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「1」と「世界」のカード
タロットカードと、そのカードについている数との関連については、以前にも何回か取り上げました。
私の個人的見解では、マルセイユタロットにおいては、それは意味がある(数とタロットとの関係で)と考えられるものと、また一般的な数秘術でいわれる数の意味とは異なる部分があるのと、両方でとらえています。
要するに、マルセイユタロットの場合、必ずしも、そのカードに持っている数が、そのまま絵柄を直接意味するわけではないということです。もちん関連はありますが。
しかし、「1」という数においては、結構、その数を持つ絵柄のカードは、「1」という数の意味をよく象徴していると感じます。
大アルカナの場合、「1」(正しくはローマ数字での表記)を持つカードは、「手品師」「力」「世界」となります。
やはりそれぞれ新しさや始まり的な意味合いが見えてきます。絵柄というより、順序の位置的なもののほうが強いかもしれません。
実はこの三枚は、ある段階や次元における始まり・出発を意味すると同時に、到達や完成をも表していると見ています。
しかし、数的には、10や20、つまり大アルカナで言うと「運命の輪」と「審判」も似たようなところがあります。
これは4と10の世界観でとらえるか、3と7の世界観でとらえるかの違いによって変わってくると言ってもよいでしょう。
何のことを言っているのか、わかりづらいと思いますが、詳細は基礎講座ハイクラスでお話しています。
とにかく、「1」を持つカードに、始まりと同時に終わりの意味もあり、しかし終わりではあってもやはり始まりでもあるという、いささか謎めいた意味合いが内包されているということは述べておきます。
ここで、最近の傾向ですが、私が人にタロットを引いたり、またリーディングのために引いてもらったりするカードに、「世界」がよく出る現象が続いています。
タロットカードは、個別の象徴性と全体性の象徴性、ふたつを同時に表します。(表すことがあります)
従って、ここの場合、私自身の個別での「世界」の意味と、受講生やクライアントの「世界」の意味、さらにはみんなが持つ「世界」の意味の三つが現れていると言えます。
そして、ここがとても重要なのですが、個別の意味は一見それぞれ違っているようでいて、全体性の意味と深くでは呼応し、共通しています。
つまり、「世界」を引く人が多いということは、全体的に「世界」の意味合いが強まっている、求められているということになります。
一般的なカード解釈では、「世界」は他のタロットもマルセイユタロットもほぼ同じだと思います。絵柄もよく似ています。
すなわち、完成、達成、成就、完全、永遠、宇宙、多様性・・・といったものです。
多くの人が」「世界」を引くということは、端的にいえば、まさしく世界は「世界」(カード)の意味に向かっているということです。
ただ、ここで最初に「1」の数のことを取り上げたのは、「世界」は完成で達成してしまったかのような錯覚にとらわれますが、やはり新規性・開始性・新しい動きと展開性を同時に持ちます。
そして、「世界」(のカード)による「完成」のイメージは、通常意識やこれまでの目標のイメージではなく、もっと拡大した、あるいは超越した、自分の想像以上のものであることが多いのです。
もしくは、そうした意識を持ちなさいということです。
「世界」は終わりのようで、実はもっと先があり、それをあなたは進める資格を得たというように、想像している世界よりももっと広い世界と可能性が広がっているということを示唆しているのです。(タロットの象徴性はいろいろとありますので、全部が全部そういうことではありませんが)
「世界」を引いたあなたは、「1」という数とも関連し、すでに新たな段階がその瞬間に始まっていると言えます。
その動き出す部分は全部の要素のこともあれば、ある1つである場合もあります。
これは「世界」に描かれている周囲の動物たちの意味とリンクし、そのどれとあなたや事柄が強く関連するかによって決まります。
