ブログ

現状の幸せを超えるための破壊。

人間の人生は冒険と保守、危険と安全の繰り返しだと言えるでしょう。

どちらも大切な要素であり、いわば何かの基準のバロメーターを、右か左かに極端にシフトした表現であるとも言えます。

自然に過ごしていても、マンネリが続き過ぎると冒険を求めたくなる衝動に駆られますし、反対に危険が連続すると、ひとときでも休息や安定の環境に移行しないと身が持ちません。

しかしながら、何かを大きく変えたいという場合、やはり現状を破壊する選択が必要とされます。

変化というものは、変わるからこそ変化であり、同じ状態が続くのは変化ではありませんから、そこには創造・維持・破壊の宇宙的サイクルの意味からも、維持のあとは破壊が来るのが摂理とも言えます。

マルセイユタロットで変化・変革・破壊をもっとも象徴するのは「13」です。一方で冒険心を示しているのは「愚者」とも言え、この二枚は構図的にも非常に似通って描かれています。

言ってみれば、変化へのチャレンジには破壊がつきものだということですし、冒険心を抱くことが見た目には現状破壊にもなり、逆から言うと、破壊をすることで変化になり、破壊を決意をすることでチャレンジ精神と冒険心が真に生み出されることになります。

破壊といえば大げさで恐い感じがしますが、実はこの恐怖心というのも「13」の特徴で、変化への重要なファクターです。

恐怖がなくワクワクのうちに進むことの出来るのが「愚者」ですが、「13」には現状を壊す怖さがあり、それができるかが問われています。

誰しも「愚者」のようにワクワク楽しく変わって行きたいものですが、それは「愚者」がすでに常識を超えているところにあるので、何でも面白いと感じ、そこにもともと恐怖心はないことからできるものです。

「愚者」は変わるという概念がない存在で、自分自身が変化の権化なのです。ですから「愚者」が出る変化と「13」が出る変化では、すでに変わっていること(変化しているもの、変化しつつあるもの)を意識するか、変わること・変えることを意識するかの違いと言えましょう。

話を元に戻しますが、つらい・苦しいと思えることでも、ここは今までの自分や現状を超えるために必要だと覚悟し実行すれは、それは確実に次の段階へ意識を移行させます

ここで重要なのは、成功・失敗という二者択一的な観念を超越することです。

成功するために変えるという意識では、、それはこれまでの自分(常識・現状認識でいる自分)による成功か失敗かの観念であり、古い自分による判断と選択になります。

もしうまく行っても、その変革は本当の意味での変化ではなく、結果論(たまたまうまく行ったから良かった、変われたという意識)としての変化です。

うまく行かなかったら、あの選択は失敗だったと自分か人を責めることになるでしょう。

そうではなく、文字通り「自分」(今思っている自ずからの分、セルフイメージ)を超越するための行動としてチャレンジすると、成功や失敗という今の自分の観念から抜け出せることになります。

ただそれには闇雲の冒険や危険への挑戦ではなく、内なる神性への信頼、あえて宗教的表現でいえば「神への信頼の証」「自分が神より試されている(お試し)」を思った(学びの)うえで行うほうがよいでしょう。これはカードでいうと、「神の家」とも関係します。

本当の愚か者か、愚か者のふるまいによって神性の回復・会得に挑戦するか(まさにマルセイユタロットの「愚者」)の違いです。

今以上の幸せのためには、今の範囲での幸せを壊すことも時にはあるものです。


カードに見る、声に出すことの重要性

マルセイユタロットの通常の読みでは、「伝えること」「話をすること」は、「法皇」がそのテーマを一番表していると考えられますが、もちろんその他のカードでも象徴することはできます。

深くタロットを見ていくと、声や発声に関するカードがたくさんあることがわかります。

私自身も完全に意味を把握しているわけではありませんが、おそらくそれらのひとつひとつと、さらにカード同士が組み合わされることによって、特別な発声の暗号が見い出せるのではないかと想像しています。

実はそれこそが、カードの単体の図像構成とともなって、特別なマルセイユタロットの奥義として隠されていることを感じます。いわば覚醒の秘密が図像や発声にあると見られるわけです。

