ブログ
恋愛でありのままになれない人へ
クリスマスシーズンということで、恋愛ネタの記事を書こうと思います。
まあ、本来のクリスマスの意味では恋愛とは結びつかない(高次では結びつきます)のですが、日本ではいろいろな商業的な思惑もあって、結局、クリスマスは恋愛の記念日みたいにされていますよね。でも最近は、かなり違ってきているようにも思いますが。
それはともかく、話を戻します。
恋愛をすると、誰でもそうですが、相手のことを知りたい、または自分をもっと知ってもらいたいという気持ち(欲求)が起こると思います。
また、若い人(若い頃の恋愛)には特に多いかもしれませんが、相手に自分をよく見てもらいたいという思いも生じます。
綺麗に見てもらいたい、かっこよく見てもらいたい、優しく思われたい、できる人間と思われたい・・・そんなような気持ちです。
ところが、これが問題になることがあります。
前述したように、恋愛気分になってきますと、自分をもっと知ってもらいたいという思いがあるのに、一方で、自分を「より魅力的に見せたい(魅せたい)」という気持ちも働きます。
それはいわゆる「ありのままの自分」や「普段の自分」とは「異なる自分」を演出しようというものになる場合があるので、自分を知ってもらいたいと思う気持ちに対して、実はブレーキになったり、抵抗力が働いたりするのです。
言わば、矛盾や葛藤を抱えたまま、相手に対することになります。
恋愛はある意味非日常であり、常態に対して異常なシーンとシチュエーションだとも言えます。(これはマルセイユタロットの「恋人」カードが象徴しています)
これは悪い意味での「異常」と言っているのではありませんので、注意してください。ただ「常なる状態」に対して、それとは「異なる状態」という対比で述べているに過ぎません。
ですから、日常の、まさに常なる自分から離れて、過剰に演出気味の「非日常」の自分、異常な自分が現れやすいのです。
この乖離(日常の自分と非日常の自分)とが激しければ激しい(大きければ大きい)ほど、葛藤も当然深まりますし、たとえ自分の表面意識が気がついていなくても、矛盾や葛藤を抑えるためのエネルギーが潜在的に働きますから、それだけ疲れやすかったり、あとでぐったりしたりすることになります。
また、抑圧された潜在的な葛藤の力が爆発的になり、おつきあいをしている期間に、一人になった時など、暴飲暴食をしたり、人に当たったり、おかし行動をしてしまったりすることがあります。さらには、ひどい孤独感に苛まされることもあります。
恋愛で楽しいはずなのに、なぜ?と思うわけです。
それは、今述べたように自分の内に葛藤状態を作り、自分に無理をしていることが一因です。
もちろん、ここで本来の自分と言いますか、日常の自分を相手に出していき、本当の意味で、「自分をもっと知ってもらう」という恋愛欲求にもかなうことをすれば葛藤も解消され、スムースな交際にもなっていくでしょうが、なかなか自分をさらけ出すというのも、恋愛ならでの難しさがあります。
それは、さきほども述べたように、恋愛シーン自体に非日常性を含むからです。つまり日常とは相容れない性質を持つので、日常に戻させない力も働くわけです。
日常に戻った時、それは別の次元に移行したことでもあり、恋愛モード(私たち一般が「恋愛」と言っている状態)とは言えない場合があるからです。
ではどうすればよいのでしょうか?
