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少ない枚数の展開(スプレッド)

私はもとともは旧タロット大学出身で、カモワンタロットの講師をしていた者なので、その使う展開方法も、もっぱらカモワン流がメインでした。

しかし、そのカモワンタロットも、もう一人の製作者はアレハンドロ・ホドロフスキー氏であり、ここでも何度か言及しているように、カモワン氏とホドロフスキー氏とでは、使用するタロット展開も違っています。

当たり前ですが、同じタロットでも、使い方を変えることができ、ただひとつの方法が絶対などということはないでしょう。

ツールとしてのすばらしさは当然必要ですが、やはり、使う者の考え方、技術も多分に影響すると考えられます。

言ってみれば、タロットは、使う人によって姿や性格を変えるということです。

ということで、私も今は、カモワン流にこだわらずに、いろいろなメソッドを研究し、使っています。

マルセイユタロットには「手品師」というカードがありますが、まさにこれで、いろいろな技術・道具を、臨機応変に使うということです。

ちなみに、マルセイユタロットには、すべてのカードが関連している、あるいは、ある目的のために、カードそれぞれが関係し合うという考えがあります。

ですから、「手品師」も、その背景にはほかのカードと当然関係しており、数のうえでも象徴的にも、21の「世界」とは強い関連性があると言えます。

要するに、「手品師」の臨機応変さは、カードで言えば「世界」という目的・大目標という理想があってのことで、勝手気ままにやっているというわけではないのです。

逆も言え、あるメソッドにこだわり過ぎたり、あるやり方が唯一絶対だと思ったりして、画一的・硬直的になり、かえって本来の目的が達成しにくくなる(効果が出にくくなる)という事態もあり得ます。

ということで、象徴的に言えば、「手品師」と」「世界」、両方の方向性から、リーディングなり、タロット活用なりを考え、実践するのがよいと思っています。

そして、近ごろ、私は、タロットカードの展開枚数が少ないものの使い方(考え方)に注目しています。

展開枚数が少ないもの(スプレッド)と言えば、一枚引きや二枚引き、多くて三枚引きと言ったところでしょうか。

一枚引きという、もっともシンプルな展開は、一枚だけに一見簡単なように見えますが、実はとても奥深いものでもあります。

しかし、一般的には、二枚か三枚の引き方がよいかもしれません。(展開枚数の少ないものを選ぶ場合)

そして、三枚引きはよく使われるスプレッドで、結構研究されていると思います。

ただ二枚引きはあまり見かけない気がします。そこで、私は二枚引きいろいろな角度から読むことをしてみました。

すると、面白いことがわかってきまして、やはり、マルセイユタロットはすばらしいなと改めて感じた次第です。

その研究成果は、受講生用のメルマガなどで配信、披露しています。

その一部というわけではありませんが、少しだけここでも紹介しますと、それは視点の切り替えというものです。

三枚引きでもそうですが、だいたい、タロット展開の流れ・方向性は、左から右へというのが主流です。それを時系列的に解釈しますと、過去から未来へ、左から流れて行くという見方となります。

実はそれは、かなり三次元的な常識的見方となります。例えば、さきほど述べた時系列でも、過去→現在→未来と見て行くことになりますが、それが普通の時間のとらえ方であり、過去に原因があって現在と未来に結果があるという形になります。

しかし、逆の見方も可能で、未来に原因があり、それによって今や過去が規定されてくるというものもあります。

マルセイユタロットは、三次元的な時空だけで見る世界ではありません。

ということは、時系列的な見方にしても、普通とは逆もあり得ることになります。

二枚引きであっても、左から右という流れだけではなく、右から左へ、あるいはその両方を同時に見るということも可能です。

一枚一枚を独立させるのか関連させるのか、それもどちらかに決めなければならないというのでもありません。

ただ、よくあるような、数秘的にタロットを扱うもの、例えば、二枚のカードが、5と6という数を持つカードが出たので、合計して11の数を持つカードに本当の意味がある・・・みたいな考えは、個人的にはあまり採り入れ過ぎないように注意が必要かなと思っています。

それは、(マルセイユ)タロットは絵柄がメインであるからです。

タロットは数と無関係ではないので、上記のような数秘的なとらえ方も、間違いではないでしょうが、それを第一に考察することは、タロットという絵が主であるものの特性を無視しているに等しいかと考えます。何といいますか、タロットに付与されている数を第一にしてしまうと、タロット愛がないような感覚になるのですね。(笑)

