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タロットリーディングの関係性

この(現実の)世の中は、どこまで行っても、ある種の二元による世界と考えられます。

二元に分かれる(ように感じる)からこそ、形や実感としてとらえられてくるとも言えます。

例えば、一日の区切りも、昼と夜の違いが生まれ、私たちは「一日がある」「一日である」と見ることができます。

要するに、識別、理解、認識には、逆説的ではありますが、物事を分けて見る力が必要なわけです。

そして、その分けている世界を統合できる見方・レベル・次元に自らを導くことができれば、まさに次元上昇として、認識・理解のレベルも向上すると予想されます。

これはまた逆からの話になりますが、次元を上昇させるには、その今の次元においての二元の区別が、はっきりできないといけないわけで、そのうえで、分けられたふたつが、どちらも本質的に同じであるという認識が生まれる必要性があるのです。

この、「違いでありながら同じである」とわかることが、すべてにおいて、統合、あるいは、次元上昇の鍵を握っているものと思われます。

さきほどの一日の昼と夜の例においても、昔は、太陽が昇って沈むという二次元的、平面的見方が中心で、すなわち天動説的な見方であったわけです。

この状態では、昼と夜の違いは、太陽があるかないかの違いであり、しかし、太陽のある昼と、太陽のない夜とでは、「同じである」という見方はなかなかできないものでした。(このため、太陽が死んで生まれる・再生されるという見方も普通にありました。←ただし、この太陽の死と再生の見方は、哲学的・象徴的には高度なものを含んでいる場合があります)

ところが、地動説的観点により、地球が回転(自転)して太陽の周りを回っている(公転して)いるという発想が出てからは、昼と夜の違いは、ただ回転体の見るポイントの違いであり、地球ひとつとしては同じものだということの理解ができるようになりました。

さて、ここで、話題が変わりまして、タロットリーディングについての話になります。

タロットリーディングは、クライアントの問題についてタロットを展開させることで、タロットからの示唆をふまえて、クライアントを援助するものと言えます。

とすると、タロットリーダー(タロットを読む人)とクライアント(他人の場合)との間には、助ける者と助けられる者、援助者と被援助者という関係性が出てきます。

これは、分かれているので「二元」ということになります。

タロットリーディングの関係性に限らず、およそ、誰かを助けたり、援助・サポートしたりしようとすれば、そこに対象としての(助けられる、助けられたい)存在(者)が現れます。

ですから、ボランティアであれ、仕事であれ、助けるということをしたいと思った時、同時に、助けられる存在の想定が(どこかで)生まれていることになります。たとえ実存しなくても、想像の世界では必ず生まれたことにもなります。

つまり、助けるという救済の行為は、出発点からして二元である、分離の世界であるということです。恐ろしいことに、助ける行為や思いは、自然に分離を生み出すという構造になっているわけです。

よくスピリチュアル傾向にある人は、人を助けたいという思いを持つ人は少なくありませんが、分離を嫌うところがあるように思います。

しかしそれは、先述したように、助けたいということは、すでに分離であるのだという矛盾を抱えることになります。

まあ、普通はそんなに深くは考えずに、助けに邁進するものではあるでしょうが。

ここで、言葉遊びをしたいわけではありません。

タロットリーディングが何かしら、人の援助、助けるという行為のひとつであるならば、必然的に助けられる者を生み出す構造にあって、分離の世界を創出するわけですが、また、助けることによって、助けられた人が、その時点での二元の世界から逃れるきっかけにもなります。

単純に見ましても、クライアントが助けられたのであれば、それまでの助けてほしい状態がなくなったわけですから(完全になくならなくても、最初の意識よりかは変化しているはずです)、助けられる者がなくなれば、助ける者もいなくなる(いらなくなる)わけです。

何が言いたいのかいいますと、タロットリーディングの行為によって、一時的に助け・助けられる者という二元構造の関係性になりますが、終わる頃にはそれが解消され、(これまでいた意識とは)別の(次元の)世界にクライアントもタロットリーダーも移る可能性が高いということなのです。

まあ、うまく行かないリーディングもありますので、その際は、同じレベルや次元にとどまり、特にクライアントはまたその自分の問題を抱えたまま、別の人の助けを求めていくことになるかもしれませんが。

