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カバラーと小アルカナ

78枚の、いわば、伝統的構成のタロットは、大アルカナ、小アルカナというパートに分かれています。

伝統的タロットの典型版ともいえるマルセイユタロットは、当然、そのふたつの構成になっています。

マルセイユタロットの小アルカナは、一般的にわかりづらいとか、読みにくいとか言われます。

それは、特に数カード(数札)の絵柄が記号的で、具体的な絵ではないことが大きな理由でしょう。

一方、同じ小アルカナでも、宮廷(コート)カードは、大アルカナと同じ絵柄の質であり、ずばり人物画と言えますから、これは見た目通りでわかりやすいと言えます。

ということで、マルセイユタロットにおける小アルカナの難解さの問題は数カードにあるわけですが、日本の今のマルセイユタロットを扱う人たちは、奇しくも「カモワンタロット」をやっている人が多いので(これは旧タロット大学の活動の影響が大きいと思います)、製作者の一人、フィリップ・カモワン氏の教義・技術の特質上、あまり小アルカナは使わないことがあり、そのため、マルセイユタロット使いの者は、余計に、数カードが使われない傾向があるようです。

もちろん、ほかのマルセイユ版をやっている方もいらっしゃいますし、同じカモワンタロットを使っても、ホドロフスキー流(カモワンタロットの共同製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏)の場合は、小アルカナの活用を示唆されていますから、数カードをよく使っている方もあるでしょう。

私は旧タロット大学出身ですから、カモワン流ベースから入ったことで、やはり、当初は小アルカナ、そして数カードはあまり使いませんでした。

しかし、カモワン流の範疇からはずれ、フリーでマルセイユタロットを実践、講義していくようになりますと、タロットは78枚で構成されているわけですから、小アルカナの活用なしくてタロットとは言えないと思い至り、自分自身で小アルカナについて探求するようになりました。

その結果、やはり、小アルカナ(当然数カードの件も)は、とても重要で、リーディングや目標達成などに、非常に活用度が高いことがわかりました。大アルカナと併用することはもちろん、単独で使うことにも意味があります。

小アルカナをさらに見て行くと、これまでの大アルカナで象徴されていた次元やレベルが、小アルカナでも可能であることもわかってきました。それは文化的背景にも関係します。

ところで、タロットはカバラー(ユダヤ神秘主義思想)と関係があるとかないとか、いろいろ説がありますが、ウェイト(ライダー)版系では、普通に関係させているように思います。

ただ、本当の意味でのカバラー、イスラエル・ヘブライ民族に伝わる古来のカバラーと関係しているかと言われると、それは難しいところではないでしょうか。

そうした本来のカバラーではないにしても、キリスト教圏、ヨーロッパに流れて他民族にわかりやすく改変され、普遍化・簡略化したようなカバラーの教えが、私たちもふれることが可能になりました。

その教義やシステムから、カバラーには「4」の体系が見て取れます。特に「生命の木」などには顕著です。(「10」の体系とも言えますが)

「4」(そして「10」)の体系となりますと、タロットでは小アルカナが当てはまります。(大アルカナでもそうした考えができないわけではありませんが、22枚の大アルカナでは、やはり少し無理があります。もっとも、「生命の木」のパス(小径)は22本あるので、大アルカナとリンクさせる考えもあるにはあります)

としますと、カバラーとタロットは、特に小アルカナを通して関係を見ることができるかもしれません。

カバラー発祥のイスラエルの土地は、ヨーロッパとは別です。宗教的にもユダヤ教で、古くから、また現代においても、その周辺国はほとんどイスラム教です。キリスト教圏のヨーロッパとは違うわけです。

それらの宗教では偶像崇拝は禁止されていますので(キリスト教もそのようですが、多くはイエスや聖人たちの図像に祈りますよね)、神を具体的な絵では表せなかったと思います。

このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ・数カードは、偶像崇拝を排して、崇高な神(の世界、宇宙)を表現したものと見ることもできます。

タロットの小アルカナは、いわゆる4組として、剣・杯・杖・玉、一般的には、ソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、それは、四大元素として、それぞれ、「風・水・火・地(土)」を示すと言われます。