一つの解決策は、あえて恋愛モードの楽しさやドキドキを離れ、正直に自分の日常を出していくことです。
ただこの場合、さっきも言ったように、恋愛からの脱出、次元の移行を意味しますので、恋愛(モード)が終わる危険性があります。
しかしながらまったくの元の日常世界へ戻るわけではなく、恋愛をしていたという経験も合わさっていますので、元とは違う世界へ行くのです。
だから次元移行なのです。
恋愛が終わるということは悪いこととは限りません。
具体的に言えば、結婚する間柄とか、家族的な感じでの安心感を持つ関係性に移行することになるかもしれないのです。
確かに以前のドキドキはないかもしれませんが、この人といると安心できる、何でも話せる、ともに助け合って行ける、無理しなくていいというおつきあいに変化し、面白いことに、このことで日常が非日常になって、恋愛交際時が日常的になることもあるのです。
例えば、日常は仕事などで戦いモード、偽装モードになっている人が、恋愛においては素の自分を出せることになって、安らぐという具合です。
もうひとつの方法は、自分を内的に高め、自らの統合にチャレンジするような方法です。簡単に言えば、「すべてを受け入れる方法」と言ってもよいでしょう。
つまり、恋愛モードによって「自分を演出をしている自分」というものも自分だと受け入れるやり方です。
一方で日常の自分も当然自分です。それも認めます。そこに葛藤を思うのではなく、いったん分離して融合させる方法になります。
自分の中にはいろいろな自分(モード・世界)が存在します。恋愛には恋愛モードになる演出気味の自分がいて当然なのです。
それは悪いことではなく、恋愛の神・天使としてタロットに描かれているエロースやクピドー(キューピッド)に殉ずる正当な行為なのです。
恋愛は、恋愛することすべてが学びであり、自分にとっての変容過程(相手にも)です。自己の統合や発展において、また人生の潤いや華やかな演出においても、とてもすばらしいエピソードと言えます。
片思いや失恋という悲しいこともあるかもしれませんが、それでさえ、大局的には「華やかなエピソード」であり、自己を成長させるチャンスでもあります。
ですから、まずは演出していいんだ(日常や普段と違う自分を持っていいんだ)と思い、恋愛という現象が自分にやってきた喜びを味わうことです。
日常の自分と恋愛の時の自分とのギャップに驚き、悩むかもしれませんが、どちらも自分なのだと受け入れます。
そうしていると、不思議なことなのですが、相手に対して、日常の自分を見せることが怖くなくなってきます。
それは長いつきあいとかなれあいで、もう何を見せてもドキドキもない相手だから・・・という意味での暴露感(笑)や安心感ではありません。
相手に恋愛的な魅力を感じながら、それでいて、自分を見せていく快感のようなものと言ってもよいでしょう。
相手も同様に、自分を受け入れ、そして相手も演出モードではない自分を見せてくるようになります。
スピリチュアルな世界で言われる「鏡作用」です。
もし自分が統合や納得を果たしてきているのに、相手との関係がうまく行かない時は、何か相手側に課題や隠された問題がある場合も考えられます。
そしてまた、人間は実は奥深い生き物であり、相手のすべてを知ることはなかなかできないのです。
もうこの人のことは全部わかった・・と言ってもそうではない未知の部分は必ずあります。それが非日常感を生むのです。
言い換えれば、恋愛モードの非日常感は、相手や自分の未知なるものがあると感じる時に現れると考えてよく、そのためには自分自身を深めること、世界の探求をしていくことで多角的な視点が得られ、終わったと思った相手に対しても、新たな魅力を発見することもできます。
すると、相手に新しい未知なることを見たあなたは、ドキドキやワクワク、あるいはそうではなくても、不思議な非日常感覚を持っていくことになるでしょう。
いろいろとやっても、考えても、やっぱり恋モードで悩んでしまう、自分らしさが出せない・・・と言う人は、もうそれ自体(そうなっている自分自体)を受け入れるしかありません。
バカボンパパ(笑)ではないですが、「これでいいのだ」という感じで、この苦しみやモヤモヤ、不安・・そういうあらゆるものを経験すること自体に意味があるんだ、と思ってみましょう。
大丈夫です。必ず、その苦しみのあとに、結果はどうあれ、体験した喜びやありがたさに気づく時がきます。
今恋愛をしている人も、これから恋愛をする人も、過去に恋愛をしてきた人も、すべての経験のありがたさを思えば、とても大きな啓示があなたに与えられるでしょう。これはマルセイユタロットでは「審判」に象徴される出来事なのです。
どうぞ、よいクリスマスをお過ごしください。
自己解放における鍵
