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期待したいタロットリーディングのレベル

私は、タロット講座受講者の事後学習のために、クローズドの掲示板を設けています。

ちょうど最近、その掲示板でのタロットリーディング勉強会が開かれていたところでしたので、そこでの話題の一部を少し紹介したいと思います。

マルセイユタロットでのリーディングには複数の段階・次元・レベルがあります。

まあ、それはマルセイユタロットに限らず、他のタロットでも、またほかのツールや技術でも、普通にあることでしょう。

つまりは、どんなものにも、階層で表されるレベルや次元の違いがあるということです。

私はマルセイユタロットを使っての対人リーディングにおいて、単に「タロットを読む」という技術・レベルを教えているのではありません。

そもそも、マルセイユタロットは、グノーシスという、自分に宿る神性への認識、発見、理解、覚醒のための象徴ツールであるという前提があります。(ただこれは、あくまで私自身が採用している説と教義です、そうではない考え方ももちろんあります)

この目的のためには、マルセイユタロットを吉凶判断や結果を予想したり、アテモノ占いとして使ったりするレベルとは別の段階で活用してほしいと思っています。

それをしてはいけないというわけではありませんが、神性の認識、自己の統合的発展と成長というレベルにおいては、ほとんど意味のないことになってくるのです。

要するに、そのレベルでのリーディングとは別の次元に踏み込む必要性を言っています。マルセイユタロットを学習するからには、それを目指さないと、とてももったいないことになると考えているのです。

ただ、これは表現においての次元の違いなので、どちらが優れているとか劣っているとかという意味で述べているのではありません。

その人の状況によって、採用される次元の読み(リーディング)は変わってくるものであり、占いや状況の予想読みがしっくりくる(必要とされる)場合もあるのです。

さて、私が、皆さん(私のマルセイユタロット講座を受講する皆さん)に到達してほしいと思っているレベル、望ましい次元のリーディングレベルというものがあります。

それは、内的・外的の二元を統合するレベル・次元です。

タロットリーディングで相談を受ける時、人は、ある何かの悩み事の解決や、起こっていること、あるいは起こっていないこと(変わらないこと)についての変化を期待します。

それは目に見えるものであり、いわばその人が今の感性や思考で信じている事件・現象です。

ずばり、(その人の)「現実」と言ってもいいでしょう。

しかし、その人の「世界」は、その人の見たまま、感じたままだけではないのです。

実は見えていないもの、表面意識だけではわかっていないもの(気づいていないもの)も存在します。

ここで安易にそれは「潜在意識にあるもの」とは言いません。実際問題、潜在意識と顕在意識の境目や区別は難しく、また潜在意識の構造もわかっているようでわかっていないところも多いからです。

ですから、単に今の現実感において、自分(その人)が気がついていないこと(裏の感性)と表現します。

いずれにしても、裏の何か、隠された何か、見えていない何かは確実に誰でもあるのです。

ですから、生じている問題や事件、悩み事、さらには自分の思いが実現しない状況などにも、今の自分には気づいていない、わかっていない、忘れている、理解できないことなどが、やはり存在するのです。

それをマルセイユタロットが示します。いや、正確にはタロットリーダーと相談する人の共同作業で発見されると言ったほうがいいでしょうか。

マルセイユタロットは実は高度な象徴体系ですから、気がついていること、わかっていること、目に見えていることとと同時に、反対の、気がついていないこと、わかっていないこと、目に見えていないことなどの、両方(両面)を表すことができます。

タロットリーディングは、表と裏、裏と表、これをマルセイユタロットとともに発見していく作業になります。

ちなみに表と裏の関係は、タロットリーダーとクライアント(相談する人)という、二人のモノの見方と情報交換も意味します。

そうすることで、ふたつのものは、どこかで融合する瞬間がやってきます。

すると、目に見えるものと目に見えないもの、わかっていることとわかっていないことの境界線がなくなり、一種の中立化現象(ゼロ状態)を起こします。

そうなると、外側の現象(目に見えて起こっていること、通常認識での世界)は、自分の内側(心や思い、思考・感情など、目に見えないもの)と混交することになり、全く別の意味を持って現れてきます。

