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救済の要素や力を発見する。

今までの私の浅い人生経験(^_^;)からですが、地獄に仏とか、苦しい状況にも救済があるというのは、結構信じられることです。

マルセイユタロットでいえば、「13」から「節制」という大アルカナの数の順序そのままで表現されます。

そして、それほど大げさ(極端なピンチ・危機・非常な苦しさ)ではない場合の落ち込み程度であっても、何かしらの救済や癒しは、この宇宙(その時)に存在しています。

ただ残念ながら、それに私たちは気付こうとしないですし、自分が大変なので、過度に救済を求めてしまっていることで、かえって自分の目を隠している状況になっているのです。

いわば依存することで、ノーマルな視点が失われていると言ってもいいでしょう。

そんなことを言っても、苦しい、大変、しんどい・・と人がなっている時に冷静な気持ちになることのほうが難しいので、依存になったり、視点が偏ったりするのもやむを得ないことではあります。

ですから、普段の何でもない平常な時から、自分が危機に陥った時のモノの見方、救済(があることの)視点の獲得を培っておいたほうがよいのです。

それは、一言で言えば「吊るし」の視点であり、また「愚者」思考であるとタロット的には言えます。

要は普通とは違った見方を普段から養っておくということで、多角的多層的視点のことです。

具体的にひとつ挙げますと、起こっている現象それ自体にとらわれすぎないという方法です。

私たちは何か自分にとってよいことでも悪いことでも、インパクトのあることにはそれに意識を向け、集中します。

これが悪い意味では、視野の狭さを生み出します。もちろん注視することで、喜びが倍加したり、反対に危機や苦難といったものを取り除いたりすることもできるのですが、反面として意識が狭まることも事実です。

そのため、ほかで同時に起きている現象に意識が向きません

たとえば人に怒られていると、その人のことばかりに注意が行くのは当たり前なのですが、同時にほかのあなたを中心とした範囲では別のことも発生していることには気がつきにくくなります。

もしかするとその瞬間、SNSであなたが投稿した記事に、誰かが大変よい評価をしていたり、つけていたテレビで、あなたが探していたニュースが流れていたりすることがあるかもしれないのです。

気分が落ち込んでいても、視野(と感覚)を広げてよく観察してみると、空がきれいだったり、雲の形が龍に見えて勇気づけられたり、風が心地よかったり・・・そういうことはあるものです。

自分を分化させることで複数の見方が可能になり、ひとつの現象にどっぷり浸かって感情の波におぼれて、別のよい意味や真の大局的な神意のようなものを見落としてしまう危険性から逃れられます。

(漫画アニメの「ナルト」の影分身みたいな存在を作り出すようなものです(笑))

重要なのは、目の前に起きている悪いことばかりではないと信じること、たとえ嫌な状況であっても同じことがずっと続くわけてばないと、物事の変転をイメージすることです。

なぜならば、信じたことによってあなたの世界が創られるので、そう思うほうが思わないよりも、実際に救済の要素を発見しやすくなります。いや、本当に生み出されるのです。(想像されたことが創造される)

前言のような言い方では、ちょっとスピリチュアルすぎて受け入れられないという人は、心理的に言い換えてみます。

それは、「物事の意味づけを自分で変えることができる」ということです。

あなたが経験していることの意味づけは、意味が付される前まではそれ自体は中立です。よくも悪くも、地獄でも仏でもないわけです。

しかし、それにあなたという人間が価値をもって意味をつければ、そこで初めて中立から変化して意味を持ちます。

実は意味だけではなく、パワーを持つようになるということが重大なことなのですが、今回は詳しくはふれません。ただ力・パワーを意味や言葉を付与すると持つことは覚えておいても損はありません。

何でもないことでも救済や癒しになるのだという意味と認識があなたに生じれば、それ以降はたくさんその意味を持つものが出てくるようになります。

これは象徴の使い方にも似ています。今まで何とも思わなかったもの(形・現象)が、ある意味をもって認識されれば、その人にとってそれはその意味になるというのが、シンボル・象徴の働きでもあります。

