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タロット観、前提として理解するもの。

マルセイユタロットの中でも、日本ではカモワンタロットという名前で、フィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏が共同で製作したタロットがあります。

私も、もともとはカモワンタロットから入った口ですし、一番よく使用しているカードも、いまもってそのホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワンタロット、現在入手困難)です。

カモワンタロット自体はひとつでも、製作者のお二人の考えはいろいろと異なるところがあるように思います。

ですから、厳密には、同じタロットを使っても、カモワン流とホドロフスキー流とがあり、さらには、カモワンタロットを使う方でも、この両者とはかけ離れた流儀や方法をもってされている人もいます。

しかしながら、それぞれの思想や技法を混同してしまっては、まさに混乱を来すばかりなのです。

それでも「違い」を知る人は実際には少ないですし、カモワン流はカモワンスクールが日本でもありますが、ホドロフスキー流の場合、正式なスクールのようなものは日本にはないと思われますので、ホドロフスキー流技術を日本で駆使されている方は見つけにくいと言えます。

また、技術の前に、思想や考え方、タロットに対する思いのようなものが各人あります。

そのタロットの技術を理解し、使いこなすためには、考え方を知る前提がいるわけです。でないと「仏作って魂入れず」ではありませんが、タロットも技術も活きないと思います。

まあ、そのことは、製作者の思いだけに関わらず、そもそも、あるタロットを活用していくのなら、そのタロットに流れる思想や歴史なども知っておいたほうが、はるかに「魂」が入り、使い方の質が違ってくると考えられます。

人間と同じで、ただの他人だと思っていた人も、その人の背景・内情を詳しく知れば他人事ではなくなり、特別な存在と見ることができるように、です。

一方で、あまり技法にこだわり過ぎるのも考えもので、結局のところ、大きな括りとして「マルセイユタロット」とすれば、自分の目的にかなうならば、誰のどの技術・考えを使ってもOKだという、柔軟な姿勢も大事かと思います。

とはいえ、まったくの無知では、柔軟性を出そうにも、そもそもがよくわからないので、いい(柔軟性ある)選択ができないと言えます。

ですから、やはり最低限の知識はつけておいたほうがいいですし、できれば、学びのうえでも、知識的な分野を多く身に着けたほうが、タロットの扱いに長けることになるでしょう。

言い換えれば、直感だけのタロット活用というものは、しょせん半分(一部だけ)のアプローチに過ぎないということです。(逆も言え、知識ばかりで直感性を無視するのも問題です)

さて、カモワンタロットの製作者のお二人、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロットについて、カモワン流では「秘伝カモワン・タロット」という本と、ホドロフスキー流では「タロットの宇宙」という本が、日本で出版されています。(絶版や入手困難にはなっていますが)

残念ながら、本格的で大著である「タロットの宇宙」に比べて、ややライトで入門書的な「秘伝カモワン・タロット」とでは、質の違いが顕著です。(カモワン流が劣っていると言っているのではありません)

しかも、「秘伝カモワン・タロット」の本では、重要で肝心なことがあえて省かれており、説明がないとわからない部分も結構あります。それでも今や、古本でも、とても高額な扱いになっているようですね。

「秘伝カモワン・タロット」の最大の欠落だと私が思うのは、「タロットマンダラ」という、大アルカナのある構図、並べ方説明がないところでしょう。もちろんこれは、ある理由で、わざとだと考えられます。(ちなみにカモワン氏のホームページには「タロットマンダラ」は掲載されています)

一方、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」には、私自身「風車マンダラ」と名付けている(笑)、タロット78枚による立体的な構図が掲げられています。(スワスティカマンダラとも呼ばれます)

さらに、大アルカナにおいては、両端に「愚者」と「世界」を置き、11から20(「力」から「審判」)と1から10(「手品師」から「運命の輪」)の10枚ずつを、上下二段組にした図も載せられています。

大アルカナにおいて、カモワン氏は「愚者」を当事者・修行者(旅人)として置き、ほかの21枚のカードを、3段×7列に置く「タロットマンダラ(カモワン氏談)」を思想の中心にしています。

