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運をよくする方法 異説

運を良くしたい・・と誰しも思うかもしれません。

巷の占いでは、悩み事を相談するために占い師に相談するということもありますが、運勢を見てほしいとか、運を良くしたいと思って訪れる方も少なくないでしょう。

タロットカードにも「運命の輪」という名前のついた、まさしく「運」を象徴したようなカードが存在しております。

タロットカードはある意味、あらゆるもののモデルや構図・元型として描かれているところがありますので、そこで運を象徴するカードがあるということは、運について見たり考えたりすることは必然であるとも言えるのです。

ここで運とは何か?という話を、それこそタロットカードの「運命の輪」を元にして、私なりの考えでお話したいところではありますが、長くなりますし、実用的にはあまり意味のないと感じられることになるかもしれませんので、講座などの機会でそのお話は譲るといたしまして、今回は別の観点で述べたいと思います。

一般的に、運を良くしようと思うと、外に働きかけるか内に働きかけるかの区別になると思います。

外側というのは、外的な部分、環境と考えてもいいでしょう。

例えば風水などの考え方を利用して、建物やモノの配置を変えたり整えたりする、方位学から割り出された吉方位に旅行する、引っ越しする、よい気に満ちていると思われるパワースポットに行ったりする・・・などのことがあるでしょう。(それが実際に効果があるかどうかの議論はここではしません)

また、自分自身をよい状態にしていくことで、運が良くなっていくことも考えられますので、健康に気遣う、食事・睡眠など基本的な部分でよいものを採り入れるなどの方法もあるかもしれません。

その他、運のよい人に会う、その影響を受けるということでもいいでしょう。

さらには、自分が活き活きとして存在できるような趣味や生き甲斐を持ったり、自分が楽しいと思える人との交際(恋愛、友人関係、グループ活動等)をしていったりすることで、運気も向上することが考えられます。

この、外に働きかけるアプローチでは、創造と破壊という観点で見ていくと面白いです。

つまり、今より何かもっと加えるか、逆に削ぎ落としたり、シンプルにしたり、壊したりすることでよくなるかという見方と行動です。

現在運が悪いなあと思っている人は、何か新しいことをしたり、加えたりすればよい方向と、もうひとつ、いわゆる断捨離したり、縮小したりする方向で運気を変えるということです。

さて、まあ、こういう外に働きかけることは、よくいろいろな人もお話されていることであり、それ相応の専門家の人もいらっしゃり、相談することもできると思います。

一方の、「内に働きかける」ということが、意外に語られていません。いや話されてはいますが、もうひとつ踏み込まれていないことがあるのです。

それは言わば、「運」というものを意識しない方法というものです。

私たちが運がよいとか悪いとかの視点で「運」を考える時、結局、自分にとってよいか悪いかという見方をしており、その基準は自分の価値観(それが自分が信じている社会・組織の価値観の場合もあります)になります。

そこには自分のルールや自己の決めた法律(思い込み・信念みたいなのものも含む)に基づいた、白か黒かの色分けがあるのです。

よくスピリチュアルな世界では、物事は中立だと言います。起こっていること自体は中立で、いいも悪いもなく、それを決めているのはあなた自身だということです。

例えば出勤前につまずいて「運が悪い」と思うかもしれませんが、つまずいたおかげで忘れ物に気づいたとなれば、「運が良かった」と思うかもしれません。

ここにあるのは、つまずいたということと、忘れ物を思い出したという事実だけで、別々に純粋に考えると、運がいいか悪いかは決められないものです。

また人は時間に縛られている世界に住んでいますので、過去をふりかえり、「あの時、あちらに行っていれば・・・」「あの時、あの人を選んでいれば・・・」「あそこで止めておけば・・・」と後悔しますが、それもその時の選択であって、たとえ別の選択をしていても良かったかどうか、あるいはあなたの想像通りに行っていたかは本当はわからないものです。

