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他人向けリーディングが自分用になる

今日はちょっと、プロタロットリーダー向けの話になるかもしれません。少なくとも、他人に対して、マルセイユタロットを使ってリーディングした経験がある人でないとわかりづらいでしょう。

と言っても、プロタロット占い師向けということではありません。何度もここで言っているように、私自身は、占いを教えていませんし(ただし、占いを否定しているわけでもありません)、タロット活用は占いがメインとは考えていませんので、あくまでも私が考える「タロットリーダー」においての話だと思ってください。

タロットリーディングには、大きく分けて、他人(相談者・クライアント)に対してタロットを展開し、リーディングしていくものと、自分に対してタロットを使い、読んでいくものとのふたつがあると言えます。

簡単に言えば、他人向け、自分向けというリーディングのスタイルです。

しかし、これは私の経験上と、実践されている生徒さんたちの気づきからも言えることですが、他人向けにタロットリーディングをしているのに、まるで自分のことを言っている(自分のことが言われている)ように感じる場合があるのです。

割と初期から、私自身は、他人をリーディングした際に、あとで、じっくりその展開と内容を、自分にも当てはめて検証してみるということをやっておりました。

すると、ことごとく、自分にもあてはまる内容であったことに衝撃を受けました。

とはいえ、まったくそのまま当てはまるというものではありません。これにはタロットにおける象徴機能を理解し、活用する必要があります。

例えば、タロット展開は同じでも、別の意味で読むことができるというのも、それに該当するでしょう。

重要なのは、クライアントの質問とか、自分の問題・問いというよりも、まずはタロット展開なのです。(展開されたタロットカード、その内容)

私はカモワン版から学んだ口ですので、展開法もカモワン流をベースにしています。すると、通常、カモワン流は、相手・クライアントがいた場合、クライアントを中心としてタロットを展開しますので、タロットリーダー側は逆向きに並べられたタロットを見ることになります。(クライアント側がタロットの正立・逆向き、展開視点の主ということ)

ですから、他人をリーディングしている時は、タロットの向きにおいても、タロットリーダーは相手(クライアントとその質問)にフォーカスしてリーディングします。そもそも、相手に集中するのは、他人向けリーディングとしては当たり前のことですが。

ところが、その展開されている(出ている)タロットカードを、改めて自分(タロットリーダー)向きに変えて並べてみると、今度はまさに自分のことが表されているように見えてくるのです。

さらには、通常時、反対の視点であるタロットたちでさえ、反対(の視点)なりの意味が、自分(タロットリーダー)にあることも、気づくケースがあります。

結局、たとえ他人向けであっても、タロットカードは、両者(クライアント・タロットリーダー)に関する何らかの示唆を表すのではないかと考えられるわけです。

内容はリーダー側の焦点によって変わり、通常は、もちろん他人・クライアントに関してのもの(クライアントに意味あること)として、展開されたカードたちを読むのですが、これを自分自身・タロットリーダーに関係することだと見た場合は、まさにリーダーへの象徴としてカードたちが意味をもってくるという仕組みです。

あえて悪い言い方をすれば、どんな展開だろうが、どんなカードだろうが、自分に関係すると思えばそう見え、相手に関係すると思えば、相手のものとして見えてくるのかもしれません。

それではカードを引く意味もないだろうとなりますし、ひろゆきさんではないですが、単に「それって、あなたの感想ですよね?」「あなたの思い込みの世界ですよね?」(笑)となります。

これを否定することも難しいです。(苦笑) なぜなら、タロット(リーディング)はほぼ主観の世界だからです。

とはいえ、検証を繰り返してきて思うのは、主観を超えた客観的とも言える、カードの出方があるのも確かです。それも主観と言ってしまえばそれまでですが。

カードは全部で78枚、大アルカナだけでも22枚ありますが、その中で、わざわざなぜこのカードが出るのかと言った驚きは、一度や二度ではないのです。

他人向けの場合はもちろん、今説明している、他人向けなのに自分として見た場合も、そういうケースが多々あるのです。

他人が引いたカードなのに自分にとって意味があると見える、またその逆もあるのがタロットの世界です。

自分が引いて、自分に関係しているのなら、それは当たり前とも言えますが、他人が引いたのに自分に関係している、ということも普通にあるわけです。偶然や思い込みとも言い難い、カードの意思のような出方があるのです。

