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ガラガラポン!

昨日の「運命の輪」と再生過程の記事を書いていますと、「運命の輪」が音を立てて、ガラガラポン!と回るのを聞きましたので、また続きのような記事を記したいと思います。

先日は、精神的な学びを始めると、自分の再生の道が新たに進み出すという話をしました。

それが「運命の輪」とも関係しているということにもふれました。さらには、それによって生み出される事態が、カードの「13」にもつながるようなことも指摘したところです。

「13」とは何でしょうか?

「13」も実は大きな再生に関連するカードです。大鎌を持ち、骨と皮だけになった人物が何か作業をしているように見えます。

それだけ「大変」であり、大変は「大きな変化」と書くように、大変化のための過酷な環境と作業(実際的なこともありますが、精神的なことも多い)を象徴していると言えましょう。

しかしながら、それは終わりのないものではなく、むしろ終わらせるための作業です。

何を? 今までの自分を、です。

今までの自分を終わらせるわけですから、そこにはつらさや苦しみもあります。

前の方がある意味、楽で快適だったかもしれませんし、以前の方が変化はないにしても安全だったかもしれません。

しかしながら、自己変革を志す者には、その仮の安住の地から抜け出すと決意した時、あるいは、改革の道に入ってしまった時、「運命の輪」が回り、ガラガラポンと一気に新旧の入れ替わりが始まるのです。

その間の過程がかなり当人とってはつらいことであったり、たくさんの問題が噴出したかのように見えたりします。

しかし、それはすべてひとつのこと(根本的な問題)でつながっているのです。これが浄化されたり、解決されれば、今までどこか不安や恐れを抱いて、欺し欺し生きてきた自分と決別することができます。

そのために、ずっとあなたがしまい込んでいて、見えないようにしていた問題、気付いてはいたけれどそのままにしてきた問題や課題、自分でもわからないくらいの奥底に眠っていた問題や記憶・・・これらが現象として次々と連鎖反応的に起きてきます。

まるでスクリーンによって目の前に映し出されるかのような感覚の時もあります。

場合によっては、まったく以前と同じシチュエーション(設定)で、舞台や登場人物が入れ替わっているだけのこともあります。

実は、それは根本の、ある核のような問題が、あなたの今いる場所、思っている事柄などを材料にして、先述したようにスクリーンのように現実に投影(演出)して、実際のことが起こっているように見えるのです。

そうやって考えますと、「運命の輪」は回転する映写機のようにも見えてきます。

ということは、逆に映画ではなく、振り返って映し出す映写機のほうを見れば、あなたに起きている問題は映画のように様々で数も多いかもしれませんが、根本は映し出す機械とフィルムひとつであると例えることができます。

ガラガラポン!の「ガラガラ」がこの根本を拡大投影して演出された映写機によって起こる映像であるならば、「ポン!」はこの根本問題に行き着いた時に入れ替わる(変化する)、自身の心の(浄化・気化した)音だとも言えます。

簡単に言えば、ガラガラポン(死と再生入れ替え)のために、困難に思える事態が生じているのです。

ですから恐れず、きちんと立ち向かうべきです。また、起きている現象すべてにとらわれてはいけません。

「いったい起こっていることが、究極的には何を意味しているのか?」「何を象徴し、自分の何を変えればいいのか?」「何を残し、何を捨てればいいのか?」ということを考察するのです。

混乱し、自分だけでできない場合は、対人援助のプロや客観視できるツールを使う人の助力を得るのもいいでしょう。

あきらめず、自暴自棄にもならず、自分の解体と再生が始まっているのだと受け止め、できることは淡々としながらも、なるべく根本を追求し変化させる姿勢を持つことです。大元を浄化したり、断ったりすれば、一気に問題は解決に向かいます。

よく「どんな状況も楽しむとよい」などという言葉がありますが、苦しい時、大変な時に楽しめるわけがありません。そのような感情が納得しない言葉や状態は採り入れず、つらい時はつらいと思えばいいのです。

