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タロットと占いの「鑑定」について

私はタロットを「鑑定」という風に、占い的にしませんし、そのような表現もしません。

それは何度もこのブログでも書いていることです。

「鑑定」という言葉の意味は、「定」という文字があるように、何かを定めるというものが出てきます。

もっとも、「鑑」という文字は「鏡」であり、一説には、古代中国の水を入れる道具ということであり、それが鏡になったわけで、物事を映し出すということでは、占い的に考えることもできます。

その意味では、象徴的にカードにいろいろなことを映し出すタロットでは、「鑑定」という言葉を使っても当てはまると言えば当てはまるかもしれません。

しかし「きちんと見定める」「評価する」「決める」いうことでは、ちょっとニュアンスが違ってきます。

タロットは、結構、占いの世界では、バカにされることもあります。(ホントですよ)

それは、勉強しなくても、誰でもすぐに使える、占えると思われているところがあるからです。

特に「命占」種などでは、学問として、体系的に深く学んでいく必要があり、そうした知識をもとに、計算したり、思考と感性を駆使したりして、やっと、相手の運勢と改善方法を定めていくことができると考えられているわけです。

実際、占い界では、その鑑定士の免状みたいなもの(プロ資格)を取得するのに、なかなかの時間と、相当な金額がかかるものとされています。

しかし、タロットでは本を読んだだけとか、実占経験が少しあるだけですぐ先生になった人に教わるなどして、プロタロット占い師になる人がいるというケースもあり、そういうことでも軽く見られている場合もあるわけです。

まあ、実際、タロットを特段の知識もなく、感じたままに言っても当たっていることはあるので、そしてそれがまた人気を呼ぶこともあるので、ほかの占い技術をコツコツまじめに勉強し、莫大な投資をしてきた人には、腹の立つようなこともあると思います。

タロットは理論で構築されているものではないとされ、そこから占いの世界でも、「鑑定」というものとは異なる、違う物だと目されているところがあります。

しかし逆に、タロットを、物事の良し悪しを見定める、決めるという意味で使う「鑑定」としてしまうと、一般的価値観で見る結果や、吉運の選択を示すみたいなことになり、その人を支配している囚われ、さらには、物質や常識を超える成長・解放を示唆する観点は得られないことになります。

たとえ、現実的・吉凶的なことでの鑑定(評価)であっても、「こちらの選択はよい」とわかったところで、真の問題の解決になっていないこともあるのです。

例えば、その人にとって(命占などの根拠となる運勢判断での)占い鑑定で、明らかにこの人はこちらの選択のほうがよいと出て、それを指示したとしても、その人は選ばないこともありうるわけです。

それはその人の選択の問題なので、鑑定士がとやかく言う範囲ではないと言えば、その通りです。

鑑定士・占い師としては、やれることはやった、運勢がよくなる方向は話したということで、選ばなかったその人の責任です。

ところが、その人はなぜ、悪いと思われる選択肢を選んだり、あるいは、よいと示された選択肢を選べなかったのかという問題がそこにはあります。

確かに、それは相談をした人(クライアント)の責任ですが、本人にもよくわからず、運勢的に見ても、どうしてもまずいと思う方向が気になるとか、良いと言われたことにひっかかりがあるとか、何か心に残っていることが往々にしてあります。

まあ、優れた鑑定士は、その理由もつきとめることはできるかもしれませんが、「鑑定」という場合、普通は、本人のよい方向、運勢の良し悪しを鑑定(判断)するのみで、選択過程の理由や、その人がそうなっている状態とかを見て、本人自身の気づきを促すというようなことはあまりしません。

また、相談する人、その人にとって、一般的価値観での幸せや満足というものを実現することが、意外にも真の満足ではないこともあるのです。そんなことは考えられないというのは、常識に囚われてしまっています。

つまり、重要なのは、鑑定であっても、その鑑定の基準となるモノサシ、幸せや、よいと言われている選択の元になっているものが何かを、鑑定する側は理解しておくということです。

