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タロット、時間感覚、記憶、ストーリー、世界
タロットリーディングにおいて、時系列的に、「過去」「現在」「未来」を読むことがあります。
しかし、タロット占いでは、たとえ「過去」は取り扱ったとしても、重要視されないことが多いです。
それは、ほとんどの占いに来る相談者の関心が、終わった過去のことより、「今どうなの、これからどうなるの?」というように、「今後」にあるからで、極端に言えば、過去の話などいらないのかもしれません。
占いの場合はそれでよいかもしれませんが、リーディングになってきますと、「過去」はむしろ大事になってきます。
心理的にも過去のデータ(体験・経験・経緯・出来事などの記憶、思い)が現在にも影響を及ぼしていると考えられるからで、さらに言えば、それは「未来」にも関係してくると想定できるわけです。
ということは、時系列的に一番重要なのが「過去」だとも言えます。
ただ、やはり、中心は「現在」であり、現在の状況に問題を感じている、悩んでいる、何とかしたいと思うからタロットリーディングを行うことが多いわけで、そういう意味では、「現在」が最重要ポイントと言えるかもしれません。
しかし「現在」という定義が実は難しく、厳密に言えば、刻一刻と時は移り変わっているわけで、すぐに「現在」は「過去」になり、逆の視点では、「未来」がずっと押し寄せてきて、「現在」が流されていくという解釈にもなります。
すると、「現在」というものはないことも考えられます。私たちは、「過去」と「未来」のはざまをさまよって生きている存在なのかもしれません。
いずれにしても、「過去」は無視していい時点ではないと思えます。
特に心理的な問題を抱えている人、本人が気づいていなくても、同じことを繰り返し問題化させていたり、なぜかずっと気になって仕方ない状態が続いていたりする人などは、「過去」をタロットリーディングする必要はありそうです。
また、「未来」についても、単なる「こうなる」「こういうことが起こるかも?」というような占い的な話ではなく、自分の目標、希望、願望、恐れ、不安、さらには幾つもの想像される選択肢(それは意識・無意識の両方)など、様々に考えられます。
時間を普通に「過去」→「現在」→「未来」という具合に一方向に流れていると見るだけではなく、その反対の、「未来」から「過去」に向かって流れている視点もあると、リーディングが変わって来ることがあります。
例えば、「未来」の設定(イメージ)があやふやであれば、現在をどうすればよいのかも不明慮ですし、逆に未来をはっきり定めていれば、そこに到達する手段や方法も、今現在から具体化しやすくなります。
ほかにも、「未来」をよくすることができれば、過去の、自分がネガティブでダメだと思っていたことが、未来のための糧、必然事項と変化し、「過去」の印象そのものがチェンジすることもあり得ます。
「過去」の印象がよくなれば、「現在」へもその影響は及び、つまるところ、「過去」「現在」「未来」すべての時系列がよい意味で変化することで、それはもう「人生に充実感あり」と同意儀になってくるでしょう。
それで、前にも「運命の輪」に関係させて書いたことがありますが、私たちは、時系列を認識する時、「過去」から「未来」への一方向の流れとか、「過去」「現在」「未来」の三つの概念でとらえようとします。
しかし、先述したように、時間は「未来」から「過去」へ向かったり、「現在」というものがあいまい(もっと言えば「時間」そのものがあやふや)だったりすることも考えられるのです。
そういった多くの時間の感覚・考察を導入することによって、単純で常識的なリーディングから離れ、時空を超越したかのような読みや気づき、変化をもたらせることが可能になります。
ところで、時計的な一様に流れる時間とは別に、よく言われるように、一人一人の個人的時間感覚があります。クロノスとカイロス時間の違いですね。
ということは、特に個人においては時間が異なることもあるわけで、だから、個人それぞれで感じている世界も違うと想像することができます。