あくまで、カードを出方に人間の意識や思念が関わっていると考えた場合、他人であっても自分と(意識やデータが)つながっていると見ることができ、それならば、誰が引いても自分に関係するようなカードが出る理由も、わかる気がします。

それが正しいかどうかもわかりません。

ただ、タロットリーディングという、儀式であり、ゲームとも言える、ある設定の場において、質問する者と質問される者、カードを引く者とカードを読む者など、両者の関係性は、一時融合する瞬間があり、それによって、カードは両者に関連する内容で引かれる(出る)と想像できます。

この性質を利用すると、自分リーディングは、他人リーディングをしている時でも、あるいは、そのあとでも可能になります。

また、次のようなやり方もあります。

それは、自分一人で自分をリーディングする場合、あえて想像上の他者を置いて引くという方法です。

自分をクライアントとして想定し、他人向けの形式でタロットを展開し、リーディングするのです。これによって客観性も出ますし、他人向けとして集中して引いたものを(それは自分に対してのものではありますが)、あとで冷静に振り返って読むことができます。

もっと客観性を持たす方法としては、自分の問題ではなく、まったくの他人をイメージし、その人に何か問いがあると仮定して作り出し、その設定でタロットを引いてみるということもできます。

自分一人であっても、イメージ上は他人で、問題(問い)もその他人のものですから、自分とは関わりがないように思え、主観過ぎること(気持ちが入る過ぎること)から逃れられます

ですが、これまで説明してきたように、他人向けで他人の質問として展開したタロットであっても、タロットリーダーとして関わっている限り、タロットリーダー用に意味があるものと解釈することも可能なのです。

ですから、この場合、相手は架空であっても、タロットリーダーは自分であるので、その展開で出たタロットは、自分のこととして読むこともできるのです。

ほかにも、他人向けに展開されたタロットたちが、タロットリーダーに向けて、あるメッセージを示している(タロットリーダー自身へというより、あくまでタロットリーダーという役割において)という読みと解釈もあるのですが、これは実践してきた人でないとわからないので、ここでは説明しません。

とにかく、タロットの象徴機能というのはとても多岐にわたり、多重次元に関わるものだと実感します。

逆に言えば、私たちを今の次元認識から脱却させるためのツールとして働きかけがあるのが、タロット(マルセイユタロット)なのかもしれません。


自分を癒すには他者が必要な世界

私たちが現実の世界と認識しているこの世の中では、個人個人、違うパーソナリティを持っています。

平たく言えば、誰一人まったく同じ人物はいないということです。ですが、人間としては皆同じです。

マルセイユタロットをやっていて気付いたことでもありますが、ここ(個としては別でありつつ、全体として共通)が考察のうえでも、実践(実際・行動)においても重要なことだと思います。

人として共通、同じではあるが、皆それぞれで違うということ、このことは、言い換えれば、たくさんの層やレベルがあり、究極的には、一人一人の世界と、ひとつの同じ世界が同居していると表現できます。

ケーキで例えれば、ミルフィーユとしての層がありつつ、全体してミルフィーユというケーキになっているというものです。(笑)

何を大切にするかの価値観は個人で異なるわけで、それがために、何が成功で幸せなのか、よい状態なのか、反対に、何が失敗、不幸、悪なのかという個人の観念も人により様々です。

しかし、最初にも述べたように、人としては同じであるので、何か全員の共通の価値(基準)というのもあるのでしょう。

それはシンプルなようでいて、高いレベルにあるため、考えようとすると複雑なものになると感じます。

宗教的に言えば「神の教え」「神の裁き」「神が定めたこと」となるわけでしょうが、やっかいなのは、それを人間レベルに落として、遵守しなければバチが当たるとか、よからぬ結果になるとか、もっとひどいのは、人ではなくなる(だから殺してもよい)という、次元の低い、支配・牢獄ルールのようなものに使われてしまうことでしょう。

