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リーディングのタイプ
まずお知らせです。メルマガ配信をお待ちいただいている皆様、すみません。いろいろと重なってしまい、配信が遅れそうです。配信する際はブログでもお知らせいたしますので、今しばらくお待ちください。
さて、私のタロット講座では、マルセイユタロットの知識とリーディング技術をお伝えしています。
タロットリーディング自体はいくらでも単純化できますし、その反対の複雑化することも可能です。
ただ、私の講座ではせっかくタロットの知識的なことも学ぶのに、リーディングがあまりに単純だと、習得した知識を活かしきれなくなりますので、最初は単純でも、比較的複雑なものに移行するようにしています。
とはいえ、「リーディングは難しい」という受講生の方の声も聴くので、もっと「自分が読める」という実感をもってもらうシンプルな作業の過程も必要かなと思っています。
何事も簡単なこと・シンプルなことをよく理解したうえで、複雑なもの・難しいものに進むことができるからですね。
また受講生の方でも、複雑に考えすぎず、ますばシンプルに、方向性だけわかればよいという気持ちでやってみるとよいでしょう。方向性というのは、右か左かとか、拡大か縮小かという二極のエネルギー方向です。
それさえわかれば、たとえば拡大方向ならば「新しい仕事に進むこともOK」と、具体的なことに当てはめることも後でできるようになります。
それから、ただ二極の方向だけではなく、中立の状態や何もしない選択、様子見、待っておくという選択肢をリーディングで想定しておくとよいでしょう。
そうして、大まかなものからさらに知識的、感覚的なことを含んで、さらに複雑にタロットを読むことができるようになるのですが、私は皆が皆、同じ型でリーディングしなくてよいと考えています。
いえ、最初はある程度の型やセオリーを学ぶ必要はあるのですが、人は個性(自分らしさ)をそれぞれ持っており、それが表現できていることに喜びを感じます。
従って、リーディングにも人それぞれの特徴があり、その個性に応じて自分らしいリーディングができればよいのだと思うのです。
要は、クライアントや自分にとって答えや気づき、示唆が得られればよいのですから、目的の上ではやり方はそれほど意味をなしません。
教えられたリーディングの型が自分に合わなかったら、最終的には変えてもいいのです。
それでもある程度、人には(リーディングの)タイプがあり、およそ4タイプにわかれると想定しています。
たとえ誰かのリーディングが優れていても、自分にはそのスタイルは合わないこともあるのです。
逆に言えば、その自分の特質が初期のうちからわかっていると、速くリーディングできる(上達する)場合もあります。
自分の特質を知るには、実は同じタロットの種類と技術でリーディングする人をたくさん見ることです。
なぜなら、ほかのパターンを多く見ることで、自分と他者とを比較・検討でき、自分のタイプがどれなのかを確認することができるからです。
私が行っているタロットリーディングの実践会(学習会)には、単に実践の勉強をするということだけではなく、この自分のタイプを確認することなども含めて、様々な意味を込めて行っています。
講座を修了された方は、案内があれば、是非参加してみてください。
「愛」の気づき方
どんな世界でも「愛」が大切だと言われます。
スピリチュアルな分野では、宇宙や神は「愛」しかないという人もいます。
そういわれると実はシンプルな話(結局は「愛」となりますので)になり、心が楽になることもあります。
一方で、「愛とは何か」とか、テーマとして深く見つめていくと逆に複雑になってきます。「愛」について考えすぎると、心が苦しくなることさえあります。
こう書きながらも、思わず自分自身笑ってしまいました。なぜかと言いますと、タロットなど、古代的な象徴を理解していくと、物事は単純で、かつ複雑であるという宇宙の本質や真理が見えてくるからです。
実は今回の記事では宇宙は「愛」なのか?ということを考察しようとしていたのですが、図らずもいきなり結論が出てしまった感(「愛」はシンプルで複雑であるため)があります。ですから笑ってしまったのです。(^^;)
そう、象徴的に見れば、物事はすべてシンプルなのですが、その表現や次元(レベル)の違いによって、多少、大小、明暗など千差万別に変化するものなのです。
仏教的に言えば、すべては仏の慈悲の表現、西洋的には神というひとつの偉大なものが、化身や天使(使い)と現れるみたい形です。
神のような大きな愛、究極の愛を求めれば不足や至らなさをに感じるかもしれませんが、自分なり、相手なり、状態なりによって、「愛」の表現はどこにでも、どんな時にでもそのレベルに応じて遍在していると言えるでしょう。この考え方に立てば、皆「愛」です。
