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タロットを継続して扱うことの大切さ。
せっかくタロットを習っても、続かず、止めてしまう人もいます。
別にタロットはリーディングだけが使用方法ではないので、リーディングしなくてもいいのですが、まったく目の前に取り出すことすらしなくなってしまえば、それはお蔵入りと言っていいでしょう。
興味本位で、ちょっとだけかじってみたという程度であれば、そうなってもさほど問題はありません。
もともとがまさに「その程度のもの」だったからです。
しかし、結構本格的に学習していた場合で使わなくなるというのは、非常に時間と経済的なロスでもあり、また目に見えない部分でのせっかくの蓄積を途中で放棄するようなものなのです。
とはいえ、人の選択の幅は広く、またどんなものでも変化するのがこの世の中の摂理というものです。続けようがストップしようが、人の自由と言えばその通りです。
タロット自体に興味がなくなることも、人のことですから、もちろんあるでしょう。
またタロット以外での自己探求や対人援助の自分に適合したものを見つけることもあって、それはむしろ喜ばしいことだと言えます。
けれども、そうではなくて、ただなんとなく面倒だから・・・というのではとてももったいないことです。
その人は気がついていないかもしれませんが、ことマルセイユタロットにおいて、霊的向上、あるいは意識拡大のツールとして学んだ場合、すでに入り口から、あなたのそばにはタロットの精霊が控え、タロットの鍵を持ち、一緒にあなたがタロットの道を歩むことに期待して待っているのです。
そして振り返ってみれば、あなたがこのタロットを学ぶことになった経緯、その時の状況、心理的・内的背景、事情をよく思い出してみるとよいでしょう。
何気なくのようでいて、きっとあなたの中に覚醒を求める心、魂の渇望というものがあったはずです。
一見それは気がつかないこともありますし、そうだと認識しないままの「何かの違和感」だったりします。
あるいは対外的(外に起きている自分の状況)に、何かの選択をしなければならない時であったり、人間関係・家族関係に変化の兆しがあるタイミングであったりします。
つまり、これまでの自分をブレイクさせたり、もっと拡大させたり、スピリチュアリティに目覚めたりすることをあなたの内奥が要求し、その環境のひとつとしてマルセイユタロットと出会わせたというケースが、多くの場合想定できるのです。
タロットでいえば、愚者の「犬」です。犬があなたをこの道に案内したのです。
そしてタロットと出会い、あなたは「愚者」となり、またあなたの中にいる「愚者」(同時にタロットの世界にいる「愚者」)とも遭遇したのがタロット学習の真意(神意、自身の神性の意志)です。
それは対人的なタロットリーディングの出来不出来で、あなたのタロットとの関係を止めてしまうものではありません。
もともとタロットリーディングというものは、対人のために使うひとつの技術です。
タロットを使うのは、あなた自身のためが主なのです。これは自身をタロットでリーディングせよと言っているのではありません。
タロットを象徴ツールとして使い、あらゆることをタロットを通じて考察したり、感じたりすることを続けるということを言っています。
そのためのタロットの象徴の土台となる解釈を、細かなところまで説明しているのが私の基礎講座です。
自分の中にある智慧をタロット(の精霊)とともに、共同作業で引き出す・整理する・本当に認識する、これを行うのがタロットを自分使いすることのメインです。
タロットを途中で投げ出さず、もっと真剣に、親身になってつきあってみてください。
あなたがタロットと近づけば、それだけ向こうからも近づいてきます。まさに心の「鏡」なのです。難しく思うのなら、その時はもっとシンプルに・簡単にとらえてみてもよいですし、時には遊び感覚で占いやアテモノもしてもよいです。
学ぶというより、「つきあう」ということが大切であり、時間をかけていくというのが、この現実世界に住む私たちには、精神的なことであれ、必要な場合があるのです。