先日募集しました無料メールディング企画は、タロットによる抽選の結果、北海道のNさんに当選が決まりました。一応、応募された方全員に当否のお返事は差し上げております。※届いていない方はご連絡ください。
今回はブログ等の感想を書いていただくことが応募の条件でしたが、いただいたご感想を拝見しますと、結構タロットそのものへの関心からというより、宇宙的なものや哲学的もの、心理的なものの読み物としてご覧いただいているような印象でした。
これはマルセイユタロットがメインのブログではありますが、マルセイユタロットが結局、あらゆるもののモデルや象徴として考察できるため、結果的にそうなっていると思われます。
あと、内容が難しい、わかりやすいものもほしいというご感想もありました。
まあ、自分でも、やはりちょっとこねくり回し過ぎかな(^_^;)という思いもあるので、そのあたりは今後予定している一般の方向けメルマガなんかで、シンプルだったり、平易だったりするものも書いてみようかなと考えております。
いずれにしましても、ご応募と感想を送っていだきました方には改めてお礼申し上げますとともに、この拙ブログをお読みいただいているほかの方にも、感謝を申し上げたいと存じます。
さて、今日の記事です。
最近はいかに自分を苦しめず、自分本来の生きたい方向性でもって進むという、自己解放を訴える方々が増えて来たように思います。
私も、もとは公務員をしていて自分を結構縛っていた類の人間ですから、本質的にはまったくもってその通りだと賛同することも多いです。
やはり、多くの人は自分で自分をがんじがらめにして、まさにマゾのごとく苦しんでいるという滑稽な状況にあると思われます。
そのことに気づきを得れば、自己解放は急速に進んでいくと考えられます。
このブログでも何度も言っておりますが、そのひとつの鍵は、結局多角的な視点や、たくさんの考え方を持ったり、多くの感情を客観的にも見られるしたりすることにあると言えます。
なぜならば、自分の縛りに気づくということは、夢中になっている当事者感覚を脱するという意味にもなるからです。
いわば自分がゲームに熱中し過ぎて、ゲームをしていることにさえ気がつかないから自分の縛り(ゲームにおいてはハンディや自己設定に当たります)もわからなくなっているのです。
そしてひとつのことに集中し過ぎたり、当事者意識(被害や不運に見舞われている感覚、起こる事件を強烈に意識するようなこと)が強すぎたりすると、まったくほかのことが目に入らず、目の前のことだけで判断しようとします。
そうすると、ますますゲームにのめり込んでいくわけです。
何事も自分が熱くなり過ぎて、ひとつの見方しかできなくなっていると、なかなかその熱中していることから抜けるという発想が出ません。
しかし最中においても違和感を抱いたり、疑問を持ったり、ほかの視点や思考などを入れたりしていくと、熱中性にほころびが出始めます。
「ほころび」と表現しましたが、覚醒側(ゲームの外側)から見ると、まさにそれが目覚めのきっかけになることなのです。
「あれ、おかしいぞ?」「これって、前にも経験したような・・・?」「まてよ? このまま続けていてクリアーできるのか?」「そもそも、私は何しているんだろう・・・?」こんな感じが日常の中のあなたの感覚に現れてきたら、あなたは、先述したゲームの中での「ほころび」、すなわち「覚醒のためのきっかけと情報」を得ていることになるのです。
そのためには、視点を多く持てるようにしないといけません。
自分らしく生きるためには、ありのままとか、素のままとか、宇宙への信頼とか、平和な心とか言われておりますが、実はその前には、この日常的な世界への疑いや違和感を持つということも段階としてはあり得るのです。
「愛や信頼のためには疑ってはならない」と言う人もいますが、そう思いこむことが「そう思わなければならない、そうしなければならない」という自己の縛りになることもあります。
信頼する(される)には、疑いが(を)晴れる(晴らす)必要があります。
あなたが疑問に思ったり、違和感を覚えたりすることに対して実験・検証してみて、それでも宇宙はイエスと応えるのなら、それはあなたにとっての真理の知覚となるでしょう。
少しずつ疑いが晴れていくたびに、あなたは大いなるものへの信頼を取り戻し、自分の中に愛を見て、それを表現しようとしていきます。
ちょっと話はずれてきていますが、要するに、自己の縛りを解き、魂を輝かせる生き方のためには、いきなり絶対平和や真なる状態に到達しなくてもよく(それは難しいことです)、疑念や違和感を持つ状態から始めてOKなのだということです。
また一人一人には独自の道があり、全体として共通するものはありますが、自分自身が納得するものがもっとも重要です。
その点では、すべての人には道は開かれており、誰のやり方も間違いとは言えないのです。その人自身にとっては、どんな方法も大局的にはいつも正解と言えましょう。