とはいえ、いきなり大きなもの、レベルの高いものに一足飛びに到達することは、ほかのことを思ってみても難しいことは誰でもわかるでしょう。
愛するということは、愛(の表現・物理的には形にもなります)を発見する能力を磨くということでもあります。
愛が何なのか、どういう質でエネルギーは何なのかを感じ理解しないと、同質ものを自分や周囲から発見することは困難です。
しかしながら、意外なことですが、「それが愛なんだよ」と言われて初めて気がつくことが人にはあるのです。
「こんなものが愛だったなんて!」と驚き、知るのです。それは本当に些細なものなのです。
例えば、私はこの前、通っている整体師の先生から「打ち身は放置しているとよくないので、打ち身すると手を当てるとよいですよ」と教えられましたが、それ以来、どこかに足や手をぶつけたりした場合、自分の手をその箇所に当てることをしています。
すると、その自分の手の温かさ、エネルギー、いたわりが突然自分の心に響いてきたのですね。
まるで自分の体が、お互いに「ありがとう」と言っているような感覚です。その時私は、これは「愛だな」と気がつきました。
単に手を当てただけで、そこに小さいとはいえ「愛」があったのです。(正確には気付いた、発見した)
すると自分の体に宿る愛とエネルギー、それはいったいどこから来ているのかということを思うと、レベルの高いものに少しだけ近づく感じも起こります。これはまるで象徴によって根源の一部にふれる感覚と似ています。
「私は自分を愛せない」「人を愛せない」「愛なんて大げさな・・・」と思う方は、本当に局所的な部分、わずかな時間でもよいので、注意深く「愛」の発見に努めてみるとよいでしょう。
「愛」と思うから大変なのであって、労り、気遣い、注意、温かみ、穏やかさ、守る気持ち・・・など誰しも持っている表現している些細なことからの発見でよいのです。
大事なのは、「在る(どこにも存在する)ことに気付く」ことですね。
そして注目すれば、人にはその情報を集める機能が働きますので、自然、あなたの周りには「愛」が集まってくる(もともとあったものに気がつく)ようになります。
「世界」の幸せと「悪魔」の幸せ
マルセイユタロットは、どのカード同士でもペアとして見ていくと、いろいろな気づきが起こるような仕組みになっています。そのことはここでも何度か実例をもって書いていますよね。
今日もその類の話になります。
「世界」のカードと「悪魔」のカードには、一見ほとんど関係ないように見えて、象徴の絵柄の意味を知ると、その関連性を発見することができます。
それはひとつやふたつではないのですが、今回取り上げるのは人の「満足」と「幸せ」に関係することです。
「悪魔」の幸せと、「世界」の幸せではどちらが上かといえば、一般的な想像と同じく、それはやはり「世界」の幸せでしょう。
ですが、マルセイユタロットのひとつの考え方では、すべては「世界」のカードに至る過程や表現としてとらえるものがあります。
この見方に立てば、「悪魔」の幸せは「世界」の幸せの前段階になるので、確かに劣っていることにはなるのかもしれませんが、逆にいえば、「世界」の幸せに至るためには「悪魔」の幸せを経験(理解)しなくてはならないという意味にもなりえます。
「世界」の幸せが究極で完全なものだとすれば、それは神の幸せ(の境地)と言ってよいものかもしれません。
では、「悪魔」の幸せとは何でしょうか?
マルセイユタロットの解釈やリーディングにおいて、わからなくなったり、迷ったりした時は基本の「絵柄」に立ち返ることです。
ここで両者のカードの絵柄を比べてみますと、「悪魔」は悪魔を中心とした人物に、二人の小さな人間らしき人たちがつながれて、笑いあっているような図柄になっています。
一方の「世界」は、周囲を4つの生物に囲まれ、真ん中の人物が軽やかに踊っているような姿で描かれています。
形でいうと、「悪魔」は三角形、「世界」は四角形と円が浮かんできます。
ここから見れば、「悪魔」はまさに悪魔が中心で、悪魔の幸せこそが大事だと感じられます。つながれている二人の人物の幸せと、悪魔の幸せはおそらく異なるものです。(悪魔が舌を出していることに注目)
逆に「世界」は内と外、周囲の自分との幸せが一致して、さらに拡大しているイメージがあります。
こう書くと、やっぱり「悪魔」は不完全で「悪」なのだと思う人もいるかもしれませんが、先にも言いましたように、「悪魔」が「世界」へのステップだと考えれば、まずは「悪魔」的な幸せ感・満足感を人は得る必要があるとも言えます。
一見エゴを満たしているとも思える「悪魔」の幸せと満足ですが、悪魔と一緒の二人の人物たちもやはり満足しているように描かれていることが重要で、人を幸せするには、なにはともあれ、自分の満足・充足を感じることが大切だと示唆しているように見えます。