さて、声を出すということは、単純に見てもいろいろと効果があります。

人々がカラオケをしたり、日常的にたわいもない会話をしたり、時には愚痴ったりすることで、ストレス発散と解消になっていることは、誰でもわかると思います。

おしゃべりの人は特にそうですが、自由に発言できない、しゃべることのできない環境に長く置かれると、ほとんどの人は心を病みます

では無口な人は大丈夫かといえば、そうとも言い切れません。

なぜならば、人には心の中の声というものがあり、自分は口下手・無口だと思っていても、実は心の中の声は多弁であったり、声にならないつぶやきを多く発していることがあるからです。

そのため、そういう心のつぶやきさえ自由にできない雰囲気(強制的な洗脳モード、何かを無理矢理唱えさせられたり、行動を継続させられたりするような状態)が長期に及ぶと、やはり無口な人でさえ、心を壊すおそれがあるのです。

つまり、人は声を実際に発音して外に出すか、音声にならずとも内に出すかによって、結局のところ、何かを思い主張することのバランスを、誰でも自分でオートマチックに取っているということができます。

それが外向きか内向きかによる傾向の違いがあるだけです。(内向きでも、「思う」ことで思考エネルギーとして、発声したのと同様のエネルギーが、いくらかは内に出ていると考えられます)

あと、思いだけではなく、エネルギーとして声が情報を持つ場合があります。厳密に言えば、発声することのも関係します。

声も音声波動を持つ情報媒体だとすれば、人間が聞くことのできる言葉の意味だけではない情報が、いろいろと詰まっていることがイメージできます。

ということは、たとえば自分の蓄積しているネガティブな情報も、声(と息)にノッて発散していることも考えられます。

よって、声に出すことでスカッとしたり、気持ちが晴れわたったりするわけです。

また出した声の波動によって、自分や周囲の雰囲気を変えたり、破ったりする「祓い」の効果も想定できます。

科学的にも、音によってモノが破壊できることは皆さんもご存知でしょう。それだけ音の威力は大きいのです。

古代には、音声のことが今よりもっと別の意味できちんと認識されており、その活用は場の調整から意識の拡大と覚醒、高次の獲得まで及んでいました。

宗教上で詠唱が重用視されているのも、そうした理由が考えられます。聖典やお経の言葉の意味も重要かもしれませんが、むしろ音の響きそのものに、秘密が隠されていことが多いと言えます。

声に出すことは自己「表現」の大きな方法です。

自分に自信がなかったり、落ち込んだり、元気がない時は、声を出す環境や機会を意識的に作ることで、勇気を得たり、復活を遂げることができます。(このあたりはマルセイユタロットの「力」や「審判」のカードとも関連します)

独り言を言うだけでも、実は考えが整理されてくることもあります。(自分とのコミュニケーション) 

さらに、なりたい自分を音声で表現することは、その状態を音によって生み出していることでもあり、ある種の効果があります。

タロットを展開した時、発声を意識するようなカードが出た時は、そのようなことも考えて実践してみるとよいでしょう。


一枚のテーマカードを考察する方法

今日はタロット講座を受けていただいた方に、ためになる話(実践的な話)をしたいと思います。

普段はこういう話はメルマガ(誰でもOKのものではなく、受講者用のメルマガです)でしていますが、それほど専門的技術でもないので、ここでも書いてみます。

ということで、マルセイユタロットをよく知らない方や、私の講座を受けていない方にはちょっとわかりづらいかもしれませんが、ご容赦ください。

それでもマルセイユタロットを詳しく知らない人にも何か参考になることはあると思います。このブログはタロットのことを書いているようで、そうではないところもあるからです。(今日の記事も本当はタロット以外のことを言外に含んでいます)

さて、タロットを習うと、最初にリーディング方法として学ぶことが多いのが「一枚引き」です。

そして次第に枚数の多い展開法へと進むのですが、一枚引きならぱそのままズバリ、また複数枚を引く展開法であっても、一枚が特別に自分にとって意味を持ってくるように見える場合があります。

