅は、21枚という、それぞれの世界の経験となり切りと言えましょう。それが私たちのいる現実世界であり、人生であり、旅なのです。
あなたに足りていない(まだ経験していない)カード(シーン)は、果たしてどれでしょうか?
「恋人」カード、地上と天上の選択
以前も書いたことがありますが、マルセイユタロットの「恋人」カードを、“選択”というテーマで見ると、面白いことがわかります。
ちなみに「恋人」カードの画像はこのようなものです。
その前に、一般的に「恋人」カードは、その名の通り、恋愛と関係するカードと思われています。特に占いでは顕著でしよう。
しかし、占いではないタロットの観点で見ますと、実は恋愛的なことから離れる見方もできます。むしろ、そのほうが本質ではないかとさえ思っています。
逆に言いますと、恋愛という現象が、実は人間の様々なレベルを刺激し、成長や堕落もさせる、非常に深いテーマであるということが言えるのかもしれません。(恋愛というものは、あくまで現象であり、その本質こそが重要であるという話です)
さて、その「恋人」カードですが、図像をよく見ると、特徴的なのは、三人の人間と、上空に天使だか、何か人間ではないものがいるという構図になっています。
要するに、天と地、人間世界とそうでない世界の対比になっているわけです。
下の三人の人間たちは、真ん中の男性と思える人物が、両端の二人の女性とおぼしき人たちに囲まれている様子が描かれています。
このことから、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぼうとしているのだと解釈されます。(ただし、解釈はいろいろあります)
一応、主人公をこの男性だとすると、彼にはふたつの選択肢(二人の女性のうちのどちらかを選ぶ可能性)があることになります。
とは言え、どちらも気に入らない、甲乙つけがたしで、選ばない、選べないというケースもあるでしょう。
また、見ようによっては、男性はあくまでサブで、女性二人が主人公という可能性もあります。女性のほうが、積極的に男性に声をかけ、選んでいるのかもしれません。
結局、主人公を誰にするかによって見方や立場が変わり、自分で選んでいると思っていたものが、実は選ばされていたということにもなります。
どうも真ん中の男性は、しっかりした態度というより、迷っているようにも見え、実は男性のほうがタジタジとなっているのかもしれません。(笑)
いずれにしろ、人間たちには、同じ人間同士の世界で、どちらかの選択、または何も選ばない(選べない)という選択行為があることが物語られています。
一方、上空の天使(キューピッドとも言えます、厳密にはキューピッドは天使ではありませんが)も、矢をつがえて、誰かに当てようとしているようです。
ということは、宝くじではないですが、矢が当たった人がまさに当選した、選ばれたということになるでしょう。
そう、ここには天使、つまり人間以外の要素、または人間の通常を超えた高次的な選択の力が働いているわけです。ただし、天使側からは人間が見えていても、人間側からは見えていないので、一方的な選択にも思えます。
さらに、矢は必ずしも放たれるとは限りませんし、絶対に人に当たるとも言えません。天使は、はずすかもしれないのです。(それは天使側というより、人側の動きによってのほうが大きそうです)
つまるところ、人間世界、地上(物質的)世界の選択と、物質を超えた世界、天上的な選択とのふたつがあると告げているように見えます。
深くは講義で説明していますかが、人間三人の構造が、実は天上的な選択とも関係し、天が地に、地が天に呼応していることを表しています。
簡単に言えば、私たちの地上の選択は、天上と無関係ではなく、むしろ、その意思を受け取っていると見ていいわけです。
しかし、地上世界における通信や電波の混乱状態(混信)ではないですが、人間を超えた世界、見えない世界においては、低次な、おどろおどろしい心霊・サイキック的世界から、霊的に高次な世界まで様々に入り組んでいるように感じられます。
自分が信じたものが高次とは限らず、たいていは人間に近い、それなりに欲望や欲求を持った存在であることが結構あります。