ただ、その痛みやつらさの感情の波と事態に溺れないよう、もうひとつの分析的な自分の視点を持って取り組むことです。その場合は「吊るし」と「」がカードの象徴的なものとして活用できます。

特に「正義」から「節制」の7枚のカードは、こうした自身の変革の調整とバランスには、大変重要なカードとなってきます。

「節制」のカードが示すように、まさにあなたの救済役ともなるのです。「13」と「節制」が向き合っているのには、こうした理由もあるのです。

あなたのガラガラポン!がすっきりと終わるように、マルセイユタロットの精霊たちとともに祈っています。

※ちなみにガラガラポンは、その言われとともに「手品師」とも関係し、結局やはり「運命の輪」、そして「世界」とも関連することになってきます。こうした他のカードとの関連が、絵柄の象徴とともに論理的に発見できることが、マルセイユタロットの醍醐味でもあります。


自分の起こっていることを理解するもの。

マルセイユタロットを学び始めた人や精神や心理、スピリチュアルなことを知って、自らを向上させたいと決意した人には、自分の新たな再生の過程が動き出すことがあります。

これはマルセイユタロットの「運命の輪」を見ていればわかることです。

このカードの絵には、「輪」につかまっている二匹の動物が描かれています。かたや上に行こうとする動物、かたや下に向いている動物です。

これらの動物たちが何を象徴するのかは別としまして、ただ絵を見ているだけでも、上に行けば下に行き、下に行こうとすれば上に上がる・・・というシステムになるのはわかると思います。

そして、「運命の輪」にはクランク(輪を回すハンドル)がついています。このカードは「運命の輪」という名前ですから、文字通り、自分の運命を回すハンドルだとも言えます。

自分がこのクランクを回す時(あるいは誰かに回されることもあり)、そこには先述したよう、二匹の動物で象徴されることの、上や下への変化が起こるのです。

ここからは秘伝や秘密になってきますので、詳しくは言いませんが、この状態では確かに変化が生じ、一時的な混乱を迎えます。

中には相当大きな問題や、一度にどっと課題が噴出してくることもあります。

それの「現象」に振り回されていると、いつまでも輪の中で右往左往し、何がどのようなことで起こっているのか、何の意味があるのかということもわからず、ますます混乱するばかりとなります。

そうすると、自分はまさに「運が悪い」「悪い運勢が来ている」と思ってしまうわけです。

実のところ、これは自分で「運命の輪」を回し起こしている現象に過ぎません。

しかしながら自分の統合的発展と成長を志している者ならば、その奥底には、一番最初に述べたように、自己の再生(の過程)が回転し始めたと取ることもできるのです。

ほかのカートでいえば、「13」に象徴されることの場合もあります。

一般的には、人生に起きるただのイベントや問題として認識されることもありますが、インパクトは強く、やはり現実的にも大変さがあります。

これを二匹の動物の立場として、ただ自分が渦中で経験しているだけの状態でいると、その意味についてわかるのは、かなり後になってからとか、時には自分が亡くなる間際、亡くなってからということもありえます。

人はよくわからないこと、不透明なこと、先行きが見えないことに、かなり不安や恐れを感じます。

ですから、ただ起こっている現象に振り回され、意味を考えることもなく、その対処だけにとらわれていると、結局のところ「運」とか「霊」とか、「神」や「悪魔」のせいにしてしまいます。

そうしないと納得できない(心が落ち着かない)からです。

これを学びの観点や、広く高い視野で見ていると、起こっていることの意味、方向性などもわかってきます。

ただそれには道具や道しるべがいります。その有効なものがマルセイユタロットなのです。

なぜならば、この記事自体、マルセイユタロットの象徴から得たことによって書かれていることであり、このように、マルセイユタロットがあれば、見えないこと、わかりにくいことを絵柄によって整理・理解することができるからです。


