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情報が感情を作っている。

しばらくブログをお休みしておりました。

実は風邪かと思っていたのが、インフルエンザと判明しまして、一週間ほど発熱が続いて寝込んでおりました。(初期治療段階は過ぎていましたので、静養しての自力治癒しかありませんでした)

そんなに体が強いほうではないので、風邪を引いたり、体調を崩すことはままあるのですが、さすがにインフルエンザで熱がこうも長く続くと、体力的にきつかったです。(^_^;)

ご心配をおかけしましたが、ようやく熱も下がり、今はほぼ回復しております。コメントいただり、お見舞いメールくださったり、皆様ありがとうございました。

さて、一週間ほど高熱で寝込んでおりましたので、一気に覚醒したと言いたいところなのですが(笑)、逆にかなりシビアと言いますか、現実的になったという感じがします。

今の社会ですから、寝込んでいても簡単にスマホなど見て、情報は入れられるわけですが、実はそのことが危険でもあると、ふと病床で(大げさですが)思ったわけです。

現代はSNSなどが発展し、一人一人の書き込み、情報発信がさかんです。いわばプロも素人も区別なく、意見を言い合い、見せ合っている状態です。

その数は半端なものではなく、かなり膨大なものと言えます。

そして、人は感情の生き物です。言い換えれば、物事に反応する心を持っています。

何かの書き込みや情報に接する時、そこは機械のようにただ読み、無反応が続けられるわけではありません。

数が増えた分、昔よりは、外から感情の起伏にさらされる環境が爆発的に増えたと言えましょう。

人間なので、無反応ではいられることは少なく、人は物事に接すれば、何らかの思い、感情、気分を抱きます。

それが明るく、気持ちのいいものになるのであればいいでしょうが、暗くなったり、怒ったり、妬んだり、悲しんだりと、あまりよいとは言えない感情も起こる時があります。

聖人君子でもない普通の人ならば、要するに、喜怒哀楽、何らかの感情が情報に接して生まれるということになります。

ところで、感情のコントロールはなかなかできるものではありません。起こった感情をどう処理するか、ということは可能かもしれませんが、起きることそのものを制御するのは難しいことです。

ただ、(感情は)発生するのですから、発生すること(出所)に対して何らかの手だてを施すことは、発生自体を抑えることにつながります。

ひとつは、すぐにカッとなったり、心が揺れ動いたりしないように、自分自身の器を大きくするということでしょう。つまりは考え方や許容できる範囲を(学習や訓練によって)広げるということになります。

そしてもうひとつは、そもそも(感情の)発生する出来事・情報との接触機会を減らすということがあげられます。

前者は人間的に大きくなるような修行の道といえますが、後者は凡人のままで、物理的にアプローチする方法と言えます。

もちろん両方やっていければ理想ではありますが。

さて、元に戻りまして、結局、何が言いたいのか言いますと、私たちの普段の感情は、実は外から与えられていることがほとんどであるという事実についてなのです。

そしてその(与えられた、発生させられた)感情が、心身や生き方までを支配し、自分をロボットのような奴隷にしているということです。

情報社会はいいところもたくさんありますが、反対に恐ろしいところもあります。

知ることの機会が増えて便利になり、一見、奴隷から解放されているかのように見えて、実はむしろ奴隷化が進んでいる面もあるということです。

試しに、しばらくスマホやPCをせず、あるいはやっていても、自分が気持ちのよくなる情報やネタだけを読むようにしてみてください。

かなり気分や体の調子さえ変わってくることがわかると思います。

一般的に陰陽・二元原理の宇宙の法則から考えても、自分と意見の合わない人は世界に半分はいますので、自分と価値観の違う人の投稿とか意見に遭遇する機会も当然あり、そうすると不快になる場合もあるでしょう。

問題は、書き込みや意見の内容そのものではなく、それを読んで特定の感情が発生することであり、その感情に支配されることが、もっとも注意しなければならないことだと考えられます。