むしろ失敗と思う選択をしたからこそ、失敗そのものにも今気づくことができたと言えますし、あなたが変われるチャンスを得たということもできます。しかしそれさえもいいか悪いかはわかりません。

というような話は、たぶんよく聞いたと思います。「だから物事を中立なので、思い方次第だ、運は気にするな」という内的な部分に関する理論です。

私の言う、「内に働きかける」というのは、確かにこれと同様で基本にはなっていますが、少し適用に違いがあります。

すごく簡単な言い方になりますか、先述した理論だと、要するに「物事は中立だ」と思えればいいわけなのです。

ところがそうは思いにくいのが実状で、やっばりは運の良し悪しはあるよねぇ・・と見えて(思って)しまうのも人の常で、この世で生きている感覚でもあります。

ということで、運の良し悪しはあるように感じるのが、どうしても人間としては起こると前提したうえで、それでも物事をできるだけ中立に見る方法はどうすればよいかと考えます。

そして出てきたのが平凡な答えでもあるのですが、「モノの見方をできるだけ多様する」ということです。

要するに、物事を一方向や少ないとらえ方で見るから、白・黒と見えてくるわけです。

それは何かを決定したり、意志を統一したりするのではよいことでもあるのですが、偏りも出がちになります。

いろいろな方向から見る癖をつけておくと、白と黒の間のグレーがグラデーションのようにたくさん出てきて、その色の数だけ答えがあるように思えてきます。

究極的に色なんてないのかもしれない、色を決めているのはその時その時の気分の問題みたいに思えてきます。

これらは例え話ではありますが、この色というのが見方・考え方に当たります。

できるだけ多様で拡大した意識と考え方を身につけて行けば、物事に対して中立に見ることに近い感覚も出てきます。完全に中立になるのは難しいかもしれませんが、何もしないよりかははるかにましだといえましょう。

この方法でやっていくと、「運」は「気」にしなくなります。文字通り、「運気」というものが自分の世界観の中ではなくなって行き、別の境地へとあなたの世界は移行します。

と言っても、それ(完全に気にしない状態)は理想で、「運気はある」と自分が思って気にしている限り、その気にしている程度に応じて、確実に運はあなたに影響を及ぼします。

まあ、そうやって運を気にしていくのも人間だもの・・(笑)ということで面白いのですが。

ということで、もう一度、言いますと、「内側に働きかける」という方法は、自分の思い方・考え方に作用させるということで、多様な見方(それはつまり多様な世界観ということでもあります)を獲得していく意味になります。厳密に言えば、運を良くする方法ではなくて、運を忘れる(笑)方法と言えます。

こうすると運の良し悪しの「良し悪し」のレベルの範囲があやふやになっていき、どちらでもいいや、みたいなことになり、運に振り回されることが少なくなるということですね。

マルセイユタロットを知っている人は、これが「運命の輪」に関係するということが、よくわかると思います。


マルセイユタロットの小アルカナの図像

マルセイユタロットを手にした時、もしほかのタロット種を知っている人ならば、小アルカナと言われるパート(数カードの組)がとても記号的なことに気がつくことでしょう。

今、日本で巷に流布しているメジャータロットといえば、ウェイト版、通称ライダー版のタロットで、このタロットはすべてに絵柄がついています。

言ってみれば、大アルカナと小アルカナの見た目、区別がない感じとなります。(よく見れば、結構あるのですが)

ところがマルセイユタロットは、大アルカナと小アルカナ、中でも数カードの組はまるで違うもののように普通は思うはずです。

どちらかというと、小アルカナは私たち日本人がイメージする「トランプ」に近いと感じるでしょう。実際、タロットはトランプ的にゲームもできますし、トランプの構成とほぼ同じにもなっています。

このように絵柄の明かな違いが見受けられますので、マルセイユタロットは大アルカナと小アルカナ、特に数カードは別々で発展してきて、どこかで融合されたのではないかという説もあります。