しかし、カバラー的に考えますと、四大元素だけではなく、四つの次元や階層(天上・地上、宇宙の)として見ることも可能です。

こうすると、現代の私たちと言いますか、おそらく人類の今までの歴史の中において、この4つの順序や階層が乱れ、破壊され、さらには、鏡像のように逆さまに映し出されたものを現実として見ていることに気がつきます。

グノーシス的に言えば、悪魔の牢獄の中で、本物が隠され、嘘の世界で奴隷として存在させられているようなものです。

その救済には、大アルカナとのリンクも必要で、タロット全体の構成を見て、ひとつひとつ、再構築していく必要があります。

大アルカナの数の順序が、マルセイユタロットとは変わってしまっているものでは、システム的に整合性が出ない(あくまでマルセイユタロットにおける霊的体系のうえでの話)ので、やはり、マルセイユタロットそのもので、大も小も見て、自分の中の再構築が求められます。(他のタロットと混同されると、余計混乱してしまうという意味)

ウェイト版とはまた違った方法で、カバラーの生命の木とリンクさせ、私たちが、地上の人間から天上の神に戻る意識を回復させる試みができるのではないかと思っています。

そのは、意外に小アルカナにあるのです。


人の問題とタロットリーディング

マルセイユタロットでは様々な見方が可能になります。

そのひとつが、タロットリーディングにおける人の問題の扱いです。

他人へのタロットリーディングは、その方を解放に導いたり、問題の解決のアイデアを出したりするために、タロットを使って行うものです。

これは占いとは一線を画します。(ただし、表現上、占いに近い形を選択する場合もあります)

人の問題というものは、単純なようでいて複雑、またその逆の(複雑なようでいてシンプルな)こともあります。

しかし、多くの人が、問題の種類は分けられても、そのレベルまで見ようとはしません。

人の問題が複雑に見えるのは、同じレベルで数種類の問題が複合していることもありますが、特にタロットリーダー側で、問題のレベルが区別できていないことにも原因があります。

また、個人と一般、さらにはタロットリーダー自身価値観を混同してしまい、何がよくて何が悪いのかの検証ができにくくなっています。

レベルをかなり上げ(いわゆる抽象度を上げるというのに等しいですが)、神次元・神目線のようなところまで来ますと、本来問題というものはなく、ですから、良いも悪いも、正義も不正義もないということになります。よく、ノンデュアリティ論者がたとえるレベルの話です。

しかし、人間レベルまで降ろすと、色々な問題が出ます。それは現実という認識のもとに、一人一人、個性を持って人が生きているからです。

たとえまったく同じ条件であっても、人には個性があるがために、それぞれで感じ方が違ってきます。あの人が問題視することでも、別の人には、まったく気にしないものであるどころか、楽しみの場合でさえある、ちょっと奇妙な世界が地上であり現実です。

それは、つきつめると、する・されるなどの、二元的なエネルギーの方向性、行動、表現、立場の違いが人にはあるからとも言えますが、ともかく、個人レベルになりますと、問題は多種多様で、人の数(以上に)だけ生じてきます。

従って、一人一人、相談内容も問題も違うわけですから、その対応もそれぞれで異なるのが当然と言えます。しかしながら、私たちには「人」としての共有部分があり、ユングが元型と評した、ある種の共通パターンもあります。

それゆえ、象徴として、タロットカードを人に使うことができます。人と問題の数だけカードを用意するとすれば、とんでもない量となりますから、そこは象徴化させる必要があるのです。

けれども、この象徴というのもやっかいで、現代人はなかなか象徴というものが理解できず、はっきりとした答えのようなものがカードから出ると思い込んでいるところがあります。