私たちは、いかに作られた自分で普段生活させられているかという実態に気づく必要があります。

本当に自分ではないものに支配されてしまい、人生を人(外のもの)に明け渡してしまっているのです。

瞑想や静かな時間が必要なのも、こうしたところに理由のひとつがあります。

タロットを勉強してる人は、タロットを並べて、ただ静かに過ごす時間を持ってみましょう。なるべく気分を害する情報と接しないのも有効です。

もちろん、同時に、いろいろな考え方や心の見つめ方を学んで、心の許容量を大きくしていくことで、どんな情報に接しても、比較的平静でいられるようにしていく方法も採用するとよいでしょう。


癒し系、メンタル系で仕事をすることについて

タロットリーダーもそうですが、プロになって仕事にしたいという場合、提供するサービスの内容がスピリチュアル系や癒し系、メンタルなサポート系のケースでは、お客様からお金をいただくということに躊躇してしまう人がいます。

これがその人の「お金に対するブロック」に根ざしているという話もあり、その手の解除を試した方もいらっしゃるでしょう。

それがいいのか悪いのかは、ここでは述べません。

今回のテーマは、メンタルや癒し系で人の援助をしたいという方が、「お金をいただくということに対して、どう考えるのか」ということについて書きたいと思います。

まず、これは厳密には比較対象にはならないかもしれませんし、比較される方としては、違和感を覚えるかもしれませんが、わかりやすいと思いますので、「医者」というお仕事を事例にして考えたいと思います。

お医者さんの場合、もちろんお金儲けということが目的ではないでしょう。

しかし、サービス業として、お金をいただく「仕事」であることも確かです。

ここに、二人のお医者さんがいたとします。ともに腕や技術は同じで、患者に対する気持ちや医療行為についても真摯だとしましょう。

そして一方のお医者さんは、たくさんの人に医者として貢献したいと思い、設備も大きくしたり、医療機器の充実にも力を入れたり、最新の技術を取り入れようとしたりもしています。

しかし、そのためにはお金が必要です。だからといって、いわゆる不正や、いい加減なことをして稼ごうというわけではなく、様々なサービスの工夫や宣伝などをして、営業的発展を試みています。

また各地で講演をしたり、医療とは直接関係ないにしても、近接した事業も手がけたりしています。そうして自分を基礎とした組織の拡充を図り、結果的に患者さんも多く来られ、お金も流れてきています。

さらには、自分の息子にも医者になってもらい(息子の意志は尊重しています)、組織のあとを継いでもらって、引き続き、たくさんの人を救いたいと願っています。

翻って、もう一方のお医者さんは、地域密着で、親切で面倒見がよく、急患にも快く応じ、時には支払いが満足にできない人でも診てくれることがあります。

その地域では評判なものの、これと言って宣伝に力を入れているわけでもなく、今時、HPもありません。まさにアナログ、リアルでのお医者さんとしての営みです。

腕も良くて親切なので、口コミでは評判ですが、患者さんが地域以上に拡大することはなく、また規模も医院ですので、限界があります。

そもそもこのお医者さんには、拡大意識はなく、ただ来てくれる人のために一生懸命、治ってもらおうと、元気になってもらおうとしているだけです。ですから一代限りで終わってもよいと思っています。

また「医は仁術」であること、人に貢献する職業であることを強く意識していますし、医業本分以外に手出しすることもありません。

さて、皆さんは、この二人のお医者さんのケースを見て、どちらがいいと判断しましたか?

またどちらにシンパシーを感じました(共感されました)か?