図像からしても、ヨーロッパだけではなく、イスラムやインド・中国などの汎世界的な影響も感じられます。

いずれにしても、マルセイユタロットの大アルカナと小アルカナ(数カード)の区別が、明瞭に絵柄にあるのは間違いないことです。

ということは、ここに意図的なものがあると推測できます。なぜならば、マルセイユタロットを知ると、その図や構成に偶然はなく、必然的・計算的に作られていることがわかるからです。

ですから記号的とも言える小アルカナとの組み合わせは偶然ではないはずです。

そこで、私が思ったのは、このマルセイユタロットの小アルカナ数カードと似たような図像・象徴です。

そうすると、中国の易で使う記号的な陰陽象徴模様(こう)が出てきます。あの、直線と穴が空いている線のことです。

この二種の線の象徴によって、太極であるすべてから陰陽に分かれ、その6種の組み合わせによって64の卦といわれるように、様々な事象をシンボライズしているわけです。

いわば物事・事象のモデルであり、削ぎ落とした形・比率・図形といえます。

もしここにわかりやすい現実的な絵がついてしまうと、その絵のイメージに囚われてしまうでしょう。

例えば易の「こう」の線を何本か持った人が、えっちらおっちら、何か運んでいる絵があったとしたら、「ああ、何か大変な作業をしているんだな」「つらそうだな」とイメージするでしょう。

しかし、もしかしたら、大変に見えて農作業で得た収穫物を運んでいる状況を示唆しているかもしれず、それはつらいことではなく、むしろ嬉しいこと、何かを成し遂げたことを象徴しいるかもしれないのです。

「だったら、運んでいる人の顔や姿を嬉しいそうに描けばいいじゃないですか」となりそうですが、一方で、やっぱりそれなりに苦労してきたことがあり、その大変さは運んでいる人の嬉しい表情だけでははなかなか表すことは難しいでしょう。

そうなると、言外のニュアンスも多様に含んだよほど高度な絵を描かないといけなくなります。絵のうまさ(技巧)がいるわけですね。

とはいえ、なかなかそれは難しいことですし、たとえうまく描けたとしても、どうしても絵からの限定的イメージ(限定的でありながら、誰もが思う一般的イメージ)が出ます。

結局、特定のイメージや意味ではなく、様々なことをシンボル・象徴として描こうとすれば、逆に究極まで削ぎ落とされた記号的なものになっていくわけです。

マルセイユタロットの小アルカナは、現実的具体的分野・次元を象徴させると考えられています。(これは諸説あり、あくまで私の考えです)

現実的・具体的というのは、私たちが実際に生活している次元のことであり、また個別的ということでもあります。

ということは、一人一人違った世界でもあるのです。一方、大アルカナは逆に広い世界、誰でもあてはまる統合的世界観を象徴します。

小アルカナは現実的・具体的世界を表すとはいえ、言ってみれば、それは一人一人全員の違う世界を指し示すわけです。

それぞれAさんの世界、Bさんの世界、Cさんの世界があるわけです。

これがもし、小アルカナに絵柄がついて、はっきりさせてしまうと、同じ一枚で象徴していることがAさんもBさんもCさんも同様に考えてしまうことにもなりかねず、個別的世界を表すことができなくるおそれがあるのです。

わかりやすく言いましょう。

たとえば、「5」という数があるとします。

これがAさんにとっては5月から始める語学学習ということかもしれませんが、Bさんにとっては五回目の転職を意味しているかもしれず、Cさんには結婚を象徴している(5の数は結婚におけるセットの数を意味することもあるのです)かもしれないのです。

