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愚者 何者でもないこと

私はタロットを扱い、いわば仕事にもしていますので、人から見れば「タロットの専門家」という感じになるかと思います。

しかし、自分自身は、タロットの専門家でもないですし、かといって、タロットの愛好家とも言えません。

前にも何回も書いていますが、たまたま、自身の好みと探求の方向性において、「マルセイユタロット」をモデル・ツールとして使うことがふさわしく、理に適っていると考えているからです。

従って、奇妙なことが私には言えます。

それは、タロットにおいて“何者でもない私”になってしまうということです。

ここで言う、何者でもない、というのは、タロットの歴史・研究マニアでもなければ、魔術的タロット実践者でもない、かといって、タロット占い師でもなければ、また心理的タロット研究者でもない、ましてやタロットコレクターでもないわけです。

ただ、自分の弁明(笑)のために言っておきますが、一応、マルセイユタロットにおいては、深くやっているつもりで、少しずつつまみ食いをして、広く浅くタロットと関係しているというタイプではありません。(笑)

で、何を言いたいのかと言えば、何者でもない感と、何者かでありたい感について、ちょっとふれたいがためです。

「何者でない感」は、逆に、「何者かでありたい」という感情が裏返し・セットになっていることがほとんどです。

人は、自分が特定できる何者かであり、人からも「こういう人だ」と認められることに安心感を持ちます。

一方で、特に、他人から言われる「自分像」に抵抗を示す気持ちも、多くの人にあります。

心理的によく言われるように、「自分だけ知る自分」というものがあり、さらには「自分さえ知らない自分」というのもあります。だから、当然のように、他人から見られている自分像というのは、ほんの一面に過ぎないことを、自らも(無意識な面も含めて)わかっています。

この、特定されたい、個性を指摘されたいという一面と、反対に、特定されたくない、人の言う自分ではない(人の言う自分にはなりたくない)という一面との、アンビバレンツな感情が人にはあるわけです。

結局、安定と自由の葛藤であり、維持と破壊のふたつで揺れる存在(が人間)とも言えます。

「何者かである」とされた時、人は固定され、言わば自由を失います。束縛と同じようになるわけです。しかしながら、その恩恵も大きく、何かに属し、レッテルを貼り(貼られ)、個性が与えられると、その箱(範囲)で安心して暮らすことができます。

自分がそう振る舞うことで、ほかの余計なこともしなくて済み、精神的な(組織に属せば、物質的にも)安定が得られるでしょう。

ただ、いつか「本当に自分はこうなのだろうか?別の自分がいるのではないか?」という、確保した安定性と付与された個性を放棄したくなる「破壊」的な疑念と、新たな自分を見出したい衝動も出てきます。

マルセイユタロットの大アルカナで言いますと、皆、どれかひとつ(か、幾つか)のカードが表す「自分」というものに、一度は落ち着きます。ただ、本当は「愚者」かもしれず、「愚者」は数を持ちません。ということは、どの数でもなく、自由であり、何者にも特定されていないわけです。

「愚者」の絵柄を見れば明らかなように、旅姿をしています。つまり、「愚者」に戻れば、本当の旅が始まると言えるのです。

あるいは、特定されたカードから「愚者」に戻って、また別のカードになるために旅する、その繰り返しかもしれません。

もちろん、人には生まれ持った性質とか、宿命のようなものもあるでしょう。それらは言わば、初めからなじみのあるカードとも言えますし、手札として最初から配られたカードとも言えます。

ですが、基本、皆、「愚者」だと思えば、ほかのカードは、自分の仮初の姿に過ぎないと言えます。

人との違いが商売とか経済的なもの、あるいは生きる楽さ(落差)にもつながってしまう今の世の中で、「自分は何者でもない」と悩む人も多いかもしれません。

それでも、マルセイユタロットで言えば、皆、「愚者」なのですから、それが当たり前と言いますか、「愚者」であることが旅を自由にさせるとも言えます。

これは責任放棄を勧めているわけでは決してありませんが、「愚者」という何者でもない者として自分を取り戻せば、背負い過ぎているもの、強制的に演じさせられているもの、それらからは解放されて行きます。

マルセイユタロットを手にすれば、あなたは「愚者」として本当の旅を始めることができます。

占いも救いになるかもしれませんが、かえって自分を何者(成功者など)かに固定することに迷わされ、空しくなることもあります。そういう人たちは、マルセイユタロットの学びによって、実は守られるかもしれません。