そしてホドロフスキー氏は、先述したように、10枚ずつ二段組(下段が11から20、上段が1から10)と「愚者」と「世界」を両端に置く図を示しています。

両者では明らかに、基本とする(大アルカナの)構造図が違うわけです。

もっとも、カモワン氏も、ホドロフスキー氏のような、10枚ずつの二段組を使いますが、これは一見同じように見えて、実はホドロフスキー氏のものとは異なり、10枚ずつの組の上下段が入れ替わっています。(ホドロフスキー氏にもカモワン氏にも、その並べ方には理由があってのことです)

言ってみれば、同じ世界や宇宙を見ていても、その人の見方・とらえ方・分け方があり、カモワン氏とホドロフスキー氏とでは、同じタロットを使っていても、そこは違っているのだということが明確にわかるわけです。

すなわち、その違いこそが、タロット観の違いです。

先にも言ったように、究極的にはマルセイユタロットの表す(象徴する)世界はひとつ(同じ)であっても、見る人・扱う人によって違いが出てくるのですから、私たちも、タロットの技術について、どのオーダー(階層・システム)やレベルで見ているかを知ることが重要なのです。

その区別がついていないと、自分の使っているタロットと技術を人に説明できないばかりか、どの技法がこの場合有効なのか(逆にあまり役に立たないか)を自らが理解できず、困ることになります。(最悪、無知のまま、間違った使い道をしてしまうこともあり得ます)

例えば、上記でふれた二人の「マンダラ」の違いでも、単純に見たとしても、カモワン氏が3段であり、ホドロフスキー氏が2段で、数の違いがみられるわけですから、その区分が同じであるはずがないとわかります。

なぜ3段なのか、なぜ2段なのか、どういう時に、どのような理解のもとで、この区分を用いて活かすべきなのか、なぜあなたはそのどちらかを使用しているのか、何の目的と理想あってのことなのか…こういうことがきちんとわかってやっている人ならばいいのですが、そんなことを考えたこともない、あるいは、タロットを教えてもらった先生からも説明されていないなどのことでは、あなたは形式的にそれを使っているだけと言えます。

私自身は、今は何流でもありませんが、それぞれの違いを説明することができますし、規則性と柔軟性の、一見矛盾したようなタロットの使い方が自分でできるよう、その理由とともに指導しております。

タロットは、ただ占いなどに使われるだけのものではありません。

むしろこれからの時代は、思索のツール、思考道具(しかし、ただの知識ではないもの)として、私たちに宇宙の構造や進化を高レベルで理解していくための「導き(気づき・啓発)の書」のように使っていくものとして提示されると考えられます。

まさに、学び、感じ、「考える(破壊と再生的な思考です)」ことが、とても重要なのです。

「占ったり、リーディングしたりする使うタロット」(それも継続されますが)から、「考える(通常の思考を超えて)ためのタロット」ということが、今後は期待されるように思います。


「なる」「する」のふたつの読み方

少し前に書きました「リーディングの能動・受動」に関連する話です。

タロットカードの読み方には、色々な種類分けができると思いますが、その分け方の基準に関わらず、どのやり方でも、大きく分けてはふたつになると思います。

それは、この世(世界)自体、まずはふたつに分けた見方ができるからです。例えば陰陽・男女・昼夜…など様々です。

何度もふれていますように、私たちの認識する現実世界というものは、言わば、ふたつの表現によってコントラストが作られ、違いのある世界として出てきているものと想定できます。

要するに分離(感)があるからこそ、私たちは私たちでいられ、この世界を堪能しているとも言えるわけです。

反対に考えれば、下手に悟ってしまう(笑)と、一元的世界観になってしまうということです。つまり、違いのない世界です。

すべてはひとつ」という言い方はすばらしいものの、悪く言えば、すべて同じに見える世界で、もしかすると味気ない話かもしれないのです。

この世の体験や経験を楽しむ」という言い方が、スピリチュアルな世界ではよくされますが、これなども、この世が「違いの世界」であるから色々に楽しむことができると述べているかのようです。

しかし、矛盾するようですが、スピリチュアル的な理解が進めば進むほど、いい意味では、この世の(違いある世界の)楽しみ方がわかってくる(この世だからこそ味わえると気づく)ようになるのではないかと考えられます。

まさに「違い」によってワンダーランド化しているのが、この世界(この世界を認識する通常の私たちの感覚)なのでしょう。

さて、それをふまえた上で、話をタロットリーディングのほうに移します。

先日の「リーディングの能動・受動」の記事でも、最後のほうに書きましたが、タロットを読む上では、「そのようになる」という読みと、「そのようにする」というものとの「ふたつ」の見方(方法)があります。

