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「悪魔」と「太陽」の強い絆
マルセイユタロットの「悪魔」と「太陽」については、束縛と解放ということで、特別な関連があります。
絵柄的には、「太陽」はいかにも明るく開放的に見え、「悪魔」はやはり悪魔なので、束縛しているように誰もが感じるでしょう。
ところが、裏を見ていけば、それが逆転することもありえるのです。
マルセイユタロットの重要な示唆のひとつに、二元や二重、別のものにも同質があり、同質にも異質があるというものがあります。
マルセイユタロットは見た目の判断もそれなりの意味を持ちますが、同時に、象徴の意味が伝えられて初めて意味がわかるという「裏の教え・意味」も内包されているのです。
さらにはそれにも、人から教えられるものと、自分で気がつく内的な確信の性質のものとがあります。
さて、「悪魔」と「太陽」に戻りますが、やはり、誰しもが明るい印象を持つ「太陽」に比して、「悪魔」のほうはポジティブな意味を見出すのが難しいと言えるかもしれません。
しかし私の教えているマルセイユタロットでは、カードにはいいも悪いもなく、それぞれのエネルギーや表現、質と見ますので、立場や環境・状況・個人などによって、その意味はネガにもポジにも変容することはあっても、基本的なものは不変であり、いい・悪いを決めるのも、「人間」だということになります。
従って、「悪魔」がネガティブに思う人は、逆のポジティブな意味を悪魔から見出せた時、両者のバランスが取れて(中立になり)、本当の「悪魔」のカードが示すエネルギーを素直に理解することができるのです。
おそらく、普通、なかなか「悪魔」に対するネガティブさの印象は強いので、そのバランスを回復させるためには、相当の時間と努力が必要かもしれません。ですから、「悪魔」の真の理解は、かなり高度なものと私は考えています。
では「太陽」との関係について戻ります。
「太陽」と「悪魔」を「束縛」という意味合いで見た場合、両者には共通点が実はあるのです。
「束縛」と言ってしまえば悪い印象になりますが、「強い絆」で結ばれていると見れば、それは「束縛」ではなく、「結束」というものに近いかもしれません。
ふたつのカードは、この「結束」の意味で共通しているわけです。
ここに、このカードたちに関連して、あまり普段意識しない重要なことを言います。
結束や絆の強い関係・グループには、カリスマ的リーダーの力のほかに、強固な目的意識やイデア(理想・ビジョン)の共有、集団と個人のそれぞれが利益になる実際性があることなどが考えられますが、もうひとつ、集団や組織だけにある秘密、秘匿すべきもの、守るべきものがあると強くなります。
マルセイユタロットに流れる言い伝えでは、キリスト教では異端派とされるカタリ派とかテンプルナイツ(神殿または聖堂騎士団)との関係性があり(このことは講座でお話しています)、これらの集団や信仰する人たちの間で、やはり何か秘密、もしくは強烈な信念(信仰)体系があったものと推測されます。
「悪魔」と「太陽」には、そうした結束のもとになる秘密や秘儀が描かれていると考えられるのです。
それはインナー(信仰する)世界では、外やほかの人との違いを生み出して、集団内における自由(な精神・活動)性をもたらせますが、一方ではその秘密や理想の守護のために自己を犠牲にしたり、集団のために命を捧げたりするみたいなことになって、かなり束縛の要因にもなります。
つまり、「秘密」とそれに関係する「集団」には、「束縛」と「自由」のふたつの相反するものがいつもつきまとうわけです。
秘密を持つ集団への裏切りはネガティブさを持ちますが、反面、裏切った側からすれば、集団からの解放にもつながるわけで、ポジティブとも言えます。
秘密が本当に保持すべきものなのか、守るべきもので皆を縛リ過ぎるようなことになっていないか、集団そのものより、いつも自分自身、個人として注意しておく必要はあるでしょう。
ただ、逆に言えば、組織や集団を強固にしようと思えば、秘密や隠匿すべき内容を持てばいいのです。それは事実である必要はなく、抽象的であっても、シンボル・象徴的に全員が共有できればよい性質のものです。
といっても、秘められたものはいつかは破られたり、漏らされたりする運命にあります。
宇宙のバランスからして、完全に守られることはありえないでしょう。秘めようとすればするほど、外に出そうとする力もバランス的に働くからです。
