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シンクロニシティの意味の解釈の前に。

シンクロニシティ、偶然のような必然の一致、立て続けに起こる同調現象とでも例えられ、特にスピリチュアルに関心のある方には、人気の現象です。

シンクロニシティがなぜ起こるのかのメカニズムについては諸説あり、なかなか解説するのは難しいことです。

よく知られているのには、ユング心理学を基盤とした、集合的無意識による他人との潜在的なつながりのようなことで発生していると説明されます。

しかし、それとは別に、いわゆる霊的存在とか、自分(の状態)とは次元の違うエネルギーや存在からのお知らせ、働きかけとして、シンクロニシティが起こる、いや起こされているという説もあります。

言ってみれば、シンクロニシティについては、内側(潜在意識的なもの)からのものと、外側からのもの(別存在からの働きかけ)とに大別されると考えることもできます。

もし、そうだとすれば、このふたつのものを混交して、私たちはシンクロニシティを体験しているのかもしれません。

いずれにしても、シンクロニシティという現象は、今の時点では、まだはっきり(論理的・科学的に)説明できるものではないと言えましょう。

タロット(リーディング)は、偶然引いたカードに意味を見出す技法ですから、このシンクロニシティと大きく関係するどころか、それそのものでもあると言えます。

ですから、シンクロニシティを前提にしていないと、リーディングや解釈も成り立たないところもあるわけです。

そういうわけで、タロットをやっていると、シンクロニシティについて考えたり、感じたり、鋭くなったりするのは、むしろ当然となります。

そこで、私が思うのは、シンクロにニシティといえど、ほとんど思い込みの世界で起こっているのではないかということです。

自分の思い込みと意味づけで、シンクロニシティのように感じてしまうのか、それとは違い、純粋に、偶然の同調が起こっているのか、判断がつきにくいところがあります。

これ(その判断)については、書けるところも一部あります(最後に少しだけ書いています)が、また別の機会に譲りたいと思います。

今回は、そのシンクロニシティで、自分の「思い込み」だろうと、純粋に「お知らせ」であろうと、どちらにしても適用でき、しかも、一般的にはあまり言われていないことを指摘しておきたいと思います。

今、結構、スピリチュアル志向の人には、シンクロニシティとは、宇宙とか魂とか高次からのメッセージのように思われているところがあり、いわば、シンクロニシティからの解釈を好意的、もしくは正しいもの、自分の選択すべき方向性してとらえてしまうことが多いように思います。

しかし、先述したように、シンクロニシティは、自分の思い込みのこともあります。

人は自分の関心が向いたものに対して、必然的に注意を払いますが、それにより、一見、関連性のないランダムなものでも、関連づけてしまう心の作用が働き、それがシンクロニシティのように感じられてしまうとも考えられます。

一方、何か霊的な存在、あるいは自分の内なるものからの呼び起こされたものが、シンクロニシティ現象として現れるとした場合も、そこから解釈されることが正しいとは限りません。

タロットカードでも、カードの象徴性のつながりから、偶然性から必然性へと変わって見ていくことがあります。

しかし、それは内容的にポジティブなものを示しているとは限らないものです。

つまり、シンクロニシティの起こるシステムはどうであれ、それは自分の意識で確実に、何か意味づけしていることには変わりないということです。

ということは、いい意味づけもあれば、悪い意味づけ(解釈と言ってもよいです)もあるわけです。

例えば、何かの会に参加しようとした時、電車の遅延とか、忘れ物とか、子どもの体調が悪くなったとかで、一度ならず二度までも同じようなことがあった・・・とすれば、その意味の解釈としては、「その会に参加することはまずい」というものもあれば、「障害はお試しであり、自分の意志貫徹を試されている」と見ることもできます。

どちらが正しいのかというのは、当人の解釈の範囲でしかありませんので、はっきりとは言えないものです。

ですから、ここで、シンクロニシティの意味を、イエスかノーかとか、正しいか正しくないとかで見るというよりも、結局、自分の心に何かしら引っかかりや、こだわり、関心がある(引っかかりも、いいとか悪いとかの意味ではなく)ことは確かとして考えるとよいのです。

自分にとって何かしらの意味があるから、シンクロニシティとして感じる(またはお知らせされていると感じる)わけで、その解釈を知りたいと思うのが人情ですが、まずは、意味がある(注意が向いている)とだけ見ておくわけです。

一番大事なのは、自分の関心が今どこに向かっていて、そのことについて、どう感じるか、どう思う(考える)のかということです。

先述の例で言えば、自分はなぜ会に参加する途中のことや、電車の遅れなどのことで、それほど気になるのか、そして、もし会に参加できなかった場合の自分気持ちはどうなのか? 逆に、スムースに参加できていればどうだったのか? 