しかし、明らかに具体的な絵になってしまうと、このように個別的意味合いを汲み取ることが難しくなってしまいます。

ですから、小アルカナ、特に事象を示すと言われる数カードの絵柄は、記号的で抽象的なものになっていると考えられるのです。

大アルカナの場合は、このまったく反対の理由で具体的な絵柄になっているのだと思われます。

抽象的な絵柄は、モデル、仕組みとしてあらゆることを想像させ、そのモデルに応じた個別的事象を想定させることが可能ですが、逆にあまりに記号的・無機質的な絵柄のために、イメージがしにくいという点もあります。

それならば、たとえ個別的世界観の象徴が少なくなっても、わかりやすい美術的な絵柄になっていたほうが意味を見いだしやすいという立場もあり、そこで全部に具体的な絵がついているものは利用されやすくなるのです。

最初のうちは、個別的(一人一人にあてはまる意味)なものでも、具体的絵柄があったほうが読みやすいからです。(大アルカナがイメージしやすいのと同じ原理)

けれども、より高度なイメージ・推理・洞察力を養うのには抽象的モデルによるもので訓練することで、鍛え上げられるとも言えます。

例えば抽象的ともいえる天体から、サイン・ハウス・アスペクトなどの構成とフィールドの適用によって、全体的なものから個別的・具体的なものまで読んでいく占星術も同じようなものでしょう。

そうして森羅万象、あらゆるものの考察に至り、原理・真理を把握し、汎的に宿る神性を理解していくことにつながるのです。

つまりはマルセイユタロットも、ほかの古代からの象徴的叡智の体系も、自らを高次にしていくためのツール・装置だと考えられるわけです。


人間関係で得られる自分の大切さ

人間関係、多くの人がこれで悩みますが、反面、たくさんの人が人との関わり合いで喜びを感じます

苦しみが多い分だけ、喜びも多い、まさに宇宙的バランスともいえる話です。

だからこそ、なるべく人と関わることで、様々な感情や思考を体験することになり、つまるところ自己の世界を拡大し、成長につなげていくことができるわけです。

とはいえ、何が何でも人と関わらねばならないというわけでもありません。

物事は陰陽、二元の表現でバランスが取られる世界です。時には一人部屋で閉じこもったり、自然豊かな人のいない環境で静かに過ごしたいと思うこともあるでしょう。

マルセイユタロットでも、例えば「恋人」カードのように人と関係している姿を描いているのもあれば、「隠者」のように孤独に隠れて生活しているように描かれているカードがあります。

そうして一人の時、家族といる時、親しい人や仲間と過ごす時、社会で職場や公の場で大勢の人と活動している時などなど、いろいろなシーンとフィールドで自分を鍛え、時に慰め癒し、あらゆる局面を経験しているのだと思うことができます。

また人は一人では自分のことがわかっているようで、実は案外理解していないことはよくあるものです。

一人の世界にいると、自分と他者の違いがわかりにくくなります。ということは、自分が何者であり、ほか(他人)とどう違うのか(つまりは個性)が見えにくくなるわけです。

従って、やはり他者と関わるほうが、逆に自分というものが見えてくるのです。

この場合、ネガティブとポジティブの両面を他者と自分との関係において見ることになります。

たいていは他者にあって自分にはないものが目に付き、その比較によって自分を悩ませたり、他者が嫌いになったりします。

これはなにも能力やモノの所有だけの話ではありません。

自分は「こういう状態がいいと思っている」「こういうものが正しいと考えている」というものがあるのに、相手は「それではない」「それが正しいと思っていない」という、自らの持つ好みや考えが他人には「ない」という価値観的所有の問題もあるわけです。

こういうマイナスと言いますか、ネガティブな所有比較によって、人との関係で自分が悩むことが結構あります。

しかし、物事は二元のバランスであることは再三話してきました。先述したように、他者と比較するからこそポジティブに思う面も出るのです。

それは例えば、自分では悪い面、何もよい特徴とは言えない部分と自らが思っていたことが、他者から見れば、実はそれがすごい能力だったり、価値あるものであったりすることです。