そして最初に述べたように、「過去」という記憶は、意外にほかの時系列に影響を及ぼしていますから、記憶によって、時間の感覚も変わって来たり、世界そのものも変わったりする可能性もあると考えられます。
記憶と時間、世界ということでは、マンデラ効果(エフェクト)ということが思い浮かびます。
これは、事実とは異なる記憶を不特定多数の人が持っていることを表す言葉ですが、実際には、その人たちの記憶違い、勘違いのケースだと考えられます。(インパクトの強い似たようなことがあって、多くの人に間違って共有された記憶となったと想像できるもの)
ただ、あえてエンターテイメント的に言えば、アニメでよく表現される「世界線」(パラレルワールドのような、いくつもの世界に分かれる線)が変わり(乗り換えられ)、別の世界へ来た状態ということもありそうです。
たくさんの人が同じ記憶を持っているのなら、それは記憶違いではなく、本当にその記憶の通りの世界があり、その後、世界線が変わって、その記憶とは別の世界にシフトした人が多くいるという解釈です。
日本のマンデラ効果で、かつて話題になった、コカ・コーラ社から1970年代に販売されていたと噂される「ファンタゴールデンアップル」の話があります。
実は、私も、このファンタゴールデンアップルは確かにあった、飲んだという記憶があり、小学生の頃にかなり学校でも話題になったようなイメージが残されています。その瓶とか、飲んだシーン、場所など、ありありと記憶しています。
ただし、コカ・コーラ社からは、ファンタゴールデンアップルはその当時には販売していないと正式に発表されています。
それで、「いったい、私の記憶にあるものは…何?」と思ったわけです。
実はファンタアップルという商品は販売されており、同時期に「ファンタゴールデングレープ」という名前で、まるで黄金色に見えるジュースが、わずかの期間、売られていたとのことです。
おそらく、それらが混同され、間違った記憶になっていたのだと思います。私が飲んだのは、たぶんファンタアップルでしょう。
それでも、いまだにファンタゴールデンアップルなるものは存在した、実際飲んだという人が結構いるようです。
何が言いたいのかと言えば、別に世界線が変わったとか、パラレルワールドに移行したという話(それもスピリチュアル的には興味深いのですが)ということを強調したいのではなく、このように、記憶というものの支配は、強固で、時には信念になったり、事実と変わらないものとなったりして個人の中にあり、さらには、たくさんの人との間で共有されることもあるということです。
もし洗脳があるならば、それは洗脳された側では、もはや事実であり、記憶が時間(感覚)とも関係し(特に過去から未来に時間が流れていると信じる場合)、人の一生も支配しかねないわけです。
人は記憶で生きているとも言え、そうすると記憶は事実とは異なってきますので、人は幻想の中に生きていると例えられるかもしれません。
一人一人の世界とストーリーがあり、それは皆、夢の中にいるようなものです。別の意味で夢中なわけです。
マルセイユタロットに「月」というカードがありますが、このカードが18という上の方の数を持ちつつ、幻想的な世界を象徴し、7を基準にすると、11の「力」、4の「皇帝」とも関係して、現実に多大に影響を及ぼしていることがタロット的にわかります。
記憶と幻想は変えることが可能ですので、個人のストーリー、人生の意味合いも実は柔軟に変化させられるのではないでしょうか。言わば、思い込みの世界なので、どう生きようが、自由と言えば自由です。
問題や悩み、その解決とか解消も、つきつめれば同じ幻想世界の中での話です。それは一種のゲームと言えましょう。
真の解放は、やはり記憶や時間、定番なストーリーからの疑い、解除から始まるのではないかと考えられます。
人や自分の問題をタロットで扱いつつ、そういうことを想うところがあります。
「悪魔」と支配
タロットの「悪魔」のカードは、どうしても名前からネガティブな印象を受けてしまいます。
しかし、マルセイユタロットの「悪魔」は、その絵柄を見ても、意外に怖がられず、楽しい雰囲気に見えて来る人もいます。怪しげではあっても、私たちを楽しませてくれるエンターテイメントな要素を持っているのかもしれません。
