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特別な機会と場所による効果の理由
スピリチュアルな志向の方には、セミナーやワークショップへの参加、あるいは特別な場所に出かければ、何か大きな気づきが得られたり、劇的な変化が起こったりすると期待されている方がいます。
これはあながち、間違いとは言えません。本当のこともあるのです。
その理由は、まずひとつには集団や複数の人数の力があります。
当然ながら、セミナーやワークショップなどの場合、問題解決や自分に何らかの変化、新しい知識や技術の蓄積を得たいと思って参加者は来られているわけです。
のほほんとお金を捨てに、物見遊山で来る方は少ないでしょう。(中にはリフレッシュや気分転換で来られる方もいらっしゃいますが)
ということは目的をもった意志が結集されるということです。
同じような意志や心をもった人たち同士が集まると、共鳴を起こして通常とは異なる意識や見方が出現しやすくなりますし、そもそも「結集」されるわけですから、変容させる力も大きくなります。
よって皆の思いが一人一人に注がれて、精神世界での創造もしやすくなり、実際の現実も創造されやすくなるのです。
次に、特にスピリチュアルツアーとかリトリート(慌ただしい日常とは隔絶した穏やかな場所で、自分を見つめるような体験)などでは、普段の生活の場所から移動して、特別な空間で行われることが多いので、場の影響も受けます。
そもそも、移動すること、そして通常の時間や空間から離れることそのものが、閉ざされたもの(枠・固定意識・観念・心)に解放や解錠の鍵を与えるのです。
このことはマルセイユタロットでは、「愚者」や「隠者」「吊るし」などで描かれていることです。
私たちは思った以上に空間の影響を大きく受けています。これは、例えれば、空間自体を人間、または宿屋(ホテル)と見るとわかりやすいです。
ある性格をもった人の経営するホテルに宿泊することは、その性格やポリシーにホテルも影響されることになり、それによってホスピタリティの明瞭な違いも出てくるように、空間や場所にも性格やカラーがあるのです。
一般的に波動が高いところは誰でもよい影響が出ると考えられがちですが、この波動というものの正体が何なのかはまだうまく説明できる人はいません。
よって、これを性格や表現として見た場合、人によっては合う人もいれば合わない人も出るのは容易に想像できることです。
たとえば、あまりに高級すぎる施設では緊張して、かえってリラックスできないということもあるのと同じです。また船に乗れば船酔いする人もいますし、飛行機が苦手な人もいます。
それはともかく、場所によっては自分にとって特別な意識になりやすく、気づきや変化も起こりやすいということはあるように感じます。
このように、人と場所の効果によって、セミナーやワークショップ、ツアーなどの参加により、急激な変容が起こった、そのきっかけになったという場合が起こるのです。
もちろん内容も大切ですが、このように、参加するだけでもある種の効果は期待できることもあります。
しかし、それだからこそ過度な期待や依存も問題な場合があります。
このような特別な機会とは別に、普段の日常も大切で、その両方をバランスよく取り入れていく姿勢が重要なのですが、それについてはまた次回でお話したいと思います。
「正義」を例にしたカードのペア思考
マルセイユタロットには、カード同士でペアや対になるカードがあるという考え方があります。
これは思考法さえマスターすれば、自分でも知識が増えれば増えるほど、そのペアになるカードの量やルールも増加していきます。
ですから、およそ「このカード同士がなぜペアになるのか」ということが、一瞥したところではほとんどわからないという組み合わせも生じるのです。
このペアの発見という訓練を続けていると、世の中の構造も同じように無限のペアでできているということに気がついてきます。
それは答えを言ってしまえば、究極的には陰陽で表される二種のエネルギー表現のことなのですが、一般的に考えられている陰陽、男女的なエネルギーよりも複雑な形で二元(ペア)が存在するので、それを学ぶのもマルセイユタロットの役割のひとつかと感じられます。
宇宙や世界はつまるところ、単純でシンプル(たとえば陰陽エネルギーのような顕れ)なのですが、その出方・見え方は実は複雑であるというのが面白いのです。
さて、こうしたペアの見方で出てきたもので、「正義」のカードに関連する話をします。
「正義」といえば、その名の通り、「正しいこと」と訳してもいいわけですが、この正しいもの、正しくないものというのが実はやっかいな代物です。
正しいか正しくないかということは、それを判定する基準やルールが必要です。
明文化された法律に違反していないから正しいと言えることがありますし、自分の信条(心情もある)に合致していないから正しくないということもあります。
