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自分を分身化させる。
マルセイユタロットの大アルカナは22枚あり、これがあらゆるものを象徴させる機能となっています。
そのひとつに、分身化というものがあります。平たく言えば、22人の自分の分身がいると見る方法です。
これのよいところはいろいろとあるのですが、その最大のものは、自分を客観視できることです。
自分の中には、たとえばカードでいう「正義」の人もいれば、「悪魔」もおり、天使で表される「節制」も存在していると考えるのです。
人は神にも悪魔にもなれる(選択することができる)と言われますが、まさにその通りのことがタロットでも表現されているわけですね。
このようにマルセイユタロットを使えば、自分の客観視は容易なのですが、タロットを使わずとも、同じようなことはできます。
さすがにタロットのように何人(22人)もの分身を見ることは難しいかもしれませんが、少なくとも一人くらいは自分でたいてい作り出すことは、誰でもできるでしょう。
それは普段の日常生活の中で、何かを選んだり決めたりする時に登場する「心の中の」声であり、言わば、もうひとりの自分のような存在です。
こういう者が現れると、「迷ってしまう」印象があります。
確かに一面そうしたネガティブなこともあるかもしれませんが、実はポジティブにも活用することができるのです。
自分の中のもう一人の自分を意識していくと、エネルギーのようなものが入り、まるで実在しているかのように感じられてきます。
迷った時に現れたとしても、意見の対立や葛藤をさせるのではなく、相談相手のような形で、「別の意見を言っているのを観察する」「違う考えや発想に、静かに耳を傾ける」というような態度で接してみることです。
たとえばあなたが、「何か新しいことを始めたい」と考えた場合、もう一人自分が、
「また思いつきかい? 今まで続いた試しがないじゃないか」
とたしなめるように言っているように感じても、それを批判ととらえるのではなく、
「そういう考え方もあるよね」「うん、確かにそうだった、忠告ありがとう。本当にやりたいかどうかというのと、継続する力も一緒に考えてみるね」
など、もう一人の自分の声を受け入れ尊重しつつも、最初の自分の意見や選択肢も大切にするという見方をするとよいのです。
それと重要なのは、このようなもう一人の自分を、のべつ幕なしにずっと存在させるのではなく、何か必要な時に立ち現れるようにする(自分が意識する、自分に話すことを許可する)ほうがよいです。
そうしないと、逆にもう一人自分に操られるような感じになり、いったい本当の自分(の意志・意識)はどこにあるのだろうかなどと、妙な気分になってしまうこともあるからです。(実は全部自分でもあるのですが、まかり間違うと意識の統合やバランスがとれなくなるという意味でもあります)
とはいえ、別の自分を意識することで、他人から操られたり、衝動的に動いて後悔してしまったりすることからは影響は少なくなります。
また自動的に多角的視点を得られることになり、今までの次元より上に自分を導くことも可能になります。
慣れれば一人だけではなく、数人イメージして出していくとよいでしょう。
マルセイユタロットでは一枚一枚として出すことも可能ですし、例えば「恋人」カードの3人(+天使)という具合に、絵柄から出現させることもできます。
タロットは、ここでも何度も申し上げていますが、占いの道具というより(それも活用度は高いですが)、能力開発、自己実現、問題解決、意識の統合、霊的な成長などのツールとして活用するほうが本来ではないかと私は考えています。
不透明なカードには大切な意味がある。
タロットには「数」が記されていますが、これは無意味に記されているわけではありません。
マルセイユタロットには、大アルカナ、小アルカナの数カードに「数」があります。
従って、これを数秘術的なもので見ていく(解釈する)ことは可能ですが、単純に、数の大小で区分けしたり、整理したり、まとめてみたりすることもできます。
もはや有名にはなってきていますが、マルセイユタロットの大アルカナの数の順番(大小)には、あるテーマが流れています。
数ですから階層やグループも生じます。そこにまた特別の意味が見い出せるのです。
さて、そうした大アルカナの数の順番に並べていく中で、明らかに前後のカード、または流れからして特殊に見えるカードがあります。
