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「隠者」のカードに表される危機。
タロットカードに「隠者」というカードがあります。
これはほぼタロットには共通のカードなので、どのタロット種類にでもあると思います。(ただ、意味は微妙に違うこともあるでしょう)
マルセイユタロットにも「9」(本当はローマ数字の特種なもので表記されていますが、文字化けの可能性もありうるので算用数字にしています)の数を持つ、「隠者」は存在します。
私の経験とイメージにおいては、この「隠者」はタロットの叡智の伝達者という感じがしています。精神的・霊的な世界において、私たちを導く存在だと言ってもいいでしょう。
一方でガイドや案内役という側面とともに、あまり知られていませんが、危機や変化を告げるメッセンジャー的な役割も「隠者」は持っています。
このカードが展開で出る時、あなたには何らかの危機が訪れていたり、それに伴う変化・改革が求められていたりすることがあります。
同じように、「13」という名前がないカード(マルセイユタロット)も危機や変容を語りますが、それとは少し次元や質が異なると私は考えています。
「隠者」のそれは、通常意識ではあまりはっきりしないことが多く、一見すると平穏な状態にも思えます。
しかし、どこか漠然とした不安や、何か閉塞感があるような、落ち着かず、苦しい雰囲気もあります。
その原因が何なのか、自分でもよくわからないところがあるでしょう。
また心だけではなく、実際に外側の現象として、少しずつ、まるでひたひたと静かに押し寄せてくる波のような変化に気付く場合もあります。それもネガティブなこととして感じるものです。
そういう意味では、「月」のカードと似ているところもあります。(余談ですが、「月」と「隠者」は関連する絵柄や数の象徴もマルセイユタロットにはあります)
「隠者」の危機は、実はあるピークや、ある一定のレベルの安定(バランスと言ってもよい)に達した時に、ピークから降りていく波動のように訪れるものと言えます。
ですからうっかりしていると、いつの間にか「隠者」の危機が自分に訪れているのです。
ですが、「隠者」はランプを手にしており、このランプを照らす時、見えていなかった自分の本当の立ち位置がわかります。
同時にこの危機が、さらなるレベルアップやステージ上昇のためにやってきていることにも気がつきます。波動では言えば、もう一度底をついてからピークへと上昇していくことを予測できるという状態です。(もう少し正確に言うと、波形そのものが上昇するので、底は以前より浅くなり、ピークは高くなっていきます)
ただ自分ではわかりにくく、時には「道を踏み外した」「悪い方向に向かっている」と誤解することが多く(本当はそう感じるように自分でし向けています)、かえって不安を増大させたり、ジダバタともがいてあせりの行動に出たりします。
ところで、マルセイユタロットの場合は、出たカード自体が解決策や浄化、転換方向を示唆することがあります。
ですから、「隠者」が出たということは、確かに「危機」であるのかもしれませんが、「隠者」というカードこそが、問題を解消する象徴にもなっているのです。
具体的には最初にも述べました、心の「ガイド」「案内役」を得ることだったり、現実の世界で、専門家や自分より知識や経験のある人に相談したりすることです。
「隠者」はまた文字通り「隠れている」存在ですので、派手に動いたり、小手先の技術で乗り切ろうとしたりせず、じっくりと構え、問題の本質を探求し、これを乗り越える経験(経過)を待つということでもあるでしょう。
一言でいえば、「隠者」は静かなる危機、内的な変化(それは結果的外の変化につながる)のチャンスだと言えます。
従って、マルセイユタロットでは、「隠者」の次の数「10」を持つカードは「運命の輪」となり、まさに運命が回転して、本当にチャンスとなるのです。
「隠者」の危機は静かではあるものの、深いものでもあり、「隠者」の危機・ピンチは「13」のそれとは質は異なっても、やはり結構大変(特に精神的)なものです。
