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役割・使命を、持つこと・持たないこと
人(人生)にはそれぞれ役割というものがあるのかどうか、結構、皆さん、考えたり、思ったりする話題ですよね。
この「役割」を、もっと大げさに言えば、「使命」とか「天命」といった言葉になるでしょうか。
今回は、自分の(人生においての)「役割」について、「あるのか・ないのか」という観点ではなく、「持つ・持たない」のとではどう違うのかについて考えてみたいと思います。
まず自分(の人生)に役割や使命のようなものがあると自認(自覚)した場合はどうでしょうか?
これもいい点と悪い点から見ることができます。
よい点としては、まず人生に目標や張りができることでしょう。
「自分は何のために生きているのか」自分だけではなく人にも言えるくらいのものを持っていれば、目的意識も明確で、長期的にも短期的にも、自分がどう行動すればよいのかがわかります。
何よりも、最大の長所は、選択に迷いがあまりなくなることでしょうか。
たとえ迷っても、選ぶモノサシとしては、自分の役割・使命に叶っているか、沿っているか?というもので考えればいいわけですから、その意味ではブレがなくなります。
そして、自分の役割に合致した人との出会い、集まりが演出され、さらにはそれぞれ(他人と)の役割分担もはっきりしてくることになります。
ではマイナス点は何でしょうか?
これは役割がひとつだとか、変わらないものだとか、言い切れないところにあると思います。
「これが自分の使命・役割だ」と思っていたものでも、後々、「どうも考えていたものとは違うかもしれない」と感じる出来事があったり、違和感を覚える体験をしたりというようなことはあると考えられます。
またあまりに強く自分の役割を決めすぎて、「ほかの役割は人がすること」「その仕事は私のすることではない」みたいに、自分で人生の幅や経験を狭くしてましう場合があることも予想されます。
どんな役割も人には可能性があるものですし、決めてしまうことが、かえって自分を縛ることにもなりかねないケースはあるでしょう。
次に、役割や使命なんてものは最初からないと想定する場合です。
これのよい所は、前述の「役割がある」と設定するケースの逆になり、あまり考えすぎることもなく、人生を自由に泳げる気風が得やすい・持ちやすいと言えましょう。
まさに臨機応変、なるようになる、何でも来いみたいな感じで、楽に生きることができるのではないかと想像できます。
言い方を換えれば、「今経験していることが自分の役割と言えば役割だ」「人生そのもの、生きることそのものが使命」というような感覚です。
欠点としては、反面、迷いやすくなったり、中途半端になったり、人生の選択が快楽を基準としたりするところでしょうか。
使命感がないと、他人や社会、さらには宇宙まで広げるような全体への貢献感に乏しくなり、ただ個人的な思惑の範囲で、流されて生きているという空しさを感じるおそれもあります。
マルセイユタロットで言えば、「杖」のない人生であり、そのため、一見、風来坊的な旅姿で描かれるマルセイユタロットの「愚者」のカードにも、きちんと赤い(情熱的な)「杖」を持っていることが描かれているのです。
さて、このように、自分に(人生としての長期的な視野においての)役割を持つ場合と、持たない場合とを比較してきましたが、これは言わば、「自分(の人生)」をテーマにした考察です。
一方、私自身が面白いなと思っているのは、自分の役割とか使命を考えるより、ほかの人はどんな役割があるのか、使命を持っているのかと見た場合なのです。
自分のことは誰でもわかりづらいものですが、人の事は「人ごと」であるだけに、客観的に見えやすく、わかりやすいのです。
またマルセイユタロットをやっていると、とても興味深いのは、使命とか役割のテーマでタロットを展開させなくても、何度か、その人自身に関する問いの展開カードを観察していますと、同じカードがよく出たり、象徴的に意味が似通っているカード(群)が登場してきたりします。
それが言ってみれば、(象徴的ですが)その人の役割みたいなことになってるいような気がします。
もちろんそれが絶対ではありませんし、変化する(させる)ことも可能です。