もちろんモノの見方にはいろいろとありますから、どのカードも特殊なポイントや転換点のようにとらえることができるのですが、とりあえずここでは「二枚」のカードを挙げたいと思います。
それは「恋人」と「月」のカードです。(あくまでマルセイユ版を事例として語っています)
このふたつは、何か絵柄のメージ的にも、迷いや葛藤、もやっとした感じが想起できます。
事実、そうした読み方や意味にもなってくることもあります。
もし、カードの数の流れが人生のようなものを象徴していたとすれば、私たちは、生きている中で、すべて白黒はっきりつけられるような明快な状況を経験しているのではないと気がつくことができます。
いや、むしろ現実的には迷いや葛藤が多いのが常です。
そして、多くの人はその状態を嫌悪したり、早くすっきりさせたいとあせったりします。
性格的にも思考的にも、白黒をはっきりつけて生きてきた人、そうすることが大切だと信じてきた人には、「月」や「恋人」のカードには不安な気持ちをかき立てられます。
しかし、さきほども言いましたように、人生は迷いの連続とも言えます。
ですから、そもそも白黒はっきりした人生というものを望めば望むほど、実際とは異なってきますので、それだけ苦しいことにもなりかねません。
仮にこれまで「はっきり」人生で乗り越えてきた人にも、いつか葛藤や迷い・中途半端・二者択一の狭間で悩むようなことが必ず起こってきます。
逆説的に言えば、つまりはそれが人生なのです。そして何事もネガティブな側面とポジティブな面があります。
葛藤や迷い、不透明な時期・状態は気持ちが落ち着かない、妙な感じであるのは確かですが、その分、恩恵もあるはずです。
たいていの場合、それまでの自分を超えるために迷いや葛藤が生ずる事が起こっていると見ることができます。
またそれまでのペースでは超えられないものがあると示唆していることもあります。(ですから時間が必要になったり、リズムの変更が要求されたりします)
「はっきりできない」ということは、今までの思考・レベル・次元でしか物事を見ることができないということであり、それを超越すれば、解決策を得たり、けじめをつけたりすることは可能になるのです。
だからこそ、「恋人」や「月」は全体の(大アルカナの数をもとにした)流れの中でも特殊に位置にあり、また読みにくいこともある絵柄になっているのです。
ふたつのカードとも、その後の(次の数を持つ)カードは明快なカードであることに気が付くでしょう。
葛藤が起こること、悩み事が生ずること、それ自体があなたの成長の現れだととらえると、心も少しは楽になってくるはずです。
タロットカード「悪魔」から「笑い」を見る。
元旦にお知らせしました「お年玉プレゼント企画」その2の、「マルセイユタロット入門講座無料プレゼント」の当選者が先日決定いたしました。
神奈川県のN様がご当選されました。おめでとうございます。講座実施日はこれから調整していきますので、よろしくお願いいたします。なおご応募いただきました方には、全員に結果の通知をいたしております。
では本日の記事です。
タロットの「悪魔」のカードといえば、あまりよいイメージが一般的にはないのかもしれません。
ただマルセイユ版では、絵柄をよく見るとかわいらしい感じさえします。
私の伝えるタロット観では、タロットカードは本来どれも中立で優劣や吉凶はないと考えていますので、ことさら「悪魔」をネガティブなイメージで解説することはありません。
とはいえ、「悪魔」という、大げさに言えば人類の共有するイメージにより、その言葉だけで悪い印象になってしまうことも仕方ない部分は最初はあります。
マルセイユタロットでは、「悪魔」の象徴的意味をきちんと理解していけば、やがてネガティブなものは去り、中立に戻って、さらにはポジティブなものさえ出てくるようになります。
ですから「悪魔」は、タロットによる宇宙や真理理解のバロメーターみたいなところもあります。
さて、そんな「悪魔」のカードのポジティブな意味の中のひとつに、「笑い」というものがあります。
これは少し特殊な読み方なので、これが「悪魔」のポジイメージのメインだとは思わないでください。
ところで「笑う」こと、「笑い」は、一般的に考えられているより、実は深くて高い、様々な効果があります。
まずはなんと言ってもリラックス効果です。
「笑い」によって体の緊張が解け、柔軟性が出てきます。