芸術鑑賞術

芸術の秋ですね。

今、私の住んでいる関西地域でも京都や大阪、神戸の美術館・博物館などで特別な展覧会等が開催されており、有名な画家の絵も披露されています。きっと皆さんの地域にも、いろいろな展覧会は企画されていることでしょう。

ところで、「タロット」もでできています。それも単なる無造作に描かれているわけではありません。

象徴」として意味をもたせて、意図的に描かれているものがほとんどです。特にマルセイユタロットではそれが顕著です。

マルセイユタロットは普遍的な意識の元型ともいうべき対象を象徴化しているため、シンプルで時には平板に絵が見えます。いわば、芸術的な感じがしないと言ってもいいでしょう。

芸術鑑賞としての目的で作成されているわけではないので、それでいいのですが、絵を芸術的に見るということも心にはとてもよく、そうした雰囲気で描かれているものは、象徴というより、自分の感情に訴えかけ、心をなにがしか動かす仕組みがありますので、マルセイユタロットにはない芸術性の感性を、ほかの絵で見ることもよいことです。

タロットには別の意味で心を動かす作用がありますが、それは芸術的な絵画のそれとは違う面があります。

そこで、自分の心に潤いや動きをもたらせるため、美術館などに行って絵画等を鑑賞するとよいです。

そして、ここからがタロットとも関連するのですが、タロット、特にマルセイユタロットを学ぶと、カード一枚一枚の全体性の象徴性以外に、一枚それぞれに含まれる細かな象徴も知識と感覚の両面で、自分の中に蓄積されていきます。

これが今度は、芸術的な絵画を観ることでも生かされてくるのです。

さきほど、タロット、特にマルセイユタロットと普通の絵画の違いについて、その芸術性において指摘したところですが、マルセイユタロットにない芸術的な感応力をほかの「芸術」的な絵画を観ることによって補うことができます。

またタロットを知ると、さらには絵画からはあまり得ることが難しい象徴性による理解も、同時に美術鑑賞しながら叶えることができるようになります。

それは象徴・シンボルの意味をタロットで学ぶからです。

実は、特に西洋画において、ほとんどはキリスト教のモチーフが多く題材として取り上げられ、さらにはギリシア・ローマ神話もよくあるモチーフです。

そしてこれらには共通する「象徴・シンボル」がお約束のようにあり、たとえば天使や神などの描かれ方には決まりがあったりします。タロットも西洋をもとにした絵でできている以上、これと関係してきます。

ほかにも一般的には知られてはいないものの、おそらく作者はその象徴や意味を意識して描いたと思われる部分が、よく観ると結構絵に存在することがあります。隠された絵のメッセージという類のものです。

タロットを知っていると、「なるほど!」とか、「もしかして、この作者の訴えたいことはこれではないか?」とか、推理ドラマのように想像したり、思いを巡らせたりして、ただの絵の解釈だけには留まらない知的好奇心を得ることができます。

象徴の知識で観る美術・絵画の鑑賞は、心の感じ方を中心とする芸術的な見方とはまた別物です。

それは同じ絵でありながら、ふたつの別の絵を見ているかのようなものです。

知識を得るということは、実はこのように、多様なモノの見方を獲得するという意味でもあります。

単純に美しい、きれい、すばらしいという感動をもって観ることももちろんいいわけですが、美術の知識(歴史、時代、背景、価値、構図、色彩、ルール、作者、象徴、審美、神秘などいろいろな知識)を入れて観ると、その数だけあなたは見方を得たということになり、まさに多彩なものをあなたは「感じ」「見て」経験することになるのです。

ということは、何も知識のない人より、何倍もの経験(厚みのある経験)を、あなたは同じ時間にしていることになります。

ただし、知識があることを人に自慢したり、自分はそれだから人より優れていると思ったりすると、逆効果になるので注意です。

知識は自分の経験を膨らませるためにあると思って、やはり素直に、謙虚になって、知識と同時に、心の感じるままに芸術を鑑賞することも大事なのです。

そして一般的な評価は気にせず、人と自分の見方が違って当たり前ですから、自分の感性を大切にし、必ずしもよいと言われている作品があなたにとってすばらしいわけでもなく、その逆に、一般的には有名ではなくても、あなたにはたいそう心に響くものもあるはずです。