まあ、そもそも医者と癒しやメンタル業界では、業務独占の公的資格制度のことや、医者の社会的認知、投薬や手術などの目に見える形があるなどの根本的な違いがあり、比較にはならないと思います。

しかし、ここではあえて、お医者さんを例にしました。

貨幣経済の社会の中で、お金を稼ぐこと、サービスを提供し、代価としてお金をいただくことは当たり前の行為と言えます。

一方で、お金だけでは解決できない倫理、正義、バランス、美、徳といったものも人は尊重します。

やたらとお金に対する思いを解除したところで、それは新しい価値を自分に入れているだけであり、解除ではなく、置き換えがほとんどです。それを解除と言ってもいい場合も、もちろんありますが、ブロックは自分を守ってくれているところもあります。

そしてまた、自分がサービスを提供する「仕事」として行うと言っているのに、頑なに低額料金や無料で行うことは、何かの修行かボランティアだと指摘されても仕方ない面もあります。

癒し系、メンタルサービス系で人のために何かをしたい、それを仕事としたいという方、もう一度自分自身で考えてみてください。

どれが正しいというのではなく、結局はあなたの価値観(大切にしている判断基準)によるのです。

当然、価値観も変わることがあり、最終的には、最初に戻り、「自分が正しいと思っているもの」という「正しさ」の判断に行き着きます。(「どれが正しいというのではない」と言いましたが、行き着くと、そうなってくるのです、ここが面白いところです)

なかなか正しさを抜けることは難しいものであり、それがまた人の個性を作っているとも考えることができます。

よって「選択」(自分が選ぶ)という概念は重要さを持ち、人間を超えたところの崇高な基準というものが、古代では尊重されてきたところもあるのです。言葉で言えば、霊性ということになるでしょう。


大きな視点と小さな視点の活用

4月になりました。

日本では学校でも、会社や組織でも、年度初めとして環境が変わる方が多いでしょう。

たとえ自分自身に何もなかったとして、体制自体が変わったり、人が異動してきたりして、なにがしかの変化はあるはずです。

思えば、人はずっと同じ状況で居続けるということは不可能で、例えば端的に年は取っていきますし、季節は移り変わっていくものです。

ここから言えるのはふたつ、変化することが当たり前だと受け入れること、そしてずっと同じであることへのこだわりを手放す(いい意味で諦める)ことです。

もう少し積極的なアプローチとなりますと、変化の流れを予測したり、パターンを読み取ったりして、それに対応した手段を講じるということもできます。

そこで占いなどで、自分の運気の大勢を知り、行動の選択に活かすということがあるわけです。

別に占いから入らずとも、宇宙の法則、自然の法則を、科学的に考えることもできますし、観察したり、調べたりすることで、おおよそのことはわかってきます。

しかし、大局や大きな流れがわかってはいても、自分の目の前のことになってきますと、それ(全体の流れ)を忘れ、ただ今起こっていることに反応して、ふりまわされてしまう場合が多くなるのも、私たち人間です。

このように、人には大きな視線と小さな視線、言い換えれば、全体を見通す目と細部や具体的なもの、あるいは短期的なスパンでものを見る目の両方を持ってはいますが、うまくそれを活用することができず、時には入れ違って、ますます自分を苦しめてしまうことがあります。

つまりは抽象的でおおざっぱに考える時と、とても具体的に詳細に物事を見る時があるということの、適用の仕方の問題です。

一般的に、「現実的」というのは、具体的で詳細な、細分化された視点になっている時を主に言うと考えられます。

反対に、空想的、抽象的と言うのは、大きく見ていたり、全体的・包括的に見ていたりする状態と言えます。

地上を見るのと、空(そら、空気)を見るのとのふたつの方向性と言ってもいいですし、物質に焦点を合わす見方と、精神的なものにイマジネーションする方法と言ってもいいかもしれません。

ちなみにマルセイユタロットは、このあたりを明確に、カードの登場人物の視線で象徴させています。

ところで、人が思い悩んだり、何かの選択で迷ったりする時、この大きな視点と小さな視点(全体と具体)の、ふたつの見方を思い出すとよいでしょう。

だいたい、非常に苦しい時、かなり選択に迷った時は、大きな視点をもってくるとよいです。

言ってみれば、「そもそも」論とか、10年以上とかの長いスパンで物事を考えてみるということです。

質問や考え方としても、「そもそも私は何がやりたいのか」とか、「今、たとえ間違った選択をしても人生は長い、全体からすれば取るに足らない出来事ではないだろうか」とか、「いろいろ障害はあるかもしれないけれど、この人と、とにかく一緒に過ごす時間があればいいじゃない」みたいなもので、気が楽になります。

