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直感性 タロットの絵柄がどう見えるか

この前は、一枚など、少ない枚数のタロットを引いて、直感的に読むというお話をしました。

タロットは絵柄でできていますので、クライアントやタロットを見る側の人にとって、引いたタロットがどのように見えるのか、感じるのかということが重要なわけです。

読み手、タロットリーダー側は、それに解釈を加えたり、タロットの意味を、相手の情報と重ね合わせたりして、タロットの受けて側と共同で最善と思える答えや判断、指針を出していきます。

さて、そうなると、タロットをもともと勉強していた人とか、タロットリーダー自身が自分でタロットを見る時は別として、普通はタロット(の意味)を知らない人が、受け手側として、その絵柄を見るわけです。

すると、やはり、直感性をもって、絵柄のことを受け取ることになり、むしろ、そういう(直感)スタイルがノーマルでしょう。

一部のスピ系の人などでは、思考よりも直感・感性(で受けとったもの)のほうが正しいという人もいますが、実は、直感とか感性というのも怪しいところはあります。

むしろ知識とか思考ほうが普遍的であり、数学の答えのように、共通の正しさということを現実レベルで引き出しやすい性質があります。

直感も、次元の高いレベルまで引き上げられていると、それは通常の思考や知識を超えて、特殊な言い方をすれば「神の領域」に入るため、その正しさレベルもぐっと上がります。

しかし、低次の直感とでもいうべきもの、言い換えれば、個人の(囚われの)枠、フィルターを通した感性では、好き嫌いレベルにも等しいことがあり、それはファンタジー(自分の思う心地よい幻想)での選択になっている場合も多々あります。

ですから、感性とか、自分のありのまま(本来の自分が望むこと)に従うという判断にも間違い(というより幻想)が潜んでいて、危険でもあるわけです。(「本来の自分」と信じる存在が、幻想であれば元も子もないですから)

つまりは、自分の中にエゴや欲求、さらにはいろいろと植え付けられた観念とか思い込み、そして肉体的・精神的・心霊(サイキック)的障害(病気・不健康・疲労・ストレス・ブロック・アンバランス・憑依など)も個人個人にはあって、それらが感性・直感に影響を及ぼしていることは普通にあるのです。(影響のない人はいないくらいです)

そのため、より浄化した状態で、直感的チャンネルの感度を上げておいたほうが精度もよくなり、判断の正しさも増すと考えられます。

アンテナを磨くという表現にもなるでしょうが、アンテナばかりを磨いていてもダメで、そのアンテナのある土台そのものもクリアで堅固にしておかないといけないわけです。

こうしてはじめて、直感は通常の思考を超えたものをもたらすと言えましょう。

ただ、女性の場合は、もともとアンテナの伸びが長く、土台をしっかりすることと、長い分だけ磨く意識が復活(これらは、愛と学びによる自他の受容と表現してもよいです)すれば、巫女化して、宗教的表現で言えば、神や天使とつながりやすくなると思われます。

つまりは、男性より、直感は開きやすい、調整しやすい(その気になれば、さび付いていたアンテナの修理も早い)というわけです。

男性は逆に、比喩的に言えば、アンテナが短く、知識と思考の土台(塔)を積み上げ、(神の怒りにふれないようにして(変なプライドや驕りに毒されないこと))、バベルの塔を築いて行く必要があります。

ともあれ、直感の性別的な違いはあるとはいえ、そして、誰しもに、個人的な曇りや囚われが直感にはありますが、それがかえって、タロットを活用する要素にもなるのです。

まさに反転的活用です。

直感に歪みがあるのが普通ならば、タロットの絵柄を見て、どう見えるか? どう感じるか? ということそのものが、その人個人の(ある意味認知的)歪みを表していると見ることも可能になります。

では、歪みであるかどうかを、どう判断するのかですが、それが読み手側のタロット(の象徴)への知識となります。知識は普遍的なものであることは先述した通りです。

ユング的に言えば、人類の元型を象徴するのがタロットカードたち(特に大アルカナ)です。

例えば、「皇帝」は一般的な意味合いでは、人物像としては父親や夫、実際的でリーダーシップのあるような男性的人物像です。

それなのに、あるクライアントが「皇帝」のカードを見た時、「弱弱しい」とか「怖い」とか、「悲しそう」とか、「軽薄に見える」とか、「女性的に感じる」とか、さらには女性から見て「恋人」に感じた、見えたとかいう場合は、元型像から逸脱したり、その元型像で表される人物に、何らかのトラウマ・囚われ・投影等があるように見受けられるわけです。つまりは歪みです。

