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人生の目標・目的の多数化

私たちは人生に意味を見いだそうとします。

これは究極的には「生きる意味は何なのか」というテーマにもつながってきます。

人生はまさに人の数だけ存在し、同じ人生の人は一人もいません。そう考えると、実はすごいことのように思えてきます。

一方、私たちは同じ宇宙・世界に住んではいますが、そのとらえ方は人によって千差万別で、心の問題だけではなく、物理的にも一人一人違う世界を認識しているという説が言われてきています。

ということは、みんな人生も違うし、世界も異なるのだということになります。

スピリチュアル的には、ひとつの意識が無数にわかれた個性を持ち、一瞬一瞬に合意と選択をそれらが行いつつ、そうして紡ぎ出された連続の世界に自分を存在させていると言ってもよいかもしれません。

こう書いてきますと、リアルとか個人とかそれぞれの人生とかいうものは、一体何なのかということを考えてしまいます。

しかし、一方で面白い考え方も登場させることができます。

それは「人生の目的・目標」ということに関係します。

ここでいう目的・目標とは、「人生とはなんぞや」という哲学的なことではなく、もう少し次元を落とした、人生の途中での目的もありとするものです。

私たちはともすれば、「人生の目的はひとつ」だと思いがちです。

もちろん単純に言ってしまえば「生きて死ぬこと、それ自体が人生」であり、「過程が目的」という不思議な見方を採用することも可能です。

けれども、個別的・具体的に見た場合、仕事の目標達成とか、家族と仲良く暮らすとか、経済的に成功するとか、幸せに感じ続けたいとか、知らない土地をたくさん訪れてみたいとか、知識をできるだけ深めたい・広げたいとかあると思います。

それらは別にひとつだけとは限らないでしょう。なぜならば、これらは人の欲求や欲望に根ざしているものがほとんとだからです。人の欲求はひとつではないのが普通です。

「いえ、私はそんな低次の、欲求から来る目的を人生の目的や目標にしたくありません」と言われる方もいるでしょう。

やはり、「悟りが目的」とか、「社会や人類に貢献したい」などと、大きな目的を掲げることのほうが自分の人生が崇高に見えてきます

そう、実は目的には次元の違いがあり、それらを混同させるより、分けて考えたほうがいい場合もあります。

分けて考えると、自分が思うべきことと、なすべきことの区別も明確になり、変にあせったり、逆にのんびりしすぎたりして人生を無駄にしてしまうということが少なくなるからです。

さらにいえば、次元の違う目的別にそれぞれが関連していること(リンク)していることを発見するようにすれば、それこそあなたの「使命」というようなもの、裏に隠された「生きている目的」のようなものも見えてくることもあるのです。

たとえば「悟る」ことが大目的であれば、食事という次元に限定して考えた場合、一般的には「心身によいものを食べる」とか、時には「断食して・・・」みたいに思うかもしれません。

しかし逆に、「グルメに敢えてなることで、悟ることができないだろうか」?と考えることもでき、おいしいものを食べながら、悟りの道を進むということを探るアイデアが出現します。

大目的によって、低次に見えた目標も、崇高なものの一方法・一表現に変貌するのです。

逆に低次の欲求を満たしつつ、途中から中次・高次へ、おのおのの次元をリンクさせていけば、自分のしている行為の浄化が図られます。悪魔が天使に変身するようなものです。

また、次元を平行(同じフィールド・レベル)のままで、目的を複数持つということもできます。

それは同じ世界に生きながら、別の人間にもなる(複数の人格を持つ)という意味にも近くなります。

たとえば仕事での成功と同時に、趣味のサーフィンでも優勝するとか、有名になるとかという形です。これは結構、多くの人が知らず知らずにやっています。

平行世界では全部同じレベルの目的にしなくてもよく、たとえば職場ではセクションの長への出世が目的でも、旅行では国内の有名寺を10箇所くらい回れたらよしとするというようなものでもいいわけです。

ひとつのフィールドや次元では自分はダメな(目標や目的が達成されない)状態であっても、違う場所別の自分ではそこでの目標がきちんと達成されていれば、それはそれで成功と言えます。

マルセイユタロット的には22の目的・目標があり、それだけあれば、誰でも何らかの成功者になるのです。

こうすると、皆と同じ材料の世界にいながらも、人生に何倍ものチャンスと楽しみが増えてきます。


女性性・男性性の一考察

先日6/1,2の二日間、作家・カウンセラーである夏目祭子先生
をお呼びしての、「性に秘められたスピリチュアルパワー」セミナーを行いましたが、無事盛況のうちに終了いたしました。

