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順序を踏むこと、王道を進むこと。

すでによく知られていることですが、マルセイユタロットの大アルカナの数の順番は、ある種の成長や発展を表現しています。

単純に言って、数が上がるほどに向上するという考え、捉え方です。

しかし、単純にはそういうことであっても、本当はもっと複雑であり、逆方向の数が下がる道も、衰えるとか、悪いという意味ではありません。

そこには私たちが陥りがちな、直線思考の問題があり、数直線上にゼロ地点を中心にして、左右にプラス・マイナスを見て、その違いは単に、(数の)量だけにあるとする(現代的な数の)見方になると、タロットの数の進行の本質がわからなくなります。

やはり、直線ではなく、循環とか型の繰り返し、凝縮というものを見ないとならず、要するに、図形的には円とか球、螺旋などを想定して数の進行を捉えるということになります。

そのような見方は古代(秘儀的)では普通のことであり、数の進行(巡りと表現してもよい)の見方そのもので、世界(宇宙)観も変わってくるわけです。

さしずめ、は、先述したように、数直線的な動き方(捉え方)がメインで、だからこそ、過去・現在・未来の一方向的な時間の流れを常識として、ある地点からある地点までは、量としての距離を見るだけになって、質より量、または画一性を重視することになっていると考えられます。

さて、それでも、一応、マルセイユタロットの大アルカナの数の進行順が成長を示すという前提をもとにすると、様々なことがわかってきます。

まず、当たり前の話ですが、成長に一足飛びや近道はないということです。

前の数のタロットで示される課題・問いをマスターしないと、次(の数のタロット)には移れないわけです。これを二つ飛ばしとか、三つ飛ばしとかのジャンプをすると、それは中抜きとなって、すごろくではありませんが、必ず、元に戻されることになります。

でも、人は近道や、楽をしたい生き物です。(笑)

できれば、一気に行ける道、飛ばして行ける裏ルートがあるなら、そちらを選びたいものです。

しかし、タロットで見る限り、21枚の数の段階があり、ひとつひとつこなして行かねば、最後までたどり着けない仕組みになっています。(ちなみに数のない「愚者」は、この成長の旅をする当事者であり、私たち自身とも言えます)

ただし、何事も、抜け道とか、特別な道がまったくないというわけではありません。たいてい、何かあるものです。(苦笑)

個人的には、その特別な道は、タロットにおいてもあると見ていますが、これまたよくある話(お約束)で、そういた特殊な道というのは、それなりに危険や障壁があり、安全ではないからこそ、特別なルートになっていると推測されます。

よって、タロット的に安全でノーマルな成長の道を進みたいということであれば、やはり、数の順通りに進む(課題をこなしていく)のが望ましいと思います。

こうした王道(マルセイユタロットには、まさに「王の道」という象徴性が隠されています)は、心理系やスピリチュアル系の世界にもあてはまることだと言えます。

特に“ライトスピリチュアル”世界においては、お手軽にいいことをゲットしたい、楽に成長したいみたいに思う人が少なくありません。

それは、先述したように、人は近道や楽を求める性質があるからで、「ライト」となれば、ますますそういう風になるのも、いた仕方ないと言えます。

ですが、たぶんすでに経験している方も少なくないと思いますが、いろいろと運のよくなることとか、願いを引き寄せる方法とか、楽になる技術を学んだり、実践したりしても、なかなかよくならないというケースがあります。

そのひとつの原因は、一足飛びに効果を求めすぎている、言い換えれば、順番を無視したり、順序を逆にしたりして取り組んでいるという点があります。

先ほど述べたように、タロットの成長順の通り、ひとつひとつこなして初めて、次の段階に行けるようなものなのです。

例えば、心の中に、自分を不幸にしたり、不運にしたりするある種の考えとかデータが、自分では気づかず入っているとします。

それを消したり、変えたりしなければ、自分の中ではオートマチックにルールや行動規範として、実際に働き続けるおそれがあります。

大元や本質を無視して、小手先の技術、表面的なお手軽な方法ばかりを試していても、よくはならないのは当たり前です。

病気治療で言えば、対処療法ばかりしているようなものです。やるべき順を無視して、効果・結果だけ得ようとしても、本当にはよくなりません。(なっても一時的なもの)