極端に言えば、数学のような、絶対で万人が納得するひとつの回答があると信じるわけです。これを記号的解釈と述べてもよいでしょう。

しかし、象徴は、むしろあやふやで抽象的なものです。違うレベルや次元さえ超越し、それに含むことができます。

象徴(解釈)にもレベルがあり、そこをきちんと整理してわかっていないと、混沌とデタラメの世界に入り込んで、象徴を機能させることができません。

その象徴の扱いにも関係する話ですが、タロットに関心を持つ方で、注意したいのは、中間段階を飛ばそうとする傾向がある人がいることです。

だいたいにおいて、現実的レベルと、超越的レベル(神的・高いスピリチュアルレベル)の両極端が癒着(融合や統合とは異なります)してしまい、スピリチュアルでお金が引き寄せられるとか、神様はこういう(私の)幸せを望んでいるとか、個人的な、特に物質的・現実的願望実現を、超越レベルの次元の介入によって解決したり、手に入れたりしようという節がうかがえます。

これでは、宗教における、外の神に祈って何とかしてもらう(奇跡を待つ)というのと同じ構造となってしまいます。

何事にも段階やレベルがあり、特に現実空間、実際に生きる私たちには、物理法則はもとより、時間と空間の制約も受けます。

さきほど、問題の根幹は、二元のエネルギー表現にあると言いましたが、上記の態度では、人は受動がメインで、神から与えられるまま(幸不幸においても)の状態です。

もし、グノーシス的に自身に神性を認めるのならば、物事は反転し、受動ばかりの姿勢から、能動的で創造的な姿勢に変化するでしょう。もちろん、世の理は、二元での循環のようなものですので、受動的立場も時に必要です。

しかし、超越的(神)レベルと現実的(人間)レベルを癒着させるような姿勢で、外の神に頼ろうとする場合よりも、バランスは回復されてくると思います。

能動的・創造的になってきますと、先述の癒着から離れ、天と地との段階を認識していくことになります。

詩的な表現で言いますと、神が階段を下りて来るのを待つのではなく、自分が天への階段を上って行くのです。だから段階(梯子)を見ないといけないわけです。

すると、自分の体が重いことにも気づくでしょう。簡単に手が届くと思われた梯子に手足がかからない・・・なぜなのか?

それは、例えれば、自分の体を下に引っ張る何かがあり、重力の重い世界に自分がいる(その世界観にいる)ためです。それがインド的にはカルマと呼ばれるものと言ってもいいでしょう。

いくら引き寄せなどで、よい気分・フィーリング、波長に合わすと言っても、それができない自分の状態があるのです。(引き寄せ的なことは、ある意味、真実も含まれると個人的に考えますが、個人個人の波動調整、浄化のようものがあってのものだとも思います)

心理的な見地からも、たとえばトラウマとか、ネガティブに思う癖・データが自分を支配していたら、それを何とかしないと、幸せな状態になろうと頑張っても足かせとなって、結局、努力すればするほどうまく行かず、成長・変化を放棄したり、やってきた方法が悪かったと誤解(間違いと言えば間違いではあるのですが、実際は取り組みの順番が違うだけで、取った方法が悪かったかどうかは言えないことです)したりすることになります。

自分(人)の問題のレベルや種類を認識しつつ、受動だけにならず。能動的に段階を踏まえどこに今フォーカスすれば、問題の解消や解決(言っておきますが、問題は必ずしも解決することだけが対応ではありません)につながるのかを見ておくことが、特にタロットリーダーには求められるでしょう。

それには、マルセイユタロットと、それに流れている教義を知ったほうが、やりやすいと思います。逆に言えば、受動的に、カードや占い師から告げてもらうようなものは、ほかのタロット・技法のほうがよいと思います。


タロットで見る2021年

12月になりました。今月で2021年も終わりです。

年齢や精神の状態により、人の感じる時間速度は違うと言われますが、客観的にも最近は地球の自転速度が上がっているということですので、誰もが一年の経過のスピードアップを感じているかもしれませんね。

コロナ禍はまだ収まらず、新たにオミクロン株が世界を不安に陥れていますが、ウィルスは変異により弱毒化することもありますから、「運命の輪」の象徴のごとく、何がよくて何が悪いことにになるのかは起きた当初にはまだわからず、「人間万事塞翁が馬」のことわざのようだとも言えます。

