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ホドロフスキー監督作品の上映とタロットトーク。

お知らせです。

 先日来日されたアレハンドロ・ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」の上映会と、ホドロフスキー氏の扱うマルセイユタロットについて語るイベントが、7/13渋谷のアップリンクにて行われます。

 イベントの詳細ははこちら。http://www.uplink.co.jp/event/2014/29443

 映画とマルセイユタロットについて語るゲストとして、小川トモコさんが登場します。

小川さんは、知る人ぞ知る、京都祇園のカフェ・オパールの店主でもあり、私のところでマルセイユタロットを学んでいる人でもあります。

現在はカフェを経営されながら、お店にてマルセイユタロットリーディングによる問題解決や癒しのサポートもされています。小川さんはご主人とともにとても映画通であり、オパールもさながら映画文化カフェみたいなところもあります。マルセイユタロットが縁で、私もこの素敵なご夫婦と交流させていただいております。

まあ、そうした映画通であり、ホドロフスキー監督のファンでもあり、マルセイユタロットを知っていて、リーディングも実践されているということで小川さんに白羽の矢が立ったのでしょう。

ホドロフスキー監督のタロット好き、タロットへの情熱は有名ですが、いかんせん、日本ではタロットと言えば一般的に「占い」であり、多く使われているカードもウェイト版(ライダー版)です。

ですからホドロフスキー氏が映画監督として尊敬されていても、なぜ氏のようなすごい人がタロット占いなんかに凝っているのだろうかと、いぶかしく思われている映画ファンの方もいらっしゃるようです。

しかし、氏の扱い実践するタロットが「占い」ではなく、宇宙や人間、ありとあらゆるものを考察できるモデルとして象徴的に構成されている高度な書物であり、潜在意識に働きかけのできる極めて有効なセラピーツールでもあるのです。

そもそもタロットが何なのか、ということすら知らないのが普通の感覚でしょう。

(ただし、タロットの目的については諸説ありますし、私はあくまでホドロフスキー氏のタロットに対する考え方を共有しているということに過ぎません。占いが目的だという立場の人も否定しません。ただ、ホドロフスキー氏自身は明確に、自分の認識し実践するタロットは占いではないと話されています)

※ちなみに先日来日され、上映会のあと、公開タロットリーディングされたホドロフスキー氏のリーディングの模様は、この記事に詳しく書いています。

少しでもマルセイユタロットの秘密を知れば、ホドロフスキー氏の語るタロットについて今より確実に理解ができますし、氏のタロットへの敬愛の理由を知ることができるでしょう。また映画鑑賞的にも、タロットの象徴を知ることは、特にホドロフスキー監督の作品においては重要なことなのです。

例えば、私もホドロフスキー氏が来日しての「リアリティのダンス」の先行上映会に参加して、映画を見ましたが、上映中に多くの観客が笑ったシーンがありました。

ところが、タロットの象徴を知っていると、笑いのシーンに見えたものが、実は極めて崇高で、笑いの場面どころか、逆に涙を誘う深い感動の場面であることがわかります。

なお、映画「リアリティのダンス」は監督自身の家族が元型であり、それが投影されています。

と同時に、私たち自身のそれぞれが映画の登場人物に家族を仮託することができるようにもなっており、その結果、最終的には自分の抱える家族への負や過剰なプラスイメージの浄化・統合が行われる仕組みになっています。

とはいえ、これもタロットなどを通じて象徴にふれていくことで、よりリアルに心の中では感じることができるものです。

これこそ、監督の行う映画版「サイコマジック」と言ってもよいでしょう。

興味のある方は、7/13(日)の映画上映会とタロットのトークイベントに是非、足を運んでみてください。


「運」を「長さ」で見てみる。

マルセイユタロット、いえ普通のタロットならたいていは存在しますが「運命の輪」というカードがあります。

言ってみれば「運」「運命」という、私たちがとらえがたくも、結構意識しているような「何か」を絵柄として、象徴的に描いたものだと言えます。

このように、タロットの原理は、ものすごく単純に考えれば、目に見えなかったり、あるいは単なる言葉では表しきれないものを、「絵」としてカード化したものの集まりだと言ってもよいでしょう。

ですから、特定の人物が創作したカードの場合、その制作に関わった人の思いやイメージが入ることは当たり前です。

ということは、制作した人物の思想や感性に近い人は、そのタロットにも惹かれることになるでしょう。同じタロットを愛好する人たちで気が合うのも、ある意味当然なのです。

ただ、マルセイユタロットの場合は、特定の人物の創作性が反映されているのかどうかわからないところがある(大元を誰がデザインしたのかわからない)ため、それでも自分がもしマルセイユタロットにひかれるというのであれば、理由はまた別のところにありそうだと想像できるのも興味深いところです。