「いや、でも、簡単によくなった人もいるよ」「急速に効果が出たことはあるよ」と思うこともあるかもしれませんが、この世界は個別の世界(個人それぞれで違いがある世界)なので、もちろん、そういう人もいるでしょう。

ですが、おそらくそういう人でも、実際は何らかのきちんとした手順を踏んできているのだと思います。(スピリチュアル的には、現世とか、自覚している意識・記憶だけではないところも含む)

宇宙的には、すべてルールがあり、それは次元やレベルによって異なるところがあるとは言え、どの世界においても、ルールを無視してのまったくのファンタジックな魔法はないと考えます。(魔法の世界であっても、魔法の発現と行使するルールが決まっており、その法則からはずれたものは、その世界の魔法として発動しないということ)

一気にできたと思う人も、それはそれで、検証すれば、この世界のルールからは逸脱していないはずです。(この世界のルールをたとえ超えたとしても、超えるための手順をきちんと踏んでいるということ)

まれに、偶然、あるいは突然、効果が発動したということもあり得ますが、それは手順を踏んでいたという本人の自覚がなかっただけに過ぎません。(だから、こういう偶然できてしまったことは、コントロールができないので危険でもあります)

ということで、なかなか思うように行かない人は、改善の順序に則っているか、手順をきちんと踏んでいるか、いきなりの理想を追い求めすぎて、急な効果を期待していないかなど見直すとよいでしょう。

マルセイユタロットを持っている人は、今一度、数の順に即して、自分のやっていること、目標達成等について、考えるとよいです。


「特別さ」が与えるもの

一年周期として見ると、やはり、春分・秋分・夏至・冬至は、特別なポイントであると考えられます。

今もって、その四つの時期について、風習的にも、宗教的にも、何らかの行事が行われているのを見ても明らかです。

そして、今月、六月夏至を迎えますので、月単位で観ますと、特別な月であると言えます。

ですから、色々な方が、今月に何かを行うことや、心を決めることについて言及していると思います。

ただ、昨今は動画やSNSを中心に、自己アピール合戦みたいな様相を呈していて、毎月、いや毎日のように、「今(今日、今月)がチャンス」とか、「この時期は特別」「変わりたいなら、今月中になになにをすること」など、言われています。

これでは、チャンスや特別な時期は、設定次第でいつでもなるのだといわんばかりです。(笑)

マルセイユタロットで言えば、毎日、「運命の輪」の特別な回転があるようようなものです。しかしながら、この「設定次第で、いつでも特別日(時期)にできる」というのは、ある意味、真実かもしれません。

私は長年タロットをやってきまして、いわゆる「特別さ」を経験する(あるいは演出する)には、天・地・人の三つが主要素としてあると考えるようになっています。

」というのは、天体とか惑星による条件(つまり時間とも関係します)で、「」というのは地球上の環境、地の利みたいなもの、「」というのは人間が行うことによって生ずる効果などを意味します。

このほかにも、むしろ場合によってはメインになるかもしれない「霊的(高次存在・神的存在)なもの」や「サイキック的な要素」もありますが、それは地や人(人が行う儀式によって、影響させることができる場合があるので)の範疇として、何とか入れることができるかもしれません。

「魔術」とか「呪術」のようなものでは、このサイキック的とも言えるものの条件と影響で、特別感(非日常)を出すことはあると思います。

それでも、たいていは、天・地・人を考慮し、その配置・調整・儀式的行為・象徴性の力の発露などによって、「特別さ」を、どの分野であっても、出していると思われます。

この「特別さ」といのうは、宗教的にはいわゆる「奇蹟」にもなり、宗教からはずれれば「奇跡」として、とらえられる場合もあるでしょう。要するに、普段より特別になることで、非日常的なことか起こる、あるいは起こすことができるわけです。