これは洗脳にも使えますので、使用法によっては悪用にもなってしまいますが、それくらい力を持つということです。

それはともかく、モノの見方を増やしたり、次元を複数持った立場を想定したりをすることで、あなたの「地獄に仏遭遇度」は増していくことになるでしょう。

そして次第に悪魔も神もあまねくどの局面にも遍在することに思いが至り、世界や宇宙のホロン構造(相似形)に驚嘆することになるのです。

マルセイユタロットは、そのモデルとして宇宙の構造を見事に表現してくれています。


思考の源泉まで辿る。

思考は現実化する」ではありませんが、イメージや思い・考えが、何かを実現させるためには重要であることは、すでに衆知のことと言ってもよいかもしれません。

人は普段からどんな考えでいるか何を多く思っているかによって、まさしく自分の人生も決まってくるわけです。

なぜならば、単純に見ても、思わないこと・考えないことを人はやろうとはしないからです。

さらに、逆に辿って行きますと、「思考」はどこから出ているのかというのも大事です。

自分の思考で自分の人生が決まってくるのなら、その出所や思考・イメージの源泉となるものも重要であることが明白だからです。

それがひとつには自分が大切だと信じていること、あるいは「そのようになっている」「そのように決まっている」と決めつけていること、つまりは価値観・信念となります。

もうひとつは他人や外から植え付けられるイメージと思考でしょう。(自分の価値観でも、外からのもので形成されることは結構あります)

前者(自分の信念・価値観)は、環境が変わったり、経験を踏んだり、学んだりすることで変化させることができます。

後者(外からのもの)は低レベルな宣伝・煽りの場合、理知的になれば防げますが、高度なもの、また集合思念のような大きなエネルギーになってきますと、なかなか防衛することは難しくなります。

言わば、私たちは、自分の意志ではなく、知らず知らず思わされていることがあり、それがあたかも自分が考えたことのように錯覚させられて、自分の欲求として表出せしめられる現象が存在するわけです。

「流行」というものも、仕掛けということもあいまって、そういう仕組みが働いていると見ることができます。

さらに、これは存在するかどうかはわかりませんが、もし宇宙的思念神なる超越的意図が私たち個人個人にも何らかの形で働いていることがあるとすれば、個人の力ではどうすることもできない場合もありそうです。

しかし、逆にスピリチュアル的には、個人の中に宇宙や神が在ると見ることもできますので、自分の意志と宇宙の意志が合致するようなこともあり得ると想像でき、自分の意志を宇宙に反映させることが、場合によっては可能かもしれません。

その場合は、自分の反映が双方(小と大)の真の繁栄につながることを確信していなければならないでしょう。

あと、マルセイユタロットを観察すると、イメージの源泉が「」のカードから流れてきているように見えることから、やはり星々や宇宙に私たちのイメージの元となるものがあるのだと推測できることもできます。

ただし、ここでいう星や宇宙というのは、物理的・天文学的に見るそれではなく、文字通り「イメージ」、あるいは「イデア」によって想起される世界で、古代の宇宙観に近く、占星術的な星々の見方となります。

このように見てきますと、現実を変えるためには、まず思考を変える必要があり、さらにはその思考の湧き所そのものにアプローチすることで、思考の発生を変化させることになるので、そこまでつきつめたほうが現実の変化は揺るぎないということになります。

その方法は上述したように、自分の価値観や思い込み(ルール)を書き換えること、いわば「自分憲法」の改正に真剣に取り組むことです。

憲法改正がなかなか困難なのように、それが絶対であると思い込んでいると結構改正は難しいですが、時代(生き方)とともに変えていってもよいものだと認識できれば、容易になってきます。

もうひとつは、イメージの源泉までアプローチすることで、これにはスピリチュアルになって、神や宇宙を自分に感じていくということになるでしょう。占いから入って、それに至る道を探すやり方もOKです。(ただし占いレベルに留まっていては逆効果です) 