このように、シンクロニシティ(と感じたことを)を振り返れば、やっていることが正しいか・正しくないかというよりも、自分自身の興味や学びの方向性、あせりや熱中度についても、違った目で見ることができます。

まあ、それでも、人として、正しいか正しくないかを知りたいと思う気持ちもあるでしょうから、その場合は、シンクロニシティだけの現象に頼らず、ほかの技法で見たり、自分の利害関係から離れているほかの人への相談をして、確認してみるとよいでしょう。

本当にすごい(自分にとって必要な)メッセージの場合は、電流が流れたようなものになったり、ありえないタイミングで、強烈な印象として飛び込んで来たりするものです。

こういう場合は、内からというより、外(別の存在や次元)からのものかもしれませんが。

タロットでいえば、誰がどう見ても、「まさにその通り!」「ホント、そうだよね」「タロットさんのおっしゃる通り」「いやー、これはもう、これしかないでしょう」(笑)みたいな展開が現れる状態です。

ついでに、こだわりやブロック(自分を狭めている枠)も、カードのシンクロニシティとして出ますから、シンクロニシティのメッセージ(の解釈)を好意的・肯定的ばかりに見るのは、希望(欲求)を反映したケースが多いと言えます。


ジャッジする自分は悪いのか。

よくあるテーマで、最近も、タロットリーデイングのクライアントの方と話題になったことがあります。

それはマルセイユタロットで言えば、「正義」のカードと関係する話です。

スピリチュアルや心理関係に興味を持ち、自己を分析したり、成長しようと頑張ってきたりすると、必ず、「ジャッジ」という問題に行き当たります。

ジャッジの問題とは、人や物事に対して、自分が評価を下してしまうということであり、シンプルに言えば、あれがいいとか、これが悪いとか決めてしまう心の傾向のことですね。

そして、おおむね、これについて、「ジャッジしないことがいい」とされています。

「ジャッジしないのが成長の証、心理的・スピリチュアル的な成長」みたいなことで言われるわけですよ。

でも、そうは言っても、ジャッジしてしまう自分がいる・・・ということで、私はまだまだだとか、ジャッジしてしまう自分ダメ・・・みたいに思って落ち込んでしまう人がいます。

これについては、まず、前提に大きな矛盾があるということを冷静に考えるとよいです。

ジャッジしないほうがよい、ジャッジする者は未熟、この設定自体、ジャッジしている(いい・悪いの視点で見ている)のです。

おそらく、ジャッジについて(ジャッジの問題について)、もともと言われていたのはそういうことではないのでしょうが、ジャッジする自分のことを気にしている方は、ジャッジすること自体の問題を、すでにいい・悪いで見ていることに気づいてください。

「じゃ、私はますます二重のジャッジ(自分自身が日々ジャッジする問題と、ジャッジするしないという問題を扱うこと自体の問題)の意味で、余計未熟だったんだ!」とふさぎ込む(笑)かもしれませんが、気づくことは大事ですから、気づいたあなたは自己基準で成長しているのです。

それから、ジッャジする・しないの基準を、自分(自己)基準で見ているか(絶対評価で見ているか)、他人基準で判断しているか(相対評価で見ているか)を考えてみましょう。

たいてい、ジャッジのことで悩んでいる人は、他人基準で見ています。

すなわち、何かとても聖人君子のような理想のモデル、スピリチュアルを極めた人とか、悟った人とか、あるいはそこまで行かなくても自分の師匠とか先生とか、そういう類の人を想像していて、「おそらく、そういう人はジャッジなんてしないはず・・・」と思い込み、そのような(自分が思い描く理想の)人の基準で自分のジャッジ具合を比べているわけです。

ここもすでに二重のジャッジ(自分自身の日々のシャッジへの思いと、理想の人の基準で見る自分へのジャッジ)があります。

さて、ここで、私が一番、ジャッジに関して言いたいことを述べます。

それは、この現実の世界で、人間ならば、ジャッジすることが正常である(普通である)ということです。

言い換えればジャッジすることが現実存在(実存)として、生きている実感を味わえることになります。

なぜなのかを説明すると、実はかなり複雑になりますので、あえて簡単に言いますと、この現実世界は個別世界、すなわち、一人一人違う個性を持つことで成り立つ世界だからというのが理由となります。