例えば、習ったタロットではなく、ほかのタロットに切り替えてしまったという人もいるかもしれません。それでもタロットの世界にいることには変わりありません。
タロットにはタロットの大霊という存在がいて、種類毎にまた違う精霊がいると考えられます。あなたがタロットと接している限り、タロットからの智慧は得られるでしょう。
とはいえ、積み重ねたものの利点というものがあり、もし時間と経費をかけて学習したタロット種があるのなら、それを使っていくのが本当はエネルギー効率の意味でも適当です。
タロットには相性もあるので、どうしても最初に習ったタロットと合わない、理解ができにくいというのなら、種類を変えたほうが逆に効率的な場合もあります。
ともかく、あきらめたらその時点で終わりです。もちろんそれでも、今まで習ったものが無駄になるわけではなく、やはり何らかの力にはなっています。
しかしながら、特にマルセイユタロットの場合は、1つの鍵が開けられれば、さらに複数の鍵が必要となり、それらが一気に連続的に使われ智慧の扉が開くという多層模様を描くことがあり、霊的にもバリアーが張られていて、簡単に開くところとそうでないところがはっきりしています。
従って、やはりコツコツとした蓄積と継続は必要なのです。
コップの水があふれ出すまでには、水が満杯になるまで入れていくことが求められるように..です。
タロットを学ばれた人には特に、あなたの継続力と意志に期待したいと思います。
ただ、人間弱いもので、他の誘惑や忙しさなどの理由で、すぐ道をはずしてしまいがちです。(苦笑)
そんな時のために、共に学んだタロット仲間、あるいは同種のタロットを使っている友人を作っておくとよく、勉強会などでは積極的に交流を図って仲間を増やすことが、自身の学習のために活かされることになります。
さら言えば、誰かが作ってくれたり、やってくるであろう機会を待つだけではなく、自分から学びや交流の機会を創造することも大切で、それもまたタロット学習の一環なのです。
波動が高いことがいいとは限らない。
以前、私は魂や霊性が向上するということは、上に上っていくことと誤解していた時がありました。
もし「悟り」のような境地かあるとすれば、どんどん自分が階段を上るがごとく、ピラミッドの頂上を目指していくものだと考えていたわけです。
もちろん、一面ではそういうことなのかもしれません。ヒエラルキーの法則は、ヘルメスの法則でもあります。
しかし、マルセイユタロットを続けてきて今思うのは、決して「上ること」「進むこと」「極めること」が、向上の意味ではないということです。
確かに私の講座の中にも、タロットの絵柄の示唆による霊的な向上の道程を示すことはあります。
これは今は比較的よく知られているので、ご存じの方も多いでしょうが、要は「世界」のカードがその完成(の境地)を表すというものです。
ところが、これだけの説明では、向上のほんの一部の面を指摘したに過ぎないことが、後々わかってきました。
タロットは多様で複層的な見方ができ、そこから得られる気づきや知識は膨大です。
が、それはもともと自分が持っていたもの、あるいは人生で得てきたものの再発見・再整理でもあります。
つまり、タロットはこれら(自分の内に持っているもの、すでに得てきた大切なもの)を覚醒させる(意識に上らせる)ためのツールになっているのです。
こうして、新たに登場してきた霊性の向上の意味というものが「階段ステップ状」のものではなく、平行あるいは下降、さらには螺旋や波状、円形など、四方八方にシフト・拡大する道の解釈でした。
考えてみれば、「世界」のカードは四方八方の拡大を絵柄からも意味します。
このイメージをシンプルに答えるとするのならば、どこにでも悟りはある、また今の意識段階でイメージする「悟り」ということ自体も多様であり、幻想でもあるということです。
「悟り」には悟れば悟るほど先の「悟り」があり、それはキリがなく、しかし全部「悟り」であるのも確かであるという奇妙な話になります。
こうなると、進むステップではなく、足踏みしながら浮いているような、再び巡り巡って現地点(今)に戻ることにもなりそうなのです。
虫の動きにも「悟り」があり、私たちのエゴといわれる部分にも「悟り」がある・・・このような感覚でしょうか。