楽しませるという意味では、「手品師」(手品をする大道芸人であるので)とも関係するところがあり、やはり「見せる」「魅せる」という共通点が見い出せます。
ただ、「手品師」にはそのタネが、ほかの一般人にも見破られる可能性があるのに対し、おそらく「悪魔」の手品は、もはや手品と呼ぶレベルにはなく、魔術的とも言える高度なものと考えられます。
それゆえ、「悪魔」には、つながれている人が描写されてはいても、そのつながれた人は恍惚とした表情を浮かべ、自分が悪魔の罠にかかっていることに気づいていない風に見えます。
マルセイユタロットの「悪魔」にはいろいろな意味や象徴性があり、従って、リーディングにおいても、難しいところがあります。
また、タロットを、ある種の(心理的・あるいは霊的な)自己統合、自己洞察に使う場合でも、「悪魔」は複雑なカードと言えそうです。
それは、自己の統合のためにタロットを使用するなら、カードたちは皆、自分自身だと認めなくてはならないからです。
どのカードにも、光と影、ポジティブとネガティブのような、二面性の意味が含まれますが、特に「悪魔」ともなりますと、二面性だけでは収まらないところもあるでしょうし、そもそもネガティブのほうが一般的には優勢に見えるので、「悪魔」から光とか良さを見るのは難しい作業と言えます。
また、自分の中にある悪魔性を発見し、受け入れるということは、表面的には自己否定のように感じられますし、自分の弱さとか悪さを認めるようで、苦痛かもしれません。
そういうこともあり、「悪魔」は、リーディングであれ、自分のために使うものであれ、少々難解で厄介なところのあるカードなのです。
しかし、だからこそ、「悪魔」と向き合う時、大きな成長のきっかけになったり、意外なヒントも出てきたりするのです。
今回、「悪魔」の様々な意味において、ひとつ取り上げたいのが、「支配」という課題・テーマです。
「悪魔」は支配と関係し、それはもちろん他人への支配ということが第一義的にはありますが、意外にも、自分自身への支配ということもあるのです。
後者の自分自身への支配はわかりづらいです。それでも、まずわかりやすいものとしては、自我が肥大し、そのために本来的な自己が支配されてしまっているという関係があげられます。
実は本来的な自己のほうが強いので、本当は支配されるということはないのですが、肉体的・地上的世界(つまり現実世界)では、その次元の欲求が強力に働いて、本来的な自己が眠り(保護のため)についてしまっているような状態があります。
要は見せかけの自分、エゴが巨大(強力)化し、その自分で押し通そうとする有様です。
これが自分だけではなく、他人にも向いてしまい、自分の欲求や欲望を満たす(満たしてくれる)人を無理矢理つなげようとします。
依存の関係にもこれはあり、自分が支配される側になることで、楽な立場を選択し、一時的な安住を得ようとします。
しかしそれはまた、自分自身への別の形での支配で、本当の自由からは離れてしまいます。
今は自分から発信できるネットワークや機器のおかげで、自己表現の場を得て、活き活きとしている人もいる反面、自分に向けての評価や関心を過剰に得たく、承認欲求が膨らんでしまう人も多いです。
承認欲求も、支配欲と結びついているところがあり、他人の支配はもとより、つまるところ、自分自身への幻想的な支配エネルギーに囚われているのです。
言わば、自分を認めろと周囲に訴える悪魔の支配に罹っており、その悪魔は自分の中で生み出されています。
本来的な自己、あるいは本当の意味で自分を認め、様々な自分を統合し、成長していく方向性があるのに対し、それに反旗を翻し、抵抗して、いつまでも自立できない不自由(見せかけで一時的・幻想的)な自由の場に留め置かせるために、悪魔としての自我・エゴが、ほかの自分・自己を支配しようとするわけです。
自分に向けるのも、人に向けるのも同じで、結局、「支配」という課題によって、他者への直接的支配、他者への依存、あるいは他者に認められようとする支配欲求の別の形(間接的支配)として、症状が出ます。