話がそれましたが、「運命の輪」です。

さて「運命」と私たちが言う時、その漢字が表す通り、厳密には「」と「」の両方を含みます。

」は不確かで、その時その時に変わっていくもの、ラッキー・アンラッキーというカタカナ英語で例えられるでしょうか。

一方の「」は人生であらかじめ決まっているようなこと、生まれ持った才能とか傾向、出会う人とか機会とかもあるのかもしれません。まあ、神から命じられているものという言い方もできるかもしれません。

でも自分ではわかりづらいため、とらえがたい「運」と同様に思われるわけです。

時間的なスパンで見れば、「運」は短期・瞬間「命」は長期・傾向みたいなことであり、波をイメージすれば、小波と大波と言えるかもしれません。

しかしながら、「運」もよく考えれば、大きな波とさらに小さな波の集まりからできていると想像できます。

いえ、実は「運」というものは、かなりの面で、自分の意志やとらえ方次第で変化するものだと言えます。

いわば、外側の波よりも内側の、自ら起こしている波があるのだということです。

これと関係するのですが、タロットの「運命の輪」から、私がある日イメージしたことは、「運」の時間的なとらえ方でした。

私たちは、運がいい・悪いと判断する場合、どれだけの時間(長さ)でそれを見るのかはあまり意識していません。

何か今起こったことに対して、自分の思い通りだったとか、そうではなかったとか、だいたい瞬間的な時間の長さ(ほとんど「長さ」はありませんが)で判断してしまいます。

しかし、たとえばこれを一日単位の時間の長さまで拡大して考えてみると、例えば出かける時には電車が遅れていて「運が悪い日だ」と思ったかもしれませんが、そのおかげ(時間が予定よりずれたせい)で偶然会いたい人に逢え、話もできて、今度一緒にどこかへ行く約束もできたとなれば、「今日は運が良かった」と思うかもしれません。

さらに時間間隔を延ばし、これを3ヶ月や半年単位とか一年単位まで見ると、いったい自分は運が良かったのか悪かったのか、わからなくなってくることもあるのではないでしょうか。

まあ、従って、「占い」の世界では時間単位別の「今日の運勢」とか「年運」とかあるわけですが。

大切なのは、このように「運」は時間の長さのとらえ方だけにしても、まったく見方(意味)も変わってくることがあるということです。

長いスパンで運が悪い(例えば今年よくなかったとか)と思えば、逆に細かく分けて、よい月もあったとか、いい日もあったとそれにフォーカスするとよく、反対に、今運が悪いと思った人は、もっと長いスパンで運を判断するのもありでしょう。

よく、「人生ついている」「私が運がいい」と言ったり、思ったりすれば、実際にその通りになると言われるのは、こうした「運」のとらえ方を意識的にずらしたり、伸ばしたり、フォーカスする部分を変えたりしているため、そのように自分で見えてくると同時に、その世界に自分を移行させているのだと思えます。(大げさに言えば世界を創り変えている、乗り換えている)

「運命の輪」が示すごいところは、この時間や世界の移行装置(内的なマシーン)であることがもうひとつの重要な秘密です。これはマルセイユタロットだけが持つ、ほかのカードとの極めて整合性の取れる関連構成になっているから言えることです。

「運命の輪」単体だけでもある程度の秘密はわかりますが、ほかのカードと組み合わせないと出ない秘密もあるのです。これがマルセイユタロットがコード(暗号)でできており、鍵を集めて扉を開けるシステムになっている理由なのです。

しかもそれは、基礎を習えば、やがて自分で発見(気づき)できるようになっています。

また話がそれましたが、「運」については、運をよくするとか悪くしないとかの視点だけではなく、ちょっとした時間や見方の「ずれ」を自分で呼び起こしてみましょうということです。