万人に共通のルールというのは、通常でははかり知ることが難しいレベルの宇宙法則のようなもので、たとえあったとしても、なかなか言葉とか人間レベルの善悪では語れないもののはずです。

逆に言いますと、個人レベルになればなるほど語りやすく、具体的なルールになってきて、はっきりとした線引きが現れ、個人としては厳格なものになっていると言えます。

ところが、意外に、個人ルールは本人自身がわかっていないことがあり、逆に他人だとよく見えることがあります。

それは、一人一人価値観が異なるからで、自分と違う価値観や考えをもっている人は、それだけ目立つ(わかる)わけで、だからこそ、ある意味、他人のほうが自分(の価値観・特徴)を知っていると言えるのです。

これを適用していくと、よく自分と向き合うとか、自分を知りましょうとか言われますが、案外、自分で自分を知ることは難しいはずで、自分を知るには他人の助けがあったほうがわかりやすいことになります。

これと同様、自分を癒したり、治したりしていくことにおいても、自分だけではどうしようもない(他人の力を借りる)ことがあります。

いや、スピリチュアル的には、おそらく自分がすべてを起こし、修復・回復させることをしているはずなのですが、それは魂とか高次(全体につながる)部分のことで、個別世界の次元(つまり通常世界・現実)になると、やはり自分と他者(他者は一人だけではなく、たくさん、many)という関係性の世界で、問題発生も解決も行われるという実状があると考えられます。

タロットリーディングにおいても、個人の技量はもとより、個人のレベル、特徴がそれぞれあって、いわば一人一人違います。それはたとえ同じタロットとか技法を使っていても、です。

しかも、クライアントに対して、アプローチする層とか部分が、一人一人、タロットリーダーによって異なるということもわかってきました。(それはタロット種とかタロット技術の違いにも言えます)

例えば、同じ悩みや問題をリーディングしたとしても、Aさんの読み方とBさんの読み方では違う部分があり、問題への光の当て方も、角度とか深さとか、タロットリーダーそれぞれで特徴があるわけです。

結果的に同じ部分が指摘できたとしても、そのプロセスとかアプローチは異なることが多いように思います。

ただ、同じタロットで、同じ技術を使っている場合は、ある種の共通ルールがあるので、似たような経緯をたどることが多いです。それでも個人個人の違いはあります。

ところで世の中にヒーラーの方も、たくさんいらっしゃいますが、そうしたヒーラーさんも、ヒーリング技術の違いは当然として、やはり個性としての光の当て方と言いますか、中心に治療していく層の違いがあるように思います。

受けるほうも個性がありますからも、それが双方相まって、いわゆる相性としての効力の違いが発揮されることもあるでしょう。

あるヒーラーさんの中心となるヒーリングの層が、その時の当人(クライアント)にとってはあまり重要ではない、あるいはピントがずれているなどのことがあれば、効果はあまりなかったとなるかしもれませんし、その逆に、ヒーラーさんの得意な中心層が、クライアントにとってはどんぴしゃりであったならば、極めて高い効果を実感することになるでしょう。

だからと言って、相性が大切というわけでもないのです。

たとえ層がずれていたとしても、どこかに効果があるわけで、例えばクライアントの問題のコアの部分があったとして、そこに光が直接当てられなかったとしても、コアに何らかの形で影響し、コア周囲を揺るがしたことにはなっているでしょう。

そうして、当たりが何人かなかったとしても、次第にコアは崩れやすくなっていき、または、コアへの通り道ができやすくなって、そのうちコアに到達する時がやってくる(それは、自分だけの力で可能になることもあるかもしれません)と想像します。

つまり、このような仕組みが、個性(個人個人違いの)ある世界のものなのです。

ですが、たぶん全員に共通している高度なルールというのは、最終的には「自力である」ということでしょう。

他者依存ばかりでは、何事も本当の意味では解決(成長)しないということです。また、同時に、すべて自己責任、自己のみでの解決も、この現実世界では、すでに説明したように、個性がある世界のため、難しいわけです。