他者に向けられない場合は、自己嫌悪、自己破壊(自傷や自己の蔑みなど)、逃避という形を取りながら、自我によって自分を支配しようという試みがなされます。
こういうと、清く正しく美しくあれ、わがままはいけないみたいな誤解を生むかもしれませんが、悪魔の支配が課題とするものは、そう単純な、正義と悪の戦いみたいな話ではありません。
むしろ、その混交と言ってもよい、二面性の統合にあるのです。
ですから、わがままになる必要の人もいますし、逆に、わがままを抑制、コントロールしなくてはならない人もいます。
ただ、いずれにしても、何を、誰を支配しようとしているのか、その支配欲は、本質的には恐れとか不安とか、欠落とか、失うものの恐怖とか、満たせない、認められない怒りとか、そういった何かから生じていると分析してみるとよいでしょう。
意外と思われるかもしれませんが、「吊るし」のカードがその手助けになるかもしれません。「吊るし」も「悪魔」も、ひもで結ばれているという共通点があり、それがヒントでもあります。
タロットに描かれる「祈り」
マルセイユタロットに20「審判」というカードがあります。
(マルセイユタロットは、版ごとに微妙な違いあっても、絵のコンセプトはほぼ同じです)
このカードは、学習初級者の方には、意外に意味をつかむことが難しいと訴えられるカードです。
まあ、一般的に、復活とか再生、コミュニケーション、情報、家族…のような意味が出ます。それはもちろん、絵柄から出てきているわけです。
絵の特徴を見れば、上空に巨大な天使、下には裸姿の三人の人々という構図で、これは、実はマルセイユタロットの場合、6の「恋人」と同じ構図となっています。ただし、その天使と人の割合、様子・服装などは違います。(その違いが重要ですが)
ということで、「審判」と「恋人」カードとの関連が明らかにあるのがわかりますが、今回はそのことにはふれません。
本日は、絵柄からの印象で、忘れがちな部分、特に三人の人物の様子から出る「祈り」の姿勢について考えたいと思います。
さらに、タロットに描かれる「祈り」から、「祈り」とは何かについても少し考えてみようという感じです。
「審判」の三人は、手を合わせて、祈っているように見えます。視線は上空であり、そこには先述したように天使がいます。
ということは、三人は天使に(向かって)祈っていることになります。
いや、でも、真ん中の人物はどうでしょうか? この人はそもそも祈っているのでしょうか? パッと見にはわからないですが、どうやら腕を曲げていますので、やはり他の二人同様、祈っているのだと取ってもよいでしょう。
さきほど、上空を見ているとは言いましたが、詳しく観察すると、向かって左側の女性らしき人物は、横に視線を向けていますから、もしかすると、水色の人物か、向かって右側の男性的な人物に対して祈りを行っているのかもしれません。
ちなみに水色の人物は、口伝では上を向いていることがわかっており、都合、真ん中の人物と向かって右側の人物は、天使を見ていると考えられます。ですが、女性的な人物は上(の天使)ではない(見ていない)わけです。
「祈り」というものは、普通は神仏や天使、霊などに捧げるものですが、人に向けて祈りを行う場合もあります。
この「審判」の三人の祈りを見ていると、超越的な神とか天使とか、何か通常を超えるもの(それは宇宙とか大自然と言ってもよい存在)と、逆に、人そのものとか、日常的なものなどでも、その対象に祈りを行う(捧げる)ことがあるとわかります。
「審判」は、大アルカナナンバーでは「20」という、最後の「21」の「世界」の手前に位置するカードであり、考え方によっては高次段階の(象徴を示唆する)カードとも言えます。
そういうカードの図像が、祈りのポーズをさせているということは、祈りの力に、私たちが考えている以上のものがあることが語られているのかもしれません。
人数的にも、一人より二人、二人より三人ということで、数の力が合わさる効果も予想できますし、天使という高次の象徴的な対象をイメージすることによって、そのエネルギーのようなものが降りて来る、あるいは、つながる道ができて、なにがしかの力が発動されることも想像できます。