普段より特別になるというのは、並行世界とか多次元宇宙論の話で言えば、まさに違う世界や宇宙に入る(移行する、あるいはそのフィールドを出現させる)ということであり、だからこそ、日常の時空常識(ルール)とは異なることが可能になると考えられるわけです。

あえて心理的に言えば、実は身もふたもない話かもしれませんが(笑)、自分で自分を洗脳させるみたいなことで、強烈な信念とリアリティある演出があって、自己洗脳、トランス状態になり、あたかも、特別なことが起きる、特別なことを起こす力があると錯覚してしまうということです。

しかしながら、人間、トランス状態や変性意識状態になれば、マルセイユタロットの「力」のカードで象徴される「フォース」の解放が叶い、それこそ超越的な能力を一時的に出すことも可能になることがあります。神がかりの原理です。

また、自分への洗脳が強力であれば、おかしな話(スピリチュアル的な話)ですが、自分が中心軸となって、例えるなら、自分自身が宇宙(の創造の中心)となって、周囲が生成されてくるようになり、つまりは、まさに自分が中心となって地球(世界)が回るというようなことが生じます。(自分に向かって、周囲が引き寄せられてくるようなもの)

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の上にいる「スフィンクス」、さらに力が強まれば「悪魔」(「悪魔」のカードに象徴される存在)になってくるわけです。

こうなると、強い魅力と支配力を持つことになりますので、ビジネスの成功とか、注目を浴びて人気者になるとか、カリスマ的指導者、先生、講師、経営者、政治家、タレントなどとして目立つことも可能になるでしょう。

悪い言い方をすれば、自分に従う奴隷がたくさんできることになりますし、よい言い方をすれば、自分のファンやサポーター、共感者(厳密には洗脳者ですが)が増えます。

その恩恵(エネルギー変換)として、自由主義経済のもとでは、お金としての糧も得られ、それにより、自由な時間と選択も持てて、ますます魅力的に他人の目からは映り、いわゆる現世利益的にも多大に恵まれることにもなると想像できます。

話を戻しますが、「特別さ」を獲得する秘儀を得れば、いろいろな恵みを受けることもできるので、古来より、特別さを出す、特別さ(非日常の世界)に自分を移行させる技術は追及(研究)され、隠されてきたこともあったと考えられます。

また、その力(得られる力)が強大であればあるほど、コントロールするのも難しいでしょうから、「特別さ」の経験は、ある種の危険が伴うと見てもよいはずです。

だからこそ、その技術と知識は、隠されてきたところもあるでしょう。

たとえそれが神とは無関係であった(神のような存在がいるのかどうかは別)としても、「神なるもの」を想定し、その介在あって特別さが出現する、あるいは、その力が付与されるとしてきた昔からの宗教的行為には、安全性を担保とした儀式を行う人間への保護の意味があったとも考えられます。

(もちろん、宗教そのものの存続とか、威厳を保つための理由もありますが)神聖さを演出しないと、力を得るものの心得次第では、他人や社会に迷惑がかかってしまいます(利己的な欲望が暴走し、その欲求達成に力が発現されるため)ので、神を信じ、神に帰依して謙虚になれる者が選ばれて、特別さを経験できたのだ推測されます。

実はタロットには特別さを出す力が備わっていると言われますし、そのために作られたという説もあるくらいです。

遊びや気軽な占い目的として、普通に使う分にはそれほど影響はないにしても、真剣にやれば、タロットでも、いにしえの特別さを出現させることができると考えられます。

しかし、先述したように、誰彼なくやっていいものでもなく、特別さの力に自分のほうが負けてしまう(魅了され、支配される)こともあり得ます。

知らず知らず、悪い意味での魔術的方向性(いわゆる黒魔術的目的)や、悪意あるサイキック世界の影響を受ける状態(悪い存在の憑依など)へと、足を踏み入れてしまう危険もあります。

すでに述べました、マルセイユタロットで例えられる「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」に自分がなってしまっている者もいると考えられます。当人たちは気づいていないでしょうが。