「世界」を引いたあなた、もっと大きなイメージを自分に持ちましょう。
自分が(潜在的な心理も含めて)想像できないものは、現実にも起こりません。
現実はイメージの世界よりも縮小され、形となって固定されるからです。(逆にいえば削ぎ落とされ、効率的・実際的になる)
あなたは完全であり、完成のできる、拡大人間(神といってもよい)であることを「世界」は述べているのです。
リーディングで説明する力を磨く。
先日は神戸と京都で、タロット講座の受講生・修了生でリーディングの勉強会をしていました。
以前もリーディングの勉強会は行っていたのですが、次第にタロットを学ぶ方たちも増えてきていますので、もう少し定期的に、さらにその都度テーマや目的をしっかりとして、継続してタロットを学べるように企画実行していく考えです。
さらには、学ぶ者同士の交流や懇親(ブログテーマ「趣縁」参照)の意味もあります。
ところで、こういう機会において、私が重視しているのは、人前で自分のリーディングを述べたり、感想を話したりするということです。
自己リーディングは別として、他人リーディングを行う場合、それは人間同士のコミュニケーションを伴います。
そして、タロットリーダーは、タロットの解釈を相談者・クライアントに説明する必要が生じます。
ということは、説明能力が足りないと(まさに言葉足らず)、あるいは言い過ぎたりすると(一言多い状態)、相手にリーディングの内容や意図がきちんと伝わらないことになります。
タロットリーディングに限らず、人に何かを説明する時は、自分がわかっていることであっても、なかなかそれを人に伝えるのは難しいものです。
私はタロット講師の修業時代、いかに自分がタロットのことをわかっていないのかを痛感させられことが何度もあります。
学ぶ側であった時は、たとえば、タロットのある絵柄が「これは錬金術関連である」ということを覚えていたとしても、では錬金術とは何かとか、なぜここにその象徴が描かれているのかということを説明しろとなった場合、なかなかうまく最初は人に話せないのです。
結局、ひとつのひとつ、何となく思っていたことや覚えていたことの意味を、「そもそも論」まで遡って調べたり、理解したりする必要に迫られました。
これは実は今も続けている作業です。
それは自分の理解の先に次々の深遠なる世界が広がっていくからであり、その都度自分で知識と感覚をダウンロードし、さらにはそれを人に説明できるよう咀嚼していかなければならないからです。
リーディングも同様に、たとえカードの展開が自分の心の中で読めていたとしても、それを人様に説明するのには、言葉に出して外に出すことが重要です。
やってみればわかりますが、いざリーディングしたことを語ろうとすると、自分が思っていることと実際に口に出して表現していることがズレていることを、ほぼ全員が最初は経験するはずです。
それはもどかしさというか、何とも恥ずかしい気持ちのものです。
言いたいことはそんなことではないという場合もありますし、ああ、ちょっと言い過ぎた、言葉足らずだったというようなこともあります。
また人間誰しも人前で話す、他人に話しをするというのは緊張するものです。
緊張すると、思ったことの半分も話せなくなります。時には頭が真っ白になって、覚えていたことを何も思い出せなくなることさえあります。
しかし、これもある程度、訓練によって変わってきます。ある種のコツと理論、そして場慣れと経験を増やしていくと、自然に人前での話もしやすくなってきます。
ただ闇雲に話すより、シナリオや骨子を組み立てて話をしたほうがフィードバックしたり、話しぶりを成長させたりするのには効果的です。
練習で人前でリーディングを披露することで、その訓練をすると同時に、自分のタロット理解の弱点・頼りなさの認識も得られることになります。
これは人によっては、厳しいことになったり、ちょっとやりたくないようなケースになったりすることもあります。
けれども、それによって説明能力は磨かれ、結局のところ、それはリーディング能力の向上につながるのです。