最初にも言いましたように、この世は二元構造(分離の)世界です。

しかし、二元が統合される瞬間があるのも事実です。

正しくは、この世(現実)において、二元が完全統合されるわけではありませんが、その今の自分の見方によるふたつの(分離された)見方が統合されるレベル(次元)がある(訪れる)のだということです。

そして、そういう統合を起こすには、皮肉なようですが、二元の分離世界を経験していくことなのです。

ただ経験するだけでは統合は難しいので、思考と感情をうまく使いこなすことだと思います。モノの見方の多重性とでも言いましょうか。

タロットリーディングをする意義や目的はいろいろとあるのですが、ひとつには、助け・助けられる関係性をあえて演出・経験し、自他ともに次元の上昇(今の二元レベルの統合)を図ることにあると言えます。

ひとつの統合を果たすと、世界は確実に変わります。それがこれまでの問題認識の消失であったり、今まで見えなかった解決策(の世界に移行)であったりするわけです。

こうしたことから、タロットリーディングは、究極的には、実は主体としてのタロットリーダー、つまりは自分(大きな意味では世界)のためでもあると言えるのです。


愚者 何者でもないこと

私はタロットを扱い、いわば仕事にもしていますので、人から見れば「タロットの専門家」という感じになるかと思います。

しかし、自分自身は、タロットの専門家でもないですし、かといって、タロットの愛好家とも言えません。

前にも何回も書いていますが、たまたま、自身の好みと探求の方向性において、「マルセイユタロット」をモデル・ツールとして使うことがふさわしく、理に適っていると考えているからです。

従って、奇妙なことが私には言えます。

それは、タロットにおいて“何者でもない私”になってしまうということです。

ここで言う、何者でもない、というのは、タロットの歴史・研究マニアでもなければ、魔術的タロット実践者でもない、かといって、タロット占い師でもなければ、また心理的タロット研究者でもない、ましてやタロットコレクターでもないわけです。

ただ、自分の弁明(笑)のために言っておきますが、一応、マルセイユタロットにおいては、深くやっているつもりで、少しずつつまみ食いをして、広く浅くタロットと関係しているというタイプではありません。(笑)

で、何を言いたいのかと言えば、何者でもない感と、何者かでありたい感について、ちょっとふれたいがためです。

「何者でない感」は、逆に、「何者かでありたい」という感情が裏返し・セットになっていることがほとんどです。

人は、自分が特定できる何者かであり、人からも「こういう人だ」と認められることに安心感を持ちます。

一方で、特に、他人から言われる「自分像」に抵抗を示す気持ちも、多くの人にあります。

心理的によく言われるように、「自分だけ知る自分」というものがあり、さらには「自分さえ知らない自分」というのもあります。だから、当然のように、他人から見られている自分像というのは、ほんの一面に過ぎないことを、自らも(無意識な面も含めて)わかっています。

この、特定されたい、個性を指摘されたいという一面と、反対に、特定されたくない、人の言う自分ではない(人の言う自分にはなりたくない)という一面との、アンビバレンツな感情が人にはあるわけです。

結局、安定と自由の葛藤であり、維持と破壊のふたつで揺れる存在(が人間)とも言えます。

「何者かである」とされた時、人は固定され、言わば自由を失います。束縛と同じようになるわけです。しかしながら、その恩恵も大きく、何かに属し、レッテルを貼り(貼られ)、個性が与えられると、その箱(範囲)で安心して暮らすことができます。

自分がそう振る舞うことで、ほかの余計なこともしなくて済み、精神的な(組織に属せば、物質的にも)安定が得られるでしょう。

ただ、いつか「本当に自分はこうなのだろうか?別の自分がいるのではないか?」という、確保した安定性と付与された個性を放棄したくなる「破壊」的な疑念と、新たな自分を見出したい衝動も出てきます。

マルセイユタロットの大アルカナで言いますと、皆、どれかひとつ(か、幾つか)のカードが表す「自分」というものに、一度は落ち着きます。ただ、本当は「愚者」かもしれず、「愚者」は数を持ちません。ということは、どの数でもなく、自由であり、何者にも特定されていないわけです。

「愚者」の絵柄を見れば明らかなように、旅姿をしています。つまり、「愚者」に戻れば、本当の旅が始まると言えるのです。

あるいは、特定されたカードから「愚者」に戻って、また別のカードになるために旅する、その繰り返しかもしれません。

もちろん、人には生まれ持った性質とか、宿命のようなものもあるでしょう。それらは言わば、初めからなじみのあるカードとも言えますし、手札として最初から配られたカードとも言えます。