その「」こそ、私たちを現実と認識させている見方であり、構造と言ってもいいのです。

つまり、違いがあるのが当たり前で、違いを自覚するのも当然、それにいい・悪いの差をつけてしまう見方になるのも仕方がないわけなのです。

ただスピ系などで、「ジャッジしないようになる自分」と言われているのは、自分が思う、いい・悪いの判断のレベルを上げましょうということだと私は思っています。

いい・悪いを判断する基準とは、別の言い方をすれば個人の価値観になります。

価値観はその時代の国や社会、自分の属する集団・組織などで形成される一般的なものと、一人一人の個人的なものがありますが、ここでは個人的なものが主となります。

誰もが何らかの形で、自分の価値観を持ち、それによってジャッジ・判断を下すわけですが、その価値観の基準が自分なりに変わってくると、当然、ジャッジも変化していくわけです。

それが結果的に、前のジャッジしている自分より、今の自分のほうが、ジャッジをしていると思うこと自体も少なくなったし、ジャッジする対象や物事も変わったというようなことになるのです。

変化ですから、レベルでいえば、上と下のようものがあり、下がることもあれば上がることもあります。

上がるというのは、価値観が前のものより統合されたり、多角化されたりしたことで、モノの見方が変化し、前の時点でのいい・悪いがの線引きが消えたと思っていい状態です。

わかりやすい表現で言えば、以前腹が立ったり、感情が乱されたり、いいとか悪いとか判断していたりしていた基準(線引き・限界点)そのものが変わったわけで、ですから前のものには感情は反応はしなくなるのです。

下がるのは、逆に前より沸点や限界値が下がるか、色が白黒はっきりと線引きされるようになって、感情の反応が低いところで起こるようになると言えばよいでしょうか。

ま、とにかく、ジャッジするのは人として当たり前で、しっかり生きている証拠だと思えばいいです。(笑)

で、ジャッジする自分をなくそうとしたり、批判したりするのではなく、単純に価値観が変わる体験をしたり、自分のモノの見方のレベルを変えてみたりしてみましょうということなのです。

要するに、自分のジャッジの基準、モノサシを変えるわけです。

で、ジャッジする基準の変化は、感情ベースなアプローチと思考ベースのアプローチに大まかに分けてあり、前者が自分のハートとか素直な心で見るみたいなことで、よくスピ系で言われているものです。

ですが、これも誤解がすごくあるのですが、感情ベースより思考ベースのほうが合う人がいて、思考でもって視点を多角化することで、モノの見方の基準をレベルアップさせることができるのです。

まあ、思考のほうは、知識を増やすとか、お勉強によってみたいなことになりますが。(笑)

思考がジャッジを下しているから悪いみたいな話がありますが、感情が好き嫌いで判断していることもあるのですよ。そして思考が高度になれば、ジャッジレベルもまったく変わってきます。

でも、やはりどちらのベースにしても、そのレベルや段階において、ジャッジの基準はありますから、ジャッジしてしまう自分を責める必要はありません。

注意すべきは、まったく同じ基準でずっとジャッジが続いている自分の場合です。

他人とジャッジの具合を比べても意味はありません。あくまで自分基準です。

自分が成長しない基準で堂々巡りを繰り返していたり、反射的にジャッジが続いてしまっていたりして、それを自覚しないでいること(ジャッジしている自分を自覚することと、そのジャッジしている自分を責めることとは別ですから注意してください)が問題なのです。

ということで、ジャッジ(する自分)も楽しんでしまいましょう。楽しむコツは、「何によって自分はいい・悪いの判断をしているか」の基準を、自分で自分を愛おしく見ながら(笑)考えることです。

そうすると、現実の世界の仕組みやすごさ、そしてそのからくりに気づいてきます。

マルセイユタロットで言えば、「正義」を超えて、「隠者」から「運命の輪」への気づき・覚醒と関係していると言えましょう。


「節制」と「星」のエネルギー・動きの違い

マルセイユタロットの「星」のカードと「節制」のカードの特徴としては、描写されている人物が、ふたつの壷を持っていることがあげられます。

タロットの絵柄の中には、このように、象徴的な図形で似ているカード同士があります。

この「星」と「節制」も、壷の意味ではそういうこと(似ている)になります。

しかし、似ている一方で、違っている点もあります。そこが実は象徴性で理解する鍵となります。

よく見ると、「星」のほうの壷からは水がスムースに流れていますが、「節制」のほうでは、壷から出ている水はつながっているようにも見え、流れているというより、行き来している、交流しているような印象があります。