ちょうど、同じ映像の物語を見ていても、裏の解釈や意味を知ると、それが別のストーリーとして浮上してくるというような感じです。

この時、「ああ、この現象にはこんな意味があったのか、全く気がつかなかった・・・」と、思わず言葉や涙さえ出てくることがあります。

これが言わば、内と外の融合・統合なのです。

内なる意識が外の現象を発生させていると言ってもよいかもしれませんし、反対に、外を通して内を知るようなことと言ってもよいでしょう。

また、別の表現をすれば、その現象において、内・外、顕在と潜在(目に見えていること、見えてないこと)が「中立」した感覚でもあります。

この「中立」した時の感覚によって、全体性(宇宙や神と呼ばれる「全」なるシステム)のすばらしさに気がつくことになり、自然に感謝があふれてくるのです。

つまりは自分の内なる神に出会った瞬間でもあります。

いつもそれ(内なる神)は存在しているのですが、日常において、なかなか発見できないような幻想(錯覚)の世界に私たちは泳がされており、だからこそ、その修正のためにタロットリーデイングの問題や課題として登場してくるわけです。

「神に出会う」わけですから、言い換えれば、それは自分の神性の再発見、認識の復活です。たとえわずかなことであっても、「問題」を通して、神性を知ることができるわけです。

タロットリーダーは、そのことを他人(へのリーデイング)によって知ることができるのです。

毎回できるとは限らずとも、こうしたレベル・次元でのリーデイングを行っていただきたいと私は思っているわけです。


おかしな思い、世界観が自身を救うこともある。

人は前向きで、積極的な態度に魅力を感じたり、それがいいことだと思ったりします。

後ろ向きな態度、消極的、さらには引きこもりや逃避という行動は、ネガティブで悪いものだという思いすらあります。

しかし、考えてもみてください。

ずっと積極的で前向きな人などいませんし、その反対に、一生引き籠もっている人などなかなかいないでしょう。

ただ、その傾向や程度・表現・レベルの違いがあるだけなのです。

例えば、全員、引きこもりで、家の外にはほとんど出ないという人の集団の中で、一人だけ、一日一回くらいは外に出るという人がいれば、その人は集団からは「行動的・積極的」な人と映るでしょう。

しかし、その外に出る人は、週に1回しか外に出ない人なのですから、普通の生活をしている人から見れば、消極的なニートの人だと思うはずです。時には病的な人と見られるかもしれません。

また、この一日一回程度だけ外に出る人は、その集団の中で食料調達とか、ニート生活の中で生きるためにやむを得ない役割があり、渋々出ているのかもしれません。

ならばその人は積極的とは言えないかもしれないのです。

さらに、一般的にも、人生で消極的な傾向にあった人が、何かのきっかけで積極的に変わることもあれば、その反対もあり得ます。

こうやって見ていきますと、積極的とか消極的とか、活動的とか受け身であるとかは、片方に偏っているわけではないのがわかります。大切なのは、どのレベルでどの程度の表現をするか、選択したいかということになるでしょう。

そして、これらのことはマルセイユタロットでも描かれていることです。

さて、実は今日書きたいことは、これだけではありません。むしろ本題はこちらです。(笑)

それを簡潔な文章で表してみまと、

正常な範囲での異常は、その人の精神を守ったり、浄化することができる」ということになります。

これは逆も言えて、「一見、異常な世界観を持ってはいるけれども、正常にふるまうことができる範囲であるならば、それはその人の救い(の世界観)になる(こともある)」ということです。

平たくいえば、妄想や洗脳でも、その人にとっては救済や浄化になることがあると言っています。

科学的な目線では、天使とか神とか悪魔とかなど、そうした存在を証明したり、論じたりすることはできません。

スピリチュアルなことが現実離れしていると批判される所以でもあります。

しかし、例えば、「天使」という存在を仮定し、その人が自分の世界観の中で、天使がいると本気で思うことで、その人の精神バランスが働いたり、本当の意味でおかしくなってしまうのを防いだりすることがあるのです。

しかも「天使」という特性・存在を、たとえ物語や空想の世界から引用して意味づけや性格付けをしたとしても、その人がリアリティを持って天使存在を感じるのであれば、その人の中の何かを浄化したり、天使の表す援助やクリアーな気持ちを、自分や他人にもたらしたりすることが実際に可能になるのです。

常識的な言い方をすれば、何かを信じることでの行動のきっかけになっている、と言えますが、実はそういうレベルではなく、本当にエネルギーのようなもので、その人を動かし、その人を浄化し、守るのです。