ですが、基本、皆、「愚者」だと思えば、ほかのカードは、自分の仮初の姿に過ぎないと言えます。

人との違いが商売とか経済的なもの、あるいは生きる楽さ(落差)にもつながってしまう今の世の中で、「自分は何者でもない」と悩む人も多いかもしれません。

それでも、マルセイユタロットで言えば、皆、「愚者」なのですから、それが当たり前と言いますか、「愚者」であることが旅を自由にさせるとも言えます。

これは責任放棄を勧めているわけでは決してありませんが、「愚者」という何者でもない者として自分を取り戻せば、背負い過ぎているもの、強制的に演じさせられているもの、それらからは解放されて行きます。

マルセイユタロットを手にすれば、あなたは「愚者」として本当の旅を始めることができます。

占いも救いになるかもしれませんが、かえって自分を何者(成功者など)かに固定することに迷わされ、空しくなることもあります。そういう人たちは、マルセイユタロットの学びによって、実は守られるかもしれません。

矛盾した言い方ですが、特定からはずれることで、自分自身が守られることもあるのです。これは語弊がありますが、言い換えれば、(いい意味での)目標放棄に近いものなのです。


梯子、段階、引き寄せの法則

口伝等あるので、明確には避けますが、マルセイユタロットには梯子の象徴がいくつか描かれています。「梯子」ということから何かを上り下りするわけです。「何か」とは皆さまの想像にお任せします。

そして、その梯子の象徴を見ていると、段階というものをやはり思います。

梯子は階段と言ってもいいわけで、何事も、ひとつひとつ習得したり、クリアーしたりして、次の段に移ることができるのだと考えらます。

階段とか梯子とか言いますと、つい、昇ることばかりをイメージしがちですが、当然、降りることもあります。

上り下り(昇り降り)両方とも、一足飛びには行かないものです。(まあ、特別な能力とかツールがあれば可能かもしれませんが、それは反則みたいなものです)

ところで、「スピリチュアル」という言葉が、今は一人歩きして、何やら不可思議なこと、見えない存在との交流が可能なことのライトな意味に思われてしまっている節があります。

本来は「霊性」と訳してもいいもので、かなり統合的・包括的・象徴的概念で、現世利益的なことからは離れているものとも言えましょう。

しかし、ライトな意味合いでのスピリチュアルは、かなり現実的な利益性と結びつけられているところがあるようです。

例えば、「引き寄せの法則」という考えと言いますか、“信仰”のようなものがあります。

簡単に言えば、願えば叶う(強く思ったことは引き寄せられ、現実化する)というものです。

これは、個人的には、まったくの嘘ではないとは思います。

しかしながら、ライトスピリチュアル界隈で例えられている「引き寄せの法則」となりますと、かなり安易で、楽して儲けたいとか、簡単に夢を叶えたいというもののように見受けられます。

もちろん、心理的なブロックして、自分の観念に「成功は苦労しなければ手に入れられない」とか「お金は汗水たらして稼ぐもの」とか、「幸せのためには不幸も経験しなければならない」という掟・ルールのようなものがあれば(つまりはもうそれが信念、信仰になっているわけです)、その通りになるよう、無意識的に自分をそうさせてしまうこともあります。

けれども、私たちは、肉体を持ち、物質の世界で精神を抱いて生きる存在です。要するに、物理的法則のようものが必ず働く世界にいるわけです。

思ったことがそのままダイレクトにすべて実現すれば、とんでもない世界になります。それゆえ、時間的・物理的干渉があるのです。

ただ、時間的なことでも、ライトスピリチュアル界では誤解があるようで、願ったことが叶わない(引き寄せられない)のは、時間差があるからだ、と思っている方もいるようです。

深く考えると、確かにそれはそう(時間差・タイムラグがあること)かもしれないのですが、やはり、時間だけではない制約・ルールがこの(現実)世界にあることが無視されているように感じます。