たとえば、質問を違えているのに、同じカードがやっぱりよく出るというようなケースです。

それは象徴的にいえば、やはりその人の今のテーマや課題が、そのカードによって表れていると見ていいでしょう。

そうなると、たいていの人は、たとえばそれが「審判」だったら、まずは「審判」の意味を把握したり、細かな図像まで調べたりして「審判」を理解しようとします。

それはもちろんよいことです。

ただ、ここで発想の転換をしてみることもお勧めします。そうすると、一枚のことがもっとわかってきます。

それは「一は全、全は一」というスピリチュアル・精神世界のたとえでは当たり前のことになっている概念を採り入れる方法です。

上記のケースで言えば、「審判」一枚はタロット全部であり、タロット全部はまたこの場合の「審判」であるとなるのです。

特定カードはその人の現在の課題でもあると言いましたので、前述の考え方に従えば、結局、そのカードは今の自分全部であり、また個別の特定問題でもあることになります。

何のことかはわかりづらいと思いますが、説明はあえて省き、その使い方・見方をお伝えします。

まず「審判」一枚(これはあくまで例で、自分にとって今、重要となっているカード一枚のことです)を置きます。

次にほかの大アルカナ21枚をそれぞれ、「審判」の横や上・下でもいいので、一枚ずつ置いてみます。数の順に「手品師」から置いてみてもいいですが、特に決まりはないので、シャッフルして出たカードを置くのが面白いかもしれません。

言ってみれば、一枚だけ固定した特種な二枚引きです。

ここで重要なのは、最初の固定カード(この場合では「審判」)をメインと見ることです。

二枚を同格として見るのではなく、あくまで最初のカードの中に次に引いたカードがあるとして考察するのです。

大アルカナが終われば、小アルカナでもやってみます。(二枚目を小アルカナで引く)

大アルカナと小アルカナの関係のとらえ方によっては、二枚目のカードを大アルカナで引き、次にその二枚目に引いた大アルカナの意味を補強する(より具体化する)意味で小アルカナを引くという、合計三枚で見る方法もあります。

もっと面白いやり方としては、もし同じタロットのミニサイズのタロットがあれば、最初のテーマカード(今の自分の課題となっている最初のカード)を普通サイズで置いておき、ほかの21枚(大アルカナの場合)をミニタロットで全部、そのテーマカードの周囲に並べて見てみるとよいでしょう。

もちろん、テーマカード自体もほかの21枚にプラスして意味を持ちますので、22枚を統合して見ると自分のそのテーマにおける過不足や調整具合もわかってくるでしょう。

これはほかの種類のタロットカードでもできなくはありませんが、やはり伝統的タロットの枚数と体系を受け継ぐものでないと難しいでしょう。

なぜならば、「一は全、全は一」のフラクタル構造を、全体として計算されて作られているかどうかについては、創作系タロットではその意識は希薄だからです。

ほんの小さな局面にも大なることが象徴されており、その逆の、大なることにも小さな世界が表れるのです。(「占い」も基本は、この考え方があるからできるのです)

マルセイユタロットは何かといえば、このような、世界や宇宙・人間・心理などの構造をタロットを通してつかむために作られているものと言えます。

それは別にタロットでなくてもよいのですが、不思議なことに、マルセイユタロットは怖ろしいほどよくできているので、私も止められないわけです。(笑)


学びに必要な視点、二つ。

いろいろな学びをしていると、やがて「これこそが真実だ!」と思えるような法則・ルール・メソッドに出会うことがあります。

それは確かにその時点では自分にとっては真実でしょう。しかし、反面また、それは真実ではないおそれもあります。

おそらく表面上(見えていること、体験していること)では何も真実などなく、しかしそのこと自体が真実であり、だから真実はあるのだという、わけがわからないものとたとえることもできるかもしれません。(笑)

それはともかく、今の社会、これだけ情報が多いと、自分は何を選択してよいのかわからなくなるのも当然です。

ここで特にに学び・学習において区別しておきたいことを指摘しておきます。

ひとつは、手段と目的を取り違えないということです。

たとえばタロットを学ぶとした場合、あなたはタロットを読む技術を学びたいと思っているかもしれませんが、それは本当に目的でしょうか?

いわば、これはリーディング「技術」です。タロットを読むことができても、おそらく満足はできないでしょう。それは目的が違うからです。

あなたにとってタロットを学ぶということは、自分を現状から変えたいということなのかもしれませんし、宇宙の真理に近づきたいということかもしれません。また他人をタロットを使って癒したい、サポートとしたいという場合もあるでしょう。

これが目的であり、手段ではありません。「タロットリーディングができるようになりたい」というのは、それ自体が目的の人はあまりおらず、たいていはその奥に本当の思い・目的が存在しているはずです。

ここを区別しておかないと、技術をマスターすることばかりに注力し、たとえば資格を得ようと(その資格が目的のための必要条件であれば別ですが)お金と時間ばかりかけて、いつまでも実践できずにいるという、まさに本末転倒のことになってしまいます。