以前、「堕天と昇天」ということで、上下の快楽と浄化・霊的向上があることを述べましたが、特にイメージの悪い堕天方向にもダイヤモンドのような輝きの原石があるのです。
ダイヤモンドも炭も、炭素としては同じであることで、このことはニュアンスとしてわかると思います。
スピリチュアル傾向の方に、もっと別の方法で述べるとするのならば、「波動が高い」というのがいいこととは限らないということでもあります。
そもそもいい・悪いではなく、振動数の違い、表現、まさに文字通り表れ方の違いだと思えばいいわけです。
波動を高くすることが目的ではなく、波動が高い・低いを経験し、適切で自由な選択と表現ができることが重要だと、今の私は考えています。
ただ「高い」を知らなければ選択もできません。ですから、それに至る実践と経験の必要性はあるでしょう。この点においては上を目指すのも意味があります。
同時に「低い」ものも、それはどういう状態なのか、どういう現れになるのかということを知る上でも、否定したり、忌避したりするのではなく、受け入れることが求められます。
その第一歩は、普段はいい・悪い、吉凶ということを感じつも(これを思うのは人として当たり前なので、そう感じる自分を一度認めます)、そこから脱却する意識と志向を持つことです。
マルセイユタロットの「月」と「太陽」にもこのことは象徴されますが、一度分離して統合するという観点が非常に重要です。
ところで私は現在、新講座を企画しています。
そのひとつに、大アルカナ22枚を使った具体的な自己変革・整理・統合の活用法をお伝えするものがあります。
私がマルセイユタロットで研鑽してたきたものを、思考法・技術として体系化したものになります。
そして今日述べたことは、これの核心に近いことになります。
実施の際には、皆さんにお話できることを楽しみにしております。
安定と不安定 停止と動き
バランスが大切ということはよく言われます。
マルセイユタロットでも、「バランス」をもっとも象徴していると考えられる「正義」のカードが、大アルカナの位置的に、バランスを示唆するところに置かれていることからも、それは伺えます。(厳密には中間ではなく、「中間の重要さ」を教示する位置という意味で)
しかし、一方では均衡ばかりを意識すると、「動き」や「情熱」のようなものが見えなくなります。
いわば悪い意味でのバランスで、それは膠着状態でもあり、一面では物事が停止・停滞しているかのような状況と言えます。
これは一見、安定しているのですが、実は緊張関係によってバランスが取られていることもあり、真の意味で安定しているとは言い難いところがあります。
たとえばライバルがいればこその均衡状態だったものが、ライバルがいなくなったり、力を失ったりすれば(それが自分に起こる場合もあります)、たちまちのうちにバランスが崩れ、安定は「かりそめ」だったことに気がつきます。
こうして、均衡が図れていても、いつかは必ずその均衡状態は破られ、そこから「動き」が生じます。
シーソーを想像していただければわかるように、均衡であればそれは平行で動きませんが、どちらかに偏れば、ギッタンバッタンと動き始めます。
ただ、シーソーを含む公園全体で見れば、動いていない遊具もあって、やはりバランスが取れていることもあるのが全体目線でのバランスです。
また本当はシーソーはアンバランスで動いているようで、よく見ると動きはリズミカルで、動きながらも実はバランスが取れていた・・ということもあります。
それはともかくとして、安定や中間としてのバランスを取り過ぎると、動きがなくなって、成長が止まることもあるということです。
ですから、「動き出す」というタイミングでの不安定さも、悪いものではないと受け入れると意識はまた拡大します。
面白いことに、マルセイユタロットでは、数の順序で行くと「正義」の次に「隠者」が来て、その次は「運命の輪」となります。そしてこの「運命の輪」は、ひとつには時間やタイミングを象徴しているのです。
「隠者」も静かなようでいて、内面では変化を示唆しますから、この三つのカードの並びは、安定から不安定の切り替わるタイミングの重要さを表しているとも言えます。
「不安定」は、むしろ自分をステップアップさせるための好機と言えます。
