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直感と論理(思考)の選択 どちらがいいのか?

今日は「選択」ということをテーマに書きたいと思います。

マルセイユタロットでも「選択」を表すカードは複数ありますし、言ってみれば、どのカードも選択においては重要なものばかりです。

よく言われる選択の要因・根拠としては、直感か論理(思考)かというものがあります。

平たく言えば、心の選択か頭の選択かということになりますよね。

まあ、最近の傾向としては、直感選択が推奨されたり、直感で生きるのが幸せの方法と言ったりされるのをよく見かけます。

あまりにも頭や思考・論理で凝り固まって、素直に選べない人が現代社会では少なくないからでしょう。情報が多すぎて、何を選択すればいいのか迷ってしまうという環境も影響しているのかしれませんね。

また男性的な論理での押しつけがましさに嫌気や疲れが出て、女性的な直感力を取り戻したい、その選択のほうが自然だという気持ちになっている人もいるでしょう。直感重視の生き方に変えて、楽になったり、幸せになったりしている人がいることも事実としてあります。

いずれにしても、どちらかに偏りすぎての選択は、過程においても結果においても、何より自分自身が納得できないものとなり、どこか違和感があるものです。

ということで、論理の選択だろうが、直感の選択だろうが完璧はないわけで、究極にいえば、どちらも当たり前に実は使っていて、どちらの選択の結果であっても問題はないと言えます。

問題にしているのは、自分の価値観や幸福感、快・不快による反応のようなものであり、選択に悩むのも一種のゲームだと見ることもできます。

ということで、近頃よくいわれるような「直感で選ぶ」ことだけが万能(全て)ではないわけです。

また、「直感で選ぶ」ということを勧める場合でも、注意が必要な場合があります。

それは、結局「正しいのはどっち?」「正解はどれ?」という○か×、正誤観点で直感を使おうとしたり、重視したりしようとする態度です。

これは、自分の「ある価値基準」を入れて評価や判断をしようとしてるわけですから、直感のようでいて論理に近いと言えます。

あと直感は好き嫌いに化けることがあり、逆に論理は損得勘定で見ているようなことがありますので、これも注意すべき点です。

でも、このことは実は直感や論理(の選択や統合)を向上させるのには、よい観点にもなります。

例えば、「直感」というのは、実は次元を低くすれば、「好き・嫌いレベル」なんだな~と思うことができますし、だから逆に、まずは好き・嫌いでの選択から入ると、直感センサーを磨く入り口になるのだと気づくことができます。

自分がそれが好きなのか嫌いなのか、好きなほうを選ぶ、嫌いのものを選ばないということでさえ、できていない(わからない)人もいるからです。

それから論理も、先ほど言ったように、結局なんだかんだ言っても、自分が得になるか損になるかで選択しようとしているとわかれば、じゃ、その損得というのは、お金なのか?気持ちなのか?いったい何なのか?ということを突き詰めれば、自分がとても大事にしていること、いわゆる自分の重要な価値観というものを改めて発見できることになります。

すると、選択に迷っていたものも、その自分の置くもっとも大切なポイントさえ見極めれば、自ずと選ぶものは決まってきます。

例えば旅行の行き先で迷っており、あなたがお金に最も価値を持っているのなら、すべてお金に換算(ルートとか時間の価値も)して、もっとも効率のよい(少ないお金で満足度の高いと考えられるもの)を冷静に判断することができます。

景色や行き先よりも、食事のおいしさに最大の価値を置いているのなら、そのポイントの選択が鍵となります。(この場合は、旅に行くことそれ自体さえ、変更されることもありえます)

あと、直感で選ぶ場合でも、結果が自分に得になるか損になるかの視点で選ぶとなれば、直感は本来の直感でなくなることもあります。

まあ、直感選択でのスムースさを表したければ、結果を気にしないようにする選択過程がいいと思います。

人には個性があり、育ってきた環境や、学習し蓄積してきたデータもあります。気持ちだけで選択できるものではありません。

「子供のような気持ちで選ぶ」と言ったところで、あなたが大人であるならば、その年数経験は身体的・感情的・霊的機能からしても、子供とは異なるところがありますので、あくまて例えや比喩としての「子供」と考え、子供にはなれないことは自覚しましょう。