すべてが楽なこと、楽しいことばかりではありません。あらゆる物事・事象には両面がセットで存在しています。
なお、「言語だけが相手に伝える方法ではない」という人もおられると思います。
それはその通りですが、では、言語以外で相手に自分やタロットリーディングの象徴・意味を伝えるのにはどんな方法があるのか、そういう人は把握しておく必要があります。
また、言語以外の方法が自分の得意なものとするのなら、それにあぐらをかかず、それ自体の能力も研磨し、相手に伝わりやすくする取り組みはやはりいると思います。
何も努力せず、以心伝心、すべての人に伝わるはずという思い込みは幻想です。人によって受け取る能力や感受性、アンテナは違います。
マルセイユタロットの「手品師」は言います。伝わりにくいのなら、伝わるようにあなたが手を変え品を変える工夫がいるのだと。
そしてやはり、ほとんどの人は言語あるいは文字を通じて、人と交流します。
ですから、特にプロのタロットリーダーを目指す方、他人によいタロットリーディングを提供したい方は、人に言葉で説明するという訓練は行っていくことが求められるのです。
上昇と下降 昇天と堕天
先日、少しだけフェイスブックで書いていた(というよりつぶやいていた)、「運命の輪」のについての、ある見方を書いてみたいと思います。
ところで、「運命の輪」というのは、タロットの大アルカナ22枚の中でも不思議な部類のカードです。人間ではなく動物のようなものが輪に乗って回っているという絵柄で、ちょっとつかみどころがない感じもあります。
余談ですが、先日NHKの大河ドラマを見ていましたら、語りの人が「運命の輪を回した」というような表現を述べてました。思わず、「タロットかい!」とツッコミを入れてしまいましたが・・(笑) それほど普遍的に、「運命」というものを表すたとえなのかもしれません。
さて、今日は「運命の輪」のカードがテーマですが、「運」「運命」のことがテーマではありません。主に、輪の中にいる二匹の動物に象徴させられることについてとなります。
(あらかじめお断りしておきますが、何度もこのブログで書いているように、ここでいう「タロット」とはマルセイユタロットの絵柄のことですから、そのつもりでお読みください。カード種によっては絵柄が異なる場合が多々あります。それから、ここで書いているカードの考察は、カードの意味として普遍的・一般的なことではなく、私個人がカードから得た示唆がほとんどです。ですからタロットカードの意味の学習で見るのではなく、特別な見方・こういうとらえ方もあるのだと思って読んでください)
この二匹の動物は、一応便宜上、向かって右側の上を向いているのを「犬」とし、左側の下に向かっているのを「猿」とします。今回に限り、犬か猿かなど、動物の種類に関係はなく(本来はその意味があります)、方向性が重要です。
犬は上に行き、猿は下に向いています。これを私は上昇と下降の快楽と見ました。もっと言えば、昇天と堕天です。
すなわち、人の快楽の方向には浄化したり成長したり、精神的高みに登りたいという上昇方向へのあこがれ・望み(と実行)による快楽と、逆にどんどんと自分が落ちていく、深みにはまる、欲求にまみれてそれをむさぼるような、ふたつの快楽方向があるということです。
一般的には上昇・昇天のほうがいいように思われがちですが、私自身は結局のところ、これは同じ性質のもので、方向性が逆なだけではないかと思うことがあります。(ともに見方による裏返し構造になっている)
なぜならば、簡単にいえば、上昇・昇天の究極は「死」(肉体を捨て、あるいは超えて魂が上昇)をも意味するからです。
反対に、下降・堕天は一般的・キリスト教的には悪魔的なイメージがありますが、方向性としては「大地」や地上、地球を意味し、ある意味、生きている現実性、物質性を最大尊重する方向だと言えます。
つまり、上は天ですが死であり、下は地で生の欲求につながるのだということです。
ということは、むしろ下降・堕天のほうが生のエネルギーに満ち、実存の形が明確であり、生きるという意味ではポジティブだと考えられるのです。
