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藤沢体験会、ご参加ありがとうございました。
10/31の藤沢でのマルセイユタロットお話&体験会にご参加いただきました皆様、ありがとうございました。
またこの企画を考えていただき、いろいろとサポートしていただきました「ヒーリングルーム 虹のとびら」のももやまさんとそのご友人・知人の方たちには、改めてお礼と感謝を申し上げます。
関東での体験会は初めてということで、私も普段の体験会などではあまり披露しないものも、今回、お話させていただきました。
お一人お一人のショートリーディングでも、皆さん、経験していること、問題や課題はもちろんそれぞれ異なるのですが、同じカードや展開も比較的よく出まして、やはり集まった皆さんには、全体として象徴的には共通のテーマがあるように感じられました。
特に目立ったもの(カード)では「法皇」とか「悪魔」がありましたね。
その他のカードの共通性から見ましても、「自分をいかに大切にして、自他の責任の区分を明確にし、伝えたり、外に表現したりしたいことは勇気をもって行い、それが実はあなた自身と周囲との環境の調和を生み出す」ことが言われていたように感じます。
今回はサプライズとして、特別にタロットによる抽選で、事後のメールリーディング、お一人プレゼントもつけさせていただきました。
抽選したカードが拮抗していまして、最後のお二人のどちらかということが難しかったので、これはタロットの意志と考え、お二人にプレゼントすることにいたしました。当選された方、また新たな課題や問題が生じましたら、メールくださいませ。
ご希望があるようでしたら、今後も、関東での体験会や講座も行っていこうと思います。
体験会の翌日は、以前、横浜から講座を関西まで受けに来ていただいた方と再会し、その方からふたつの祝福ごとのご報告を受けて、私もとてもうれしく思いました。
この方は、ちょうどタロット講座を受けてから人生の流れが変わり、以前では思いもかけなかった新しい自分に変容されています。もちろん、客観的(幸せ的)に見ても、先に述べたように祝福ごとであり、それはよいことの変化です。
このタロットを受講される方は、本当に変化や転換点に来ている人が多く、そういうタイミングでマルセイユタロットと出会うようです。
この方も長い間自己探求を続けておられ、その知識や象徴へのアプローチも高いレベルにありました。
ただ、それを統合する体系的な象徴ツールを求められていたところもあったのです。それが偶然にも(必然とも言えますが)、マルセイユタロットと出会い、学ぶことで、より今まで蓄積していたものの整理と探求が深まったということになったようです。
そうしますと、象徴と現実のリンク性が濃密となり、心の変化が現実の変化として現れてきますし、その逆に、環境が自己の変容を促すかのように、急速に「運命の輪」が回転してくるのです。
時には、それ(起こること)は自分の浄化や統合のために、一般的にいいと思えることではないかもしれません(悪いと思えることもあり)。しかし、統合的・向上的な視点から見れば、必要であり、善きことだと、あとで思えるものなのです。
ただし、それが感謝として思えるためには、現状の視点や次元を超えなくてはなりません。
起こったことが神性のすばらしい恩恵であること、これを理解するためには、象徴による物事の本質の把握が必要です。
これができると、あなたの階段は一段上がり、この世界のすばらしさ、そしてまたさらなる矛盾さえ見えてきます。少なくとも、一段下であった昔の自分によるとらえ方はなくなり、かつては見えなかった(理解できなかった)隠れていた秘密(恩恵)が現れてくるのです。
人に、いつも見えているのは前方だけです。けれども見えていないだけで、必ず、自分の後側の世界もあります。
それは鏡がないと通常は見えませんし、たとえ鏡を見ても、それは虚像(鏡像)であり、逆(反転したもの)であり、まだ鏡を使ってでさえ、半分しか見えないものです。
全部を見るには、自分のいた位置が見渡せる位置と視野の獲得が必要です。これが統合のひとつの考え方でもあります。
マルセイユタロットは、そのためのよきツール、パートナーとして、あなたに付き添ってくれるでしょう。
タロットに選ばれている・選ばれていない感
私のタロット講義を受けていただいた方には、受講者間の交流や情報交換の意味も込めて、アフターフォローにもなるクローズドの掲示板を設けています。
掲示板にはいろいろな意見やリーディング結果、質問が書かれていて、私自身もモノの見方の勉強になります。
さて、そんな中で、最近話題になったのが、「自分はタロット(マルセイユタロット)に選ばれているかどうか?」というテーマでした。