体と心に密接な関係があることはもはや常識ですが、身体が緩めば心も緩まります。(その逆もあります)
そうなると血流をはじめ、心(精神的なもの)でさえも滞っていたものが流れ出して、スムースで開放的な状態になります。
それから、実は霊的な効果も非常に高いと言われています。邪気を寄せ付けず、まさに福の神が住まうような空間と人に導きます。
ムラの年中行事などでも、古くから「笑い」を(神社や集まりの場所で)行う儀式的なものが行われてきました。
「笑い」は明るいバリアーを作るとも言えますし、凝り固まった(物理的・精神的)なものを流す浄化的な役割も持っていると考えられます。
ということで、「笑い」を生活に採り入れることはとてもお勧めです。
単純に笑うことでもよいのですが、もう少し工夫していくと、そこ(笑い)にはタイミングとセンスが要求されてくることもわかってきます。特に他人に対してはです。
内容がくだらなくても、タイミング的によければ、ツボにはまって大笑いすることもあります。
しかし、基本的にあまりにしょーもない、ベタなものはネタとして笑えるどころか、人を不愉快にしたり、センスが問われてバカにされたりすることもあります。
ということは、「笑い」にも品(格)やレベル、質があるということです。
同じレベルの者は同じ笑いを求め、それで笑い合うことが可能ですが、異なるレベルにあれば、すれ違いで、笑いは起こりません。
つまり、「笑い」も波動なわけです。
このように難しいところも「笑い」にはないわけではないのですが、タイミングとセンスを磨いて行けば、それこそコミュニケーション力を上げるばかりか、精神的・霊的な力も得ることができる優れものなのです。
マルセイユタロットにおいて、「愚者」とともに「悪魔」が出る場合は、この「笑い」を思い、通常からの「脱力」「逸脱」「超越」的事柄を思い浮かべると、リーディングのヒントが得られるでしょう。
タロットの理解と上達のための作業
タロットの理解やリーディングの上達には、意外にシンプルな作業の繰り返しが効果的です。
それは、すべてをタロットで考えるということです。
何事もタロットに当てはめてみるという言い方をしてもよいでしょう。
実際に見たり触ったりできる物事だけではなく、思ったり感じたりした心や感情の部分もタロットになぞらえて象徴させることです。
最初は思いついた時程度でも構いませんが、ある時期には徹底的にその訓練をします。
つまり意識して、意図的に修練として行うのです。
「いつかできたらいいや」とか、「偶然タロットが浮かんできた時に考えてみます」とか、そういう態度ではいつまで経ってもタロット脳のようなものはできません。
タロットがわからないとか、読めないとか言う前に、タロットで考察したり感じたりする物理的時間が自分は少ないのではないかと、まずは自らを振り返ってみることです。
それが上達を滞らせている単純な原因になっていることもあるのです。
これはタロットを例にしましたが、ほかの分野でも同じだと思います。
たとえば西洋占星術ならばサインや惑星で徹底的に象徴させたり、当てはめてみたりする訓練をします。
カバラーならば、「生命の木」のセフィラーの象徴に当てはまるものを書き込んでいくなどします。
東洋ならば五行に当てはめるとか、そういうことをきちんとやってみることです。
なぜならば、そもそも象徴でとらえるということ自体、私たちは訓練されておらず、記号的ともいえる「ひとつの形や表現には、ひとつの回答や対応しかない」という考え方に慣らされてしまっているからでもあります。
タロットの大アルカナ22枚だけでも、しつこいぐらい、いろいろなものを当てはめ、分類してみましょう。
その際、知識の意味だけではなく、感覚や絵柄から来る直感、絵そのものに似ているというようなことも含めて見ることです。
そうするとたった一枚のカードでも、本当に多くのものが当てはまること、象徴されることに気が付き、驚くことになるでしょう。
次に大切なのは、過去や未来などの時間を超え、イメージや感情で自分がタイムマシーンに乗って、カードで表現される事柄を味わうことです。
特に過去の出来事を一枚や何枚かのカードで象徴的にとらえてみましょう。
この作業は、やがてタロットの生身の体験を導き出します。現在進行形で悩んでいること、苦しんでいることも生身体験として象徴しやすいです。
そして、この「生身の感覚」こそが非常に重要なのです。
