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島に行こう。

私は直接タロットを引くことももちろんありますが、心の中でタロットを引くこともあります。

慣れてくると、あまり違いがなくなってきます。もちろん直接引いたほうが他種多様な情報がわかりますが、心の中のほうは、より象徴的、シンボリックに出るという感じです。

ということで、最近タロットを引いて感じたメッセージが「島に行く」というものでした。

タロットカードから解釈されることなので、実際にはあるカードから示唆(一枚だけではありません)されたことなのですが、そのように取れたのです。

一度インスピレーションが来ますと、それに思考も使うことによって、いろいろと解釈ができます。

思考はスピリチュアル傾向人には毛嫌いされるものですが、タロットの4組でいえば「」に当たり、使い方によっては発想の合理性を生みます。

「剣」を使うということは、簡単にいえば、全体性へと昇華することができるということです。これでもわかづらい場合は、「皆さんにもあてはまるように説明できる」と表現すればよいでしょうか。

さて、「島」です。

島は当たり前ですが、大陸や、大きく広い土地から離れている存在です。ここから独自性・個別性というようなものが育まれることもあります。

また隔絶されていることで、静かな時間や場所を持つことができ、そこから聖なる空間・祭祀の特別フィールドとして、非日常のエネルギーが保たれる場合もあります。

また民俗学的にも、古い習俗がいまだ残っているケースがあり、つまりは原型のようなものにふれることのできる場所でもあります。原点回帰という感じですね。

これを皆さん、それぞれの状況に置き換えてみますと、島に行くということは、ひとつには忙しい日常から離れて、自分らしさ・根源を取り戻すことであるといえますし、また自分のオリジナリティ・個性を発見するのにも役立つフィールドだと言えます。

また、いわゆるパワースポットや聖なるものに自分を浸すこともできるでしょう。

さらにタロット的に言えば、島は四大元素(風・水・火・地)を実感できる場所でもあります。なぜならば、島は範囲が限られていますので、コンパクトに凝縮されたものを感じやすいからです。

当然周囲は水(海)で囲まれていますし、小さいながらも山か丘もあるでしょう。少なくとも大地(土)は必ず存在します。また火山性の島ならば、まさに火山とか立ち上る蒸気、温泉など味わえるかもしれません。さらには島ですから、風に当たることも、大きな土地よりかは多いはずです。

このことから、実はスピリチュアル的に見て、島全体を俯瞰しつつ、島を自分にとっての「ひな形」としてとらえることが深くにはできます。

言い換えれば、島を訪れてみて、どの場所に共感し感応するかによって、その場所を四大元素に置き換え、現実の自分の状況と未来予測に使うことができるということです。

これはタロットでは小アルカナを理解していたほうがやりやすいです。

ところで日本人は昔は、に自分たちの祖先が神となって住むと考えていました。いわば山もひとつの非日常的な異空間であり、霊的な場所なのですが、海と接する場所にあってはそれがである場合もありました。

山が平地より高く、盛り上がっているところであれば、海に浮かぶ島のように見えます。そして、島は海が平地だとすれば、スポット的に高くなっている場所になります。

高い所・山なりものに神霊・霊魂が宿るというのは、古代からの共通した考えです。

このような場所に行き、素直に感覚を研ぎ澄ませ、自然や人々の古くからの暮らしに接するのも、自分の中に閉じこめていた何か、あるいは忘れていた何かを思い出させるきっかけになるでしょう。

ただ島には島のルールがあり、よそ者には入ってはいけない場所、禁忌がありますので注意してください。

アニミズム的にいえば、どの場所にも精霊や神がおり、きちんと礼儀をもって接する必要があるということです。その代わり、礼をつくせば、霊は霊的に交流が可能になり、自身の霊力も向上します。


創造すること。

創造・維持・破壊、この3つの力・状態は、宇宙や神の表現そのものと古代の神話・伝承ではたとえられています。

たとえば、インド(ヒンドゥー教)では、その三つを「ブラフマー」「ヴィシュヌ」「シヴァ」として神格化しています。

このブログでもずっと書いてきていますように、私たち人間も神性を内在する存在であり、いわば神の似姿(小宇宙)として、同じものが反映されます。(同じことが次元を違えてできる)