タロット占いや、タロットからの託宣(お告げ・メッセージ)的なものでは、前者、すなわち、「そのようになる」という読みが主流でしょう。

一方、私が提唱している「タロットリーディング」や「タロットを使ったコーチング的な方法」では、「そのようにする」という読みが中心になります。

どちらがいいかと言えば、基本的には私自身は後者だと思っていますが、その理由は今までも書いた通りです。

一言で言えば、自分自身に力を取り戻すためです。

しかし、これも場合によりけりです。

タロットリーダー、タロティストたるもの、あまりひとつの考えに固執するのは望ましくありません。

タロットというもの自体が、自由性をもたらすために作られているところがあると目されるからです。その象徴は「愚者」というカードで表されるでしょう。

ともあれ、せっかく自由性のためのタロットが、逆に私たちを束縛するものになっては本末転倒ですから、タロットの使い方・考え方についても臨機応変さが必要と言えます。(大アルカナナンバー1の最初のカードの「手品師」にも、それが示されています)

ですから、「そのようになる」と読むやり方も、時と場合によっては、採用すればいいと私は考えています。

その代表的なシーンとしては、

1 心配や不安がある時

2 期待や前向きな気持ちになりたい時

3 どうなるかを気持ち的に確認したい時

4 日本や世界情勢など大きなものを見たい時

5 占いエンターテイメントとして行う時

などがあげられます。

この列挙したものには、矛盾するものもありますよね。特に1と2です。まるで気持ちが正反対ではないかと。

しかし、これは、要は、気持ちがネガティブでもポジティブな意味でも「揺れ動いている場合」のことを言っているのです。

そのような時は、「このようにする」という読み方ができない心理状態があるのです。従って、「どうなるか?→こうなるのでは?」とタロットにお伺いを立てるみたいに見るわけです。

ただし、この場合は、もともと気持ちが不安定(揺れ動いている)と言えますから、タロットを引く(展開する)ことにより、かえってわけがわからなくなったり、ネガティブな意味合いのカード展開が出たりして、まずいケースもあります。藪蛇状態ですね。

例えば恋愛問題で悩んでいて、「あの人との関係はどうなるんだろう?」とカードを引いたら、悪い結果になりそうだと出た、というような場合ですね。

タロットの展開法によっては、(予想される)結果だけではなく、解決策や打開策を出すやり方もありますから、最初からそうした展開法を採用してやってみるのが、落ち込みを防ぐひとつの方法ではあります。

とはいえ、人間心理としては、「気になるものがどうなる(どうなっていく)のか知りたい」という思いもありますから、それに応えることも悪いわけではなく、結局、その趣旨(タロットを展開すること)は、「気持ちを落ち着かせる」ことにあると見て、そのためなら、状況の推移や結果を占ってみる、どうなるかタロットに聞いているという態度はありだと思います。

言ってみれば、喉が渇いている人に、食べ物より、まずは水を与えたほうがいいということです。

それから、タロット展開では、正立・逆向きで、ポジティブ・ネガティブとか、いい・悪いを見る場合があります。

「どうなる」という読みでは、結構、それが採用されていることがあり、平たく言えば、逆向きが出ると悪いことが起こるみたいな見方になるケースがあります。

となりますと、タロットを引いたがために、(逆位置が出るなどして)心理的に逆効果になったということもあり得ますから、最初から正立だけでタロットを展開したほうがよいかもしれません。特に「どうなる」という読みをする場合はです。

あと、4にあるような、大きなものの流れとして「どうなる」の読みを適用することができます。

個人レベルでは具体性があったほうがいいですし、具体的に読みやすいところがあるのですが、やはり範疇が広いもの、全体的なことは、抽象的になりがちで、でもだからこそ、「どうなる」的な読みで、ざっと見て行くとよい場合があります。

そもそも、大きなものでは、「どうする」としても、自分一人の力ではどうにもならないことが多く、それならば「どうなる」と読むほうが実際的とも言えましょう。

もちろん、「自分として、世界に何ができるのか?」みたいに、個別レベルで「どうする」的な読みができないわけではありませんが。

最後の5は、遊びとして割り切って、「どうなる」的な占いをしてみるという話です。基本、遊びなので、何が出ても深刻にはなりません。また、タロットの出た通りになるとも限らないという、冷静さを保つこともできます。