結局、全体性への理解には、個の理解が基礎であり、それは自分だけではなく他者理解(つまりは相互理解)も含まれる構造になっているようてす。

相互理解のためには、自分と他者を見ている、高次のもうひとつの視点、第三の視点が重要です。これが誰しも備わっているから、私たちは、自分と他者を区別することも可能だと言えます。

ということは、私たちは、現実の世界(自他の違いの世界)にいるようで、実はいないのです。もうひとつの上の次元の、おそらく他者と自分が統合されているような次元に、主体(と客体)があるのでしょう。

例えばそれは、マルセイユタロットで言えば「月」や「太陽」を見ていると感じます。

思えば、マルセイユタロットも、そのような意識の浮上のために、意図されて描かれているのかもしれません。


同じ質問で何回もカードを引くこと。

タロットリーディングとか、タロット占いでは、同じ質問で(何度も)カードを引いてはならないというの暗黙のルールがあります。

これはタロットに限らず、特に占いの易の世界だと厳しいと聞きます。

それはなぜなのか、実はいくつかの理由があるのですが、もっとも当たり前で単純なこと(笑)を、事例をもってお話しましょう。

端的に言えば、同じ質問で何回もカードを引くと、答えがどんどんわかりづらくなるからです。

実例を示しましょう。

一人の女性が以下の質問について、マルセイユタロットを一枚引きして解釈しようとしているというシーンです。

※ここはタロットリーディングというより、あえて占い的な質問でやってみます。

問い 「あの人は私のことをどう思っているのでしょうか?」(恋愛系)

最初に出たカード

「力」

(引いた当事者の感想)

うーん、わかりづらいなあ。私がこの力の女性なのか、相手のことなのか。でもライオンが私にも相手にも見えるし、どっちなんだろう。ライオンだったら私が彼に委ねたい気持ち? いや、私が相手任せなのかな? まあ、なんか力強いカードだから、相手がどう思っていようと強気で押せば何とかなりそうかも? でもちょっとよくわからないから、もう一回やってみよう。

二回目に出たカード

「手品師」

(引いた当事者の感想)

あ、これは男性のカードだから、相手のことかな。確か仕事を意味するカードだし、どうも恋愛感情というより、単に仕事関係の仲間、つきあいという感じで私のことを思っているような… でも前は「力」のカードが出たし、女性である私が押し切れば何とかなる? それともまずは職場で仲良くなるべき? いったいどうしたらいいんだろう。相手の気持ちもまだわかりづらい…えーい、もう一回引いてみようっと。

三回目に出たカード

「力」逆位置

(引いた当事者の感想)

えっ、また「力」、しかも今度は逆位置。いったいどういうこと? やっぱり失敗する関係なの? どうも逆に弱気になってきた。二回も「力」が出たから何かシンクロはあるのかもしれないけど、今回は逆位置だし、余計わからなくなった。「力」とライオンはひとつみたいだから、気持ちは通じ合いそうだけど、逆位置だから、反対に気持ちは離れているということ? もう何が何だかわからない…

以上のように、確実に解釈が混乱していくわけです。(苦笑)

同じことですが、ほかの質問でもやってみましょう。今度は当事者は男性で、転職に関してのことです。

 

問い 転職したいが可能か? 

最初に出たカード

「節制」

(引いた当事者の感想)

強引にやらなければ、何とか行けそうな感じ。救いの手もありそう。では、少しずつ転職の準備をするか。念のため、もう一回やっておこう。

二回目に出たカード

「吊るし」

(引いた当事者の感想)

「吊るし」かぁ。このカードの感じだと、むしろ転職は止めて置いたほうがよいような気もするな。じっとしている図像だしな。いや、逆さというスタイルも気になるぞ。今の職場は苦しいから、逆に考えて、ここから抜けたほうがいいと言っているのか?なんかわからなくなってきたぞ。さて困った…

 

やはりこの人も、複数回引いてしまったせいで、わかりづらくなったようですね。(苦笑)

 

イエス・ノー的なことも含めて、何度も同じ質問でやってしまうと、最初は肯定的だと思ったものが、次には否定的なカードが出たりと、その逆もあったりで、とにかく何回も同じ質問で繰り返し引くと、何をタロットが示唆しているのかがわからなくなるのが普通です。