そもそも子供が全員素直で純粋というのも幻想であり、世界観や価値がまだ子供それであるというに過ぎません。

子供はまだ発展途上にあること(経験未熟ということ)、またいい意味でいうと、社会的判断を入れずに選択できること(本能的であるということ)、霊的にいえばまだ完全性から不完全性ゲームの世界に移行しきっていない子供がいることによって、神のような選択ができる場合があること、それから大人のように条件的に複雑なこと(たくさんの配慮)を考えずに済むので、たまたまシンプルな本質的選択ができる場合があることで、大人とは異なるように見えるのです。

直感と論理に戻りますが、このふたつはバランスではあるのですが、先述したように個性・タイプが人にはあり、そのバランスはフィフティ・フィフティなどという単純なものではありません。

さらに、直感や論理(思考)においてもレベルの上下(高い低い)がありますので、低い思考は普通レベルの直感より劣って、反対に低い直感は当たり前の思考論理に太刀打ちできないこともあるのです。

結局、「選択するということ自体を味わう(それが現れているすべてのことの)経験」が重要なのだと思います。これはマルセイユタロットの「恋人」カードに描かれている内容でもあります。


リアリストとロマンチスト

先日、京都でタロットの受講生の方々とともに新年会を行いました。

その時に語った内容の一部を、ブログ記事に書き換えて、ご紹介したいと思います。

それは、今回のタイトルにもあるように、ロマンチストとリアリストということがテーマです。

言い方を換えれば、理想主義と現実主義みたいなことですが、厳密な英語の意味でのそれではなく、和製英語と言いますか、もっといろいろな意味を含めてのふたつを表しています。

ロマンチストとは、まさにロマンや夢があったり、ちょっと普通ではできにくいようなことをしたり、語ったりする人をここでは言うことにします。

逆にリアリストとは、現実的に物事を考えがちな人、実際やリアルなこと・結果を重視する人、普通やルールに従って生きることをよしとする人、またはそうなってしまう傾向の人などとします。

さて、このところ、自分らしく自由に生きるということが、とみに叫ばれています。

やはりこれまで画一的で、生き方の選択肢もそれほど多くなく、自己表現や個性を発揮することが許されなかったり、自分そのものを追求しなくても良かった時代があったりしたことの影響があると言えます。

しかし現在、ネット社会の普及によって、個性ある生き方、意見、主張もどんどん発信されていくようになってきました。社会そのものが大きく変化してきていることも挙げられます。

そうして、今まででは考えられなかったような仕事や職業、生活スタイルを実践している人、目から鱗のような思想、新鮮であこがれるような考え方と行動というのが、人々の目にふれることになりました。

その結果、世の中のリアル(現実感覚、重要と思う実際の価値)というものが揺らぎ始めました。

つまりは、これまでの常識が非常識であったり、非常識と常識の境目がなくなってきたりしているわけです。

このことで、感覚的には夢か現実かの区別がつきにくくなるとも考えられます。

ここでいう「」とは、夢想・幻想的な、例えば夜、私たちが見る夢のようなものではなく、いわゆる「ドリーム」としての夢、希望や願望、理想として思い描くイメージみたいなものと思ってください。

現実と夢との境目があいまいなネットにおいて登場する人物たちは、現実の人物ではあるでしょうが、この人たちの見せるものは、現実ではないのかもしれないのです。

とはいえ、全くの嘘やデタラメでもなく、それどころか、きちんと実在している人が、実績や結果を残している場合も多いわけです。

そこで、人々はロマンを思いながらも現実感を持ち、「ああ、こんなスタイルで生きている人がいるんだ」「こんな仕事ができるんだ」「こんな方法で成功している人がいる」「この人のような考え方や生き方だと楽になれる」「幸せはこんな感じでつかめるんだ」・・・と思うわけです。

自分たちがネットで見ているものはすばらしいものであり、そこにはロマンがあると感じます。

ロマンを見せている(魅せている)人たちは、たいてい既成の枠からはずれ、思い切った考えと行動をしています。そこは魅力的であり、あこがれる要素でもあるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、そのような人たちは「愚者」です。

「愚者」は型にはまらず、自由であり、楽天さをもった、普通の人にとっては一種のロマンの存在と言えましょう。

一方、ロマンを見せられている側は、多かれ少なかれ、現在の生活やスタイルに、不満や未熟性(もっとよくなるという思い)を抱いていることでしょう。

そうでなければ、人のことでロマンを感じることは難しいです。ですからロマンを生きていないという意味では、リアリストであるのです。

ただ、先ほど、ロマン性(夢や理想性)とリアル性(現実性)の境目が、特にネット社会ではなくなりつつあると指摘しました。

そう、リアリストである人たちも、ネットの情報洗礼を浴びているうちに、いつしか、自分にもロマンが宿り(復活し)、ロマンチストへと変貌し、ロマンを見せてくれる人の門下に入ったり、真似をしようとしたりします。