それが、上空(の天使)を見ている人と、その人自体を見て祈っている女性的な人物との関係に見えてきます。
また、男性的な祈りと、女性的な祈りには違いがあり、男性は上下直線的な筋道立った祈り(儀式とか精神的・霊的論理性)が必要なこと、女性は自身からパワーが捧げられ、フィールドを覆うようなことで、祈りの広がりと局所的パワーがあることが見て取れます。
また中央の水色の人から、中性的な祈り、上述の女性性と男性性的な祈りを受けて、自分自身の存在が立脚し、祈りを超えて、祈りの対象自体になる(祈り・祈られが同一化する)ことがわかります。
そして、さらには、祈りを実行化(効果を増幅・発揮)するために、天使からのラッパが鳴らされており、つまりは、ある音とか音階、周波数的なものの影響を感じさせます。これは、呪文の詠唱みたいなことかもしれません。
様々の要素の調和・合体とか言いますが、祈りというのも、ただ漠然と祈るということではダメで、その効果を発揮させるためには、何らかの条件を合致させて祈ることが必要であると、カードからは想定できます。
その他、「星」のカードにも、祈りそのものではないにしても、女性が頭を垂れて、半ば祈りのような姿勢で壺の水を流しているのがうかがえます。
この「星の」カードには、天・地・人の調和が表現されており、諸条件の合致とか、自然や何か超越的なものとの一体化が、祈りの過程や目的で重要ではないかと想像することができます。
「審判」では特に、祈り・祈られの相互作用が、その前の数のカード「太陽」とともに強調されていることが、個人的には感じます。
祈りはある意味、一方的ではあるのですが、対象を置くこと、その対象と自分が対(つい)で一体化すること、また、誰かに祈ってもらうだけではなく、自分自身も祈りを捧げること、それは、高次(神など)への祈りということだけではなく、祈ってくれている人間に対する感謝の祈りという、異なる意味での相互的な祈りも含みます。
(願いを)叶えるための祈りと、叶えてくれる有難さへの祈り、こうした「祈り」そのものに、何重もの祈りの質が折り重なり、結局は、自身にある力を引き出すということに祈りが捧げられるわけです。
奇跡を願うという一方的な祈りではなく、自分の完全性に対する信頼や回復というのが、祈りを行う目的のひとつなのかもしれません。
三枚引きと時間感覚
タロットの展開法(スプレッド)で、三枚カードを引く技法、いわゆるスリーカードというものがあります。
これは、結構、いろいろな展開法の基本となっているもので、あの、特定の展開形を持たない、カード人物の視線の方向性にカードを並べていくカモワン流でさえ、最初は三枚引きから始まります。
三枚それぞれについては、様々な解釈(所定の意味)が付与されているのですが、時系列的に見れば、たいてい、過去・現在・未来というように意味付けされます。
私たちの通常の時間感覚では、今現在を基準にして、すでに過ぎた時間の過去、いまだ起こっていない時の未来というようにとらえるので、すなわち、現実的時間とは、三つの観点による時間の流れということになります。
従って、カードをそれぞれ過去・現在・未来と振り分ければ、必然的に三枚(三つのパート)となり、それがつまりは、私たちの経験している時間の舞台を表現していることになるわけです。
ですから、三枚引きは、時系列感覚においては、とても現実的であるのです。
しかし、タロットといえば象徴が機能しますので、むしろ、現実を超えたもの、非現実、超現実、見えない領域や通常の認識していない部分を表すことが多いものです。
とすると、三枚引きで時系列的に見る(タロットの)シーンは、現実のようでいて、そうではないところもあるわけです。
ここが非常に重要なポイントで、現実と非現実との境界線にゆらぎが生じ、これにより私たちは、常識的な自分、自我が固まった世界観が崩壊してくる体験を(タロットリーディングで)します。
すると、気がついていなかったこと、表面や現象ではない、本当の問題とか核心にふれていくことにもなります。
ところで、スピリチュアル的によく言われるのが、「今この瞬間に生きる」という戒めのような言葉です。