ほかにも縛りという点では、「努力しないと成功しない」とか「苦労してこそ報われる」という思いこみを解除すべしということが、スピリチュアル系のブログやSNSなどでよく見かけます。
これは本質的にはその通りのこともあるとはいえ、人と段階によってはその観念でもいい場合があると私は考えています。というより、その選択を魂的にあえてしているので、解除しようとしても、その段階の時は難しいということです。
この話は長くなるので、また別の機会に詳しくお伝えしたいと思います。
マルセイユ版宮廷カードの構造と活用
また宮廷カードは、大アルカナや数カードととも当然リンクしていますので、それらのカードとのつながり方、カードの出方によって探る方法もあります。
ただ、マルセイユタッロトにはおいては、すべてを自分が持っているという仮定のもとにカードを見ますので、引いたカードや、自分が思ったカードが決定事項ではありません。
言ってみれば、例えば宮廷カードでも16枚全部の可能性と気質を一人の人が持つのです。
ただ、状況や能力に応じて、または問題や偏りなどで、特定のカードの気質になっていることがあります。
先ほど指摘したように、16枚全部を持つのが(完全なる)人間でもありますので、宮廷カードを自分と照らし合わせて精査することによって、バランス回復を試みたり、自分の状況を内外の面で把握したりすることが、カードの使い方としてできるのです。
特に宮廷カードは、実際的・現実的人間像を象徴しますので、自分がどのような人物になればよいのか、どのような人物像によって修正や回復が働くのか、具体的なこととして見ることができます。
足りない部分は自分以外のその人物像(気質・エネルギー)を体現している人と接触すればよいですし、ありすぎる場合はその逆も言えます。
これはイメージではなく、イメージの世界(カード)を利用した具体的(現実の人間との交流による)方策なのです。
表と裏、設計(企画・計画)と現実・行動 潜在と顕在・・・世の中(と人)はこうした二元の構造になっていますが、その架け橋となるのがマルセイユタロットなのです。
運勢とパラレルワールド
タロットにはイヤーカードなる、自分にとってその年の象徴や年運のようなものを知る方法があります。
これはこれで、なかなか使える技術だとは思います。
しかし、その世界観を信じないと決めたら、この方法もあまり使えなくなります。
タロットの世界以外でも、「占い」という分野で考えると、自分の運勢を見て、それを良くしたり、悪影響を受けなくしたりする方法はたくさんあります。
私もそれなりに研究したり、実践したりしてみました。
そこで思ったのは、「あると思えばそれはあり、ないと思えばそれはない」ということでした。
方角であったり、場所であったり、モノであったり、人であったり・・・様々に自分の運気を変える方法は伝えられています。
確かに、それらの方法で運は変化することもあると思います。
ただ、ここでは、運の変化という考え方より、別の世界への移行、象徴的に言えば、自分の人生列車の乗り換え、もしくは切り替えということで述べてみたいと思います。
結論から言えば、運命が変わるのではなく、自分を中心とした並行世界(パラレルワールド)への移動が行われたという見方です。(ただし、移行自体が「自分の運が変わること」だと見れば、結局は運命が変わったことにはなります)
並行世界とは、自分の今認識している世界とは別に、並行してたくさんのほかの自分と人生(世界)があるというSF的な考え方です。
図で言えば、今の自分の人生を軸にして、何本も別の線が延びているような感じです。ですから、それぞの線は自分の選択できる「世界線」だと表現することもできます。
では例えば、引っ越しによる運の変化事例を見てみましょう。
ある人が引っ越しして、運が悪くなったケースがあるとします。
最初はそういうこと(運勢)を気にしない人でしたが、たまたま今回引っ越しをしたことで、仕事もうまく行かず、恋人とも別れ、自分にとってはとんでもない運勢になった・・・と実感していた時、たまたま占い好きの友人から、「引っ越しのやり方で運気が変わることがある」と聞いたのです。
「もしかしたら、今回の引っ越しが悪かったのかもしれない・・・」と、その人は友人に紹介された方位学の専門家のもとを訪れることになりました。
そこで初めて、方位やタイミングによる運勢の影響ということを知ることになります。そしてその人は専門家のアドバイスに従い、今度はしかるべき時に、別の場所へ引っ越すことにしました。
すると仕事の状況も回復し、新しい恋人もでき、運気は良くなったのでした。それ以来、その人は運勢というものがあることを思い、それも引っ越しや移動、タイミングによって支配されたり、コントロールしたりすることが可能なことも信じるようになりました。