ともあれ、タロットのスプレッドもいろいろとあり、面白いものではありますが、まだまた研究の余地はあり、観点を変えれば、少ない枚数のものも、これまでとは違った使い方もできるということです。

また、自分が使いこなせないツール、技術、方法を持っていても仕方がないので、そういう場合は、今の自分が使いこなせるもので確実に効果を出すか、もっと研鑽を積み、自分のレベルを上げて、高度なものを使いこなせるようにするか、になります。

あと、マルセイユタロットの4組の考えを入れれば、理論だけとか、気持ち(感情)だけとか、やる気だけとか、実利のためだけとかで偏って選択をしていても、やがて、その選んだやり方に飽きが来たり、つらくなったりしますので、4組のバランスも考慮するとよいでしょう。


マルセイユタロットのリーディングとは

二年前の今頃の記事に、タロットリーディングで具体的なことが言えるための工夫について、書いています。

しかし、根本的に言っておかねばならないことがあります。

一般的に、タロット占いとタロットリーディングを混同・誤解している人が多いということなのです。

占いの場合、抽象的なことでは満足しない人が大半でしょう。そもそも、悩んで占いに来ている理由には、具体的なことが聞きたい気持ちがあるわけてす。

例えば、「相手は私のことをどう思っているのか?」という質問には、私のことが好きなのかどうなのか、(恋愛対象として)何とも思っていないのか、少しでも可能性があるのか、そこのところをはっきりさせたい(つまり具体化させたい)という思いがクライアントに隠されています。

そこをぼかされると、答えになっていないと感じるでしょう。

ほかにも、「どんな仕事が向いているのか?」という質問に、「人と関わる仕事がいいみたいですね」というくらいでは、やはり、クライアントには満足できない部分が残るでしょう。

もっと具体的な職種とか業種、時にはどこのそこの会社(企業)に行けば採用されるとか、勤めるのが向いていないのなら、アクセサリー販売を起業させれるとよいですよ、そしてそのデザインは・・・みたいに、より詳しく言ってくれれば、とてもうれしく、助かる気持ちがすると思います。

そういうことを教えてくれるのが占い師の役割だと、信じている人が少なくないでしょう。

そして、その具体性が当たっているか、当たっていないかで、優秀な占い師かどうかが世間的に判定されるという習わしもあります。よい占い師と評判になれば、占い師としての営業も順調になり、経済的にも栄誉(プライド)的にも満たされます。

ですが、タロットリーディングとなると話は別です。

タロットリーディングは、当てるためにするものではなく、また、具体的なことをタロットリーダーが、タロットから読み取るために行うものでもないからです。

目的は、クライアント自らが気づいたり、納得したりしてもらうために、タロットによって導きを行うことです。

よく、「答えは質問者(クライアント)自身が知っている、質問者の中にある」と言われます。

これがタロットリーディングの基本的姿勢になります。ただし、(自分の中の何かが)知ってはいても、わかってはいない、気づいてはいない(自覚できない、自分一人では理解できない)という状態があるからこそ、悩んで、相談に向かうわけです。

いくら「答えは自分の何かにある」と言っても、一人では見つけられない、判断がつかないというのが本音ではあります。(その意味では、必ずしも「自分の何に答えがある」とは言えないのです)

人は完全性を持つがゆえに、悩みの答えも、当然完全性の中にあることになるのですが、一方で、人は完全性を自覚することができない世界(この現実のこと)にもいます。

そのために、完全性から分離された意識にあり、自分と他人という具合に、個別に分かれた意識状態にほとんどの人がいます。

それはつまり、自分だけでは解決しない状況に置かれている(という認識の世界にいる)わけです。

従って、他人からの援助やサポート、刺激、働きかけが必要となります。

マルセイユタロットの「節制」の原理みたいなものですが、ふたつの壺を混ぜ合わすことで、救い・救われる感覚や実態が出るのです。

話を戻しますが、タロットリーディングは、タロットの象徴性を読み解き、クライアントの実際の悩みや疑問と照らし合わせて、クライアント自らが答えを見つける(悩みについて納得する)ためのお手伝い、援助を行うものです。