ただ、これも考え方の違いでしかありませんが、天使という存在からのエネルギーというより、自分が天使の特性を発動させることができたということになります。つまりは自分自身の力です。

けれども、注意しないといけないのは、それは自分の力とは言っても、自分の普段意識しているような自分のパワーではなく、タロットでいえば、「力」のカードの象徴する「フォース」のようなものです。

内に眠る高次とリンクして生ずる力であり、自分であって自分でないものですし、またやはり自分でもあるものです。

ということは、その力をどう使うか、どんな精神性で発動するかによって、フォースに取り込まれるか、そうでないかの違いを生むと考えられます。
※余談ですが、映画「スターウォーズ」は、一面ではこのことを描いています。

天使のようでいて、悪魔になったり、悪魔のようでいて天使になったりという言い方にも置き換えられるでしょう。

ということで、一般的には変な妄想をしているとか、おかしなことを信じているとか、洗脳させられているのではないかという状況でも、その人がそれにより、きちんと社会生活や人との普通のコミュニション・思考ができるバランスにある場合は、むしろ重要な守護や救い、拠り所になっていることもあるわけです。

それを信じていない状況のほうが、本当にその人がおかしくなってしまうこともあります。

従って、ニートや引きこもり、消極的、逃避、ちょっと人とコミュニケーションが取りにくい人の行動においても、ある世界観を信じることが、その人の救いになることがあり得ます。

ただ、病と紙一重のところもありますので、統合失調気味(昔でいう分裂気質)の人、そういう傾向の人は、行き過ぎると病的なレベルに墜ちてしまうこともあるので、注意は必要ですが。

人の救済やバランスは、まさに千差万別であり、個性があるものです。

一般的な価値観とは正反対のものでも、その人には幸せとか成功だと感じることもあることは、知っておいたほうがいいと思います。

そうすると、自分自身の本当の幸福感への選択ができます。

ただし、社会(他人との共同)生活でのルール・法律・常識の中で生きていることも忘れないようにしないと、極端なことを言えば、自分が幸せなら何をしてもいいという自分勝手、さらには犯罪をしてもよいとさえ思う論理になりますので、気をつけましょう。(笑)


本当は誰に何を話したいのか、してほしいのか。

よく例えられる話があります。

男の子が好きな女の子の気を引くために、わざといじわるしたり、関心がないかのようにぶっきらぼうにふるまったりするという、この手の話です。

つまり、本当は関心があるけれども、素直に相手に言えないので、別の形で注目してもらおうと表現するスタイルのことですね。

これが大人になった私たちでも、結構、よくある話ではないかと思います。

別に男性が女子にというものや、恋心だけでの話とは限りません。

このパターンを拡大しますと、結局、自分をアピールするために、本当の気持ちとは裏腹なことや、誰かや何かに注目を浴びたいということで、突飛な行動・問題行動をしてしまうというものです。

問題行動だけではなく、成功する自分になろうとお金を稼いだり、人とは違った特異な分野を探究して発表したりするようなこともあるかもしれません。

となると、問題が繰り返し起こったり、自分がうまく行かないようなことが続いたり、何かをやっていてもどこか空しくなったりするような場合に、実はこのようなシステムが働いているのではないかと疑ってみることもできます。

自分は気がついていないのですが、無意識に、失敗したり、ダメな自分になったり、変わった行動を取ったりすることで、誰かや何かの注目を引くことができるメリットがあるのです。

マゾの人ではありませんが(^^;)、「あなたはだめよねぇ」とか、「そんなこともできないの」「あ~またやっちゃったんだ」と言われるような状況になることが、実は当人にはうれしいこともあるわけです。

なぜなら、まずはそれだけどんな形であれ、相手から注目されることであり、また甘えることができている(甘えの表現が出せる)からです。

大人であっても、親との関係に問題があったり、自分にとって厳しい環境や人と接している状態があったりすれば(外で戦っている状態、これは当人比なので、ほかの人から見れば大したことないという環境でも、当人が大変だと感じていれば、それはシビアなのです)、やはり甘えたい欲求も出るのが人間と言えます。

ともかく、自分の行動原理の奥底には、意外にも単純な注目欲求や、本当に語りたい、話したい、したいことが行えていない、言えていないことが原因ということもあるわけです。