と、こんな事例はよくあるケースだと思います。
この場合、方位学の活用による運勢好転ということは当然考えられるわけですが、ここに並行世界への移動という視点を用いると、この人は最初の引っ越しの際に、何らかのことで別の並行世界に移行し、そこで運勢を信じる自分という世界観の線に住むことになったと考えられます。
従って、占い好きの友人と出会うことも予定されていて、そこから運勢への興味に変わり、実際に自分の運勢が今後変わっていくことを経験するのです。
もし引っ越しをしなかったら世界線の移行は行われず、その人は運勢というものを気にすることもなく、そして気にしないので、運勢というものは存在しないに等しい世界(線)を生きることになります。
また引っ越しをしても、もし仕事も恋人とつのつきあいも順調だったら、別に運勢を気にすることもなく、やはりこれも別の世界線への移行は起こらなかったと考えられます。
つまり、何が言いたいのかと言えば、運の良し悪しを気にしたり、運勢の変化を起こす技術や知識を入手して運勢をコントロールしたりするという人生は、あなたの数多あるひとつの人生の選択肢だということです。
それと出会い、それを活用して生きる人生や世界というところにあなたは移行したのであり、それを選択したわけです。
なぜそうなった(移行した)のかは、いろいろな理由があります。
そういう経験ができる世界(ゲーム世界と見てもよい)に、自分の魂が望んでいたと言ってもよいでしょうし、自分の力ではうまく行かない理由を、運勢というものに置き換えたかったということもあるかもしれません。
運勢というものを存在化すれば、そのルールも自分の世界の中では顕在化し、それを知るものがその世界の中では有利に進めることになるからです。
またそもそも世界が移行していない人もいます。それは例えば占い好きの親がいたとか、運勢学を生業とする家に生まれたとか、そのようなものが既成事実として強く認識されている世界観のもとに最初から誕生した人の場合です。
こういう方の世界(線)は、「運勢」というものが中心軸に来ており、それをもとに自分の世界時間も進行していると言えるからです。
ただ一般の人は、それほど最初は強く自分の運命や運勢というものを意識していないはずです。今の学校では教えられないですしね。(笑)
それでも、いずれそういったことに関心を持つことになれば、あなたの世界線や軸はそれが影響している世界に移行して行きます。
ある意味、信念とシンクロニシティ(偶然の必然性)が、自分の世界線を移行させている原動力だと言ってもいいかもしれません。
言わば、運勢をよくしようという自分が運勢というものを顕在化し、ますますそれを活用してよい人生になっていく自分を演出していくようなものです。それはどんどん自分が並行世界を移動して行っている状態と言い換えてもよいでしょう。
この考えで言えば、ほとんどの運勢は自分が創り出しているのです。(運や運勢がまったくないと言っているわけではありませんが、究極的にはそういう意味でもあります)
鶏が先か卵が先かみたいな話で、運勢があるからそれを活用するのか、「運勢というものを活用している自分」というものを生み出したいために、運勢とその活用での人生が創造されるかの例えの違いです。
これはマルセイユタロットで見れば、まさに「運命の輪」が象徴していることであり、「運命の輪」のカードによって、ここで書いているようなことも整理されてきました。
「運命の輪」は大アルカナでも10の数を持ち、22枚ある大アルカナでも、半分手前の完結で1サイクルを象徴します。
ということは、このカードを理解することが、大いなる気づきの中間地点においても、極めて重要であることを示しています。
運勢や運命というものを見ていくことは、だから大切なのです。
しかし、見方を変えれば、先述した並行世界論で行くと、ただ「運勢のある世界」に移動しているに過ぎず、結局、その多くは自分の潜在的とも言える意志による創造が大なのです。
冒頭でタロットのイヤーカードは自分に適用できるけれども、一方で適用できないものにもなるというような意味合いで言ったのは、そういうことなのです。
僕(私)なりの愛ですよ。
ちょっと前の(原作付)アニメになりますが、「四畳半神話体系」という作品があります。
※ややネタバレになりますので、この先は読むのに注意してください。
この作品は、京都の大学生の主人公が、自分のキャンパスライフをバラ色にすべく、満足行かなかった生活を何度も時間遡行してループするという物語です。
時間を巻き戻すというより、別々の並行世界(パラレルワールド)を、ある地点(時点)からやり直すというのが正しいかもしれません。