もっとわかりやすいレベルでいえば、上昇・昇天は現実逃避で、下降・堕天は人間である現実に生きることと表現してもいいかもしれません。
と、あえて上昇をネガティブ、下降をポジティブに書いてみましたが、これは実は一時的なものです。
私たちは天に昇ること(上昇方向)が、さもいいような幻想を植え付けられているので、そのバランスを修復させるため、あえて書いたまでです。
もちろん下降にもネガティブはあります。それはやはり生・人間の欲求にあまりにも忠実になり、それにおぼれて自分を見失い、さきほどとは逆説的ですが、結局破壊、大地に還るための死に至ることもあるからです。
しかし人間は「落ちて(堕ちて)いる快楽」も快楽の種類として、登る・上昇の快楽の対極で、同じくらい気持ちよさを感じる生き物です。
たとえば、遊園地の遊具を想像してください。ジェットコースターはいったん上に上がってから急降下するスリルがあり、フリーフォールなどでは、完全に落ちる恐怖が快感に変わっている施設です。(フリーフォールも、一瞬浮かび上がることで快感を得ていることに注目)
エレベーターでも一気に上昇していく浮遊感・一瞬の無重力感の心地よさもあれば、逆に急激な下降による、気持ち悪いような妙な快感も覚える人もいらっしゃるでしょう。
ところで生は「性」とも結びつきますが、男女の和合において、昇天的(天に昇るような)快楽を味わう人もいれば、ひたすら谷底に落ちていくような、でもそれでいて極めて深く気持ちの良い状態というのを経験する人もいると思います。
それから人は、自分がもっと成長し、精神的に高次になろうと学び努力する過程で、自分の成長と幸せ感の充実に酔いますが、一方でお金やドラッグ、性、犯罪などで快楽を覚える人もいます。どちらも陶酔と言えば同じです。その素材やきっかけが違うだけです。
堕落の陶酔がそこまでひどくなくても、たとえばジャンクフードや揚げ物・ラーメンなど、体に悪いとわかっていても、たまに食べたくなったり、規則正しい生活とはまるで反対の、昼夜逆転とか、だらだらした生活と期間を送ったりして、それが楽しいこともあります。
自分が落ちている、悪いことしている、ダメであることの楽しさ、喜びというのが不思議に存在するのです。
これには、大きくは人間としての自由選択の幅の広さというものがあると考えられます。
平たくいえば、昇るも自由、落ちるも自由なのです。
堕落することは、簡単なようですが、実は難しいところもあります。そこには動物的のようでいて、人間としての自由意志が働いているからです。完全に堕落した生活は送りにくく、どこかで上昇反転のきっかけが起こります。堕落を選ぶというのも、ある意味弱いようで、別の強い意志と言えます。
成長を拒否するのでも、悪人になるのでも、快楽や欲求にまみれる生活を行うのでも、それは結局のところ、強制ではなく自分の意志と選択です。
堕落さえ選択の自由を与えられている、まさに「自由な」喜び、これがひとつにはあるだろうと想像できます。だから人間であり、また無限の創造性を持つ神の似姿の存在でもあるのです。
もうひとつは、堕落は先述したように、一方では大地や生・性の希求につながっており、一見自分を崩壊・破壊させるような「死」をイメージしながらも、その奥底には「生」への限りないあこがれ、賛歌と謳歌の気持ちが内在していると考えられます。
最終的には自分をとことん大地と融合させ、地球そのものとしてずっと安定してしまいたいという欲求も働いているのです。簡単にいえば母親の子宮回帰に近いです。
一方、上昇・昇天は肉体から逃れ、精神・霊的に高みに昇り、悟りというような方向性に向かいますが、それが現実(物質)世界とのしがらみで葛藤し過ぎると、前に述べたように「死」の願いに変わってしまうことにもなります。
しかしながら、肉体次元から抜け出る快感は、おそらくたとえようもないもので、これもまた早く味わいたい、そうなりたいという強い欲求を生み出すことになります。これも宇宙の子宮回帰と言えなくもなく、上昇・下降はつまるところ同じものだと考えられるわけです。
