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タロット自体の縛り

かつてタロットを学んでいる仲間と、定期的に集まって、いろいろと語り合う機会がありました。

そんな頃を、今は懐かしく感じる(笑)日々ですが、ふと、その時(内容も含めて)を思い出すことがあります。

そのひとつに、「我々はタロット学んでいるけれど、タロットが、逆に縛りにならないだろうか?

とメンバーがつぶやいた一言で、皆が、それについて一考するという事態があります。

タロット(学習していたものは当然のことながら、マルセイユタロットです)は、本来、自由になるためのものだと当時は信じていました。(この場合の「自由」は「解放」に置き換えてもよいです)

いや、今も基本的には、私はそう思っていますが、それも場合によると言いますか、使い方次第だと言えます。

話を戻しますと、「自由になるはず(解放のため)のタロットの学びが、逆に、我々の縛りになるのでは?」という問いかけは、タロット学習を楽しくしていたメンバーに、一石を投じるものとなりました。

私も同様に、これについて、ちょっと考えないといけないな、と警告的に受け取りました。

タロットを学ぶことで、タロット的な見方を獲得し、物事の整理と理解が早まる(深くなる)のは、まともに学習した者たちからすれば、実体験として当然のことと受け止められます。

しかしながら、タロットもひとつひとつが象徴絵図であるとともに、枠をもった図像(制限ある絵)であることには変わりないのです。

タロットを愛する(偏愛する)があまり、すべてを捻じ曲げてでも、タロットに落とし込もうとする、無理矢理の理解(こじつけ)は、方向としてはであり、このような使い方をすれば、確かに、タロットが縛りの道具になってしまうでしょう。

今回のテーマの「縛り」とは別のものですが、タロット占いを信じ過ぎ、タロットの言いなりになってしまうような依存的な態度も、タロットによる縛りと言えます。

いずれにしても、ある宗教教義が絶対とされて、それに合わないものは非難、排除されるというのに似ています。

やはり、タロットであっても、囚われの枠や自らを縛るロープになってしまうこと、色メガネの色とメガネになってしまうことを危惧し、使う者は、しっかりとそのことを踏まえながら、自省をもって扱うことが大事だと思います。

タロットが縛りとならないためには、柔軟な姿勢を持つことと、タロット的には、常に個(単体)と全体を考慮することです。

とは一枚とか少ない枚数のミクロ的なタロットへの見方です。これに対して、78枚を一組にした、あるいは大アルカナ全体とか、小アルカナ全体とかのマクロ的な観点(全的な見方)も必要であるということです。

例えば、大アルカナは、全体でもって、真の解放や自由を象徴すると見ますと、一枚一枚は、まさにひとつひとつの解除方法を示していると言えましょう。

さらに言えば、個々で解除されるのではなく、例えば数順に解除されていくという具合に、一種のステージとかレベルのようにひとまとまりにされているかもしれないと考えることもできます。

まるでゲームの(ステージ)クリアーみたいなもので、解除の鍵は、単独のカードがわかったからと言って、即、渡されるわけではない可能性もあります。

また、カードたちが、実は逆説的に、私たち自身を縛ってるもの(こと)そのものをテーマにしていると見ることもできます。

普通、タロットカードは、リーディングとか占いで、ポジティブな意味や、反対のネガティブな意味を絵柄を通じて見い出そうとします。

しかし、カードそのものが実は縛りを表すと見れば、少し、通常の読みのネガティブ面を見るのに近いですが、それとは異なるものが浮上してきます。

例えば、「正義」というカードがあれば、正義が縛る(縛っている)ものは何か?と問われていると見るわけです。

まったく自由に見える「愚者」でさえも、「愚か者による縛りは何か?」「自由や純粋性が縛りとなっていることはないか?」と考えてみるのです。

これが大アルカナを一枚一枚を利用した、縛りへの考察法で、結局、この作業は、自ら(あるいは他者)に解放をもたらすために行うのであり、この意味では、タロットは縛りになると同時に解放にもなると、両方言えるわけです。