象徴というのは、メタファー、隠喩・暗喩の形で、タロット(マルセイユタロット)から意味が出ます。それは抽象的なものだったり、誰にも当てはまるような普遍的で、集合意識の元型であったりします。

だから、具体的な答えとか形にはならないのです。

では、具体化しなくていいのかと言えば、そういうわけではありません。現実世界で生きている私たちは、時空の中で制限(の意識)があり、ある程度の具体・選別がないと、すっきりしない感覚を持ちます。ちょっと難しく言うと、肉体レベルの次元があって、その満足感・納得感が必要な場合があるということです。

そのレベル(肉体次元)までタロットの象徴性の意味を落とし込んでいくということは、言い換えれば、クライアント個人の世界に、象徴性を移動・降下させる(変換し、当てはめる)ということでもあるのです。(これは精神の錬金術と言えます)

例えば、「拡大すること」という抽象的象徴性が、あるクライアントにとっては、具体的(その人の個人的なレベルや次元においてということ)には何の意味を持つのか、それを見つけて行くという作業になります。

クラインアント個人の世界での意味になるわけですから、もし仕事で悩んでいたら、仕事における拡大とは何かを、その人の具体性(実際的なこと)に転換させることになります。

それが転職とか、支店を増やすとか、新しいこと(それもクライアントが考えている具体的なこと)をやりたいと思っていたものを実施するとか、とにかく、人それぞれの意味になります。

結局、具体的なこと(個人的な意味)は、その人個人しか知らないのです。タロットを読む側は、あくまで推測にしか過ぎないことになります。なぜなら、クライアントとタロットリーダーは他人(同じ人物てはない)だからです。

ですが、マルセイユタロットの象徴性の世界を通して、クライアントとリーダーは同じところ(世界)に存在することができます。

その世界とは、現実を超えたものでもあります。ですから、クライアントの現実の意識や認識を超えたアイデアとか、解放の手段を降ろすことも可能になるのです。

同時に、クライアントという個人の世界に、抽象的で象徴的な意味合いを、具体的な事柄・意味に変化させることが必要で、その橋渡し、架け橋をするのが、タロットリーダーの役割なのです。

このことがわかれば、タロットリーダーがむきになって当てなくてもよく、何か具体的なことを言ってあげないといけないと、あせる必要もないのです。

もちろん、タロットやタロットリーダーが万能ではありませんから(タロットリーダーも現実世界にいる分離意識を持つ人間です)、導きがうまくいかず、クライアント自身が納得する答えを探し出せないままになることもあるかもしれません。

しかし、タロットリーディングの場合は、重要なのは、答えをはっきり出すことよりも、リーディングで相互やり取りしながら、問い(質問や悩み)を改めて見つめ直す、そのプロセスにあるのです。

なぜなら、そのプロセス自体が、完全性のための交流であり、肉体(現実)レベルでは満足できないようでも、精神的・霊的レベルでは、大きな変容が起こっている可能性が高いからです。

ですから、不思議なことに、マルセイユタロットのリーディングでは、リーディング時にずばりな答えが出なかったとしても(探せなかったとしても)、その後、悩みの事態が変容し、実際的にも変化があった、悩みの質が変わってきた(気にならなくなった)、ほかの考えができるようなって、自分の成長を実感することになった、というようになることが多いのです。

占いで救われることももちろんありますし、それは自分(クライアント)の思い方、利用次第ですが、タロット占いとタロットリーディングの違いがわかっていることは、特にタロットを使う側の人にとっては大事だと思います。


マルセイユタロット講座、やってます。

最近、日本のマルセイユタロット界隈はどうなっているのかなと、ふと思って、「マルセイユタロット」とか、「マルセイユタロット講座」「マルセイユタロットリーディング」などで検索してみました。

すると、以前より、動画案内が増えたり、新しい講師陣とか、マルセイユタロットの魅力を伝えてくれて、頑張っていらっしゃる人もいたりするのですが、全体的には、なんだか、寂しいなあという感じの結果になりました。やはり、ウェイト版などと比べて、少数派というのは否めない感じはあります。

しかも、私など、まったく検索に出なくなっているのですね。(苦笑)

