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ぬいぐるみの大人活用
このブログをご覧になっている方は、ほとんど大人の方だと思います。
ですから今回のテーマは「ぬいぐるみ」だと言うと、大の大人が「ぬいぐるみ」なんて・・・と笑われるかもしれません。
しかし、これが意外にも、「大人のぬいぐるみ活用」というのがあるのです。
まずそれにはやはり、子供と同じように、モノにも心があるというような、唯心論(そういう純粋な気持ち)に戻る必要があります。
いわば、「ぬいぐるみ」と会話する決意(^^;)を自分がするです。それができない、ばからしいと感じる人は、残念ながら今回の記事を読まれるのはやめたほうがいいです。(別にそれが悪いわけではありません)
さて、こうして子供心に戻ったところで、あるいはぬいぐるみと会話してもいいという気分(笑)にある程度なったところで、町に出てぬいぐるみを探しにでかけましょう。探すというより出会うと言ったほうが近いかもしれません。
さすがに大人一人、それも男性では恥ずかしいという方は子供さんや奥様と一緒にでかけるなど、工夫してみてください。(苦笑) 別に通販から入手されるのもいいのですが、やはり現物を見たほうがその後の活用にはスムースです。
するとですね、ぬいぐるみのほうからあなたに語りかけてきます。何かまるで、「ぼく(わたし)をあなたのところに連れって行って!」と訴えかけてくるようなぬいぐるみが見つかるのです。
たとえたくさんの同じ種類のぬいぐるみ中でも、なぜかそのぬいぐるみだけが気になるということがあります。
ただ人の所にいた中古のものではなく、新品のものにしてください。(古いモノはなにがしか前の人の情報が入っていることがあり、その影響を受けるおそれがあります)
こうしてあなたの家に来たぬいぐるみは、実は特別な縁があり、すでにあなたと反応ができやすい状態にあります。
簡単に言えば、そのぬいぐるみはあなた自身でもあり、あなたから現れた別の人格・心のようなものをもった存在と言い換えられるものです。
そのぬいぐるみには魂があると思うことで、まさに本当にそのような存在になるのです。
こうすると、それはモノではなく人のような存在になりますから、あなたとコミュニケーションが可能となってきます。
何かあるとそのぬいぐるみに語りかけるようなことをしていると、反応や答えもありありと還ってくるかのように感じてきます。
もちろんぬいぐるみ自身が意志を持って動いたり、物理的に外見上変化があったりするという(そういうこともないわけではありませんが)わけではなく、心でわかるというようなものです。
そして時々、ぬいぐるみの性格が入れ変わったり、反応に変化があったりすることがあります。
この時は自分に起こることの予知(そうした事態か人間が実際に現れる)であることが結構あります。また自分の投影として、自分自身の今と今後を知ることにもなります。
これはいわば、自分の世界を、ぬいぐるみというものを通してスクリーン化している感覚なのです。
実は同じようなことはタロットでもできますし、タロットカードを人格的に見ることの実感訓練に、人形やぬいぐるみを使うことがあるのです。
それからぬいぐるみを第三者として、自分やパートナー・相手との間、家族間の仲裁や中和の存在として扱うこともできます。ぬいぐるみに別のモノの見方をもった人として登場させるのです。
「あなたはそう言うけど、○○さん(ぬいぐるみの名前)にも聞いてみましょうか」
「(ぬいぐるみがしゃべるように) えー、わたくしはですね、それについてはこう思いますよ、かくかくしかしが・・・」
というような腹話術みたいな使い方です。
これと少し似ていますが、自分の代弁者としてぬいぐるみを活用することもできます。たとえば自分が素直になれない時に、ぬいぐるみを自分にして、本当の気持ちを語るような感じです。
こういうことも、結局は自分(やその場にいる人の誰か)の分身を見ることによって、自分の確認作業を行っているのです。
ですから分身のような(ぬいぐるみ)のような自分がいることにも、驚きと発見があります。
たとえは悪いですが、多重人格を自分で演じて自分で統合・治癒するような使い方に、ぬいぐるみは活用できるのです。