究極的には、タロットなどいらないと言え、個人的にも、タロット学習・活用の最終段階は、タロットから離れること、タロット自体、忘れるほどになることだと考えています。

結構、どの進化・発展パターンにも言えることだ思いますが、勘違いした自由度(無自覚な、狭き自由状態)から、ルールや規則、パターンを学ぶ世界に一度自分を閉じ込め(学習・修行、再構築の準備)、そのうえで、その世界を破壊して、次なる自由度(かつて自分が思っていた自由とはまったく異なる自由や世界)に向かうのだと思います。

マルセイユタロットは、おそらく、ほとんどの人が無自覚だったり、勘違いだったりしている世界観とか自由というもの(無自覚の囚われ、牢獄状態)から、脱出や自覚のために、あえて別の囚われに入り、そこで別の観点から世界を改めて見ることで、ふたつ囚われ(最初の囚われと、あえて入った二度目の囚われ)から解放させ、真の(あるいは高次の)自由に飛躍(タロットでは鷲の象徴が思い浮かびます)するための導きのツールだと考えられます。

そして、「タロットを学べば自由になる、よくなる」という単純なものではないことも自覚しつつ、学びを進めて行きたいものだと思います。


タロットに描かれる動作

安倍元首相が凶弾でお亡くなりになるという衝撃的ニュースで、日本が騒然としています。長期政権を担った元首相の方ということで、様々な憶測があるでしょうが、今はとにかく、ご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。

ただ、奈良という、いにしえの土地で、直接的関係はないにしても、安倍姓の方が倒れられたというのは、何か日本において特別なもの(警告)を感じさせる気はいたします。私たちも心して、これからの時代、生きて行く必要があるのかもしれません。

さて、今日はマルセイユタロットにおける(描かれ、象徴される)動き(動作や姿勢)というものにふれたいと思います。

マルセイユタロットに限らず、伝統的な流れを汲むタロットの構成は、大アルカナ、小アルカナに大別され、さらに小アルカナにおいても、宮廷(コート)カード、数カード(スート、数札)に分かれます。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと宮廷カードは、ほぼ同じ図柄のニュアンスですが、数カードはまったく雰囲気の異なる、記号的な模様になっています。

ですから、「動き」という点で見れば、あまり数カードにはそれが見えにくいものがあります。しかし、よく観察すると、剣・杯・杖・玉の数カードは、1から10に向かって、まるで細胞分裂する(逆に言えば、何かを形作る)かのように動いているのがわかります。

例えば、剣の組は、明らかに円運動を意識して描かれています。剣そのものは直線的なのに、というのがとても面白いのですが、そもそもマルセイユタロットの数カードの剣は、湾曲している剣が主なので、そういう円的なものに見える構図となるのです。

剣が湾曲しているものが選ばれている理由は、いろいろと推測されますが、運動的なもので見ますと、直線と円を意識させるため(その統合)ではないかという思いも出ます。

というのも、マルセイユタロットには、ふたつのエネルギー(性質)の統合ということが、テーマとして常に描かれているからです。

さて、大アルカナや宮廷カードはどうでしょうか?

これらのカードは、人物が描かれていることが多いです。特に宮廷カードは、人物カードと別称されるくらいですから、すべて人物になっています。

ということは、人間の動きというものを、ひとつのテーマとして見ることが可能です。(ちなみに、私の講座では、宮廷カードの読み方について、人の動きを主眼とするものも教えています)

人間の動きというものは、立つ、座る、歩く、止まる、横たわるなど、基本的動作から、相手や状況により、複雑なものへと変化します。

人は無意識に動作するものもありますし、意図して動作する時もあります。ですが、どちらであれ、体は何かのために姿勢やその動作をする(取る)わけで、意味もなく勝手に動いているわけではないでしょう。

すると、基本動作を中心に、自分が意識(意図)していない場合でも、そういう動作が出ているのなら、自分の中にその動きを取るべき何かが起こっていると見ることができます。

簡単に言えば、体は正直だということです。整体師の方などにとっては、常識的なことだと思います。

私は、野口整体系統の整体をしていらっしゃる河野智聖氏の整体を受けていますが、先生は体癖という表現で、人による体の癖のお話をされます。

体癖にはパターンがあるようで、その体のパターンが思考や感情にも影響を及ぼし、価値観の形成、物事の選択にも関係すると言われています。ということは、極端に言えば、自分の人生を決めて行く要因のひとつにもなると、考えられるわけです。