まったく同じカード(正逆も含めて)が出たり、似たようなことが読み取れるカードが続けて出れば、むしろ共時性という感覚で、意味をつかみやいかもしれないのですが、そういうケースは(同じ質問を繰り返すパターンでは)実は少ないです。

では、質問の言葉を変えて行えばよいのか?ということですが、あなたが聞きたいことは、結局、本質的には同じなので、言葉を変えたところで、結果(解釈)の混乱は目に見えています。

また、セルフリーディングとか自分で占う場合にはよくあることですが、最初から期待するカードとか結果があって、それを引き寄せたいために引き、しかしそれが出なかった場合に、またカードを引いてしまうというケースがあります。要は、期待した結果になるカードが出るまで引くというやつです。

これは本末転倒で、自分の意思が現実に及ぶ力を試すにはよいかもしれませんが、偶然性から必然や意味を汲むというタロット占い、タロットリーディングとは別ものになっています。

まるで、おみくじで凶を引いてしまったので、気分が悪いから吉とか大吉が出るまでやってみるみたいなものと言えましょう。

個人的には、仮に同じ質問で何度もカードを引いたとしても、どのカードの結果も、大局的(高度)に見た場合、意味があると考えますが、解釈的には非常に困りますし、先述の事例のように混乱するのがオチです。

やはり一期一会的な気持ちで、最初に出たカード(たち)が表してくれているのだと思って、敬意をもって見ていくのが、タロットリーダー側の態度としてはよいかと思います。

※ここで言っているのは、一番わかりやすい理由の、カードが異なって出てしまうことにより混乱する事例を示していますが、ある条件下では、同じ質問で何回かカード引くことが悪いわけではない技術もあります。そして、禁忌の理由には混乱以外のこともありますし、この問題は単純なものでは実はないところがあります。


カードの読み、能動・受動、立場の違い

タロットカードの読み方(解釈の仕方)には、だいたい、核となる意味があって、そこから派生したものを想像するというパターンが多いです。

それは基本的には正しいと考えられ、カードには、その象徴性の元となるものがあり、それは言葉では本当は言い表せないものではありますが、あえて抽出すれば、上記の「核」となる意味に近いものと言えます。

ですから、その象徴の大元をつかんで、そこから関係(派生)する、いろいろな意味を見出すことは、手順としてはよい方法なわけです。

一番まずいのは、ただ単語としてカードの意味を無理矢理覚えるようなやり方です。

カードの象徴性を把握しないまま、機械的に、「このカードはこういう意味」と暗記するのは、タロットがシンボリズム(象徴機能)とそのシステムで構成されていることを無視するようなもので、タロットを本当の意味で活かすことができないでしょう。

ところで、カード一枚一枚には、さきほど述べたように、根本の象徴(性)があるわけですが、これが「象徴」であるがために、実は一見正反対だったり、対立したりするかのような意味合いを見出すケースがあります。

言葉にすると矛盾したり、正反対だったりしても、象徴することの本質では同じであるということに気がつかないと、なかなか理解が難しいかもしれません。

例えば、マルセイユタロットの「運命の輪」というカードは、今すぐやってみると読む場合と、しばらく待っておくというような、反対の意味合いで見ることがあります。

これは、「運命の輪」が回転するものという本質を考えれば、そこから時間やタイミングという象徴性が表出され、「タイミングを合わす」ことを主眼で考えれば、現時点でのゴーもストップもあり得ることになります。

それは「チャンスをつかむ」と言い換えてもよく、時期の早い遅いの問題ではなく、そのチャンスに自分をいかに合わせるかということがテーマになっていると考えれば、まさにタイミング(時間合わせ)の問題(課題)であるとわかります。

※(もっとも、個人的には、チャンスをつかむことがこのカード「運命の輪」の本質ではないと考えており、本当はもっと別のことにあると講義では説明しているのですが、今回は記事の内容に沿わすために、あえてわかりやす説明で一般化してお伝えしています)

というわけで、カードの読みによっては、正反対みたいな意味(言葉)も出ることがあるわけですが、もうひとつ、能動と受動(送り手・受け手)というエネルギー・動きとしての正反対の読みが、それぞれあることもふれておきましょう。