つまり文章や目に見える形だけではなく、目に見えない心や思い方、感じ方が正誤の基準やルールになっていることもあるということです。
むしろ実際には、このことで正誤の争いが起こっていると言ってもいいかもしれません。
それはさておき、このように心の部分で正しいか正しくないかを主張しあうと、結局心は目に見えないものなので、なかなか判断の決着を見ることができません。
しかも、その心の基準は争っていることそのものの基準ではないことも多いのです。
たとえば「あなたのやり方は間違っている」と相手が主張していると、字面だけでは「やり方」の正誤の争いのように見えます。
しかしこの人が本当に言いたいことは、「あなたに従ってきたけれども結果が出ていない、無駄にした時間とお金はどうしてくれるのだ」というものかもしれませんし、もっといえば「あなたは私が思うような人ではなかったと認めてほしい」という場合もあるでしょうし、さらには「私があなたのもとで頑張ってきたことを認めて謝罪してほしい」ということかもしれないのです。
実はたいていの場合、相手を批判したり、認められなかったりして「正しい」「正しくない」の判断になる場合は、もちろん「相手が間違っている、自分は正しい」ということが言いたいこともあるのですが、それよりも、「(正しい・正しくない以前に)自分の頑張りや立場を認めてほしい」ということがあるのです。
「私はこうしてきた」「私はこのように頑張ってきた」、それが正しいか正しくないかは本当はわからないけれども、人から「間違っている」とは言われたくないし、認めたくもない。
なぜならば、それは自分の生きてきた歴史を否定されることにつながるからなのです。
「オレだって」「私だって」好きでやってきたわけじゃない、やらされていたかもしれない、そこまで気がつかなかった愚か者かもしれない・・・でも批判されたら、間違っていたら(正しくないとされたら)、いったいそれまでの頑張ってきた自分はどうなるのだ?どうなるのよ!という怒りや悲しみが奥底にはあるのです。
もちろん全部が全部このようなパターンではありませんが、少なからず正義の争いの中には、心理的に、このような自己保護(保全)機能にふれてしまうことがあるわけです。
さて、この記事の最初にはカードのペアの話をしていたわけですが、今まで「正義」一枚をテーマにしてきたようでいて、その裏にほかのカードがペアとして存在していたのに気がつきましたでしょうか?
そのカードが何なのかは、皆さんで想像してみてください。
追伸 メルマガ登録者で記事アップ時間の秘密を知っている方は、今回はそこには意味はありませんので、自分で想像してみてくださいね。(笑)
わかちあい 「太陽」
タロットには「太陽」というカードがありますが、このカードは比較的タロットの種類にかかわらず、どれも同じような絵柄や雰囲気になっているカードのひとつだと思います。
とはいえ、一応ここで私がタロットといえば、特に断りがない限り、「マルセイユタロット」の絵柄ですので、今から「太陽」に関係する話を書きますが、それはマルセイユタロットの絵柄をもとにしていると考えてください。
さて、その「太陽」 このカードに限らず、どのカードにおいてもそれが表す一般的・普遍的意味合いはあるものの、タロットカードのよいところは、それ以外の個別的な意味も想像することができるという点です。
ただその個別性(その人その人に応じた意味合い)も、決してそのタロットの絵柄とは無関係ではなく、つまるところ普遍的な意味に通じるところがあるのです。
そのつながりを意識せずに、タロットカードの普遍的な意味と個別的な意味を考察しないで読むことは、タロットを活かしきれていないということになるのですが(リーディングそのものが目的ではないということを示唆しています)、その話は機会を改めてまた別にします。
さて「太陽」の話に戻ります。
このカードには、さんさんと輝く太陽のもとで二人の裸の人物が肩を抱き合っているかのような図柄が描かれています。
マルセイユタロットの場合、数が隣り合うカード同士を考察すると、もっと意味が深まることがあります。
「太陽」もまたしかりで、隣の数を持つ「18の月」や「20の審判」(「太陽」は19)と一緒に見ていくと、いろいろなことが見えてきます。
そうして「審判」に注目しながら「太陽」を意識しますと、私の中には「分かち合う」というテーマが浮かんできます。実は「月」と重ねてもそう感じます。
「分かち合う」と言えば、何かをともに分け合うということですが、よく、「喜びも悲しみも分かち合う」と表現するように、モノの分かち合いだけではなく、精神・心の分かち合いの意味も大きなものがあります。
人はうれしい時は誰かに話したくなるものですし、逆に悲しい時も気持ちをわかってほしいと人を求めます。
これを喜びと悲しみのふたつのパターンにわけて、改めて考えてみますと、
1.喜びの時に分かち合うと、その喜びは倍になる
2.悲しみの時に分かち合うと、その悲しみは半分になる
ということが、(象徴的にですが)言えるのでないかと思います。