そうして人の役割が何かを観察しているうちに、自分のものも逆に見えてくることがあるので、結局、人を見ることは自分にも繋がってくるのです。
ところで、マルセイユタロットでは、選択する役割(人縁)と、選択できない使命(天縁)ということで、対比させられるカードがあります。これもきちんと、ある共通点で結びつけられながら、その違いも描かれているので、非常にシステマチックです。
ここから考えてみても、自分で選べる役割・使命と、選べない天命的なものとが存在するのかもしれませんね。
マルセイユタロットを学ぶ人のタイプ(事後編)
気がつけば、たくさんの人にマルセイユタロットを教え、伝えてきました。
まあ、ほかの人から見れば、大したことのない人数ではありますが、自分が思っているより、特に関西では広まっているのかもしれないと感じさせることはあります。
このマルセイユタロットは日本ではマイナーな部類のタロットで、それでもここ10年くらいは、だいぶん知られてくるようにはなりました。その分、興味を持つ人、使ってみたい方も出て来ています。
ただ、あまりマルセイユタロットを教える人が少ないので、どうしても行き着くところ、決まった人になってくるのかもしれません。
そんな中で、マルセイユタロットを学びに来る人の傾向が、やはりあります。
今回は、むしろマルセイユタロットを学んだあとに注目して、そのタイプ分けをしてみます。
A.マルセイユタロットをメインに、自己探求的に使う方
B.マルセイユタロットを学んだのは、あくまで、ある目的のための手段の方
C.マルセイユタロットと、他の学びや技術を融合、あるいは一芸として持つ方
D.その他
という感じでしょうか。
それぞれ、簡単に説明します。
Aタイプの人は、マルセイユタロットを学び、いわば、このタロットに惚れ込んでしまった人(笑)で、これ以外にはあまり象徴ツールとして関心が行かず、特に精神や心の分野において、マルセイユタロット中心で考察していくような人です。
大げさに言えば、マルセイユタロットと出会うことが人生の大きな目的のひとつ、みたいになってくるタイプです。
何を隠そう、私自身がこれです。(^_^;)
Bタイプの人は、ある目的、例えば成功したいとか、人を癒したいとか、自立したいとか、真理を悟りたいとか、心を楽にしたいとか、とにかく、自分なりの目標や目的があり(当初はおぼろげなからでも)、そのための一環、手段としてマルセイユタロットを使っていく(あるいは学んだ)というタイプです。
タロットリーダーやタロット占い師になる人もいれば、マルセイユタロットを学習したことで、もっと別の技法やツール、また、人や新たな機会と出会うことになったということもあります。
つまりは、マルセイユタロットを習うことがひとつの過程である(あった)というタイプです。
Cタイプの人は、Bタイプと似てはいるのですが、そう強い目的意識があるわけではなく、マルセイユタロットを学ぶのは、自分の知識や持つ技術の幅を増やすという感じで、いろいろと学びだかる性質があります。
ですから、まさに学びのひとつ、身につけた技術のひとつとしてマルセイユタロットを位置づけています。そのような人は、言わば、マルセイユタロットは特別なものではなく、多くの中のひとつ、あるいはほかにメインのものが自分にはあるという方になります。
たくさんのものを活かしてセッションする人もいれば、ただコレクションとして持っている人もいます。
Dタイプはその他で、たまたま友人が学習していたからつきあったとか、何か趣味や新たな友人でももとうかと思って習ったとか、ヨーロッパが好きでとか、絵柄にひかれてとかの人で、ほかのどのタイプにも属さない人です。
タロットへの興味というより、コミュニケーション・機会として偶然出会ったという印象が強くなります。従って、学習後は、マルセイユタロットがお蔵入りすることもしばしばです。
もしマルセイユタロット学習後、誰かにこれを伝えたいとすると、上記の各タイプ別で、やはり伝え方は変わってくるでしょう。
熱意ということでは、Aタイプの人が一番ですが、あまりに力が入り過ぎることもあるので、マルセイユタロットを使う相談セッションや講師を仕事として行うとすれば、案外、BタイプやCタイプの人が現実的には優れているかもしれません。