また守るべきものが、実は本当は何もなかった(よく漫画とかであるように、秘伝書を開けてみれば、何も書かれておらず、見つけるまでの時間と過程が重要だった)ということも結構あります。
さらには集団組織や独裁者の安定・維持のために、ある秘密が利用されてきたということもあります。(「悪魔」とも関連)
低いレベルでいえば、「ここだけの話ですが・・」「これは、あなだけに伝えるよ..」「あなただから信頼して話すね」「あなたは選ばれたからこれを伝えます..」と言われると嬉しい反面、怪しいことも多いということです。(笑)
人は特別でありたいと思いつつ、しかし特別な責任は持ちたくない(普通でいたい)という矛盾の多い面白い生き物なのですね。(^_^;)
それが「秘密」とも関係し、カードの「悪魔」や「太陽」の象徴する意味や世界ともリンクしてくるのです。
パチンコの不思議な世界
いきなりタイトルで引かれた方もいるかもしれませんね。(苦笑)
タロットのブログなのにパチンコの話題とはこれいかに?ですが、実は、たまにタロットの受講生の方にも、余興で時々私が話している内容でもあるのですね。
私は大学生の頃にパチンコにはまったことがあり(苦笑)、以後社会人になってもちょくちょく熱心にやっておりました。ですから、まあ、結構事情に詳しいところはあります。
そしてタロットを学び、いよいよスピリチュアルな観点で世界を見るようになってからは、パチンコがいかに興味深いものであることを、別の観点でもってあとで気がついたのです。
興味深いと言っても、ギャンブルの部分とか遊技の面白さのことを言っているのではありません。
それは端的に言うと、パチンコを提供している側とお客との関係であり、その間にある「パチンコ」台という遊技ゲームが介される仕組み、この一連を含めてのスピリチュアル的視点です。
このブログの読者には、パチンコを知らない人も多いと思いますので、まずは、パチンコ台のシステムについてお話しします。
お客はお金を払ってパチンコ玉を買います。(現在では台の横にお金を入れるところがあり、自動的にお金を入れると玉が出てきます) そして台にあるハンドルを調整して玉を打ち出します。
打ち出された玉は、台に開いている穴に入り、その瞬間、台の盤面についているモニター画面のデジタル数字(絵柄のこともあります)が回転し、同じ数字が3つ揃えばフィーバーと言って、大量の玉が台から出てくるようになっています。(「フィーバー台」と呼ばれる種類のもの)
そして出た玉の量に応じて最後に品物に換えるわけですが、三点方式と言いまして、その品物をまた別のところでお金で買い取ってもらえる仕組みがあり、それでお客は最終的には玉をお金に換えることができるわけです。本来は違法性を追求される部分もあるとは思うのですが、まあ、警察組織も暗黙の了解みたいなところがあるようですね。
それはさておき、そのいわゆる大当たり(数字が揃う当たり)を引き当てるには、台の種類によって異なりますが、現在はおよそ400分の1から100分の1の間の確率になっているようです。もちろん当たる確率が低いほど、出玉が大量に期待できるようになっています。その分、お金もつぎこまれる(デジタル数字を回す回数を多くしなければならない)ことになりますが。
どんな確率であっても、結局、玉が穴に入ると同時に台の内部カウンターで機械的抽選が行われ、当選か否かが決定しているわけです。つまり玉が入った瞬間にはもう当たりかはずれかが確定しているのです。
ところが、今のパチンコ台では技術も進み、大当たりまでの演出効果が非常に複雑にされています。
どういうことかと言いますと、玉が穴に入って数字が止まるまでの間に、長いもので5分近くもかかって大当たりかはずれかの画面(台についている数字の回るモニター)演出が行われているのです。
先述したように、実際は玉が入った瞬間に、もう当たりかはずれかは決まっているのですが、結果をすぐに出すのでは面白くないので、その間をできるだけ長くワクワク、ドキドキ、ハラハラを楽しんでもらうおうと演出されているわけですね。
このシステムは、おそらくパチンコを趣味としたり、よくしたりしている人にはわかっているはずなのですが、実際にパチンコ屋に入って遊技しているお客さんを客観的に見ますと、実に不思議な光景になっているのに気がつきます。