ところが、このロマンを見せてくれる「愚者」タイプの人たちは、もともと「愚者」気質を多分に持っており、型破りなことを平気で行えるところがあります。

こういう人たちはロマンチストではあるのですが、そのロマンは実はリアルなのです。

「愚者」タイプの人は、夢はかなうと本気で思っていたり、普通の人が夢やロマンのように感じるものでも、リアルに思ったりすることができるのです。

言い換えれば、ロマンのようなことでも、それを実現する可能性とその確信性を、広く強く持っているということです。

あるいは、もともと普通のタイプであっても(「愚者」タイプではない人)、ある事件や自己改革を経て、自分の中にある愚者性を目覚めさせたので、今は人(様)変わりしてる可能性も高いのです。

つまりロマンを見せている人は、ロマンチストのように見えて、実は当人たちの範囲では非常にリアリストであるのです。

またリアリストなので、この人たちの「現実」も、当人たちの思う(願う)状況を現出させやすくなっています。

しかし普通の人(普通のリアリスト)にとっては、ロマンはリアルではなく、あくまでロマンのままです。リアルと感じている(確信している)部分が、狭く浅いのです。(極めて常識的であるということ)

しかも、文字通り「ロマンチスト」であり、狭いリアルを生きながら、「いつかは脱出できる、変わる、救ってくれる」というような願望で、まじないのように何かをランダムに試したり、ただ夢を見ている状態の人も少なくありません。これはリアリストのようでいて、本当はロマンチストということになります。

しかし、だからと言って、ネットなどで活躍している魅力的なロマンチスト(実はリアリスト)の方々のようにならなければいけないというわけではありません。

実はロマンを見せている人の言いなりでは、普通の人(狭いリアルを生きている人)が、ロマンをリアルに変えること(実現すること)は難しい場合があるのです。

メーターでいえば、極端に針が振っている地点の人がロマンを見せている(魅せている)人であり、普通の人との位置の間には、結構な距離があるのです。

その距離をどうする(詰める)かが、非常に重要です。

ロマンは意志や行動力のエネルギーになりますが、ジャンプしても届かない距離の場合は、その距離を縮めるテクニックが必要です。

あこがれへのエネルギー(ロマン)だけでは、何度かチャレンジしているうちに、エネルギーを消費してしまい、飛び上がれなくなります。

ここでリアルな視点を入れます。

メーターの例えを出しましたので、それで続けますと、メーターの目盛りを刻むステップを取り入れるというのがひとつの方法です。

ロマンを見せてくれる人で、良心的な人ならば、そのステップをうまく指示してくれたり、導いてくれたりするでしょう。

または、目盛り移動やステップは、自分でコントロールすることも可能です。

ロマンのようなリアルを実現している人は、ロマンチストでありながらロマンをリアルと感じる力と範囲が大きいリアリストだと指摘しました。

マルセイユタロットに従えば、その過程(普通の人がロマンをリアルに変えていく道筋)も自然に描かれていることに気がつきます。

マルセイユタロットを知らない人でも言えることは、ロマンをリアルに、まずは心(思い方、考え方、感じ方)から変えていくテクニックと実践を行うことが鍵です。

何もしなくても、人生に起こる(経験する)大変な出来事によって、思考と感性は変化し、いい意味でも悪い意味でも変容します。

そのことで、人によっては、これまでのロマン(性)を、リアル(現実)に変貌させていくことがあります。ただそのリアルは、いいことも悪いことも含みます。

悪いことというのは、例えば、今までは思いもしなかった悲劇のパターン(不幸、不運、問題)を、自分が経験によってリアルに信じ込むようになり、それに現実感が出て、悲劇(と同じ性質もの)をまた実現させてしまうようなことです。

しかし、できればいいほうに変えたいですし、大変な経験をせずとも、意識的に学べばよいわけです。

そして精神や考え方がまずは重要ですが、次にはスモールな規模でも実践し、結果や成果を確認することも大事です。これは先述した「目盛り」を移動していくことと同意です。

要するに、「愚者」は「愚者」でも、まさに「愚か者」のような夢想的ロマンで動くのではなく、今あなたが感じているリアリティ(リアリスト的な要素)をロマンと融合させ、そのロマンをリアルと感じる力と実行力を拡大させていくことです。

