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占いで未来傾向を知ることの良さ。
いつもは「タロットは占いに使うよりも、自己認識や成長のツールとして活用するほうがよい」ようなお話を書いていますが、今回はあえて「タロットで占いする」ことの良さをテーマに書いてみたいと思います。
さて占いのひとつの作用に、「未来を当てる、予測する」というものがあります。
多くの人が占いに興味があるのも、今の不安や選択について、常識的な判断では予測がつかないために、占いによって情報を得たいということが挙げられます。
この会社に入ればどうなるの? この人とつきあうとどうなるのか? あの人の気持ちは? 仕事を辞めたい、始めたいけれど今はタイミングなのか? この勉強するのは私にとっていいことなの?・・・などなど、占いにおける質問は、そのほとんどが状況判断(の要望)に基づくことからもわかります。
そして、占いはその需要・要求に、ある程度応えることができます。
占いは一種の象徴学です。天地・宇宙の理や比率・根源が、私たちの人間世界の現実・事象・事件についても象徴的には同様の影響を及ぼすという考えに基づきます。(その逆も言えます)
ということは、ある自然や道具での顕れが、実際の事柄と根本的には同じようになる(同じことを象徴している)というとらえ方になります。
これにより、たとえばタロットカードを偶然引いたのに、それが未来(未来だけではなく過去や現在も)を表すという理屈になるのです。
この因果関係は、今言われている因果関係(原因と結果)のような再現性や100%の確実性とは別種のものなので、通常の科学的論理からはずれ、得体の知れないもの、信用できないものと一般的には認識されます。
ですが、象徴としては因果関係も成立しているのです。このことがわからないと、本当の意味で占いを信じることはできません。
それはさておき、こうして、特に未来をカードなり、コインなり、筮竹なりで占って出すわけですが、それは予測でもありますが、創造(まだ起こっていないことを生み出すこと)でもあります。
まずこのように未来予測を占いですることにより、心理的不安が軽減されます。
人は目に見えないもの、きちんと語られないもの、混乱しているものに対して不安や恐れを抱く仕組みになっています。
ですからたとえ占いでの予測とはいえ、何かかがそこに顕れ語られるわけですから、ひとつの「形」が見えてきます。それが吉凶や、本当の未来かどうかということよりも、この「形」がわかること自体が心理的には大きな意味を持つのです。
真偽はともかく、何かしら情報がはっきりとしたものが提示されたのですから、安心感や落ち着き感が格段に違います。たとえ悪いことであっても、予想がついている時と、まったく予想をしていなかった時とでは、その動揺に違いが出るのは、皆さんも実際に経験していることでしょう。
次に「創造性」の部分についてです。
占いの未来予測でマイナス面といえば、やはり「悪いことを言われる」「悪いことが出る場合」でしょう。
しかし、それは悪いまま放置したり、それをもって脅すようなダークな占い師の印象があったりするからです。
たいていの場合は、占い技法であれ、占い師であれ、その対処法を教えてくれます。私の扱うマルセイユタロットの技法でも問題を解消・解決する意味を持つカードを出します。
ということは、マイナスをプラスに変えることもでき、自分にとってよい方向性へ未来をイメージさせる(つまりは創造する)ことが可能になるのです。
「思考は現実化する」と言われているように、私たちの普段の思い・考えは思った以上に自分の現実に影響を及ぼしています。
自分の心や頭の中の考え・イメージによって、まさに現実も左右されるのです。
占い、特に占いでの未来予測は、自分にとって好ましくない未来像をよいものに作りかえていく役割と機能があるのです。
タロットカードを使う場合は、絵柄があるためにそのイメージをつかみやすく、また想像しやすくもなります。
そしてこれがあまり言われていないことですが、作られる頭や心の中のイメージの材料と、普段私たちが見て経験しているこの現実世界は同じ材料でできているのです。科学的にも素粒子まで行き着くと、すべては同じになるのと同様です。
それがよく言われているように、波動的なものと表現されることがあります。タロットカードは象徴的にはそのイメージや現実の材料が種類分けされた波動を、その形(絵柄)に持つと考えられます。
ですからイメージの形成の助力にもなりますし、未来をよいものに創造していくツールと力にもなるのです。
大切なのは、占いにおいても「運命だ」と未来像を限定させてしまわないことです。
それはあくまで象徴なのです。ですからそれに対応した別の象徴によって、形やそれが表す作用と影響を変えることもできるのです。
占いの未来予測は確かに情報を得るためのものでもあるのですが、もう一段進み、予測の方法の鍛錬(これができると能率が違ってきます)と、未来をよいものにするためのイメージ・想念の訓練にも利用できるものなのですね。