それから自分の中にある多重な人格を統合コントールするには、それぞれに名前をつけることがまずは有効です。
ですからぬいぐるみと会話する前(あるいは過程においても)、ぬいぐるみに名前をつけること、名前を知ることはとても大切です。
思いを実現させるには。
私たち人間は努力家の部分と、その逆にとても怠惰な性質のところとを併せ持っているように思います。
そして、通常では無駄な力を使わないようにできているせいか、人は現状維持や何もしない選択をしがちです。
そのままでとりあえずは命が奪われるわけでもなく、生活が何とか普通にできていれば、ことさら何かを変えたり、自分が行動したりして新たにエネルギーを消費することもないと、人の防衛本能のようなものが判断をしていると考えられます。
従って、たいていは以下のような言葉をもって、事態を先お送りにします。
「いつかやってみたいね」「そのうち何かなるでしょう」「退職して、自由になったらやってみます」「お金がもっと貯まればやってみようかな」「今は無理だけど、将来はそうなってほしいね」「いつか、○○になれたらいいな」「私を救ってくれる人が現れるといいな」「ソウルメイトと将来出会えるかも」・・・などなど。
実際、現時点では実現困難なことというのはあります。それでも、きちんとしたビジョンや計画性があれば、確かにそれは「将来に」叶っている、「未来に」実行できる性質のものとなるでしょう。
しかしながら、ただ漠然と思っているだけの場合は、ほとんどそれは実現することはないと言っておきましょう。この時に使われる「将来」や「未来」はポエム的なものであり、実現性は乏しいと言わざるを得ません。
なぜならば、人の思い(の強さ)は行動に結びつき、それが現実での材料を集める(建築・構築・構成)ことにつながり、最終的に思いに起因した結果を生み出す仕組みがあるからです。
よく「思考は現実化する」と言いますが、ある面それは真実のところがあると私は考えています。(ただし、単純に思いがすべてその通りになるという意味とは異なります)
私たちが何かの結果を出す際には、イメージや心、思いから入って行動します。それは日常的で簡単なものには、ほんの一瞬で終わることなので、わからないだけです。
これとは逆に、行動していれば目的が見つかり、結果も出るという考え方もあります。
実はこれも行動の前には何かの小さな目的やイメージがあり、次にひとつひとつの行動による結果の確信(結果が目的とつながっていく確信、結果と目的の関連性の把握)があって、次第に大目的(本当にやりたいことなど)が見えてくるという順になっていると想像できます。
すなわち、大なり小なり、思考が元になって行動とともに結果が生み出されるということなのです。
ということは思考がいかに結果を出すには重要かということです。
これ(思考)も強ければよいというわけではありません。大切なのは望む思考が整理されているかということです。
強い願望(望みの思い・考え)を抱いていたとしても、それが罪悪感やトラウマ、反対に自分の良心や道徳心と葛藤していたならば、それは整理された望みとは言えません。
葛藤した想念の場合、その強さは思わぬ方向(自分の理想とは違う結果)に導かれることもあります。
この思考の整理には、思いを純粋化するということと、望む目的をいったん抽象化し、さらに具体化していくという作業が有効です。
純粋化するということは、相反する望みや心の声を整理し、時には削ぎ落としたり、葛藤を中和させたり統合させたりする作業のことを言います。
抽象化させたのち具体化するというのは、マルセイユタロットがあれば説明しやすいのですが、簡単にいえば大目的と中目的・小目的にように望みの実現段階をわけるということです。
さらにもっとも大切なのは、目的と同じ質が表現されているものを、現状で発見することなのです。
おそらく最後の文章は何を言っているのかわからないと思いますが、この解説は以前、私のメルマガ(タロット受講生・修了者用)で行いました。マルセイユタロットを習っている方に説明すれば、実はわかりやすいものなのです。
いずれにしろ、ただなんとなく、「いつか実現すればいいなあ・・・」と思っているのではなく、本当にそれが望みならば、その行動を今からでもできる範囲でやっておく必要があるということです。