それは上記の当たりはずれの演出時間の時に、台についているボタン(演出用についている押ボタン、それ自体に当たりはずれに作用させる効果はありません)を必死で強烈に押し続けている人がいたり(ボタンが壊れるくらいの勢いです)、数字がそろうことを祈っているのか、何やら手で妙なおまじない的な仕草をしたり(きっとそれをして、過去当たったことがあるのでしょう)、まさに本当に両手を合わせて祈っている人もいたりします。
またはずれると、怒りにまかせて台を殴ったりする人、台に向かって罵倒したりする人、「当たれ!」と言葉に出してしまう人、出ないから(当たらない)と店員に文句言う人なども結構います。
当たったら当たったで、歓喜・興奮し、おそらく遊技者の心拍数は上昇し、アドレナリン、その他の快楽ホルモン物質も大量に分泌されていることだと推測できます。言わば、演出された世界で本当の感情や身体反応を経験しているのです。
さらには、社会問題にまでなっていますが、小さいお子さんを車内に置いたまま、ずっとパチンコに興じたり、お金がないのにサラ金にまで借金してやり続ける依存症の人がいたり、とにかく不思議な世界がそこにはあります。もちろん普通に正常に遊技している人もいます。
しかし、そういう人たちも、もしパチンコに出会わなければ、そういう状態になっていなかったかもしれませんし、どの人もパチンコ屋で遊技している自分と、外で普通に生活し、仕事している時の自分とでは違う部分はあるでしょう。
ともかくも、結局、台は機械であり、そしてまた店側でも制御していることもあるのではないかと想像できます。(違法性はあるかもしれませんが、よく考えるとまったくの自然確率で任せると店はつぶれるでしょう)
少なくとも、玉が入った瞬間には当たりはずれの抽選結果は出ているのであり、それがモニターとして、結果として、台の現象として、まだ目に見えてないだけなのです。
いくら、演出画面を見て、祈ったり、おまじないをしたり、台を叩いたりしても、結果は途中で変わりません。
変わるとすれば、違法性のある裏で制御している台であり、それは店側のコントロールに関わることで、物理法則の意味では、遊技している人の意志や力で何とかできるものではありません。
さて、ここまで書いてくればカンのいい人は気づいているかもしれません。
そう、このパチンコの奇妙な世界が、なんと私たちの現実世界に似ていることかと。
私たちは、まるでこの現実世界でパチンコ台を打たされているようなものと言えます。
パチンコ台に当たるのが、まさにこの世界をゲームとして見た場合の、現実に存在する様々なツール、物質、楽しむ仕組みです。
楽しむ仕組みではあるものの、パチンコ台のように苦しみも、人によっては味わっています。ツール・パチンコ台はそれが仕事であったり、恋愛や人間関係であったりするとも言えます。
パチンコのお客が時には自分でもわかっていながら、傍目から見るとおかしな行動を取ってしまうのは、やはりその遊技が現実的な「お金」というものにからんでいるからです。
自分の生活に関わるもっとも明確な形のエネルギーであるので、皆、その獲得や喪失で一喜一憂し、必死になるわけです。単に景品が商品だけでしたら、そこまで依存したり、事件になったりはしないでしょう。
これと同様に、私たちの現実世界でも「お金」というものに多くの人が支配されていますし、その多寡、獲得・喪失で翻弄されています。
もっといえば生活基盤や生活満足のもとがお金になっているということです。結局、パチンコと同様、お金のあるなし、獲得と喪失のゲームに参加し、一喜一憂していると言えましょう。
またパチンコと同じように、ある確定した原理がありながら、それがわからず、あるいは気づいていても、演出に振り回されてしまうように、私たちは起こる現象にただ喜怒哀楽を示し、流れるままに生かされているような感じです。
現実世界でも、パチンコの遊技者と同様、おまじないしたり、神頼みしたり、奇妙なことを盲目的に信じたりしています。パチンコは店から出ることができますが、現実世界は出ることができません。
私たちは無知なお客になったり、ゲームの演出に無自覚に振り回されたりしていてはまずいことがわかります。
パチンコでトータルで勝つ人はまれです。ほとんどの人が最初は勝っても、つまるところ、負けてお金がなくなっていきます。ただ、勝ち方はあるとも言われています。バチプロなる人も実際に存在します。しかし、勝ったところで、それは本当の勝利者と言えるのかどうか、この点は重要です。(マルセイユタロットの「戦車」と関連)