正解はひとつではないという考え方。

タロットリーディングやタロットの解釈にも言えることですが、「答えや正解はひとつ」と考えていると、なかなかうまく行きません

それはタロットが象徴(の絵柄)でできているものだからです。

では現実は象徴ではないから正解というものがはっきりと出る世界なのか?と言えば、そうとも言えますし、そうではないとも言えます。

というのは、私たちの住む現実の世界ですら、物事として具体的な場合もあれば、やはりそれ自体を「象徴」だと読めることもあるからです。

言わば、記号(それ自体に答えや意味が決まっているもの)や象徴が両方ある世界でもあるのです。

ただ、それはあくまで見る側の解釈やとらえ方にかかっています。つまり、人間ひとりのひとりの見方によるということです。

ここからしても、世界は自分(のとらえ方・見方)によってできているという説が納得できるものになります。

さて、現実の世界や環境を象徴として見る時、タロットと同じようなことになり、正解がひとつではなくなります

いえ、実は私の考えでは、「答え」はそれぞれにひとつあるのですが、もっと詳しく言えば、次元・レベル・階層・フィールドによって答えが違ってくるという例えが正しいかもしれません。

次元は縦階層になり、フィールドは横の連続ということになります。

縦の次元というのは、例えば、全体(神性)意識で見ればどうか、個人の現実利益のレベルで見ればどうかといった違いと言えるでしょう。

一方フィールドの横というのは、仕事を中心に見れば、家庭を基軸にすれば、この年齢の選択で言えば・・というようなことになるかもしれません。

こうして考えると、正解など実は多数あり、極論すれば誰もが納得する答えなどはないのだとなります。では探すだけ無駄なのかといえば、それもふたつの考えが出ると思います。

ひとつはやはり無駄なので、つべこべ・あれこれ考えすぎても始まらないという立場や行動を重視するものです。

そうすれば、「こだわり」というものを少なくできます。この見地に立てば、人生は正解を探すことではなく、生きるプロセスそのものを楽しむ・味わうということになります。

そしてもうひとつは、無駄ではないけれども、どのレベルの正解を選択をしていくかを楽しむ、またはその見極めの力を修練するということになります。

そのためには、次元やフィールドの違いを自分自身が知ることが大切です。

フィールド(を増やす)というのは多様な経験になるでしょうし、次元の多層を知るには、「象徴」的見方・感じ方を学ばなければなりません。昔風に言うと、神や天使、仏や菩薩の世界を知るということです。ここにタロットが活かされる余地があります。

結局のところ、私たちは正解があるようでない、ないようである世界を泳ぎ楽しみ、あるところからあるところに移行しながら、同じところに実はいるという感じなのではないでしょうか。(笑)

これはマルセイユタロットで言えば、「愚者」のカードそのものだと言えます。

正解にこだわってしまうと、同時に不正解であることも自分の中で出現させることになります。それが人への批判や自分の内的葛藤を生み出します。

ただ、数学レベルで解答がきちんとあるように、物事のある次元・フィールドにおいては正解はあります。それを見つけることも文字通り、「正解」になる場合もあるでしょう。

矛盾しているようですが、人や世界は一見、矛盾だらけです。ただそれを統合できる考えに至った時、自分自身での正解は見つかるでしょう。

けれどもそれはまた普遍的(万人に当てはまる)正解ではないかもしれません。こうして何重にも正解・不正解、答えがある・ない、個人の正解・万人の正解等の矛盾を行き来しながら、私たちは結局宇宙を意識することになるのだと思います。


責任の負い方・取り方、バランス。

今日はタロットをしていて浮かんだことがあったので、記したいと思います。

●過剰な責任の負い方と、不足な責任の取り方

これは「正義」のカードが端的に象徴することですが、責任(の持ち方・取り方)のアンバランスという観点では、

1.自分の現状や今の能力を超えて、必要以上に責任を負おうとする人(状態)

2.本来やるべきことや、取るべき責任から逃げている人(状態)

が挙げられます。

「(状態)」と書いたのは、これは特定の人のことを言っているのではなく、結構誰にもそのようなことが、時と場合によって起こる(起こしてしまう)からです。

さて、面白いことに、私の見るところ、日本人では1は個人に起こりやすく、2は組織や集団に生じやすいと言えましょう。

1ですが、注目を浴びれば浴びるほど(または周囲を気にすればするほど)、自分自身のイメージや状態よりも、外(他人)の周囲のイメージが優先されるようになり、その投影された巨大で高いレベル(他人や大衆が求めている幻想レベル)に自分を合致させようとして、個を超えた自分の力を信じて、実際にはできないことも多いのに頑張ろうとしてしまいます

こうなると、いつも強いプレッシャーを感じることになりますし、できないことをやろうとするわけですからつらいです。

「達成しようと頑張る」→「できない」→「もっと頑張ろう」という悪循環にも陥り、それは結局不幸と言えます。

それで自分を見失い、失敗(本当は失敗でもないのですが)を繰り返して、疲れ切り、自滅することもしばしばです。(このあと、プレッシャーを与えた対象(相手)か、逆に応えられなかった自分を責めるようになることが多いものです)