ということは、創造・維持・破壊は私たち自身(の表現)でもあり、現実と精神に息づいていることになります。

つまりは自然の摂理のようなものです。

創造・維持・破壊はこのように、必然的に訪れ、サイクルとして巡っていくものでもありますが、場面・場面においても表現されることになります。

中でも、「創造」というものは一番大切かもしれません。(基本、3つにランクの違いはなく、表れ方の違い、エネルギーの質の相違でしかありませんが)

というのも、「創造」という発意と言いますか、意志というものが、もともとの根源なる存在・宇宙・神のきっかけ・目的だったのではないかと考えられるからです。

創造したい、拡大したい、またはその創ったものを見たい、感じたい・・・人間的に言えば、このようなことになるでしょうか。ビッグバンが起こったのも、そうした理由のようにも思えます。

従って、人においても「創造」していること、創造ができている状態というのは喜びに当たるわけです。

ところが、得てして、特に現代人は創造しているようで、情報の受け手や誘導されるような受け身になることが多く、自分から何かを創造している、作り上げている、クリエイトしている、デザインしているというような思いにはなりにくいところかあります。

しかし、振り返ってみればわかるように、自分の「創造」を表現できる道具・ツールは、今ほどそろっている時代はないと言えます。その最たるものはパソコン・携帯・インターネットなどの情報機器とその仕組みです。

だから、最初の頃はネットでも誰かの制作したHPを見ているだけの人が多かったのに対し、今はソフト面の発達とシステムの柔軟化によって、自分から多くの人が作り・発信するようになっています。

ただ何もネット社会の表現だけが創造ではありません。

創造とは「作り出すこと」「生み出すこと」ですから、そう考えれば、いくらでも創造のやり方・方法はあります。

陶芸や美術を趣味としてやってもよいでしょうし、植物や動物を育てるのも創造表現です。もちろん子供を産み・育てるという、まさに大きな創造もあるでしょう。

事業やプロジェクトを開発し、運営するのもそうですし、単純にアイデアを思いつくのもそうです。お金を創造する、つまり稼ぐことも創造の一環です。

また「有意義な時間を生み出す(充実した時間にする)」というとらえ方もあります。誰かと一緒に過ごす、友人を作るというのも創造です。

さらに人を援助する、教育するというのも、その人のよいと思える時間・人生を生み出すことにつながりますので、やはり創造なのです。

あと、創造で大切なのは、その創造が誰かの役に立っているかどうかという点があります。

これが実感できないと、人は創造を空しいと感じます。しかし多くの創造は、一見誰かの役に立っているとは思えない些細で個人的なものです。

ところが、スピリチュアリティを探究し、推進していくと、結局自分と人とはつながっていることに気がついていきますから、自分のつまらないと思っている創造でも、人や世界、ひいては宇宙に役立っていることを感じ、自分の人生が充実してくるように感じます。

スピリチュアルな観点を抜きにしても、自分の創造によってコミュニケーションが起こるようにすれば、自分を尊重することができるようになります。

たとえば、自分の作った作品(活動)を見てもらう、評価してもらうというような働きかけです。この時、お金を必ずしも介在させなくてもよいですが、お金によるエネルギー交換が、そのものの価値を実感することに今の人や社会はなっていますので、あえてお金を間に入れることも有効です。

これが難しい場合は、もっと簡単に、すでにコミュニケーションのできるている場所に自分が参加して、自分の創作を人から見てもらうということをすればよいです。平たく言えば、趣味やボランティアのサークルとかに参加してみて、自分も何かひとつでもいいので「創造」してみるということです。

タロットならば、グループでリーディングしあうことで、自分の意見(リーディング)を人に聞いてもらえる経験ができますので、いわば自分の創造が評価されたり、それによってコミュニケートされたりする状況となりますから、「自己の創造が実感できる」ということにつながるのです。

そう、つまり「創造」には、それを受け止め、反映・評価・観察する側も必要だということです。ここに、「神の創造によって人間が生み出された」という神話・伝説の意味が見い出されるのです。