水が何の象徴であるかは、ここでは詳しくふれませんが、一種のエネルギーや労力を示すものと考えてみましょう。

そうすると、この二枚の比較から、「星」的な動きと、「節制」的な動きがあるということになります。

「星」的な動きとは、先述の見た目通り、エネルギーが滞りなく流れている、あるいはエネルギーをうまく流している状態であり、「節制」的な動きは、交流や混交、入れ替えと言えましょう。

エネルギーでも何でも、あるものを流し続けられるというのは、それが入っている壷とか入れ物・容器が、相当巨大でなければなりません。

蛇口から水をたくさん流す(あるいは多数の蛇口から流す)ことを想像しても、貯水タンク、さらには水道管を通って流れて来る前の大元、取水先の水がめ、具体的にはダムとか川とか地下水などが巨大なものである必要があります。

さらには、容器が大きくても、そこにエネルギー(水)が溜まっていないことには、当たり前ですが流すことができません。

一方、節制は、ふたつの壷はありますが、そのふたつの壷をもって、水を交互に入れ替えたり、混ぜ合わせたりしていることから、エネルギー・水自体は、どちらかの壷の容量に収まる範囲であれば済むことになります。

つまり、「星」には大きな資本やエネルギーが前提のうえで、それこそエネルギーや影響を広範囲に流すことができ、「節制」は大きなもの(容器・エネルギー)はいらず、むしろ効率(性)や混交することによる変化(化学反応)が求められるということになります。

この場合、エネルギーをお金とや労力として見れば、具体的に、自分がどのようにエネルギーを扱えばよいのか、「星」と「節制」のタロットの象徴性を通してわかります。

よくスピリチュアル系統の人で、自然や神(大いなるもの)とつながれば、エネルギーはとめどなくあふれてくる(豊かになる)という人がいますが、それは「星」の状態を言っているものとマルセイユタロット的には考えられます。

ですが、つながった気でいても実際につながっていない状態では、すぐにエネルギーは枯渇することになります。

お金でいえば、貯金もない、入金する根拠・予定・流れもない(システムができていない)のに、ただ浪費するだけという状態です。

自然や大いなるものとつながるというのは、ただそういう気分になるだけではダメで、自己の存在に「完全」や「尊さ」を確信している状態になければならず、平易に言えば「大きな愛を持てる状態」、言い換えれば「自己と他者への愛が統合されている状態」だと述べられます。

それには、流すだけではなく、流すための許容量の大きさ(自分自身の器)も必要です。これは受容性(受け入れ)に関係します。

「出せば入る」といろいろなところで語られていますが、それは確かにエネルギーの流れとしてはそうであっても、自分がどこかで流れをブロック(出す方でも入れるほうでも)していれば、流しても入らず、あるいは入っても流れず、パイプが詰まったようなもので、アンバランスな状態か常に苦しい状態となります。

例えば「お金を使えば入る」というのも、受け取る器、受け取ることのできる流れがあるという「入る」側の意識と確信が、今までよりも変化して、これまでブロックされていたものが壊されない(意識と次元の変容・ブレイクスルーがなされない)限り、ただの消費(浪費)に終わる(出すだけ)ということになるのです。

マルセイユタロットでは「星」になる段階の前に、数々のカードたちが控えています。

「節制」も、「星」の前に存在します。

「節制」は、交流、混交、効率を象徴しますが、そこには自分と他者との関係性のバランスが働いています。

お金でいえば、一定の金額で効率よく使える能力であり、収支バランスがきちんと計られる知識と感覚です。

最近はいきなり「星」になろうとする人が多い気がします。できないわけではありませんが、それは危険だったり、無理があったりします。

大きなものが扱えるようになるには、先に小さなもの(範囲)をうまくコントロールできるようになることが、いわば王道であり、安全な道です。

ですから、タロットでいえば、まずは「節制」的なエネルギーの扱いに長けたうえで、「星」に進むほうがスムースに行くということになるのです。


タロットにおける質問について

タロットリーディングでの質問(問い)については、実践する人にとっても、タロットを教える人にとっても、いろいろと意見があるようです。

私自身は、一言で言いますと、タロットへの質問は重要でありながら、実はそうでもない。

という立場をとっています。

特に、タロットに習熟してくればするほど、質問自体に意味を持って来なくなると考えています。

しかし逆に言えば、初級のうちは、質問は結構大事です。

そのことについて、少し説明しましょう。

まず初めのうちは大事だというのは、そもそも、タロットの解釈・読み方が、まだこの頃は十分身に付いておらず、有り体に言えば技術不足なので、質問にもある程度凝らないといけない(質問にも注意を払わねばならない、設定しなければならない)からです。