このブログは、まあまあ記事数も多くて、マルセイユタロットの検索では引っかかるものもあるとは思ってましたが、例えばGoogleとかでは、もう引っかからないようですね。以前、避難用に作っておいたFC2ブログのほうが、まだ検索に出る(すごいあとのほうのページですが…)くらいです。

これでは、私が何も講座とかリーディングとかしていないと思われても仕方ありません。(笑)

いや、一応、細々とですが、ちゃんとやっているんですよ。これが。

前にも書きましたが、コロナ発生以来、講座としては、オンライン講座(個人講座マンツーマン)がメインとなっています。(リーディングもオンラインでやっております)

オンラインはSkypeなどで、以前からもやっていたので(今はZoom)、オンライン切り替えはさほど難しくはなかったのですが、マルセイユタロット講座(入門講座を除く、最初の段階の基礎講座)が、すでに、かなり内容的に密なものになっておりまして、それをオンラインでやっていくとなりますと、結構、終了まで長期間になることが、2020年、やってみてわかったのですね。

私のマルセイユタロット基礎講座は、●グノーシス(神性の内在、神性・完全性への認識、向上を目指す)思想をベースとしながら、それを現代的に考え、さらに現実・精神・霊(魂)の三つの分野から、タロットを通した、その人なりの人生観を再構築していくものとなります。

言わば、マルセイユタロットを使った教育講座であり、自分と世界にある多重性を浄化・統合して、生きやすくしていく(調整し、折り合いをつけていく)、自己(世界)再認識の講座と言えます。

講座内容では、タロットのみならず、関連する様々な思想・知識(占星術・カバラー、数秘、歴史、心理、宗教、哲学等)をタロット用に整理して解説(取捨選択もできます)、マルセイユタロットがいかに象徴システムとして優れていて、活用できるものであるかを実感していただきます。もちろん、リーディングを学びたい人にも、その技術を詳しくお伝えしています。

オンライン化したことで、講座方法は対話法みたいな(時には映画やアニメの話、時事問題にふれての)形になり、それは一見、雑談のように見えても、意図して、マルセイユタロット理解や自己認識につなげるようにしています。単に一方的にタロットの講義をしても身につかないですし、面白くないからです。

講座は、いかんせん、長期にわたってしまうのですが、関連知識を省くことで、純粋にマルセイユタロットだけ学びたいという人には、期間を減らすこともできます。(基本、マンツーマンなのでご希望に応じるのも自由にできるのです、日程もその都度、決めて行くことができます)

私自身、どこにもない講座だと自負しているところもありますし、技術的にも、例えば小アルカナの使い方などにおいても、私自身が開発し、使いやすくしたものも含まれています。

しかも、これもほとんど知られていないようなのですが(苦笑)、お得なことに、終了してからもずっと質問もOKで、勉強会参加や動画視聴(基本的には無料)も可能です。(研究テーマごとの分科会もあり)

動画と言っても、短い簡単なものではなく、ほとんど1時間以上、時には2時間くらいの解説が入るものです。(あえて見やすい、短か目のものもあり)

何といいますか、決してそんなつもりはないのですが、もはや、見つけた人はラッキーみたいな、入り口が暗号化、結界化されたような(笑)、知る人ぞ知る「吊るし」や「隠者」の教室みたいになっていますが、一度門をたたいていただければ、その奥は長く、広いところにつながっているのです。

私もマルセイユタロットに関わって20年になりますし、講義歴も15年くらい経ちます。いつのまにか、マルセイユタロットのベテラン講師になっています。

本格的にマルセイユタロットを学習されたい方は、どうぞ、発見しにくい(笑)扉を見つけて、合図(ご連絡)いただければと思います。

まあ、あなたが見つけるというより、マルセイユタロット(にある、あなた自身が欲する何か)があなたを誘うのだとも言え、すべては縁と言えなくもないです。

この記事を見たのも、たまたまかもしれませんが、やはり偶然ではなく、きっとどこかで、求め・求められている部分がシンクロしているのでしょう。

ひっそりとですが、お待ちしております。


人と違うからこそのタロットリーディング

この現実世界は、誰一人としてまったく同じ人がいません。全員、どこか違うわけです。

ということは、自分の問題は、究極的には、他人が解決できないということです。なぜなら、みんな、自分とはどこか違うわけですから、あなたの問題を完全に自分のものとして把握できる人は皆無だからです。(笑)