これはシンプルに言えば、自分を大なるものと一体化させる「悟り」の道と言えます。

とにかく、自分の思考の出所や理由を見ていくことは重要です。

今の現実は自分の希望とはかなり違っていると思ったり、現在に違和感を覚えている人は、普段からの思考のシステムを見直すタイミングに来ていると言えます。


すでに悟ってるという見方。

精神世界系に踏み込んでしまうと(笑)、結局「悟り」ということを意識するようになります。

意識するどころか、目指す人も少なくないかもしれません。

何を隠そう、マルセイユタロットのひとつの見方に、「悟りの道」が描かれていると見る方法があります。

これはとても面白く、興味深いところで、よくお坊さんなどもこのタロットの見方に惹きつけられるほどです。(マルセイユタロットをやっている僧侶の方は、比較的よくいらっしゃいます)

それで、私ももちろんそうしたとらえ方でタロットを観察することはありますが、ある時、ふと逆のことを思いました。

それは、「悟りの道」ではなく、「悟らないための道」でもあるのではないか?と。

「悟らない道」なんてあるのかと思うでしょうが、平たくいえば、悟りや無理して向上を目指さない生き方です。

といっても自堕落で欲望のままに生きるという意味ではありません。いや、もしかするとそれもありなのかも・・・ですが。(笑)

元に戻りますが、なぜそう思ったのか言いますと、タロットの順序を逆から見たり、描かれている人物の視線方向をよく観察したりすると、そのようなひらめきが訪れたわけです。

そう、もしかしたら本当は、私たちは全員悟った存在なのかもしれないのです。悟っているけれども、あえて悟っていないふりをして生きている。一種の記憶喪失の状態です。(苦笑)

わざとやっているのか、何かの事故や仕掛けでそうなってしまっているのかはわかりませんが、とにかく、もともと私たちは誰もが解脱者であり、覚者だと想定します。

すると、もともと悟っているわけですから、無理して人生で悟る修行をしなくてもよくなります。ではどうすればよいのかですが、一言で言えば、「人生をじっくり味わう」ということになります。

ちょうど、映画で自らを主演にさせて演じているようなものです。映画の中の人物は、善人だったり悪人だったりするかもしれませんが、もとの人間(監督・プロデューサー)の人生そのものとはもちろん違います。

これと同様で、私たちは普段は愚かだったり、普通の人間だったり、また悟りたい・発展したい・向上したいと学び、経験を重ねたりして行きますが、それはこの人生設定の中だけ(地球を中心とした世界)の話で、だからこそ、たまらなく悟りたくなる(もとは悟っているので、思い出したくなる)のかもしれません。

言わば、一種の悟りゲームをしていると言い換えてもいいでしょう。

ただ、自由にゲームの外と内を行き来したり、リセットしたりできない取り決めがあり、このゲームに入れば、ある約束ごとが満たされない限り、おそらく何度でも参加し直すことになるのでしょうし、途中で悟りの人に戻ってしまうのもタブー視されているのだと感じます。

一緒にゲームを楽しんでいるのに、急に一人、「オレ、もとに戻るわ」「私、もう飽きたから、悟りにカムバックするね」となると、ほかの人たちが興ざめすると推測します。おそらく高次の魂的にはすべて知っており、がっかりするのだと思います。

またこうとも言えます。

この人生からどんな形であれ、抜けるということ(いなくなる、亡くなること)は、やはり悟りモードの世界に戻ってしまったのだと。(自殺については議論の余地ありですが)

いずれにしても、自分はもともと悟っている(けれどもあえて忘れている)のだと逆説的に思うことで、生き方の意外なヒントが出てきます。

むしろ、そのほうが今を一生懸命生きることにつながるかもしれず、肩の力も抜けて、少なくとも考え方としては楽しい人生になりそうです。

何より、真の意味で人を平等に見ることのできる基準でもあります。

なお、すでに悟っているという見方をすれば、マルセイユタロットは、カードの数だけ人生体験を積みましょう、味わってみましょう、「イッツ ワンダーランド!」の「世界」となります。

※歴史上、悟った人というのもあまり見かけないので、逆にみんな本当は悟った存在で、たまにゲーム中(私たちの現実)に特別キャラとして「悟り人」が出るのではと思うと、意外につじつまが合う気がするのです。