先述したように、そういう欲求や抑圧感情は、たいていは養育歴における自分の親との関係から生まれてくるものですが、もちろんそれだけではありません。

過去に恋愛した相手であったり、上司であったり、友人や知人であったり、昔の何らかのタイミングの自分であったりするのです。

ところで、マルセイユタロットでの展開で、過去パートを見ることがあります。

この過去パートをリーディングする意味については、いろいろとあるのですが、そのひとつには、こうした過去に置き去りにしている、あるいは表面意識的には忘れていても、しっかり奥底にくすぶっている感情や思いを映し出すという機能があるからなのです。

私の採用しているマルセイユタロットの展開では、一応、時系列別にカード展開のパートは分かれるものの、ある部分からは過去も現在も未来もつながっているようになる展開になります。

つまるところ、無意識の上では時間は幻想となり、現在においても過去と未来が同時存在しているようなものと言えますので、過去の自分と今の自分、そして未来の自分とを連関して見ることで、自己の総合時間(幻想とはいえ、事実感覚としては存在します)においての別存在である自分を癒したり、解放させたりすることが可能となるのです。

いわば、各時間存在における自己の統合です。

実は気づくだけでも、相当な癒しや浄化、統合的働きになります。

それは、例えれば、見える世界と見えない世界の境目が、「気づく」「気づいた」というその瞬間になくなるためです。

つまり、今まで「気づいていなかった」ということは、その気づいた事柄が隠れていて「潜在的」だったということであり、今度は「気づいた」ことで、その時点で潜在から顕在へと変化したのであり、その内容において両者を陰陽(明らかと不明)で隔てていた壁は消えたことになるからです。

これは二元統合の形式のひとつです。

「気づく」ことの重要性はいろいろなところで、様々なセラピスト・アドバイザーが語っているところですが、このようなシンプルな理由があるのです。

しかしながら、隠れているものを発見することは、探し方を間違えれば、すごく時間がかかったり、手間がかかったりします。

また時には(タイミング的には)、探さなくてもよい場合もあります。逆に、一刻も早く見つけなければならないケースもあります。

マルセイユタロットの展開とリーディングでは、そうしたことも見ていくことがあるのです。


自分を愛することからの自由や幸せ

対人的なタロットリーディングでは、一人一人への問題と、それに対するタロット展開となりますので、もっぱら個別的なものとなります。

個別的というのは、当たり前ですが、一人一人違うということです。

相談というものに対して、たとえばプロ養成の講座などでは、どうしても概論的なものや、相談内容の種類・タイプ別に講義することもありますが、実際の相談は、まさしく個別的なもので、一人一人違うのが当然です。

従って、机上の空論では通じないところもありますし、場数を踏む必要性もあります。

しかしながら、だからといって、理論やタイプ・ケースを学ぶ必要がないのかといえば、そうではなく、それらを学ぶ重要性ももちろんあります。

それは色々な理由はあるのですが、一言でいえば、タロットの全体構成・構図と同じで、人それぞれは個別的でありながら、「人間」として象徴的に型や同じような傾向もあるからです。

相談スタイルを学習することは、実は相談への適応スピードを速くすることであり、個別的な応用力を発揮するための王道でもあるのです。

矛盾するようですが、このことがわからなければ、タロットが表していることそのものへの理解も深めることができないでしょう。

さて、そうしたタロットを使った相談をしている中で、人の大まかな傾向を挙げるとすれば、以下のようなことが、ひとつ、言えると思っています。

それは、

自分を愛せるようになればなるほど、自由になってくる

ということです。

これは最近に始まったことではなく、スピリチュアル系でも心理系でも、「自分を愛する」ということや「感謝の気持ちを持つ」ということはよく言われます。

ただ、これでは言い方があいまいでもあるので、もう少し解説的に言えば、「自己への評価が高まれば高まるほど自信が持て、自分自身を生きる実感が増える」ということになるでしょうか。それでもこれは、少し次元を落とした(具体的にした)言い方です。

実は「自己の評価が高まる」と言い方もまた曲者で、えらそーになるわけではもちろんありませんし、ポジティブに、「私すばらしい!」「オレ(ワタシ)ってできるヤツ(ヒト)」というような感じ方とも違うのですね。