そこで梯子や階段なのです。

物事が成就するには、すべて段階を踏んでいると考えられます。これはおそらく精神世界においても同様でしょう。ただその表現が異なるだけだと思います。

マルセイユタロットのみならず、占星術、カバラーなど、古代思想・体系においては、皆、一様に「段階」や「レベル」のようなものが想定されています。

たとえ魔法世界であろうと、そこにはルールがあります。

魔法の力を行使するには、それなりの準備と段階を経なくてはならず、その過程があって初めて発動されるわけです。

ですから、「引き寄せの法則」であっても、そこには段階があると見るのが、ライトスピリチュアル的な考えであっても、持っておいたほうがよいように思います。

引き寄せには、イメージとか思いが大事だと言われます。

それならば、何かを得たいのであれば、それが得られるイメージを段階的に思い描くことも必要でしょう。

望みや願いの最終結果だけイメージしても、その途中・過程のイメージが省略されてしまっていては、まさにイメージにおいての「段階」をすっ飛ばしてることになり、それでは、叶いにくくなるのも、仕方ないと言えるわけです。

「イメージ」の中でも、ひとつひとつ梯子を上って行く、梯子に手をかけて行くような“段階別イメージ”を形成していく必要があると考えられます。

この努力を怠っていては、普遍的な物事の成就ルールというものからはずれていることになり、引き寄せの法則ようなものでさえ、その実現と効力発揮も難しくなる言えます。

ただし、これとはまったく逆の発想・方法もあります。

それは結果のイメージを強く持ち、あと(過程)は自分の無意識の領域に任せるというやり方です。言わば、梯子や段階をあえて飛ばすようなものです。

ただし、これが可能なのは、私が思うに、梯子作業がある程度できるようになってからではないかということです。

それに、これには、絶対なる自分の信頼(自分を神と認識する自信、言い換えれば自分の中に宇宙を持つこと)が必要だと思います。

たいていの人は、引き寄せ作業を行っても、自分=宇宙の信頼が中途半端なため、無意識領域で創造やお膳立てが行われることに疑念が生じます。

自分=宇宙などと表現しますと、それこそライトスピリチュアルそのものみたいな感じ(笑)がしますが、ライトスピリチュアルでよく言われている「自分=宇宙」のようなことは、実は宇宙を何か(万能に叶えてくれる)外の神のように見て、むしろ自分と切り離してしまっているのが実情のように見えます。

自分が宇宙や神であるということは、おかしなことに聞こえるかもはれませんが、自分が悪魔であるということにもなるのです。

自分が宇宙や神であると認識するには、まずは自分が悪魔であることも自覚しないとならないわけです。(これは私のマルセイユタロット講座を受講している人なら理解できることだと思います)

そのような人は、引き寄せで、あえて段階を飛ばしてイメージしても、願いは叶いやすくなると思います。

そうでない人は、まず、物理法則世界のルールも勘案して、同じようなルールが精神の世界にもあると想定し、イメージにおいても段階を踏んでいくことです。

もし、その過程において、どうしてもイメージ(想像)しにくい部分があれば、それこそがあなたの限界であり、あなたの夢を実現することを阻んでいる部分、あるいは弱点(補強しなくてはならないもの)とみなすことができます。

そして、それは他者や他の情報からトレースすることも可能なのです。

自分の限界は自分が超えていくことになるわけですが、超えるための情報は、今の状態の自分以外のもの(人)が持っていることがほとんどです、つまり、宇宙(自分)は「全体(他者も含むもの)」なのです。

単純に願えば叶う、思えば引き寄せられる、という幼稚園児的な発想から脱し、現実逃避や過程を省略することに注意したいものです。(※繰り返しますが、「引き寄せの法則」を否定しているのではありません。この法則そのものは真理を含むところはあると考えています)


「月」のカードと夢の話

人間、をかなえたいと思うものです。

若い人は特に夢があり、それも大きいものを持っていることでしょう。

年を経てきた者は、これに対して、「現実を知りなさい」とか、「そんな絵空事」とか言って、若い人の夢を否定する人もいます。

かつての自分がそうであったのに...です。でも、だからこそ、夢を追い続けて、失敗した人生にしたくないという老婆心的な助言の意味もあるでしょうし、実は、若い頃の昔の自分自身に対して言いたいということもあるのかもしれません。