言ってみれば他者による自分の個性の発見(確認)というものです。

「え、そんなことがうらやましいの? すごいの・・・?」と自分が驚くようなことが、他人から言われることがあります。

自分は自分の世界の中にいるので、それがなかなかわからないわけです。

他者という別の世界観があるからこそ、それに照らし合わせると、あなたの存在も多次元的存在へと変化します。

あなたは自分自身が思う自分だけではなく、他者があなたと接し思う数だけの「あなた」が存在するわけです。

実際、クライアントで来られる方とかタロットを受講される方々など拝見していても、とても魅力的ですばらいものをお持ちなのに、自分ではそうとは思っていないという場合が多々あります。

また普段抑え込んでいる奥底にある輝き・自由・冒険性、その逆に極めて誠実で集中力に富むような気質も、他者からすると、その人の中にあるのが見えてくるのです。

それを指摘してもらうだけで、その人を抑圧していたものがはずれ、自己の解放へと進むきっかけになる場合もあるのです。

マルセイユタロットは人の元型も象徴しますので、タロットで表されているモデルは、自分自身、そして他者にも存在し、それを人間関係において共有することもできれば、自己の個性として発見するツールとして活用することもできます。

現実世界ではペルソナと言って、仮面をかぶり、役割に応じていろいろな人とつきあっていかねばならないケースと場面があります。

それも悪いことではなく、社会生活や交際をスムースにするための手段であり、人に備わった偉大なる力と言えます。

ただ、あまりにも仮面をかぶりすぎたり、付け替えすぎたりして、本来の自分と言いますか、純粋で素直な部分というのが出しにくい状態になってきます。

仮面は防具でもあるので、生身の自分が傷つけられるのを防いでいる意味もあり、それでずっと防具をつけすぎていると、守られている分、生身を出すのが怖くなってくるわけです。

よく「子供のようになればいい」と言いますが、それは本質的にはその通りではありますが、大人であることをやめるわけにはいきせん。

大人であるのは、仮面をつけることができる能力を身につけたということでもあります。社会性や公共のルール、人に迷惑をかけないこと、自制心を持つのが大人です。

何も考えず、傍若無人に無軌道で人に迷惑かけてふるまうことが、自由や子供心を持つということではないことは誰しもわかるでしょう。

そんなふるまいをすることは実は簡単であり、それが問題であることはわかっているので、誰しも自由性と制約性の狭間で悩むのです。

しかしながら、やはり何事もやり過ぎは問題となります。

自分が自分でないことは、実は仮面をつけ続けている中で、それが過度になってくると、自分自身で何となくわかってきます。

あるいは、実際に自分が生きるのが苦しく感じたり、環境的・状況的にも不幸に思うようなことが現れてきたりします。(内なる葛藤の外への投影)

そうした時、心身に問題が出たり、人間関係もおかくしなったりすることがあります。

自分のバランスが崩れているので、その影響が内外に立ち現れてくるわけですね。

自分のバランスを取り戻すのにはいろいろと方法はあります。

それは自分自身が実は知っており、自分の表面意識はわからずとも、自然に導かれるように人に出会ったり、本に巡り会えたり、方法を教えてもらったり、環境を変えざるを得ない事件が起こったりすることがあります。