2は、特に組織の場合、内部集団に紛れることで、責任をあたかも分担したかのような錯覚になって、本来その組織の長や担当者が取るべき責任が軽くなってしまうことがあります。ひどい場合は、意図的に責任者が組織を隠れ蓑にして、隠蔽したり、逃げたりすることもあります。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」というような具合ですが、自然発生的な個人のバラバラな状態ならば仕方ありませんが、もしこれが組織の団体行動で、赤信号でも渡らせた(それで事故が起こったという場合)組織のリーダー・責任者も責任を取る必要があります

まあ、このあたりは今までもよく言われているので、「そうそう、日本の組織はそういうとこあってダメなんだよね」と思っている人も多いでしょう。

ところが、実は私たちは個人レベルにおいても、この組織的責任回避(というより逃避)をイメージでしてしまうことがあるのです。

それは、本来自分(個人)が行うべきことであるばすなのに、何かと理屈をつけてやらない場合に起こりやすいものです。

簡単に言えば、自分ができない理由を正当化するために、ほかのできていない人を見つけて、「ほら、あの人もしていないよ」という、似たもの疑似集団を自分で作り出すわけです。

やっかいなのは、これがイメージの世界なので、事実よりも自分の都合のよい解釈によって、時空さえ超えて理由や共通点を見つけ出そうとすることです。

時空を超えるというのは、たとえば 成功者とか今はうまく行っている人の過去に遡って、「今の自分と似たところがあった」としたり、空間は言わずもがなですが、場所を飛び越えて実際に会っていない人、知らない人に対してでも、「きっとそうなんだろう」とか、「この人の言うことが、私の今の状態でもいいことを許してくれている(と自己解釈する)」と思ってしまうことです。

いわば責任逃れのための理由を、勝手な解釈でグルーピング化(人や理由の、組織化や集団化)してしまうということです。もっと平たく言えば、個人の問題なのに一般化(全体の問題化)しているのです。

前にも書きましたが、「怒り」や「悲しみ」がある場合は、個人的問題が一般問題化されて隠れている場合が結構あります。

さて、最初に書いた責任の取り方のアンバランス「1」のケースに戻ります。そう、自分を追い込んで責任を取り過ぎているパターンのことです。

これの判断は、自分が楽しんでいるかどうか。あるいは、やればやるほど心と現実(形あるもの)が消耗しているかどうかという点が見極めのポイントです。

何かを達成したり、結果を出したりすることは快楽的(気持ちいいこと)なことだけではできないのが普通です。そこに何らかの熱意ある働きかけや行動(努力の場合もある)が必要です。時には苦しいこともあるかもしれません。

ただし、やっているのに結果も出ず、心身が消耗し、お金もなくなり、人間関係もおかしくなっているものは、やはりそこに“過剰な”何かがある証拠です。

たいていは、先述したように、本当の自分の気持ち現状の能力・扱える範囲ではなく、誇張され、自分ではないほかの人から拡大投影されたイメージの「自分」を演じようとして、自分を超えた責任を背負い込んでいる場合が多いのです。

この時は、フラットな自分に戻るため、自分を甘えさせてもいいわけです。

そもそもが「自分以上のこと」をしようとオーバーワークになっていたわけですから、甘えるというより、本来の自分相応に調整すると言ったほうがいいです。

注意すべきは、自分が演じているだけではなく、誰かに対してそうした「過大な人になること」を要求していないかという点も大切です。

すごく単純なのですが、「何かが変・おかしい」と自分が感じているのなら、やはりそれはバランスの意味で正しいことがあるわけです。

ここがマルセイユタロットで言えば、「月」とも関係するのです。よって「月」と「正義」はバランスの意味で関連しあうカードとなります。


潜在意識に到達したかどうか。

昨日は蟹座の新月でした。

蟹座と月と言えば、マルセイユタロットでは「」のカードがイメージされます。

占星術上でも、蟹座と月は密接な関係にありますが、奇しくもそのまま月とカニ(ザリガニのような甲殻類)が描かれているのがタロットの「」のカードです。

この理由(月とカニの関係)を探っていくと、非常に奥深いものがあり、単なるリズムや周期・本能的なものだけではないことが感じ取れます。

しかし、なかなか言葉では説明しづらいもので、一人一人がタロットを見ながら、自分の心で受け取っていくしかないものだと私は思います。(もちろん象徴の意味は最初に知識として入れての上です)