このように、体の動きとか姿勢というのは重要と言えるわけです。

そこで、タロットに話を戻しますと、例えば大アルカナを一枚引き、その出たカード人物の動き・姿勢によって、隠れたもの(自分の恐れ、不安、期待、好き嫌いなど)を探るということができるように思います。

今、体はどう感じているのか(そう体に感じさせている思いは何か)、それをタロットが見せてくれるような印象です。

もし、正逆を取るとすれば、本来正立の姿勢や動作がノーマルで望まれる状態だとすると、逆向きは何か問題性があり、反対の姿勢や動作になっているということもあるかもしれません。

カモワン流をやっている人ならば、カード人物の視線をしっかり見るはずですから、その視線方向により、何か判断もできるかもしれません。(その場合は、二枚以上展開させると、さらによくわかるでしょう)

大アルカナの人物を見てもわかるように、実は一人としてまったく同じ動作をしている者はいません。確かに、あるパターン分けは可能でしょうが、厳密には一人一人違うわけです。

同じ立ち姿勢とか座り姿勢であっても、あるカードと別のカートではやはり異なるのです。

※「13」と「愚者」は、ともに右方向に動作していることで共通しながらも、ふたつは明らかに異なる雰囲気の絵柄になっています。どちらが出るか、あるいは両方(複数枚数以上展開する時に)出ることで、そのカードに描かれている所作から、示唆を得ることができます。

そうした細かいことも含めて、タロットから、自分やクライアントの心情(本当の気持ちなど)を読み取って行くというのも、興味深く、慣れれば、かなり有用なツールとして活用できると思います。


目的・目標を持たない人生

何度か書いたことがあるテーマですが、人には、「目的(目標)をもって生きたほうがよいのか」、逆に、行き当たりばったりほどとは言いませんが、あまり「目的を持たないで生きたほうがよいのか」という問題があります。

私の場合、このテーマへの回答は、ずるいようですが、どちらもありであり、またどちらでもないというものです。

結局、個人それぞれであり、そして、状況次第でもあると言えましょう。

ただ、最近は、前者の「目的をもって生きる」のほうに価値を置く人が多くなったようにも感じます。

いや、おそらく、そのほうが、「生きている」実感が出て、張り合いのある人生になるのではないかと、私も思います。

しかし、問題なのは、それが、人から言われたからとか、そうしたほうがいいと何かで読んだ(聞いた)からとか、自分の気持ち(あるいは状態)を無視して、画一的(機械的)に従っているような場合です。

比較的よくあるのが、成功理論(法則)や自己実現を謳う人たちからのものに、「目的を持った人生」を強制されがちなパータンです。

確かに、目的意識が強ければ、それを達成しようという行動も出てきて、熱意をもって、その間の人生も充実しているように感じるかもしれません。

けれども、意外に、人生は結果論(結果で評価される)みたいなところもあり、結果よければすべてよしに見られる傾向があります。

ですから、ある人が成功しているからと言って、(結果はそうでも)過程では、必ずしも「成功する目的」を持っていたとは限らないわけです。

例えば、好きなことを何となくずっと続けていて、その好きなことが、案外、他人から求められるようになり、気がつくと売れて成功していたという話もあるでしょう。

人間誰しも、多少は「こうなりたい」みたいな目標はあるとしても、その達成に、強烈な思いが絶対に必要であったかどうかはわからないものです。

結局、人生は運ではないかという人もいるくらいで、であるならば、運任せの人生のほうが楽ではないかという話にもなってきます。(だから、「運をよくする」という生き方を選ぶ人もいますが)

運任せ、まさに行き当たりばったりと言えますが、こちらは、先述の成功理論とか自己実現の方法にはまり過ぎて、結局、望み通りにはならず、色々疲れてしまったような人には、かえってよい場合があるかと思います。