さきほどのシーソーの例で、もう一度表現します。
自分がこちら側で、相手のB君が向こうに座っている時、ちょうどほぼ同じ体重で釣り合いが取れていたので動きはなかった。
B君が前に動いたので自分側に傾いてきた、それで自分も前に行ったらまたシーソーは止まった。
今度はB君だけではなく、Cさんも向こうに座ったたため、向こうにシーソーは動いて傾いた。
自分ではいろいろとシーソー上で動いてみたけれど、こちらに傾きを戻すのは無理だった。
そこで、向こうと同じように自分のほうにも、人を乗せることにした。
となれば、シーソーから目を離して、シーソーのある公園を見渡して、乗ってくれる人がいないかを探す必要が生じた。
幸い、近くにD君がいたので、D君に声をかけてこちらのシーソーに乗ってもらった。
D君は鬼ごっこしている最中だったが、飽きていたところだったので、シーソーゲームの好奇心に駆られ、喜んでシーソーに移った。
ところがD君は体重が重かったので、一気に今度はこちら側にシーソーが傾いてしまった。
しかし、D君は脚力があり、足で蹴って、シーソーを戻そうとした。
すると、シーソーは一度向こうに傾いたものの、ものすごいスピードで逆にこちら側に戻ってきた。
自分とD君は、そのことでおしりが痛くなり、顔をゆがめた。見かねたCさんが幼い妹を大声呼んで、自分のほうに乗せると、シーソーは見事に均衡を保った。
公園全体では、鬼ごっこをしていたD君が移動したので、その遊びをしていたグループは別のことを始めた。
同じく、Cさんの妹とままごとをしていた他の女の子は一人になってしまったのでつまらなくなり、家に帰ってしまった。
そうやって、公園内の子供達の移動や変化は生じたものの、シーソー含めて、全体としては公園で遊ぶ子供たちは楽しく過ごしている。
こんな感じでしょうか。バランスとアンバランス、停止と動き、変化と拡大などをこのたとえから汲み取っていただけけれぱと思います。
ポイントは自分が最初にシーソーを乗っていた時から、シーソーを戻そうと(バランス回復を図ろうと)、いろいろと考えたり、経験したりしている点で、全体目線が特に重要です。
時期の性質にも多層がある。
6月も終わり、もう半年過ぎての7月ですね。
折り返しのスタートです。
夏至を過ぎてからは、日中が次第に冬至にかけて短くなって行きますので、これからの時期は象徴的には何かを完成させたり、成果を残したり、逆に削ぎ落としていくイメージも出てきます。
でも、今からは真夏に向って何か盛り上がるような、熱く(実際暑いのですが(^_^;))、開放的な気分になってくるのも確かですよね。
ですから何かが終わっていくというより、発展してくような機運が今にはあると思います。
これは言わば、モノの見方が短期か長期かという視点で変わってきているのです。
短期的に、「夏に向かっている!」と思えば、心が躍ったり、開放的になる人も多いでしょうが、長期的に冬までのことを見れば、やはり一年のうちで後半になってくるわけですから、「何かを成し遂げねば」と収束的な気持ちにもなります。
期間によって、物事や気分の変質があるよい例です。
また、こうも考えられます。
ある「時期」というのは、いろいろな要素や性質が含まれているのだと。
7月としての単体で見れば、夏休みも始まりますし、梅雨もたいていは終了して、晴れやリゾート気分、海の日などから「海」などのイメージも出てきます。
ただ6月からの続きとして見れば、まだ梅雨の名残(終盤)で雨がたくさんあるかもしれませんし、そのための災害の影響も考慮されます。
さきほどの折り返しのスタートという目線では、始まりでもありますが、半年の終わりを迎えたわけですから、なにがしかのその分の成果も出しておきたいですし、逆にまだ半年あると思えば、今から種を蒔くこともできます。
つまり何かの種でもあり、収穫でもあるという見方ができます。
今は時期を「たとえ」で見ましたが、これはすべてのことにあてはまり、人間もそうですし、物事にも種でありつつ成果として出ている分もあるということです。
いろいろなものが同時に遍在・存在しているのがこの世界で、それぞれの見方と焦点の合わせ方によって、まさしく様々なものが見えてくるのであり、ひとつのものでも多層表現があることがこれでわかります。