ただ、マルセイユタロットには、ある種の意志や縁が強く働くと見ています。
マルセイユタロットを伝達するには、逆にマルセイユタロットから選ばれるようなところもあると言えます。
単に商売の道具として扱うと、マルセイユタロットがあなたから離れるか、あなた自身がこのタロットへの関心を失うでしょう。
実は、今後、私も一人でマルセイユタロットを伝えていても限界があると思い(ややおこがましいところもありますが)、マルセイユタロットが教えられる人を育てたいう方向にシフトし始めています。
それには、マルセイユタロットへの愛がある人を対象するのが、まずは基本だと考えています。
ひとつのシンプルな悩み脱出法
何か心配ごとで不安になったり、時には思うようにいかない事(人)に対して、腹立ちや怒りが起こったりすることは、誰にでもあります。
悩むことは悪いことではありませんし、そもそも(ネガティブな)感情や思いが出ること、悩んでしまうことを止めるのも難しいことです。
ですから、これに対処するとすれば、起こる前から対策することと、起こったあと(感情が出た)の処置を工夫するということになるでしょう。
起こる前から対処するというのは、ひとつには、自分(の考えや枠、囚われなど)を変えて、従来だと不安に思ったり、心配したりするようなことでも、今は、前のようにはならないとする方法があります。
次に、起こったあとの処理の工夫ですが、これは意外と効果のある方法と言いますか、すごくシンプルでありながら、案外、私たちはやっていないことを述べます。
それは、起こったことは仕方ないと諦めることです。まさに諦観と言えましょうか。
何かの状況に対して、程度の差こそあれ、感情が出る(起こる)ことは仕方ありません。それを現在進行形(感情が起きている状態)でコントロールすることは極めて難しく、不可能に近いです。
ですから、いっそのこと、その出た後に注視するわけです。
そして、すでに起きてしまったこと、そのような状況になってしまったこと、経験してしまったことは元に戻らない(時間を物理的には戻せない)と、当たり前のことを当たり前に自分に言い聞かせます。
例えば、旅行を計画していて、晴れを願っていても、実際その日に雨になってしまったら、それが悔しかったり、残念だったりするかもしれませんが、それはそれで感情としては当然です。
しかし、ここで「天気なら良かったのに・・」「もしかすると、午後からは晴れるかもしれない!」「あいつが雨男・雨女だから、こうなったんだ!」「ああ、なんて不運、私はついてないわ・・」など、雨であることを悩んだり、雨になってしまった要因などを気にしたりしても、実は何も始まらないわけです。
とにかく、現状は「雨である」という、そのこと自体をしっかりと「受け入れる」ことです。
これらはシビアな現実視点ではありますが、だからこそ、一時の感情の嵐からも抜け出やすくなります。
マルセイユタロットでいえば、「正義」や「皇帝」の視線、あるいはその反応やアクションと例えることもできるでしょう。
余談ですが、マルセイユタロットは実にうまくできており、混乱した時の精神的・実際的対応が、きちんとカードの順番通りに象徴化されています。
言ってみれば、トラブルに対する処置がモデル図案化されているようなものなのです。本当に私もこれで何度も救われています。別にカードをシャッフルして引かなくてもいいのです。
さて、話を戻しますが、先の例のように、起こったこと、今の状況・事実をありのまま受け入れることで、ずいぶん問題意識は軽くなります。
ところが、この、「ありのまま事実を受け入れる」ということが、簡単なようで、私たちはなかなかできません。いや、忘れがちと言ってもいいでしょう。
それは、「思うようにならなかった」あるいは「想定外になった」「不快な状況になっている」ということで、理性よりも感情が先に立ち、いつものバランスを失い、一種の落とし穴のような、傾いた場所に入り込んでしまっているからです。
ただし、いきなり冷静になれ、というのも無理な話です。
冷静になれないのは、それだけ期待していたことではなかったということや、想定外のことが起こり、本人にはショックだった、感情的にどうしてもならざる得ないことを物語っているからです。
他人から見たら、なんでそんなことに不安になるの?、怒るの?みたいなこともあるかもしれませんが、当人にしてみれば、やはりショックでナーバスなことなのです。