これは確かに、そうしたほうがよい場合もあるでしょう。私たちは、どこか、今に集中せず、ああでもないこうでもないと考えを巡らせたり、過去や未来のことを心配したりしていて、今をおろそかにしていることがよくあります。
今に集中していれば、余計な考えも少なくなり、エネルギーや意識も現在に収束され、作業効率とか目標達成力も上がるでしょう。
けれども、一方で、今に生きないということもでき、必ずしも、今に集中しなくてもよいケースがあると思っています。
言ってみれば、過去に生きる、未来に生きるという考え(意識)です。
実は、多くの人は、過去や未来に生きる選択をしている場合があります。
さきほどの「今に生きろ」という戒めも、偏って過去とか未来に意識が飛んでいる人を注意しているだけで、過去とか未来を思ってはならないというわけではないのでしょうが、それでも、あえて過去か未来に生きるという方法もありだと述べておきましょう。
まず、現在ではなく、過去とか未来の時間に意識を飛ばすのは、ポジティブや、よいと思う自分になる場合ではないとなりません。
ネガティブな場合は、それに囚われ、まさに時間の虜になってしまいます。過去だと後悔とかトラウマ、未来だと不安とか恐れでイメージしてしまう自分(や状況)の場合です。
よい時間への跳躍とは、平たく言えば、過去の良かった自分に戻る、未来の理想的な自分に浸るというようなものでしょうか。
とは言え、なかなか思いだけでは(イメージ)が難しいので、タロットの図像(絵)を援用するわけです。
さきほど、三枚引きが、過去・現在・未来を示すという解釈があると言いましたが、それを使い、過去に良かった時代があれば、過去のカードから想像し、未来によいものを描きたければ、未来パートのカードのイメージを借りるわけです。
カードを展開する時も、自分がよくなるにはどうすればよいかというテーマで行えば、それ相応のカードをタロットが出してくれるでしょう。
現在は現在で、今の自分をイメージするのに役立ちます。
ここで注意しなければならないのは、カードは正立で出すということです。逆位置を取らないわけですね。逆位置には、どうしてもネガティブなイメージがついてしまうので、正立のみの展開で三枚引くとよいでしょう。
時間の跳躍は、言わば、現実逃避(笑)なのですが、よい現実逃避は、現実を変える(超える)効果があるのです。なぜならば、私たちは今の自分を作りあげている自分(自我)ルールに縛られ、その範囲からなかなか抜け出せないでいるからです。
自分を変えることは現実を変えることにつながります。そのために人は、学んだり、経験したり、運動したり、新しいことに挑戦したりします。それは、すなわち、今の自分を壊す作業でもあるのです。
従って、今ではない過去や未来に飛ぶということは、今を変える可能性があり(過去の認識が変化すれば今も変わります)、現実逃避も悪くはないのです。
また現実逃避は、自己を保護する役割もあり、傷つき、疲れ切った自分を癒す作用が期待できます。
本当は、三枚それぞれを関連させ、現実時間の流れを無視して調和させることで、大きな変革や癒しが起きるのです。
ですから過去だけ、未来だけの跳躍は一時期な避難みたいなもので、そのあとに、三枚を統合させて、新しい意識を作り出す必要があります。
結局、それは「過去」→「今」←「未来」のように、今に集約されてくるものです。その意味では、やはりスピリチュアリストの言われるような、「今に集中」「今に生きる」というのも、理に適ったことになってきます。
今の常識的な自分を変える(超える)には、時間の流れを、過去→現在→未来ではなく、その逆方向や、三つが輪になって回転しているようなイメージを持つことです。「運命の輪」のカード図像にも関係してくることです。
そうすると、無意識の領域では、時間の流れというものがないことに気づくかもしれません。
過去の問題は今の問題であり、未来もまたしかりで、現在に悩みがあれば、実は過去も未来もよいようには見えてきません。
すべてが関連しているのですが、現実時間にいる私たちが実際に行動できるのは今の自分だけなので、三次元的には今の自分の行動と選択が重要になります。