※(言っておきますが、マルセイユタロットで表現されている「スフィンクス」や「悪魔」自体は、悪い意味ではありません。すべての意味は中立です。ただし、特別な力をアンバランスに持ってしまった場合の「スフィンクス」と「悪魔」には、問題があるわけです)

しかしながら、自分がコントロールできる範囲での「特別さ」は、自己や他者変容には安全に使えるもので、常識や過去のしがらみなどに囚われ、縛られた自分を解放することにもなります。

そういう意味でなら、時間と場所と人、そして、人が使う道具(この場合はタロット)によっては、とても効果的な「特別さ」が体験できるのではないかと思います。


タロット占いの提供に関して

タロットは、いまだ占いの道具という認識が一般的です。

そうではない意義や活用について、私の場合は力を入れているわけですが、タロットに限らず、普通にネットとか雑誌とかでよく見るのは、毎日や今週、あるいはもっと長期的に、今月とか今年とかの運勢を占っているものがありますよね。

占いも役に立つますし、エンターテイメント的に見ましても、そういう類のものを読むのは面白いところはあります。

しかし、問題は、それに依存したり、運命だと信じ切ってしまったりする場合です。さらにやっかいなのは、他人にも押し付けるようになるケースですね。

日々掲載されているものに対して、本当に、自分が毎日それをチェックしないとおかしな気分になるというくらいになっている場合とか、それを見ている自分を、人からあまりいいように言われなくて、怒りや不安など感じてしまうような時も、すでに依存を疑ったほうがいいです。

毎日のもの(占い)は本当に危険性があることをちょっと指摘おきますと、毎日の場合は、習慣性が高まるので、その分、依存になる確率も高く、毎日継続されることで、無意識のうちに習慣化され、悪い意味で刷り込み、信念のようなものが自分の中に形成されてしまうことにあります。

言ってみれば、自分が占いを指針にするのではなく、占い内容自体が自分をコントロールしてしまうということで、まるで逆の話になるのです。

ひどくなれば、占いの通りになるよう、自らが無意識のうちに行動してしまうようなことも起こります。

何のことはない、当てているのは、自分自身だったという、自作自演みたいな話(苦笑)です。

これは先述したように、毎日見る(読む)ことによって、自分の中でルール化されるのが強固になっていき、ついには、実行ブログラムのように強制化されてしまうという仕組みです。

従って、毎日よりも、せめて毎週くらいにして(つまり占いにふれない時期がそれなりにあることが望ましい)、占いを信じたり、楽しんだりする自分と、あくまで占いだからと冷静に見て、どこか疑う部分を持つ自分との、二人の自分を持って対応するとよいということです。

一方、占い的なものを提供する側にも、工夫が必要な時代に入っていると考えます。

毎日、タロットを引いて、普通の占い的なことを書くというのは、当人の占い訓練にはいいでしょうが、いろいろな意味で、そのやり方も変えたほうがいいかもしれません。

例えば、すでにやっている人も多いと思いますが、テーマ別に占ってみるというように、ある程度具体性・現実性を伴って占いし、書くということがあげられます。

また、思いきって、特定の人(年齢・性別・仕事・性格・地域など結構絞って)に対して占うのも、逆に個人性が出て、面白いかもしれません。

タロットの場合、たった一枚でも、質問の仕方によっては、大きなレベル(宇宙・国家規模)から小さな個人レベルまで、占う(読む)ことができます。

その一枚でも、どこに目が行くかによっても、読み方、占い方を変えることができますので、メッセージとしても、絵柄のどこに注目したかによって書くのも、見る側としては、とても興味深いものになります。

そして見る側は、それぞれ個人ではあっても、全体的ともいえる大きな範疇とか流れの話にも、興味がある人がいるかもしれません。激動や危機的な時代ほど、そういう傾向は強まるでしょう。

だから、全体的なレベル(の占い内容)をあえて入れることで、むしろ、そちら(全体性)のほうに意識を上げて行く意図を持つ、言わば、占いを超えたものをやってみることを、タロットのメッセージを提供する側には、やってもらいたいと、私は思います。