いずれにしても、遊びとしての5以外は、「どうなる」的な方法と読みは、何度もやり直すことはお勧めできません。

こういうものは、一度限りの「お告げ」的なニュアンスがあり、本来は神聖な神からのメッセージみたいに扱うところもあるのです。(そこまで神聖ではなくとも、タロットの精霊に感謝しながら伺うみたいなものでもあります)

従って、何度も聞き直すようなことをしていると、人間関係でも想像していただいたらわかるように、「うざい」し、「迷惑」で、「腹が立つ」(苦笑)ように(タロット側では)感じられてしまいます。

ですから、(同じ問いを)やればやるほど、おかしなことになってきます。普通に考えても、何度も繰り返すと、どれが本当か、どれを信じらればよいのか自分でもわからなくなるのは当然でしょう。

ということで、「どうなる?」については、その時一回だけ行うのがよいです。ただ、状況が変わったり、期間がある程度過ぎたりすれば、同じ質問をしてもよい場合はあります。

注意しておきますが、本来は「どうする」の質問、読みのほうが理想なのです。

「どうなる」ばかりやっていると、自分で状況をコントロールしたり、変化を起こしたり、解決させていく力が失われて行きます。結局、弱い自分をますます弱くし、悩みをますます深くし、依存状態を作り出してしまうのです。

大げさに言えば、タロットの使い方が人生を決めてしまうこともあるのです。(タロットを使う人の場合)

それから、気持ちが混乱して自分リーディングが難しい時は、他人に見てもらうのがよいので、上記のことに注意しながら、頼れるタロットリーダーとか占い師に依頼するとよいでしょう。


家族、人間関係、タロット、力

タロットカードの象徴性の力は、一般的な意味での「象徴」(抽象的のものを形や図などで表すとか、比喩的に見るとかの意味)とは別のものがあります。

それはまさしく、「力」と言っていいもので、マルセイユタロットの大アルカナにも、「力(フォース)」というカードで直接表されています。

余談ですが、フォースと聞けば、映画スターウォーズを知っている人ならば、その言葉は聞いたことがあるはずで、そこで描かれている“フォース”は、いわば、このタロットが示している「フォース」の映画的(エンターテイメント的)表現と言ってもよいと思います。

今回はフォースが何かについて語るのではなく、とりあえず、タロットには象徴的な何かの力が宿るみたいな話です。

マルセイユタロットの、中でも大アルカナと呼ばれている22枚のカードたちは、わかりやすい絵柄になっており、まさに象徴としての機能が明確です。

象徴機能としては、個人的にはほぼ万能であると見ていて、あらゆることをカードで表す(理解させる)ことができると考えています。

従って、マルセイユタロットを学習することは、とても物事の理解、把握、整理に役立つことは確実で、さらに言えば、普通のことだけではなく、いわゆる見えない領域(心とか霊的なこととか)にもそれは及びますので、何倍もの価値があります。

さて、私たちの悩みには、いろいろなものがありますが、その中でも人間関係というのが、大きな位置を占めています。

人間関係の悩みを解決するには、タロット的には「愚者」(自分軸の自由の象徴)になるのが一番なのですが、そうなれないから皆さん、悩むわけですよね。まあしかし、今日の本題とは、ずれますが、日本人の場合は、特に自分中心(自分自身を大切にする)考えと行動をもっと取ると、楽になって、人間関係的にも悩みが少なくなる気はします。

話を戻します。

人間関係の悩みの根本的な要因になっているもの、または原因のパターン(型)になっているもので、自分の家族があります。つまりは、自分が育ってきた家族環境や構成、その力学的なものの関係(による影響)です。

それが身の回りの社会の人々(関わる他人)にも投影されて、父や母、兄弟・姉妹のような感じ(対応)で、無意識に自分がふるまってしまうわけです。

それには単なる好き嫌いの感情のレベルもありますし、自分が意識(自覚)できていない部分での、様々な感情・思い・ルール・トラウマのような深いものもあります。

それらが、全部とは言いませんが、やはりひとつの反応パターンとして、対人関係に出てしまうわけです。

そして、知らず知らず、自らで自分の家族を再現し、かつてあった問題性や反対の心地よさを別の人にあてはめようとして、何らかの心理的調整を他の人間関係で図ってしまうということになります。それが問題として生じることもあるわけです。