「13」がこれまでと違う、まったくの大きな変化・大改革になって行くとすれば、「隠者」は今までの経験と蓄積によって発動する内的な気づきと覚醒と言えるでしょう。
だから「隠者」にとって、過去(今までやってきたこと、学んできたこと)は特に重要なのです。
私の考えるマルセイユタロットにおいて、カードにはいいも悪いもありません。自分の内外の調和と統合をもたらすための気づきのツールであり、そこに絵柄としての象徴があるだけなのです。
ですから「隠者」の危機でも、実は恩恵と解釈することができます。
場所の再訪問による浄化と充電効果
タロットリーディングというものは、個人の皆様を相手に、その方のまさに個人相談をするわけですが、不思議なことに、ある共通のパターンやほかの人との類似点のようなものを見い出せることがあります。
ところで、パターン化というものは、何でもそうですが長所と欠点を併せ持ちます。
よいところは、普遍化・標準化できるので、その対象物を理解しやすくなるということですね。また教えたり、伝えたりするのにも便利です。
「これはAタイプ、こちらはBタイプだな」という具合にです。
しかし、あまりにタイプやパターンを当てはめすぎると、それ以外の個別・特種ケースを見逃すことになり、さらには画一的なモノの見方に陥って、結局「パターン」という、文字通り「型」通りしか考察できない思考になる恐れがあります。
タロットリーディングでの相談においても同じで、パターンによって相談類型を意識したり、把握したりすることは大事でも、基本は相談とは個別であり、一人として本当は同じ悩みなどないと思っているほうがよいです。
さて、実は今日の話題はそのことを述べたいわけではなく、このパターンによって出てきたひとつの「型」をお伝えしたいというものです。
それは「思い出の地の訪問による浄化(もしくは充電)作用」という「型」「パターン」です。
自分の人生において、トラウマほどではないにしても、何か思いを残してしまっている場所・土地というものが人にはあります。多くは故郷とか育った場所、赴任先というようなものでしょうか。
そこには「よい思い出」のこともあれば、そうではないこともあります。
特に後者(あまりよくない思い出)は、普段は心の奥底にしまわれ出てきませんが、何かの問題の拍子に、象徴的に浮上してくることがあるのです。
たとえば、恋愛や結構の時に、どうしても踏み切れないとか前に進めないとかの気持ちになって、不安に思っていると、それは過去(の場所)において、「心的」に未処理だった恋愛問題が隠されていたというようなことです。
実際は終わっているのですが、自分の中の「思い」、「儀式」として終わっていないというような感じですね。
そういう場合、自分が恋愛していた時の印象的な場所などに行ってみるというのも効果があるのです。
それは実際に訪問することで、時の流れを肌で感じたり(別の景色になっていたりすることで)、またたとえ、ほとんどその当時のままであったとしても、心のシーンで、続きの映像を早送りのような形で見ることができるからです。
そして「今のあなた」まで時を進めることができます。
この時、もうあなたは昔のあなたではなく、過去のことを思い出として浄化し、その経験に感謝できるでしょう。少し供養や墓参りに似ているところがあります。
時間というのは不思議なもので、現実の時間と、その他たくさんの種類の「時(とき)」が存在します。
あなたの中にも、当時の時と世界がやはり残っており、それはあなた自身が止めていることもあるのです。それを動かしに行くのです。
もちろん現実に訪問しなくてもイメージでもできますが、ここやはり、程よくリアリティがあったほうが、効果の度合いも違ってくるのです。
これはネガティブなことの処理や浄化の場合ですが、逆にポジティブな思い出を利用するこてともできます。
自分にとって良かった時代、とても自らが楽しく輝いていた所に行くという方法です。
これは時を進めるというより、反対にその時の中にしばし自分が浸り、喜びの波動を再び自分に転写するというようなイメージです。
こうして勇気や力を今の自分に与えることも可能になります。
いずれにしても、浄化や充電という形で、思い出の地の再訪問というのは時に効果があります。