天使からの選択(インスピレーションや夢、シンクロニシティなど、言葉とは別のメッセージとして現れる)の示唆だと思って、人間たちのアドバイスを無視し、何かを選んだとしても、それは低級なものたちからの誘導である場合も考えられます。
もちろん、混信をクリアーにし、高いレベルで受信が可能になれば、まさに高次からのメッセージ・アドバイスとして受け取ることも可能でしょう。
天使と人間たちという「恋人」カードの構図の特性上、どうしても、天使世界のほうを上に見てしまいがちです。
実際、そういう風に見ていいところもあるのですが、ここで重要なのは、地上の人間たちのコミュニケーション、アドバイス、話し合い、交流も必要だということです。
この段階では、地上・現実世界での関わりのほうがむしろ上と言ってもいいくらいです。つまりは現実逃避への警告みたいなものです。
ところが、そうは言いつつも、矛盾するようですが、わざわざ天使がカードに登場しているのですから、そういう世界観(精神やスピリチュアルの世界)への視野も、本当の意味では、大切になってくることでもあります。
バランスと言えば、よいのでしょうか。
同じカードが出たとしても、タロットリーディングにおいては、同じ意味になるとは限らず、この「恋人」カードの選択の場合でも、天上の天使を見たほうがいい人、地上の人間たちの立場を重視したほうがいい人、さらには、人間たちの中でも、どの人が自分にとって関係が深いかなど、様々なのです。
そうして最終的には、仮に真ん中の彼が主人公だとすると、両端の女性、上空の天使も含め、すべての選択(肢)と働きかけの可能性を見出し、統合することに、テーマがあります。
どちら(どれ)を選べばよい(選ばない)という話ではないのです。多かれ少なかれ、人が何かの選択をする場合、ほかの選択(選ばれない選択など)も同時に行っているというのが、このカードからわかります。
時空が限定されている地上・現実の世界では、効率や経済、あるいは人間的価値観による幸せという基準での選択の良し悪しがあります。要は、実際にいい選択とまずい選択というのが起こり得るということです。
しかし、霊的なレベルにおいては、それはまた逆転したり、そもそも高いレベルになればなるほど、低い選択基準は統合されて、良し悪しはなくなっていきますから、どちらでもあってどちらでもない状態(良し悪しなどない)になってきます。
だからと言って、高いレベルの基準でいなさい、というわけでもないのです。たとえ、そうなろうとしても、普通はいきなりでは無理です
さきほども言ったように、「恋」人カードでは、人間たちの交流が図像として大きいので、それが強調されているのです。言わば、間違いの選択も含めての経験の重要さです。
この現実世界で、天使的なものも意識しながら、主人公としての自分が演じるメインフィールド(中心舞台)は、地上であるということも忘れないようにしたいものです。
四つの生き物、自分の縁ある精霊
以前にも書いたことがありますが、動物のイメージでの精霊、守り神のようなものが、自分と関係することがあります。
そう書くと、何かスピリチュアル的で違和感があるという人は、“心理的にそう思う”と、安心したり、導きがあったりするような気がするとしてもよいです。
これは、サイキック的な、世間で言われる「動物霊」とは異なります。いわゆる動物霊とは、低級霊みたいな扱いの存在です。
ここで言っているものは、一種のエネルギーや、イメージ的な象徴の動物のことです。
マルセイユタロットでも、動物は登場します。犬(狼と解釈する向きもあり)、馬、猿、ライオン、牛、鷲などです。
それぞれに意味がもちろんありますが、今回は特に、四大元素の象徴でもある四つの生き物について取り上げます。
四つの生き物とは、21「世界」のカードに顕著に表されていますが、鷲・天使・ライオン・牡牛のことです。天使は動物ではありませんが、タロット的に「四つの生き物」と言うくくりで、あえて入れておきます。