さて、タロット的を考えてみましょう。

日本語で「夢」という言葉には、大きくわけてふたつあります。

ひとつは、今述べたような、かなえたい希望や願望のようなもの。もうひとつは、私たちが眠っている時に見ている映像や幻のようなものです。

どちらも「夢」という言葉を使うということは、本質的に、ふたつは同じものではないかということが考えられます。

マルセイユタロット的には、おそらく「月」のカードと関係するのではないかと思います。

「月」(のカード)は、夢の両方を表し、実現したいイメージということもあれば、睡眠時に見る混沌としたイメージという印象もあります。

実際、「月」には、水滴が月に向かって吸い寄せられているかのように描かれているので、それが夢のエネルギーだとすれば、願望の夢も、夜見る夢も、等しく月に向かうと想像されます。

いや、逆に考えることもできるでしょう。「月」というものから降り注ぐエネルギーが、夢という形(イメージ)を与えていると。

水滴は普通、下に落ちますので、当然、下部が膨らんでいるようになります。しかし、もし水滴というよりも、何か矢のようなエネルギーであれば、むしろ向かう先のほうが尖り、やがて相手に刺さるようにもなるでしょう。

こう考えると、マルセイユタロットの「月」の水滴は、月の毛髪・触覚のようなものが地上に発射されている図と見ることもできます。

ということで、どうやら、夢は月という存在(これは天体的な月というよりも、象徴的な月の意味)から、私たちに投げ与えられたもののようであり、月によって私たちは動かされている(踊らされている)ところもあるのかもしれません。

ただ、それは現実の世界を面白くする効果もあり、夢を思い描くことて、私たちはまさに希望を持ち、願いをもって活動し、生きることができます。人生に彩りを与えると言ってもいいですし、生きる原動力にもなるでしょう。

一方、夢破れることも多く、望みとしての夢はなかなか叶いにくいものです。

しかしそれは、月から見れば、面白いことなのかもしれないのです。

個人の人間の範囲では、夢がかなわない、夢が破れることは悲しいことですが、夢を持ってあれこれ思い、動き、それが実現しようがしまいが、月の視点からは関係なく、上から眺めていると、そうした過程こそが楽しい・面白いみたいな感覚です。

心や感情の操作と言いますか、その波を作り上げているという感じでしょうか。

でも、だからこそ、私たちは喜怒哀楽を持ち、現象について色々と感じることができ、この世は、はかなくもあるし、楽しくもある(エンターテイメント性がある)と見ることができます。

しかし、現実に生きている昼間の時間では、夢や感情を持って、いろいろと考え、思いながら生活していますので、それがずっと続くと身が持たないことになるのでしょう。

従って、睡眠時は、別の「夢」を見ることによって、心身が整われ、再び起きている時間に夢を追うこと、感情の起伏をもって生活することができるようにされているのだと考えられます。

睡眠時の夢は時間軸もバラバラで、混沌としたものが多いですが、逆説的にはなりますが、混沌としたものだからこそも混乱したものを整理することできるのだと想像します。

マルセイユタロットの「月」の数は18で、まだ大アルカナでは、残り三つ、19「太陽」、20「審判」、21「世界」が残されています。

ですから、この夢(月)の(操作の)世界では完結せず、究極的には、ここから脱出する必要も、グノーシス的にはあると言えます。

とはいえ、夢のエネルギーの力も現実には必要で、私たちが人間であることの原動力のひとつとなっていることも間違いないでしょう。

夢なき生活は味気ないものですし、また夢(特に幻想)に溺れていては、現実性を失います。

ところが、「月」のカードを見ていると、「夢うつつ」と言われるように、夢と現実は同じで、ただ作用が違うだけであり、夢を見ることは、実は現実を活かすことと同意義になる次元があるのだということがわかってきます。

うまく「月」を理解し、「月」を能動的に見ることが重要です。その意味では、「月」は「悪魔」のカードとよく似ていますし、「運命の輪」とも強く関係してくると言えましょう。


天使のカードと愛

以前、アメブロの時にも、何度か取り上げたことがありますが、マルセイユタロット・大アルカナのうち、天使が明確に描かれているカードは4枚あります。

一番天使らしい「節制」、大天使を彷彿させる「審判」、四つの生き物のうちのひとつとして天使が描かれている「世界」、そして上空に矢をつがえた天使のいる「恋人」です。

もっとも、「恋人」の天使はクピドー(キューピッド)、あるいはエロースの神とも目されますし、「世界」の天使も人間として見られる場合もあるので、厳密にはそれらのカードにいる存在は天使ではないかもしれませんが、見た目上の、天使的カードということにしておきます。