矛盾した言い方ですが、特定からはずれることで、自分自身が守られることもあるのです。これは語弊がありますが、言い換えれば、(いい意味での)目標放棄に近いものなのです。


梯子、段階、引き寄せの法則

口伝等あるので、明確には避けますが、マルセイユタロットには梯子の象徴がいくつか描かれています。「梯子」ということから何かを上り下りするわけです。「何か」とは皆さまの想像にお任せします。

そして、その梯子の象徴を見ていると、段階というものをやはり思います。

梯子は階段と言ってもいいわけで、何事も、ひとつひとつ習得したり、クリアーしたりして、次の段に移ることができるのだと考えらます。

階段とか梯子とか言いますと、つい、昇ることばかりをイメージしがちですが、当然、降りることもあります。

上り下り(昇り降り)両方とも、一足飛びには行かないものです。(まあ、特別な能力とかツールがあれば可能かもしれませんが、それは反則みたいなものです)

ところで、「スピリチュアル」という言葉が、今は一人歩きして、何やら不可思議なこと、見えない存在との交流が可能なことのライトな意味に思われてしまっている節があります。

本来は「霊性」と訳してもいいもので、かなり統合的・包括的・象徴的概念で、現世利益的なことからは離れているものとも言えましょう。

しかし、ライトな意味合いでのスピリチュアルは、かなり現実的な利益性と結びつけられているところがあるようです。

例えば、「引き寄せの法則」という考えと言いますか、“信仰”のようなものがあります。

簡単に言えば、願えば叶う(強く思ったことは引き寄せられ、現実化する)というものです。

これは、個人的には、まったくの嘘ではないとは思います。

しかしながら、ライトスピリチュアル界隈で例えられている「引き寄せの法則」となりますと、かなり安易で、楽して儲けたいとか、簡単に夢を叶えたいというもののように見受けられます。

もちろん、心理的なブロックして、自分の観念に「成功は苦労しなければ手に入れられない」とか「お金は汗水たらして稼ぐもの」とか、「幸せのためには不幸も経験しなければならない」という掟・ルールのようなものがあれば(つまりはもうそれが信念、信仰になっているわけです)、その通りになるよう、無意識的に自分をそうさせてしまうこともあります。

けれども、私たちは、肉体を持ち、物質の世界で精神を抱いて生きる存在です。要するに、物理的法則のようものが必ず働く世界にいるわけです。

思ったことがそのままダイレクトにすべて実現すれば、とんでもない世界になります。それゆえ、時間的・物理的干渉があるのです。

ただ、時間的なことでも、ライトスピリチュアル界では誤解があるようで、願ったことが叶わない(引き寄せられない)のは、時間差があるからだ、と思っている方もいるようです。

深く考えると、確かにそれはそう(時間差・タイムラグがあること)かもしれないのですが、やはり、時間だけではない制約・ルールがこの(現実)世界にあることが無視されているように感じます。

そこで梯子や階段なのです。

物事が成就するには、すべて段階を踏んでいると考えられます。これはおそらく精神世界においても同様でしょう。ただその表現が異なるだけだと思います。

マルセイユタロットのみならず、占星術、カバラーなど、古代思想・体系においては、皆、一様に「段階」や「レベル」のようなものが想定されています。

たとえ魔法世界であろうと、そこにはルールがあります。

魔法の力を行使するには、それなりの準備と段階を経なくてはならず、その過程があって初めて発動されるわけです。

ですから、「引き寄せの法則」であっても、そこには段階があると見るのが、ライトスピリチュアル的な考えであっても、持っておいたほうがよいように思います。

引き寄せには、イメージとか思いが大事だと言われます。

それならば、何かを得たいのであれば、それが得られるイメージを段階的に思い描くことも必要でしょう。

望みや願いの最終結果だけイメージしても、その途中・過程のイメージが省略されてしまっていては、まさにイメージにおいての「段階」をすっ飛ばしてることになり、それでは、叶いにくくなるのも、仕方ないと言えるわけです。