簡単に言えば、意識の拡大と言えましょう。それは覚醒のステップでもあるのです。

マルセイユタロットで説明すれぱ、自分の中にある「愚者」にフォーカスし(それはロマンを見せてくれる人によって蘇らせることができます)、それを活性化させ、同時にカードでいえば、「手品師」や「皇帝」「吊るし」などの部分も重要視します。

狭いリアリティの範囲で生きている常識人(私たちのほとんどです)は、その意味で、「愚者」的精神と行動力が必要となるのです。とはいえ、一足飛びににロマンを目指すと、危険や欺瞞に囚われます。

ということで、「愚者」を目覚めさせながら、安全にロマンのリアル化を進めるとするならば、「できない」と思っていたことを、自分の今の現実の範囲内で、できると思うことに少しずつでも変えていくことだと表現できるでしょう。

一気にロマンチストになって、すべてがロマンになってしまっては問題です。マルセイユタロットでいう「悪魔」につながれる危険性もあります。

その(カリスマや「愚者」を色濃く表現できている人、先導的役割のある)人だからできている部分と、自分ができる部分と方法は、区分けしておくことも時には大切です。

誰も他人であるその人そのものになることはできませんし、その必要もありません。

なぜならば、究極的には皆同じでも、個性表現としては、一人一人全員違う存在だからです。(そのことに宇宙的価値があります)

そして人は皆、ロマンチストなリアリストであり、リアリストなロマンチストなのです。極端が似合う人もいれば、少しずつや、穏やかさが合っている人もいるのです。

「自分らしさ」で生きることは、自分の生きている実感と心地よさが多く感じられるものだと思います。

成功や幸せを求めている今の自分が、何だか苦しくして、つらい、腑に落ちない、違和感があるということは、自分らしく生きていると言えないこともあるわけです。

何かにならねばならないということを、肩の力を抜いてあきらめた時、光や答えは意外に出てくるものなのです。


20 「審判」 この日に思う

マルセイユタロットには「20」の数を持つ「審判」というカードがあります。

私は単純にタロットと数を結びつけるのは問題がある(タロットと数は無関係ではもちろんありませんが)とする考えをもっていますが、今回はたとえこじつけでも、意味を深められる可能性があるとして、「審判」と20の数を、あえて取り上げます。

と言いますのは、今日は1.17なのです。この日はあの、阪神淡路大震災が発生した日であり、被害に遭われた方、関係者を亡くされた方には、本当に特別な日です。

そして、今年はあれから20年に当たります。皆さん、様々な思いがあることでしょう。

ここで「20」という数を持つマルセイユタロットの「審判」を取り上げたのも、、20年という数の偶然もありますが、何よりもその図像の関係性です。

マルセイユ版の「審判」のカードは以下のようなもので、絵柄は天使と(聖)家族の姿で描かれています。

それは人々がまるで天に祈っているかのようにも見えますし、人が昇天しようとして、天使が祝福を与えているようにも見えます。

マルセイユタロットでは「運命の輪」というカードが持つ「10」の倍の数となって運命を乗り越え、「20」の「審判」で自身と次元が変容する様を象徴しているところもあります。

運命に振り回されてきた感のある「運命の輪」10年間くらいの状態から、「審判」というカードを見ていると、生きている人も亡くなられた方も、20年経過して、何かのレベルが上昇していく様のようにも思えます。

個人的な話になりますが、たくさんの方々が亡くなられたあの地震ではありますが、逆に私は地震によって生かされたところがあります。(詳しい経緯は省きます)

このように、地震の経験は大きな意味では共通ですが、一人一人実は違います。

肉親の方が亡くなられてずっとつらい思いをして、ご自分を責め続けている方もいらっしゃると思いますし、命救われて、恩返しの意味も込め、人一倍前向きに生きて来た方もいらっしゃるでしょう。