このパターンが、タロットリーディングの経験から、何度か出てきていましたので、皆様にご紹介してみました。
「自分探し」から「自分出し」へ。
この前、ある人と話していますと、面白い言葉が出てきました。
それは「自分出し」という言葉です。
実はその方は、誰もが行うように、昔はよく「自分探し」をしていらっしゃったようなのです。
しかし、次第に今は、自分らしさを出す、まさに「自分出し」ということに集中されているようです。
ひと頃、いや今でも流行っているのかもしれませんが、「自分探し」をしている人は少なくありません。
これには私は否定も肯定もしません。いや、むしろどちらかと言えば、今は肯定派でしょうか。
それは私自身も「自分を探してきた」経緯があるからです。自分が見つかったのかどうかと言えば、「見つける見つからない、その観点から脱却した」ということが、「見つけた宝物」かもしれません。
ですから、いずれにしろ、「探す」というのはプロセスとして大切だと感じています。
ところで、「自分探し」には否定的な人もいます。
曰く、「自分など探しても見つからない」 あるいは、「自分はそもそも探すものではなく、自分であることを認めることである」など・・です。あ、ちなみに後者の言葉は、今私が作りましたが(笑)、似たようなことを述べている方もいますよね。
そう、私も実は否定派になることもあったのです。このように、人はいろいろとその時その時の感じ方で変わることがあるものです。
そして、自分探し否定派の人も肯定派の人も、つまるところ、「自分」というものをテーマにしているということでは同じであり、見方が異なるだけなのだと気がつきます。
だからこそ、「自分出し」という発想も面白いのです。
自分探しをして、自分を発見するのもいいでしょうし、見つからなければそれもよいのです。
あなたは実は単一ではなく、たくさんの人格・パターンで形成されているものであり、見つけても見つけても、また出てくる可能性もあるのです。
自分らしさというものは、もしかすると、ずっとわからないものかもしれません。
ただ、言えるのは、素直に自分を出してみることにチャレンジするのも、また楽しいことではないかということです。
本当の自分は何のなのかとつきつめる必要はなく、その時その時のフィーリング・周囲や社会的常識などで縛られない、有りのままの感じを出せる時に出してみる、そういう取り組み方でよいのではないかと思います。
それには、最初に出た人も述べていましたが、環境や出す(出せる)相手も大切です。
自分が素直に気持ちを表現できる友人やパートナーがいればいいわけですし、そういう人がいない場合でも、気持ちが落ち着いたり、偽りではない素の自分がよく出せたりする好きな場所に行けばよいでしょう。
また環境や人に頼るのではなく、自分の心のとらわれをばすしていくワーク、考え方を採り入れるなどもひとつの方法です。これは内から「自分を出しやすくする」やり方ですね。タロット学習もその一助になるでしょう。
自分探しが一段落ついたら、今度は自分(らしさ、自分の気持ち)を出す、「自分出し」に挑戦してみましょう。
あ、一言追加しておきますと、「自分出し」にはパートナーのいる「恋愛」が一番効果が高いように感じるでしょうが、これも両刃の剣で、相手に気に入られようと自分を変えての「自分出し」は「自分出し」とは言えず、「自分縛り」ですからご注意を。
ともに気持ちよく、素直になれる関係がよいのです。(恋愛初期は誰でもお互いをよく見過ぎの傾向にあり、素直になれる「気がしている」ので、それも注意です。真実は自分たちに、タロットで言う「運命の輪」の回転とともに教えてくれます)
タロット学習に、タロット本は読まない。
4月になって、気分的にも新しいことを始めたいという人も多くいらっしゃると思います。
私のタロット講座でも、カルチャーセンターはじめ、新しい受講生の方が入られます。
そうすると、よく質問があるのが、「どんなタロットの本(解説書)を読めばいいですか?」
というものです。
また、こちらからお伝えるする前に、すでにもう書店に走って、自分でタロットの本を購入され、読まれる方もおります。