逆に、シビアな選択ではないけれども、迷ってしまって基準がほしいみたいな時は、期限を設定したり、予算などの条件をもってきたりしたほうが決めやすいです。

また、何もやりたいことが浮かばないとか、何をすればいいのかわからないみたいな時も、「とりあえず、この方法だけやってみる」とか、「一万円は使ってみる」とか、「これを2回繰り返す」とか、「まずは、この人と一ヶ月つきあってみる」とか、具体的なものを想定したほうが行動に結びつきやすいです。

言い換えれば、行動を起こすためには、細分化したり、具体的なものをもってくる視点があったほうがいいということになります。

あーだこーだ言って、結局行動できない人には、レベルは簡単でもいいので、「明日までに、この場所のここに行って、これとこれを買ってきてください」みたいな詳細な指示があれば、まあ動くきっかけにはなりやいかと思います。

マルセイユタロットでいえば、小アルカナの世界であり、反対に大きな方向性の示唆は、大アルカナということになってきます。

リーディングでも、「これかあれかで迷っているんです」みたいな問いは、具体的な質問なので、一見、小アルカナの出番のように思えますが、本当は大アルカナが必要で、人生そのものの方向性をもう一度見直したほうがいいという場合もあるのです。

もちろん、その逆の場合もあります。

とにかく、自分が問題状況にある時、大きな視点と小さな視点が混乱して、逆になっていることがありますので(本当はこちら側の視点をここは持ったほうがいいのに、その反対になっていること)、一度反転して物事を見るとよいでしょう。

このことは、カードの「吊るし」の示唆のひとつでもあります。

タロットリーディングでフルデッキ78枚、全部を使うと、このどちらの視点が必要か、実によくわかります。


ソウル・パーソナルカードを使う次元

マルセイユタロットを使う人で、ソウルカード・パーソナルカードという技法をよく紹介する人がいます。

いろいろな方のブログに、カードの出し方も含めて、書かれていたり、説明されていたりします。

ちなみにソウルカード・パーソナルカードという技法は、22枚の大アルカナのナンバーを、自分の生年月日から割り出したナンバーと符合させて、9タイプ(ソウル)と22タイプ(パーソナル)に分ける方法です。

カモワン・タロット(マルセイユ版カモワンタロット)ということでは、旧タロット大学時代に、私も講師としてその技法を教えていたことがあるので(今の私の講座でもふれていますが)、いわゆる「カモワンタロット」使いの人には、多く広まっていることは知っています。

しかし、本来この技法は、数秘術のジャンルに属するものと言ってもよく、ナンバーがふられているタロットならば、どれでも通用するものです。

ですから、マルセイユタロットという単体で見た場合、あまりマルセイユタロットそのものと関係ないどころか、むしろほかのタロットの技術の一つとして採用されてきたものと考えられます。

ということで、私の現在の講座においては、結構、明確にマルセイユタロットそのものの教えとは切り離して解説しています。

また私自身は、ほとんど、実際のリーディング場面でこのテクニックを使うことはありません。

というのは、タロットは確かに数との関連は強いのですが、絵柄がメインであり、特にマルセイユタロットの場合は、数の論理というより、絵柄の象徴性が重要だと私は考えているからです。

ただ、タロットを数から見る形で、入り口のようにして、関心をもってもらう技法としてはなかなか面白いものです。

そうすると、ほとんど一般的な意味においての「占い」みたいな次元の扱いになってきます。

占い(あくまで一般的な意味でのです)は、実は楽しいものです。

まず当たる・当たらないということがあり、それは人間にとってはかなり古くからある「ゲーム」(感覚)の一種といえ、未知のもの、まだ確定していないものの予測(予想)と、その結果を突き合わせは、やはりワクワクするものです。