つまりは、個人レベルと全体レべルを常にセットで書くという意識と実行性です。

これからは提供者のほうも、それなりに意図とか目的をきちんと持って、書くべきだと私は考えます。(すでにそういう意識でされている方も多いとは思いますが)

誰に、何のために、それを書いているのか、たとえタロット占いといえど、目的があるはずです。

もちろん、営業的にやっている人には、集客という目的が裏にはあるでしょうが、それは読む側もわかっていることでしょう。

それは承知のうえで、しかし、あなた(提供者)がやっていることは、単にタロットで稼ぎたいということではないはずです。

世の中のビジネスには、当然、ビジネスとして営利を出す目的はあるにしても、特にタロットの仕事をしている人は、経済的なことだけでそれをしているわけではないと思います。

ただ漫然と抽象的にタロット占いを毎日書き連ねても、あなたのしたいことが伝わりませんし、集客的にもおそらく疑問の出る方法でしょう。

本当に、誰に対して、タロットを使って何をやりたいのか、それが特に対外的にタロットを使う方には、必要なもの(意識)だと思います。

そうすると、結局、提供者のほうも、自分と向き合わねばならなくなってきます。

言い換えれば、自分というものを改めて知らねばならないということであり、また知ったとしても、常に変化も伴い、自分自身の改革も求められることになります。

自分について取り組むと、最初は、自分が本当は何がしたいのか、余計わからなくなってしまう時期があります。

またビジネスとしてやっている人には、経済的・物質的なものと、精神的・霊的なものとのバランスに苦慮してしまうこともあるでしょう。

自分に関して、単純な好き・嫌いですら、つかめてない人も結構います。まずは、そういうシンプルな分析から始めてみるのもよいでしょう。

タロットを仕事とするからには、当然仕事としての努力とか、苦しさもあるとは思いますが、何と言っても、自分が本当にしたいことの本質からずれてしまうのでは、結局、うまく行かなかったり、継続できなかったりしますので、本質と表現の違いを理解しつつも、本質を曲げてまでやることなのかを問うのは、とても重要だと考えます。

何事も、する側・される側というふたつの方向性があり、占いやリーディングをして、皆さんにその内容を提供する側と、それを読み、参考にしたり、楽しんだりする人たちの側とがあります。

される側だけではなく、する側の意識が変われば、される側(受け取る側)も変わるでしょう。

ビジネス的には消費者のニーズに合わせるということもあるでしょうが、タロットは消費されるだけものではありませんから、むしろ、する側のほうの意識を上げて、表現自体はたとえ、占い・物質レベルであっても、霊的・全体的な向上の目的を込めることは可能だと思います。

そういう人たちが多くなれば、受け取る側の意識も変わって来るでしょう。

基本的に、責任というものは双方にありますが、私たち側(タロットをする側、提供する側)にもあることを、もっと意識する必要があるかもしれません。


高齢者の運転問題

最近、法改正されたように、高齢者の自動車運転免許の問題が再び、社会的にクローズアップされています。

実は、私の父もこの問題に直面している一人です。

父はすでに認知症と診断されたので、免許は取り消しか自主返納するしかないのですが、それまでは、車の運転には当人は自信を持ち、一生運転すると言って、家族からの返納の申し出も、まったく聞かない状態でした。

しかし、事故を起こしたことで、警察が入り、状況が変わりました。

今はようやく、なんとか車も売却し、物理的にも免許的にも運転できないことになって、少しずつ、父も理解しはじめているところです。

とは言え、認知症なので、なぜ自分が運転できなくなったのか、そのこと自体を毎日のように忘れるので、再び説明して、納得してもらわねばならないという苦労がつきまといます。