それでいいのです。

さらには知識として、一般評価的なモノの見方、価値も比べてみると、ますます面白くなってきます。

正しい・正しくないで見るから一緒に見ている人と争いになったり、優劣を競うようなことになったりします。

芸術鑑賞とは、つまりは、物事の「味わい方」を私たちは学んでいることなのです。


世界旅行の選択、「神の家」を例にして。

マルセイユタロットに「神の家」という名称のカードがあります。

このカードが、ほかの種類のタロットでは、「」と呼ばれて、かなり不吉なカードとして扱われている場合があります。

実際に占いをされる方にはそうしたこと(「塔」を引くと凶意を示すこと)があるものと思いますし、それはある種のエネルギー表現として、見えないそのタロットの世界の集合思念のようなものともつながっていますので、実践においてそういう使い方と解釈をしていると、本当だと実感することもあるでしょう。

要はあるカードが出ると「凶」として解釈されるようなこと(世界・フィールド・表現)も実際にはあるのだということです。

ですから反対に、ある別のカードが出ると、すばらしいことが起こる、吉的なことを象徴するとなって、現実がその通りにリンクする世界もあります。

ただ、私の扱うマルセイユタロットの世界観での「神の家」は、吉凶的な意味をもたせません

そうした表現で見るという解釈ですので、どれが正しいとか間違っているということではないのです。

私のマルセイユタロットの見方では、どちらかといえば、「神の家」は喜ばしい解釈になりますが、これも単純な吉を表すというものでもないのです。

何回も言いますが、吉凶でタロットカードを見ないというのは、これもひとつの解釈と世界観ですので、吉凶でカードを見る占いが間違っているとか正しいとかいう議論とは相容れないものです。

そう思う人にはそうなりますし、そうでないと解釈する人はそういう世界観と価値観のもとでタロットを見ることになります。

そうは言っても、「いや、違うのですよ、占いしていると本当にある種のカードは凶意を示しますし、別のカードは吉兆を表して、クライアントさんも実際にその通りだったとたくさん言ってきています!」という占い師の方も多いでしょう。

これは実際にそうだったから、カードはやはり吉凶を示すと解釈するのが正しいと思いがちですが、ところがやはり、見方によっては、それもどこか違うとわかるのです。

それは、一言でいえば、多元的宇宙の、ひとつの世界をあなたは選択したということです。

つまりカードを吉凶で見て、それが現実にリンクする世界をあなたが選択したのです。(次第にその世界にあなたが移行したと言ってもいいでしょう)

おそらくタロットを習い始めた人にはおよそ理解できない概念かもしれませんが、どうやら私たちは、いろいろ同時に存在している世界のひとつを、その時その時に選択して生きているということが、ほかならぬタロットをしているとわかってくるのです。

いや、それこそも、実はひとつの世界観の選択でしかないのでしょう。

結局、究極的にはどの世界にも私たちは、心や意識の思いと選択で移行が可能であり、修羅の世界に行くことも出来れば、平和な世界にも存在させることができます。

しかしなから、この現実のフィールドは、それだけにいつも様々なレベルや多層の世界が混交していて、人々の思念も複層していますので、絶え間なく様々なエネルギーの影響を受け、自分が確固たるものを持っているように思っていても、やはりどこかで変動してしまような「場」にいると考えられます。

常に一定の世界にいられない仕組みなのでしょう。

とはいえ、自分(の意識・思考・価値観)が選択している世界に一番長く滞在するようにはなっているように感じます。

ということで、「神の家」を例にしていますが、これを「塔」として吉凶的に見て活用していく世界観もありますし、吉凶ではなく、その「神の家」が示すエネルギーを、バランスによる見方によって、解釈を良くも悪くもできるという世界観もあるということになります。