ほかにも、目標はあったのに、年齢とか様々な条件で、どうやら叶いそうにもないと、ほとんどあきらめかけているような人です。

まあ、そういう時は、投げやりになって、もう人生、どうでもいい、というふうにはなりがちですが…

ここで提案したいのは、タロット的に例えれば、積極的な「愚者」人生というものです。

マルセイユタロットの「愚者」というカードは、数がなく、何ものにも規定されない(囚われない)自由の象徴です。また、その人物は旅人の姿をしています。

ここから、人生の旅をしている「愚者」と見て、しかし、旅はしても、先ほど言ったように「自由人」であるので、特に目標とか目的を持たずに生きるような姿勢だと言えます。

ただそれは受動的で投げやりなものではなく、自由をポリシーとするような生き方で、その選択をする積極性があるということです。

一言で言えば、気楽さを自ら選ぶ人生であり、あえて目的を持たないようにすることで自由性を獲得する人生という感じです。

さらに「名前のない13」というカードと「愚者」は関係しており、この「13」は名前がないのですから、名前に囚われることはないわけです。囚われのないという意味では、「愚者」と共通していると言えましょう。

名前というものを、ひとつの出来事とか事柄、あるいはまさに人の名前と見れば(私たちは名前・名称によって物事を認識、決めています)、目的を持たない人生は、ある意味、「13」でも象徴されるということです。

「13」の場合、目的を持たないというより、目的を捨てるみたいな生き方かもしれません。または、目的をその都度捨て(見直し)新たなものに作り直すと表現してもよいでしょう。

目的を持つ人生は、人生にパワーを与えることに貢献するものだとは思いますが、私たちは、あまりに他から・外からの目的を植え付けられて、本当の自分の目的を見失わされているように見えます。

ですから、逆に、目的を持たなかったり、捨てたりする人生を選び、自分を無(ありのまま)になるべくして、その時その時(つまり「今」)を精一杯生きる(愚者的には無邪気に、気楽に生きる)という姿勢もあってよいように思います。

つまり、何かをなさねばならないとか、人から評価されなければ(認めてもらえなければ)自分が充実した気分にならないとなっているうちは、偽の目的・目標があなたを支配しているわけす。

それがために、ますます仮面としての自分が強制され、生きづらくなってくるという仕組みです。

「目的(を持つこと)」は自らを高め、充実させるためにあるものなのに、反対に、目的・目標に自分が操られ、苦しめられているのです。

だから、「愚者」や「13」的な生き方を採り入れて、あえて、行き当たりばったり的な、その日その日を楽しむ予定とか先の計画はほとんどしない生き方、目的はあっても、それをどんどん変えていくことを許可する人生もいいかもしれません。

もちろん、必要な準備とか計画はあってもよいでしょうが、ただ人生を生き切るとした「目標」以外、特に抱かず、流れのままに生きるという意識で、心を楽にしていく時があれば、逆に、確固とした目的も生まれることも考えられます。

私たちは人として共通なものを当然持ちますが、同時に、個人として、別々の個性を持っています。皆同じで皆違っているわけです。(笑)

ですから、よい生き方や成功の概念も人それぞれであり(ですから人生は観念とも言えます)、自分がよいと思えばよい人生になりますし、反対の、悪いと思えば悪い人生になるわけです。

時系列的に、過去と未来に、人は、よく囚われます。いくらよいと思おうとしても、過去と未来への思いが、後悔や不安を生み出します。

従って、特に未来においては、目的とか目標を持つことが、未来への意識を強くしてしまいますので、そういうものをあえて考えないことで、不安や混乱要素を排除していくことにもなるわけです。

ただ、目標ある未来の実現過程が楽しめる場合は、この限りではなく、未来の到達点(目標)が、生きるエネルギーそのものとなるでしょう。

何度も言いますが、目標・目的を持つことがいけないと言っているのではありません。

普通は、そのほうがいいと考えられるのですが、ここで述べているのは、それを持つことで囚われになっては元も子もないので、時には「愚者」みたいになってもよいよという提案なのです。


人間の悩みは四組の玉ベース

現状、「生きる」ということに喜びや楽しみを見出していると人は、当然幸せである(いつもではなくても)と思います。

しかし、「生きる」ことは簡単なようで難しく、ほとんどの人には、必ずと言っていいほど何らかの悩みや心配事があり、時に生きる意味を考えたり、もっとひどい場合は、生きることそのものが地獄に感じる人もいらっしゃるでしょう。

仏教的には、生老病死、その他の四つも含めて、四苦八苦と言われる、(思い通りにならない)悩みが人間にはあるとされています。

マルセイユタロット的に見ますと、大アルカナの悩み(問題)と小アルカナの悩みがあり、どちらも人間の問題性を象徴しますが、わかりやすいのは、意外と小アルカナのほうです。