質問が漠然としたもの、例えば、「私はどうなりますか?」とか、「なになに運はどうなのでしょうか?」みたいなものですと、視点がぼやけてしまい、タロットが出された(展開された)としても、どこに焦点を合わせればいいのか判断しづらくなります。

タロットは絵柄であるので、まず基本的には、自分の質問に関連する様々なイメージと、出たタロットの絵柄との合致などを見ることで判断しようとします。

要するに、少々こじつけ的なものから最初は読んでいくスタイルとなっていくのです。こじつけというと言い方が悪いですが、相似形を探すということでは、実は非常な重要な作業なのです。

これが、もっと質問を絞り、「仕事の売上を伸ばすにはどうすればよいか?」というような具体的な感じにしていくと、「(自分の問題となっている)仕事」についてのイメージ、営業や売上、その他それに関係することのイメージなどが本人に出ますので、それと絵柄が合っていたり、何かピンと来たりするタロットに注視することができます。

質問が具体的であれば、それだけ具体的にタロットから探そうとするわけです。

タロットリーディングは、最初のうちは抽象的な感じになりがちなので、質問からある程度、読みやすくする用意をしているのです。

これは言い方を換えれば、タロットと問いを関連させて、ストーリーを作りやすくしているということです。

しかし、こういったことも、タロットの知識と技術が上がってくると、変化していきます。

最初にも述べたように、タロットに習熟してくると、質問自体が、あまり意味をなさなくなってくるのです。

それは、タロットは象徴であり、象徴とは回答がひとつとか、正答がこれとかと言った、現代人がなじんでいる思考方法とは違うものであり、多重構造的に考えていく(あるいは感じ取って)ことにあります。

従って、例えば、質問が仕事のことであっても、タロットから出た象徴性は、いわばクライアント(質問者)の仕事を中心にしながらも、今の人生そのものが表されていると見ることができるのです。

ということは、それ(タロットの展開)がこの人の恋愛にも、家族にも関係していると読むことが可能になります。

ここはなかなか今の常識(的思考)で慣らされるとわかりづらいですが、ある特定の事象には、すべての因子が含まれており、その逆に、すべてのことはある特定のことで表されるという考えがあるのです。

ですから、今のクライアントの悩みを解くことで、全体性への影響(改善)をすることもできますし、全般的な流れを観て、個別的なものに対処することも可能になるという理屈になります。

このため、リーディングの一期一会性が極めて増し、そして、(クライアントの)質問内容そのものよりも、その本質を象徴性としてタロットから読むというスタイルに変わっていくわけです。

あと、クライアントや自分の質問自体がすでにある種の枠・価値観を表していることがあり、それゆえ、タロットがたとえどんな出方をしようとも、その世界観とレベルで判断してしまう(されてしまう)という問題があります。

これも、タロットへの質問が重要でありつつ、本質的には重要ではないという理由のひとつになります。

例えば、「どちらが自分にとってよい選択か?」というような質問と、それに対応するタロットの出方は、それはその人の基準か、タロットリーダーの基準(価値観)による判断が多くなり、その質問はその基準においては意味をなしますが、見方を変えれば、まったく無意味に近く、自分の成長と解放から考えると、その質問とやり方は変える必要があるのです。

極端な事を言えば、どらちがよいか?の質問と、それに対応するタロットをしている限り、クライアントもタロットリーダーもあまり成長はないと言ってもいいです。

ただ、ある次元では必要であり、楽しい質問(興味を持つ)質問になるので、必ずしも悪いわけではありません。そういった選択の質問が要求されるレベルと次元もあるということです。

以上、簡単ですが、タロットにおける質問について、述べてみました。


エッジボールに「運命の輪」

五輪の卓球、日本、男女とも大活躍ですね。

卓球では、台の端(エッジ)に当たって、ボールが極端に変化することがあります。(エッジボール)