ということは、占ってもらうより、占いを学ぶほうがよいかもしれません。
自分の性格が嫌な人へ。
私は以前公務員をしていたほどなので、やはりどちらかといえば「まじめ」傾向にあると思います。
そういえば、ブログタイトルの説明文にも「まじめさ」と書いていましたね。(笑)
そんな私でも今はタロットの講師をしているので、一般的に言えば変わり者、仕事内容だけ聞くと「まじめ」とは言えないのかもしれません。
実際には私にもふまじめなところはたくさんあります。(^_^;)
そう、実はどんな人にも自分の中には多くの人格(性格)があり、そのうち比較的出やすい外面の性格性が「自分だ」と思い込んでいることがあります。
出やすい部分というのは、やはりもともとの生まれ持った気質ということもありますが、育った環境・成育歴によって培われたものも少なくありません。
たとえ生まれ持った気質だとしても、それをマイナス点に考えるのではなく、同時にプラスの面も考慮するとよいでしょう。
たとえばきまじめで慎重な人は、それだけきっちりしており、いい加減な人ではないということになりますし、細かいことは苦手でややだらしない人でも、くよくよしない楽天性を持つということになります。
こうした(性格のプラスマイナスを見る)ことはよく言われていますので、今更という感じもあるかと思います。
ただ、マルセイユタロットを学習すると、大アルカナの22枚の象徴があらゆるものに関連していること(実はその逆の発想のほうが大事なのですが)を知りますので、自分にも22人の人格が存在していることがわかるようになります。
ということは、いい加減に見える自分にも慎重な自分が潜在していますし、保守的な人間にも進取の気性に富んだ人が隠れていることになります。
それをカードで実感し、認識していくことができると、思わぬ自分の可能性が広がるのです。
つまりそれは、実のところ、一種の囚われからの解放になります。
囚われと言うと、つい思考・考えばかりにき気をとられますが、人間や性格としての自分の囚われもあるのです。これもつまるところは「思考の枠」であることに変わりはないのですが。
そして、私たちは「自分を変える」という表現をもって自分の変化・変容を目指しますが、タロット的には自分を変えるのではなく、自分を知る(思い出す)といったほうが正しいでしょう。
まじめな自分に自由奔放である自分がいることも認め、反対に型にはまるのが嫌いな人は、型の中でその自由性を発揮することの喜びを思い出すことになります。
これをカードで表せば、「正義」あるいは「吊るし」から「愚者」、「愚者」から「正義」・「吊るし」ということで語ることができるでしょう。
タロットの効果は単なるカードから出る言葉だけの意味ではありません。そこに象徴として存在する「目に見えない力」や「認識力」も含まれるのです。
それはたとえば、「タロットの霊」という存在が、あなたに完全さを思い出す手助けをしてくれるようなことです。
ですからタロットを使った自己変容というのは、ただ本で読んだり、人から言われたりすることとは質が異なってくるのです。
話を戻しますが、性格では自分の今ある気質というのも大切したほうがよいです。
人間には先述したように、タロットで言うと、一人の人の中に22の人格があると象徴できますが、ベースとなる存在がやはりあるのです。
ベースがないと、それこそコロコロと変わる多重人格者みたいになってしまいます。
あなたの生まれ持つ基本的な気質を「変えたい」と思って、足かせのように感じいる人もいるかもしれませんが、それを持って生まれたということは、逆に天命、宇宙や神の望みとして考えることもできます。
つまり、平たくいえば、あなたらしさは神(宇宙)が望んだ現実世界でのあなたの表現方法(神の分身)なのです。
「私はまじめでいけない」と思うのではなく、これが自分の個性、表現なのだと愛し、それを受け入れ、この特質をどう社会や人に貢献することができるのかと、得意分野・フィールドを探求することが重要です。
と、同時にベースの性格に振り回されたり、囚われたりしないよう、自分には違う性格もあるのだと発見し、認めていくことで、自分の真の解放につながっていきます。
一番悪いのは、自分のベースの性格を自己卑下し、悪いもののように捨て去ろうとすることです。
先にも書いたように、タロット観からすれば、変わるというのは新しいものに変化したり、古いものを捨てたりすることではありません。
別の自分を思い出す、認識するということです。以前の自分、過去のこともプロセスとして等しく価値を持つのです。
こうした考えでいると、自分が嫌でなくなり、無理矢理変えなくてもよいことがわかって楽になってきます。
特にまじめ傾向の人は、まじめだからこそ正しさにこだわり、時には正しくあろうとしすぎる自分の固さに嫌気を持つこともありますが、そのまじめさがまたすばらしいことであり、自分をいい加減なものから救ってきたことに感謝し、自分を愛することが大切となります。
東京開催 マルセイユタロット講座
以前より少しずつお伝えしておりました東京でのマルセイユタロット講座ですが、いよいよ募集を開始いたします。