まとめますと、、味わえる・触れる・見られる・聞こえる・匂えるような五感的楽しさの海で泳ぎ、いつの間にか、「ああ自分は海そのものだ」と巨大な感覚を味わうのと、五感を超えた直感的・精神的・象徴的世界において、天や宇宙そのものになって、風のような希薄で軽やかな一体感を味わえるものとの、下降・上昇の快楽が、人間には自由に選択可能とされているということです。
どちらがよくて、どちらが悪いのかというのではありません。おそらくそのバランスや活用の力(パワー)の問題でしょう。
いずれにしても、どちらかに偏重し過ぎるのは、望ましくないようにも見えます。しかしながら、一方で極端に偏るのも、ひとつの解脱の道かもしれないのです。
「運命の輪」には、もう一匹の動物、仮にスフィンクスと言っておきますが、これがいます。この存在こそが、今まで述べてきたことを解決したり、その次元を超越するための大いなるヒントとなっています。
また「輪」が「回転するもの」であることも重要なポイントです。
皆さんも上昇と下降の快楽について、考えてみてください。
愚者の道と常識の道
私が思うに、一般的に「スピリチュアル」と言われるような傾向や興味を持つ方向に行きますと、マルセイユタロットでいう「愚者」化が始まります。
実はそれは眠った状態からの覚醒であり、自己を回復させる意味での本当のスタート・始まりでもあるのです。
ただ必ずしも全員がそうとは限りません。スピリチュアル志向が逃避そのものであったり、一時的な幻想状態・麻薬のようなものであったりすることも存在します。
とにかく、いったん「愚者化」が始まると、その名の通り、自分が「愚か者」のように感じる段階がやってきます。
ここで言う「愚か者」とは、ふたつの意味があります。
ひとつは自分がまさしく「愚か者」だと思う意味での「愚者」、そしてもうひとつは、他人から見て、「自分は「愚か者」だと見られているであろうと思う意味での「愚者」です。
いわば主観と客観の「愚者」があるのです。
最初の主観の「愚者」ですが、これは自分が本当に「愚か者」であったことに気付く意味での「愚者」ということです。
自分が「愚か者」である(あった)のは確かだけれども、それは「無知の知」のようなもので、やっと自分が何も知らずの、あるいは何かを信じ込まされていたことに対する「愚かさ」に気がついたという段階です。
一方、少しやっかいなのが第二の「愚者」、すなわち人から見て愚か者に見られている状態(人が変に見ている・思っている)というものです。
たとえば「タロットなんかやっていてバカじゃないのか」「見えないものを信じるなんて変な宗教に欺されているのよ」とか、白い目で周囲や家族・知人から見られるようなことです。
ここで自分のやっていることや、進み始めた道のことを躍起になって説明したり、主張したりしても、「愚者」になっていない人には、かえってその不信に拍車をかけるような結果となります。
もととも価値観の異なる、いわば異世界同士の人間になってしまっているからです。
しかしながら、ここが重要なことですが、だからと言って、文字通り自分が「愚か者」となり、周囲の人に迷惑をかけたり、心配をさせたりしてしまうのは低レベルの「愚者」化と言えます。
それならば、いきなり山奥に籠もって修行するようなもので、実はそのような形は修行自体は大変厳しくても、道としては単純なものと言えます。
マルセイユタロットの教義のひとつでもあるのですが、「愚者」化していく道の醍醐味は、通常の意識世界(いわゆる普通の常識・現実の世界)で、巧妙に二重の道を歩んでいくことなのです。
そのことはマルセイユタロットでは、「手品師」で象徴されています。(※言っておきますが、ほかのタロットの同じ番号を持つ「魔術師」では、このことは象徴化されていません)
愚者化の道を辿る時、私たちは今まで普通に教育を受け、信じられてきたことに疑い持ち始めるようになります。
そうして、いろいろな思い込み・信念によって自分が形成されていたことを知るようになります。
今度は自分をその思い込みの枠から解放していくようになるのですが、ここでたくさんの自分の信じていた・思い込まされていた「正義」の枠を認識します。