これは別にタロットに限らず、自分が学んでいるものや、選択した仕事、時には、つきあったり、関係したり、尊敬したりする人からも「自分は選ばれているのだろうか?」と悩む時はあると思います。
ちょうど、子供が自分の親に愛されているのかどうかと不安に思う気持ちにも似ているように感じます。
「いや、大丈夫、あなたは愛されている、選ばれているんですよ」と誰かに言ってもらえれば納得するのかもしれませんが、結局、これは自分の感覚なので、他人からとやかく言われても、腑に落ちないことがあるわけです。
しかし、同時に、自分だけでは確信が得られないので、他人の意見(客観的なもの)によって、「あなたは選ばれているんじゃない?」「あなたは○○から愛されているわよ」と、言ってもらいたいという気持ちもあるでしょう。
要するに、自分であれ、他人であれ、自分が気になっている(気に入っている)もの(あるいは人)からは、「選ばれている感」を実感したいわけです。
しかし、ここで、そもそも論になりますが、「選ばれる」ということについて考えてみます。
「選ばれる」という言葉をよく見た場合、それは文法的に受動型です。つまりは受け身なのです。
ということは、自分は主体ではありません。何か、あるいは誰か、外のものが主体となっていて、それが自分を選ぶのだという発想になっているわけです。
もし「神から選ばれる」という言葉を述べた場合、その「神」は外にいる神です。何か自分とは別の絶対的な存在で、自分や世界の運命を操っているものというイメージにもなります。
決められた運命に従う者のように、ただ自分が選ばれるのを待つだけの奴隷的存在にも見えます。
ところでマルセイユタロットにおいては、本来、グノーシス(自身の神性を認知する、認識して完全になる)という思想が流れていると私は考えています。
グノーシス思想の立場を取れば、神は外にはおらず、自分の内に存在することになります。
「選ばれている」という発想で見ている限り、自分の内なる神性の発動はなかなか起きないと考えられます。
自分が主体となること、これが非常に大切です。
またマルセイユタロットでは、このことは「運命の輪」というカードにも関係してきます。
このカードの解釈も様々ですが、ひとつには、「運命」というものは自分が創っているうえに、ほとんどの人はその自分の創った運命のからくり自体も知らず、それに弄ばれている・翻弄されているというものがあります。
そういう状態(翻弄されている状態)の場合、まるで自分の外側に「運命」があり、それを与えたり、コントロールしたりする「運命の神」がいるというとらえ方になってきます。
その運命の神を招く、あるいは運命(よい運)を引き寄せようと、必死にもがくのですが、もがいてももがいても、完全にはうまく行きません。
たまにうまく行くことがあっても、なぜそうなるかの本質がわからず、そのうまく行ったパターンを繰り返そうとします。
それは、言わば、自分が写った鏡を見て、それを他人だと思っていちいち反応してしまう悪循環(幻想)に囚われている人物を想像させます。
では、「選ばれる」というのではなくて、「自分が選んでいる」という考え方をなるべくしたらいいんですね、ということになりそうですが、実は、これもまだ不十分です。
自分が主体であること、選ばれるのではなく、選ぶという意識は大切ですが、「選ぶ・選んだ」という意識が強すぎると、一方で、反対の「選ばれる・選ばれた」という思い・考え方に対しても関心が強く行ってしまうことになるのです。
光が強くなればなるほど、影もはっきりしてくるみたいな感じです。
つまり、「選ぶ・選ばれる」という二元的な考えの囚われが激しくなってしまうというおそれです。
もっと次元を上げていくには、選ばれるも選ぶも同じ、でも違う、どっちでもいい、みたいな状態になる(その二元が気にならない感覚になる)のがよいと考えます。
確かに、「選ばれる」と実感すると、モチベーションが上がったり、その対象や人に対して貢献感が増します。
ただし、反対に選ばれていない感を持ってしまうと、やる気を失ったり、選ばれるための思いと行動ばかりを重視し、本来の仕事や学びが疎かになる本末転倒状態になります。また宿命論や運命論に傾きがちです。
逆に「選ぶ」という主体感を持つと、自分が人生の主人公である感覚が強くなり、自分の選択が自らの人生を創造して行っているという爽快感も出てくるでしょう。
しかし、一方で、行きすぎると、何でも自分の思い通りになるというワガママ・自我肥大の危険性もあり、謙虚に自分や他人を見つめ、生かされている感覚、お陰様でという発想が疎かになりがちです。ひどい場合は狂信者やテロリスト、ヒトラーみたいになります。
とはいえ、「選ばれていない感」で悩んでいる人にとって、改めてこう問いたいものがあります。
それは「あなたは選ばれていなかったらそれをしないのですか?」「その人との関係をあきらめたり、つきあいをやめたりするのですか?」という質問です。