一人一人の経験と思いを、他人が本当の意味で理解することはできません。

しかし、一人ではどうしよもなかった思いも、同じ体験をした方々と分かち合うことで、苦しみが軽減されたり、生きる力を取り戻したりすることもあります。

また、救助に当たった人、ドクターやカウンセラー、ボランティアの方々・・物質的経済的に援助をされて来た方など、様々な「他人」によって救われきた部分もあるはずです。

そしてさらには、国や地方公共団体(公)、さらには各国など地球規模での援助、支援もあったことでしょう。

究極的には、おそらく、目に見えない力(宇宙や神のような次元からのもの)も受けていると思います。

個人個人の思いは先ほども述べたように、他人にはわかりませんし、一人一人の人生はその人自身のもので、他人がとやかくは言えません。

しかし、やはり人は一人では生きていないのです。災害時だけではなく、普段でも実は助け合って、支え合って生きていると言えます。

自分一人では救えない時は、他人や組織、最後は地球・宇宙的な範囲まで広げていくと救いがもたらされることがあります。

タロットに戻りますと、「審判」には天使が描かれていますが、ほかのカードに救済の意味を持つ「節制」というものがあり、これはまさに救いの天使の姿が中心に描写されています。

つまりは、タロットにおける「天使」の象徴は、救済的意味合いもあると考えられ(メインの意味はほかにもありますが)、私はこれを観音力のようなものと考えています。

20年を祈念する地震の報道でも、災害時における「自助」「互助」「公助」ということが言われていました。

まず自分を助ける備え、次に地域や身近な人が相互に支えられる助け合い的な普段からの活動、最後には制度や支援・仕組みなど、公による救済システムが求められるわけです。

スピリチュアル的なことで言えば、自らの観音力、関係の観音力、全体の観音力の発動と連繋だとも言えます。

「観音」も「仏」のひとつの表現と考えるならば、これを西洋のタロット風に言えば「天使」となり、それは神の一表現ということになるでしょう。

とすれば、自らを助けるためには、自らの神(仏)を目覚めさせることが重要だということです。

これもこじつけかもしれませんが、「地震」という響きが、自神(じしん)ということに変換されるように感じます。

先頃の東日本大震災でも、多くの尊い命が奪われました。

今、私たちは、自らの(内なる)神をもっと思い、目覚めさせる時期に来ているのではないでしょうか。

自神が現れる時、それは本当の意味での自身と自信にもなるのです。

一人では無理な時、協力してくれる人や自分に手を差し伸べてくれる人たちは、きっと周囲にいるはずですし、宇宙規模ではいつもあなたのそばに天使はいるでしょう。

一人だけで必死で頑張るのではなく、また自分の欲望だけを満たそうとわがままになるのではなく、時に人に任せ信頼し、時に自身(自神)を思って奮い立ち、自らをしっかりと生きることが重要だと改めて思います。

といっても、別に使命とか天命とか、特別なものがなくてもよいのです。また生きる意味がどんなものであっても、それは個人の自由でしょう。

喜怒哀楽含め、あなたが生きる実感を伴い、「ああ、地に人に天に生きている、生かされていると」思えれば、それでよいような気がしています。


「名前」の不思議

まずお知らせです。

今週末から始まる新大阪のマルセイユタロット基礎講座ハイクラス(あと残枠1名程度です)のほかに、気軽にマルセイユタロットを学んでいただく入門コースも、今月下旬から開講いたします。詳細は近日中に発表しますので、お待ちください。

さて、本日の記事です。

皆さんは名前について考えたことがありますか?

子供さんができて命名する時や、運勢について思った時に、姓名判断などで気にされる人もいるかもしれません。

私も、以前占いをしていた頃は、姓名判断について研究したことがありました。

以前にも書いたかもしれませんが、その時思ったのは、やはり名前は何か人生に影響はあるということです。

しかし、その後、またいろいろと考察してくる中で、結局、信じたものがその世界(それが通じ、影響する世界)に移行するという考え方に、今はなっています。

要するに、自分の確信次第だということですね。

とはいえ、名前の影響は無視できないものがあります。それは現実世界でも、人やモノの名前をまったく考慮せず生活することは不可能だからです。

当たり前ですが、誰しも名前を持ち、それを呼んだり呼ばれたりします。意識しないことはないわけです。

ですから名前を意識する限り、名前からの何らかの影響は受けるはずです。

まだ厳密にはわからない部分は多いですが、名前からは「音」が発生しますから、その音の波動が作用することも考えられます。

画数、漢字の意味、これらも考えようによっては意味を持つものですので、やはり「意味を持つ」とする分だけ、「意味のある」ことになるとイメージできます。

タロットにおいても、カードの名前によって意味合いが変わることがあります。

もちろんタロットはカードの図像が基本ですので、その図像が名前を持つわけですが、いつしか逆転して、名前自体がカードの意味を規定してしまうこともあるのです。

例えば、マルセイユタロットとほかのカードでの一般的な呼び名が違うものかあり、それは本来、図像の違いから来ていることなのですが、その呼び名に慣れてしまうと、ほかのカードでも自分のカードの名前を当てはめてしまうことにより、カードの図像とは切り離して見るケースがあります。