「イメージ」の中でも、ひとつひとつ梯子を上って行く、梯子に手をかけて行くような“段階別イメージ”を形成していく必要があると考えられます。

この努力を怠っていては、普遍的な物事の成就ルールというものからはずれていることになり、引き寄せの法則ようなものでさえ、その実現と効力発揮も難しくなる言えます。

ただし、これとはまったく逆の発想・方法もあります。

それは結果のイメージを強く持ち、あと(過程)は自分の無意識の領域に任せるというやり方です。言わば、梯子や段階をあえて飛ばすようなものです。

ただし、これが可能なのは、私が思うに、梯子作業がある程度できるようになってからではないかということです。

それに、これには、絶対なる自分の信頼(自分を神と認識する自信、言い換えれば自分の中に宇宙を持つこと)が必要だと思います。

たいていの人は、引き寄せ作業を行っても、自分=宇宙の信頼が中途半端なため、無意識領域で創造やお膳立てが行われることに疑念が生じます。

自分=宇宙などと表現しますと、それこそライトスピリチュアルそのものみたいな感じ(笑)がしますが、ライトスピリチュアルでよく言われている「自分=宇宙」のようなことは、実は宇宙を何か(万能に叶えてくれる)外の神のように見て、むしろ自分と切り離してしまっているのが実情のように見えます。

自分が宇宙や神であるということは、おかしなことに聞こえるかもはれませんが、自分が悪魔であるということにもなるのです。

自分が宇宙や神であると認識するには、まずは自分が悪魔であることも自覚しないとならないわけです。(これは私のマルセイユタロット講座を受講している人なら理解できることだと思います)

そのような人は、引き寄せで、あえて段階を飛ばしてイメージしても、願いは叶いやすくなると思います。

そうでない人は、まず、物理法則世界のルールも勘案して、同じようなルールが精神の世界にもあると想定し、イメージにおいても段階を踏んでいくことです。

もし、その過程において、どうしてもイメージ(想像)しにくい部分があれば、それこそがあなたの限界であり、あなたの夢を実現することを阻んでいる部分、あるいは弱点(補強しなくてはならないもの)とみなすことができます。

そして、それは他者や他の情報からトレースすることも可能なのです。

自分の限界は自分が超えていくことになるわけですが、超えるための情報は、今の状態の自分以外のもの(人)が持っていることがほとんどです、つまり、宇宙(自分)は「全体(他者も含むもの)」なのです。

単純に願えば叶う、思えば引き寄せられる、という幼稚園児的な発想から脱し、現実逃避や過程を省略することに注意したいものです。(※繰り返しますが、「引き寄せの法則」を否定しているのではありません。この法則そのものは真理を含むところはあると考えています)


「月」のカードと夢の話

人間、をかなえたいと思うものです。

若い人は特に夢があり、それも大きいものを持っていることでしょう。

年を経てきた者は、これに対して、「現実を知りなさい」とか、「そんな絵空事」とか言って、若い人の夢を否定する人もいます。

かつての自分がそうであったのに...です。でも、だからこそ、夢を追い続けて、失敗した人生にしたくないという老婆心的な助言の意味もあるでしょうし、実は、若い頃の昔の自分自身に対して言いたいということもあるのかもしれません。

さて、タロット的を考えてみましょう。

日本語で「夢」という言葉には、大きくわけてふたつあります。

ひとつは、今述べたような、かなえたい希望や願望のようなもの。もうひとつは、私たちが眠っている時に見ている映像や幻のようなものです。

どちらも「夢」という言葉を使うということは、本質的に、ふたつは同じものではないかということが考えられます。

マルセイユタロット的には、おそらく「月」のカードと関係するのではないかと思います。

「月」(のカード)は、夢の両方を表し、実現したいイメージということもあれば、睡眠時に見る混沌としたイメージという印象もあります。

実際、「月」には、水滴が月に向かって吸い寄せられているかのように描かれているので、それが夢のエネルギーだとすれば、願望の夢も、夜見る夢も、等しく月に向かうと想像されます。

いや、逆に考えることもできるでしょう。「月」というものから降り注ぐエネルギーが、夢という形(イメージ)を与えていると。

水滴は普通、下に落ちますので、当然、下部が膨らんでいるようになります。しかし、もし水滴というよりも、何か矢のようなエネルギーであれば、むしろ向かう先のほうが尖り、やがて相手に刺さるようにもなるでしょう。