コロナに限らず、近ごろはそのような、起きている事象の真の意味が、当初はわかりにくいことが増えているように思います。

しかし、同時に、魂で把握できると申しますか、すでに少しずつ人類の覚醒が始まっており、一見、わかりづらい構造や事柄でも、本当の意味を何となくでも最初から感じる方も、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

ある程度の困難さや不透明さ、試練のようなものは、これからも全世界的に予想はされます(だから個人としてもあるでしょう)が、それらはすべて人類全体の意識・霊性の向上と回復のために起こっている(起こる)ことだと予想され、大きな意味ではよい方向に向かっているのではと思います。タロットカードでは「審判」が浮かんで来ます。

さて、12月ということもあり、今年の総決算のように、マルセイユタロットで2021年を象徴するものとしてカードを引いてみました。これは、今このブログ記事を読まれている方々全体に向けての意味となります。

もちろん、個人レベルでは今年起きた内容も意味も異なっているのは当然ですが、それをあえて全体の象徴として引いたというものなので、抽象的解釈になるとは思いますが、各人で考えてみてください。私からは出たカードたちからうかがえるポイントのようなものを記します。

テーマ 【2021年の意味】

スリーカード(三枚引き、正逆取らず、正立のみ)

「隠者」「恋人」「愚者」

「恋人」を真ん中にして、「隠者」と「愚者」はそれぞれ違う方向を見ています。三枚全体を見ますと、「隠者」の呼びかけ・合図で、会議や合議を「恋人」カードで図っているように思え、その結果、個人個人が「愚者」として旅立っている、目的(地)に向かっているように見えます。

「恋人」には選択の意味もあり、今年は何らかの選択が試された年と言えましょう。

「恋人」の図像には、人間と天使が一緒に描かれていますが、天使の存在には気づいていない人間たちという構図にもなっています。このことから、強い自覚ではないものの、何か天上的・霊的なもの、言い換えれば未知なもの、物質や現実意識を超えたもの、つまりはこれまでの自分の常識を超えるものについての働きかけ・意識が芽生えてきた年とも考えられます。

他人や外の情報に振り回される自分ではなく、真の自分に気づく(あるいは戻る)環境がやってきているとも言えましょう。

「恋人」の天使は、またキューピッド(クピド)でもあります。人や事柄との結びつきが示唆され、カードが孤独な「隠者」から「恋人」になっていることからも、今年は人間関係、愛(情)を特に意識した年だったかもしれません。人によっては、自分がキューピッドの役割を担った方もおられるでしょう。

しかし、「愚者」として、そこからも移動しつつあり、古い愛、言ってみれば情愛的、欲求的な愛からは目覚める(気づきや解放を意識する)ことになりそうです。ギリシア語での「プシュケー」(魂やいのちと訳されるもの)」との関係も感じられます。

マルセイユタロットを持っている人や、学んだ人は、ご自分で、「隠者」の向かって左(つまり「隠者」の見ている視線方向)と、「愚者」の右(「愚者」の視線方向)に、それぞれ一枚ずつ、カードを引いてみるとよいでしょう。(正立で)

すると、より、個人的な意味がわかると思います。

 

最後に、乱数生成サイトを利用しまして、ランダムに22からひとつ、数を出してもらい、その数を持つ大アルカナが、自分の今年のテーマや課題だったとします。

この乱数発生サイトで、範囲のところを「0から21」と(半角英数)入れて、個数を1として、「乱数を生成」ボタンを押してみてください。すると、下部にひとつの数が現れます。その数(「0」は「愚者」とします)を持つ大アルカナが、自分にとっての今年の象徴・テーマを考察する手がかりと見ます。

それでは。


マルセイユタロットに関わっていること。

こちら(HP)の経歴でも書いておりますように、私は通称カモワンタロット、カモワン版マルセイユタロット(本来はホドロフスキー氏も製作に関わっていますので、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットと言うべきですが)からタロットの世界に入りました。