タロットカードにも同じことが言え、一枚一枚の定番の意味もありますが、それとは次元の異なる象徴を持つ場合もあり、だからこそリーディングは難しくもありますが、面白いのです。
その面白さを別の言葉で表せば、「次元を意識的に超える瞬間がある」と言ってもいいでしょう。
もっと簡単にいえば、自分が何人もいる感覚を味わえるということになります。
あと、これは非常に微妙な感覚になりますが、例えて言えば、「夏にいて冬を味わう」ようなことが、タロットによる多層体験では、意識的にはそれが可能になることもあります。
日常的にもそのままの状態を見るのではなく、すでにほかの兆しが始まっていたり、内包されていたりするのを見抜く訓練をするとよいのです。
「運」の巡行・逆行とバランス
「運」の良し悪しという観点からすると、何事もまさに「運がいいこと」と「運が悪いこと」に分かれます。
言わば自分自身で、世界・事象をポジティブとネガティブのふたつに分けているようなものです。
エネルギー的には、ネガとポジという二面は存在すると考えられますので、その見方は大きな意味では間違っていないと言えるかもしれませんが、「いい・悪い」と評価した見方になっているのが問題です。
結局、「いい・悪い」という自分の主観で分けている限りは、真の意味で宇宙的なネガとポジではないと述べられるでしょうし、理解もできていないと分析できるかもしれません。
私がタロットリーディングを指導する時、占い的に吉凶判断を勧めないのは、こうした理由がひとつにはあるからです。
とはいえ、「運」という言葉自体、人間・社会にはあるのですから、昔からそれは目に見えずとも、人々が何らかのものとして感じ、想定してきたのは間違いありません。
無理に良し悪しとしてふたつに分けなくても、生きている限り、私たちは自然に自分にとってよいこと・悪いことを体験しますし、そう感じます。
けれども、これも多くの自己啓発系の本やセミナーで説明されているように、自分の基準・思い込み・価値観・信念のようなものによって、いいか悪いか判断され、色づけされたものです。
「こういう状態がいい・望ましい」「これはダメ」と決めたモノサシや法律が自分の中にあるわけです。それ自体も、ほとんどは生まれてきてからの環境と経験によって形成されています。
自分でもちろん作っているのですが、無自覚に人から植え付けられていることも多く、置かれた環境の身近なモデルから発生しているパターンが少なからず存在しています。
「良し悪し」判断の成り立ちの説明はともかくとしまして、運がよい悪いを感じるシーンは、実はランダムと言いますか、普通は計算が不可能です。
ある価値観や信念があったとしても、それに照らし合わせて判断する現実の出来事の発生の仕組みは、なかなか解明できないということです。
たとえば、ある場所に引っ越したり、旅行したりして、その土地での経験がアンラッキーであるケースと、ラッキーな場合があります。
病気になったり、交通機関が遅れていたり、人間関係がまずくなったりということが起こる反面、すごくスムースに物事が進んだり、すばらしい人との出会いがあったりすることもあるわけです。
これを占い・運命学などで見ると理由がわかることもありますが、本当にそれが正しいのかどうかは、今の科学的的考察にはなじまないものなのでわかりません。
ただこのケースだと、移住したり、移動したりすることそれ自体にいいも悪いも最初はあまり考えていなかったはずです。
いや、強いて言えば旅行や引っ越しに対しては、どちらかというと、皆、ポジティブな思いが最初にはあるのではないでしょうか。
それが実際の行動の中で、良し悪しで判断される経験に変わります。
ここで感情的に体感する「良し悪し」は、自分の信念とか価値観とかも超えた、ほとんど誰もが感じてしまう「良し悪し」ではないかと想像できます。
最初はむしろポジティブにとらえていたくらいですから、それが反転すること(もあるというの)は、自分の信念で判断する以上のものが起こったのだと考えることができるからです。