そう思うと、本当は自分は幸せではないのに、無理矢理納得して演じたり、人にも自分の価値観を押しつけようとしたり、共有させようとしたりしていないかということが思えてきます。
自分がまず幸せになること、自分を満たすことを目指し、その姿でほかの人たちも喜びを感じるというイメージが「悪魔」の図柄から浮かんで来るのです。
それでもまだ「悪魔」がいわゆる悪いイメージの悪魔に見える人は、こう考えるとよいです。実は「悪魔」の中にも「世界」(のカード)があり、「悪魔」のレベルで「世界」の象徴を実現していくことができるのだと。
それは「世界」そのものの象徴とは異なるけれども、次元や表現を変えた「世界」にほかならず、それが「悪魔」(「悪魔」だけに限りませんが)のカードの段階レベルで成すことが求められているということです。
簡単にいえば、世界平和を願う前に、自分の身近な範囲の平和に向かってできることから始めるということでしょうか。
エゴを捨てるということばかり言われますが、「悪魔」の二重の意味は、エゴを満足させる仕掛け(フリ)をして、実はエゴを欺く(「悪魔」には欺す、欺瞞的な意味もあります)ようにエゴを浄化するということも考えられるのです。
ちょうど、仮面にエネルギーを注入すること(仮面を意識すること)で、仮面が仮面として独立し、だからこそはがれやすくなるというのと似ています。
「自分を愛する」というと難しく高尚になってきますが、その低次の段階では、エゴに近くなってくることもあるのです。でもそれが自分を(他者も)愛するという高次のことにもつながっています。
この低次と高次の表現方法の違いと、高低を貫いている同じ原理・柱を見破ることが非常に重要です。それはマルセイユタロットのような高度な象徴道具を手に入れるとわかってくるようになります。
「愚者」タイプの人へ。
先日、四国高知に、スタッフとして協力していただいているマルセ氏とともに行ってきました。
これは「旅+タロットお話会」企画として実施されたものです。タロットを習われた方の呼びかけで、大勢の方に集まっていただき、楽しい時を過ごすことができました。高知の皆さん、ありがとうございました。
また今後、全国各地、皆さんのところにもタロットをかばんに入れて参るかもしれません。こうなると、まるでカードの「愚者」ですね。(^^;)
ところで、「愚者」の話が出ましたので、今日はカードの「愚者」に関連する話を書きたいと思います。
「愚者」はまさに「旅」を象徴している絵柄であり、このカードを引く人は、たいてい自由な精神をもっているか、実際に旅や移動を繰り返す人生・仕事であったりします。
もちろん、普通の生活をしている人、ちょっとお固い人物でも、時と場合によって「愚者」のカードを引くことはあります。
言ってみれば、誰にでも「愚者」(の心)は備わっているのです。
ただやはり、明らかに旅や放浪が好きな「愚者」タイプの人と、通常の暮らしをメインとするそうではないタイプの人がいるのも事実です。
どちらのタイプにもそれぞれの良さがあり、いいも悪いもありません。大切なのは、自分がなぜそのような傾向やタイプであるのかを思い、その特質を活かした生き方と貢献を考えることです。
つまり、自分の個性や持って生まれた気質というのは天から与えられたものなので、無理に修正したり、忌避したりするのではなく、いい意味で伸ばすこと、活用することを目指すのです。
「愚者」タイプの人が実際に若くして旅を繰り返し、全国どころか世界中を回り歩くということも珍しくありません。いや、むしろ「愚者」タイプであるのなら、ほぼ必ずと言っていいほど「旅」の遍歴を重ねていることでしょう。
それが自分探しの旅のこともあります。そもそも「愚者」もある目的に従って旅をしており、旅をすること自体が目的ということもあるのですが、それとは別に本当の目標も存在するのです。
それはつまるところ、自分の、人間としての崇高なる完成にあります。
このことをカードから学べば、「愚者」タイプの人ももちろん旅をすることはよいことなのですが、いつまでもふらふらと無目的に続けているのではなく、旅をしながらでもよいので、自分の完成に至る真の目的を発見する、あるいはそうした気持ちを持つことが大切だと考えられます。
そして「愚者」というのは各地、各レベルを探訪している人なので、固定された場所(定住)や考え方(常識)にいる人にとっては、異色な存在となります。
民俗学でも言われていることですが、昔から、ある区域(ムラ)に来訪神(人のこともあり)が現れ、その地域内にインパクト・刺激・外からの情報を与えて去っていくというパターンがあるのです。
これは良いものと悪いものがありますが、いずれにしても既成概念を打ち破る外からの衝撃となります。この意味では、カードでいえば「神の家」や「13」も関係します。