そうした、受け手側で明らかになった歪みのイメージを、読み手側のほうは、タロットの共通で普遍的な象徴により浄化し、癒し、中立性(個人から全体性への物語)に変容させることができ、それはすなわち、解放であり、個人の救済となるのです。

大アルカナの中でも、特に「救済」を意味するカードに「節制」がありますが、「節制」の絵柄では、天使が壺の水を交互に混ぜ合わせている図像になっています。

ふたつの壺は、言わば、クライアントとタロットリーダーであり、両者によって調整され、救いがもたらされるようになっているのです。(深くには、読み手側もクライアントとの人類的共通因子によって、タロットを使うことで浄化されて行きます)

これはタロットの心理的活用テクニックではありますが、マルセイユタロットとしての構造・象徴体系を理解していないと、有効には働きかけられません。(知識が必要であることの意味)

いずれにしても、タロットの絵柄がどう見えるのか、どう感じられるのかは、非常に重要なことなのです。


直感的シンプルな一枚引き

タロットの引き方・並べ方、いわゆるスプレッドは数多く存在します。

それには最少の一枚引きのものから、カモワン流のような、枚数が固定されず、何枚出るか、やってみないとわからないものまであります。

占い的に有名なのは、ケルト十字かもしれませんが、これは合計10枚のカードを、意味の決まった位置にカードをおいていくスプレッドです。

ともあれ、枚数が多いスプレッドは、それだけカードの情報量も増えることになりますので、読み手(タロットリーダー)の技術や経験によるところも大きくなります。

このうち、出す(引く)カードの枚数は多くても、カードが単体で切り離されたように置いていくものだと、比較的ルールに従って単純に読めますが、カードが近接し合い、複合してくるような場合は、コンビネーションと言って、カード同士がつながって、さらなる意味合いが表現(創出)されてきますので、より複雑になってきます。

いわば、情報の多重化のようなことが、カードをコンビネーションしていくと現れて来るわけです。

でも、それだけ読み手として、まさに読みがいがある(笑)というもので、たくさんのタロットの情報をいかに整理し、ひとつの(人間的に)役立つストーリーに変えていくか、というのもタロットリーディングの醍醐味でもあるわけです。

タロットは直感性のものとよく言われますが、このような情報分析を必要とする分、カードの中に描かれている細部の象徴の意味はもとより、それを知的につなぎ合わせて行く、ある種の選択性論理性、全体への統合力が必要とされます。(そのような読み方をする場合ですが)

タロットをきちんと学ばなければならない理由のひとつは、ここにあります。

さて、一方で、人間の直感性というのも、優れたものとして活用できます。直感は、時には自分や他者の命を救うことすらあります。

直感が何なのかは、今回は議論しませんが、とにかく、タロットの絵柄を直感的に把握して、メッセージや意味合いを判断する読み方があります。

この場合、たくさんのカードの枚数を引くやり方よりも、極端なことを言えば、一枚引きのような少ない枚数を引くやり方のほうが、直感が活きやすいのではないかと思います。

直感というのは、あまり、思考の情報(判断)が入らないほうがよく、従って、ノイズとなるたくさんの絵柄からの情報がないほうが(少ないほうが)、より直感性からの示唆を得やすいと言えます。

ということで、直感性を重視したものでは、タロットカードをシンプルに一枚だけ引くというものがお勧めで、カードを引いて、絵柄を見た瞬間にどう感じたかというところが重要になるでしょう。

それは言葉で表すと、思考的なものになって、意味でとらえようとしがちになりますので、まさに「感じ」「感覚」として、とらえていくとよいでしょう。

あとて思考や覚えた意味を当てはめて、論理的な理解の手助けを得ても、それは構いませんが、それとは矛盾するようなことが、直感で得たものにはありますので(本当の叡智レベルになりますと、思考と直感とが矛盾することのない次元に行き着きますが)、その場合は、最初に感じたことを主とするのが、まさに直感性をメインとする読みの場合ではよいと思われます。