もしかすると、その鑑定の拠り所となっている価値基準も、古い時代の、戦争に勝って国が栄えるための国王的な立場での判断が主体となっているかもしれないのです。

国の繁栄のための選択と、一人の個人、庶民の幸せ・充足のための選択とでは、抽象的・象徴的には同根でも、具体的な解釈では、著しく異なってくる場合もあります。

しかも時代はかなり変わっています。要するに象徴を現実適用させるためには、段階的な次元操作の技術が必要となるのです。それは一言でいえば、抽象と具体の適切な扱いです。

占い知識は統計だと思っている占い師の人も多いですが、統計の部分は後付であり、本質的には大元・根本の象徴が、のちに統計的に蓄積されたに過ぎません。

統計によって生み出されたのとは逆の発想となります。

始めに「大元」「象徴」「イデア」があって、その裏付け、実用として統計的に検証されてきたということなのです

自分のやっている占い鑑定の、基準となっているものを象徴的に把握し、それが現代の相談してくるクライアントにとって、どのように適用されるのか、そしてまた、クラインアントがどんな価値基準や自分の思考・感情、レベルと次元にいるのかを見ておかないと、まったく的はずれなアドバイスとなります。

鑑定士・占い師自身は、「よい方向を示せた」「いいアドバイスができた」「この人の運勢は分析できた」「結果や選択すべき事はきちんと呈示した」となっていても、相手は一時的、表面的、常識的にはその通りで満足したかもしれませんが、結局、堂々巡りを維持したり、心理的・精神的・霊的レベルでの解放、充足にはほど遠いことになったりと、同じ問題を繰り返して、アドバイスが役に立たなかったというケースがありうるわけです。

人は感情の生き物でもあります。常識的判断での良し悪し、鑑定士の思う運勢や幸せの方向が(それが理論的・学問的だと鑑定士が思っているものも含む)、占い理論と頭で考えて明らかであったとしても、納得しない気持ち、葛藤してしまう心というものはあります。

それを受容せず、あるいは無視し、ただ冷徹に鑑定のまま告げたところで、それは正論ではあっても、感情的には受け入れてもらえないどころか、相手から非難を受けることすらあります。

きちんとした鑑定は当たり前ですが、人々の心の機微、見えない縛りや思い込みで、同じレベルで物事を見てしまう囚われから解放する視点も取り入れるとよいのです。

タロットはそういうこと(後者)に役立つのです。

最後に、私自身は、タロットは勉強しないとまともには使えないと思いますよ。(笑) 


クライアントとタロットリーダーの逆鏡作用

他人は自分の鏡だというたとえが、心理的にもスピリチュアル的にもよく言われます。

これはそうとも言えますし、全部がそうとは言えないところもあると思います。

ただ自分と人の(内と外の)世界がつながっていることは、マルセイユタロットの構造、特に「世界」のカードを見ているとよくわかります。

わかりにくい表現となりますが、自分の中心が相手の世界の果てであり、相手の中心が自分の世界の果てになっているという面白いものです。

それはともかく、以上のようなことから、タロットリーディングなど、人の悩みや問題を相談するスタイルを取る時、クライアントと相談を受ける者(タロットの場合はタロットリーダーになります)との関係において、必ず共通点が象徴的にあると考えられます。

これは、似たような経験という場合もあるのですが(そしてそれは両者にはわかりやすいもので、共感につながるものですが)、それと別に、異質なものだけれども、象徴的には共通しているというものがあるのです。

例えばこういうことです。

クライアントが相談がしてくる問題、相談したい主訴というのは、当然、その時空(相談時間と空間)において一番関心のあることです。

ところが、そのクライアントの問題と、象徴的に繋がっていると言いますか、共通しているのは、相談を受けている(話を聞いている)人の、なんでもないことだったり、クライアントとは逆に、楽しいことだったりするのです。

言ってみれば、相談時空において、あまり関心のないことです。

それは逆転の構造(カメラのレンズのようなもの)を持ちながら、根本では共通なものとして、関係していると考えられます。

いわば、クライアントの(ネガティブな)問題(非日常的なこと、エマージェンシーなこと)の解決や癒しには、相談を受けるものの日常や、ハッピーなこと、平穏の中に隠されているということです。