反面、意識(心)の中では、行動ではない部分も効力を持つので、思いとかイメージの力が有効になります。ですから、時間的には、今だけ大事とは限らないのです。
そういうことを、たった三枚でも、タロットからは感じ取ることが可能でしょう。
タロット三枚と時間意識について、タロットを展開しながら考えてみる(体験してみる)のも面白いことです。
上を向いて歩こう
「上を向いて歩こう」という歌がありますが、このタイトルを思う時、私はマルセイユタロットの「愚者」を想起します。
興味深いことに、「上を向いて歩こう」の歌手、坂本九氏のほかの歌で「見上げてごらん夜の星を」」というのがありますが、この歌も「愚者」が、ちょうど17の「星」を見ているようなイメージが思い浮かびます。(「星」ではありますが、実は「太陽」のカードの意味と雰囲気もあります)
ともに永六輔氏の作詞ですね。歌手も作詞者もすでに故人であり、特に坂本九氏は、例の飛行機事故で亡くなられたという不幸なことがありましたが、世代ではないにしても、このふたつの歌は、なぜか、マルセイユタロットが浮かび、とても心に響くものがあります。※坂本九氏の「九」は「隠者」の数であり、「隠者」と「愚者」の関係性、「隠者」(導き)のランタン(光)とか、いろいろと面白い偶然性があると思います。
「上を向いて歩こう」では、「独りぼっちの夜」という歌詞が特に「愚者」ぽく感じます。
ただ、本来の「愚者」は、涙とか湿っぽいものではなく、むしろ逆で、ほがらか、楽天的、無邪気、極端に言えば能天気とさえ思えるものです。しかも独りぼっちではなく、犬のような動物が「愚者」の人物の後ろにいます。
それでも、「上を向いて歩こう」との共通点をあげると、やはり「上を向いている」ということと、その歌詞に、「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」という部分があることでしょう。
マルセイユタロットの「愚者」も、上を向いて歩いているわけで、その関心は上方向で、いわば天上にあると言えます。
歌詞の「雲の上、空の上」が何を指す(示す)のか、いろいろな解釈があるでしょうが、マルセイユタロットの「愚者」になぞらえると、それは天上であり、宗教的には神の国、天国、スピリチュアル的には宇宙、大いなる世界、生死でいえば死後の世界、霊的世界、心理的に言えば集合意識、無意識や潜在意識、超越意識でつながる世界、認識でいえば、見えない世界、時間のない世界、永遠の世界、非日常の世界と言えましょうか。
その反対にあるのが、現実や地上的世界、時間の流れる私たちのいるこの世の普通の世界ということになりますが、「愚者」が上を向いているので、彼の関心はこちら、地上的世界にはあまり興味がないようにも見えます。
ところで、人はどんな時に上を向くのでしょうか?
希望を抱いている時、夢を思い描いている時、ワクワクしている時など、比較的ポジティブな状態にいる(なった)場合に上を向くように思いますが、一方で、その反対の落ち込んだ時、我慢している時なども、無理矢理ですが、上を向くケースがあります。まさに、「上を向いて歩こう」のような、「涙がこぼれないように…」というような感じのシーンです。
また、「下を向くな、上を向け!」と言われることもあり、これは、元気を出せ、落ち込んでいる場合ではない、やることをやれと、叱咤激励されるような場合です。
これらから考えると、人が「上を向く」というのは、結局、希望・夢・元気・気の取り直しのような、ポジティブに向けてのものだと言えます。
たとえネガティブな気持ちになっていても、上を向くことで気分が変わり、少なくとも、落ち込み、沈んでいた気分を、なにがしか変えてくれる効果があるようです。
本来、ウキウキ・ルンルンであれば、下を向くことはほとんどないはずです。であれば、上を向いている時の気分を再現するために、あえて上を向くという方法もあるでしょう。
人は動作によって、完全ではなくても、気持ちを変えることが可能なこともあるのです。ですから、上を向くことは少しでも明るく生きようという意思の表れでもあるでしょう。