ですが、人はまた同じ部分、共通点持ちます。ミクロで言えば遺伝子構造が同じだから、「人」になっているわけで、人としての仕組みは同じなわけです。

またユングではありませんが、人は心理的にも共通のパターンを持つと考えられており、結局、思考・感情的にも、ある種の同じような型を持っているとも言われます。

同じようでいて違う、また、違うようでいて同じなのが(現実の)人間というわけです。

さきほど、究極的には自分の問題は他人には解決できないと言いましたが、矛盾するようですが、他人だからこそ、自分の問題を解決できる可能性が高まるとも言えるのです。

それは、自分とは違う部分があるのが他人だから、文字通り、客観視点でもって見ることができ、自分だけで考えて袋小路に陥っているような場合には、突破口が見つかりやすいからと言えます。

それでも、自分を救うのは自分であることには変わりありません。

当たり前ですが、他人が誰かの代わりになることができないからです。(完全に入れ替わることは不可能)

前にも言いましたが、たとえ誰かを救ったと思っていても、救われた本人自身が「救われていない」と感じていたら、それは救われていない、つまり、本当の意味ではその人を救ってはいないのです。

結局、その意味で、最終的には、自分で自分を救わねばならない(自分が救いを自覚しなくてはならない)ことになります。

しかし、だからと言って、他人が何をしても無駄ということではなく、本人が救われたと思う道筋をサポートすることはできますし、やはり他人の力がないと、本人自身ではどうすることもできないケースが多々あります。

タロットは、ちょっと大げさな言い方をしますと、人助けに使うことができます。その一番の方法は、タロットリーディングを行うことでしょう。

さきほど言った、一人一人違うからこそ、人は客観的視点をもって、別の人の問題点や解決点を指摘することができやすい点が、そのままタロットリーディングにも当てはまるのです。

さらに、これも先述したように、人は違っているけれとも、似たところを持ってもいます。

その似たところが、タロットの象徴性で把握することができるので、さらにタロットは人への援助に便利なものになってきます。

言わば共感性を持ちつつも、きちんと他人目線で、その人を見ることができるツールなのです。

しかも、マルセイユタロットの場合は、絵図には特別に仕掛けが施され、タロットに陥りがちな直感的判断の誤りやブレを修正する、論理的根拠も入っています。

また他人目線は、客観的ではあるものの、一方で、その人の思い込みが反映されやすいという場合もあります。

「他人」という、人の信じている、ある種の思想とか色メガネのようなものがあるわけで、それがかえって狭い視野にしてしまうこともあります。

それを防ぐのが、マルセイユタロットの絵図における論理性と言えましょう。

タロットを学習していくと、タロットリーダーとなって、他者援助をしてみたいという思いが出て来る場合があります。

それは、人として自然なことです。

ですが、中には、もっと完全に読めるようになってからやりたいとか、かなり、自分にブレーキかけてしまう人もいます。

もちろん、未熟過ぎる技術段階では、人に手助けどころか、迷惑になってしまうこともあり得るかもしれません。

しかし、ある程度学んだあとなら、自分の素直な気持ちに従って、人へのリーディングをしてみるのはよいことだ私は考えます。

その理由のひとつに、最初にも述べたように、人は誰しも違う部分を持つからというものがあります。

言ってみれば、誰しも、問題や悩みがあれば、誰かの手助けを待っているのです。

最後は自分でどうすればいいのかをつかむことはできても、それまでのヒントや道筋は、他人によってつけられていくことが多く、それは自分ではない者(他人)だからこそ、観点が違い、堂々巡りからの脱出を可能とさせるからです。

つまり、現実の世の中は、人(他人)あっての自分であり、自分あっての人(笑)なのです。

従って、まだ完全ではなくても、いや、完全ではないからこそ、他人へ(おせっかいにならない程度に)協力を惜しまないことがよく、それは結局は、自分を救う(完全性を回復していく)ことにつながるのです。

まさに、マルセイユタロットの「節制」の象徴(ふたつの壺を混ぜ合わす)で、協力、助け合いによって、お互い、人類全体を完全性に導くという感じでしょうか。

とはいえ、タロットリーディングにも段階やレベルがあり、お金をいただくとか、仕事として行うとかになってきますと、それなりの責任度が必要で、趣味レベルでやる時とは異なってきます。