いろいろと調べますと、もっと大変な状態の親御さんもたくさんいらっしゃるようで、運転をやめさせるための、ご家族の労苦が偲ばれます。

実際、高齢者の運転問題については、当人にやめさせればいいとか、強制的に法で支配すればいいという、単純な話だけでは解決できないと考えられます。

言ってみれば、マルセイユタロットでは「戦車」の象徴性に関係する話です。

マルセイユタロットの「戦車」は、馬の乗り物(馬車)なので、現代的に解釈すると「車」とも言え、まさしく車の問題とリンクします。

次に、タロットの「戦車」は、ふたつのものという象徴がいくつか見受けられます。

特徴的なのは、二頭の馬、台についている両輪、「戦車」の人物の肩にあるふたつの顔と言ったところでしょうか。

そして、高齢者の運転問題に戻りますと、これは高齢者自身の自覚とか行動だけでは、とうてい解決できない問題と言えます。

確かに、年を取りますと誰しも、運動能力、判断力、記憶力、空間認知能力、反応速度等、車の運転に必要な能力が衰えてきます。ましてや、認知症を発症する(した)ような方ならなおさらで、運転うんぬんの以前の問題です。

そう考えますと、高齢者当人の能力的な問題(衰え、病)によって、運転しないように持って行くのは、ある意味、社会的には必然と言えます。

しかし、車がないと生活できない地域にお住まいとか、仕事で必需という人もおられます。さらに、高齢者であるからこそ、若い時のように簡単に歩いたり、他の交通機関で移動したりはできにくいのです。

体が言うことを聞かなくなってきますから、簡単に楽に移動したいのが高齢者なのです。そういう移動手段の問題が、高齢者にはあります。

ということは、当人自身の判断の問題だけではなく、社会的・物理的な移動の問題性も一緒になって解決していかないと、なかなか自主的に免許を返納したり、運転をやめようという気になったりはしにくいということです。

まさにこれが「戦車」の両輪とか、ふたつの顔みたいなものです。

加えて、別のふたつの観点を持てば。車の運転に関しても、高齢者(高齢者に限らずですが)の物質性と精神性のふたつの問題があげられます。

物質的なほうは、移動手段としての問題、精神性のほうは、楽しみとか生きがいとしての問題です。

特に後者の、精神性については、あまり言及されません。

すなわち、人はただ移動のためだけに車に乗っているのではないということです。

高齢者の中でも、田舎などに住んでいるので、移動手段として車は必須で、乗り続けるしかないという人がいる一方、都会においては、代理手段があるはずなのに、それでも運転をやめない人がいます。

後者の人は、当人とって、まさに車(に乗ること)が生きがいであり、車を運転している自分が健康で社会的であることの証明と、衰えてない自分への自負となっているのです。

こういう高齢者から車を取り上げると、認知症でなかった人でも認知症になってしまうなどの危険性があるようです。

それは、上記のように、やはり、車が当人の精神性の健康増進、生きる意欲に結びついているからだと考えられます。私の父など、まさにこのタイプと言えました。

ということで、高齢者の車の運転問題については、「戦車」ではありませんが、両輪、ふたつの顔の観点から少なくとも考えないと、なかなか解決の方向に行かないと思います。

そして、本当は、車自体が生きがいという人は少数で、車を運転して向かう先のもの(移動しての先にあるもの)が、本当の当人の生きがい(趣味の場所とか、人間関係など)であるケース、あるいは運転していることへの自己評価、自信(誤解ではあるのですが)などがあると推察されます。

さにに言えば、昔は宗教(お寺など)と地域で補完しあっていた高齢(衰えや死)への準備と言いますか、精神的な助けとか備えがあったところに、現代はそういった機能がほぼなくなり、一人一人孤独であったり、せいぜい身内による関わりくらいであったりという状況が多くなってきたことも、遠因としてあると思います。

年を取ると、できなくなることが多くなるのが当然ですが、それが忘れられ、現代の便利なモノの生活に慣れて、高齢者が心身の状態の変化を(病気以外で)認識することが、少なくなっているという事態です。

まあ、昔は、心身が衰える前に、亡くなる人が大半でしたので、問題が起きる前に済んでいたという実情もあるでしょう。

けれども今では、医学や便利な道具の発達とともに、逆に問題があとになって起きることになって、社会問題化していると想像できます。

高齢者の運転問題の解決に向けては、なかなか難しいですが、これまで述べたことを整理しますと、

●運動性、認知性、判断性などの検査問題(一斉的なチェックの設定、年齢制限等)