こう考えると、マルセイユタロットの「月」の水滴は、月の毛髪・触覚のようなものが地上に発射されている図と見ることもできます。

ということで、どうやら、夢は月という存在(これは天体的な月というよりも、象徴的な月の意味)から、私たちに投げ与えられたもののようであり、月によって私たちは動かされている(踊らされている)ところもあるのかもしれません。

ただ、それは現実の世界を面白くする効果もあり、夢を思い描くことて、私たちはまさに希望を持ち、願いをもって活動し、生きることができます。人生に彩りを与えると言ってもいいですし、生きる原動力にもなるでしょう。

一方、夢破れることも多く、望みとしての夢はなかなか叶いにくいものです。

しかしそれは、月から見れば、面白いことなのかもしれないのです。

個人の人間の範囲では、夢がかなわない、夢が破れることは悲しいことですが、夢を持ってあれこれ思い、動き、それが実現しようがしまいが、月の視点からは関係なく、上から眺めていると、そうした過程こそが楽しい・面白いみたいな感覚です。

心や感情の操作と言いますか、その波を作り上げているという感じでしょうか。

でも、だからこそ、私たちは喜怒哀楽を持ち、現象について色々と感じることができ、この世は、はかなくもあるし、楽しくもある(エンターテイメント性がある)と見ることができます。

しかし、現実に生きている昼間の時間では、夢や感情を持って、いろいろと考え、思いながら生活していますので、それがずっと続くと身が持たないことになるのでしょう。

従って、睡眠時は、別の「夢」を見ることによって、心身が整われ、再び起きている時間に夢を追うこと、感情の起伏をもって生活することができるようにされているのだと考えられます。

睡眠時の夢は時間軸もバラバラで、混沌としたものが多いですが、逆説的にはなりますが、混沌としたものだからこそも混乱したものを整理することできるのだと想像します。

マルセイユタロットの「月」の数は18で、まだ大アルカナでは、残り三つ、19「太陽」、20「審判」、21「世界」が残されています。

ですから、この夢(月)の(操作の)世界では完結せず、究極的には、ここから脱出する必要も、グノーシス的にはあると言えます。

とはいえ、夢のエネルギーの力も現実には必要で、私たちが人間であることの原動力のひとつとなっていることも間違いないでしょう。

夢なき生活は味気ないものですし、また夢(特に幻想)に溺れていては、現実性を失います。

ところが、「月」のカードを見ていると、「夢うつつ」と言われるように、夢と現実は同じで、ただ作用が違うだけであり、夢を見ることは、実は現実を活かすことと同意義になる次元があるのだということがわかってきます。

うまく「月」を理解し、「月」を能動的に見ることが重要です。その意味では、「月」は「悪魔」のカードとよく似ていますし、「運命の輪」とも強く関係してくると言えましょう。


天使のカードと愛

以前、アメブロの時にも、何度か取り上げたことがありますが、マルセイユタロット・大アルカナのうち、天使が明確に描かれているカードは4枚あります。

一番天使らしい「節制」、大天使を彷彿させる「審判」、四つの生き物のうちのひとつとして天使が描かれている「世界」、そして上空に矢をつがえた天使のいる「恋人」です。

もっとも、「恋人」の天使はクピドー(キューピッド)、あるいはエロースの神とも目されますし、「世界」の天使も人間として見られる場合もあるので、厳密にはそれらのカードにいる存在は天使ではないかもしれませんが、見た目上の、天使的カードということにしておきます。

マルセイユタロットにおける天使の象徴性は、四大元素では「水」、大きなことで言えば、ズバリ「」でしょう。

愛の定義は、この際、置いておくにしましても、20の「審判」、21の「世界」と、大アルカナの最終ナンバーに向かって二枚、天使が続くところからしても、「愛」が、過程と目的で大きな意味を持つことが示唆されます。

結局、「愛なんだよ」(苦笑)ということなのですが、それは自分を救い、他人を救う原義とも言えます。

この「自分を救い(救う)」という部分が、愛の目覚めで、とても重要だと考えます。

それは、月並みな言葉ではあるのですが、「自分を愛する」ということで、しかしそれは他者への愛、他者の救いの意識も同時に起こしていかなければならないのだと思われます。

しかし、「自分を愛せ」と言われても、なかなかできないですし、わからない人が多いのも事実です。ましてや、苛酷に他人と比べられてしまうこの現実社会において、自分の無力さ・弱さを思い知らされる人は、かなり多いのではないでしょうか。