そうしないと、一番最初に言いましたように、人間は現状を保存・維持する自動機能のようなものがありますので、本当に「気がついた時が棺桶の中」ということにもなりかねないのです。(生きている時に気がつく重要さは、マルセイユタロットの「審判」のカードにも描かれています)
繰り返しますが、今すべてが実現できるのではありません。(それは「望み」ですから、今に実現できていない、すぐに実現できないのは当たり前です)
それであきらめたり、漠然と先送りにしたりするのではなく、少なくとも、その種を蒔いていく思いと行動をするということなのです。
マルセイユタロット基礎講座のご案内(新大阪)
秋は学びの季節とも言えます。
いよいよ秋期のマルセイユタロット講座(基礎・ハイクラス)の受講者を募集いたします。
そもそもマルセイユタロットを知るとどういうことになるのか?ということにつきましては、今までもこのブログでたくさん書いてきましたが、一言で言いますと、自分のモノの見方が変わり、それに従って心が穏やかになったり、現実的にも変化が生じたりします。
そもう少しその構造(システム・サイクル)について記しますと、
0.今までの自分の考え・思い・見方がある(確認)
1.マルセイユタロットを学習する(0段階のものとの比較・検討)
2.新しいモノの見方・発想力が得られる
同時に、これまでのことが整理できる(整理・取捨選択)
3.自分の目的と、やるへき具体的方向性がわかる(統合・集中)
4.行動が起こしやすくなる(現実への働きかけ)
5.結果が出る(これまでと違った結果が起こせる)
というものです。
この中で特に重要なのが、2から3に至る部分です。物事を整理し、時には心理的な浄化も図り、新しい知識と常識超えたインスピレーションを得ることができ、それが特にマルセイユタロットだからできるという部分があるのです。
それはマルセイユタロットが極めて精巧な、宇宙(人間でもあります)の縮図・モデルとして作成されているからです。いわば普遍的な真理に近いものに近づくことができるのです。ですからマルセイユタロットを学べばありとあらゆることに適用・活用が可能になり、汎用性をもった統合ツールとして、一生の宝にもなります。
そのマルセイユタロットを本格的に学ぶチャンスです。少人数制で個性に応じた内容も提供させていただくため、募集人員はわずかです。マルセイユタロットを学ぶ人には特別な縁があるとも感じています。意識・無意識に関わらず、変革期にある方はマルセイユタロットに導かれることでしょう。
◆マルセイユタロット基礎講座(ハイクラス)◆
講座の内容については、ブログメニュー「サービス内容」の「基礎講座」
ハイクラスの項目をご覧ください。
●日程
10/14,10/21,11/11,11/18,12/9,12/16
いずれも日曜、合計6回 10:00-17:00(日によって若干の変動あり)
※日程につきまして、参加できない日の補講、あるいは他の曜日でのコース設定などのご相談に応じますが、この日程で受講できる方をまず優先します。
●場所
大阪市内 新大阪駅徒歩圏内のマンションルーム
お申込みの方に詳細はお知らせします。
●募集
3名程度
●料金
15万円(タロット、資料代込) 分割制度あり マルセイユタロットをすでにお持ちの方は割引できます。
また当方のカルチャーセンター講座修了の方は、割引価格13万円になります。
●その他
受講お申込み者には、事前受講ヒアリングを行います。受講の目標や、今問題になっていることをお聞きして、私のほうでタロットリーディングしたものを面談で解説いたします。これは少人数制で、受講生の個性に応じたものを考慮・配慮するためのものです。また受講にあたっての疑問や不安な部分を解消する目的があります。
●お申込み・お問い合せ
こちらからメールにて
、もしくはこのブログの「お問い合せ」からでもOKです。
※カルチャーセンター受講後に、基礎講座をさらに受講されたい方はご相談ください。ノーマルクラスとハイクラスのどちらでも選択可能です。教室の手配が難しい場合もご相談ください。当方で手配できる場合があります。
学びのうえで、人間性をどう見るのか。