ご参加いただきました皆様、そしてお招きに快く応じてくださり、充実のセミナーを講義していただいた夏目先生には改めて感謝申し上げたいと存じます。ありがとうございました。

さて、せっかく「性」「セクシャルパワー」のセミナーを開催したところですので、今回のセミナーからの示唆や、マルセイユタロットによって得られた「女性性」「男性性」というものに対しての考察の一部を書いてみたいと思います。

まず私が言いたいのは、「女性性」は究極の癒しの性質を、それ自身が持っているということです。人間ならば、もちろん「女性」となります。

ですから女性の皆さんは、あるコツと考えを採り入れれば、すぐにでも自己を解放し、自分自身を自分で癒すことができます

しかしながら現代社会では、様々な洗脳ともいえる誤解と知識・認識で、それができないようにされています。

まず大きな誤解は、いわゆる「常識」と、世間一般イメージでの「よい人になる(社会規範から見る自己の理想的役割設定の)」思考・枠組だと思っていただければよいでしょう。

これを解き放つには、言い意味で我がまま(我のまま)になること、非常識を採用すること、マルセイユタロットで言えば、「愚者」になることが最大の秘密であり、最初で最後の答えと言ってもいいです。

そしてもうひとつ、「自分に自身を癒す力がある」と信じることであり、このことは特に女性には、もっとも重要な自分に対する決意事項だと言えます。

女性は自分一人どころか、もっと多数、いえ地球や宇宙を癒してしまえるほどのパワーを潜在的には有しているのです。

また波紋のように一人がそれに目覚めると、周囲を波動によって広げ、ある範囲を大きく包み込み、それ全体を癒してしまうと同時に女性性を共鳴させ、ほかの人たちも覚醒させることができます。

これが古代で言われている女性性の力なのです。

ところが、自分の力を確信できない時、依存になりがちなのも女性(性)です。

それは女性性が受け入れることのエネルギー性質を持つので、受容性が自分や他者をスポイルし、ただ受け身に、ある範囲を極度に限定させることに力を費やしてしまうことがあるからです。

そこで男性性の力・エネルギーが必要になってくるのです。

女性の本当の力を目覚めさせるには、男性による着火が求められます。溶鉱炉に火入れを行わなければ、それは眠ったままです。

しかし、つけ方が無謀であったり、タイミングが間違っていたりすると、火は暴走したり、まったく灯かなったする場合もあります。不調和ともいえる女性性と男性性のミスマッチです。

それから男性(性)による女性(性)の尊崇と信仰が、実は女性性の女神性ともいえる大きなパワー・性質を発現させます。

女神は拝み(男神)によって、自身が役立つことを自らで感応し、大地的なパワーを目覚め興し、発揮させるのです。

従って女性性を稼働させるのは、男性性の働きかけが極めて重要なのです。

これを人間にして考えれば、男性は女性を愛し、大きな父性をもって相手を尊重する時、その注がれた大きさ・エネルギーに応じて、女性側も自身の内奥の扉(ヴェール)を開き、癒しと昇天(覚醒)の力を発揮することができるということになります。

女性は自らを自分で癒すことができると先述しましたが、実はこれも男性性が鍵になります。

現代社会では女性も「男性的」になろうという力が社会制度の影響で働いており、女性の皆さんにも過度に、あるいはアンバランス的に、自分の男性性を知らず知らずに強められている状態となっています。

言わば、女性の中で間違った男性性を過剰に出している人が多くなっているのです。そしてこれは、男性に対抗しようという競争的な男性性・思考中心の性質です。

このようなものとは異なり、自分の大いなる受容と癒しのエネルギーを自覚し、女性(性)としての本来の感覚的性質をもっと表現していくことが大切なのです。

ここで「表現してく」「出していく」と言いましたが、これが能動であり、男性性と結びつきます。

つまり、同じ男性性でも、自分本来を出し、抑圧せずに言いたいことを声に出したり、好きなことをして行ったり、感じたり、創造したりすることを「表してみる」というようなものでの、外向けのエネルギー、積極性の「男性性」が求められるわけなのです。