カモワンタロットを学んだことは、縁(えにし)とも言えます、

当時は、タロットのことは詳しくなかったので、ほかのタロットを学ぶ可能性もあったわけですが、先述したように、縁というものでしょうか、たまたまカモワンタロットから入り、今もって、そのタロットを使い続けています。(現在はオリジナルな形が増え、カモワンの解釈や技法とは違うものも取り入れていますが)

私自身について言えば、どの道、タロットの世界に参入することが決まっているとしたのなら、マルセイユタロットに関わることになってよかったと言えますし、それ以外のタロットの世界は考えられないくらいです。

タロットをやっていますので、よく勘違いされるのですが、私はタロットやカードが好きなのではありません。あくまで、マルセイユタロットに象徴されている世界観、教え、モデル、型などに興味があるのです。

タロットを扱う人には、いわゆるカード好きタイプの者と、特定のタロットの世界観や絵柄に惹かれる者とがいます。

私は完全に後者で、マルセイユタロット以外に興味はないのです。まあとはいえ、長い間、タロットの世界にいますと、ほかのタロットやカード類に、特に成り立ちとか歴史みたいなものには関心は行きます。

何事もそうですが、ひとつのことで閉鎖的に完結しているわけではありません。

人間においても、例えばあなたが存在しているのは、好き嫌いに関係なく、両親がいたためで、そのまたそれぞれの両親、先祖の方々がいたことで、存在の理由が成り立つわけです。

しかも、誕生してからも、いろいろな人間、事象と関わり合い、影響を及ぼし合い、今の自分ができあがっています。

ということは、カモワンタロットやマルセイユタロットにおいても、そのタロットだけ見ていればよいというものではなく、ほかのタロット、カード類などとの比較・研究も必要であり、さらにはカードを扱う人たちのことも考えると、どうしてもヨーロッパ(の歴史)はもとより、全世界的な範囲で見て行くことも出てくるわけです。

※例えばマルセイユタロットの絵柄を観察しても、明らかに、大アルカナと小アルカナの数カードとの違いがあり、それは異文化的な背景をも想像させるものとなっています。

しかも、単なる一般的な歴史や見方ではなく、裏面史のようなもの、宗教・民俗・哲学・魔法・霊的な分野まで、タロットというものを探求していくと、関係して来るわけです。

そういう面では、知的好奇心の意味だけにおいても、タロット(特にマルセイユタロット)に関わることは、興味が尽きないことになってきます。

まさに「世界」のカードではありませんが、世界的に拡大して視野を広げる必要があるわけで、それが面白いと思うか、面倒だと思うかの違いによって、関心度、学びの方法も異なってくるでしょう。

私自身もそうでしたが、最初は先生や講師、つまりは先達の人からタロットを学ぶわけですが(特にマルセイユタロットにおいては、独学よりも、そのほうが個人的にはよいと思います)、ずっと教えられる立場に留まるわけではありません。

物事の原理として、インプット・アウトプット、受動と能動は等しくあり、やがて、自分から探究し、発見し、気づきと智慧をタロットから見出し、場合によっては、それを人に伝えていくような、能動的働きも出てきます。

結局、マルセイユタロット(が示そうとしているもの)の学びは、自立に関わり、最初は与えられる側でも、最終的には自らで得る(立つ)ためのものなのです。(断言しますが、程度の違いはあっても、マルセイユタロットを真剣に学んでいくと、必ず、自立問題と関係してくるようになります)

いつの間にか、私もたくさんの人にマルセイユタロットを伝える立場となっていますが、そうやって伝えられた人も、やがて自立し、自らが自らであることを知り、さらには自我を超えた存在に拡大し、大いなるもの(場所)に帰着することになるかと思います。

一言でいえば、霊性との調和による、一人一人のレベルと次元の進化であり、それによって、世界(地球)全体のレベルを押し上げ、低自我的で支配と被支配に明け暮れる次元から、霊性による基準が中心の世の中にシフトしていくための目的が、マルセイユタロットの学びと過程にあります。

ですから、何度も述べているように、占いレベル中心次元で、タロットを学び、使うことを私は勧めていないのです。(占いを否定しているわけではありません)