以前にも書いたかもしれませんが、私はこうしたご質問や対応には、
「タロットの本は、今の段階では読まないように」
というアドバイスをしています。
世にタロットのことを書いてある本は、それこそ山のようにあります。日本だけでもそうなのですから、世界中となるとどれくらいのものになるか、想像がつきません。
まあ、それだけタロットは、たくさんの人に関心をもってもらえるものだということがわかります。
しかし、ほかのタロット種のものは別としても、ことマルセイユタロットに関しては、日本において、現在マルセイユタロットをメインに扱って出版されている本は、ごくわずかです。正直一冊だけかもしれません。
今出ているものもどちらかというと、占い向きというもので、私の伝えるマルセイユタロットの趣旨とは異なるところがあります。
ですから、勢い、人によっては、ほかのタロット種の本までに手を出してしまうことになるのですが、マルセイユタロットとほかのタロットでは絵柄も違いますし、意味も違ってくるところがあります。背景や思想も異なります。
深くタロットそのものを追求している本ならばまた別かもしれませんが、たいていは「楽しく占う・・・」という、カードの意味と占い方だけを書いた軽めの売れ線スタイル本ですから、読むとかえってわけがわからなくなるおそれがあります。
これは巷に出ている本が悪いというのでなく、まさにスタイルの違い、表現と目的の違いですので、仕方のないことです。
トランプを「ゲーム」として使うか、「占い」で使うかによって、同じ「トランプ」という道具ではあっても、使う目的によって書かれている内容が違ってくるのは当たり前です。
これと似たようなことがあるのです。
では難しい象徴学や西洋魔法の専門書など読むとよいのかということになりますと、これもまた難しすぎて最初の段階では不適当です。
ということで、私の講座を受講していただく方にお勧めしているのは、スピリチュアルや精神世界系の本、自己啓発などの本です。また時には簡単な哲学書や心理学の入門書もよいと思っています。
タロットとは関係ないようでいて、実は大いに関連しており、こうしたやや近接した世界の書物から入ることで、マルセイユタロットを別の角度から、より理解することができるのです。
タロットそのものを学習しようとしても、そこにあるのは、ただのカードであり、絵柄です。
タロットが人間のように教えてくれたり、語ってくれたりするわけではありません。(本当は語ってくれるのですが・・・それは秘密です。(笑))
ですから、どうしても講師の言うことや、講師の提供するテキストなどの意味を覚えようと受講側はします。
それはそれで最初はいいのですが、こうしたことだけで学ぶのではなく、ほかのことからタロットに描かれているものが何なのか(つまり何を象徴しているのか)をとらえようとする思考活動が、タロットの理解を深める(補う)のです。
この観点から言えば、何も書物だけからとは限りません。人生におけるすべてのシーンがタロットの学びにもなるのです。
そして、実際はその逆(逆転構造)なのです。
タロットを学び、あらゆるものでタロットの象徴をつかもうと努力する時、あなたはタロットによって、再び自分の経験している今の世界を再構築・整理していくことになります。
これこそがタロットの最大の効果で、知らず知らず、あなたは自分の世界をタロットの象徴で把握していく能力に長けてくるようになります。
そうすると、自分の手中(タロットカード)に、外の世界が投影されるようになるのです。
つまりはコントロールしやすくなるというわけです。
私の目指すタロット学習とはこのようなことです。
一方的に講師から教えを受けて聞いていればいいというものではないのです。もちろん基本的な考え方・扱い方はお伝えいたします。
まずは皆さんには、「タロットが占いである」という思い込みの次元から脱却していただかねばなりません。
タロットが占いであるというのは、これまでの(特に日本の)社会が作った幻想(実体でもありますが)に過ぎません。もちろん占いの効果的なツールですが、真実は「占いにも使える」という言い方にあります。