マルセイユタロットの場合、これは大アルカナも小アルカナも、すべて言えることだと思います。一枚一枚、能動的な読みと受動的な読みの両方が考えられるというわけです。

例をあげましょう。

12の「吊るし」のカード。

このカードは受動性が印象的に強いカードです。マルセイユタロットではない別のタロットでは、おそらく“吊るされた”とかの、明らかに受動的、もっと言うと犠牲的な意味合いでとらえられることが多いと思います。

しかしマルセイユタロットの「吊るし」では、名前からして「吊るし」としているように、実は自らが好んでこの吊りの姿勢をしていると考えます。表情的にも吊らされている苦しさというより、笑みを浮かべているかのような余裕を感じさせます。

ということは、変な言い方になりますが、能動的・積極的に吊っているわけで、逆さの姿勢をあえて取ること、または動きを停止することで、なされる(なすべき)ことがあるという解釈も成立します。

このような、カードそのものの能動・受動の反転した見方ができる場合もあれば、カードの図像に描かれているものを見て、どの立場に自分(タロットを読む人、タロットに相談する人)を置くかによって、能動・受動が変わるケースもあります。

例えば5の「法皇」では、メインは何か説教や話をしている法皇に見えますが、一方で、下の方には、その法皇の話を聞きに来ている聴衆が描かれています。

自分が法皇の立場なのか、あるいは聴衆の立場なのかによって、話をする側の能動と、話を聞く側の受動というように分かれるわけです。

ほかにも、20「審判」というカードでは、一般的には覚醒とか復活とか、中央下の、起き上がっている人物を中心に解釈されることが多いのですが、目立つのは、むしろ、ラッパを吹く天使であり、この天使の立場になれば、まさに起床ラッパのように、ラッパを吹いて人物を起こすという感じになります。

とすると、中央の人物は、天使から起こされていることになって、受動的になります。

もっとも、別の見方では、人物が起き上がることによって、天使がそのことを祝福してラッパ鳴らす(おめでとうみたいな演奏)ということも想像できますので、その解釈では、天使側も受動性を持つ(中央の人物の行動に反応した)ことになります。

※余談ですが、「審判」は、見た目、人間と天使という図像なので、人間である私たちは、自分(たち)を「審判」の人間側として見てしまうことがノーマルになり、あまり天使側を自分として読むことが少ないです。しかし、時には天使側になって、自分や誰かを起こすことが必要と解釈することができ、目覚めを待っている人が身近にいる(あるいは自分自身の)可能性があるのです。

いずれにしても、カードの図像の人物なり、動物や物事なりを、どう当てはめるかによって、読み方も変わって来るということなのです。

これが一枚だけのことではなく、複数枚以上でも成り立ちます。例えば三枚引きをしたとしましょう。

たまたま今三枚を引くと、「13」「斎王」「愚者」と出ました。

「13」の鎌を持つ者を自分とするか、あるい切られている首とか骨が自分と関係していると見るか、そして「斎王」は、斎王自身が自分としても、学びを自らが行っているのか、外からのものを受け入れて、学習されられているのか、さらには、「愚者」は、愚者が自分なのか、ついて行こうとしている犬が自分なのか、また同じ犬でも、愚者にすがっているのか、止めているのか、喜んで同行しようとしているのか、色々と立場や姿勢の変換によって、解釈が多様にできます。

それを活かして、この三枚のリーディングを事例的にすると、『解雇の危機を受け入れる自分は、すでに新たな資格の勉強をしたり、様々な情報の取得をしたりしており、そのおかげで、転職への希望か出ているし、身に着けたことは「犬」として、自分の新たな旅立ちを後押ししている』というものが一例としてできます。

大アルカナを中心として見ましたが、これまで説明したことは、小アルカナでも可能です。

たとえ玉のカード一枚でも、玉(お金)を作る(稼ぐ)のか、使うのか、貯めるのか、増やすのか、これもいろいろと解釈できるわけです。

もちろん、数カードの場合、奇数か偶数かとか、数の意味によって、傾向は決まってくると言えますが、小アルカナと言えど、あくまで象徴カードであるので、ひとつの意味に固定されるわけではないのです。