結局、何度やっても納得行かなかった主人公は、とうとう四畳半に引きこもる(これがタイトルの意味にも関係していきます)という生活パターンを選んでしまうのですが、最終的にはそのことにより、大きな示唆を得ることになります。
ところで、毎度毎度、どの人生パターンを選んでも、登場してくる重要な人物は同じで、特に主人公に、まさしく悪魔のように関わってくる友人がいます。
主人公は彼のことを、いろいろと自分をそそのかして、キャンパスライフを台無しにしてくれる悪友だと見ています。彼さえいなければ、まともな大学生活が送れるのに・・・とさえ思っています。
しかし、友人はどの人生パターンにおいても主人公に強引なくらい関わって来て、主人公が、「なぜ俺にそんなこだわる(関わる)んだ」と文句をを言っても、「僕なりの愛ですよ」とにやにや笑うだけです。
この悪友のセリフが、ラストシーンでは極めて重要なものとして活きるところが、このアニメの真骨頂でもあります。
※ここからは本当にネタバレですので、興味のあ人は、アニメを観てから読んでください。アニメとは関係なく、ただ今回のブログ記事の趣旨を読みたい人は、このあと途中読み飛ばして▼印のところから読み始めてください。
あとで主人公は、不満足でくだらないキャンパスライフを過ごしてしまったと思った自分の人生経験が、実はとてもすばらしい恩恵に満ちたものであったことを知ります。
特にあの悪友がいたらこそ、自分の人生が充実していたものであったことに気づくわけです。つまり、悪魔が天使であったことを知るのですね。
しかも悪友の顔が、悪友と思っていた時は、アニメでも本当に悪魔みたいな顔に描かれているのですが、最後に主人公が彼の真の姿を知った時、というより、彼に対する認識が変わった時、友人の顔もまともな、むしろかわいらしい顔に変容します。
言ってみれば、主人公が思い、認識してた姿(像)がまさに彼の体験していた世界であり、彼の信じていた通りのものがそのまま見えていたというわけなのです。
このアニメの描くところは、タロットや精神世界でもよく語られる内容を面白く、わかりやすく伝えているように感じます。
▼どんな苦しみや悲しみ、あるいは喜びも嬉しさも、様々なものが用意されている世界設定がなければ味わうことができません。
特に人間と感情は重要なファクターです。
中にはあなたにとってひどいと思う人もいるかもしれませんが、みんな役割があり、悪魔のようでいて天使でもあるのです。
彼ら彼女らがいるからこそ、大局的な意味で、楽しい人生経験が送ることができているのです。
そのことは現実に今まさに経験している最中には、なかなか気づくことができません。
おそらく、死後私たちはそのことにすべて気がつかされるのでしょう。
よく言われるように、それは総合的な視点(相手側の感情や見方などが入るもの)も得て、人生を振り返ることができるからではないかと考えられます。
仏や神という存在概念は、多様性や同時性というものが挙げられます。同時にいろいろなレベルやパターンで存在することができ、また、同時にあらゆるものの知覚を認識することができるというものです。
つまり、一でありながら多でもあり、その逆も真です。
私たちは亡くなると仏様と呼ばれるように、たぶん、この同時知覚、一であり多である感覚を神レベルの完全とは行かないまでも、得ることができるのではないかと推測されます。
そのため、自分が経験してきた人生を瞬間的かつ、同時的に(どの時代にも存在すること)、また多様的(あらゆる人物の思い・角度的)に体験し直すことになり、自分だけで見てきたものが、いかに偏りがあり、狭量なものであったのかを悟ることになると想像できます。
結局のところ、人生のあらゆる経験・体験が、すべて神(言ってみれば自分自身)からのプレゼントであったことに気づくことになるのでしょう。
しかしながら、何も死後まで待つ必要もないと思われます。
マルセイユタロットは生きながらにして、死後体験するであろうことを認識させる手段が描かれていると言われています。
今までの説明からしましても、その鍵は俯瞰した見方と多様なものの見方(感じ方でもある)にあると言えます。
また一方で、客観的に人生を見るようなものとは反対の、その時その時に集中する力や熱中性も必要かと思います。
そうでなければ、ただ冷徹な人生観しか得られないことになり、感情は入らず、本当の意味で楽しい経験をすることができません。(輪廻転生説を取り入れるとすれば、私たちが過去生を忘却して生まれる理由もここにあると、ひとつには考えられます)
こうして人生を過ごしていく時、あらゆるものが「僕・私(それは自分自身)なりの愛ですよ」とわかってきて、世の中は結局は「愛」なのだという結論になるわけです。(笑)
そう思うと、どんな選択も自分の愛であり、間違いということはなく、迷っていても楽になるでしょう。