「それ(その人)が好きなら、それでいい」というのが、実は「自分が選ばれていること」だと気がつけば、とても心は楽に、楽しくなってくるでしょう。
あなたが選んだのなら、それは、あなたが選ばれたのと同意義なのが、この世の仕組みなのです。
マルセイユタロットの「恋人」カードはまた、そのことも示しています。
あなたの出会う「世界」
私の場合はマルセイユタロットとの出会いがそうでした。
「何が?」と言いますと、ある世界からの拡大や脱出のきっかけとなったもの、という意味です。
私はかつては地方公務員をしていたので、どうしても、人との出会いや交流、考え方に至るまでも、その(公務員的な)世界の中の範囲に留まっていました。
これは別に公務員に限らず、どんな仕事でも、どんな環境においても、自分が属しているところの世界が中心になってくるのは仕方ありません。
モノの見方やフィルターも、その世界からというものが大きくなります。
その世界で安住していくことは悪いことではなく、文字通り安定もしていくわけで、その世界であっても、自分に必要な経験と人生は築けていけるものと考えられます。
ですが、時に、その世界の中では息苦しくなったり、うまく適応できなくなったりすることが人にはあります。
そういう時は、その世界での適応や成長の努力がまだまだ足りなかったり、逃避的になったりしていることもありますが、一方で、やはりどうしてもなじめなかったり、違う世界での成長や移行が求められたりしていることもあると想像できます。
そこ(その職場や環境)にいたのは、何らかの理由があるはずで、決して無駄や悪いことではなく、プラスや経験による糧になったこともあるはずです。
学びということでは、確かにそこでなければならない学びが存在していたのです。
ところが、そのフィールドや世界での学び以上に、別のところでの学びが、あなたには必要なこともあるかもしれません。
だからこそ、本当にそう感じた時は、新しい世界へ飛び出してみるのもよいと思います。
そうすると、今までの世界の住人とは違った人との出会いと交流が待っています。
人を変えたり、成長させたりするのは、人によってが一番大きいと思います。だからこそ、交流する人が変われば、あなたも変わっていく可能性が高いのです。
ところで、マルセイユタロットにもまさに「世界」という名前のカードがありますが、それに描かれている中心の人物の周囲には、4つの生き物が存在し、中心人物を囲んでいます。
言わば、このひとつの生き物から見たあなた(中心人物)が、ある特定の世界(職場とか環境)にいる自分を示しているのです。
今度は、別の生き物から見た自分も確認してみるとよいでしょう。
そうすれば、あなた自身にある、その別の角度(生き物)から見たあなたの部分が活動してくるのです。(命をもってくる)
当然ながら、その命(エネルギー)に応じた世界の住人とあなたは会うことになり、交流も始まります。
私も公務員を辞めて、タロットの仕事をするようになってから、まるで違う世界に転移したかのように、出会う人、関わりをもってくる人が変わってきました。
間違いなく、公務無をそのまま続けていたら、おそらく生涯出会わなかったであろう人々ばかりです。
出会いというものは不思議なものです。
自分を中心に考えると、当然、自分の世界の中にいる人々しか出会いません。
そして出会う人側から考えると、やはりこちら側からも、その人の世界の中でしか出会えないのです。
今まである人と出会わなかったのは、その人と自分の世界がクロスしていなった(異質であった)からです。
SF的に言えば、あなたとその人は、今まで別の世界(並行世界・多重世界の中の別の時空間にいた)に住んでいたのです。
それが、どちらかが、どちらかの世界にシフト、あるいは両方が同じ世界に移行したので、出会うことになったと言えるでしょう。
まさに世界を変えたければ、あなた自身の世界、つまりあなたの環境を変えることがひとつの方法です。
その前には意識や思考、感情が世界への移動を刺激してきます。(従って、意識と実環境の両方のシフト・移行が、もっとも変化と出会いの可能性を高めます)
さきほどのタロットの「世界」カードでいえば、今まで「牡牛」で見ていた世界から、少しずつ他の生き物、例えば「獅子」とか「天使」とか「鷲」とかに移ってきたような感じです。
ひとつの「世界」の中で、全部の生き物体験をするか、「世界」自体を変えて、ほかの生き物のエネルギーを体現(復活)させるかは、あなたの選択次第と言えましょう。
どちらにしても、今のあなた以外のあなたの部分も存在しており、その部分を復活させ、再統合させることで、より充実した人間、本質に立ち戻った存在として、生きていくことができるでしょう。
家族・親子間コミュニケーションで使うタロット
人と人とのコミュニケーションは案外難しいものです。