対抗する・争うのではなく、自分本来、女性性そのものを「出す」という男性性を表現することです。

それはまた本当の意味での自分への自信・自立精神ということにもつながります。

女性(性)は受け身だから、ただ待っていればいい、控え目にしていればいい、我慢していればいい、誰かが私を救ってくれる、王子様が連れ出してくれる・・・と考えるのではなく、自分の中の男性性と仲良くし、自己表現を素直に外に向けること、自分の足で立つというような自立精神を持つことで、より女性性が輝くのです。

そのような気持ちが無意識的にも働いてきた時、女性はまず自分の中にあるブロックやとらわれを解放しようとする方向に向かいます。それは自浄作用が働くからです。

そこでカウンセリングを受けたり、セミナーに参加したり、スピリチュアルな方向への関心が目覚めたりするのです。

最初は依存的になることもあるかもしれませんが(それはある意味、必要なことでもあります)、自浄作用が促進され、ブロックが解除されて行くと、自らの女性性の癒しの力が覚醒され、自分を癒すことが簡単にできるようになってきます。

次に、自分が癒されると、他者に向かって癒やす方向に向かいます。それも自然な女性性の流れです。(一面では男性性でもあります)

自らが癒された(と言っても段階がたくさんあります)女性は、相当強くなります。いわば女神性が目覚めた状態になってきます。

このような女性は、男性に対して無理に伍していくというのではなく、柔軟かつ自然に男性や周囲の人を惹きつけ、コントロール(調和的なコントロールを)していけるようになります。これがマルセイユタロットでいうところの「」の女性です。

また男性もこうした女性に包み込まれる時、失った自信とエネルギーを取り戻すことができ、さらには女性という宇宙の偉大なる箱船によって、天に通じる真の知性を得る(象徴的には悟りを得る)ことができると言われています。

男性は女性によって表面的なプライドを崩壊させる必要があり、これはマルセイユタロットの「神の家」にも象徴させられていることです。

ただ男性のプライドは、それ自身が生きる基礎となっている場合があり、下手な破壊と崩壊は、男性自身を本当に死人同然(実際に死ぬこともあります)にさせますので注意が必要です。

真に崩壊させることができるのは、マルセイユタロットでいう「星」の女性であり、女神性を回復させた女性です。

崩壊と言っても、崩れるのでなく解ける(溶ける)のであり、溶けて流れた表面上のプライドはエゴで武装したハリボテであったことに気がつきます。

そして本当に現れるのは、錬金術(男性性女性性の融合・統合)で培われた輝く黄金の柱に例えられるものなのです。

かなり象徴的な書き方となりましたが、皆さんも自分で考えてみてください。

マルセイユタロットを学習した(している)方は、タロットを見ると気がつくことも多くあるでしょう。


神社に行って内なる神と感応する。

パワースポット巡りが今もブームのように続いているようですね。

ブームになると、アンチの人や批判的に見る人がそれだけ増えるのも、ある意味当然です。

やれ「パワースポットへ行くのは危険」だとか、「実は汚れに行くだけ」とか、「もらう感覚ばかりでかえって運が悪くなる」とか、まあ、いろいろ意見はあるものです。

個人的には、ネガティブに見るこれらの意見のそれぞれにも一理があると思っています。

一方、もちろんパワースポットをそのままパワーやエネルギーがあるところ、それらをいただける場所と考えることも、一面肯定しています。

要は、自分にとって都合のいい解釈をすればいいのです。(笑)

ただひとつだけ基準やルールがあるとするならば、バランス感覚が大切だということですね。何事もやり過ぎや極端なマイナスはまずいものです。

自分が過剰にパワースポット信仰になり過ぎていると感じたり、何でも否定的に考えがちだなあと思ったりすれば、バランス的に修正すればよいということです。

さて、パワースポットといえば神社などが多く言われているところですが、神社ですから、そこには「神様」がおられます。

と、人は考えている、想像しているということですね。ここで実際に「神様」なるものがおわすかどうかは議論しません。

今日言いたいのは、その「神様」が、神社などの社に外の存在としていらっしゃるのではなく、自分の中に実は存在しているということです。

「なんだ、そんなことか、よく言われていることで知っているよ」と思われるかもしれません。

ではなぜ、あなたは神社にお参りするのですか?