ウェイト版を習ってそれになじんでいる方が、「塔」という呼び名でマルセイユ版の「神の家」を呼ぶ時、それはマルセイユ版の「神の家」ではなく、ウェイト版の概念での「塔」になってしまうことがあるのです。(その逆も当然あります)

「名は体を表す」ではないですが、もう名前に力やパワー、意味がこもっているようになっているのですね。

「神の家」が出たので、ついでに言いますと、神や悪魔などの超越的存在の真の名前を呼ぶことができれば、その力を得たり、そのエネルギーを自分のものとしてコントロールできたりすると言われます。

それほど名前は重要でもあるのですね。マルセイユタロットの「13」のカードに名前がないのも、ひとつには、そうした名前の力に関することがあると言われます。

ところでタロットの世界とコンタクトするための瞑想法がありますが、そのイメージの世界で、タロットカード自身が名前を述べることがあります。

それはいわゆる「皇帝」とか「審判」とかの一般名ではなく、カード自身の持つ名前であり、それは瞑想者個人にとっての重要な鍵となる言葉(名前)でもあるのです。

それゆえに、一人一人、カードの名前は異なりますし、時によって名前自体変わることもあります。

さて、ここで話を変えますが、名前にまつわることで、面白い見方を披露しましょう。

それは、過去、自分に関わった人の名前を挙げていくというものです。

特に友人とか恋人(片思いの人でもOK)とか、先輩・上司、後輩・部下とか、先生とか、とにかく強く自分に影響を与えた人の名前を思い出します。

すると、ある共通点を見つけることができるかもしれません。

不思議と似たような名前だったり、漢字は違っても同じ「音(オン)」だったり、明らかに数種類のパターンに分かれていたりするとか、そういうことに気がつく事があります。

それから地名とか出身校を遡ってみてもよいです。それぞれ全部の校名とか地名とかではなく、その最初の1文字とか終わりのほうの文字とか、目立つ文字とか拾っていくと、漢語的な意味ある文章のようになることがあるのです。

偶然といえば偶然のようですが、この世に偶然はないという考え方も一方ではあります。

そこから自分の生きている道筋、大きな方向性、天の意志のようなものが見えてくることもあるわけです。

名前とはやはり、不思議なものなのです。


食べ物問題に対する、ある視点の一考察

最近に始まったことではありませんが、食べ物の問題について、また話題になっていますよね。

とあるハンバーガー店とかのあれです。

もちろんセンセーショナルに報道する過剰なマスコミのやり方にも問題はあるのでしょうが、私個人としては、事の本質は、また別にあると考えています。

それは、タロットを展開したり、タロットを通じて感じたことからというのもあります。

そこで思ったのは、まず怒りや悲しみなどのネガティブな思いが根底にあること。

次に日本人の戦争体験も実は影響しているのではないかということです。

怒りや悲しみについては、書き出すとあまりに長くなりますので、あえて単純にしますが、今、時代の大きな変革点にあたり、これまでの常識や方法が通じなくなってきたことから来る「ねじれ」のようなものが、人々の個人意識の中にもあり、また新しいものに対する「抵抗」もあって、そこから怒りや悲しみは現れているように感じます。

要するに、頑張ってはいるけれど報われないとか、変わろうとしているけれどうまく行かないとか、何をどうやればよいのかわからないというような「不安」と「恐れ」が、「怒り」にも変貌しているということなのです。

そしてつまるところ、その怒りをぶつけやすい対象や話題に向けて、そのエネルギーを放つことになります。

それで、ここがもっとも重要と言いますか、要点になるのですが、その怒りを向ける対象が、身近で自分が「上に立った」り、「物言える立場」だったりできると自分が思っている状況で、それが顕著に現れるのです。簡単に言えば、「お客さん」である時です。