皆さんも、この度の五輪の試合で何度か目撃したことでしょう。

プレーしている選手、その選手を応援している側にとっては、エッジボールが自分の得点になるかどうかで、いわゆる「運・不運」を思います。

エッジボール自体は、ただ玉が台の端に当たっただけのことです。

そのことをルール上、当たって返すことができなければ、自分の得点にはならず、相手の得点になるという話です。

しかし、ボールが、端・エッジに当たるということのまれさと、当たったボールの予測不可能な動きで、そこに運の介在があるというように感じるわけです。

ただ、このエッジボールの運・不運も、対立的(相対的)な見方をしている場合のみ成立します。

対立的というのは、自分と相手という、何らかのふたつの競争や比較があるということで、自分にとってはの不運は相手にとっての幸運になり、自分にとっての幸運は相手にとっての不運とみなされます。

どちらの選手にも肩入れせず、中立に見ていたり、競技そのものに興味がない状態であれば、エッジボールに不思議さは感じても、そこに運・不運を見ることはないでしょう。

つまり、運・不運(の思考・感情)は、対立的、二元的状態で発生していることが多いということなのです。

もうひとつ言えば、自分を中心とした何かのストーリー・物語があれば、そこに運・不運の見方は出てくると言えます。

もう少し踏み込んだ言い方をすれば、運・不運は、物語の波(起伏)によって作られるということです。

卓球の試合で例えれば、ずっとポイントを取られ続けていた状態で、たまたまエッジボールが当たり、それが少ない得点のひとつだったとなれば、そのエッジボールに、選手自身も、応援しているほとんどの人も、得点したからと言って特別な「幸運事」とは思わないでしょう。(ただのラッキーという意味では見るかもしれませんが)

非常にハラハラドキドキで、シーソーゲームのような展開にある試合、もしくは選手の背景として、ずっと努力してきたのだとか、病気や試練から立ち直ってきたとか、メダルが近いとか、あと一点で勝つとか、そういうような起伏ある「スト-リー・物語」があってこそ、エッジホールによる得点(失点)も、幸運とか不運とかで色づけされていくのです。

これらのことを表しているのは、マルセイユタロットでは、「運命の輪」となります。

この「二匹」の違う動物たちによる回転的な起伏が波になっている状態で、まさに「運」(幸運・不運)と呼ばれるものが生成されているのがわかります。

さきほど、エッジボールの運・不運を感じない人がいる話をしました。

それはどちらにもつかない人であり、試合に興味のない人でした。

この状態や境地を、どちらかに傾いてしまった人が得るには、傾きを是正、あるいは等しく平均化しなくてはならず、それは単純に言えば、まず相手の立場になって見ることと言えます。

さらに、長期的な視点か(時間概念を使って平均化)、俯瞰した視点(空間的統合・価値観の変移による視点)で観察することで、試合の結果・勝ち負けよりも、試合そのものを楽しむような見方になります。

いわばプロセスと結果を同等に見るような方法です。

逆に言うと、どちらかに肩入れしたり、結果にこだわり過ぎる見方をすれば、運・不運というものが色濃く分けられ、それ(その小さき世界観)に支配されてしまう(こだわって抜けきれない、執着する)ことになります。

相手の立場になったり、俯瞰したりするというのは、図形的にはこちらから見るのと同時に、逆方向(相手から見た視線)からも見たり、一段上の統合した地点から見たりすることであり、それは結局、三角形になったり、半円が円になって(あるいは二次元的円が)、さらに回転して球になるようなイメージに近くなります。

「運命の輪」でいうと、スフィンクス(輪の上にいる複合獣)の位置が大事で、こにいると、二匹によって回されている輪の回転が俯瞰でき、さらに、その回転方向は(二匹の動物の回転方向とは)別の可能性があることが意識できます。

だから、「運命の輪」では、輪のスポーク(車輪の中心から出ている棒、輻)が実は非常に重要です。スポークの方向性が球的なものを示唆しているからです。

「運命の輪」は、文字通り、運を意識するカードと言えますが、それ(運)は実は相対的なものから生み出されていることに気づき、低次の運命論・吉凶的視点から私たちを脱出させるための示唆を与えるものなのです。

まあ、しかし、先述したように、ストーリーと起伏によって運・不運は明確さを増しますから、個人の物語(人生)をドラマティックに演出する効果としては、運は意識されてもよいものとなるでしょう。

卓球で言えば、メダルや勝ち負けを意識して、どちらかを応援する見方をすれば、それだけ興奮や感動はでき、エッジボールにも運命の神様が宿っているように見えるということです。

そう、つまりは「運」は現実次元における演出装置なのです。しかも、真には、自分がその演出をしている(「運命の輪」を回している)ところがまた面白いところです。


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