それから二つめは、個別性と普遍性を意識するということです。

巷にあふれるメソッドや法則、書籍・セミナーで語られているものは、ほとんどその講師・著者個人での成功体験から出ています。

人は人間としては共通であり、その意味では共有性や全体性、普遍性がありますが、一方で一人一人個性を持ち、誰一人としてまったく同じ人間はいません

もっと言えば、生まれる前からも違っているのです。

ですから、全員に当てはまることなど現実レベル(五感で実感できるもの)ではほとんどないのが実状です。これをよくふまえることが大切です。

現実レベルで共通しているように見えるのは、強制的に決められたルール・法律があるからです。もしくは意識を抽象(大きな括り)レベルまで上げていった時に現れます。

冷静に考えれば、その人の言うことは、その人がそれまで生きてきた経験・体験・環境・意志などがすべてその主張が導かれるため整っていた(ストーリーを作ることが出来た)からこそ生み出されたもの、気がついたものだということができるのです。

ということで、何でもその人の言うまま、その人とまったく同じ事をすればその人の言う通りになるとは思わないことです。

例えば「夫婦関係、人間関係こうすればうまくいく」という提案でも、言っている人のパートナーがAさんだとすれば、もしパートナーがあなたやBさんであれば、そううまく言ったか、法則にあてはまったかどうかはわからないこともあるわけです。

相手や環境が良かったからうまく行ったというより、むしろ悪かったから気がついた、成功に至るものを思いついたということもあります。いずれにしても環境条件は個別的であり、大きな要因です。

ビジネスでも同様です。たまたまその人のやり方がその時代、環境、人的にうまく行ったに過ぎないかもしれません。

では、人の言うことなど当てにならないのかと言えば、それは一面ではその通りですし、そうではないとも言えます。

重要なのは主体性を持つことなのです。

人の言いなり、誰かや本がいいことを教えてくれる、救ってくれるという意識だけではダメで、それを使い、実践し、自らを変えていく主体的な意志が求められます。

主体的に取り組めば、人の言うことは自分のものとして響き、活用することができます

逆説的ですが、人の言うことは、全部個人それぞれに当てはまり、活用することが可能です。

最初と矛盾していることを言っているように聞こえるでしょうが、「人」として普遍的な括りで見た場合、構造的には人間は同じにできており、スピリチュアル的にはひとつの宇宙です。

従って、真の意味では何でも自分の中にあり、人は自分でもあるので、誰かが発見したり、言ったりしていることは自分の深奥部分では自分が言っているに等しくなります。

ただ表面上の表現(現実世界の自分が見ている現れ)としては、他人いう存在の発表・知識・教えなどとして見えるよう設定されています。

そのため、この現実世界では個という「個別」を意識することそれを活かすことがもともと宇宙的意志として存在するのではないかと想像することができます。

つまり、「わがまま」を実践することが理にかなった世界なのです。ここでいうわがままとは、我(個)のままという意味で、自分勝手な利己のことを言うのではありません。

周囲の人は、あなたにいろいろな情報を見せ、与えてくれます。その中で自分の個性に合い、個性発揮のために有用なメソッド・法則・教えが必ずあります。

ない場合は、自分が発見することになるでしょう。

要するに、あなたはあなた自身の方法を見つけたり、融合したり、取捨選択したりすればよいということなのです。

ただ最初から自分の個性・「わがのまま」なのかはわかりにくいのが普通です。

従って、いろいろな学びをしたり情報を入れたりして、その中からこの世界で自分が表現しやすい個性的方法を見つけ、身につければいいのです。(本当は「思い出す」ということに等しい)

マルセイユタロットでいえば、「悪魔」から「神の家」という象徴で見ることができるでしょう。

人が言うものの中で、普遍的なものももちろんあります。ただ全体や普遍性ばかりを見ずに、個性・自分としてはどう扱い、表すことができるかという視点をもって学ぶと、本当の意味で効率的になります。

それはマルセイユタロットでは「節制」の道とも言え、「節制」は自他ともに「救済」を象徴するカードでもあります。


「悪魔」と満足感、そして満足観へ。

マルセイユタロットでの「悪魔」のカードは、他のタロットの悪魔とは少し違うかもしれません。

というのも、おそらく見た目はそれほど怖さや嫌悪を感じさせないような絵柄だからです。むしろかわいいという人さえいます。(笑)