そこで、タロットの、特に大アルカナを家族の象徴として見立て、関係性を客観視し、偏りや思い込みを浮上させて、カードの世界で修正してしまうことにより、家族から発生させていた、現実の対人的(人間関係)問題を変えていくことが期待できます。

ただ、これには、カードを学び、象徴を単なる思想的なものでなく、本当の力・フォースとして扱う必要が出てきます。

ファンタジー的な言い方をすれば、タロットカードと世界がつながって、カード自体、一種の世界(環境)操作のパネルとなるというイメージです。

周り(世界)のことをタロットにあてはめるのではなく、タロットのことを世界にあてはめる作業と言え、普通の見方(方向性)とは逆になります。

別の言い方をすれば、タロットの象徴世界をリアル空間の情報とリンクさせ、ほとんど同じ感覚にするということになります。

多分に魔術的でもありますが、比較的ライトな段階では、心理レベルで扱うことができ、そのレベルにおいては安全と言えます。(逆に魔術レベルまでにしてしまうと、それ相当のフォースの扱いの訓練がいり、サイキック的影響の懸念もあり、下手に介入するのは危険です)

こう書くと、まるで事象を変えるためにタロットを使うみたいな怖い印象・イメージも出ますが、それはその通りで、タロットと外の世界が同じ次元と情報レベルとして同調させることができると、おそらくそのタロットを扱う人は、かなりの度合いで、自分の望み通りに世界を変えていくことができるでしょう。

※ただ、実際の世界が変わるというより、あくまでその人の世界観が変わる(そのように感じ、見えてしまうようになる)と言ったほうがよいでしょう。とても主観的な世界の話なのです。

まあしかし、そこまでできる人は、先述したように、それなりの訓練、修行が必要ですし、そのような目的(利己的な願望実現)でタロットを使うものではないと私は考えます。

とはいえ、タロットが実際的な力としての象徴性があることを知ると、カードというのは絵空事ではなく、現実と世界に影響を及ぼすことができるものだとわかってくるでしょう。ただし、何度も言うようですが、その扱いには注意が必要ですし、技術的にも難しいところがあり、単にタロットをやっているだけで、そのようになるわけではありません。

ともあれ、家族関係について、カードで象徴させて、それを見直していくという作業が、一般的に自分の人間関係の修正や改善につながっていくという話です。

この反対の、まず人間関係そのものをタロットで見て(象徴させ)、自分の家族などの関係性・力学的なものに実際に入って行く(気づきを得て行く)という修正方法もあります。

これはむしろ、タロットリーディングとかタロットの活用のノーマルな方向性と言え、普通に多くの人(タロット使用者)がやっていることでしょう。

マルセイユタロットの研究家・実践家としても知られている、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、家族療法をタロットを使って施しており、それを実際に私も見たことがあります。

氏はまた、独特のサイコマジックという手法で、人の心理的・サイキック的な悩みや問題を癒していますが、それもある種の「力」としての象徴を行使しているのだと見ることができます。言ってみれば、魔術の原理と、とても似ています。

要するに、実際的な力として影響が出る「象徴」なのか、単なる文字とか思考においての比喩、言い換え道具のような「象徴」なのかの違いというわけです。

タロットの場合は、その両方で扱えるわけですが、特に「力」をもった象徴になるということでは、ほかのもの(ツール)とは大きく異なるわけです。

しかしながら、その力も、結局は、タロットというものを自分の中に落とし込む程度によりますし、つまるところ、タロットをどこまで信じるか(リアリティを持つか)にかかってきます。(妄信ではない信念です)

漫然とタロットをやっていてもダメですし、また占いばかりになって、「〇〇になる」というような、託宣を受ける受動的な態度が固まってしまうと、「力」との関係はできず、逆に世界の情報に自分が操られる(環境や他人側のフォースに屈する)ことになります。