光と闇の関係

白と黒、光と闇

これはよく対比されるたとえです。宗教的にもゾロアスター教などで見られる善悪二元論で、光や闇を、神(善神)と悪魔(魔王)みたいな形で表現しています。

ここでまず初歩的にとらわれがちなのが、光のほうがよいという、まさに二元的に分断してしまう考え方です。

すなわち、片方はまずいもの、都合の悪いもの、存在してはいけないものと決めつける思考です。

物語でいえば、正義は必ず勝つ、悪者は正義の味方に退治されてメデタシメデタシというタイプのものですね。

確かにそれは、スッキリ・さわやか(笑)という後味があるでしょうが、シナリオ的には演出・構成上、あまりほめられたものではありません。

というのも世の中、実際にはそんな単純には行かないからです。また、物語で感動が大きく深いものは、たいてい単純な善悪の争いではないことが多いはずです。

悪人だと思っていた人が、実はそうせざるを得なかった深い理由があったり、自分が正しいと思っていた人・グループが、実は結果的に世の中を破壊する片棒をかついでいたりした・・などの設定があったほうが面白いわけです。

善悪も究極的には、その人の持っている価値と基準によるものでしかありません。

とはいえ、シンプルに二元に見るのも、たまには自分を楽にすることに役立つことがあります。

たとえば条件が複雑に錯綜して判断に迷った時など、単純に「嫌だからしない、好きだからする」みたいに決めてしまえば、案外あっさりと片が付くことがあります。

さて二元は、実はひとつのものの別の見方の違いでしかありません。これは対極的でありながら、相補的関係(お互いに相補う合う関係)でもあります。

光そのものでは見ることはできず、闇があるからこそ光が見え、光があるから闇も存在し、照らされることもできるという関係にあります。

すると、光を追求すればするほど、闇が明確にはっきりと浮かび上がるようになり、逆に闇を貫いて行けば、光のまぶしさ・輝きもより実感できることになります。

これを人でいえば、善人になろうすればするほど悪が見えすぎてくる(気になる)ことになり、悪人であれぱあるほど善人をすぐ見極められるということでもあります。(ただこの表現は本当は適切ではありませんが、とりあえずわかりやすくするため、あえて書いています)

霊的・精神的・統合的な向上を目指すと、反対に人間的・物質的・個別的なことに悩まされたり、見させられたりすることが現れます。

反対に物質的なことを極めようとすると、精神的なことに導かれる出来事が発生します。

スピリチュアルを標榜している人が、人間的にドロドロしていたり、お金のことにこだわったりするのもそういう仕組みも働いています。

またどんどん浄化や学びを重ねているばすなのに、トラブルが起こったり、より自分がわがままになっていったりするように感じるのも、これが一因としてあります。

光が強い分、黒い泥の部分も強烈になっているのですね。

錬金術的にいえば、撹拌(混交・刺激・負荷)して沈殿し(待機・発酵・腐敗)、そののち新たなものが統合・創造されるというプロセスです。

この途中は自分が嫌になるほど、自分の醜い部分、エゴ(わがままな部分だけではなく、自尊できない部分や、過剰に依存したりする部分もあります)などを見せつけられることになります。

なお、マルセイユタロットの表現としては、悪魔も神(完全)の一部・過程・質とみなしていると、私個人では考えています。ですからマルセイユタロットは二元論的ではあっても、本当は一元論だということです。


「性」「質」を知るということは、調和と幸せにつながる。

現代社会で普通に働いていますと、やはりどうしても競争というものを意識せざるを得ません。

そして女性の社会での進出と役割も以前より増えてはきましたが、企業の経営者やトップ、管理者、上役という立場の人が男性であるところが多いのも事実です。

それが間違いというわけでもありませんし、男性の特質である積極性・能動性・統治・管理・厳格的エネルギーということでは、むしろふさわしいところがあるのかもしれません。

けれども社会全体として、社会体制の主要が男性中心で在りすぎると、やはり男性原理が過剰に働き、女性としては自分を男性化しないと生きにくい(社会に適応しづらい)という側面が出るのも否めないことです。

従って、女性の人は自分本来の女性性を押し殺し、または封印し、男性に対抗しようとますます自分の内なる男性性を表面化するため、結局仮面人生に疲れてしまったり、どこかで違和感や不幸せな感じを抱き続けることになったりします。

男性は男性で、男性性であることばかりが強調されて、その反動で女性(性)の癒しや安心を過度に求めようと苦悩したり(セクシャルな曲がった表現をする)、現実との不適合(他者への攻撃・逆に引きこもり・鬱)を生じやすくさせたりすることになります。

これはいわゆる女性は子育て・家事をしなくてはならないとか、男性は外でしっかり稼いで来なくてはならないとかといった前時代的な「型」に戻れと言っているのではありません。

大切なのは、「性」をきちんと「質」「エネルギー」として知るということにあります。だから「性質」なのです。

「女性性」の本当の力と表現とは何なのか、どんな状態と心のことを言うのか。「男性性」のそれとは・・?