マルセイユタロットとの出会い、そして私の講座に来ていただく皆さんには、新たなタロットの使い方・考え方を学んでいただき、自分の人生を有意義にしていただきたたいと思っています。
「他人は自分」として見る方法について。
精神や・スピリチュアルな世界で、よく信じられることに、「他人は自分を映し出す鏡」というものがあります。
これは私自身は、その通りかもしれないし、そうではないと言えるかもしれないと思っています。
というより、マルセイユタロットを思考の整理ツールとして見ていくうちに、結局何事もたとづりつくのは以下のことになるのです。
Aという考えがある。また相反するBという考えがある。どちらも相容れないもののように見えて、実は同じものを別の方向(あるいは次元)から見たものに過ぎない。
ですから、矛盾するようで矛盾しないという結論になり、どちらも正解というか、間違いというものがなく、ある立場・フィールドという限定されたところに行くと、正・誤に見えると言うことなのです。
さて、話を戻します。
「他人は自分を映し出す鏡」という考えでしたね。
先述したように、結局これはそう思えばそうであり、そう思わないのなら違うことになりますが、私がこの考え方を採用する時、このような方法にします。
それは、「都合のいい解釈」です。(笑)
平たく言えば、自分を見つめ直したい、反省して成長してみたいという「雰囲気(モードと言ってもよいかもしれません)」の時は、「他人は自分を映し出す鏡」説を大いに利用し、「人のふり見て我が身を直せ」ではないですが、不快なことがあっても、「きっと自分に同じところがあるのだ」と考え、自己洞察を進めます。
逆に、あまりに不快感が過ぎる時、気持ちをよくしておきたい場合は、他人のことが気になっても無視するようにします。極端なことは言えば、他人は他人、自分は自分です。
でもこれでは、ちょっと精神世界傾向にある人には不評かもしれませんね。
ではもっと、特に「自分は自分、他人は他人」と考える根拠を述べます。
理由はシンプルです。
自分も他人も同じ人ではあり、集合意識や潜在的な部分では確かにつながっているかもしれませんし、全員が大いなる根源(神と言ってもよいです)から派生した存在という考えに立つと、つまるところ、他人は自分でもあります。
ただ、私たちがこの地球に住む「人間」という種のレベルで誕生し、生活をする時、「個性」表現があるということなのです。
神(根源)のエネルギーは次元を下っていくにつれ、個別性をもつようになります。
「火」も火花として散ると、たき火の火になったり、コンロの火になったり、ローソクの火になったり、電気になると各種電気製品を動かす元になったりします。同じ火ではありますが、別々の火のように見えます。
つまり「器」が違うと、表現も異なるということです。
ここから、人は究極的には同じではありますが、皆、個性の器を持ち、だからこそ、別々なのだということも言えることができるのです。
あの人はあの人なり、その人はその人なりの表現をして生き、宇宙に何らかの形で貢献しています。あなた自身と違っていて当たり前です。
ということで、必要以上に、特に人のネガティブな表現を、「自分もあの人のようなことがあるのだ」と思わないことです。
いえ、思ってもいいのですが、それは自己成長のための刺激やテーマとして見て、自己を貶めるために使うものではないと考えます。(「他人を自分として見る」というのは、当然、自己卑下として見るという意味ではありません、むしろ逆の「自己尊重」の技術です)
もちろん、「他人を自分の鏡」として見て、自分を成長させるメソッドもすごい効果はあります。
それでも、それがすべてとか絶対だと思わず、適宜、自分の都合のよい形で採り入れていくこともOKではないかと語っているわけです。
何より、四六時中、他人(の不快の部分)を自分(でもある)と見て、落ち込んでいたら、自分の気分(波動)が下がり、それに同調した事態に自分を置くようになりますので、いわゆる運気的に悪いと思えるようなことが循環して行くこともあります。
これでは本末転倒のことになります。
ということで、実はメソッドはきちんと使う必要がある、ということも指摘しておきたいですね。