また性格のパターン分けなども、占い(本当はこれは「占い」ではないですがが、やはり一般的な意味で言っています)、例えば「血液型占い」に見るまでもなく、結構、多くの人に興味をもってもらえるものです。

みんな、自分のことが知りたいですし、誰と誰が相性がよいとか、どんなパターンがどんな仕事や人と合うのかなど、「現実」や「生活」とリンクするものは、それだけ好奇心をもって聞きたくなるものです。

自分は何タイプか、「あてはめてほしい願望」(笑)みたいなものがあるのですね。「あなたはこういう人だ」と、(自分ではない)人に言ってもらいたいわけです。

そこにはもちろん「自分を知りたい」という気持ち(欲求)と、「自分を認めてもらいたい」「人と自分は違っている、あるいは同じところがある」「自分には特別なところがある」と思いたい、というような心境が反映しています。

私はこうした人の部分は結構好きなのですが、同じくらい嫌いな部分もあります。(笑)

とにかく、こうした占いや、「型はめ」的な次元での使い方に、ソウルカードとパーソナルカードはうまくマッチするのですね。

ですから、あるソウル・パーソナルナンバーのカードの組み合わせが、どういう性格を持ち、どういう人生を送るのかとか、あるナンバーの組合せの人と相性がいいとか悪いとか、自分はどういう組合せの人に囲まれやすいかとか、苦手だとか、まあ、そういった話題が起こって、鑑定場面や学習の場において、和気藹々な雰囲気になることもあります。

それがよいとか悪いとかいうのではなく、そうした次元(レベル)を楽しむ心も持つと同時に、もっと別の次元でも楽しめる、味わえるようにするとよいと考えています。

マルセイユタロットを人の相性とか、性格分析とか、吉凶判断とか、結果予測占いなどに使わず、それは早くに卒業するか、遊びや直感力を磨くトレーニングとして使い、いい・悪いを超えた、あるいは統合した次元で活用するようしてもらいたいと思っています。

一方、ソウルカード・パーソナルカードも、カードから離れ、純粋にまたナンバー・数に戻して行くと、実は深奥なる「数」の象徴の世界になってきますので、次元は高度になります。

下手に、絵柄のあるカードと強引に結びつけることで、かえってまずい部分が出てくるわけです。(タロットの絵柄と「数」は無関係ではもちろんありませんが)