ですから、怒ったり、悲しんだりしている本当の対象に向けてではないことが多いのです。

まあ、言い方を換えれば、「何だか許せない!」というような感情が、自分がモノ言えそうだと思う立場の時に、過剰に表現されるということです。

もちろん全部が全部そうでなく、きちんとしたクレームというのもありますよ。

あと、これはたぶんあまり言われないことで詳しくは今回は述べませんが、タロットカードにもある「正義」の天秤のバランスの揺り戻し(調整)があり、人々の心の中に、「自由と正義」ということでの葛藤と、真のバランスを回復させるための働きが起こっているということです。

そのためには、強い「正義」の剣が振るわれることもあるのです。

これは「正義」への試練とでも言っていいかもしれません。

現象として、人や企業、社会を苛烈に批判したり、責めたりするようなことで現れ、また逆に、「許し」を大きく掲げて、広げてみせる場合もあります。

どちらがいいというのではなく、あくまで真の正義に戻るための表現なのです。

といえば、マルセイユタロットを知る者ならば、ようやく次元が変化してきていることを絵図で確認することができるでしょう。

さてもうひとつ、戦争体験の要因です。

これはおそらく戦争(第二次世界大戦)の時に、日本では非常に物資が不足し、特に食べ物がなく、多くの人が飢餓感(兵士も一般の人も)に苛まされたことが関係していると思います。

あの時の猛烈な飢餓感が、今の一見裕福にも思える社会を現出せしめる原動力にもなったと考えられますが、一方で「恨み」の想念のようなものが色濃くエネルギーとして残存しているのではないかと思います。

そこで食べ物に対する執念と言いますか、それがもともとこだわりを持ちがちな日本人に、特に拍車がかかったのではないかと推測しています。

まずは満腹になること、満たされることが「残存思念の欲求」としてあったのでしょう。それはほどなく、社会的には達成されたと言えます。

この段階では「満たされること」がメインテーマですので、価格も安く手に入ったほうが当然よくなり、価格と効率性の追求もなされました。

そして次なる欲求は、質の良さや安全性ということになってきます。

しかし、高いお金を払う場合は、その分の余裕もありますから、生産者も提供者も十分なものを用意できるでしょう。

ところが、もともと食べ物に対しては、飢餓感から欲されているものですので、その奥底には、やはり大量に仕入れたいという消費者の心理と言いますか、「呪い」のようなものがあり、どうしても一定のお金に対して安いほうがたくさん手に入るという深層心理によって、お金の対価に見合う割り切りができにくくなります。

つまりは安かろう悪かろうでも、食べ物に対してのこだわりがすごくて、妥協ができなくなるという矛盾を抱えるわけです。

もちろん安くても、きちんと安全に提供しなくてはならないことは言うまでもないのですが、あまりにも食べ物に対するこだわりが凄すぎて、バランスを欠いたことまで求めようとしている嫌いもあるのです。

その原因のひとつには、実は、日本人の戦争体験による「食べ物の満たされない思いから来る飢餓感」が根底にあると想像しているわけです。

これはですね、自虐的に一括して戦争の反省をするのではなく、当時の日本人がどのように思い、行動し、日常を体験していたのかということを知って、供養(浄化)しなくてはならないところが残っているのだと思います。

供養というと、何か宗教的で霊的な感じになって怪しく思われるかもしれませので、あえて別の言い方でしますが、「飢餓のデータ」として強く重いものがあるので、それを中和させたり、クリアーにしましょうと言っているのです。

私たちの祖父母・先祖から続く縦の流れを引き受け、一人一人の思いでクリアーにするということです。

ですから、結局は自らを見つめることになり、自分たち日本人の対しての思いと誇りを持つことが大切になってきます。

言葉で表すとするのならば、

「もういいんですよ、苦しまなくても、私たちが責任をもって日本を良くしていきますから」

「あななたちのおかげで、こんなにたくさんよいものが食べられる時代になりました。代わりにお腹いっぱい食べさせていただいています。これからも食べ物は大切にしていきます」

というようなことであり、

このようなことがきちんと真剣に宣言できるようにしていくことが、問題をよいほうに変えていくと思います。

これは食べ物の問題を例にしましたが、本当は人間としてのあり方が問われているのです。

一人一人の思い(ワガママとは別です)を本当に尊重することで、現実を無視したお花畑的な均一思想になるのでもなく、全体主義的に再び戦争する態勢に巻き込まれるのでもない、調和的バランスを回復できると考えています。


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