現実世界(スピリチュアル的な意味)で、パチンコのお店に該当するものが何で、そのお店を経営し、許可している大元が何かはあえてここではふれません。皆さんで考えてみてください。
そもそ外国人から見ても、一斉に同じような台に向かって黙々とお金を投入し長時間遊ぶ姿は、何かの工場作業員をイメージさせるようで、とても奇妙なようです。
私自身、パチンコに興じている人の姿を見て、本当に愕然とし、恐怖しました。それはもちろんパチンコそのものへの恐怖ではなく、自分も含めて、私たちの多くが奴隷のように生きている(生かされている)のではないかという恐怖です。
それはまさに、マルセイユタロットで描かれているグノーシス的な思想と重なってくるものでした。
ということで、最後でやっとタロットが出てきましたが、残念ながら、この話は、このあたりで終了といたします。ま、打ち止めということですね。(笑) あんまり語りすぎるのもいけませんので。
タロットから見るバレンタインデー
最初にお知らせです。
最近、タロット講座のお問い合せがちらほらありますので、今後の予定概要など書いておきたいと思います。
まず、本格的にマルセイユタロットを学びたい人のためのクラス・基礎講座(ハイクラス)は、現在1月からの講座が開講中のため、次回は4月からとなります。
日にちの詳細ははまだ決まっていませんが、土曜か日曜を中心に3ヶ月間、月2回ペースでの講座を考えています。
もし今の時点で4月からの受講を検討されている方は、その方の希望日を優先的に配慮しますので、ご連絡ください。場所は新大阪を予定しています。(受講者の希望や人数との関係で、場所の変更もあり)
土日にではなく、平日を希望される方もお知らせくだされば、平日開講も検討いたします。
また経済的・日程的に基礎講座ハイクラスの受講が難しい場合は、特別にノーマルクラス(ハイクラスより内容を少なくし、料金がリーズナブルになるもの)も提供できる場合があります。お問い合せください。
入門クラスはカルチャーセンター(京都新聞文化センター・よみうり神戸文化センター)で開講するものと、新大阪教室で開講するものとがあります。レベルや内容はほぼ同じですが、カルチャーセンターは募集時期がまだ未定で、開講されないこともあります。
新大阪の入門コースは4月や、ほかの時期からでも開講を検討しています。
その他、出張講座や個人(マンツーマン)講座(個人の場合は調整すれば、いつからでもご希望の場所で可能です)、スカイプでの講座(枠が極めて少数ですが、ただ今空きがあります)も随時受け付けておりますので、詳細はHPのこちらをご覧ください。
マルセイユタロットはかなり縁の働くタロットだと考えています。大量の人に一斉に講義するというような傾向には向いておらず、お一人お一人とか、少人数での講座形式が適していると思います。学びたくても学べない時がありますし、反対にふと開いたネットのページやインスピレーションがもとで、縁が運ばれてくることもあるのです。
タロットで未来を当てたり、運・不運を見たりする「占い」としてではなく、自己や他人の気づき・心的整理と発展、サポートや癒し、統合ツールとして活用することに興味がある人に、特にご縁が賜れば幸いです。
さて、今日はバレンタインデーですね。
現在はキリスト教と結びつけられていますが(と言っても、祭日のもとになった人は今は正式な聖人ではないようですが)、この日のもとになったのは、女神ユノーとも関係するローマ時代の豊年祈願のお祭り(ルペルカーリア祭)だと言われていることもあるようです。
興味深いのは、この時期(ある暦の新年的な時期や春の先駆けとしての訪れを感じさせる時期)であること、前述のルペルカーリア祭で神託的な男女の縁結び行事があったと言われていること、バレンタインデーが14日という日、14の数に現在は設定されていることです。
ただしどうやら、ローマ時代の男女の縁結び的な行事は、後世の人の創作であるというのが定説になってきているようですね。まあ、たいていは、伝説的なことも、作り話や、後の人の脚色になっていることがほとんとですから、そういうこと(ほぼ創作)なのでしょう。
それはそうとしても、火のないところには煙は立たず、伝説やお伽話であっても、その奥底には何かしらの象徴的真実、あるいは象徴的な示唆のようなものがあります。
カーニバルもそうですが、洋の東西を問わず、春を祝う(あらじめ豊作や吉年を祝う)ことは民俗行事として行われていることであり、季節的なものの内的外的実感を強め、また先に祝う(未来完成の型を踏む)ことで、それを実現させる効果もあり、古代の人はその意味を知っていたことでは、なかなか実は興味深いものなのです。