この講座は関西で私が通常行っているマルセイユタロット基礎講座のハイクラスに相当しますが、少し今回の講座のために内容を変えている部分もあります。
通常のハイクラスでは少人数制で各人の希望や個性を活かすため、前もって受講希望者にヒアリングやリーディングを行うことにしているのですが、東京の場合は遠方でそれができないので、その分料金も若干お安くなっています。
とはいえ、ほぼハイクラス内容ですので、じっくりタロットを本格的に学びたいという需要にお応えできるものです。
この講座はまったくのタロット初心者でも、学習を進めるうちに上昇カーブを描くかのようにタロットへの理解と使いこなしが習得できるようになっています。
タロットのみならず関連の秘教的知識、マルセイユタロットの背景にある霊的伝統・歴史などにもふれていきます。もちろんリーディングができるようその技術と実践も行います。ここで学べる知識と技術だけでも、十分に人生に活用することができ、あなたの課題や問題の解消にも役立ち、大きな変容を迎えることが期待できます。
次回の東京講座は未定です。今度いつ開講できるかわかりません。関東圏の方、是非この機会にマルセイユタロットを学んでみてください。
◆東京マルセイユタロット基礎講座◆
●日程
8/25,26、9/29,30、10/27,28
いずれも土日
時間:10:00-17:00 日によっては17:30
●場所
東京都大田区池上付近の受講者提供自宅ルーム
(お申込み者に詳細はお知らせします)
●料金
130,000円(マルセイユタロット・資料代込)
分割OK
●募集
最大6名
注意:お申込みが3名以上で開講とします。
●お申込み・お問い合せ
当ブログの「お問い合せ」もしくは、こちらからメールで
お申込みください。
幸せを得るためには。
マルセイユタロットを見ていますと、ここでも何度か書いていますように、全体思考と個別思考の二面をいつも想起します。
それは方向でいえば、上と下、天と地となりますし、表現を変えれば抽象と具体、統合と分離というような言い方にもなるでしょう。
この考え方・見方を知っておけば、何かと便利で整理がつくのですが、それが絵となっている(象徴画の)マルセイユタロットを学べば、さらに知識として実感として、理解することができるようになります。
さて、今日の記事もそうした二面の考え方に基づくものです。
ところで人は皆、幸せになりたいと思っていますよね。
わざわざ不幸になりたいと思って生きている人はほとんどいないでしょう。(心理的には実は「不幸を無意識的に望んでいる」こともありますが、それは今日のテーマではありません)
そうして、皆、幸せになる努力をします。それでも結構何かしらの悩み事はいつもあるものです。
思えば人は、この世界に生きている限り、何も心配や問題がないということは一生のうちではないようにできているのかもしれません。
それでも何も問題はなく、ずっと今も幸せだという方もいらっしゃるでしょう。
ですから「自分もそのようになりたい」と願って、幸せになることを実践したり、学んだりします。
しかし、ここで落とし穴があります。
一足飛びに幸せを願うと、多くの場合、先ほど述べたように、「一切問題が生じない状態」になることを夢見てしまうのです。
家族も家も仕事も経済も趣味も・・・何もかも恵まれて幸せで、まったく心配事や問題はないという天国状態のイメージです。
これは最初の二面思考からすると、天にいきなり昇って、すべてを統合化したような様態です。
言ってみれば、急に範囲が限りなく極大化してしまったのです。
範囲が大きくなれば、その分見るべきあなたの範囲も拡がります。
従って、目についてくること、気になることも当然たくさん増えます。その「たくさん」の事柄すべてに「問題がない」「調和している」と見ることは、まさに神視点(悟り)を得ないと難しいことです。
中途半端に自分が進化したとか、スピリチュアル的に向上したとか勘違いしてしまうと、意識が広がった分、あなたの見るもの(扱うもの)も増えてきて、それをどう処理(調和認識)すればよいのかわからなくなります。
つまり、あなたはまだ大きな全体を見るのには力不足(意識だけが飛んでいる状態)なのです。
そのため、安全なのは、自分の身近な範囲から調和を図っていく、幸せを感じていく、幸せになるということなのです。
「足るを知る」という言葉があるように、自分の今の器において、いかに恩恵に気付き、感謝できるかということが大切になります。
これは二面思考では、地、下の方向性を見ることになります。ですからより具体的でもあります。
ところが、これも面白いことなのですが、一番身近なこと、もっとも具体的で細部なことは、逆にもっとも遠くて大きなものにつながっているということが宇宙の真理(の予想)として考察できるのです。
素粒子の世界の研究が、全体としての大きな宇宙につながるようなものです。
ですから、意外にも夫婦とか親子、恋人同士などのかなり身近な関係の調和が実は難しく、でもそれが調和すれば全体も調和してくるということになるのです。