※相談状態のことでも、むしろ当たり前で、相談を受ける者がノーマルでない状態だと、クラインアントの傾いた気持ちをうまく扱うことができません。

これは逆もまた真なりで、相談を受ける立場の者が、今結構深刻に思っていること、関心があることが、クライアントの日常や、あまり意識していない普通の中に関係がリンクしていることがあるのです。

タロットリーディングの時、カードの正逆で意味を変えて読んでいる場合、ちょうど、カードの正逆がクライアントとタロットリーダーでは、まさに反対になるという象徴性を持つことがあります。

要するに、エネルギーの相補性であり、一対多、多対一という、異質表現同士の結びつきが、全体としてはひとつであり、完全となるということのとらえ方です。

私が採用している「カードの正逆を取る場合のタロットリーディング」のスタイル(正逆を取らないスタイルもあります)では、タロットリーダーは、逆さまにカードを見ることになります。

つまり、クライアントから見て、正立や逆向きとなる方向でリーディングを進めるのです。

このことは、意外に重要な示唆を持ち、先述したように、テーマにおいて、逆の関係性を持ちながら、共通の因子を象徴的に持つ構造に合致した見方となります。

ありていに言えば、相手にとってのカードの正立がリーダーにとっての逆向きであり、相手にとっての逆向きが、リーダーにとっての正立と見ることができるというわけです。(テーマにおける逆転のリンク性を見る場合ですので、必ずしも、いつもそう見るというわけではありません)

このような考えでいくと、タロットリーダーや相談を受ける立場の者は、結局、相手の問題の原因そのものよりも、自分自身の、セッション中における意識の変容(気づき)が、相手(クライアント)にとっても重要だということがわかります。

問題解決の鍵は、相手ではなく、自分(相談を受ける者)にあるのです。

なるほど、マルセイユタロットの「隠者」があのように描かれているわけか・・・と納得します。

これとは少し違うとは思いますが、ハワイのホ・オポノポノも、相手がどうあろうと、結局自分のクリーニングに行き着く技法ですから、考え方に似ているところもあるのかもしれません。

タロットの場合は、タロットカードが自己クリーニングの装置であり、ツールになっていると言えましょう。

タロットリーダーがカードとのつながり(理解と親和性)が薄いと、こうした自己変容から相手の変容を起こすということは難しくなり、普通の自分と他人を分離しての相談となってくる傾向が強くなります。

と言っても、ここで述べた方法(考え方)は、いわゆるカウンセリングの共感テクニックとは違うもので、反対に、共感できないところに共通するものを見るという矛盾性を持つ代物です。

それが統合できるのは、タロットカードという象徴性の統合ツールがあるからです。

分離した世界で生きる感覚をノーマルにする私たちの通常意識だけでは、なかなか統合感覚は難しいものです。

感覚と言っても、タロットを学べば、それは理性によって把握できてくるものです。感覚頼りだけでは、それはあやふやで不安定なものとなります。


タロットによる物事の選択(法)

私たちは決断力のある時と、物事が決められない優柔不断な時とも両方を併せ持つ存在です。

とはいえ、これも個性があり、普段から全般的に優柔不断気味の人、何でもテキパキとあっさり決めていく傾向の人がいます。

またなぜ、物事が決められないのかという理由も、人によって、あるいは決めようとする事態の内容によって、それぞれでしょう。

それでも、その中で多いパターンは、理性と感情の狭間で悩んでしまうというものです。

まあ、理性と感情というより、損得的な計算・条件と、好き嫌い的な気持ちがからまって決められない、悩んでしまうというようなものでしょうか。あるいは、常識的・一般的理性判断と、個人的な感情との間で悩むというものもあるでしょう。

直感で選べばうまくいくとうスピリチュアル傾向の人もいますが、その直感が低レベルな子どものわがままのような好き嫌いからのものでは、理性的に判断した選択にはかなわないことは当然です。