もちろん自分の信念・価値観によってどんな体験も見方が変わるので、それ(信念体系)を超えたとは言い難いですが、そういうものとは別の、やはり自分のその時持っている特質と合う合わないというようなことで表現できる「運気」というものの影響があるのではないかと感じられるわけです。
川の流れを逆行すればよりパワーが必要なように、あるいは騒がしいところで個人と濃密な会話をしようとしても聞き取りにくくて難しいように、自分のエネルギー(したいこと、欲求の体現するエネルギー)と、その場のエネルギー表現が著しく異なっている場合は、文字通り「自然」にならず、不調和を生み出すという認識です。
ですから、そういうものを「運気」というものであるならぱ、旅先・引っ越し先でのトラブルの例で挙げたようなことも、自分とその場との不調和で考えることは可能です。
これは自分の信念の判断から来る「良し悪し」とは、あまり関係ないことと言えるかもしれません。
ここまで書いてきますと、「ほら、やっぱり運の良し悪しはあるんじゃないの、だったら、占いで最初からそれを避けてよい運気になる道・タイミングを選択したほうがいいに決まっているわ」
と思う方がいらっしゃるのも当然です。
ただ、確かに一時的・短期的にはそうとも言えますが、長期的・大局的に見ますと、そうとも言い切れないところがあります。
というのは、結局、宇宙は調和(二元の力の統合)に向かいますので(というよりもともとそれである)、一見不調和のように見えて、どこかで調和がバランスが取れており、自分自身という観点であっても、その範囲以外の時間か空間においてバランスは計られると考えることができるからです。
例えば、川の流れに逆行すれば、確かにパワーはかなり消費しますが、流れている方向に行くわけですから、何か流れてくるものに遭遇する確率は高くなりますし、こちらに向かってくるのでつかみやすいでと言えます。もしかすると、ほしいものが流れてくるかもしれません。(笑)
また、流れに逆らって動くことで体が鍛えられますし、流れの強弱をより体感することもできます。
さらには時間がかかったことで、注意深く進むこともでき、いろいろなものを新たに発見することになる可能性もあります。
ということで、実は何事も完全にマイナスや悪いということはありません。その時悪いと感じても、必ずどこでいいことはあるものです。
ここで再び信念や価値観の問題ともなってくるのですが、残念ながら、そのいいことを見る目(発見する思い方)がその時のあなたに養われていないと、「悪い人生だった」とずっと嘆き続けることになります。
言い換えれば、不運・不幸というものは、自分の信念体系チェンジによる世界観拡大のチャンスでもあるわけです。(こうしたことは、心理・スピリチュアル系の人にはもはや常識かもしれません)
もっと言えば、喜び・楽しみ・慈しみの方法を広げてくれる(別の味わい方もあることを教えてくれる)機会であり、結局は愛の拡大に自分を後押ししてくれる天(神性なる自分)の働きとも言えましょう。
となると、見た目では幸不幸の機会はアトランダムで計算不可能かもですが、本当の自分は計算ずくなのだと考察することもできます。
川の流れに逆らったばかりに体力を消費してヘロヘロになった、どうしてくれる!ほんとに運が悪い!と思うか、先述したように時間や空間をもっと広く見て、よいこともあって悲惨ではなかったと思うかの違いと言えましょう。
と言っても、あまりに激流に逆らって完全に流され、溺死してしまっては元も子もありません。これは明らかに「悪い」ものと普通は思うでしょう。
でもこれのバランスさえ取られているのではと思えるのです。それは目に見えない世界や、死後の世界観も含んで考えると何とかなりそうだからです。
が、計られ(図られ)はするものの、現実世界の常識世界観では不幸としかいいようがありませんから、当たり前の知識・常識を持つこと、さらには「運気」的なものも考慮に入れた生き方をすることは、やはりうまく現実人生を泳ぐコツと言えるでしょう。
ただそれだけだと、現実レベルのみの話に終わります。現実レベルの何がいけないのかと言われたら、別に何も悪くないのですが、もっと生きながらに別の世界も経験してみたい人や、この世はある種の牢獄というワンダーランド(笑)と思う人もこの世にはいるということです。