従って、すぐに事態が受け入れられないということも、人間としては普通であり、自分がもしそうなっても、過剰に「ダメな人間だ」「何とかしなければ」と思う必要はないのです。
ショックに対して、さらにネガティブに自分を評価する(自分を下げる)ことこそが、実は抜けられないループを生み出す大きな要因なのです。
とにかく、習慣として、今からでも、「起きてしまったものは仕方がない」と、事実をありのままに受け入れ、そのこと自体(起こったこと自体)への後悔の念などは、あきらめるようにするとよいでしょう。
これは非常にシンプルなのですが、心を落ち着かせるには絶大な効果が、人によってはあります。
だからと言って、「仕方ない」とそのまま放置するのではありせん。
ひとまず、時間は戻せないことを強く思い直して、「ではこれからどうしたらよいか?」「この状況はひとまず受け入れた、次に自分はどう動こう?」みたいなことを考えていけばよいのです。
先のお天気の例でいえば、「雨が降っているのだから仕方ない」と雨天の事実を受け入れ、そこから「傘を持って出かけよう」とか、「訪れる場所を一部変えてみよう」とか、「旅行は今回はキャンセルし、次の機会にしよう」とか、仕切り直していけばいいのです。
言ってみれば、自分で変えられることと、自分ではもう変えられないこととを、きちんと分離して考え、行動するという方法です。
「体重が増えてしまった」そのことは今の瞬間に「痩せろ」と言っても、魔法使いではありませんから、そんなことはできません。
太ってしまったことを悔やんだり、スタイルが悪くなったことを悲しんだりすることはあっても、それをずっと思い続けれぱ、何も変わらないだけではなく、そのネガティブなエネルギーが自分を攻撃したり、執着となったりして、余計事態を固定してしまうことになります。
上の例で言いますと、太ったまま、ますます変わらないか、余計に自分の思うネガティブな(悪い)姿になってしまうというものです。
何事も、予防したり、あらかじめ悪くならないようにしたりすることは大事ですが、気をつけていても不測の事態は起こりえますし、すべて自分の思い通りにいくものではないのが世の常です。
そこで、なってしまたものは仕方ない、起こってしまったものは仕方ないと、一度事実を受け入れ、諦めることで、新たな打開策や解決策も見えやすくなります。何より、深刻になりすぎることを防ぎます。
この一時的な諦観をすると、問題は意外に自分が勝手に重くしていることに気がつくことがあります。
そして自分を縛ったり、強く規定しているルールや法則、思い込みのようなものに思い至ります。
さらには、そうした自分ルール、自分のいい・悪いの価値観が、実は自分の運命も回しているのだと、発見できればしめたものです。
マルセイユタロットの「運命の輪」の表すところから言いますと、先述の旅行と雨の関係の場合、「雨を降らせている」のも、「自分自身の作る運命」がそうさせているとなるのです。
エネルギーには色がある(と考える)
まず、お知らせですが、10/31(土)に開催いたします神奈川県藤沢市でのマルセイユタロット体験会の募集残り枠が、あとわずかとなっております。参加ご希望の方は、お早めにお願いいたします。
当日、ちょっとしたサプライズも用意していますよ。
では本日の記事です。
科学的に眉唾ものの話になりますが(苦笑)、エネルギーにはカラーがあると私は考えています。
例えば、マルセイユタロットでもエネルギーの象徴と考えますと、大アルカナと小アルカナのエネルギーは違う色ですし、大アルカナは22枚に分かれ、それぞれカラーが違うように感じます。
実際に目に見えている「色」は波長の違いでもあるわけですが、タロットカードにも一枚を全体としてとらえると、青ぽく見えたり、黄色ぽく見えたり、明るい感じとか、暗い感じとかあります。
それはその色が多く使われているという事実と、人の見る感覚によって決まります。
いわば客観的な部分と主観的な要素で決まるようなものですね。
最初に述べているエネルギーの色というのは、どちらかというと、主観的なものなので、人によって違うことになります。
さて、色があれば性格もあると考えることができます。