●移動性の問題(気軽かつ、簡単、経済的にも負担にならない交通手段の確保)

●精神性、生きがいの問題(車以外の楽しさ、車で移動しなくても生きがいの持てる生活)

●準備性の問題(体力や機能の衰え、欠落してくことへの備え、車が運転できない生活へのイメージと備え)

を検討していくことが必要かと、「戦車」的に思います。

少子高齢化と言われる現代、車の運転問題だけではなく、これから様々なことが表面化してくるでしょう。

何事も、自分自身が当事者にならないと、現実感が出ないかもしれませんが、問題の直面性というのはそういうものであり、当事者以外は他人事です。

また別の機会に書きますが、それでもいいのです。

経験する当事者の問題性が、ひとつのデータとか社会への提議になり、仮に自分がその問題と向き合うようになった場合には、当事者の方の経験とデータが役に立つからです。

やはり、時代は助け合い、マルセイユタロットでは「節制」に象徴される世界に移行することが大事だと思います。


自分の支配とコントロール、「力」のカードから。

私たち自身の存在について考えてみますと、面白いことがわかります。

まず、一人一人、自分がいる(一人の自分として存在している)と誰しも思っているでしょう。(仮想現実とか、スピリチュアル的な話とか用いだしますと、存在も幻という話もありますが)

次に、言わば、「役割」や「関係性」として見ますと、必ずしも一人の自分という存在とは限らないということにも気がつきます。

つまり、自分にもいろいろな顔があるということです。換言すれば、たくさんのパーソナリティを持ち、自分は複数いる(存在している)とも言えるわけです。

一人なのに複数、複数なのに一人という奇妙な存在性です。(笑)

まあですが、本質と仮のようなことで考えれば、常識的にも理解はできます。

今日は、その本質と仮の違いとは何かとか、本質の自分とは?みたいな話ではありません。(苦笑) それはそれで興味深いテーマなのですが、それは別の機会にするとします。

本日は「仮」のほうがテーマと言え、それは関係性、タロットカードで言えば「力」にまつわる話です。

マルセイユタロットの「力」のカードの図像を見てみますと、ライオンを女性が制御している姿があります。

女性が大人の雄ライオン(たてがみがありますので)を生身で抑えているとは、すごいですね。

もちろん、ライオンや女性には、特別な象徴性の意味があり、単に女の人とか動物のライオンそのままを示しているのではありません。

例えば、タロットを知らない人でも、ライオンというものが、なにがしかの象徴性や意味合いを持っていることは、古代の文化とか伝統性などで知っている方もいるでしょう。

ですが、そういうことは自分で調べるとか、講座を受講するなどで学んでいただければよいです。

今回は、見たままから推察される、この女性とライオンの関係性を敷衍して、自分と他者(あるいは物事)との関係を考えたいというわけです。

ライオンが女性の支配下に治まっているのは、女性の力のほうが明らかに上であるか、何かのコツをつかんでいるかで、いずれにしも、ライオンは女性にはかなわない、または抵抗できないという、上下、力関係みたいなものを自覚していることになります。

飼い主とペットという関係性にも似ているかもしれません。絵柄的にサーカスの猛獣使いのようにも見えますね。(余談ですが、ホドロフスキー監督ではありませんが、サーカスの芸とか表現は、結構マルセイユタロットのものと似ているところがあるように思います、逆を言えば、サーカスは西洋的な人間模様の元型があるとも言えます)

もし、ライオンが、女性には力がない、抵抗可能と思えば、たちまちのうちに女性はやられてしまうかもしれません。

ということは、女性は意識的か、無意志的にも、ある「力」をライオンに示す必要性があるのです。

その「力」とは、いろいろな解釈ができ、本来はフランス語では「フォルス」、英語では「フォース」と呼ばれる、映画「スターウォーズ」でもおなじみの、宇宙的で、かつ、人に内在する力とも言えます。