「愚者」タイプの人はこの役割があると自覚することです。いわば、膠着した世の中・人々に自由と解放をもたらすイノベーターであり、教育者でもあるのです。
「何を自分がしたらいいのかわからない」「自分が何者なのか探したい」と言って「愚者」タイプの人は旅を続け、放浪して行きます。
しかし、その旅をする姿そのものがあなたであり、いろいろなことを見聞するために「旅をさせられている」のです。
もうすでにあなたはあなたであるのですが、簡単に「自分」ということがわかってしまえば、旅をしなくなるかもしれないので(笑)、神様はあなたに旅の衝動が起こりやすいよう、人一倍の好奇心と自分探しの欲求を植え付けていると言えましょう。
ここでは横の移動による「旅」について主に言及していますが、それだけではなく、縦の次元の旅をする人もおり、これはその場にいながらも自分の経験(レベル・次元)が変わっていくような人です。こういう「愚者」タイプの人もいます。
ともかく、ずっと旅をしてきた「愚者」タイプの人は、そろそろ立ち止まって、ある「場所」やある「人たち」のところで、あなたの経験したきたことを話す必要があります。
もちろん根が「愚者」のあなたは、そこの場所に安住することなく、再び旅を続けることにはなるでしょう。それはそれでよいのです。
そうしながらも、あなたが旅をしていること、そういう気質であることを振り返り、それを社会や世界に貢献する方法も考えるとよいです。
「愚者」のカードを見ると、「愚者」は決してひとりぼっちではなく、後ろに「犬」がついてきている(あるいは引き留めている)ことを考えると、「愚者」タイプの人にとっては何かの示唆になるかもしれません。
自分の状態による時間と外の時間との調整
マルセイユタロットでは、時間を特に象徴するカードは「運命の輪」といえますが、ほかにももちろん複数ありますし、時間をテーマにして22枚の大アルカナでそれぞれ考えていくことも可能です。
その中でも、「運命の輪」以外で特に取り上げたいのが「節制」です。
詳しくは述べませんが、「節制」も「ある時間」に関係するカードです。
ところで、私はうつ病や不安神経症を経験したことがありますが(その頃の話は記事カテゴリ「うつ 心の健康」をご覧ください)、このような心の不調で顕著に見られるのが、時間感覚のズレです。
私の場合は、おそらく脳内ホルモンの何らかの不調和によるものと推測される、安心・穏やかさを感じさせる物質分泌が不足し、激越なイライラ症状が出現しました。
こうなると、外の時間は止まったまま、内の時間は著しく進んでいるような感覚で、生き地獄のようなことを経験することになりました。つまりはイライラがとてつもなく激しく内には起こり、めちゃくちゃ心はあせっているものの、外は何も変わっていないという状況です。
これは極端としても、一般的に不安が増すとあせりも増加して、内なる時間感覚を急速に進ませようという意識が働きます。有り体に言えば、あせりのために待てない状況になるのです。
これはビジネスなどでも利用され、「残りあとわずか!!」と書くことによって、見ている人、迷っている人に心理的あせりを生みだし、時間を速めて決定を急がせようとします。
反対に心に満足感・充足感を感じている人は、たいてい内なる時間はゆっくりと流れ、穏やかになっています。究極的には眠りのようなことになる場合もあります。
ただ外の時間は普通に進んでいますので、いい意味で外とのギャップが生じ、つまりは心理的には年を取ることが遅くなります。このため充実した人生にいる人は、若く見られることもあるのです。
しかし逆に少年少女期に贅沢な満足を味わいすぎると、内なる時間は遅く進んでいますので、精神的に幼いままということにもなります。
実はこうした内と外の時間を調整することを見るのが、「節制」のカードだといえましょう。
「節制」のカードの大きな意味のひとつには、「救済」というものもありますから、この時間調整が働くと、自他の救済にもなることが示唆されます。
自分の心の状態を思い、あせりや不安がある場合は自分の感じている時間を遅らせ、逆に満足に浸りすぎている時や保守的な気分で満たされている場合は、もう少し判断を速めたほうがよいと言えます。
別に外の時間(一般に流れている時間、クロノス時間)と内なる時間(自分の感覚時間、カイロス時間)を一致させよと言っているのではありません。
この違いを意識して生活していくと、自分の調和の方法もわかってくるということなのです。
ですから、あえて内外時間を一致させなかったり、自分時間・カイロス時間で過ごして行ったりすることもありなのです。
ただまあ、時間(クロノス時間)は等しく万人に流れていますから、大幅に遅刻しても、「オレ時間(ワタクシ時間)ではOKなんですけど・・」と弁解しても、もちろん世間には通じませんので注意してください。(笑)