人を例える時に「あの人のカラーは、色は・・・」みたいなことを言いますから、色を性格的に表現することもできるわけですね。
そうすると、伸び伸びしているとか、窮屈そうだとか、強引とか引っ込み思案とか、まあ、人の性格みたいにも感じられてくるわけです。
つまり、感情によってもエネルギーは変化するということでもあります。
しかし、感情的に見過ぎると、その感情表現に引っ張られて、本質と言いますか、エネルギー自体のカラーがわからなくなることがあります。
例えば、見た目、怒っているように思えても、その奧では悲しみや存在のアピールみたいなことが隠されているようなことがあり、爆発的な色のようで、本質は沈んでいる色のこともあるわけです。
そういえば、オーラソーマのボトルは二層に分かれていますよね。オーラソーマを詳しくは知りませんが、二層に分かれていることは、表と裏の離別性と一体性が示唆され、なかなか興味深いです。
それで、一度感情や表に見える状態とを切り離し、ただ純粋なエネルギーとして見れば、それを変換させたり、コントロールしたりすることもできやすくなるのではないかと思っています。
言ってみれば、エネルギー自体にはもともとカラー・色・性格がなく、それを色づけているのは、実は自分だったみたいなことなのです。
ですから、普段自分がよく意識する世界の色を認識すれば、それに沿って自分の世界が構築されていることがわかり、これが極端だと、まさに何かの色一色な世界になります。
あるいは人から受けるエネルギーのようなものも、その色がわかれば、違う色に自分が塗り替えるような意識を持つことで、色が変化したり、中和したりすることができます。(本来のエネルギーは無色なため)
ところで、「バラ色」とか「真っ白」とか、頭の中や心が色で表現されます。
それは普通は、外側の(起こった)世界が楽しいからバラ色に見えるわけですが、これを逆転して考えることもでき、自分がバラ色だから(バラ色になれば)(外の)世界がバラ色のようなことが起こるというようにも言い換えられます。
逆もまた真なりが、結構マルセイユタロットでも表現されていることなのです。
そういう意味では、自分が各色を、どのように性格付けているか、どのように感じているのかを分析・認識することは大事です。
一般的・客観的な色の意味・性格ももちろん存在しますが、それに囚われすぎると、色から自分や世界を変えるということが難しくなります。
ただ、個人ではなく、全体性(人類の思い描くある種の共通パターンや型・アーキタイプ)を考察し、個と全の関係を色で見ていく場合は、自分の感じている意味と、カラーセラピーや一般的に言われている色の意味との比較は有用です。
単純なことでも、自分の好きな色が、相手もその色がスキだというと、相性は一時的にはいいと取ることができますし(ただし、平凡な関係になることもあり)、実は同じような色が好きなだけなのに、相手のこともスキと錯覚してしまうこともあります。
よく例えられる「相手の色に染まる」「自分色に染め上げる」みたいなことは、見えない世界では本当にあると言え、そうなると二人の間で世界観はエネルギー・色的に共通して、心が通じ合いやすくなるでしょうが、これを意図的に行うと、ある種の洗脳にもなって、怖いことになります。
いずれにしても、エネルギーに色がある、または色をつけるということ意識すると、結構面白い見方ができます。
肉体以外の体から来る症状
先日はちょっと個人的に大変な事件があり、久々に衝撃を受けました。
まあ、これも必要な体験だったと思いますし、どんなことにもバランス的な思考で見ると、それに見合う恩恵があることがわかります。
とにかく、その事件でいろいろな方にお世話になりましたので、ここで改めてお礼申し上げておきます。
さて、今日は肉体的な痛み、心身の不調について、ある視点から考えたいと思います。
タロットリーディングをしていても思うことがあるのですが、心身のことは、医学的なものを超えたところでの原因や要因となっていることがあるように感じます。
別にタロットで治療してるわけではなく(それは法律上もできませんが)、あること(問い)と関連して、タロットを展開して読んでみると、そうした身体のことの話題になる時があるのですね。