マルセイユタロット全般が、西洋の中世的なスタイルの木版画のようになっていますので、初見では絵そのものにリアリティを感じることは少ないでしょう。

けれども、ずっと使い続けてくると、実はかなりの現実感を伴って見えてくるのですから、不思議というか、巧みな技だと感じます。

間接的でいて直接的、これがマルセイユタロットの表現の特徴と言っていいでしょう。

話を戻しますが、「悪魔」のカードです。

マルセイユタロットのこの「悪魔」の意味は、見た目が上述したように、一般的にイメージされる「悪魔」らしさがないので、かえって難しいところがあります。

とはいえ、そこは悪魔なので、やはりネガティブな意味を見いだすことも可能です。(私の考え方ではタロットは見方によって、ポジにもネガにも両方の意味を象徴させることができ、もとは中立です)

ということで、「悪魔」という名前の印象から、リーディングとなると、どうしても「悪い」意味で見てしまうことになったり、ホジティブに読みにくかったりします。

しかし、それだけ複雑で面白いカードと言えるのです。

この「悪魔」がわかってくるようになれば、それだけタロットの象徴による物事の自分の理解と考察が奥深く進んできたと言っても過言ではなく、ほかにも「月」のカードなども同様のことが言えます。

さて、その「悪魔」のカードを理解するひとつのキーワードに、「満足」ということを挙げておきましょう。

もちろんそのまま「自分の満足感」ととらえてもいいのですが、さらにの「満足」というものを分析していくと、それは自分の欲求が満たされた時ということが指摘できるでしょう。

欲求は誰が生み出しているのかと言えば、当然自分ではあるのですが、実は他人・外の事柄(外の刺激)からの影響であることもあります。

それはさておき、内からであれ外からであれ、ひとまず自分の欲求として処理され、その意味では自らが生み出したものである言えます。

そして人は自分の欲求を満たすことが、全部は無理でも、部分的に、あるいは一時的であれば可能です。

そうでないと生きて行けないでしょう。食欲・睡眠欲など基本的欲求は、とりあえずはほとんどの場合、どこかで満たすことはできます。

重要なのはそのことです。人間は自ら生み出した(たとえ他人からの影響であっても、人間の欲求であることには変わりありません)欲求をかなえることができる存在なのです。

いわば、自己完結能力と言ってもいいでしょうか。

欲求が人から創造されたものであるならば、その創造を味わい、活かすことができるのも人間だということです。

このサイクルの偉大さ、自らの創造と実践能力のすばらしさに気がつくことが、本当の意味での「満足」につながります。

また、自分の欲求(創造・アイデア)レベルが今の自分の実行レベル(実際にかなえる、味わう、体験する)とイコールではない時(それは結構多いでしょうが)、他人が代わって実行してくれていることもあります。

それをうらやましいと思うより、「人」そのもののすばらしさを感じたほうが自分のレベルを逆に押し上げることになります。

また、創造と実行の間には、この現実世界では時間的制約やズレがあるのが常ですから、自分の欲求が今はかなえられなくても、時が経てばOKになることもあります。いわゆるタイミングのズレの違いなだけのこともあるのです。

このようにして、自分の欲求をそのレベルの範囲においてかなえていくことが自己創造の完結となり、真の満足感を得ることにつながるのです。

すると、自分の偉大さを「内的な自分」が実感し、下手な欲求を逆に抱くことが少なくなり、穏やかでいながら次の成長に自らを進めることができます。

人によってはさらに大きな欲求が出て、またそれをかなえるための経験が起きることもありますが、それも自分の偉大さを悟らせるための作用のひとつだと考えられます。

重要なのは「満足を得る実感」で、中途半端な満足感はかえって飢餓感につながるおそれがあります。同時に「足るを知る」ということも大事で、これは実は満足の実感の方法なのです。

自分の今のレベルを超えた欲求の実行は乖離が激しく、結局かなえにくいですし、よしんば、かなえたとしても損害も大きく、満足したとは言い難くなるのが普通です。

ですから身の丈の範囲で、しかし妥協せず欲求になるべく忠実にかなえていくことで、満足感が得られることになります。

満足感だけではなく、大事なのはさらに一歩進んだ「満足観」で、これは満足を実感し、それ(味わっている自分、満足している自分)を観る(観察する)ことで欲求にふりまさわれずに済む心境です。

欲求を創造し、実行してかなえる、これは自分の中の「悪魔」の働きであり、この悪魔性を懐柔することに神性の向上のヒントがあるとマルセイユタロットを観ると考察できるのです。


Top