視点・観点・立ち位置・エネルギーなど、いろいろと考え、もっとも適した解釈を探って行くことも、タロットリーディングでは重要だと言えますし、自己活用するうえでも、普段とは異なる見方をして、新たな気づきを得たり、修正したりすることができますので、タロットカードを決まりきった見方・解釈で固定しないように注意しましょう。


「戦車」「力」協力と自立

マルセイユタロットの大アルカナで、動物と人間が一緒に描かれているカードが何枚かあります。

中には人はいなく、動物だけというカードもありますが。

こうした動物とセットで描かれているカードには、当然ながら、人と動物とのなにがしかの関係が象徴されており、協力、あるいは対立するような関係性も示唆している可能性があります。

また動物のように見えていても、本当は獣的な動物ではなく、むしろ人間以上の存在か、実は描かれている人間の(中の)別の形(存在・エネルギー)を表していると考えられるケースもあります。

さて、動物と人が一緒に描かれているカードの中で、今日は「力」と「戦車」を取り上げたいと思います。

この二枚のカードは、人が動物をうまく扱っている様が見られます。「力」はライオンを、「戦車」は馬を、です。

「力」の場合、人(マルセイユタロットの口伝では、この人物は人間ではないと言われていますが)は女性で、「戦車」は男性です。

このことから、この二枚は意図的に、人が動物を操る者同士の関係で、女性(性)と男性(性)のペアになっていること、さらに、動物においても、ライオンという肉食獣と、馬という草食動物という組み合わせ・対比になっていることがわかります。

動物もライオン一匹と、馬二匹の違いがありますが、そういう1対2の関係性(むしろ2から1への統合的関係性というべきでしょうか)も意図的なところが感じられます。

もっと言いますと、ライオンは、もしかすると、二匹に分かれる部分があるものとも推測されます。

結局、「力」と「戦車」は対(ペア)になるカードだということです。

そのペア性にもいろいろな意味が隠されているわけですが、ともかく、両者の共通点は、人が動物を扱い、支配やコントロールしている状態だということです。

どちらの動物も、無理に抵抗することなく、自然体です。ただ、馬は飼いならすと従順になるのはわかりますが、ライオンはなかなかそうは行きません。

ということは、「力」の女性は一種の猛獣使いのような能力があり、「戦車」が男性(的)であるので、余計にこの「力」の女性の文字通り“力”のすごさがわかります。

フランス語で(日本語読みすると)「フォルス」とされている「力」は、いわゆるパワーではないことも示されています。この力(フォルス)が何なのかは、今回はテーマではありません。

今日言いたいのは、自力と他力、協力とその使い分けということです。

「戦車」は馬がいないと走れませんが、「力」の女性は走るわけではないので、一人でもいいはずです。

しかし、ライオンを自分の力とすることで、おそらく自分以上の力を発揮しているのでしょう。もしくは、ライオンを駆使することで、「戦車」の馬のように、何かを行うことが容易になっているのかもしれません。

「戦車」は純粋に、馬の力をそのまま活かしていると言え、言わば、馬に乗ることで「走る」という人間単独の力を増強しています。

一方、「力」の女性は、ライオンによって具体的に何かが補完されているようには見えません。ライオンを自らの支配に置くことで、自分の力を誇示しているようにも見えます。

「戦車」は一見、その御者である人物は自立しているかのようですが、馬の力がないと行けるところが限られ、運べるものも運べないかもしれません。

ということは、「戦車」では自分の力の弱さ、足りないところを、馬、すなわち象徴的には他者に補ってもらってはじめて目標が達成されるわけです。

言い換えれば、他者によって自立できる状態です。

しかし、「力」の場合、女性一人でも自立できているように見え、さらにライオンを取り込むことで、何か、常識を超えた力を発動しようとしているように見えます。

つまり、自立したうえに、さらに他者との協力関係によって、(これまでを超えた)巨大な何かを行うことができるという印象です。

ライオンは肉食獣なので、本来、人間とは相いれず、場合によっては、人が食われてしまうおそれもあります。立場が入れ替わり、ライオンが人を支配することもあり得るわけです。