精神・心のことは、よくわからないことはいまだ多いので、医学的にも分析しにくいのは事実でしょうが、肉体的なことでも、原因がわかりづらいことがあるのは、皆さんも経験していることでしょう。
そして原因不明なのに痛むとか、治らないとか、そうしたことになってくるわけです。
その場合、代替医療を施したり、精神的なことからアプローチしたりして解決する場合もあります。
それで治ったり、痛みが治まったりすることもありますが、それでも原因そのものはわからないままとか、推測の範囲でしかわからない状態という時も出ます。
ですから、原因と治療についても、いろいろな仮説も登場します。
今回の話も、そんな中のひとつとして受け取っていだたければと思います。
私たちの体は、目に見えている普通の肉体以外に、スピリチュアル的には多層の体を有している(多層の体で構成されている)と言われています。
いわゆる、エーテル体とかアストラル体とか呼ばれるものです。
この数は細かくわければかなりのものになるという説もありますが、大まかにわけると4つくらいだという人もいます。
それはともかく、もしそうしたものがあると仮定するのなら、私たちは物質的な見た目の肉体以外でのデータや記憶も受け継いでいると考えられます。
そこに損傷したものがあるとするのなら、そこから物質としての肉体に影響が出ることもあると想像されます。
ですから、肉体的には問題がないように見えても、ほかの体では「病」「傷」としてのデータとして残っていると、肉体的に痛みや問題として感じるのではないかということです。
この別の体の損傷データが、いつ、どのように発生し、どこまで受け継がれるのかという問題(設定)によって、現世のみのことから、過去生まで原因を追及することが可能かもしれません。
少なくとも、現世、つまり自分の生まれた歴史・生育過程において、感情的心理的なショックを受けていれば、それを記憶する別の肉体があり、それが物質的な肉体にまで影響を及ぼしていると考えることもできるわけです。
逆のことも言え、強烈に肉体に損傷や傷を受けると、別の体にもそれが刻印されて、肉体が回復しても、別の体では傷が残って、やはり痛むようなこともあり得ると見ます。
肉体の一部が欠損しても、かゆみや痛みがあるのは、別の体ではその部位が「型」として存在しいるからなのかもしれないのです。
仮に過去生まで含めると、その受け継がれたデータは、かなり深刻なものだったのかもしれません。
おそらく過去生から引き継がれるというのは、それだけ修復が転生においても難しかったか、引き継ぐ理由(カルマ的なもの)があったと考えられるからです。
なお、ここで注意したいのは、それはあくまでデータであるので、今の自分の人格とは別問題で、悔恨の念や罪悪感をもったり、要因と考えすぎたりする(悪いと思う)必要はないということです。
もちろんカルマ的に見れば、自分が引き受ける因縁というものがあるのかもしれませんが、やはり今の自分とは切り離して考えたほうがいいように思います。
そもそも私自身は、過去生と転生について、一人の人間のデータがそのまま未来生に、一人の者の中に組み込まれるとは考えておらず、ある宇宙的法則に基づいて、一見ランダムに見える形で、様々の人の記憶・データが混交されて転生されると見ています。
また時間の概念をはずすと、未来だけではなく、過去へも転生することはあり得るでしょう。
そう考えますと、ますます「自分」のせいでその傷を受けた、傷を与えたみたいな考えは、傲慢にもなり得ると思います。
ただ、データを受け持ったのはあるわけですから、無意味ではないと思います。
過去生療法やヒプノセラピーなどでは、それを思い出して、今の症状の軽減や消失に役立てることもあります。
いずれにしても、やがて物質的肉体だけではない、別の体の存在の確認と、それに関連するデータと修復技術も、おそらく開発されるものと思います。
その時、個人は一人一人切り離されたものではなく、データと体が相互に関連し合い、一人の問題が実はほかの人ともつながってるいことが明確にされるでしょう。
そして、それは人だけではなく、環境・自然・地球・宇宙ともつながりのあることがわかり、一層、人と自然、宇宙の調和的な発想と技術が進化するものと予想されます。
それには、マルセイユタロット的に言えば、「月」と「吊るし」に、非常に重要な示唆が隠されていると私は感じています。