マルセイユタロットの小アルカナは、四つの組に分けられ、それがすなわち、人の悩み、問題を表していると考えられます。

四組とは、剣・杯・杖・玉の組のことで、英語ではソード・カップ・ワンド・コインです。

私はその中でも、玉(コイン)の組の悩みが、実は人間の中で大きな特徴を占めているのではないかと思っています。

玉の悩みとは、端的に言えばお金となりますが、もう少し抽象性(範疇)を高めますと、肉体とか物質(モノ)の世界ということになり、すなわち、私たちは肉体やモノから生ずる悩みに、大きく支配されているとみなされるわけです。

モノから来るものと言えば、物欲などがもとになり、お金とモノ(動産・不動産、環境的に消費して獲得したいもの)が、自分の思い通りの状態ならない悩みと言えます。

肉体的なことというのは、たいていは体の調子や状況のことで、言ってみれば病気とか怪我などがあって、それに悩んでいる状態です。

そして意外かもしれませんが、精神的な悩みも、肉体(個人という意識を持つ肉体)あってのことなので、ほかの四組の要素(剣・杯・杖)と関係するとはいえ、基本は個人(の体)を通して「感じる」心の悩みと換言できます。

人間関係や恋愛などが、特に当てはまるでしょう。

ですから、玉の悩みとは、究極的には、肉体と三次元世界の認識によるものと言ってもよいのです。

これが人のお悩みの大きな割合を占めていると考えると、逆に言えば、玉中心の世界からの脱却が、悩みを減少させることになります。

グノーシス神話では、デミウルゴスという偽の創造神、実は「悪魔」とも言える存在が、私たちを牢獄の世界の中に閉じ込めていると語ります。

その牢獄の世界こそ、肉体と三次元認識(モノ中心で構築されている意識の世界)で考えてしまう、今の私たちの現実意識による世界観によるものと言ってよいかもしれません。

しかしながら、私たちは肉体を捨て、生きることをやめることはできません。

これでは最近言われている「反出生主義」(生まれる事こそ問題と考える思想)みたいな極端な考えになるか、厭世的、虚無的な状態になり、自殺さえ推奨されかねません。

実際、数千年にわたるグノーシス主義の思想の中では、反出生主義みたいな一派もあり、現実世界を極度に忌避していた人たちもいたと言われます。

ただ、グノーシス主義を探求していくと、それ(反出生主義的な考え)さえも物質的境地・観点に毒されているからではないかと思うことがあります。

グノーシス主義のことにつきましては、少し難しくなりますし、誤解も生じやすいので、ここではこれくらいにしておきます。(ちなみにグノーシス探究は、私のタロット講座受講者で、それに興味のある人たちのグループでやっております)

今日言いたいは、マルセイユタロットの四組「玉」の悩みをどうするかについてです。

玉の悩みは、つまるところ、肉体がベースだと言いました。

でも、肉体をすぐに捨てる(死ぬ)わけにもいかないのも当然です。ということは、残るは三次元認識をどうするか、になります。

おそらく、宗教や古代から解脱的な修行は、この三次元認識をいかに超えるか、変容させるかという技術とか知識であったと推測されます。

とは言え、私たち一般人で、なかなか修行ベースの生活を送ることは困難です。

ここで、タロット的には四組を再登場させ、玉の世界だけに偏りがちな意識を、ほかの剣、杯、杖に振り替えて行くということが考えられます。

これは玉、すなわち、肉体と三次元の世界をもとに思考や感情が出ていることに気づくのがまず大事で、そのあと、剣、杯、杖のほう(のどれか)に意識を強制的にでも移していくという作業になってきます。

もっと具体的に言えば、例えば、「杖」は情熱や生きがいを象徴しますが、肉体をはずした生きがい、肉体を通さない(使わない)喜び、目的を思う、創り出すということで、そうすると、意識は三次元価値観にどっぷりと浸かっていたところから、少し浮上するでしょう。

また「杯」は感情を象徴しますが、これも、肉体的欲求から出ているかどうかをチェックしていくことで、例えば、何かを買う時や、恋愛においても、肉体意識から離れて、もっと別のつながりとか目的を持ちたい自分に気づくこともあるかもしれません。