この四つの生き物は、テトラモルフとも言われ、まさに四つで一つを意味する、西洋的には重要な概念になっています。ですから、キリスト教でも、この四つの生き物は聖書にも現れますし、イエスを真ん中に、四つの生き物に囲まれる図像でもおなじみのものです。
マルセイユタロットの場合、さきほど述べた「世界」のカードでは、四つの生き物に囲まれる中央の存在はイエスではなく、両性具有的な踊っている人物で示されています。
この人物は、両性具有的なその様子からも、普通の人間ではなく、神的な人物、完全性を象徴した存在として考えられています。
ゆえに、キリスト教ではイエスとなるわけです。逆に言いますと、キリスト教以外、キリスト教に固まる以前からの図像として、この四つの生き物と中央の人物(存在)というデザインはあったのだと推測されます。
ここに、4対1の関係性、もしくは、四つがひとまとまりになって、ある種の完成や次元の上昇が行われる示唆を読み取ることができます。これは非常に重要な内容で、考え方によっては、宇宙システムの根源とも解釈されます。
ちなみに、「世界」カードの中央の人物の外にあるリースの形も、深い意味がありますが、それは講座などで明かしております。
さて、その四つの生き物が四大元素を象徴することは述べました。ところで、人によっては「四大元素との縁」というものもある話をしたいと思います。
まあ、一般的にも、人はパターンに分類されがちで、四大元素と言えば四つですので、人間を四つのパターンに分けると、四大元素的パターンにもなるわけです。
四大元素は、小アルカナ的には4組になり、剣・杯・杖・玉(一般名称でソード・カップ・ワンド・コイン)で表されます。ですが、今日は動物・生き物メインなので、鷲・天使・ライオン・牡牛で見ます。
すると、人は鷲型、天使型、ライオン型、牡牛型に分けられます。
そして、さらに、最初に述べた動物精霊とも関係し、メルヘン的な例えをしますと、自分には、鷲、天使、ライオン、牡牛の精霊がついていると想像することができます。
四大元素、四つのものは、先述したように、四つでひとまとりになり、どれかが欠けているわけではなく、全部そろって一人前みたいなところがあります。
従って、自分が天使型だと言っても、ほかの精霊・エネルギーが存在しないわけではないのです。しかし、人は個性を持ちますので、個人によって特質があり、四つで分けると、特に縁のある精霊とか型になってくるということなのです。
まあ、「そう考えると面白いよ」くらいで見ておいてください。本当にそういう精霊がいるんだとか、呼び出して超常的な現象を起こすんだ、みたいなことは考えないほうがいいでしょう。(笑)
※ただし、西洋魔法の世界では、実際にそのような世界観で扱うことがあり、まるで異世界的な話になってきますが。
今回の話は、そういう縁とか分類を意識すると、自分の得意・不得意もわかりやすくなり、無理ない生活・行動のヒントになるかもしれないですよということです。
四つの生き物のうち、天使と鷲は羽があり、空を飛びます。逆に、牡牛とライオンは地上の生き物で空は飛びません。もっとも、「世界」のカードでは、ある理由で、四つとも羽があるようには見えますが。
ということで、象徴的に考えれば、天使と鷲は天上性、牡牛とライオンは地上性を意味します。また、鷲とライオンは肉食獣で獲物を狩り、牡牛は草食獣、天使は優しい救いの存在ということから、鷲とライオンが男性性・能動性、天使と牡牛が女性性・受動(受容)性を表すと想像できます。
そういうことを組み合わせて考察すると、鷲タイプ(鷲の精霊)、天使タイプ(天使の精霊)、ライオンタイプ(ライオンの精霊)、牡牛タイプ(牡牛の精霊)の特徴が、何となくわかってくるのではないでしょうか。
そんな風に考えるよりも、単純にそれぞれの生き物の実際の特徴とかイメージを見出してもよいです。
例えば鷲は自由に空を飛ぶとか、目標に邁進する(獲物があるとそれに一目散に向かう)とか、ライオンは百獣の王で余裕がある(しかし慎重でもある)、プライドが高い、いざという時は強いとかなどです。
カードで引いて、自分に縁のある四つの精霊を見てもいいのですが、それより、自分自身の内面を静かに感じていくと、自分のついている精霊のイメージが出て来ると思います。