感覚的に言えば、いいも悪いもひっくるめて、全部私だと認めたうえで、そんな私は私として生かされている、生きている、みたいなものと言ったほうがいいでしょうか。

問題や迷いが生じると、「何のために生きるのか?」というより、「自分を生きているか?」「どんな人生を送りたいか?」という質問を問いかけると、自ずとわかってきます。

その答えを全うする人生こそが、結局のところ、自己評価を上げることにつながり、自分を愛することになってくると考えられます。

そのあとで、何のために、そして、どのように生きるのかという問いをして、答えていく(応えていく)とよいでしょう。

最初から「何のために生きるのか?」と問いかけると、かなり哲学的になったり、余計考えすぎたりして、泥沼にはまる場合があるからです。

またこの問いは、多分に自己犠牲的な危険性もはらんでいます。

ただ、現実的なことに空しさを感じたり、俗物的な状況にまみれたりした時には、この問いかけも有効になってきます。

人は肉体を持ち感情を持ち魂(スピリット・高次の部分)を持って現実世界で生きています。

肉体的・物質的欲求をかなえるためだけに生きたり、他人のために過度に生きたり、肉体や現実を忘れて抽象的に生き過ぎたりすると、バランスが崩れ、その修正のために事件や問題と思える状況が発生します。

結局、自分を愛するということは、少なくとも自分のこの3つの部分(肉体、感情・精神、霊・魂)を愛する(3つの部分にかなう)ことが必要です。

言わば、天(全・神・宇宙)に、人(自分・他人・関係する人々)に、地(物質・環境・自然)に、そのどれもかなっている、筋道が立つみたいなものが、現実的に生きる場合において、もっとも「自分を愛する」ことにつながるのではないかと思っています。

全部に完璧というのではなく、生き方の個性として、個や地に根ざしながら、天と人を意識する場合もあれば、人にベースを置きながら、天と地を考慮するという方法もあります。

家族ために生きるのもよし、ビジネスで稼ぐのもよし、ボランティアで恵まれない人に援助するのもよし、です。

それは、まさしくそれぞれの個性的な生き方によりますし、それが許されているのがまたこの現実世界と言えましょう。

ただ、それが一つ所に偏って、お金だけとか、過度な他人の幸せのためにとか、自分の欲求が満足することに集中(人に貢献がない)とか、そうなるのが問題だと言っているのです。

マルセイユタロットでは特に「正義」と「節制」、そして「悪魔」と「手品師」、「世界」と「戦車」のそれぞれの二組を意識しながら、「力」を中心にすえるようなイメージです。

自分の中の神を愛し、悪魔も愛します。そうすると、人の中の神や天使、悪魔も見えてきます。

自分から愛せない人は、他人に愛してもらうことで、他人が愛してくれる「自分」というものに気がつきます。

人から愛を注いでもらえるくらい、肉体も心もスピリットも、価値があることを意識するのです。

人からの愛を実感できない人でも、動物や自然などから感じることはできます。

例えば自分にすり寄ってくる猫に、自分が愛される(すり寄ってこられるというだけでもよしとする)価値を見出すというような具合です。

自分が愛せないと自分を愛せるようになるまで、自ら苦しい状況を設定させます。他人からの自分への扱いが、まるで価値のない人のようになるのです。

お金の面でも同じかもしれません。自分が無価値だと思えば思うほど、あなたに支払う(支払われる)エネルギーとしてのお金も少ないものとなっていくわけです。

マルセイユタロットは、自分の中に愛や神性を発見していくカードとも言えます。

一枚一枚、象徴を理解してくと、突如、自分の中にカードに表される神性や愛が存在することに気づき、それがわかった時、実際にそれを味わうことが現実で起こるのです。


「審判」を情報の観点から読む

タロットカードには、「審判」というカードがあります。

タロットの種類にかかわらず、比較的どのタロットでも共通する(存在する)カードと言えるかもしれません。

けれども、ここではもっぱらマルセイユタロットにおける「審判」ということで書きます。

ただ、マルセイユタロットにおける「審判」のカードと一口に言っても、やはり象徴ですので、そこには様々な意味があります。正しくは様々な意味が出てくるというほうがいいかもしれません。