さてこうして「月」のカードを見ていると、何かしらまた新たに伝わってくるものがあります。

今日は出てきたのは「潜在意識」についてでした。

余談ですが、このようにマルセイユタロットは、自分の蓄積した知識や経験、さらには人類が集合投影させているイメージもカードの象徴として組み合わせることで、まるで自分自身と問答しながら、別の人と心で会話してメッセージを受け取ったり、自分の考えを整理して行ったりするような働きを見ることがあります。

それはさておき、「月」が示したのは、潜在意識に浸透したかどうかの確認の点でした。

まあ、ここで言う潜在意識というのも、実は不確かなもので、マルセイユタロットの「月」のカードに描かれている「水たまり」のように波を打ち、顕在(表面)意識と呼ばれるものと、どこで線が引けるかとなると難しいものではあります。

またそもそも潜在意識と一言で言っても、それは多層になっていることがあり、どの層を表すのかも一概には言えません。

しかもよく言われるように、真の意味では潜在意識が力(パワーではなくフォース)を持つというわれますが、それも、どのあたりまで力があるのか、現代ではまだ科学的にわかるわけではないと思います。

ということで、あくまで推測の範囲、イメージや想像でのものとお考えいただき、ここの仮定として、私たちが普段意識している表の意識とは別に裏の意識層があり、それは普段の思考で気がつかないけれども、全人格的意識(通常意識だけではない、高次や低次も含む一人の人間にある多様な全体意識)ではとらえることのできるものがあるとしておきます。

そして裏の意識は物事を実現化させたり、表面化させたりするのに多大な影響力を持っている(いわゆるブログラミングの力を持つ)と設定しておきます。

ということは、自分を変えたければ、裏の意識・潜在意識までその意志が伝わらないといけないということになります。(反対に悪癖や習慣も、潜在意識にそれをさせる何かがあると見ます)

意志が伝わるというより、潜在意識のほうで今まで働いていたプログラムを変更するようなエネルギーの組み替えが行われるような状態になる必要があると言ったほうがいいかもしれません。

それで、そうなった(潜在意識まで浸透したか)かどうかを調べる単純な顕在意識(表の意識側の)判断は、実際に物事が変化してきたかということになると思います。

つまり、潜在意識まで顕在意識の思いが伝わる(浸透した)かは、自分の外の実際の変化を見ればよいということです。

潜在意識に力・フォースがあるとするのなら、そういうことになります。

従って、潜在意識への働きかけには、「浸透」が重要なキーワードになります。

浸透する、染みわたる(これも象徴的表現です)ためにはどうすればよいでしょうか?

すぐ思い浮かぶのは「繰り返し」「反復」です。ずっと続けていれば、少しずつでもいつかは到達するでしょう。

あとは少ない回数でも衝撃やインパクトということになるでしょうか。これはマイナス的ではトラウマということで言い表せるかもしれません。反対に、よいこともインパクトがあれば、浸透する可能性は高いです。

しかし、衝撃の方法は必ずしも顕在意識の思っような影響で浸透するとは限らず、それだけ強い刺激ならば、エネルギーの組み替えやプログラミングに何か傷がつくことも危惧されます。

安全に浸透させるためには、少しずつやっていくのがよいと思えます。

ただ何でもいいということではなく、まず顕在(表面)意識が納得(思考と感情の納得)することは当たり前の前提であり、そして浸透しやすいということであるならば、「」のようなものがイメージされます。

「水」のようなものというのは、これも象徴で、まさしくイメージや図像、音声などの響き、場合によっては感覚的なもの、感情を刺激するものとなるでしょう。またその人がもともと納得しやすい、腑に落ちやすいと思う方法です。

腑に落ちるためには、人によって4タイプの個性がありますので、誰かがよいという方法でも、自分では合わないこともあります。ここはとても大事なことです。

そうしていくうちに、潜在意識に顕在意識の思いが浸透し(すべて受け入れられるわけではないのですが)、外の実際の変化(自分の行動や環境の変化)によって、その到達具合、プログラムの変容状況を判断することができるでしょう。

逆に言えば、何かをやっていても一向に外(または自分)が変わらないというのは、潜在意識で変えられないルールにふれていたり、潜在意識まで浸透していなかったり(まだ続ける時間が必要であったり)の状態であるということです。

また自分には浸透しにくいツールや方法である場合もあります。

心や潜在意識への働きかけによって自分を変えたいという人には、現実(実際)をよく観察すると効果的です。


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