人や環境を変えるチャレンジ

これはマルセイユタロット、「運命の輪」の法則のひとつみたいなものですが、人付き合いが変わると、自分も変わります。

もちろん。反対も言えますので、自分が変わりたければ、人付き合いを変えればいいわけです。

余談ですが、これもカードの「吊るし」の法則というようなものですが、逆転して見る、反転して見る、逆もまた真なり、ということがあります。

さて、とにかく、人との関係が自分自身にも「関係」してくるわけです。

これはなぜなのかと言えば、いろいろと考えられるとは思いますが、一言でいえば、「周波数」の影響かもしれません。

ただ、これもエセ科学(笑)というか、ちょっとわかりづらいので、単純に今は固有の「雰囲気」「状態」と言います。

場所にも人にも、ある種、独特の雰囲気・状態というのがあります。それが自分や人にも移ったり、転写されたりするのだと考えられます。

似たような状態のもの(人)が集団となれば、さらに大きな力となり、影響も強くなります。

ある集団全員が強く信じ込んでいれば、自分もそこに入ると、その雰囲気に飲まれて信じてしまうようなものです。

「雰囲気」「状態」は、わかりやすくいえば、「データ」や「ある情報で形成されたフィールド」みたいなものと言ってもいいかもしれません。

この「ある特定の雰囲気・状態、つまりデータ」を利用すれば、いろいろと面白いことができます。

よく言われるのには、成功者や、自分が目標とすることを実現している人たちのグループに入れば、自分もそれになじんで、目標達成がしやすくなるというものです。

自分が望ましいと思う人のデータや情報量は、今の自分よりも巨大で、レベルが高いのかもしれません。

コンピュータもそうですが、扱える情報量が多ければ、データもその分多くなりますし、当然、それを活用する能力、処理速度も速くなければなりません。

まあ、自分が「すごいな」と思う人は、言ってみれば、自分より精度の高いコンピュータになっているということですね。(全部の性能ではなくて、部分・部分の可能性もあります)

機械だと性能を上げるのには、機械を壊したり、新しい部品を追加したりしなければならず、またそもそも土台が違うと、飛躍的に性能をアップさせることは難しいものです。

しかし、これが人のすごいところでもありますが、人の場合はそれが可能なのですね。

というのは、土台・作りにおいて、皆同じところがあるからです。

潜在的性能は誰もが同じで、大げさに言えば、無限大の可能性が誰しもあるわけなのですね。

とはいえ、現実的・物理的法則も働きますので、特に肉体的・物理的・目に見える部分では制約はあるにはありますが。

あと、機械と同じように、壊したり、追加したりすることで、象徴的に、やはり人間の性能もそうやって上がります。

壊すとは本当に壊すのではなく、考え方や囚われを壊すということで、追加は創造、新しいものを生み出す(ためのアイデアや創意工夫)というのに近いです。

そういうようなことで、自分よりも性能のいい人たちのデータや活用(インプットとアウトプット、OS)を自分にもダウンロードさせたり、性能そのものも鍛え上げたりして、一気に自分も向上させるという方法になるのですね。

あと、あえて、違和感を持つグループや場所に入るというのも、自分に化学反応を起こさせる手段です。

同じ雰囲気・データ・性能を持つ人たちの間では、心地よく、いつまでもそこにいたいという気分になるかしもれませんが、反面、ぬるま湯のようなもので、刺激による成長・促進ができません。

ということで、たまには全く考えや雰囲気の違う人たちと交流(交流できなくても接してみる、近くに行ってみるなど)してみるとよいです。

人だけではなく、場所にも言えるので、一番いいのは海外とか、やはり全く普段雰囲気の違う場所に行くことですね。

海外が無理ならば、自分の属する「なになに圏」というところから離れた場所がいいかもしれません。

言葉とかイントネーションがかなり違う(言葉や音は、雰囲気の設定に結構重要な役割がありますので)ところもいいでしょう。

そうして、普段とは異なる人、場所とまみえることで、違和感・反感も含めて、様々な思いが自分に出てきます。

やがて、データ交換が行われて、そうした違和感も慣れに変わって来ることがあります。

例えずっと違和感を覚えていても、そのことで、自分の大切にしているものとか、価値観というものを、今まで以上にくっきりと浮かび上がらせる役割もあります。

別種のものと交わったおかげで、かえって「自分は何者かわかった」とか、「自分が本当にしたいことがはっきりした」とかになる、コントラスト作用みたいなものです。

この場合は、異質なものとのぶつかり合いで、もともとあるものが磨かれ、純度が上がったという例えでも表せるでしょう。

いずれにしても、違うものとの交流で、自分の中の何かが変わるのです。

ただ、あまりに激変であると、変化やデータ交換の激しさについて行けず、本当に自分が壊れてしまうことがありますので、かけ離れすぎているものにチャレンジするのには注意が必要です。

人と自分の感情に敏感で、ナーバスな人は特にですね。

日本では春は年度末・年度初めとして、環境が変わることが多いです。

ですから自分が変わる(バージョンアップする)チャンスといえばチャンスの時期なのですが、同じくらい、危険でもあるのですね。

やはり、チャレンジには、自分を労ったり、守ってくれたりするサポートも併せて必要です。


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