人助けとして、積極的にタロットリーディングを活用してほしいと思う反面、自分の技術レベルや、責任の度合いにも、それ相応のバランスは取っておくことは求められます。

しかし、たとえまだ駆け出しの頃でも、上記を理解しつつ、他人目線というものは、今まで説明したきたように、それだけで人の力になる部分があるのですから、タロットという強力なツールを得たのなら、早い段階で、勇気をもって、他者へリーディングしていくこともよいと思います。

あなたはあなたでいるだけで、人とは違うのですから、それ自体が、人を救う力となり、あなたの存在価値として高いものがある(存在価値をよい意味で自覚できる)のです。


「手品師」のサイコロから

私は乗り鉄ほどではまったくないですが、比較的、電車の旅が好きです。

前に、父親の話で、父が車(の運転)が好きなのに、認知症て乗れなくなっているというお話をしましたが、私は父と反対で、車(の運転含めて)はあまり好きではありません。

とはいえ、若い時は、かなり車でいろいろなところには出かけましたので、車の便利さと楽しさも知ってはいますが、どちらかと言えば、鉄道のほうがいいですね。

よく考えると、バスや飛行機(残念ながら、航空中耳炎にかかるようになってから、なかなか飛行機には乗れなくなりましたが)でもよいので、結局、自分が運転操縦するのではなく、乗せてもらうのがよいのだとわかります。ということは、乗り物に関しては受動的だと言えます。

なぜ受動的なのかと言えば、性格にもよるでしょうが、旅の過程や風景などを楽しみたいというのがあるからだと思います。自分で運転していては、さすがに十分景色を楽しむことはできませんので。

逆に運転が好きな人は、景色を見ながら物思いにふけるというようなことよりも、自分で操縦している感覚自分の意思が行使できる自由性と支配感、目的地に自分で向かっているプロセスが心地よいのだと思われます。この点では自分が主体であり、能動的性質を持ちますね。

さて、前置きが長くなりましたが、そんな電車旅を好む者として、最近、JR西日本が、「サイコロきっぷ」なる企画を打ち出したことを知り、興味深く見ました。

これは、サイコロの出目によって、大阪を出発として目的地までのチケットが変わるというもので、一人五千円で、最遠は博多があります(確率は低いようですが)し、どの目的地でも往復分以下のお得価格になるようです。

それでサイコロと言えば、マルセイユタロットでは大アルカナナンバー1の「手品師」というカードが思い浮かぶのです。

一方、市場で普及率の高いウェイト版の大アルカナ1は「魔術師」であり、その絵柄には手品道具ではなく、魔術道具化したものが描かれています。そこにサイコロらしきものもありません。

マルセイユタロットの「手品師」はその名の通り、手品をしていると見られるため、手品道具が色々とあり、そのうちのひとつにサイコロも存在します。(ただ、サイコロかどうかが、古いマルセイユタロットではわかりづらくなっていて、サイコロとは言い切れないこともあります)

現代にリニューアルされたマルセイユタロットでは、サイコロとしてはっきり描かれているパターンがあり、特にホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットでは、出目とサイコロの数までこだわっています。

サイコロの目は、ご存じのように6つあり、通常、その対となる側を合計すると「7」になるよう設計されていて、それが三通り(「1,6」「2,5」「3,4」)あります。

出目の組み合わせも、二つのサイコロの時は21あり、もし三つあれば56通りになるということで、明らかにサイコロを、タロットの数や構成に関係させていることがわかります。(詳細は講座で語っていますし、口伝的内容なので、深くはここでは言及できません)

また、サイコロそのものは立方体であり、三次元(現実世界)とそれ以上の次元(精神や霊の次元・世界)についての考察が意図されていると予想されます。

こうしたところが、マルセイユタロットの象徴性の解読として、とても面白いところです。

ですが、今日は、そうしたものとは別の見方としてのサイコロについて、少しふれたく思います。

さきほどの、JR西日本の企画もそうですし、その元ネタみたいだと言われている、北海道から全国にも放送されたバラエティ番組で、大泉洋氏を有名にさせた「水曜どうでしょう」にも、サイコロの出目による運命任せの旅企画がありました。