あと、他者の中にその人が気づいていないすばらしさ、良さを指摘してあげるのもよいでしょう。

それは結局、自分の良さを再発見したり、新発見したりすることにつながるのです。

なぜなら、人の良さを見つけられる(理解できる)ということは、あなたはその価値を知っているのであり、同時に自分にもその要素があるからなのです。

あなたは多重の存在であり、今自分が思っている以上の可能性と大きさ、深さがあります。

あなたの良さはどこかで誰かが必ず理解してくれていますし、それがわかる機会に、自分が望めば、あなたが今考えているよりも多く出逢うことになるでしょう。


多様な見方と完全性

マルセイユタロットでは、自己の成長過程を見る順番とカードの関係というものがあります。

しかし、その見方は実は単純なものではなく、横方向意外にも縦方向、時には斜めやクロスとして観る場合もあります。そして逆方向に進む(戻る)見方もあるのです。

私たちの人生もそうした多様な見方をすると面白いです。

だいたいにおいて、何かに悩んだり、落ち込んだり、袋小路に陥ったりしている時は、モノの見方が一方向に偏っていることが多いものです。

自分の信念や思い込みが極端であったり、ひとつの信仰に近いものを抱いていたりすると、やはり考え方や行動に硬直してきたものが出てきます。

要するに、固さには柔らかさが必要であり、逆に柔らかくなりすぎると固さも必要になってきます。

ただ、意外に思うかもしれませんが、柔らかさも固さも、どちらにおいても、結局は多様性(多様なものの見方)が必要になってきます。

柔らかさではわかるでしょうが、固さでもそうなのです。簡単に言えば、ひとつの信念や意志を固めるには、ほかとの違いがたくさんわかったほうがいいいからです。

つまり個性は多様性から生まれるということです。

さて、人生の見方をシンプルながらも少し多様性を持たせる見方として、始まりから見る方法と終わりから見る方法があります。

始まりから見るというのは、誰もが普通に思うやり方で、自分の生まれた時から今に至るまで、そして未来に今後続いていくという生から死に向かっての方向性です。

終わりから見るというのは、文字通り終末、つまり死から生(誕生)に向けて振り返っていくような方向性です。

例えば、自分の人生、まだまだ何年もあるよと思うか、もうあと何年間しか満足に活動する時間がないと思うかの違いです。

もちろん自分が死ぬ時なんていうものはわかりませんから、平均寿命やだいたいの感覚でしか終わりは予想できませんが、それでも残りの人生を、まだまだあると見るのか、もうこれだけしかないかも・・と見るのとでは、いろいろなことが変わってくると思います。

どちらの見方をすべきかとか、どちらが正しいというのではありません。ひとつのモノの見方を多層や多様にする一案ということです。

そうすれば、あせっている時は「まだまだある」と考えられますし、何だか毎日同じ事ばかりの繰り返しで充実していない、退屈だと思っていると、「もうこれだけしかない」と見て、奮起することもできるかもしれないのです。

あと、できるだけ自分は完璧な世界(宇宙)に住んでいると思うとよいでしょう。

不幸を感じたり、困難な人生で思ったりする時は誰でもありますが、それでもこの世の中、宇宙は完全で完璧だと考えるのです。

そうすると自分のとらえ方が実は完全ではなく、そのせいで、「よくない状態」と自分が思っているだけと見る向きが出ます。言わば、社会や人のせいにしにくくなるのです。

ただし、これ(宇宙は完璧という考え)もいろいろな見方があり、段階・レベルによっては、あえて完全ではないような様相になっていると思うこともできます。

変な表現でわかりづらいかもしれませんが、この世は完全で完璧ではあるものの、同時に矛盾に満ち、不完全極まりない世界でもあるのです。

もう少し別の言い方をすれば、不完全と思わせる実働部隊のようなものが存在する(自分の見方・とらえ方も含めて)と考えればよいかもしれません。

ですから、つまるところ、多様な見方を獲得する術を身につけるとよいのです。

多方面から見て考えることができれば、自分がはまっている罠や、完全なるものを一部しか見ていない(見せられていない)ことに気がつく可能性がそれだけ高くなるからです。

自分が一瞬一瞬においても、どんな状況においても、完全性(中立性でもあります)を見つけること、それに戻していくことによって、まさに世界や宇宙、もちろんあなた自身も完全へと回帰していくわけです。