自らを知るための自己の投影。

心の対話、自問自答によって自らを知るという方法は、心理的にも宗教的にも行われていることです。

しかし、いきなり自分に問いかけても、そこに「いつもの自分」として意識している自分しかいませんので、なかなか難しいことです。

また日常生活で「自分を観る」というようなことは、時間的にも物理的にもやはり困難です。

というのは、ほかの作業があるからで、その時にいちいち、「自分が自分だ」「自分は今、これこれをしているところだ」なんて思っていると、何もできなってしまいます。

ところが、このことがまさに自己認識のヒントになるのです。

日常で自分意識や自らが選択・行動しているというような認識はほとんどしません。

せいぜい、重大な決断をする時か、他人と意見が違ったり、著しく外見が異なったりする環境に身を置かれた時などに「自分」を意識するくらいです。(だからこそ、環境の激変選択の岐路に立たされている時は、「自分」というものを理解するチャンスでもあり、反面、自己を失う危機でもあるのです)

ということは、日常から非日常の意識状態になるよう自分をコントロールすると、より自己を考察することができるというわけです。

それが孤独で落ち着いた環境であったり、瞑想したりして得る境地だったりします。(静かにする瞑想だけではなく、自分のしている行動をひとひとつ、「自分がやっているのだと意識してみる」という行動的な瞑想の場合もあります)

重要なことは、通常の時間感覚・流れを断ち切っものを創造するということです。なぜなら時間の異質性は空間の異質性も生み出すからです。(その逆も真なり)

同じ環境にいてはなかなかそれができないので、強制モードとして自分が動いたり旅をしたりして、それを確保するほうが楽です。(それゆえ、「愚者」は意識の移行も意味します)

そのような非日常の意識になれるような時空が設定できたら、次に自己洞察のツールを使います。

それが象徴ツールです。言うまでもなく、タロットがこの大きな役割を担います。タロットカードを自分の分身たちと見て、自己投影してみるという方法になります。

別にタロットでなくても、人形でも木でも雲でも何でも自分の内面を象徴すればよいのですが、タロット、特にマルセイユタロットの場合は、人間の元型的なタイプ・パターンをうまく象徴しているので、使いやすいのです。

言ってみれば誰にでもあてはまるように作られているわけで、「まあ、とにかく当てはめてみよう」という時に便利な「自己認識セットツール」みたいなものなのです。

その上で、全員に当てはまるパターンでありながら、自分だけに意識される事柄や表現・感覚・意味というものも出てきます。

ここがものすごく重要で、全体でありながら個別、個別でありがら全体という構造でカードに自己投影していくと、自分の個性を大なるもの(人類全体・宇宙)まで拡大していくことができるのです。

その逆に、より自分が自分として持っている個性というものも理解できます。(これにはマイナス・プラス両面あり)

自分を見るのに鏡が必要なように、投影する装置があったほうが自己認識はしやすいのです。

もちろん人間(他人)そのものでできなくはないですが、生身の人間の場合、投影する人が限定されがちか、逆にあまりに多過ぎてやりづらいのも確かです。だからツールが求められるのです。

ただ、鏡に映った自分が自分そのものではないように(左右逆転であること、あくまで映し出されたものであること)、投影されたものは自分の本質ではありません。

最終的には「自分なんてものはない」とさえ理解できるでしょう。

しかしながら、このタロットに投影された自己は本質ではないものの、今の自分を成り立たせている材料、表現でもあるのです。

いわば、自分の本質がまとった様々な自分というわけです。

ペルソナといえばペルソナですが、ペルソナにもふたつあり、社会的にかぶる仮面(普通に他人や自分が思っている自分)と、今生(人生そのもの)の演出のためにかぶる仮面です。

前者は意識的につけかえることは可能ですが、後者は通常は無理です。ただ、ある種のエネルギーとパワーの回復と、自己に眠る神性の認識が進むと、それも可能になると想像できます。


「吊るし」の別観点

マルセイユタロットの中に「吊るし」というカードがあります。

一般的タロット名では、「吊され人」とか「吊された男」と呼称されているカードです。

その一般名のために、意味としては「犠牲」であったり、「苦しい状態」であったりすることを象徴しているように見えがちですが、マルセイユタロットの「吊るし」の絵柄は、それほどではないように感じられます。