また季節や暦というものは、結局地球と太陽(または月)などの天体の運行で生ずるものですから、そのエネルギーとも関係している(関連づけようとしていた)こともわかります。それが太陽信仰にもつながっていると考えられます。
先述のルペルカーリア祭での男女の縁結び行事も、作り話かもしれないとはいえ、桶に名前を書いた紙を入れて、抽選みたいにして男女ペアを祭りの期間に決めていたというのも、占いではありますが、そこに神聖な神の力(女神的な力)が働くと考えられていたからではないかと想像がつきます。(一種の神託)
言ってみれば、タロットの「恋人」カードに描かれている「キューピッド(クピドー)」の縁(矢)の力なのです。
ともすれば、私たちは何気なく人と出会っていると思ったり、自分の力で出会いを起こしたと思ったりしがちですが、実はそこには目に見えない力も働いているのです。
昔の人は、今の人以上に、神聖な力、神が選ぶ縁というものを大切にしていた(信仰していた)ことがわかります。ですから、その後の関係も人と人のものだけではなく、その人と出会ったということでも、人と神との縁も思っていたはずなのです。
「私たちが出会い、仲良くなれたのも神様のおかげ」という厚い信仰感覚です。
とすれば、相手に対しても神の力の働きを見ることができ、結局マルセイユタロットでいえば、人間関係が「恋人」から「神の家」に行き着くような体験となります。
さて、「14」という数ですが、これはタロットでは「節制」というカードが持ちます。
このカードの絵柄の中心は天使であり、それも救済や援助、交流を示唆するものです。先述の「恋人」カードのキューピッドも天使(ではないですが)として見ることがあります。
たまたまのようでいて、14日のバレンタインデーは、やはり特別なシンクロも感じさせる行事となっているように思います。
恋人同士はもちろん、人と人の関係性に神が働いていること、言ってみれば神と人の関係性も再認識させられる日であり、その神聖さや高次の関連性を思い、出会いや別れにおいてさえも感謝したいところです。
バレンタインデーは恋人だけではなく、パートナーや友人・知人など、自分と関係する人に、
「あなたに会えて良かった」「この人との縁が結べて、神様・天使たち、ありがとう」
反対に、「別れてくれてありがとう」「終わってくれて良かった」(笑)
゜
そんなことが思える日でもあると言えます。
タロットリーディングの学習と知識
タロットの読み方・リーディングの方法にもいろいろとあると考えられます。
またカードだけではなく、展開法(スプレッド)によっても読み方が変わりますし、そもそもタロットの種類によっても解釈が違うこともあります。
ですから、カード解釈・読み方・展開法・カード種など、カードに関係するだけでも様々になることがわかります。
これに人がカードを読むわけですから、当然、知識や経験、感情・感覚などによっても異なってきますし、そう考えますと、人の数だけ読み方もあると考えることもできます。
ということは、ひとつのリーディングやセッションで、まったく同じ読みをする人などいないと極論することもできるでしょう。
このことは学習者にとっては朗報にもなります。
すなわち、読み方に解答や正解がないということになって、同時に明らかな読み方の「間違い」もないことになり、どこか安心できるからです。(あまりにまじめ過ぎる人は、この考え方を持っておくと楽になることがあります)
では、学ばなくても勝手に読めばいいではないかという話にもなりますが、一面ではそうとも言えますが、やはり王道・セオリー・基本的解釈というものも存在します。
確かに読み方は人によってバラバラなところもありますが、反対に一種の基準のようなものがあり、それがないとカードの意味をなしません。
しかしこの「タロットの意味」というのは、私たちが通常考える試験の問題と答えのような関係ではなく、象徴的な意味になるのです。
例えば「愚者」というカードがありますが、そのカードに「自由」という意味が見い出せたとしても、必ずしも自由=愚者ではないのです。
自由の意味だけならば、ほかのカードでも表すことができます。
あくまで「愚者」のカードの図像が象徴しているもののひとつに「自由」というものが考えられ、そのプロセスでの「意味」なのです。