その前提では、やはり宇宙は完璧で完全であると想定する必要があるのです。

マルセイユタロットはまさにそのことを描いており、私たちが完全性を回復させるためのツールだと言えるのです。


自分が信じたものの力

スピリチュアルな世界では、自分の信じた通りに自分が世界を創造するという説があります。

私自身は、そう思う部分と、全部がそうとも言い切れない部分もあると考えています。

何事も極端にひとつのことで説明仕切れないという立場なのですが、原理としては究極的にはありうる話だとも思っています。

あくまで究極的に・・ということなので、現実の表現レベルで見るとなかなか難しく、たとえ原理的にそうであっても、そう気づけない仕組みもあり、ストレートに表されるような仕掛けにはなっていないと見ています。

しかしながら、心理的にも、信じることは自分の価値観に反映されますので、信じたものの世界でありたい、信じた形になってほしいという思いから、信じたものをデータとして切り取って見てしまうということはあると思えます。

そうなると、自分の世界観がイコール実際の世界とはいえないまでも、世界そのものに近くなってしまうこともあるでしょう。

もしこれをタロットとか占い・セラピーの技術の世界まで適用すると、自分の信じた技術や世界観がそのまま力にもなるということです。

逆にいえば、自分の信じないものは効果も出にくく当たりにくいですし、自分がその技法を提供しても、他人を納得させることは難しいと言えます。

つまりは自分が信頼し、確信を持てば持つほど、人への影響力を持つということです。

セラピーや占いの技術が未熟だから人を癒せない、鑑定できないという場合ももちろんありますが、提供する自分自身がまだそれに対して信頼を覚えていない、確信が持てないということもあるのです。

まあ、経験不足・技量不足だからこそ、まだ十分に確信に至らないという、当たり前のリンクもあるわけですが。

誰がやっても普遍的に、または同じ再現性の効果があるというのであれば、かなりその技法は客観性と科学性を持ちますが、心の世界を扱うものでは、目に見えない分野だけに、なかなかそうはいかないのが現実です。

従って、どうしても信じること、というのが鍵となってくるのです。

信じるためには、自分がその技法やツールに対して、興味があったり、好きであったり、愛があったりすることが必要でしょう。

それらがなくても信じることはできますが、興味がなかったり、嫌いなものだったりするものに対して、なかなか信頼を置くことは難しいはずです。

要するに、人様に何か提供するもので、影響を及ぼすものには、自分の中でそれに対する厚い信頼や愛があると効果が出やすい(力を持ちやすい)ということです。

そういうことでは、対象(技法やツール)と自分との相性も無視できません。

「好きこそものの上手なれ」といわれるように、学んだり、身につけたりする過程で、ワクワクしたり、やっていて楽しいと思えたり、喜びを感じたりする気持ちがとても重要です。

もちろんその過程で苦しみや困難さもあるでしょうが、苦痛ばかり感じる、違和感ばかり覚えるというのでは、信頼と愛をそれに対して向けることもできず、結局、力を得ることもできにくくなります。

私の場合もマルセイユタロットが好きというのがもともとあり、これを信じる気持ちがとても強いので、マルセイユタロットが効果的な力を持つとも言えますし、その世界(マルセイユタロットが示す世界)が納得できるようなものを自分に見せてくれる状況になっているとも言えます。

自分が信じたものがその世界になるというわけでもありますが、もうひとつの考えとして、自分がその対象の表す世界を信じる事を選択するという縁、自分の中にあるそれを引きつける何かとの相性もあるということであり、そう思うと、信じるものとの出会いもなかなか興味深いわけです。

さて、あなたはどんなものと出会い、その世界を信じることになるでしょうか。

あなたが信じたものは、自分のパワーを仮託したもの(分身)となり、自分や人を変えるツールともなるのです。

昔の武士の刀も物理的な切れ味や刀術によるところもあると思いますが、おそらくそのような持ち主の信頼による力の発揮もあったかと想像できます。

まるで漫画やアニメみたいな話ではありますが、タロットを扱っていると、そういうこともあると実際に思えてきます。


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