むしろその状況を楽しんでいるかのようにさえ、見ることができます。

このように、タロットは絵柄やカードの名前から受ける印象でまったく変わってきます。

タロットカードを選ぶ時、図像の違いは決定的な印象の違いをもたらせ、それが自分の好みやその他のこととあいまって、自分にとってなじみのタロット(活用できるタロット)になるか、そうでないかの線が引かれると言ってもよいでしょう。

それはさておき、「吊るし」です。

マルセイユタロットの「吊るし」は、受動的ではあっても、能動的な部分を持ちます。それは自らこの逆さまスタイルを取っていると解釈することで出てくるものです。

逆さまというのは、通常とは正反対の立ち位置であり、つまりは逆の観点別視点です。

このことは重要な示唆を私たちに与えてくれます。

そして、単に別の観点を持つというだけではなく、「吊るし」から想起されるのは、今まで信じてきたこと、感じ思ってきたこと、経験したこと(または現在進行形で続いていること)を別の角度から検証してみるということが伝わってきます。

これはネガティブに思っていたことをポジティブに見てみるとか、その逆の、ポジティブだと思っていたけれどネガティブもあったというケースも意味しますが、さらに一歩進んで、同じ要素をさらに別の視点で見るということも考えられます。

上記で言えば、ネガはネガとしても別のネガだったり、ポジはポジでもほかのポジも見てみるというようなイメージです。

たとえば、サーフィンが好きな人がいたとします。

彼はサーフィン、波乗りのスポーツとしての感覚、ライド感がとても心地よく、波にチャレンジしていくその高揚感と乗れた時の達成感がたまらないとして、サーフィンが好きだと思っています。

ここでサーフィンがなぜ好きなのかの別の観点をもってきますと、意外にも彼は、サーフィンをする仲間との時間や語らい、自分を素直に表現できる場所があることで、サーフィンが好きであることがわかったというような具合です。

つまり、サーフィン自体よりも、別の要素が好きの割合を占めていたわけです。

もちろん、だからと言って趣味の対象が何でもよかったわけではないでしょう。サーフィンというスポーツだったからこそ、彼はそれを好きになれたということは前述の彼の思いの通り、あるわけです。

けれどもその前に、彼は仲間との自己表現を求めていて、サーフィン自体の楽しみはあとから付け加えられたものだったということも言えます。いわば、「楽しみ」をいろいろな別視点で見ることができるのです。

ほかにも、パン好きな人が、単にパンを食べる楽しみだけではなく、パン屋さんを巡るその小さな旅の楽しみもあったというものでもいいでしょう。

反対に嫌なことでたとえてみると、仕事が嫌と思っていたけれど、さらに分析してみると、給料が安いというのも嫌だったし、そもそも上司が嫌なので、さらに仕事が嫌いになっている・・ということがわかって、実は仕事よりも職場が嫌いであったということがわかる場合があります。

これは実際に結構多くあります。仕事が嫌いではなく、実はほかの部分(人間関係・時間・給料・報酬・社風・仕事の進め方・・・)などが嫌いな要素であり、仕事や働くこと自体が嫌いなわけではないと自己の誇りを取り戻すきっかけになることもあります。

ということは、別に仕事を辞める必要なく、その要素が改善されたり、自分から働きかけたりすることで解決することもあるわけです。

また、自分に合った環境と内容が提供されれば能力が発揮でき、自分がダメ人間ではなかったことが証明されます。(ただし基本的能力の未熟性の時は、やはりどんな環境であっても鍛える必要はあります)

以上のことから「吊るし」で示される重要な示唆は、同じ状況や状態の中でも、別の角度・視点から見たり分析したりすることで、解決策や楽になる方法が見つかることは多いものだということです。

苦しいどころか、実はとても解放(のきっかけ)を与えてくれるカードが「吊るし」なのです。

「吊るし」が現れる時はその状況が必要だから登場します。(状況を受け入れ、肯定するか、反対に問題視しなければならない部分があること)

「吊るし」の人物が後ろ手にしているものが、まさに鍵となる別の要素を示しています。

そして、「そのことにあなたは気付きますか?」と微笑みながら、「吊るし」の彼は今日も問いかけているのです。

(※何でもそうですが、タロットの解釈はひとつの事例であり、唯一絶対ではないことに注意してください)


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