自分の中に神がいることを信じているのなら、神社などに行かずとも済むのではないでしょうか。

ここで考察します。自分の中に神がいても、わざわざ外の神社にお参りに行くのは何か意味があるのではないかと。

するとこのことに気がつきます。

行く・お参りする=行動している

ということは、自ら何か行動して「形を示す」ことに意味があるのではないかと思いが行きます。

また家に神棚がある人も多いと思います。当然、ほとんどの人は神棚にお供えし、手合わせることをしているでしょう。ここでも行為・行動が形として示されます。

自分の中に神がいても、行動や形をこの三次元の世界で表すことが、何か霊力の発動に関係しているのではないかと想像することが可能です。

またマルセイユタロット的にはこのようにも考えられます。

マルセイユタロットの教義では、自分の中に神性が内在していると考えています。(あくまで私の採用している説においてですが)

すなわち、神の性質は自分にもあるということなのですから、日本の神社の神々においても、それらはすべて(悪神も)自分の中に、同じ性質を有しているものがあると考えることができます。

天照大神も素戔嗚尊も、全部性質としては自分の中に「ある」のです。その感応や発現装置として神社があり、それぞれの神を祀っている神社に自分が行くことで、自分の中にある同じ性質を発動させることができるという仕組みです。

もちろんそれには個人差や、人間としての個人の特性(レベルの違い・個性)があり、ものすごくその神(神社)に感応する人もいれば、全然何も感じないという人もいます。

奇しくも神社でのご神体は「」であることが多く、自分(の中の神性)を映し出す・転写させるという意味では、理にかなう話です。

ということで、神社に行くのは、一面、自分の神性を感応させたり、発動・表現させたりするためにはよいことと言えます。

同様に、「神」を「」として言い換えれば、自分の中にある「仏性」を感応させることになり、その仏様をお祭りしているお寺もよいわけです。

宗教観や民族が違っても、たとえば観音様がマリア様と同じ性質として見ることもでき、世界中どこでもその祀られている神の性質・性格を知れば、自分との感応は可能だということになります。

ちなみにこれのミニバージョンがタロットであるということは、あまり知られていないことです。


いわゆる「○○の法則」ものについて。

たぶん、まずどんな人にも、どんな状況でも必ずその通りになるという法則はないでしょう。

ということは、冷静に考えれば、巷で言われている精神的なことや目に見えないこと、あるいは成功法則みたいなことでの絶対はないと考えられます。

これは私の伝えるているタロットでも同じことが言えるでしょう。

しかしながら、ここからが面白いことになります。

確かに万人に必ずどんな場合でも成功したり、当てはまる方式や法則というものはなかなかないかもしれません。

それでも、おそらく本を書いている本人、セミナーなどしてそれを伝えている人自身は、全くの嘘・創作・詐欺ではない限り、自分が経験したことを述べているはずです。

つまり、その人においては「成功」した法則なのです。

だからといって、他人にそのまま適用できるかどうかわからないのは先述した通りですが、本に出したり、セミナーしたりするほどですから、当人はもちろん、他人においても、比較的多くの人に同様の結果をもたらすことができるとも考えられます。

ということは、万人共通ではないものの、多数は適用されたものであるとも言えます。反面、一部または多くかもしれませんが、通用しなかった人もいるでしょう。

これは何かに似ているとは言えませんか?

それは「楽しめるもの」という意味でのアトラクションや、レジャー・レクリエーション・芸術みたいなものとたとえることができます。

ある人にとってはとても楽しいことではあっても、ほかの人にはそうとは思えないものがあります。

さらには映画や創作で言えば、メジャーヒットもあればスマッシュヒットもありますし、カルトな人気のものもあります。

たくさんの人を楽しませるものは、それだけ流行となり、ブームを作ったり、制作側には報酬という形でお金やエネルギーも入ったりします。

つまり、いわゆる「成功法則」や精神的のものの法則的な説は、「一時的」には人生の楽しみのためにあると思っていいのではないかということです。

何によって楽しみを感じるかは人によって違うように、それぞれの成功ルール・法則はやはり細かくは人によっても異なるのですが、流行もありますし、全員ではないものの、多くの人に当てはまるものもあると考えると、面白いものです。

また楽しみ方はひとつではなく、人はいろいろな事・モノの組み合わせで人生を楽しんでいるように(趣味や喜びごとがひとつという人は少ないでしょう)、法則ものも様々に組み合わせ、融合したり、取捨選択したりして、自分流の楽しみ方を見つければよいのです。

そして、実は法則ものを探究していくと、この世界の仕組みについて、おそるべきこともわかってくるのですが、それはまたの機会にお話したいと思います。

前の文章で「一時的には」と表現しているのはそのためです。

だから私は法則ものの否定をしているのではなく、むしろ大いにまずは活用したり、研究したりするとよいですよという立場なのです。しかしそれをそのまま、丸呑みで信じるというものとも違います。