しかしながら、一人一人の現実的・実際的悩みもあるのが人間です。

それをある程度、安らかにしていかないと、次に進めないのも事実です。そのための対人タロットリーディングがあるということにもなります。

大と小、理想と現実、精神と肉体・・・いろいろと二元のたとえはありますが、これらを関連させつつ、個人レベルから全体レベルへと向上を押し上げて行くのが、マルセイユタロットの使い道の一つだと思うわけです。

やはり、「世界」のカードの視野・視点の獲得と言えましょうか。

来年で、私も、最初のタロット学習から20年を迎えます。それでもまだまだ続けて行きたいと思っています。


怪我をしておりました。

私のタロットのグループや、受講生さんにはお知らせしておりましたが、実は私、先月末、釣りに行った際、堤防の高所より落下し、救急車で運ばれる事態となりました。

釣りの最中、すでに夜になっていましたので、暗くて、よく見えなかったのが原因で、不注意と言えば不注意です。

釣り場の堤防の高さがずっと同じだと勘違いしたまま進んでいたのですが、進行方向に高さが急に垂直に低くなっており、それに気づかず、まともに下に落ちてしまいました。

落ちた瞬間、ふわっと体が浮いたように感じ、「あっ」と思った時は、強烈な痛みが襲ってきました。「あ、これはかなり落ちたな」と感じ、「えらいことになったかも・・・」と恐怖も感じました。

意識がしっかりしてくると、痛みの箇所が具体的にわかってきまして、前歯がぐらついていること、顔面と右手、肩から出血していること、全身に痛みがあることなどが感じられました。ふらつきもひどく、立つことは何とかできたものの、座り込んでしまう始末でした。

釣友と来ていたのが幸いで、すぐ友人が駆け付けてくれ、いろいろと世話をしていただき、結局、救急車を呼んでもらうことになりました。

病院に運ばれ、CT検査と、傷の手当、顔や手に入り込んだ金属片とかゴミも取り除いていただきました。

不幸中の幸いか、頭の問題や骨折はなく(ただし、いろいろと打撲、むちうちなどはありましたが)、入院の必要もない状態で、しばらく休んだ後、何とか釣友に介抱されながら帰途に就くことができました。

それでもショックはなかなかにあり、当日は痛みで寝ることがほとんどできないほどでした。それから再び、近くの病院でレントゲンやら検査をしましたが、やはり骨や内部に異常は見つからずでほっとしました。

ところが、後日のCT検査で腰椎に骨折の映像が出たことで、MRI検査をすることになりました。腰については痛みが当初からなかったので、医師も「おそらく以前に骨折した箇所ではないかと思うが、念のため」ということでした。

そして、本日ようやくMRI(予約制のため、すぐに受けられなかったのです)の撮影も終わり、結果、骨折はやはり今回のものではなく、以前のあとだという診断でした。それにしても、いつ腰椎の骨折をしていたのか、記憶にないので、それはちょっと怖いと言えます。変な治り方ではなかったようで、その点は良かったのですが。

ともあれ、こうして二、三週間もかけて、いろいろな疑いの検査も終了して、やっと問題なしの診断と、ほぼ回復に近い状態になったわけです。(まだ少々の違和感とか、歯のぐつらきがあって、特に歯は時間がかかるようですが…)

自分の不注意とはいえ、怪我をするというのは、日常生活においても難儀なことになります。

私はいろいろと昔からそそっかしくて、注意散漫なところがあり、怪我とかミスとか結構あるほうでしたが、今は年齢も来ていますから、もっと慎重にならねばと強く自覚した次第です。それでなくても、体調が今年は波があって、心療的・内科的にも不調の多い年でしたし、健康に留意すべきところがあります。

今回は状況から見れば、むしろ奇跡的にこれくらいで済んだと言え、下に鋭利なものがあれば刺さりますし、打ちどころが悪ければ、骨折はもとより、頭の中の問題など、怖いことになっていたおそれも十分にあるところだっただけに、何かに守られた感もあり、そうだとすれば、大変感謝です。

ということで、タロットの講義とかリーディングも、しばらく停止させていただいたおりましたが、何事もなければ、来週より再開の予定です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


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