一番物質的なもの、つまりお金があれば、対極の心や全体としても潤ってくることが言えるのもこの原理で説明できます。だからお金は大切なのです。
精神世界系(に関心がある人)では、いきなり全体性に飛ぼうとしすぎるので、自分の中の調和していないほころびを見つけて、かえって苦しんでしまうことがあります。
それは範囲や対象が(世界とか宇宙とかに)拡大するので、むしろ当たり前のことです。
ですから再び地上方向に意識を向け、お金であれ、身近なできる範囲のことから調和を図り、それができていることを実感すると、自分の幸せも「安全に」拡大していくのだと考えられます。
今日のタイトルは「幸せを得るために」ですが、実は「幸せであると(自分の今の範囲で)知る」ことが重要で、得るのではなく知ることが真の得ることの意味だとわかるのです。
特別な機会と日常の機会のバランス
一昨日の記事の続きです。
この前の「特別な機会と場所による効果の理由」 の最後の方で、「過度な期待や依存も問題」という一文をを私は書いています。
普段とは違った場所や機会では、確かにある種の高い変容効果が期待できるのですが、劇薬にも副作用があるように、それに過剰な望みをかけるようなことは自分のバランスを崩す恐れがあります。
つまり、簡単にいえば、あるセミナーや特別な場所に行きさえすれば「今の問題は絶対何とかなる」「きっと私は変わる!」というようなあせり・幻想にとらわれていないかを確認することが大切なのです。
仕事や家庭をほっちらかし、借金してでも参加しようという人、混乱の極みのままで、とにかく列車に飛び乗るかのごとく救いを求めて後先顧みず行ってしまう人・・・
その奥底には依存精神、人任せの気持ちがあります。(他人に手助けしてもらうことは悪いわけではありません。自分の力をまったく他者にゆだねてしまうことが問題なのです)
自分の行うことは自分で責任を取ると決めないと、何かに気付いても、どこかに参加しても、本当の意味での変化はないのです。
またまれにあることですが、「特別」ということは、自分(自分自身)が「特別」であると誤解してしまい、このようなセミナーを受けることのできる自分、特別な場所に来ることができる自分に酔ってしまうことがあります。
いわば、選民思想みたいな囚われです。
自分は使命がある、神や天使から選ばれている、機会に恵まれている(参加するお金と時間のある)私は特別な人間・・・という傲慢にも似た考えになっているのですね。
特別な機会をとらえることは、確かに特別な変化をもたらす可能性がありますが、必ずしも効果があるとは言えませんし、期待したほどでないことも結構あります。
帰ってから冷静になると、「なんであんなものに自分は参加したのだろう・・・」と後悔することもあります。
無料ならばまだよいですが、ほとんどの場合は「特別な」だけに「スペシャルな」料金がかかるはずです。
経済的にもそれだけ見合う投資なのか、冷静な判断が必要でしょう。ましてや参加費があなたのお金ではない場合、もっと慎重な態度が求められます。
しかし逆説的にはなりますが、直観や心の囁きの求め、今まで動きくても動けなかったのに、時間やお金が偶然のように揃ったなど、シンクロニシティのような形で促されている場合もあります。
冒険心・チャレンジ精神も時には必要で、特に日常の殻を破りたい人、閉塞状況に今現在あり人で、何かの機会に変化を起こしたい人には、やや無謀とも思える行いがターニングポイントになることがあります。
判断は難しいのですが、やはり先述したようにたくさんのシンクロが起こっている、あるいは今までの感覚・実際とは明らかに違って、心の奥から何かかが生じてきているというような時は、参加への検討を前向きにしてもよいかと考えられます。
ほかにも、普段の生活の中で、ほんの些細な事でも、何かこれまでとは異なる事を発見した、イレギュラーを感じたということがメッセージということもあります。これはあまり言われていないことですが、非常に重要なことです。
それから、私たちは特別ばかりを求めたがりますが、日常の何気ない毎日のシーンの中でも、モノの見方を変えたり、実際に少し移動したりするだけ、ずいぶんと大きなスピリチュアル的な気づきをもたらすことがあります。
道ばたに咲く小さな花に生命の神秘を見たり、雲間からこぼれる一条の光に生きる勇気をもらったりするようなことです。
これは爆発的なインパクトというより、日々の積み重ねによる気づきが満杯になって、特別な機会と同じ、いやそれ以上の効力を持つと言ってよいものでしょう。
もちろん積み重ね以外でも、普段の生活のある一瞬のシーンで、悟りのようなものが来ることもあります。
重要なことは、たとえ特別な機会や場所で得た気づきが大きくても、それを日常にいかに活かしていくかであり、反対に日常の中でいかに特別なものを見ることができるかということも大切な気づきとなってきます。
そう思うと、ある種の「特別な」知識や経験をひとつでもすれば(得られれば)、あとはその見方を普段の生活にも適用し、自分を拡大して「特別に」発展させていくことができるのだとわかります。