そんな状態で、自分を愛せと言われても、難しいものです。自分を卑下したり、貶めたりすることに慣れてしまって、むしろそうしたほうが心地よい、責任からも逃れられる…というような心境になってしまっている方もいらっしゃるかもしれません。

それを一概に責めることはできません。それほど、理不尽な世の中とも言えます。

ですから、自分を愛せないものは、他人も愛せないとよく言われますが、そうとも限らないと思います。

他人への愛があることで、自分を愛することに気づく場合もあるでしょう。自分だけではどうにもできない時は、他者の力を借りることです。

それは、他人からの援助を実際にしてもらうという意味もないわけではありませんが、ここでは、他の存在と他者への愛を意識することという、心理的なものが主です。

自分は一人ではない」という、当たり前のことを思い出し、自分一人で紋々としていて、始まりも終わりもできない時、他者という存在を意識して、心理的なフィールドを拡大するわけです。

すると悪い人ばかりではないことにも気づけるでしょうし、家族や友達、知人の大切さに、改めて思い至ることもあるでしょう。言葉で言えば「ありがとう」の気持ちです。

一人ではすべてできるわけでもないこと、また逆に、自分でやらねばならないことを他人任せにしたり、他者からの救済を望み過ぎていたりしていたことに(自分でやれることがあると)気づく場合もあるでしょう。

自分を愛せなくても、他人、あるいは動物やモノ、作品、とにかく自分以外のものに向けて、愛情を注げることができた時、それは円や輪となって全体を見た場合、自分への愛に最終的にはなっている構造に見えてきます。

それでも、それを無理にせよ、というのでもないのです。

そんな中で、せめて、「私(俺)、よく生きているよな」「まあ、頑張っているな」みたいな、慰めみたいなものあっても、自分に対して別の自分が声掛けしてもいいのではないかと思います。

そういうものも、小さいけれど、自分への愛のひとつでしょう。そこから転じて、わずかばかりの愛を他者、あるいは、自分とは別のものに向けても愛の波動が生じることになります。

アニメ「輪るピングドラム」でも表現されていた「りんご」の受け渡し。まさに愛の循環の波動が、運命や世界そのものを変えることになるわけです。

つまるところ、自分と他人は同じであるということが広義の「愛」につながっていくのでしょう。

最終的には、宗教風に表現すれば、「神の愛」に気づく、「神の愛」が自分の内にあることに目覚めるということになり、それが宇宙の意識や真理ともまたつながることになっていると推測されます。

ところで、カモワンタロットでは有名なタロットマンダラという、いわゆる「愚者の旅」として、大アルカナの数による成長を見て行く手法と図がありますが、先述した4枚の天使のカードは、タロットマンダラの図では、「13」のカードの周囲に位置することになります。

これは死と再生的な意味にも見えきますし、愛の目覚めには、厳しいことや、一度(ならず何度も)古い自分の死を迎えねばならないということのようにも感じます。

そして、地獄に仏というように(笑)、どんな苦境や試練にも、天使的な愛の意味が含まれており(救いとセットになっている)、反転すれば、ほかならぬ(自他の)救済の種になっていることに気づくのだと思います。


直感性 タロットの絵柄がどう見えるか

この前は、一枚など、少ない枚数のタロットを引いて、直感的に読むというお話をしました。

タロットは絵柄でできていますので、クライアントやタロットを見る側の人にとって、引いたタロットがどのように見えるのか、感じるのかということが重要なわけです。

読み手、タロットリーダー側は、それに解釈を加えたり、タロットの意味を、相手の情報と重ね合わせたりして、タロットの受けて側と共同で最善と思える答えや判断、指針を出していきます。

さて、そうなると、タロットをもともと勉強していた人とか、タロットリーダー自身が自分でタロットを見る時は別として、普通はタロット(の意味)を知らない人が、受け手側として、その絵柄を見るわけです。

すると、やはり、直感性をもって、絵柄のことを受け取ることになり、むしろ、そういう(直感)スタイルがノーマルでしょう。

一部のスピ系の人などでは、思考よりも直感・感性(で受けとったもの)のほうが正しいという人もいますが、実は、直感とか感性というのも怪しいところはあります。

むしろ知識とか思考ほうが普遍的であり、数学の答えのように、共通の正しさということを現実レベルで引き出しやすい性質があります。

直感も、次元の高いレベルまで引き上げられていると、それは通常の思考や知識を超えて、特殊な言い方をすれば「神の領域」に入るため、その正しさレベルもぐっと上がります。