その過程で、自分の枠がどんどんはずれて行くと、ある過程によっては、非常に自分がわがままになってきます。
一般的にいう「よい人間」ではなくて、むしろ自分が悪い人間になっているかのような錯覚に陥ることさえあります。
これはマルセイユタロットでいえば「戦車」の馬として、自分を拘束、または守っていたある「規範」が取り払われ、むき出しの本能・欲求が出てくるからでもあります。
従って、場合によっては横暴になったり、上から目線になったり、奢ったり、また他人や周りのことを顧みずの自分勝手な人になったり(見えたり)することになるのです。
ここで自分をコントロールしていかないと、破滅の道に進んでしまうことにもなりかねません。
さらには人から「愚者(愚か者)」と見られることがますます強くなり、本当の愚者の道が環境的に阻害されることもあります。
そこで、最初の段階から通常との折り合いをつけながら、自分は密かに愚者の道を歩むという方法を採用していくとよいのです。
簡単にいえば少しずつ、ゲームとして愚者化を試みるということですね。これには「悪魔」のカードが参考になります。
しかしなかなかマニュアルや指針のようなものがないので、難しいことでもあります。
そこでこのような霊的ともいえる覚醒の道には、自分を客観視したり、冷静に意識をコントロールしたりするための基準となる象徴ツールが必要となるわけです。
意識の世界のことなので、文字情報とか、現実的・具体的すぎるものはあまり役に立ちません。だから「象徴」が重要なのです。
通常・常識世界で愚者的意識をも共存させようとすると、いわば最低でも二重の自分を持つ必要があります。
悪く言えば多重人格であり、意識のうえでの次元移行を繰り返す意味にもなります。
こういうことをスムースに行うには、やはり優れた象徴ツールがいるのです。
ここまで書いてくればおわかりのように、そのツールのひとつが「マルセイユタロット」なのです。
ほかのタロットでもできないわけではありませんが、マルセイユタロットのほうがこの使い方のツールとして、実はノーマルで使いやすいことは述べておきます。
いかにして周囲との調和を図りながら、一般的な意味では変り者、変わった道である「愚者」の道を進むのか、それがまた楽しいことでもありますし、それを考え実行すること自体が、安全に覚醒の道を進ませることになるのです。
質問と対応によるタロットリーダーの位置づけ。2
さて前回の
続きの記事になります。
タロットリーディングにおいて、ただ判定を下すだけの対応では、クライアント(相談者)は本当の意味では満足できないことが多いという話をしました。
ただ、ここでなぜ当たる・当たらないかが、特に占いのシーンにおいては取り上げられるのかと言えば、シンプルに言ってしまえば、神秘性と信用性が大事だからです。
こちらが言っていないことなのに占い師に当てられた、過去のことが当たっていた・・・このようなことで人は驚き、さらにはその占い師のこれから語ること(含む・未来のこと)に信憑性を見い出すようになるわけです。
それが厳密な意味でまったくの事実かどうかはあまり意味がありません。ただ相談者の中で、信じられるか、リアルに感じられるかということが重要なのです。
そこで舞台装置や環境、雰囲気といったものも、神秘性も含めて占いの場合は無視できないものになります。
ということで、最初の段階では「当てる(当たっている)」と相談者が感じることも、次の段階に進むためには必要な場合もあるのです。
話を戻します。
いずれにしても、○か×かの判定だけでは相打者は心からは納得できていません。それで納得できるのは、ある程度自分自身でも整理がついていて、最後のひと押しが必要だった相談者がほとんどです。
ですからそれからが、タロットリーディングが「判定占い」を超えて、本当の意味で相談として始まっていく段階と言えます。
ここから、カウンセリングスタイルを取るのか、ヒーリングやセラピーまで入っていくのかは、また自分(タロットリーダー)の選択によります。