第一にコミュニケーションには言葉が主に使われますが、言葉はいわば本質のレッテル・ラベルのようなもので、誤解を生みやすく、言外という言葉もあるように、言葉や文字以外の交流、読み取りという部分でのコミュニケーションも少なくありません。
そこが意外に重要な部分を担っていることがあります。
かといって、複雑に考えすぎるのも問題で、日本人は特に見えない部分を察することに特徴はあるものの、それがかえって言葉足らずになったり、空気を読まないといけないというような圧迫感を覚えたりすることもありますね。
ところで、直接、面と向かって話すコミュニケーションが一番伝わりやすいと思っている人もいるかもしれませんが、実は必ずしもそうではないことは、皆さんも経験されているでしょう。
好きな人の前ではうまく話せないとか、大事なことがなかなか思いきって言えないとか、恋人・夫婦・親子・家族・親友だからこそ、かえって直接は言いにくい・・・なんてことはあるものです。
そういう場合、直接ではなく、間接のコミュニケーションのほうがうまく行く時があります。
それは間に何かをはさむことで、クッションとなり、話しやすくなったり、冷静になったりできるからですね。
以前、ブログでも書いたように、夫婦間でもぬいぐるみなどを間に介して話す(ぬいぐるみを人間のようにして、自分を代弁させる)と、案外、気まずい時でも意志が伝えやすくなります。
さて、タロットもこうした、間接のコミュニケーションの道具として使うことができます。
タロットは一種の絵文字のようなものです。
絵を見て伝え合うという意味では、コミュニケーションツール(道具)のひとつです。
これはタロットの生徒さんや、タロットを学習した人の中でよく聞く話ですが、親子・夫婦間でタロットを間に入れて会話すると、普段とは違う、いろいろなことが話し合えるということがあります。
特に親子間は意外と効果的です。年齢は小学生くらいのお子さんからでも可能です。
それはタロットが先にも言いましたように、文字ではなく絵でできているからで、難しい言葉ではなく、絵を見て語るということは、小さいお子さんでもできるからです。
この場合は、親(タロットを学んだ人)がタロットリーダーになります。
そしてお子さんには純粋に絵を見てもらっての印象を話してもらいます。それを親がタロットの象徴に基づきながら、話をしていきます。
言ってみれば、とても純粋なタロットリーディングです。
中学生以上くらいになってきますと、十分タロットの意味を伝えながらの話もできますので、普通に大人の感じのタロットリーディングをしていくとよいでしょう。
最初のきっかけとして、「お母さん、タロットを習ったので、あなたにタロット占いをしてあげようか」「練習につきあって」みたいな感じからでいいと思います。
この時、二人は親子でありながら一面では親子ではなく、つまりはタロットリーダーとクライアントの関係になり、家族から離れ、客観的な関係性へと変化します。
実の親より、おじさんとかおばさんに、気軽に話せたり、相談しやすかったりするのは、こうした肉親ではない気軽さ、客観性があるからです。
その状態が、タロットを介することで、実の親子にも訪れるのです。
すると、親御さんとしては、今まで知らなかったようなことが、子供さんの口から飛び出ることを聞いたり、自分自身でも、普段はつっこまないことや、感じないことを感じたりするようなことを経験します。
お子さんのほうでも、どうしてこんなことしゃっべってしまうんだろう・・・みたいな感じで、思わず、本音や感じていること、いつもの親に対しては言わないこと(言えないこと)を話す場合があります。
それがタロットの効果なのです。
「効果」とはふたつのことを言っています。
ひとつは「間にツールを入れる」間接コミュニケーションの方法によって、非日常化的効果・客観的効果が出るということ、そしてもうひとつは、タロット(マルセイユタロット)自体の象徴効果です。
前者は、別にタロットでなくても何でもよいわけです。
しかし後者は、マルセイユタロットならではの効果があり(図形の特徴、人の元型を象徴しているデザインなどからによる効果)、マルセイユタロットでなければならないこともあります。
あと、自分たち親子でするには、まだ照れとか、抵抗がある場合でも、お子さんの問題を、一緒に習った人にリーディングしてもらうとか、仲間に読み解いてもらうとかすることで、やはりその結果を話題として、タロットによるコミュニケーションが親子でできます。
ということで、親子や家族間のコミュニケーションにも、マルセイユタロットは有効に使えることもありますよ、といった話でした。
あえてペルソナをかぶる
最初にお知らせです。
以前から、ちらほらご要望をいただいているのですが、関西まで通えない方のための入門的な講座を検討しています。