リーディングの能動・受動

この世界の表現には、大きく分けて、ふたつの方向性があります。

それには様々な言い方があるとは思いますが、シンプルに「能動性」と「受動性」と言っておきます。

タロットを誰かのために読むということにおいても、この能動性と受動性が働きます。

読む、つまりリーディング行為自体は、「読む」わけですから、タロットリーダー(タロットの読み手)の立場からすれば、能動的なものとなります。

しかし、受け手側(相談者・クライアント)は、文字通り、受動的な立場にあります。

マルセイユタロットにおいては、タロットの読み手、タロットリーダーを大アルカナで例えることもありますが、一番多いのは、「斎王」(タロットの通常の名前では「女教皇」とされるカード)かもしれません。

この「斎王」とセット・組になる存在が、「法皇」と考えられています。

タロットリーダーの例え(象徴)としての「斎王」は、確かに本のようなものを開いていますが、言葉や口で伝えている風ではありません。むしろ、黙して語らず、みたいな印象があります。

そういう点では、「斎王」は受動的と言えましょう。仮に「斎王」の手にしている本がタロットであったとしても、それを見ている、受け入れているだけで、その内容を他人に口頭で伝えているようには見えません。

もしかすると、「斎王」は神殿のような場所にいて、そこを訪れた者にだけ、神託のようなものを告げている存在にも見えます。(古代ギリシアなどの、神託の巫女のような存在がイメージされます)

いずれにしても、「斎王」は受動性がメインで、もし「斎王」から何かメッセージがほしければ、彼女に会いに行くという、私たち側からの能動性が必要となります。

一般的に「斎王」のカードが出れば、その絵柄や性格の通り、受動的な態度、受け入れ、学ぶような姿勢が示唆されます。

しかし、今述べたように、「斎王」そのものは受動的であっても、その「斎王」の能力や知恵を引き出すには、自ら(こちら)がアプローチをかけないといけないという意味で、逆に能動性とか行動が要求される意味合いも出るかもしれないのです。

一方、「斎王」と組の人物と考えられる「法皇」においては、その絵柄から見て、口頭や言葉で人に伝えているように見えます。ですから、能動的です。

ただ、これも「斎王」のパターンのように、逆の立場を考えることができます。

「法皇」が“語る人”ならば、その語りを受動的に聞く者たちがいるはずです。事実、「法皇」の絵柄には、そういった弟子とも思える人物が描かれています。

「法皇」は一般的タロット名ては「教皇」と呼ばれることもあり、やはり、タロットは西洋文化・キリスト教の影響もありますから、ローマ法王的教皇として宗教的権威を示す人物像の印象も出ます。

すると、教皇様が語るわけですから、(特に教徒として)いいかげんな気持ちでは聞くわけにはいかず、心して静かに態勢を保っておく必要があるでしょう。いわば、神聖な気持ちで、襟を正して聞くみたいな感じです。

そのようなことが求められているとすれば、「法皇」が出たからと言って、伝える、話すなどの能動的な意味だけではないこともわかり、反対の、受動的な意味も生じるのです。

このように、タロットは当たり前ですが、ひとつの意味だけで固定されるものではなく、また、この世の表現である能動と受動(の読みや意味)が、立場を入れ替えることも含めて、存在するということです。

さらに言えば、カードの読みそのものにおいても、能動と受動はあり、「出たカードのことになる、なっていく」という受動的な読みと、「出たカードのように働きかける、その実現のために動く」という能動的なものがあります。

簡単に言えば「なる」と「する」の違いです。

例えば、「13」という数だけのカードがマルセイユタロットの大アルカナにあります。

このカードは、ほかのタロット種では「死神」という名前がつけられ、絵柄からも怖がられるカードです。

もし、上記のような能動と受動の二種の読みを適用すれば、「死神」となったカードでは、どうしても、その名前と印象に引っ張られ、「なる」、つまり受動的な読みをしがちでしょう。すなわち、何か不吉なことや悪いことが起こるという感じの読みです。(マルセイユタロットの「13」の場合は、そもそも悪い意味で見ることはあまりありませんが)

しかし、「する」という能動性で読めば、ネガティブなことよりも、ポジティブとまで言いませんが、「何かをする」ということで、積極的な読みと意味が見出されるでしょう。

仮に「死神」という名前や意味を踏襲しているカードであっても、不吉から避ける、逃れる、打破する、変えるというような能動的・行動的意味合いを見ることができるかもしれません。

これはどちら(の読み)がいいとか悪いとかを言っているのではなく、能動性・受動性の表現を考慮して、「なる」「する」の二つの見方や、カードの人物から「される」、カード人物が「する」というような二つを思って、幅広い読みを心がけるといいですよというお話です。