この世の中、多くの情報にあふれかえっていますので、私たちは、いつも頭・思考をグルグル巡らせている(溺れている)ようなものです。

そのために余計に、迷いが生じていることがありますし、決められないということも起こってきます。

ですから、迷路みたいに陥ってる人は、シンプルに、タロットの一枚引きをして、直感的に受け取るという方法で、意外にすっと収まることもありますから、やってみるとよいでしょう。

この場合は正逆はとらないほうがよく、正立だけ出るトランプシャッフルで出すほうがよいと思います。タロットカードの正逆自体が思考的情報になっていることがあり、素直な直感性を阻害することがあるからです。

同じタロットをする友人(タロット仲間)がいれば、その人に自分の問題やテーマを一枚引いてもらう(あるいは自分が引いたものを相手に直感で見てもらう)というのもありです。人にやってもらうと、主観が入りにくいので、よりフラットな見方ができます。

相手が感じたものと、自分が感じたものとは違うかもしれませんが、直感と言えど、自分の癖とか価値観のフィルターを通っていますから、相手のものと自分のもの(あくまで意味ではなく、直感として感じたもの)とを比較することによって、より中立的なメッセージを得ることができると思います。

そんなわけで、複雑なことだけがタロットではありませんので、シンプルな一枚引きを直感で感じるという方法も、試してみるとよいでしょう。


2022年最初に

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

さて、2020年より始まったコロナ禍はまだ続いており、新たな変異株の流入で、また問題視されているところです。しかし、そういう中でも、(よい)変化は確実に現れていると感じます。

どんなもの(状況)でも、悪いことばかりではなく、よいこともありますし、たとえ最高だと思っていても、それが最低への始まりのこともあるわけです。(まさにマルセイユタロット「運命の輪」の図)

一喜一憂せず、ますます俯瞰した目線や、姿勢というものが大切になってきているように思います。

これまでは、個人と全体のつながりがあまりわからなかった時代もありましたが、これからは、明確にそのつながりを、誰もが実感してくるようになると思います。もう、すべてが他人事ではなくってくるのです。

それは一見、大変なようにも思いますし、確かに一時期的には大変だと想像しますが、言ってみれば意識の覚醒であり、進化とも言え、自動的に他人の本音がわかり、また人だけではなく、生き物、ひいては地球の願いも把握することが可能になり、スピリチュアル的に言えば、より宇宙と調和した人類に変容する可能性でもあります。

それは「この世のあの世化」とも言え、個人の意識を持ちつつ、同時に全体意識にもなっているという、今の私たちの意識からすれば、とても不思議な感覚のものでしょう。

その過程では、別の意味で自己責任の意味が大きくなってくると考えられます。

これは従来言われているような自己責任ではなく、他者と自分が切り離せない意味での自己責任という意味です。ですから、逆説的ですが、相互救済の意識にもつながってくることなのです。

また悪意ある者も、隠してもわかるようになりますから、それもある意味、自己責任ということになってくるでしょう。

結局、一人一人の意識と選択に関わってくると思います。

ともあれ、希望的意味も込めて、私たちの善なる魂が目覚める世になってほしいと願います。


「世界」からの視線

このところ、暗く悲惨なニュースなどがあったところですが、冬至を越えた翌日、太陽の一層の輝きも見え(これは地域によりますが)希望というのも感じました。

私たちは日々悩み、生きています。

時には何のために生きているのかわからなくなることもあるでしょう。

無理に生きる意味を見つけようとしなくてもよいとは思いますが、些細なことでもいいので、「このために生きる」とか、とりあえず「この理由があるから」という、こじつけ、短期的・長期的、何でもよいので、自分にとっての生きる意味を持っておくことはよいのではないかと思います。

まずは短期的なところからでもいいと思います。

例えば、おいしいものを明日食べたいとか、疲れているので癒されに行こうとか、あの作品は面白うそうなので見てみようとか、しょーもなくはあるかもしませんが、小さくとも、生きるモチベーションにならないわけではありません。(苦笑)

あと、長期的というのも、時に有効です。

人間、意外にゴールと言いますか、遠い目的地を決めていないがために、現在迷ったり、どうしていいのかわからなくなったりすることがあります。ひいては、生きる目的・力を見失うことにもなりかねません。