同じ内容と同じレベルの問題を、故意にリピートさせる(引っ張る)悪徳な人とは別に、「問題」によっては一回で解消や解決できないこともあります。
その意味では、相談の複数回を問題によっては提示しておくケースもあります。そのような相談スタイルもあるのです。
そして、前回の例でいえば、恋愛相談で相手の気持ちがどうかを知りたいと言っていた人が、実は何をするにも勇気や自信がなく、恋愛以外でも、ほかの人間関係において問題を抱えていて、それが恋愛として特に表面化されていた(「恋愛」は相手との結びつきを強く望む、特に色濃い人間関係のひとつだと言えますので)ということもあります。
そうならば、相手の気持ちうんぬんではなく、この相談者自身の問題が重要だということになり、自分を自分として本当の意味では認め、受け入れられるためのセッション的な相談、またはセラピーが求められることになります。
しかしながら、通常の占いの館ベースの相談では、時間制限と占い師の営業成績が問われますから、当たる当たらないレベルや、判定を下していく、あるいは未来を予想させるような占い方で相手をひとまずの安心に置くしか手はなくなってくるのです。
勢い、そこを訪れる相談者も、○か×か、幸運になるにはどうすればよいか、どうなるのかの結果を求める、というような内容になりがちで、それに答えようとタロットリーダー側も応じていくようになってしまいます。
いわば、相談者の最初の質問そのままにタロットで答えていくというようなことになってしまうのです。
最初の質問自体の答えに本当の納得がないのは、前回お話した通りです。
占いの館が悪いと言っているのではありません。経営者のスタンス、営業スタイル、収益の上げ方からして、通常、そのようになるのは仕方ないのです。
そして占い師も雇われている側なので、勝手に時間や場所を変えるなどのシステム変更はできません。(もっとも、個性的な占い師は、枠内の中にいても自分でクライアントの真の問題まで迫るスタイルを取っている人もいます)
従って、タロットの場合、入り口的な占いレベルでのリーディングを繰り返していると、判定を下すようなものや未来予想、当たる当たらないを重視するようなものに傾いていきます。
しかも、ここがとても重要なのですが、そうした「判定」の世界は、言わば二者択一の世界であり、いいか悪いかでとらえる世界観となります。
これは仏教的にいえば修羅道の世界に近く、人間界がかろうじて入っているようなものです。六道輪廻の世界観では、修羅道と人間道の世界は、争い悩み苦しみの世界です。
もちろん相談に来られるということは、そうした苦しみにいるからではあるのですが、相談を受ける側までもがその世界観レベルでいると、どちらも抜け出すことができなくなります。
同じレベルではまさに堂々巡りなのです。
従って、あれかこれかとか、幸運か不運かとか、どうなるのか、どうなのか、というような質問で対応するリーディングに留まるのはかえって難しく、問題と言えるのです。
もっというと、タロットリーダー側がその世界に留まる限り、自身が「営業」「経済」面でも修羅と人間の道で苦しまねばならなくなります。
それも「修行」だと思ってやる方法も、あるにはありますから否定はしませんし、実際、そうした世界でもまれることによっては、自分を鍛え、ある時に突然、ひとつ世界を飛び越えることも可能になる場合もあります。まさに修行僧の方法です。
しかし、タロット的にいえば、自分を天使や天上的精神に置き、あるいはそういう学びや解決法の志向(思考)をして相談に臨むほうが、相手も苦しみの堂々巡りの世界から抜け出すきっかけが得られやすいのです。
ただ誤解しないでいただきたいのは、相談内容・方法の優劣を言っているのではないということです。確かに次元の違いはあっても、それはそれぞれ(各人の事情・学び)で選択と表現をしているだけなのです。
自分がどのような立ち位置で、どのようなレベルで相談をしていくかということによって、お客様の次元と内容も変わってくるということであり、その選択もまた自由なのです。
色々な状態が同時存在しているのが、この世界でもあるからです。