それはほかのどのカードでも言えることです。

さて、今回、そうしたいろいろな意味のある「審判」の中で、「情報」というものに着目してみたいと思います。

「審判」から「情報」という意味がなぜ出るのかについては、詳しくは述べませんが、単純に見たままの絵柄からだけではないことは言っておきます。

ともかく、「審判」が出ると、「情報」に注目する(必要がある)場合があります。

ただその「情報」というものの「次元」が普通と異なるのです。

ここが非常に重要なところで、わざわざ「審判」が出た意味でもあるのです。

「審判」は数の上でも、「運命の輪」の数である「10」の倍の「20」(本来はローマ数字ですが、文字化けの可能性がありますので算用数字で表しています)を持っています。

ここからでも、速度や処理数が上がっていること、または次元を異にして、単純な数値や直線・平面だけでとらえる方向性ではないことがわかります。

またその絵柄からも、人が蘇っている状態、立ち上がった状態であること、上空に巨大な天使がラッパを鳴らしているところからみても、何かが覚醒したこと、大きく変化したことがうかがえます。

ということは、「通常や常識レベルでの情報が来た、得た」という類ではないこともわかります。

ここで「情報」という言葉だけで見るのではなく、情報をどう入れるのか、どう出すのか(知らせるのか)、という情報入手と活用という「動き」の観点で見る必要もあります。

まず先述したように、スピードと処理の次元が変わっています。かなり速くなっていると言えましょう。

また一度に扱う(扱える)量も多くなっています。昔はギガレベルだったのが、今はテラレベルになっているというような感じです。

次元ということでは、情報の質にも関係してきます。

「一を聞いて十を知る」ということわざがありますが、これは処理速度と次元が上がったため、瞬間的に高度、かつ、たくさんのことを知ることができるようになっているということですが、反対に、ひとつの情報の質が巨大な、あるいはかなり深いものを示唆するということも考えられるのです。

そうした情報の質が変化していることも「審判」では表します。これが絵では人間と天使の違いなどで表現されるのです。

ところで、昔の言葉は、ひとつの単語や音に、複数の幅と意味があったと言われています。

聖書などでも、文章通りの解釈をする立場もあれば、秘儀的に、たとえば音に変化させたり、数に変化させたり、象徴的に解釈したりすることによって、別の「本」や「意味」を見出すようにすることもあるのです。

カバラー的には大きくわけて4階層、細かくわければ10段階あるといわれる理解の段階も、レベルや次元が上がれば、より複雑で高度な情報を知ることができるようになるのです。

もっと別の表現でわかりやすく言ってみましょう。

例えば、自分がセラピーを学び、仕事として始めたとします。

今までや、当初の段階では、身の回りの人、友人を介したりしての口コミレベルでお客様にお知らせしたり、集めたりしているレベルで十分(だった)かもしれません。

しかし本格的に仕事として経済的・営業的に成り立つレベルにするためには、それを超える次元(情報の入手と活用)が必要となります。

自分をもっとたくさんの人に知ってもらわないといけないかもしれませんし、友人にお話するだけでは、全然方法も、告知する媒体の数も、宣伝としては足りないかもしれません。

あるいは、情報の質の向上が求められるかもしれません。

それは、もっとレベルが上がれば、同じ口コミでも、人から人に伝えられるセラピーやセッションの感想の言葉にしても、述べられている・書かれている言葉以上の言外の情報(感性・インスピレーションなど)も含まれるようになるからです。

だからたくさんの人に伝わり、集客もできてくると考えられます。

この場合は、出しているもの、表現しているものが、質の高い情報に変化したと言えるでしょう。

情報の出し方として、意図的・技術的に質を上げる場合もあります。自分がレベルの低い情報しか得ていない場合は、当然それを仕入れる働きかけがいります。

また「審判」レベルの情報は、普通の時間感覚や流れも超越してきますので、過去のものが再生(浄化もあり)されたり、未来のものがわかったりして、時間という枠を超えて情報が入手・活用されることもあります。

さらには、通常の人間を超える次元の情報(神や天使と表現されるレベル)と接触するということも想定できます。(通常の人間の五感を超えたデータや情報)

情報の質や出し入れの速度・量、接触する対象のレベルを上げる必要がある場合にも、「審判」は登場してきます。

「審判」は、「運命の輪」のように同調やシンクロに注目するのではなく、それに注視しながらも、さらにもっと上のバージョンや次元を目指し、超越していくことに意味があります。

このように、「情報」に着目して、「審判」を読んでも面白いでしょう。

もちろん、ほかの意味も「審判」にはありますので、これはあくまで「情報」を観点として読む方法の一例であることに留意してください。


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