私の教えるマルセイユタロットにおいては、後者ですが、これも正しいとか正しくないとかではなく、あくまで自分の思いによる「選択」なのです。そういう「旅先」を自分が今は選んでいるということに過ぎないのです。

従って、同じ旅のツアーをする者同士が集まりやすくなり、意識も共有されやすくなるのです。

同じ種類のタロットで、同じような意味と解釈をされる方々は、ほかの部分においても共通することが多いのは、こうした理由によるのです。

今まで、違う世界観の旅をしてきた人も、自分の意識が変化するにつれ、新しい世界観でのタロットワールドにツアーや旅先を変更していく人もいて、まさに自分の意識と興味は、自分が習いたい、学習したいと思っているもの、教える人、属している状態や組織の人たちの志向(思考)を見ればわかることもあるのです。


マルセイユタロットの役割

私がお伝えするタロットリーディングの基本に、「相談者(クライアント)が答えを知っており、それを自らが発見・選択する」というものがあります。


タロットリーダーはそのお手伝いをするめに過ぎない存在です。(けれども、タロットの知識と象徴を知らなければ、お手伝いはできません。カードの「節制」の「段階」を見ることです)


これはマルセイユタロットには、その根底に、人は神性(神なる性質、完全性)を持つというグノーシス的教えが込められているからです。


人には人間性、あるいは動物性とも呼べる部分と高次の霊性をともなう神性的部分とが共存しているとも言えます。


残念ながら、普段はたいていその人間的・動物的部分で動かされているところがあります。さらには他人や自然界からの働きかけによる、ある種のエネルギー反応に同調して、知らず知らずの行動をとらされていることもあります。


いわば、人は神性という純粋で完全なものをもちながら、いつも妨害電波に悩まされているようなものと表現できます。


ただ、いつもいつも完璧で正しい判断ができる状態を想像すると、それは果たして楽しいことなのだろうか? クリエティブ(創造的)だといえるのだろうか?という疑問が起こってきます。


いつもいつもクリアーだということは、まったく動きが無く停止した「無」に近いものが感じられることになり、そこに新しい動きや創造性を見ることは難しいように思います。


そこで神なる存在は、私たちにいろいろなハンデイをつけることにより、その制限の中から新しいものを生じさせるアイデアや行動力を見ることにしたのでしょう。


ゲームをイメージすればわかりやすいです。最初から完全無欠のプレーヤー設定していては、ゲームが面白いはずがありません。


特にパーティを組んでイベントを経験していくようなゲーム(ロールプレイングゲーム)は、非常に人生に似ていると言えます。


パーテイを組むというのも、それぞれの欠点をそれぞれの得意分野で補い合うことにより、チームとして完全に近づこうとする行為です。助け合い教え合いという人間社会の縮図を見ることができます。


また起こるイベントは、あるルールや前提条件で発生し、それを経験することで全員は成長します。これは一人のこともあれば、チーム全員のこともあります。


ともかくも、人は制限の中で実は創造性が発揮されることになり、そうした状況に置かれて何か考えや行動を起こすことにより、ひらめき・感動・覚醒(神性との邂逅・接触)が生じます。


つまりは、何もないところに、神性とのつながりを感じることは難しいようにできているのです。


こうして見ると、私たち一人一人、そして地域や国、全体として起こることも、それぞれの規模において成長・発展させるためのイベントであると考えることができます。


そしてあなたの周囲にいる人たち、家族、友人、仕事や社会、地域社会で関係している人、偶然旅先などで出会う人・・・皆相互にイベント要因、助け合い要員として存在していることがわかります。


ということは、一人は誰かのためにあり、誰かはあなたのためにある(いる)ことになります。


すると究極的にはあなた個人、あなたの魂の中の神性を目覚めさせること、認識することに回答があり、あなたが目覚めれば周りの人も目覚める仕組みにあると考えられるのです。


おそらくマルセイユタロットはそのために作成されている(残されている)と、私は今、思っているところです。


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