今はタロットリーディングの話に絞っていますが、実は、この能動・受動の話は、もっと霊的な観点のことにつながっていきます。

それはまた別の機会にて。


自立には他者の助けと受け入れも必要

ブログを再開して、主題的には、自立(霊的な意味を含む)ということを底流にして記述しています。

しかしながら、逆説的になりますが、自立には他者の力も必要だと言えます。

何もかも自分でできればいいのですが、そういうわけにはいきませんし、自立していく過程には、人(やモノ・制度等)に頼ったり、助けてもらったりしなくてはならない場合も多々あります。

いや、むしろ、それが普通で、王道なのではないでしょうか。

人の一生を見てもわかります。生まれた時は赤ちゃんで、誰も一人では生きていけません。親の力、または世話をしてくれる人がいてこそです。

これは精神的な面でも、さらには霊的な面でも同じだと考えられます。

精神的な面(自立に向けてのプロセス)については、多くの心理系の方が語っているので、もはや言うまでもないとは思います。

それで、あまり言われないのが、霊的な面でしょう。

おそらくここがはっきりしていないので、下手なスピリチュアルにはまり、余計に(霊的な)自立が遅れ、依存性や停滞、あるいは幻想に囚われてしまう事態を生み出してしまうのだとも考えられます。

ここでいう霊的な面(霊性)とは、英語的に言えばスピリチュアル・スピリットということではありますが、わかりやすく言えば、体と心も含むトータルな面・本質の自分と言えましょう。

日本人的には魂・霊という言い方となります。(厳密には魂と霊は違うものとも言えますが、便宜上、同じようなものとしておきます)

霊性・スピリチュアルとは、目に見えないことや、不思議なことを言うのではありません。世間でいうスピリチュアルという言葉には、悪意も含まれており、それに関心を持つ人・はまる人を軽蔑のまなざしで見ている言い方となります。

ですが、それは依存性をもったライトスピリチュアル(自我の願望・欲求を叶えるため、あるいは、嫌と思っている現実から逃避する方法やその世界)のことで、本当の霊性・スピリチュアルとは異なります。

マルセイユタロットで言えば、最終的には「世界」に象徴される境地に達するものと言えますが、別の表現では「神の家」を構築することとも言えます。

マルセイユタロットにおける「神の家」は、ゆるぎない堅固な建物を建設・完成していくことの象徴性があります。

描かれている天からの光は、その構築された建物(ゆるぎない自分自身)ができて、天から降りて来る(あるいは自分が流入させる)神の意識・エネルギーのようなものです。(大いなる自分自身(宇宙)を自我が受け入れるようなもの)

しかし、そのためには、マルセイユタロット的に言えば、15のプロセス(「神の家」は16なので)が必要となります。

それらは、言わば、「神の家」に積み上げるレンガのようなもので、一朝一夕には築き上げられるものではありません。

物質的にも精神的にも、何かを強固にするためには、何度も繰り返し、固めていくことが求められます。

このように、霊的な成長においても、ひとつひとつプロセスを経て、それを自覚(自分のものとする)ことが大事だと言えるのです。

結局、すべて同じ型のようなものがあり、現実(物質)だから、精神だから、スピリチュアだから、目に見えるから、目に見えないから・・・という区別があるわけではなく、どの分野も本質的には同じなので、それがわかれば、無駄をことをしたり、回り道に誘惑させられたりすることも少なくなるということです。

さきほど、霊的なこととはトータルなことだと言いました。

ですから物質(現実)も精神(心)も含んで「霊」(の全体性)になるわけで、実際の経験・出来事とそこから生じる心のとらえ方、感じ方なども、すべて「霊」の体験と言いますか、霊(の成長・完成)につながっていくわけです。

逆から言えば、霊的(スピリチュアル的)な成長・発展は、現実やモノ、心を無視したり、切り離したりして進むわけではなく、全部関連するので、ひとつひとつ対応していくことが重要になるわけです。

言い換えれば、現実や自分(の心も含めて)としっかり向き合うということです。

逃避的にとか、欲求をかなえたいとかの意味で、スピリチュアル(この場合はライトスピリチュアルになりますが)に関心をもっても、目に見えない領域の神とかパワーとかで何とかなると思い、受動的(時には依存的)になって、本当の意味での霊的自立から遠ざかってしまうことになります。