そしてまた、そうは言っても、通常、「愚者」から「束縛」というような意味が出ないのもまた事実で、そのため、どんな読み方をしてもいいというわけではなく、やはり基準となる意味はあります。
ただし、「愚者」の持つ自由性の象徴を理解していると、それが阻害されたり、発現できていなかったりすれば、束縛という意味も「愚者」から想像することも可能です。
それが、「問いに対して正答がひとつきちんとある」というような考え方ではない、象徴的な意味の出し方なのです。
象徴としてカードを見る場合、そのレベルと適用範囲も広く、それがために人によってカードは違う読みをしてもOKとなりますが、読みがカードの示す基本象徴から大きくずれている場合は、間違いの場合もあることをタロットの読み手(リーダー)は自覚しないといけません。
従って、カードの象徴(の意味)を学ぶ必要はやはりあるのです。
それから私が使い、教えているマルセイユタロットの場合、読み・リーディングは多層的な象徴解釈になりますので、単純にカードの意味を暗記したり、カードの絵柄から感覚的に意味を出したりするようなことだけでは対処しにくいものとなります。
これは私が実際に何度もマルセイユタロットのリーディングにおいて経験していることですが、例えばある組合せのカードが出ると、神話上の神々の組合せや、伝説等の登場人物の組合せ、あるモチーフの象徴・形であることなどが明確にわかる場合があります。(それは、その知識を入れているからわかるのです)
そんなことが現実のリーディングに何の役に立つのかと思うでしょうが、伝説や神話というものは、人の潜在意識やパターン、力の行使、人生表現の方法・問題などを象徴的に表しているものなのです。
ですから、カードの組合せやカード内の象徴の関連によって、ある神話や伝説等との結びつきがわかれば、その話のパターン・原理がクライアントの中にも現実として働いていることが理解できるのです。
それを読み解くと、対策や今後の傾向もわかります。
ですから、タロットの象徴(それはカード一枚だけのものではなく、一枚一枚に描かれている細かな象徴や全体構成としての象徴なども含みます)を学ぶことの意味は、大いにあるのです。
「カードは勉強しなくてもよい、直感で読めばいい」というのは、相当高度に直感が研ぎ澄まされ、自己の持つ内奥の智慧にふれることができている場合です。
あるいは、簡単に感覚的な占いをしたい場合などです。
きちんとした相談になるようなリーディング、セッションを行いたい時は、やはり象徴の意味・背景をきちんと学習し、知識として蓄える必要があります。
しかし知識を入れることが目的ではありません。
知識を蓄えるのは、象徴の力を発動させるためであり、自己や他者の神性にふれるためでもあります。それには直感も感性も大切になります。
言わば、ぶれない直感(直観)に至る(思い出す、発動させる)ために、様々な知識を学ぶようなものです。
本当の直観を大切にする人は、謙虚に学び、知識を入れることにも抵抗はないどころか、喜びを感じることでしょう。
問題は凝り固まった知識だけ(損得的な頭の基準)で判断することや、知識自慢になったり、知的好奇心を満たすだけに終わったりすることにあるのです。
深くマルセイユタロットのカードを読みたい人は、カードに描かれている象徴を学ぶほか、いろいろ神話や伝説、説話、歴史などにもふれておくとよいでしょう。
隠れる時と出る時
今日タロットから浮かんできたのは、「隠者」と「法皇」でした。
マルセイユタロットではすべてのタロットカードが有機的につながり、関連し、共鳴しあうような仕組みになっています(それも知識的側面と感覚的即目があります)が、この「隠者」と「法皇」も強い関係性を持つカードとなります。
両者ともに年を取った男性的な姿で描かれています。
しかし、「隠者」はその名前の通り、目立たず、ひっそりと隠棲している様子で、一方の「法皇」は弟子か聴衆に対して法話を伝えており、表に出ていると言えます。
そこから私が思ったのは、人は隠れている時と出ている時があるということです。
そんなことは当たり前で、誰も出ずっぱりのことはないですし、またずっと隠遁しているわけでもありませんよね。(笑)
私の言っているのは、これが象徴として、個人の人生のタイミングや状況に応じて入れ替わること、しかしそれは社会や宇宙というもっと大きな括りで見ると、うまくバランスが取れているのではないかということなのです。