しかし、低次の直感とでもいうべきもの、言い換えれば、個人の(囚われの)枠、フィルターを通した感性では、好き嫌いレベルにも等しいことがあり、それはファンタジー(自分の思う心地よい幻想)での選択になっている場合も多々あります。

ですから、感性とか、自分のありのまま(本来の自分が望むこと)に従うという判断にも間違い(というより幻想)が潜んでいて、危険でもあるわけです。(「本来の自分」と信じる存在が、幻想であれば元も子もないですから)

つまりは、自分の中にエゴや欲求、さらにはいろいろと植え付けられた観念とか思い込み、そして肉体的・精神的・心霊(サイキック)的障害(病気・不健康・疲労・ストレス・ブロック・アンバランス・憑依など)も個人個人にはあって、それらが感性・直感に影響を及ぼしていることは普通にあるのです。(影響のない人はいないくらいです)

そのため、より浄化した状態で、直感的チャンネルの感度を上げておいたほうが精度もよくなり、判断の正しさも増すと考えられます。

アンテナを磨くという表現にもなるでしょうが、アンテナばかりを磨いていてもダメで、そのアンテナのある土台そのものもクリアで堅固にしておかないといけないわけです。

こうしてはじめて、直感は通常の思考を超えたものをもたらすと言えましょう。

ただ、女性の場合は、もともとアンテナの伸びが長く、土台をしっかりすることと、長い分だけ磨く意識が復活(これらは、愛と学びによる自他の受容と表現してもよいです)すれば、巫女化して、宗教的表現で言えば、神や天使とつながりやすくなると思われます。

つまりは、男性より、直感は開きやすい、調整しやすい(その気になれば、さび付いていたアンテナの修理も早い)というわけです。

男性は逆に、比喩的に言えば、アンテナが短く、知識と思考の土台(塔)を積み上げ、(神の怒りにふれないようにして(変なプライドや驕りに毒されないこと))、バベルの塔を築いて行く必要があります。

ともあれ、直感の性別的な違いはあるとはいえ、そして、誰しもに、個人的な曇りや囚われが直感にはありますが、それがかえって、タロットを活用する要素にもなるのです。

まさに反転的活用です。

直感に歪みがあるのが普通ならば、タロットの絵柄を見て、どう見えるか? どう感じるか? ということそのものが、その人個人の(ある意味認知的)歪みを表していると見ることも可能になります。

では、歪みであるかどうかを、どう判断するのかですが、それが読み手側のタロット(の象徴)への知識となります。知識は普遍的なものであることは先述した通りです。

ユング的に言えば、人類の元型を象徴するのがタロットカードたち(特に大アルカナ)です。

例えば、「皇帝」は一般的な意味合いでは、人物像としては父親や夫、実際的でリーダーシップのあるような男性的人物像です。

それなのに、あるクライアントが「皇帝」のカードを見た時、「弱弱しい」とか「怖い」とか、「悲しそう」とか、「軽薄に見える」とか、「女性的に感じる」とか、さらには女性から見て「恋人」に感じた、見えたとかいう場合は、元型像から逸脱したり、その元型像で表される人物に、何らかのトラウマ・囚われ・投影等があるように見受けられるわけです。つまりは歪みです。

そうした、受け手側で明らかになった歪みのイメージを、読み手側のほうは、タロットの共通で普遍的な象徴により浄化し、癒し、中立性(個人から全体性への物語)に変容させることができ、それはすなわち、解放であり、個人の救済となるのです。

大アルカナの中でも、特に「救済」を意味するカードに「節制」がありますが、「節制」の絵柄では、天使が壺の水を交互に混ぜ合わせている図像になっています。

ふたつの壺は、言わば、クライアントとタロットリーダーであり、両者によって調整され、救いがもたらされるようになっているのです。(深くには、読み手側もクライアントとの人類的共通因子によって、タロットを使うことで浄化されて行きます)

これはタロットの心理的活用テクニックではありますが、マルセイユタロットとしての構造・象徴体系を理解していないと、有効には働きかけられません。(知識が必要であることの意味)

いずれにしても、タロットの絵柄がどう見えるのか、どう感じられるのかは、非常に重要なことなのです。


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