反対に、もっとハート(素直な心)で選べばスムースに行くのに、あれこれ考えすぎてわらなくなってしまうということも多いです。

特に現代人は様々な情報にさらされていますので、余計、シンプルに考えることができなくなっているでしょう。

よく言われるように、意外にも、考えすぎて迷いが深くなった人は、最初に決めた(決めていた)ほうを選ぶとすんなり落ち着くことがあります。

それは最初のあたりのほうが、ピュアで、余計な情報・判断が入っていないからだと考えられます。

私は、何を選択しても、結局、いいも悪いもないと思いますが、それは大きな意味、長期的なスパンで見た「人の成長の視点から」では、となります。

やはり、それでも人は短期的な目線、あるいは選択の結果として、経済的成功か失敗か、精神的な満足か不満足かという見方をどうしてもしてしまいます。

それが実生活、現実に生きている人間の心理と言えます。

となると、選択のよしあしを感じることは、誰においても、ある(個別の)次元・レベルにおいては存在するわけです。

これを整理して考えると、こういうことになります。

●その選択の基準を抽象的、全体的、統合的なものからとして見ると、選択はどちらでもない、どちらでもあるとなる 

●その選択の基準を、損得(お金)なのか、精神的満足や安らぎなのか、自分だけのためなのか、多数の人が平均的に満足できるものなのか、など、具体的な選択の中心基準によって、選択自体も個別に変わってくる
(この場合では、選択によって、切り落とされるもの、犠牲となるものも出ます)

実は、タロットを使って物事を選ぶとい方法はいくつか、というより、いくつもあります。

タロットはそういうこと(選択)のために使うと思っている人もいるくらいです。

個人的には、タロットは現実的な選択(あれか、これかみたいな選択)のために使うものではないと思っていますが、使うこともできるように設計されていると考えています。

実際に私も講座ではそのタロットによる選択の方法をいくつかの種類とパターンで教えていますが、ここではその中のひとつをご紹介しておきます。(具体的なやり方は、講座でお伝えしています、ここでは考え方みたいなもののご紹介です)

さきほど、大きな意味では選択の意味はなくなる(どちらでもないし、どちらでもよい)と言いましたので、つまるところ、選択の関心があるのは、個別性や具体性の次元においてということになります。

タロットでは、個別性や具体性の原理・世界は、小アルカナに現れます。

その大元は、四大元素で象徴される世界、すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)の4組で小アルカナ中心に図示されているものです。

あなたにとって、その選択の基準が、この4組のどれなのかということが重要です。

引き方は自由ですが、4組のうち、そのうちのどれかがはっきりわかる展開法をすることで、今あなたが選ぼうとしている中心の基準がわかります。

例えば、玉(コイン)が出れば、この選択はお金・経済、実際の利益などの成果が得られること、投資と回収が効率的であることなどの観点・基準が重要ということになります。

そこには好き嫌いとか、心の満足とか、学びであるとかを中心にし過ぎては、選びにくくなるということが示されたわけです。

ここで大切なのは、それが正しいのではないということです。

あなたの今のその選択において、整理(いろいろな層の選択)の基準として、剣とか玉とかが示されたということなのです。

占いとして見る場合は、「それが(出たカードが託宣的に)正しい」と見てもよいかもしれませんが、私はそういう考えで使っておらず、あくまで情報の整理のヒントして、自分が中心になるように(占い依存にならないように)注意して(教えて)います。

そして、そもそもあなたの個別性の選択において、その基準(価値観)そのものが迷いの原因であるということもあります。

いわば、世界観が狭い、枠に囚われすぎているので、今までの選択基準でしか物事が見られず、迷って決められないのです。

先述したように、究極的にはどれを選んでも間違いではないですし、どれでもいいのですが、どうしても、良し・悪し、成功・失敗という枠組みを作っているあなたの価値観が選択の邪魔をし、逆に言えば、それ(あなたの枠)が決められないあなた自身を創っているのです。

大アルカナの「恋人」カードに象徴されるように、迷うことそのこと自体に大きな意味があるのです。


タロットの解釈、リーディングの多様性

タロットを長く扱ってきたり、タロットリーディングで自分や人のことを見てきたりすると、結局は何とでも解釈できるのだと思ってきます。

これは言い換えれば、正解(ひとつの回答・正答)などないということにもなります。

それではタロットを使う意味がないのではないかと思うでしょう。

ところが、確かに読みや解釈としては何とでもできる(どうとでも読める)のですが、それにはある規則性や法則性が存在しているのです。

ですから、「どうとでも読むことができる多様性・応用性・自由性」を思った今度は、逆に、規則性とか法則性があることの確信に至る気づきが重要になってきます。

いや、実は初心者の頃、最初にタロットを習って読んだり、解釈したりする時は、本やテキストから、あるいは先生から教えてもらう読み方の「法則性」「ルール」みたいなものを適用します。