マルセイユタロットにおける天使の象徴性は、四大元素では「水」、大きなことで言えば、ズバリ「」でしょう。

愛の定義は、この際、置いておくにしましても、20の「審判」、21の「世界」と、大アルカナの最終ナンバーに向かって二枚、天使が続くところからしても、「愛」が、過程と目的で大きな意味を持つことが示唆されます。

結局、「愛なんだよ」(苦笑)ということなのですが、それは自分を救い、他人を救う原義とも言えます。

この「自分を救い(救う)」という部分が、愛の目覚めで、とても重要だと考えます。

それは、月並みな言葉ではあるのですが、「自分を愛する」ということで、しかしそれは他者への愛、他者の救いの意識も同時に起こしていかなければならないのだと思われます。

しかし、「自分を愛せ」と言われても、なかなかできないですし、わからない人が多いのも事実です。ましてや、苛酷に他人と比べられてしまうこの現実社会において、自分の無力さ・弱さを思い知らされる人は、かなり多いのではないでしょうか。

そんな状態で、自分を愛せと言われても、難しいものです。自分を卑下したり、貶めたりすることに慣れてしまって、むしろそうしたほうが心地よい、責任からも逃れられる…というような心境になってしまっている方もいらっしゃるかもしれません。

それを一概に責めることはできません。それほど、理不尽な世の中とも言えます。

ですから、自分を愛せないものは、他人も愛せないとよく言われますが、そうとも限らないと思います。

他人への愛があることで、自分を愛することに気づく場合もあるでしょう。自分だけではどうにもできない時は、他者の力を借りることです。

それは、他人からの援助を実際にしてもらうという意味もないわけではありませんが、ここでは、他の存在と他者への愛を意識することという、心理的なものが主です。

自分は一人ではない」という、当たり前のことを思い出し、自分一人で紋々としていて、始まりも終わりもできない時、他者という存在を意識して、心理的なフィールドを拡大するわけです。

すると悪い人ばかりではないことにも気づけるでしょうし、家族や友達、知人の大切さに、改めて思い至ることもあるでしょう。言葉で言えば「ありがとう」の気持ちです。

一人ではすべてできるわけでもないこと、また逆に、自分でやらねばならないことを他人任せにしたり、他者からの救済を望み過ぎていたりしていたことに(自分でやれることがあると)気づく場合もあるでしょう。

自分を愛せなくても、他人、あるいは動物やモノ、作品、とにかく自分以外のものに向けて、愛情を注げることができた時、それは円や輪となって全体を見た場合、自分への愛に最終的にはなっている構造に見えてきます。

それでも、それを無理にせよ、というのでもないのです。

そんな中で、せめて、「私(俺)、よく生きているよな」「まあ、頑張っているな」みたいな、慰めみたいなものあっても、自分に対して別の自分が声掛けしてもいいのではないかと思います。

そういうものも、小さいけれど、自分への愛のひとつでしょう。そこから転じて、わずかばかりの愛を他者、あるいは、自分とは別のものに向けても愛の波動が生じることになります。

アニメ「輪るピングドラム」でも表現されていた「りんご」の受け渡し。まさに愛の循環の波動が、運命や世界そのものを変えることになるわけです。

つまるところ、自分と他人は同じであるということが広義の「愛」につながっていくのでしょう。

最終的には、宗教風に表現すれば、「神の愛」に気づく、「神の愛」が自分の内にあることに目覚めるということになり、それが宇宙の意識や真理ともまたつながることになっていると推測されます。

ところで、カモワンタロットでは有名なタロットマンダラという、いわゆる「愚者の旅」として、大アルカナの数による成長を見て行く手法と図がありますが、先述した4枚の天使のカードは、タロットマンダラの図では、「13」のカードの周囲に位置することになります。

これは死と再生的な意味にも見えきますし、愛の目覚めには、厳しいことや、一度(ならず何度も)古い自分の死を迎えねばならないということのようにも感じます。

そして、地獄に仏というように(笑)、どんな苦境や試練にも、天使的な愛の意味が含まれており(救いとセットになっている)、反転すれば、ほかならぬ(自他の)救済の種になっていることに気づくのだと思います。


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