それで、天上の話に戻りますが、マルセイユタロットの「愚者」は天上に関心があり、そこを目指して旅をしていると言えます。
ですが、大アルカナ、次のナンバー1の「手品師」になると、この人物は斜め下方向を見ていて、「愚者」とは真逆です。
ところが、このふたつを並べてみると、版によって違うとは言え、「手品師」の視線の先、つまりは「愚者」の足元(地上)は、水色にぬられていることがわかります。実は水色はマルセイユタロットでは、天上的なものを示すと言われます。
ここに面白いマルセイユタロットからの示唆・仕掛けがあり、天上を目指していても、地上で学ぶ(経験)することがあり、そして地上にも天上(性)があることがわかります。
要は、陰陽ではないですが、天と地がセットになってはじめて本当の世界・宇宙があると言え、このふたつの統合が鍵であるようにも思えます。
ただ、地上が嫌で、早く天上に行きたいと思う人もいるかもしれません。しかしながら、マルセイユタロットは地上(性)も重視しており、大アルカナでも、かなりのカードが地上性での経験を示しています。
さきほど述べたように、地上にも天上性があるわけで、そのまた逆(天上に地上性)もありなのかもしれません。
私自身も、「愚者」のように、地上より天上志向が強く、上を向いて歩いて、足元、地上が疎かになることがしばしばですが(苦笑)、地上にも天上性があるのですから、捨てる神あれば拾う神ありで、さらに言えば、真の完成には、どうしても地上・天上の両方との統合が求められ、そのためには地上での限定的経験も必要不可欠なのでしょう。
まさに、上を見ながら、下を歩くという「愚者」スタイルです。
それでも、地上では楽しいこともある反面、実際つらいことも多いわけです。ですが、その起伏こそが、天上とは異なる特徴なのだと思われます。
「上を向いて歩こう」の歌詞でも、「悲しみは星のかげに、悲しみは月のかげに」という部分があります。これは、奇しくも(霊性中心の)占星術的に、すごいことにふれていると個人的には思いますが(永六輔氏は意図していないにしても)、ここでは、地上の悲しみ、つらさは星と月の影にあると言っておきましょう。
スピリチュアル的に言えば、まさに星々の影であるのが悲しみで、それはつまところ、幻想であることを示唆しているようでもあります。
悲しみの反対の楽しみ・喜びでさえも、逆に言うと影かもしれません。結局は、感じるのは人ですが、それ自体はただのエネルギーの起伏と言えます。
それが地上の限定的・物理的世界では、あたかも本当のモノ・コトのように感じてしまうわけです。
そうは言っても、すべては幻想だからと割り切れるものでもありません。その実際感(リアリティ)からはなかなか逃れることができないものですし、本当につらい、苦しい(楽しい、うれしい)と誰もが感じるわけです。
ですから、せめて、時々、あえて上を向いて(歩く)ことで、地上性の喜びはここだけしか味わえないとかみしめ、逆の、つらさ・悲しみは、天上の戻る(行く)ための旅路、通過点だと思うと、何とか進むことができるのではと考えます。
そして、実は、「愚者」に犬がいるように、私たちは独りぼっちのようで独りぼっちではなく、常に寄り添っている(霊的、あるいは人によってはそれを体現している実際的)存在がいるのだと意識(見つける、見つけようと)することで、自暴自棄になったりするのを防いだり、客観性を得られたりすることもあるでしょう。
最後に、私たちは、本当は誰もが星や月を超えた世界を知っています。
星や月の影を超えたところに、私たちの本当の故郷があるのです。この現実の世界がつらく・苦しいものと思う方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはグノーシス的に言えば、本当の場所でないから当然です。
しかし、これまた逆説的になりますが、だからと言って逃避的に生きたり、自らの死を図ったりしても、真に逃れることはできないとグノーシスは教えます。
脱出のヒントは「認識」にあるのです。だから、グノーシス(知ること、認識、叡智)なのです。
それが象徴されているのが、マルセイユタロットだと(私は)思っています。