どこに向かうのか、わからない状態では、現在地に迷うのも仕方がないというわけです。

自分が達成したいこと、あるいはそんな具体的なことではなくても、人生の最後の目的、せめてこうなっていたら(こういうもの(境地とか精神でもよい)を得ていたら)OKという遠いゴール設定をしておくと、今の自分に、その目的地からの光が当たります。

マルセイユタロットには、人間成長の道筋・指針としての大アルカナ図があります。これは数順に並べていくものですが、最終カードは、大アルカナの最大の数を持つ21の「世界」となります。

つまりは、マルセイユタロット的に言えば、この「世界」から数の少ないほうのカードを向く(見る)、ということになります。

面白いことに、「世界」のカードに描かれている中央の人物は、これまでの道を振り返るかのように、向かって左側を向いています。

この、自分にとっての「世界」のカードに該当するものを決めておくと、今の自分の立ち位置、またはそれがわからなくても、何をすればいいのか、何を評価し、何をあまり悩まなくていいのかが明確になります。

目的地・ゴールが、精神的な充実や満足感なら、物質や環境的なことに一喜一憂しても仕方ないということになりますし、その反対に、物質的に恵まれて終わりたいということであれば、お金の稼ぎ方とか使い方も逆算して、より具体的になってくるのではないでしょうか。

タロットだけではなく、カバラーの「生命の木」を使えば、中央の柱を文字通り、中央・基本として考え、一番上のケテル、真ん中のティファレト、イエソド、マルクトと、それぞれを段階別の目標として、抽象性から具体性へと降下して思考すれば、現在(現実・通常)の位置・次元とも言えるマルクトで何をすべきか、どう生きればよいのかという「イメージ」が出てくるでしょう。

もちろん、タロットでもそれは可能てすし、タロットの場合はがあり、その絵柄自体が象徴ですから、自分の生活・人生とリンクさせることがしやすく、迷子になってて、空しくなっている自分に、「世界」(のカード)から光明を指すことができます。

それはまた霊的には、「隠者」の光(ランタン)でもあります。

グノーシス的には、(透明ゆえに光を通し、輝くことになります)とも関係し、キリスト教の洗礼の儀式ともつながりますが、水といえば、タロットでは天使が象徴されますから、天使の絵柄が、私たちに光を見せてくれているのだと言い換えることもできます。

目的地から今やることを見るというのは、目的地まで予定通り到達していない自分にいらだちや、不安が襲って来るようにも思えますが、ここで言っている目的地からの視点は、むしろ、今を楽にするためのもので、「これだけやっていればOK」「これを得ていたらよしとする」みたいな感じで、カードの「13」の象徴とも関係するものです。

言わば、本質と表面の違いを区分けするようなものて、目的(地)の本質を見ていれば、今の自分、過去の自分、これからの自分の「本質」のみをたどって行けばよく、その他のことは、表面的・演出的なものであるとわかって、安心することもあるという話なのです。


「運命の輪」から見る「運」

マルセイユタロットの「運命の輪

文字通り、運命を象徴するようなカードと言えますが、その絵柄の特殊性(他のカードに比べて絵的に人物的要素がない)からしても、面白いカードで、様々な解釈が可能です。

タロットの大アルカナは22枚ありますが、このうち、ある区分けでは、10をひとシリーズ、1セットと見て、都合2セットの20枚とし、残りの二枚は「愚者」と「世界」にするものがあります。

これには、前回の記事にも出た「10」の数に関係するところが大ですが、ともかく、20枚、10を1セットとする2セットの、最初(数の少ないほうの)のシリーズの終わりが、「10」の数を持つ「運命の輪」のカードとなるわけです。

もし、「運命の輪」の示すことの大テーマが「運命」であるならば、いわゆる私たちの考える「運命」というものは、ここで一区切りを迎えることになります。

ということは、マルセイユタロットから見れば、運命のというものは、次のセットに進むとなくなる、あるいは、概念や考え方として、まったく別モノになるということが予想されます。