私たちは、日常生活の多忙さや、「性」の力の隠蔽工作、ある意味、誤解的洗脳と例えられるものによって、自分を偽って生きている(生かされている)ような状態と言えます。

「性」の力は創造エネルギーであり、これらが変な形で抑圧されたり、歪に表現されたりすると、それだけ自分の創造エネルギーを奪われている(あるいは無駄に消費させられている)ことになるので、自分の生き方・人生が窮屈で苦しいものとなります。

いくら心を見つめても、根本である「性」の力と表現を取り戻さないと、本当の意味で創造的な生き方はできにくいとさえ言えるでしょう。

「性」といえば人間でのセックスの話だけと思っている人がいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。

「性」とは森羅万象・宇宙のエネルギーの表れ方・質のことです。一般にイメージされる「性」が、性別のこととか、肉体的なセックスレベルでの話でしかないので、誤解を生んでいるのです。

それをエネルギー・質としてとらえれば、植物も動物も自然も、物質や場・状況でさえも「性」で表現・理解されることになります。

ということは、私たちはあらゆるものと「性」を通じて交流することができるのです。また性の統合(女性性・男性性の統合)は究極の合一であり、調和と完成・完全を意味します。言い換えれば「」や「根源」「空」ともいえる状態です。

自分の中にある「性」の特質を知り、異性や他のものでの性の表現を感覚的につかむことができると、ふたつの性質の調和を場面場面で図ることも可能になります。

そうすると、そこに合一した両性具有の平和時空が創出されます。

簡単に言えば、同性同士でも、公園の木々とでも、どちらかの性質を意識して感じていれば、エネルギー的に合一が可能だということです。また合一された調和的時空は、満たされた幸せ波動となり、他の時空へも波及し、自分にその状態を引き寄せます

簡単な具体例で言いますと、シングルの人であっても、まず人間ではない性の特質エネルギーを感じて調和に導けば、人間としての性エネルギーも引き寄せ、つまりは異性(もしくは自分を調和させる人)を引き寄せ(惹きつけ)、カップルやペア、良好な知人・友人を得て「両性」「平和」状態を現実化させることができるということです。

その「性」について知り、活用法を具体的に教示していただける先生が夏目祭子さんです。6月1日と2日に、夏目先生をお呼びして「性に秘められたスピリチュアルパワー」と題してセミナーを神戸で開催します

1日は基本編で、まず私たちの多くが誤って仕入れていた性の知識の真実を開示してもらい、自らの特質を自覚してもらいます。

これだけでも、自分の女性性・男性性のエネルギーを取り戻し、感謝と癒し、安らぎがもたらされることもあり、自分がなぜ迷い、戸惑っていたのか、またパートナーとうまく行かなかったのか、パートナーをまだ得られていないのかの大きな要因を知ることができます。

それから知識だけではなく、夏目先生から伝えられるボディワークを継続することで、自分の体内に眠るセクシャルパワーをスムースに引き出し、古代に伝えられていた女性の女神性を、男性は男神性を発現していくことが可能になってきます。

そして、2日の特別編では、性の創造エネルギーの活用により、霊的な覚醒の話、自然物とのエネルギー交流による調和の話、セクシャルな問題などを扱う相談を受ける立場の人の質疑応答など、より高度な内容になってきます。「夏目先生のセミナーは一度受けたことはあるけれども、もっと知りたい」という方にも適している内容となるでしょう。

これらのセミナーによって、女性は自分の女神性が開花され、社会で男性と争ってきた刺々しい自分がなくなり、逆に男性を包括する柔らかなエネルギーと、真に強い力・フォース(マルセイユタロットでは「力」のカードで象徴されます)が自分に蘇ってくるのを感じることでしょう。