それから法則ものの中には、私の認識では「占い」も入ることを言っておきます。


睡眠時の夢と現実のヒント。

物事をとらえるのには、二元の見方をするとスピリチュアル的にも現実的にも便利で、視点が広がります。

そして、今日は睡眠の二元論を考えてみたいと思います。

睡眠の二元て何?・・(笑)と思われる方もいらっしゃるでしょうが、結構まじめな話です。

二元というのは、要するに、ひとつを二つのモノ(視点)で見ることです。大きなたとえでは、「世界」を「陰・陽」ふたつで見みるというような方法ですね。

この発想は、占いやスピリチュアルでは実は当たり前なのですが、意外に現実的にも知らず知らず採用されている見方なのです。

それはさておき、睡眠です。

睡眠は、体の活動的なものの停止と言えますから、誰でもわかりますが、活動に対して休息・充電的な二元で見ることができます。

エネルギーの消費と蓄積と考えることもできますね。また、たいてい人は昼に活動して、夜に眠りますから、これも昼夜視点の二元と言えます。

では精神的にはどうでしょうか? 眠るということはまさに眠ってしまうわけで、現実の周囲の状況は見えませんし、自覚できません。

ということは、起きている時が覚醒かつ意識(自覚)的であり、寝ている時は文字通り、睡眠無意識(無自覚)状態にあると言えます。

ところが、寝ていても私たちは時折、夢を見ています。実は夢は誰でも見ていて、それを記憶していないだけという説もあります。

ということは、睡眠(状態)はまったくの「無」「停止」といわけではなく、逆に何らかの「覚醒」状態であると言えなくもないのです。

さあ、おかしくなってきましたね。

寝ているのに覚醒している、 ん? ならば、起きている時は睡眠状態のこともあるのでは・・・!?

ここにスピリチュアル的な視点変換・世界逆転のヒントがあります。マルセイユタロットでいえば「吊るし」のカードに象徴されます。

さて、その寝ている時に見る「夢」ですが、夢にも楽しいものと、つらかったり、恐かったりする悪夢があります。

しかも悪夢にはさらに、まったく非現実的なものと、自分がかつて経験したことが題材になっている、いわば恐怖や不安シーンの再現というような悪夢があります。

なんと、何重にも「二元」なのですね。

ここでちょっと、面白いことを言いますと、自己の体験に基づく(シーン再現のような)悪夢には、これまた見る理由を二元的に考えてみることが可能です。

ひとつは記憶の整理で、そしてもうひとつはトラウマや抑圧している心理の浄化です。

さらにこれに、「起きている時」と「寝ている時」の二元の見方を入れると、理由を強化することができます。

悪夢といえど、結局は寝ている時の「夢」なので、現実に目が覚めると、「ああ、夢だったのか、良かった」と人は安堵します。

つまり、夢は現実ではないという認識が働き、「あの恐いことはもう済んだことなのだ、今は現実ではないのだ」と思い直すことができます。これは記憶のリセットであり、整理なのです。

そして夢に出てきたことで、それをイメージで明確なものとして自分が認識できたことになります。

さらに言えば、それは自分が起床する(目が覚める)ことで、本当に「夢なのだ」と自覚し、「明確」なものになっているのです。

人は奥底で抑圧しているもの、混沌としていて要因や原因のわからないもの、目に見えず自覚できないものには不安を覚え、恐怖します

ところが、認識できたもの、理由がわかったものは自分がコントロールできる支配下に収まり、その瞬間、データは変換され、いわば浄化されるようになります

従って、嫌だったり・あせったりしたかつての経験の「記憶」を、悪夢によって蘇らせ、再び現実に目覚める(普通に起床する)ことで、その浄化を自ら図っていると言えるのです。

何度も出てくるのは、それだけその人にとっては無意識下では重要な記憶である(あった)ということですね。

ついでに言いますと、起床した時に、「やれやれ夢でよかったよ」と思うだけではなく、その記憶と夢で再生できた(させた)自分の修復機能・浄化機能に感謝すると、さらに浄化は加速されるでしょう。

嫌な記憶自体も、時間が過ぎて当事者でなくなっていれば、ドキドキした楽しさだけが味わえるものです。

こここのところは、グノーシス的には極めて重要で、現実での起きていながらの私たちの意識も(人生そのものと言ってもよいです)、実は睡眠と覚醒を繰り返しているという、私たちの状況を一面象徴しているのです。


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