そう、サイコロというものは、一種の運ゲー(運任せのゲーム)の象徴としてもあるわけです。

ということは、マルセイユタロットでは「運命の輪」とも関係するかもしれません。(事実、関係性を示す部分も見つかります)

言ってみれば、私たちの人生は、サイコロの旅をしているようなものとも言えます。

神か運命のいたずらか、何か私たちにはわからない要素で、賽が投げられ、あるイベントが発生したり、事件に遭遇したりします。

最近は、ガチャというたとえで、親さえも、まるでデタラメに割り振られる(どの親に生まれるかは、まさに運命ゲーム)うちのひとつのようにとらえられ、運がよければ恵まれた家庭環境に生まれ、よい人生の基礎が築かれるというわけです。(その反対に、運が悪ければひどい親と家庭環境に生まれ、なかなかまともに人生が歩めない)

そうした気まぐれな人生の演出の装置・象徴性として、賭博ゲームで使うサイコロがあてがわれているのも、なかなか面白いところですし、一種の皮肉のような、人生の悲哀さえ感じます。

果たして、私たちはサイコロ神(笑)にいいように操られ、悲喜こもごものサイコロ人生ゲームを味わされている存在なのでしょうか?

そういえば、今もボードゲームとして有名な「人生ゲーム」とか「モノポリー」などで、サイコロの出目次第で、本当に一喜一憂する感情を、私もかつて味わった記憶があります。

よく言われるように、スピリチュアルな話では、私たちは、その浮き沈みする感覚、感情を経験しに来ていると考える人もいます。

何が出るかわからないからこそ、人生のサイコロゲームも楽しめるということでしょうし、また出た目の数によって、体験することが違い、同じような目ばかり出す人もいれば、毎回異なる目を出す傾向の人もいて、それがまた個性となっているようにも感じます。

ここで再び、サイコロとタロットの数秘的な話に戻りますと、先述したように、サイコロの対の出目の合計数は「7」であり、それが三通りありました。

「7」というのは、ある意味、霊的な完成数、セット、ひとまとまりの段階とも言えます。その証拠に、7つの曜日(占星術的な惑星の象徴でもあります)や、音階とかチャクラの数とか、いろいろな面で、7の基本数的な要素がうかがえます。

サイコロひとつを振る時、必ず、1から6のどれかの数が(表となって)出るわけですが、その裏には、合計すると「7」になる数が隠されており、側面のふたつも、やはり合計すると「7」になる数が刻まれています。

つまり、明らかになっている表の出目の数のほかに、裏とか側面にも完成する(のための)数がいつも存在しているわけで、それは目に見えない部分とか、もっと言えば潜在意識(無自覚な意識)とか、精神や霊の領域と言えるかもしれないのです。

とすると、デタラメの運任せに現れたように見える、私たちの毎度毎度の人生ゲームも、完全なものがその裏と別の観点では隠されており、私たちは、実はいつも完全性の中でサイコロゲームを楽しんでいる(気づかず、遊んでいる、あるいは迷っている、彷徨っている)と表現できるのです。

その完全さに気づくために、マルセイユタロットはわざわざ、最初の段階である「手品師」からサイコロを用意してくれており、続くカードたちが、完全性を取り戻す(意識させる)ための示唆として、次々と現れて来るように配置されていると考えられます。

あるいは、複数以上のサイコロの場合、出目の組み合わせの数の象徴性にいきなり飛んでその人に応じた完全性の回復のための事件・イベントを用意してくれるのかもしれません。

いずれにしても、マルセイユタロット的には、「運命の輪」を超えないと、なかなかサイコロを振っている者の存在とか、仕組みとかを理解するには難しく、つまりは完全性より、不完全性・不足性を強く意識してしまう次元に留まりやすいということになります。

サイコロの象徴性は、まだまだ色々とあるとは思いますが、ランダム的、運的な要素と、計算的、システム的な面との両方を思っていくことで、「手品師」全体に描かれている意図も見えて来るのだと思います。

そして、私たちの人生ゲームの過ごし方も、それこそ、「手品師」が「振ってくれている(振らされている)」のかもしれず、なかなか興味深いところです。

ひとつ言わせてもらえば、私たちはいまだに「イカサマ賭博」をさせられている(そのカモになっている)というヒントは出しておきましょう。(笑)


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