次の(10)セットとは、「力」から「審判」です。これらのカードと、今までの「運命の輪」までのカードたちとを比べると、明らかに違いがあるのがわかるでしょう。

その違いを何(どんな意味や象徴)と取るのか?によって、10セットのシリーズの意味合いも変わるでしょう。

ただ、「運命の輪」の「運命」ということを中心(テーマ)としますと、「運命」と呼ばれるものの質が、ここを境にして変わることは言えるかと思います。

「運命の輪」の絵柄の特徴は、車輪に三匹の動物たちが一緒に描かれていることです。

車輪の円周上にいるのが二匹で、車輪の上にいるのが一匹です。この三匹の位置が、いろいろと解釈が可能であり、面白いと言えるのです。

「運命」は、厳密に言いますと、「運」と「命」に分けられる言葉で、本当はそれぞれについて考察が必要ですが、ここでは、シンプルに「」だけで見てみます。

すると、「運命の輪」の動物たち、それぞれが運の特徴を表していると考えることもできます。

輪の中にいるとも言える二匹の動物は、輪がクルクルと回れば、二匹の位置は入れ替わって見ることもできます。上に向かっている動物も、下に向かっている動物も、輪にくっついているわけですから、輪が回転すれば、立場(方向)は逆になります。

ということは、本質的に、この二匹は同じなのです。ただ、輪の中にいては、それがわかりません。二匹の動物たちは、それぞれが「オレはオレ」「ワタシはワタシ」と思い、オレは上に向かうもので、ワタシは下に行くものだと認識していることでしょう。

ですが、輪の上に乗っている動物から見れば、上に向かう動物も、下に行く動物も、輪が回転すれば入れ替わるだけで、方向性に上も下もないことに気づきます。

ここに「運」をあてはめますと、輪の中の動物二匹は、運が良い・悪い(上とか下とかの位置)と思う私たちの心とも言えますし、環境(モノ)と精神のように、ふたつのことによって規定される「運」とも表現できます。

一方、輪の上の動物は、それらの「運」とは違う認識にあって、もしこの動物の位置に相当する運があるとしても、それは、もっと大きな宇宙的なものであるとも言えます。むしろ単なる機械的・リズム的なものかもしれません。

私たちのほとんどは、現実において、運の良し悪しを思うことが多いですが、それは、この「運命の輪」における輪の中の二匹の動物の位置のように、入れ替わりつつも、実は本質的には同じもの(別の言い方をすれば、いいも悪いもないもの)だと例えることができます。

いい・悪いを決めているのは、輪の中にいること(それに気づかないこと)と、その位置が直線的(円ではない認識)であること、すなわち、統合的認識に至っていないことにあると言えます。

極端な言い方をすれば、自分の運の良し悪しを決めているのは、ほかならぬ自分であるということです。

輪の上の動物の位置からすれば、おそらく見えていなかった因果関係というものも現れ、すべては原因があり、その結果であることがわかり、運という偶然ではなかったこと、良いを選び、悪しきを避けていても、本質的には、回転の演出で振り回されていたに過ぎないことに思い至るのだと想像します。

そのような境地は、ある意味、小悟り(中悟りかもですが)とも言え、だからこそ、10を2セットとして見た場合の、ひとつのシリーズの終わりと見ることができるわけです。

そして、「運命の輪」の段階で、人間的・凡夫的な、運命に振り回される状況を脱することが示唆されているのだと推測できます。

そんなことは、修行僧でもあるまいし、できるわけがないと思うでしょう。

確かに全体的には無理でも、実際の生活のひとつのシーン、あるいは問題において、「運命の輪」的見方をしていくことで、回転の演出から少しずつ逃れることができるのではないかと思います。

二匹の動物の位置ではなく、俯瞰した輪の上にいる動物の視点です。中立性と言い換えてもいいでしょう。

普段においても、運が悪いとか良いとかの断定的言い方を避け、そういう物言いをしている時、自分は何をもって良いとし、悪いと決めているのかを探ると、違う意識(認識)が出てくるかと思います。

ただ無理矢理、中立性を思ったり、悟るふりをしたりしても逆効果だと思います。

人間として、実際の生活において運の良し悪しを思うことは普通ですし、運気的な流れというのも、ある次元では存在していると考えられます。

運の良し悪しを感じることで、神仏やその守護、反対の悪魔的な力やその影響、さらには因縁めいたものとかの、別次元の考察に至ることもあり得ます。(すなわち多重なる世界の認識と、自己の再構築が進む、一時的には混乱もあり得ますが)

ですから運を排除して考えるのではなく、運を受け入れつつ、極端な二元的観点(良し悪し、一喜一憂するような態度)から離れて行くというような姿勢がよいように思います。


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