そしてありのままの自分を表現しやすくなり、不思議と、力を入れずとも物事が順調に進むようになってきます。それが本当の「」なのです。また霊的に女性の力は強く、直感力や想像力も増していきます。

男性は自身の天のエネルギーである父性的なパワーを思い出し、それが女性(性)と伴ってより強く・知性も輝くことがわかるでしょう。

そうすると周囲の女性的なものを尊重するようにもなり、力業だけだった自分ではなく、女性(性)による絶対の安心に基づいた改革力・推進力が生み出されます。またアイデアや発想も豊かになります。

「現代の巫女」と呼ばれる夏目祭子さんによるセミナーは、一種の(目に見えない部分では)霊的な儀式なのです。古代の女神信仰にも基づく創造・改革・調和のイニシエーションと言えます。

皆さんの中に眠り、または自分で封印してしまっている「神」なる「性・質」をこのセミナーをきっかけとして、共鳴覚醒させてください。

皆様のご参加をお待ちしております。

夏目先生のセミナーの詳細とお申込みはこちらの記事にて。
なお、セミナーは単独ごと(それぞれのみ)でも参加は可能です。特別編は少ない人数での限定ですので、お申込みはお早めに。


世界は私のもの、私は世界のもの。

最近フェースブックのほうでも、ちらほらと書き込んでいますので、面識のある方、もしくは面識がなくても以前コメントされた方や、ブログをご覧いただいている旨をメッセージくださる方など、友達申請を受け付けますので、よろしくお願いいたします。

私の場合、フェースブックはプライベートチックな内容が多いですが、特別な情報やタロットの考察も載せることもありますので、興味のある方は見てみてください。あ、でもそんなに頻繁な投稿ではありませんので、あんまり期待せずにです。(^_^)

さて、今日の記事は、「世界は私のもの」そして、「私は世界のもの」という考え方についてご紹介します。

最初の「世界は私のもの」という文章を読んで、皆さんはどう思われたでしょうか。

エゴ丸出し、究極の我がまま、独裁者、狂気、ギャグ、漫画やアニメの世界・・・などいろいろとあるでしょう。

では次の「私は世界のもの」ではいかがですか。

何か犠牲的な感じ、全体主義的なイメージ、あるいは自分が役に立っているような感じもするかもしれませんね。

「世界」と「私」をただ入れ替えただけなのに、意味やニュアンスが、まるで正反対のように思えてくるから不思議です。

けれども、ここで言いたいのは、そのバランスと表裏一体の同意義的なことです。

どちらの考えも、実は誰しも自分の中に程度の差こそあれ、存在しているのです。

それは両者の文章の意味がまったくわからないという人は少なく、ほとんどの人が自分の中で、どちらも理解ができるからです。

だから正邪で考えを判断するのではなく、自分に「ある」ものとして認め、両者のバランスを計ることが大切だと言いたいわけです。

人によっては、あるいは状況によっては、「世界は私のもの」と考えたほうが自分のためにはよい場合もありますし、逆に「私は世界のもの」と思ったほうが、バランスが取れる場合もあります。

たとえば、地球が本当に危ないとなれば、「私は世界のもの」として、誰もが活動するかもしれません。

またすごく自信のない人、自己犠牲を我慢してやってきて、人生を自分のために生きていない人には、時には「世界は私のもの」と思ったほうが、その人の人生が好転することもあります。

また経済的な観点からも、この両者の考え方はなかなかに示唆を与えてくれます。

「世界は自分のためにある」と思って商売をするか、「私は世界のためにあると願って仕事をしていく」か、この意識の違いは面白いでしょう。

中には、「世界にあるお金・モノを自分の金庫・財布のように思っていれば、実際に自分のお金のイメージ量が増えて、流れがよくなる(自分が豊かになる)」と言う人さえいます。

それはともかく、これがもっとも大切なことですが、実はどちらも究極的には同じことになります。どうしてなのか?はあえて回答は書きません。

ヒントを言えば、どちらの考え方からでもいいので、その方向性をつきつめていくことです。

行き着く先は果たしてどこなのか? そうするとある瞬間に、光のような融合点・転換点が見えます。

マルセイユタロットの象徴でいうと、「」であったり、「蛇」であったりする意味です。

こうなると、皆さんは「私(自分)」が「私」であることの偉大さと有り難さに気がついてくるでしょう。


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