しかし、先述した「あとから気づく法則性」というのは、この初めての段階で他人やテキストから示されるものではなく、自分で発見してわかるものです。

まあ、モノや人によっては、それを初めから教えられたり、示唆されていたりすることもあるかもしれませんが、初心者の頃は、たとえ示されても何のことか、わからないでしょう。

いわば、この、あとで見つけられる法則性というのは、宇宙のモデルや構図、大きな魂的な法則というものに近く、タロット全体の理解が進むにつれてわかってくるものなのです。

マルセイユタロットは実はほぼそのことについては、大アルカナの総合的絵図によって示されていますが、図示されていることと、自分が理解することとはまた別です。

こうした法則性がわかってきますと、タロットを読むこと、リーディングすることが、いかようにでも解釈できることの意味が理解できます。

そしてそれはまったく自由のようでいて、そうでもないのです。

大まかに分けて、3や4、あるいはその合計数として7、あるいは5や10、8や13などの数にまつわる法則性も見えてきます。

結局、読みの多様性というものは、そうしたグループとかレベルとか次元の「違い」による読み方があるということです。

現在、私の講座では、タロットリーディングの技術を向上させるために「リーディングコース」というものを設けていますが、このコース中にも、シンプルな形ではありますが、読みの法則や次元の違いについて解説し、自分のリーディングがどの位置と目的にあるのかの確認をします。

そして、クライアントの求めるところや問題の種類によって、それらは変わってくることを学びます。

ですから、まったく同じタロットの展開が出たとしても、読む階層のレベルの違いによって、読み方はガラリと変わります。

それは最初のにも述べたように、どれが正解というものではありません。

強いて言えば、それはまず第一にはクライアントが持っていると言えますし、同時に、タロットが示す法則性や、ある世界観によって、正解が複数用意されると言ってもいいでしょう。

よく「答えは本人の中にある」という言い方をしますが、それは確かにその通りなのですが、その(本人の持っている)答え自体も、実はひとつではないということなのです。

答えを出す・見つけるのではなく、答えと自分の求める表現をリンクさせる、合わせる、と言ったほうがニュアンスとしては正しいかもしれません。

それはまるでマルセイユタロット的には「恋人」カードと「審判」のカードのリンクみたいなことです。

多数ある自分の中の答えの中で、どの答えが一番今の自分にふさわしいか、求めているものなのかを見て、「答えを選択する」という印象となります。

この、たくさんの中から選択するのが「恋人」カードでもあるのですが、その大元には「審判」のエネルギーが流れていると見るとよいでしょう。

ですから、この二枚のカードは、マルセイユタロットとして、構図が同じで、絵柄の天使や人物たちの配置と大きさは異なっているように描かれているのです。

言い換えれば、『「愛」を知るのに「恋」を体験する』と、この二枚を見ることもできます。

「恋」においては、正解は選択はたくさんありますが、「愛」の次元においてはひとつと例えることもできます。

ただし、禅問答みたいになりますが、この「愛」の次元の「ひとつ」でさえ、たくさんの正解の集合体で、ひとつではないのです。

このことが理解できれば、タロットリーディングやタロットの解釈には「答えがなく、また答えはある」という謎の問いかけの意味がわかってくるでしょう。


いい先生、悪い先生

物事を人に教わる時、当然、それを教えてくれる先生がいます。

世の中に、いい先生か悪い先生かを選んだり、判別したりする話がたくさんあります。

しかし、その基準となるものは、結局、教わるほうが決めていると言ってもよいのです。

要するに、自分にとって「いい」と思えば「いい先生」であり、「悪い」と思えば「悪い先生」ということです。(笑)