人から何かを学ぶ場合、人と(学ぶ)技術・知識を区別するかどうかを自分に見ておくとよいでしょう。
それは、
●学ぶ時はその教える人の人格や人間性も考慮する
●人間性とは関係なく、純粋にその人の持つ技術・知識を学ぶ
これらをきちんと区別することができるかということです。
どちらがよいとか悪いの問題ではありません。自分の学びのスタイル・志向の問題であり、もっといえば自分の価値観によるものでもあると言えます。
自分は何をその学び・学習において大切にしているのか、ここをはっきりさせることが重要です。
意外に多くの人が誤解しているのは、人間性にすばらしい人がモノを教えるにふさわしいというものです。
もちろん人情としては、やはり人格的にも尊敬できる人に物事を教わりたいと思うものです。誰も極悪犯罪人に教わろうとは思いません。(反面教師とか別の意味で教わるという意味ではなく)
しかし自分の技術を高めるためには、教える人がどんな人かは関係ない、極端なことを言えば、それは人ではなく動物でもよいという立場・状況もあるのです。
さきほど犯罪人からは教わりたくないのが人情だと言いましたが、これが教わる側も犯罪に対して何の抵抗もない人物であり、むしろその技術(たとえば泥棒の技術)を高めたいと考えている者なら、相手が一般的にひどい人間だろうとそれは問題ではなくなります。
すなわち、自分の価値観(重要・大切だと思っていること・考え方)によって、どうとでも変わるものなのです。
ということは、学習の過程で、「この先生はいいこと言う、すばらしい」と自分が思えば、それは自分の価値観に添っているということになり、もっと分析すれば自分もそのように考えているところがある証明になりますし、反対に「どうもこの先生のここは嫌だな、違うな」と感じれば、それも自分の価値観とは異なっているということになります。
しかし、もうひとつ大切なことがあります。
人は自分の価値観に添っていないことは関心がないか、注意を向けようとはしないものですが、それだけに、まさに自分の価値観によって自分の世界が現状できあがっていることにもなるのです。
学びというものは、この自分の今の価値観による「自分の世界」を変えるチャンスでもあるのです。
今まで自分が価値をおいていたもの、あることに価値があるという考え方をしていたものが、学びにより、新しい価値観に変わったり、今までとは異なる価値の見いだし方が創造されたりします。
先生が語ることに違和感を最初は持っても、よくよく考えてみると、そういう価値の置き方・考え方もあるのだと自分で気が付く場合があります。先生の価値観に感応されると言ってもよいでしょう。
もちろん、価値観は人それぞれで、これに正しいも悪いもありませんし、やっぱり自分とは、どうしても相容れないことを言われる先生もいらっしゃるでしょう。
ただ覚えておいてほしいのは、人の価値観を見ることにより、自分の価値観をチェックできると同時に、別の見方と価値の発見にもつながるということなのです。
自分の価値観を変えるのも、そのままにしておくのも、その選択は自分次第ですが、世界は多様性でできるていることを知るきっかけになります。
さて最初に戻りますが、学びにおいて、教える側の人間性を入れるかどうかは、学びの目的と自分の価値によるということを繰り返しておきます。
そして人間性を入れて学ぶという立場を取る人も、心しておきたいのは、完璧な人はいないということです。(しかし人は誰でも深くには「完全」ではあります、このことは今回はあえて深くは言いません)
誰しも長所があれば欠点もあります。そうやってバランスが取られています。先生に過剰な期待感やあこがれを抱くのは、実は自分のバランスが崩れているのです。逆にある先生に過度にダメだしするような時も、自分の中でアンバランスなものが働いています。
あなたが授業で見せている部分が一部分であるように、先生や講師が講義で見せている「人間性」もその人の一側面です。
この先生はダメだと思っても、ほかによいところは必ずありますし、たとえある授業を受けて失敗したと思っていても、別のことでそれに匹敵するよいことがあります。その逆もまたしかりで、すばらしい講義だと思っても、あこがれすぎると、やはりそれに応じたマイナス面ももたらされています。