例えばあえて極端な話をしますと、ニートの人はずっと隠れているような状態かもしれませんが、その分どこかに自分の中で「出たい」という欲求や願望を持っていたり、親や他人からは「出てほしい」という希望も抱かれたりしています。
実際の現象や行動面から見ると、隠れている人とそれを見守っている人という対比になりますが、精神的なエネルギーの願望方向で見ますと、実は結構「出る」「出ている」というイメージがあるのかもしれないのです。
隠れれば隠れるほど、出たい、出なければ、出てほしいというエネルギーも増すと言えばいいでしょうか。
今はインターネットとつながる機器が発達していますから、たとえニートで引き籠もっていたとしても、ネットを通じて仮想的には自分は外に出ているという体験・感覚を得ることができます。
また昼は人目があって出ていなくても、夜にはコンビニに行くなどして、雑誌や食べ物を物色したり購入したりして、自分(の欲求)を出しています。
つまりは完全に隠れているわけではなく、どこかで出ているというエネルギーの表現はしているのです。
おそらくネットでの漂流はニートになれば激しくなる可能性もありますし、広範囲に出るというだけではなく、深く入り込むこともあるでしょう。
入るということは、逆側から見れば、「出てきている、突出している」と見ることもできるからです。
タロットの世界に足を踏み入れるということでも、通常や常識の世界(観)から逃げる意味もありますし、日常から隠れようとしていると見ることができます。
反面、タロットの霊的な世界側からすると、向こう側(日常世界)からこちら側(非日常世界)に出てきている、目立って来ているというように見えるでしょう。
マルセイユタロットでは「愚者」と「隠者」の関係性が深いのも、上記を示唆しているように思います。
さて、さきほどのニートの人の話になりますと、結局エネルギーを反転させて、実際の外に出るようになるためには、引き籠もっている世界での「出る」ことをなくす必要があるかもしれません。
内側の中で「出る」表現ができない場合、外側で「出る」しかバランスが取れなくなってきます。ネット環境とかないほうがいいわけです。
しかし、だからといって、いきなりそれらを取り上げても、爆発的に外に出ようと、暴力や自傷・他傷行為に及ぶこともあるかもしれませんので、注意は必要です。
また周囲の人が過剰に「出る」イメージやエネルギーを想像し過ぎると、「出る」という状況が精神的に達成してしまうことになりますので、あまり強く出てほしい願望を抱かないほうがいいかもしれません。もちろんケースバイケースの話ですが。
話は変わりますが、タロットリーダーで営業をしたい時、隠れていては当然ですが、クライアント・お客様は来られません。自分で「出る」表現をしないといけないのです。
ただ、隠れることと出ることのバランスが、人の意識によっても違ってきますので、自分なりのペースというのも考慮する必要があります。
今までかなり隠れる傾向にあった人は、いきなり出ると言っても難しく、すでにたくさん出ている人からすれば簡単で、大したことのない「出方」ではあっても、隠れているのが強かった人には、それだけでもすごいエネルギーがいり、その時点でギリギリのバランスであったりするのです。
ですから、いかなる人も隠れる・出るのバランス比率では同じかもしれないのですが、そのバランスの規模や表現の違いに個人差があると考えられます。
お金のバランスでも隠れる・出る、つまり収入・支出バランスはもとより、お金の扱い自体に対するバランスもあると言えます。
見た目の傾向で、隠れることが強く、出ることが弱い(しかし本人には、その時点ではそれでバランスが取れている)と、お金の隠れる出るバランスもそれに呼応するでしょう。
つまりはお金は自分にとって隠れている状態、あまりお金が現れていない状態になります。(もともと貯金や遺産などがある場合は別でずか)
なぜならお金はエネルギーであっても、物質的なものだからです。物質的というのは、見た目(でわかるという意味で)の世界に強く関係します。
ということで、今の自分に経済的・環境的・精神的に満足していない場合は、自己表現において、隠れる・出るのバランスの質を変えていくほうがよいことがわかります。
まあ、自分が何もしなくても、自分の思いに応じた隠れる・出るのバランス世界が自動的に組まれていくというのが、この宇宙でもあると想像できます。
要するに、自分の意志で創造していくか、宇宙の全体意志のひとつとして創造してもらうかの違いみたいなことです。