現在も遠方の方には、基礎講座的なものをスカイプで行っていますが、これを入門講座レベルで行うというものになります。
いきなりがっつり学ぶのも時間と料金と内容に躊躇するという人もいらっしゃいますし、その点からでも、こうした講座は受けやすいものではないかと思います。もちろん、これだけを学んでも、自分や他人にマルセイユタロットをシンプルに使うことはできます。
私としても、マルセイユタロットの魅力とその力をもっと知ってもらいたいという思いもありますので、こうした企画もいいかなと考えています。
もし実施するとなれば、総合で10時間程度、だいたいイメージとしてスカイプにて2時間単位×5回、平日午後、料金は2万円程度を想定しています。
「ちょっと興味がある」「「受けてみたい」と考えているという方は、お問い合せいただければうれしいです。
お一人でもご希望があれば、やってみたいと考えていますので。運良く、あるいは運悪く(笑)マンツーマンになった方は、入門レベルを超えて濃い講義してしまうかもしれませんが。(^_^;) 私自身、少人数でその人の個性を考慮しながら、じっくりしていくほうが講義の性質としては合っていると思っていますので。
さて、本日の記事です。
最近は、よく指摘されることでもありますが、いわゆる二極化というものが進行していると言われます。
スピリチュアル的には統合の時代とか、融合が進むとか言われていながら、対極的な、二元、二極、ふたつの差が広がるような状態が現実味を帯びているわけです。
深い意味では、マルセイユタロットでも、「月」から「太陽」という象徴的段階において、統合の前の分離ということはあり得ますが、それにしても、二極化するというのは結構大変なことです。
加えて、生活が一見、とても便利になったようでいて、精神的にも経済的にも苦しい人が増えているように思います。
職場でも、生き甲斐をもてて、人間関係的にもよい職場と、劣悪でブラックともいえる職場とに分かれ、それもフィフティ・フィフティのような二極化ではなく、一対多のような関係で、悪いほうが増えている気がします。
そうした中で、穏やかに平和に、周囲の人と調和して暮らしたいと思っていても、実際に職場や地域社会においても、心を乱されたり、搾取されたりするようなことも少なくないわけです。
となりますと、心優しい人とか、スピリチュアル傾向の人は、自分を責めたり、すべては自分の投影、自分が世界を創っているなどと思って、結局自分(の意識・心)が悪いのだと、一層、自分を追い込むようになってしまいます。
しかし、傷つくのは心であり、自分自身なのです。
人を責めたり、環境や人のせいにしてはいけないと言われますが、自分の身を自分で守ってあげることも、時には必要です。
何の落ち度や悪い理由もなく、それでも理不尽に殺されたり、迷惑をかけられたりすることもあるのがこの世です。
もちろん輪廻転生を含む長大な周期やカルマ的なことを考えると、理由があるのかもしれませんが、大事なのは現実・現世で生きる今の自分です。
そうした時、「ありのまま」、いや、誤解を受けるので、言い方を換えると、「むき出しのままの自分」を無防備にさらすことは、危険なこともあると考えてみましょう。
ところで、ペルソナ(仮面)という心理用語があります。
シチュエーションや役割によって、つけ換える仮面のような別の自分で、これは結構、悪い意味でとらえられている人がいますが、ものは使いようというか、使ったほうが人や自分のためにもいいことがあるのです。
むしろ、それができるから人間であり、社会がうまく機能している部分もあると言えます。
何事もやり過ぎはいけませんが、今の時代、特に職場や外に向けては、ペルソナをかぶって自分を守らないと、たちまちダメージをもろに受けてしまうことになります。
もはやペルソナというより、鎧と言ってもいいものです。それほど、ひどい環境にもなっているところがあるわけです。
割り切りと言いますか、この時の自分は本当の自分ではない(怒られたり、苦しんだり、つらかったりするのは本質の自分とは違う別の自分だと思う)、仕事モードの自分であると自覚して使い分けます。
これが無自覚だと、多重人格や解離性人格障害みたいになりますので注意は必要ですが、普通は自覚してつける(かぶる)ことが可能でしょう。
言ってみれば、一種の変身です。
タロットカードを使うようになると、その変身をカードを使って儀式的に行うことができ、結構そのパワーを身にまとうことが可能になります。
私自身、うつ病になった時に思いましたが、自分の仕事や対外的(作業的)な代わりはいくらでもいるのですが、自分自身や内的な代わりは存在しないのです。
自分本体、本質がつぶれしまっては元も子もありません。そのための防衛策として、ペルソナを意識的にかぶるということも、場合によっては有効です。
自分本体さえ無事ならば、復活や変容は、いつからでも、いくらでも可能なのですから。