ですが、ここでは、単純に意思とか、実際的な力になるものと見ます。“実際的な”というのは、体力とか、能力とか知力とか経済力とか、およそ“人の力”になるものです。

ただ、大事なのは、そういう物理的な目に見えるものより、最初にあげた「意思」の力ではないでしょうか。

ともあれ、女性のように、ライオンのような強いもの、侵入をしてくるもの、つまりは自分の権利やテリトリーを侵してくるものに対して、抵抗する姿勢とか、物理的な力とか、何よりも強い意思が必要だということなのです。

他者軸で生きてしまう人は、言ってみれば、ライオンに支配されてしまうようなタイプです。

実はそのほうが楽なこともあるのです。

しかしそれは、「力」のカードで言えば、「自分は、か弱き“女性”なので、“ライオン”君に任せておけばよいし、そもそもライオン君に抵抗する力もない弱い人間です」と表現しているようなものです。

(八方美人的に)優しくしていればすべて丸く収まる、あるいは、問題に対処せず、じっと耐えていることで過ぎ去る、みたいな態度を続けていると、一時的にはよくても、結局、どんどん弱みにつけ込まれ、ライオンは狂暴さを増し、自分のテリトリーに侵入してきます。ひどい時には、自分だけではなく、自分以外の大切な人・モノまで、食われることになります。

自分(と大切なもの)を愛し、守るためには、力の女性のように強くあらねばなりません。

いや、強くなくても、自分の領域が侵されないよう、自分自身がコントロールすることが重要なのです。このことが、今日のもっとも言いたいことです。

だから、繰り返しますが、自分が強くあろうと頑張る必要はありません。大切なのは、自分自身がコントロールする意思と実行性を持つということです。

相手や外側(ライオン)に支配の実行性を持たせるのではなく、できる範囲で、なるべく自分の意思と判断で決定や取り消しなどができる状態を作るわけです。

簡単に言えば、物事の主体は自分にする、自分の力を取り戻すということです。

私たちは、意外に外部に決定権を委ねてしまっている場合が結構あります。

もちろん、仕事などで、どうしても自分だけでは決められないこともありますし、最初の話に戻りますと、世の中にいる自分(パーソナリティ・仮の自分)というものは、他者との関係性でできいますので、相手あってのものであることもわかります。

それでも、相手あってのものだからこそ、力と決定権を相手(外)に全面的に渡すのではなく、自分自身で行えるように取り戻す(コントロールする)ことが大事です。

相手ではなく、自分がコントロールするのだと決めると、力関係が次第に実質的にも変わってきます。

恋愛でも、「自分のコントロール」ということを意識すると、相手に振り回されにくくなります。(まあ、惚れたものが負けと言われているように、好きの比重によって、関係性が決まってしまうこともありますが、その中でも、相手任せにしないことを少しでも心がけ、実行することがポイントです)

なお、マルセイユタロットでは、「力」のカードは11で、次の12は「吊るし」「名前のない13」と続きます。ここからすれば、関係性において、どうしようもなくなった時は、ペンド(吊るし・保留状態)と、最後は「13」として、覚悟して割り切り、切り離す(断ち切る)こともありだと言えます。要は捨てる、逃げるということです。

ライオンを、いつまでもかわいいとか、私を守ってくれるものとか、逆に、私に危害を加える、逃げられない怖いものと見てしまっては、関係性が悪い意味で癒着し、悪い状態で固定してしまうことにもなりかねません。

だから、自分のコントロールができないとなれば、最後はとにかく逃げて、関係性自体を捨てることも考えたほうがいいです。

タロットでは、名前のない「13」のあとは、救済を意味する14の「節制」が待っているのですから。

私たちの苦しむ原因のひとつは、自分の力を必要以上に外に明け渡していることにあり、そのまた反対に、全部自分で何とかできる、何とかしなければならないと過剰に思いこんでいることにあります。

本質は変わらないにしても、人との関係性で形成されるパーソナリティ(役割)は仮のものですし、自分で変えることができます。

そこに「愚者」的な自由性がある(どんな数になることもでき、どの数でもない)と見ることで、もっと楽になれるはずなのです。


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