また、四つの生き物のうち、どれをイメージすると安心するとか、勇気が出るとか、気持ちが軽くなるとか、ポジティブな感情になるものを調べると、自分と濃い縁の精霊がわかるかもしれません。
ちなみに、私自身は一番は鷲だと感じています。能動的な天上性、あるいは、天上への能動性とも言えます。地上より天上志向が強い部分は自覚しているところです。
※(反対の地上志向が強い場合、バイタリティがあり、現実生活への充実がなされる人が多いです)
とはいえ、すでに述べたように、人には四つの生き物全部がいると思ってよく、個性のために、ある生き物が強くなったり、弱くなったりするということですし、シーンや年回りなどでも、生き物の強弱は変わると考えられます。
パートナーとか協力者には、同じ傾向の者同士が類友の法則で集まることもありますが、相性的には、自分と違う部分に強いものを持っている人のほうが、案外いいかもしれません。(お互いの魅力が長続きします)
ですが、もっとよいのは、(四つの)統合を果たすことです。自分の中の四つの生き物をうまく扱い、統合していくことで、真の自分(世界カードの中央の人物)が現れます。
さらに、この現実世界では、四つの生き物の強弱でそれぞれ個性が出ていますので、お互いに協力し、支え合い、認め合うことで、全体としての四つの生き物の統合がなされていきます。
それは時代の進化であり、人類そのものの進化とも言えます。
争ったり、マウントを取り合っていたりする場合ではないのです。そのことを「節制」のカードが、「世界」の7つ下で訴えているわけです。(7つごとの進展がマルセイユタロットの世界ではあります)
自分のタイプと精霊を知り、他人のそれを探査し、ともに成長する糧にしてみましょう。
タロットと神の内在、神の外在
タロットで「神」という概念をどうとらえるか?
これは、なかなか難しいテーマだと思います。
私の扱うマルセイユタロットでも、そもそもマルセイユタロットもヨーロッパの産物ですから、基本的にその文化圏において「神」といえば、イエス・キリスト、あるイエスの伝える父なる神ということになるでしょう。
マルセイユタロットが形成されてきた時代で言っても、おおむねキリスト教カトリックの信仰する「神」の影響が、タロットにあるのも当然と言えます。
しかしながら、キリスト教と言っても、まったく同じ教義とは限りません。ローマ時代に国教化されて、やがてカトリック的な教えがノーマルになって行ったとしても、以前は、イエスを神ではなく、人間と見ていた教えもありますし、その中間的な立場におくものもありました。
さらには、今ではオカルト的に扱われている節もありますが、イエスの教えには秘儀的なものがあり、表に現れているキリスト教とはかなり違う、いわば、グノーシス的な教えが込められていたという話も伝わっています。
実際、中世の頃、東欧から南仏にかけて、異端派のキリスト教が流行った時代があり、例えばカタリ派と呼ばれる宗派も、善悪二元論的なものではありますが、グノーシス的(もっというと、古いペルシアや東方の宗教に近いよう)な雰囲気があったように感じられます。
グノーシス主義は、カトリック的な教えと反するもので、どちらかと言うと神は内在的なものであり、自己のうちに隠されてしまった神性・完全性を「神」として表しているところがあります。
一方、キリストは教に限らず、ほとんどの一神教的な宗教は、神を外側に置き、私たちや、この世界を創った偉大な創造神ということになっています。
厳密には外側(に存在する)というものではないとは思うのですが、布教のために、いつしか外在的に神を置く(人格神のような存在にする)ことで、人々にイメージしやすいよう変化していったのではないかと考えられます。
個人的には、グノーシス的な教え(の神)も、それと対立する外在的に神を置く宗教も、本当は根本的には同じものであったのではないかと見ているところがあります。
先述したように、宗教化した場合、信徒に神を理解してもらうことと、信仰者を増やす必要があるので、次第に神を、内より外側に置くようにされてきたのでしょう。