これはいわば、例を挙げると、「13」を見れば、かつてのつらかったけれども自分が大きく変わることができた経験として、カードを通じてあたかも再現されるかのような感覚となるものです。
この時、カードは生命を帯びることになります。時には「神の家」のような衝撃が走ることもあります。
またあなたは、カードを通して、「あぁ!」とか「うーん」とか、「そういうことだったのか!!」とか、「人生ってすばらしい!」とか、感嘆の言葉を(言葉にならない言葉のこともあります)を述べることになります。
これを少なくとも22枚の大アルカナで経験する必要があります。(レベルや強弱の違いはあります)
タロットは普遍的な原理を象徴しますが、同時にとても個別的であるのです。個別的なものをタロットから生(直)に体験しないと、全体へも飛翔することが難しくなります。
その前段階として、タロットに物事を当てはめ、整理していく作業が重要なのです。
これには感覚と同時に、タロットを知識的な面でも蓄積していくことが、作業を加速させることになります。
迷っている時の、選び方の思考法
何かを決断したり選択したりする時、ふたつの方向性で物事を考えることができます。
ひとつは統合の見方、もうひとつは個別の見方です。
前者は、たとえば「今想定している選択肢を超えたものはないだろうか」「選択肢以外の方法があるのではないか」というような見方をすることであり、時には「選択肢全部が可能」という考え方もしてみるという方法です。
これは自分の次元(レベル)が上がったり、学びや新しい経験による気づきなとがあったりして、今までの思考の枠が破られ、この統合の見方に導かれる場合があります。
一見矛盾したものを統合しますので(それはまるで禅問答の解のようなものです)、この統合の見方による解決が出た時点で、あなたは自分のレベルが上昇したことになります。
逆にいえば、なかなかいい解決策が出ない時は、まだ同じ次元にいるということになります。
ちなみにマルセイユタロットは、この「次元を上げる気づき」をもたらせるのにはとてもよいツールです。
さて後者の「個別にして見るやり方」というのは、簡単に言えば要素の分析です。
ひとひとつの選択肢をバラバラにして解析し、自分の一番大切な価値観(大事にしているもの)は何かを知ったうえで、その価値観と合致するものを選ぶという方法です。
この場合、あちらを立てればこちらが立たずという葛藤や迷いを生みやすいのですが、結局それは自分の今一番大切にしているものが何かということがわかっていないので、迷うわけです。
よくあるのが「理想」と「現実」での葛藤、平たく言えば「安定」と「夢を追う」かの二者択一ですが、夢を追うのが恐いのなら、それは安定を大切にしているほうが少しでも上回っていると言えますので、自分の気持ちや価値観が変わるまでは安定を選んでいたほうがいいでしょう。
安定より夢を追うのが自分にとって価値が上だと信じることができれば、安定の環境から自分を、マルセイユタロットでいえば「愚者」のように旅立たせることができます。
それから「割り切る」という見方も、この個別の要素分析の方法と同じです。
例を示します。
日本の社会では職場、そして学校などの教育現場においてでも、成果(利益、学業・スポーツなどの結果)だけではなく、精神修養の場と混同されているところがあります。
社会自体が精神道場になっているのですね。ですから先生や先輩、上司たちが武道の道場にいる人ぽいふるまい方をします。
これについての良し悪しは言及しませんが、ここで分析の方法が活きるのです。
つまり、自分は精神修養・耐性訓練も兼ねてここ(職場など)にいるのだと割り切るかどうかです。
もちろん給料をいただくために耐えなければならないこともあるのですが、それも「お金をもらいながら精神を鍛えているのだ」と「割り切る」と少しは楽です。
けれども、「私は精神修養をここでは求めていませんよ、あくまで生活(お金)のためです」というのなら、その場でなければ絶対稼げない(お金がいだたけない)ということはないはずです。
またさらには、「これからは人生を精神修養ではなく、実際に楽しみたい」という価値観を持つのならば、やはり精神修養の環境ではない場所を選択したほうが自分に合うことになります。
もっとも、究極的には自分の心(思い方)によって、いかようにでも周囲の環境をとらえることができますので、結局は自分次第であるということも言えます。
何かの選択や決断で迷っていらっしゃる方のご参考までに。