学ぶということは、その内容だけではなく、教える側と教えられる側の関係性なども含めて、本当にいろいろと勉強になることなのです。
そして、どちら(教える側・教えられる側)も謙虚さは忘れないようにしたいものです。
「幸せ」をタロットともに考える。
今日は何となくですが、「幸せ」というものをテーマに書いてみたいと思います。
まず意外にわかっているようでわかっていなのが「幸せ」という概念です。
みんなが幸せになってほしいという言葉や主張がありますが、一方で全員が全員、幸せになれる思想というものはあるのかと問われれば難しいものです。
幸せと思うことというのは人によって違いがありますよね。
たとえ等量のものに囲まれていたり(たとえば同じ量のお金を持っていることなど)、同じ状況にいたりいたとしても、ある人にとっては幸せと感じるかもしれませんが、別の人には不幸だと思うこともあるからです。
こうなると、幸せというものは結局、個人の思い方・感じ方にあるということになりそうです。
ということは、どんな時にでも幸せと感じる気持ちを持てるようできればいいことになります。
これには前にも書きましたが、知識や経験を増やして意識を拡大させることによって「こういう楽しさ、見方もあるのか」ということでできますし、反対に自分がこれて不幸せだと感じていたことを思い直すことができたり、浄化・中和したりできれば、過剰な分のマイナス感が消えますので、その分幸せと思うプラス感は増えることになります。
それはさておき、タロットをしてきて思うのは、今より幸せを感じる早道は、案外「正義の問題」と関係しているということです。
これは簡単に言えば、正しいか正しくないかを求めるより、それが自分にとって幸せ(別の表現にすれば心地よいとか楽であるとか)である(になる)かどうかを選択するほうよいのではないかということです。
ただし幸せと感じる方を選択すると言っても「逃避」とは違うので、注意が必要です。とはいえ、時には逃避でさえ、正義を求めるよりも幸せに近づく場合もあるように思います。
実は本当の正義とは、まさに自分の奥底のもの、神性ともいうべきものにとっての正義と考えられ、それは自分の心を痛める正義ではないということになります。(心痛める正義とは、その時に「常識」と言われていることや規範、誰かの決めたこと、心を閉じこめるルールのようなものです)
ですから、真の意味で正義を求めることは、幸せに近づくことと同意義だと私は考えています。
このことはタロットの並びや、「正義」のカードとの関連を考察していくとわかってきます。
それから、まずは人の幸せより自分の幸せを追求し、実践していくことだと感じます。
あまりにもバランスの崩れた利他主義は過度の自己犠牲につながり、それが心からのものであればよいかもしれませんが、たいていはどこかに損得勘定が働いています。(それが悪いと言っているのではありません)
「これだけやっているのに、どうして私に見返りがないのか」という思いです。
そういう気持ちが起こるのならば、単純に自分の幸せを先にもっと求めたほうがいいです。誰のための人生でもなく、自分のための人生なのですから。
自分のための人生を、しっかりと責任(これは他人への責任という意味ではなく、自分が選択し実行することへの自分への責任)を取って歩めば、結果的にそれが他人や社会への貢献につながっていくものです。
ことさら人のためということを意識せずとも、素直に自己表現を行っていくことで、他人のためになるのです。
それにはやはり自分が幸せと感じるシーンが多くなることが大切です。
自分が幸せと感じれば感じるほど、他人の幸せを感じることもできます。そしてまだその人が幸せと感じていないことも発見して、それを伝えることも可能になってきます。
これがまさに「幸せの輪」が広がるということではないかと私は思っています。
マルセイユタロットは、自分のモノの見方・考え方を変えます。そして幸せ(究極の状態は「世界」のカードが示しています)に至る道筋やあり方をカードが示唆します。
これによって、自分の幸せと感じる質と量を増やすと同時に、先述したように他人への幸せを見つけ、そのことを伝えていくこともできるようになるのです。