また、三次元認識を超えるということは、すなわち四次元以上の認識に自分を上げることなので、そうしたテクニック・知識が論理的にできるものを学ぶのもよいかと思います。

特に、今は、半田広宣氏が提唱されている「ヌーソロジー」が、個人的にはマルセイユタロットの幾何学にも通じていて、とてもお勧めです。少々難しくはありますが、普遍的な意味で、三次元認識を超えて行く(少なくとも、今の現実意識を変える)きっかけになると思います。

それからスピリチュアル的なことになりますが、やはり、霊性という部分を、仮定でもいいので自分の中に創り(本当はすでにあるものですが)、常に自分の行動や感覚、あるいは悩みの時に、その部分・存在を意識することで、玉・肉体の囚われを和らげるように思います。

実はマルセイユロタロットの大アルカナでも、肉体と三次元意識からの脱却による現世での悩み軽減(究極的には解脱のようなもの)は、描かれています。というより、それこそが大アルカナの目的と言ってもよいかもしれません。

マルセイユタロットの、大アルカナ「数をを持たない愚者」には、旅人とともにが描かれており、その犬とともに旅をしているか、犬に駆り立てられているかのように見えます。このこそ、霊性と関係すると見てよいのです。

ですから、言ってみれば、霊性をいかに育てるか(回復するか)であり、そして復活していく霊性(霊性の意識の顕在化)の程度により、囚われの現実世界(肉体と三次元認識中心の世界)からの脱却が進むと見られます。

多くの人が、肉体と三次元中心の世界観の意識から変われば、逆に世界のほうが変容し、現実と呼ばれるものが、新しい、今、普通の人が想像したこともない(しかし本当は故郷・本質として覚えている)現実に移行するのだと考えられます。

肉体を通した悩みに私たちがある時、それはある意味、大きなチャンスだとも言えます。

肉体があるうちに、変容(マルセイユタロットの名前のない「13」で象徴)過程をたくさんの人が通過することで、いわゆる輪廻転生的な、ある意味、面倒な成長(変容)手続き(システム)が、人類からなくなっていくものとも想像されます。

まあ、とはいえ、私もまだまだ囚われていて、言わば「実験体」みたいに、肉体ベースの悩みが起きてくることを強烈に経験中です。従って、皆さんの助けにはならないかもですが(苦笑)、それでも、考えていること少しずつ、これからもお話したいと思います。


シンボル・象徴の学習と効果

マルセイユタロットには、様々なシンボル・象徴があります。

それらは、論理的にも感覚的にも汲み取ることができ、ある意味、感性と思考を調整したり、統合したりできる機能があります。

おそらく女性性優位の方は、シンボル(象徴図像)を見て直感的に何かに気づく、あるいは意味を悟ることがあるでしょうし、男性性優位な方は、出ているシンボルを構造的に分析することで、意味を見出したり、確信を得たりすることが可能でしょう。

さて、そのようなマルセイユタロットのシンボルですが、一枚一枚の図像の中にたくさんの種類が描かれています。

マルセイユタロットの学習過程において、そのシンボル・象徴を発見し(伝授してもらい)、理解することが重要になります。

世間では、短期的なタロット学習の場合、それぞれのタロット一枚ずつの意味を、ただ「言葉・単語」として覚えるという方法が見受けられます。

しかし、それでは、一枚の中に描かれている様々なシンボルにふれることもないですし、そうしたものを活用するという発想すら出てきません。

これは非常にもったいないことです。特にマルセイユタロットの場合は、シンボル・象徴図が精緻に描かれ、全体から見ても整合性(論理性)をもって配置されています。

その仕組み・構造・意味を理解せずして、マルセイユタロットの活用はあり得ないと言ってもよいくらいです。

シンボル・象徴というものは、図で表されることが多く、だからこそ、民族や国、言語を超え、さらには時代も、個人による違いも超越して、いわば普遍的とも言える共通な型、本質を示唆します。

マルセイユタロットが多く製造された時代と地域は、18世紀のフランスですが、現代の日本人が使っても機能するのは、そうし理由があるからです。

ましてや、マルセイユタロットに描かれているシンボル・図像は、タロットが広く流布した時代よりも、もっと何世紀もさかのぼることができます。なぜなら、マルセイユタロットの中のシンボルが、実際に古い時代に見受けられるからです。