一方、馬の場合は草食獣なので、馬が人間を食べるようなことはなく、馬が人を支配することができません。

こうして考えますと、「力」の女性とライオンの関係は、極めて危ない対立関係でもあり、それでも、「力」の女性は、ライオンをまるで子猫のように扱い、ライオンも女性に体を預けているようなところが見えます。

私たちが真に自立に向けて、自らを完成させていく時、一見、対立関係にある相手とも、最終的に協力し合うことで、信じられない事業とか、目的が遂行可能になる場合があります。

それは対立したり、ライバルとなったりする相手というのは、それほど力があるからで、うまく和合すると、自分の力が倍増どころか、特殊な力が生み出される、フュージョンのようなものなのかもしれません。

「戦車」の段階では、まだ自分自身の力の自覚が足りず、それでも何とか、他人の力を借りて物事を進めることができることは知っており、協力関係の始まり、ノーマルな協調関係と言えましょう。

「戦車」でも、もし御者、つまり自分が、一人で何でもできる、あるいは、一人ですべてやらねばらないと思い込んでいては、遠くに行くことも、多くの荷物を運ぶこともできなくなります。それだけ自分に負担がかかり、悪くするとつぶれてしまいます。

また、他者との力関係がわからず、無理をさせると(必要以上に相手に背負わせる)、馬のほうがつぶれて、進めなくなります。

このように、「戦車」では、自分の力と相手の力との関係、できるできないの能力(知識や技術も含む)の内容をよく知り、相手と自分が無理なく、ともにうまくいくよう調節していくことが課題として見えてきます。

これも、真の自立のために、独りよがりにならず、他者との協力関係を学ぶということのひとつでしょう。

そして、「力」の段階では、スムースに協力できる他者とは限らず、場合によっては、対立関係にある者、協力が難しい者たちとの間でも、一緒にやっていくシーンがあり、それには相当な工夫と能力が求められるわけです。

それは力づくではない、その逆のとも言える柔軟な姿勢であり、誇りと自信とともに、和やかで大きな受容力も必要だと、「力」からはうかがえます。

「戦車」の前の数の「恋人」カードでは、人間たちは迷っているかのような描写もあり、それには依存や支配の間で揺れ動く様も感じさせます。

これが次の「戦車」になれば、うまく馬を乗りこなし、自信をもって選択し、進んでいるように見えます。

これは、自分が主人公であることの自覚ができており、他者との協力を採り入れつつ、自分の人生は自分がコントロールして生きようと決意した状態と言えます。

それが、「力」まで来るどうでしょうか。

「戦車」までのことはわかったうえで、周囲、あるいは自分自身との新たな関係性を持ち、これまでにない力を発揮し、新規のステージへと統合、飛翔しようという構えのようです。

かなり異物感のあるライオンと女性との、ほぼ一体化で、特別な自分へと生まれ変わると考えられます。自立を超えた自立とでも言えましょうか。

ライオン頭の神と言えば、エジプトのセクメト神が思い浮かびますが、この神が女神であることからも、おそらく、「力」のカードとは無縁ではないでしょう。(動物頭とか動物胴体のキメラ人間は、異物との融合が特殊な能力を生み出すことや、人間を超えた超常性(ある意味神性)をイメージさせます)

セクメト神は破壊と恐怖の神と同時に、病気を癒し、回復させる神でもあります。異なる二面性が強調されていますが、その二面も、結局は本質的には同じものであり、強力なものが破壊にも癒しにもなるということでしょう。

「力」のライオンの象徴は、対立する他者とか、相容れない者たちというだけでなく、自らにある強力に抵抗する力、動物的・原初的エネルギーとも言えます。

これと自らが融合し、ライオンに類するものをコントロールすることで、強大な新たな自分になると想像されます。ゆるぎない自分の確立と言ってもよいでしょう。

その前には、私たちは、「戦車」になる必要があり、他者依存でもなく、支配的・独善的でもない、自らを主人公とした、他者と自分とのバランスよい協力関係を自然と行えるようにしていきたいものです。


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