今、霊的な分野が「スピリチュアル」と言われて、ライトなものからヘビーなものまで、様々な種類に分かれて、宗教の域を超えて多くの人に語られるような時代になりました。
そして、共通しているのは、そういったスピリチュアリストたちの語るものの多くは、神の内在性です。
ですから、グノーシスにも近いですし、かなり昔の、大元の感覚に戻ってきている(戻るというより、一部は進化していると見ていいと思いますが)ように思います。
ですが、神の内在性という理論と感覚は、ともに難しいものです。従って、現代の霊性(スピリチュアル)を高めようとする人、そうした方向性を目指そうという人でも、いきなりの(神の)内在的認識は困難があるかもしれません。
宗教的には偶像崇拝が禁止されているものも結構ありますが、一方で、禁止されていても、実質は偶像(神の像)を作って、信仰している人たちもいます。
そのほうが、人間的に、神のイメージがしやすいからでしょう。
これと同様に、神の内在性(自身における神性の認識)をストレートに見出していくより、最初は神をあえて外在性に置く方法を採用し、例えば像や絵、モノ、仕掛け(舞台装置)などを、(自己の)神のイメージ喚起ツールとして使っていくのもありではないかと考えます。
祭壇、仏壇、神棚というものも、一種の神(神性)の認識のための仕掛けと言えましょう。
実はタロットにおいてもそれは言えて、神性認識のために絵のカードを使うわけです。おそらくマルセイユタロットの役割のひとつに、これがあると私は見ています。大アルカナがまずはわかりやすいツールでしょう。
どのカードにも、神性の表現がありますが、特に、「神」という言葉が出て来る16「神の家」というカードは、神性や自分にとっての神というものを考える(感じる)のには重要だと思われます。
またいずれ、「神の家」については書きたいとも考えていますが、大事なのは、マルセイユタロットの大アルカナナンバー16の絵柄でなければならないということです。
例えばウェイト版だと、名前も「塔」になり、その絵柄からは、恐怖しか感じさせません。
聖書的にはバベルの塔の話のモチーフと関係していると言われる16のカードですが、たとえ崩れるにしても、何が象徴的に崩されるのかということがわかっていないと、ただ絵だけに引っ張られ、誤解を与えしてしまうのです。
この点、マルセイユタロットの場合、塔は崩れておらず、多少の破壊的イメージはあっても、崩壊するような絵ではなく、むしろレンガなど、しっかり積みあがって行くことも感じられます。(破壊的でありながらも、実はかなり創造期・生産的・着実でもある)
「神の家」の検証には、ナンバー的には前後のカード、「悪魔」と「星」と比較するのが効果的です。特に、「悪魔」との対比は、神と悪魔という名前だけからしても、非常に意味深いと言えます。
ただ、「悪魔」も、マルセイユタロットの場合、一般的な悪いもののイメージで悪魔をとらえていては、それこそ「悪魔」の罠に陥ります。
高次になればなるほど、善悪の概念(観念といったほうがいいかもしれませんが)は、普通の人間には理解しがたいものとなっていくからです。
その点で言えば、マルセイユタロットにおける「神の家」と「悪魔」は、非常に高次の善悪だと表現してもよいでしよう。
そして、ここが肝心なのですが、高次でも低次(通常の人間状態)に入り込んでいて、言ってみれば、普通の生活においても、神の家とか悪魔を意識することは可能だということです。
もっと簡単で宗教的な言い方をあえてすれば、神の御心にかなう生き方と悪魔を退ける(負けない)生き方として表されます。
それは一見、低いレベルの善悪のようではあるのですが、高次の善悪のエネルギー(影響)を受けているものであり、それが自覚できた時、自身のうちに本当の(神の)力が宿ることになると思えます。
これは神の内在の自覚であり、外在的な神の感覚では、神がおられること(神の恩寵)の実感でしょうか。
とにかく、神の内在(の理解)にも外在的なモノを介してのルートがあり、それはマルセイユタロットを使うという方法にもあるという話でした。