シンボル・象徴で何ができ、何が起きるのかということは、ほかならぬ、マルセイユタロットにいくつか描かれている「十字」シンボルで示すことができます。

十字、「+」のシンボル・図像は、デザイン的にも相当古いものだと推測されますし、まさに「シンボル」として、現代の我々にもなじみのあるものです。

実際にアクセサリーに使っている人もいるでしょう。

十字と言えば、キリスト教の十字架が思い起こされますが、マルセイユタロットのそれ(描かれている十字)は、「正十字」と呼ばれる上下左右の長さが均等なものがほとんどです。

これ(正十字が使われていること)には、歴史的・宗教的な理由など、隠された話も含めて、かなり深く長い話をしなければならないのですが、それらは講義で説明しているところです。

今、言いたいのは、この正十字のシンボルが、まさに、先述したように「シンボルそのもの」の機能を物語っているということです。

正十字の構造・デザインは、縦と横の同じ長さの線分が交差しているものです。ですから、構造的には、縦と横の線の領域があるわけです。

私たちが、グラフを使用する時も、横と縦の線を引くことをよくします。これは横のふたつの要素、← → と、縦のふたつの要素↓↑が合体したものですよね。

ということは、都合、左右・上下で、四つの区分け、性質があることがわかります。しかし、縦と横で違うように、縦線の二つと、横線の二つの性質は方向性が異なります。

しかしながら、正十字は縦と横という、方向は違っても、線の長さは同じです。

ここから考えられるのは、左右と上下、それぞれふたつの性質が対立していると同時に、それぞれが統合もしているということです。

さらに言えば、すべての線分が同じ長さ(クロスして分かれたように見える4つの線分でさえ同じ長さ)であるので、4つ(の要素・性質)全体を統合していると見ることも可能です。

言い換えれば、書かれてはいない正十字の領域を囲む円のようなものがあると想定してもよいのです。ケルト十字のような図ですね。

左右と上下は、方向が異なるので、何かしらの種類の違いはあるとはいえ、どちらにしても、ふたつのものが行き交い、交流し、両方(両端)をつなげています。(統合)

仮に、左右の両端を女性・男性とか、大人と子供とか、国とか文化の異なりとか、人間の世界による違いによる対立だとします。

ただ、今述べたように、対立ではあるけれど、両端は線としてつながっているわけで、言わば、交流による理解とか創造も生まれると見立てられます。それは「線そのもの」として見れば、ある種の統合と言ってもよいです。

そして、上下の両端についても、仮に、一人の人間の表と裏、顕在意識と潜在意識、さらには神性と人間性、天使性と悪魔性のようなものとします。

するとこれも、両端では対立していますが、ひとつの線だと見れば、ここにも交流が起き、統合されたものとしてとらえることができます。

これら、横と縦が交差(クロス)して、「自分」「自己」というものが形成されていると見るとどうでしょうか。

要するに、シンボル・象徴とは、私たちの内と外、個人と全体において、成長・統合させるために、形や直観的意味として見させてくれるものなのです。

私たちがシンボルを見る時、シンボル自体が私たちにもなり、そのシンボルが表す(シンボルが創造され、蓄積されてきた)世界に連れて行ってくれます。

そういう意味では、シンボルは一種の乗り物とも言えましょう。

ただ、それを活用するには、やはり直感だけでは不足で、きちんとシンボルの意味合いや背景など、様々な知識も必要とされます。

それは丸暗記のような学習とは異なりますので、学生時代、勉強がつまらないと思っていた人でも、面白く学べるところはあるでしょう。(何事も楽には行きませんが)

私自身もそうでしたが、本当にマルセイユタロットのシンボル・象徴図像を学ぶことはとても楽しいものです。知らないことも多かったですし、興味深い、新たな知識が学べるのはうれしいことです。

同時に、シンボルにふれてきますと、十字で説明したような、「交流」が起きてきますから(たいていは自分の中との交流)、自己に対する認識の変化、変容も起き、それに連れて現実も変わって来ることも生じます。

1枚ずつの意味だけ覚えて、すぐ占い師になる、みたいなことを望まれる方は、マルセイユタロットの学習には不向きです。

一方、じっくりシンボル・象徴の意味を学び、それらを活用してあらゆることを探求していきたいという方には、大いに勧められるのがマルセイユタロット(の学習)です。


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