とはいえ、最初に述べたように、そんなことはわかっていたしても、人は現実の生活で悩み、苦しみ、迷う存在です。

だからこそ、実は神なる次元・レベルからすると(これも便宜上、神と表現しています)、この私たちの通常認識の現実世界において、救済過程を用意してくれているのです。

それが他者の力を借りる、援助してもらういう意識と実際の効力です。

私たちは無力感にとらわれてしまうことがありますが、それは、自分の力が足りないという不足感、劣等感のようなものに起因しているところがあります。

この世は、人と比べてしまう、ある意味、不公平な世界です。

誰一人として同じ人はおらず、だから他人と比較して、反対に自分という個性、アイデンティティを自覚する仕組みになっています。全員が全く同じなら、それは個性のない(自分と他人の区別がない)世界ですから。

これが悩みの原因にもなっていますが、一方で、同じ人はいないのですから、逆に、自分の問題は自分では解決できないところも当たり前に生じることになります。

自分とは違うのが他人ですから、自分で無理な場合、誰かほかの人ならば解決してくれる可能性が高まります。

このように、実のところ、この世は助け合いが必須と言える構造になっています。

一方で、スピリチュアル・霊性の(ひとつの)完成には、自分の完全性(神の性質は完全性)を認識するということが求められます。

しかし先述したように、この世は一人一人が完全ではないので、ほかの人の助けで補い合うということが必要になります。

霊的に一人の完全性が求められつつ、不足ある自分を常に現実では思い知らされるこの世で、この矛盾を統合(理解)していく智慧・認識が生まれた時、次元が上昇し、世界(現実)は大きく別のものへとシフトするでしょう。

それは自分の不足感・不完全性の経験をして、他者と補い合う体験をし、自分と他者の間に不変と普遍のもの(言葉では愛と言えます)を見る時、完全性のヒントが生まれると言えましょう。(ちなみに、これはマルセイユタロットの「恋人」カードに大きく関係します)

簡単に言えば、よくスピリチュアル系の人が言うような、自分=他人みたいな感覚の想起です。(本当は感覚ではなく、高次の思考というべきものに近い)

ただ、それに至るには、自分(たち)の不足感を味わい、自分だけではできない経験もし、他者から素直に助けてもらったり、逆に自分ができることで、他者をサポートしたり、そういう交流をしていくことで、完全性が何かということを次第に知って行くことになるのだと考えられます。

また別の記事でいずれ書きたいとは思いますが、今日言いたかったのは、霊的(トータル)な自立のためには、現実や心と向き合う必要もある反面、自立の過程として助け合っていくところもあり、一人で悩み、苦しんでいても、余計つらく、迷路に彷徨うことにもなるので、助けてもらうこともありだということなのです。

単純な自己責任論に終始したり、現実や自分自身と向き合えと強く言われたりしたところで、不足感のある状態(自信がない、自分なんて取るに足らない者だと思うなど、多くの人は程度の差こそあれ、そう思う時はあるでしょう)では、余計につらくなるだけで、逆に依存性や逃避性を高めてしまうおそれもあるのです。

弱い段階の自分がいきなり強くなれるわけではありませんし、人には個性があるので、同じ体験でも、へっちゃらだと感じる人もいれば、心が折れてしまう人もいます。

ですから、自分を必要以上に貶めず、できない自分、弱い自分を責めず、そいう個性段階(自分固有の基準で見る、成長していく段階や過程)にあると思い、でもあきらめずにコツコツと、できることからやっていき(あれもこれもと完璧を思わず、本当にできることだけにまずは集中する)、助けを受けられるものは広く利用していくということも(ただし特定のものに依存せず)、結局それが、自分自身の救済と自立への過程になっていくということなのです。

今悩んでいる人は、せめて、物事をバラバラに考えるのではなく、すべてはつながり、トータルな意味で起こっているという姿勢を持つといいでしょう。そして、行動は逆に全部を考えず、自分が今できる簡単なことからやっていくのがよいです。

言わば、心はトータルに、行動は分けてという感じです。

トータルに見ていくと、つながりの糸が少しずつわかってきて、まさにスピリチュアル・霊的な意図としての自覚も始まり、現象としての物事(あなたが経験している事態)も変わって行く(やることもわかってきますし、シンプルになっていく)のです。


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