では、自分が先生の良し悪しを決めているとして、その決める自分の基準はどうかということです。

何があなたの良し悪しと判断する元となっているのか、と言い換えてもよいでしょう。

すると、意外にも、学びのことだけではなく、人生全般における、今のあなたの判断基準があることに気づくかもしれません。

いわば、それはあなたの「いい・悪い」を決める「価値観」です。

ただ、価値観も段階や次元によって変化しますので、学びという分野に限れば、あなたの大元の価値観が基準になるとはいえ、その価値観は微妙に変化していることもあります。

例えば、全体的に精神性重視としているあなたでも、こと、お金の投資の方法を具体的に学ぶとなれば、投資効果や効率をやはり価値の優先順位に考えたくなるでしょう。

教わることで、あなたが何を教わりたいか、学びたいかによって、あなたの価値判断も変わり、従って、先生に対する良し悪しの評価も変化するわけです。

前は悪いと思っていた先生でも、今はよくなっていると思う場合もあるわけで、当然反対のこともあります。

ということで、先生への判断とは限りませんが、人への評価というものは、何を基準・価値観としているかによって変わってくることなのです。

一般的倫理観と法律によって決められる基準で悪い人でも、近しい人、家族的に見ればよい人となるかもしれません。

ここではタロットの話が中心ですから、今回の記事は、ある意味、タロットの先生選びと評価という話にも置き換えられます。

人格的におかしい、問題だと思っている先生でも、とても高度な技術と知識を教えてくれる先生もいます。(こういうタロットを扱うような世界は普通ではない人が多いですし(苦笑))

また、人格的によい人でも、技術や知識はまだ途上、中途半端という方もいらっしゃいます。

さらには、自分の求める知識とか考えとは大きく異なっている場合(価値観の相違)、その先生自身に問題はなくても(と言いますか、その先生は単に個性でもって自分の表現をされているに過ぎませんが)、受講生、教わる方としては、違和感を覚えて「あの先生はダメ」と判断していることもあります。

マルセイユタロットには「法皇」という、教えること・伝えることを象徴しているカードがあり、その絵柄には「教える法皇」と「伝えられる弟子・聴衆たち」が描写されています。

この両者の立ち位置は当然違いますし、それがまさに様々な「違い」「段階」「階層」を象徴しています。

しかし、ここでは詳しく述べませんが、細かく絵柄を見ていると、「法皇」と「弟子」が重なる部分もあるのです。

それが両者の、レベルは違えど、目指すところや目的・本質は同じというような共感性を示唆します。

ここがまったくかけ離れていると、カードはブロックやアンバランス性を示すような形で現れます。

また、この「法皇」と同じ「5」という数を持つ、マルセイユタロットの「悪魔」は、カリスマ的な魅力あふれる人物を表し、そうした特徴が強く出過ぎると、教え・教えられるような関係が、教えられるほうがロープでつながれたものになることを示しています。

これは教えるほうの「悪魔」が悪いというより、つながれてしまうくらい魅了されすぎてしまって、依存的体質になる教えられる側、聴衆のほうが問題といったほうがいいでしょう。

「法皇」にしても、「悪魔」にしても、提供する側、教える側の問題も確かにあるとはいえ、大体は教えられる側、受け取る側の問題、あるいは両者の食い違い、価値観の相違であることが多いわけです。

ということで、学びを受ける側からすると、先生の伝える「ここ(技術や知識など具体性)を学ぶ」という割り切った学び方か、先生の目指す、あるいは伝えている「本質に共感する(精神性や総合性)から学ぶ」というものか、ふたつの方向性があると思います。

もちろん両方とも含まれることもありますが、「すべてがすばらしい」と手放しで先生を評価していたら、それは「悪魔」のカードの象徴として、依存することにもなりかねませんから、尊敬し過ぎるようになっている時は注意してください。

先生をネタに笑えるくらいがいいですし、先生も時には笑ってもらえるくらい(それを怒らず、楽しめる)でいいのだと思います。(もちろん最低限の敬意もない軽蔑だと、先生から怒られたり、避けられたりしても仕方ないでしょうが)

マルセイユタロットの「法皇」にいる弟子達も、やがて自立し、最終的に自ら覚醒するようになることは、ほかのカードで示されていることです。

導きは必要ですが、最後は独立独歩なのです。


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