うれしいことを報告する相手がいる、一緒に喜んでくれる人がいれば、自分のうれしさも、「それを喜んでくれる相手がいる」ということで倍増されます。
また相手の笑顔の反応を見て、自分の笑顔も増えますよね。まさに相乗効果です。
反対に自分が落ち込んだり、悲しい時にある時、それを打ち明ける相手がいれば、苦しいことを話す=放(離)すことにつながり、かなりほっとした気分になります。
さらに相手が、「そんことないよ」とか「よくやっているよ」「それは無理もないよね」など共感してくれれば(反応を返してくれれば)、こちらの気持ちをわかってくれていると感じ、当人は癒され、気持ちの整理がつきます。
つまりは悲しみや苦しみが半減する(消失することさえあります)のです。
まさにこのことが、「太陽」の絵柄で表されているように私は感じます。「月」が悲しみの半減で、「審判」は喜びの倍増と合わせて見てもよいでしょう。
もし「太陽」が指針としてカードに出たならば、こうした考え方(人と分かち合う)も取り入れるとよいでしょう。
それはすなわち、分かち合える相手を持つことであり、自分も分かち合える人になるということです。
それは何もパートナーや夫婦、恋人同士に限りません。友人や知人、職場の同僚など、あらゆる人間関係に可能性があります。
実際に会える人同士のほうが分かち合いの効果は高いですが、目に見えない存在や、なかなか会えない人、想像上の人でもよい場合があります。その場合は精神的世界でのイメージによる交流・分かち合いとなります。
日本語は不思議なもので、「分かち合い」と書きますが、「わかち愛」「和 価値 愛」とも当て字で書くことができます。(笑)
結局、相互に愛の交流があるということですね。
時は金なり
タロットカードの図柄の中には剣や刃物的なものが描かれている場合があります。
もちろんこれはそのままの意味ではなく、象徴としてとらえるべきで、それはほかの図柄でも同様です。
象徴というものは、全体性と細分性の意味を区分して考えねばなりません。
たとえば上記の「剣」にしても、こういった「鋭い何かを切るもの」というイメージ全体からの象徴性と、刀であったり、ナイフであったり、まっすぐな剣であったり、曲がった刀であったりと、図柄の違いによって出る細かな象徴(の相違)があるのです。
しかしやはり全体としてはひとつです。ここにも宇宙や神秘の哲学的たとえとも言える「全は一、一は全」という発想が内包されているのです。
そして今日、その剣的なタロットの絵柄から浮かんできたメッセージがあります。
それは「時は金なり」でした。
それも決断のスピードという意味合いを強く感じました。
私たちの人生は、大なり小なり、毎日毎時、常に選択の連続によって成されていると言ってもよいものです。
今日着るものから食べるものに至るまで、些細なことを含めて何かを決断し、選択しています。
ところが、時折、非常に選択や決断に迷って悩んでしまうことがあります。
重要なテーマや案件ならば迷うのも仕方ありませんし、むしろ簡単に決めてしまうことのほうが問題の場合もあります。
ところが、意外に私たちは、どうでもよいこと、取るに足らないことにまで選択に時間をかけていることがあります。
その他、その時は結構自分にとっては大事だと感じているのですが、選択後であったり、モノの見方を変えたりした時には、「どうしてあれほどまで迷ってしまったのか」と思うこともあります。
人間は長生きしてもせいぜい100年足らず、その中で肉体的・精神的に自分の思った通りに活動できる時間はそんなに多くありません。
年を取れば精神的に充実していても肉体的には衰えていますし、反対に若い頃はお金や資格の制約があるなどして、自由にできないこともあるでしょう。
そう考えますと、大人になって、特に中年以降の年代になってきますと、自分が現実活動に有効に使える時間というものはかなり少ないということがわかります。
ですから、できるだけ些細なことや、自分の成長発展にとって重要ではないことは、選択と決断のスピードを速めるか、誰かにゆだねる(任せる)かしたほうがよいのです。
今日青い服を着るのがよいのか、赤い服を着るのがよいのかで長時間悩むよりも、どちらでもいいのでさっさと決めて出発し、時間を有効活用したほうが人生全体では効率的です。
ただし服を決めることが自分のその日の人生に大きな影響を及ぼしたり、重要なテーマであったりする場合には、時間をかけて吟味することは無駄ではありません。
女性の多くの方や、ファションを大切にしている男性ならば、服の選択に時間をかけるべき価値があると思うのはむしろ当然でしょう。
逆にいえば、自分がいつも時間をかけてしまうことというのは、自分の価値観(重要視していること)を表していると言ってもよいのです。
その価値観が自分にとって有意義な人生をもたらせてくれるというものであるならば、時間をかけてもよいでしょうが、そうでないならば何らかの変革が必要かもしれません。
それは今の自分の状況、結果を見れば自ずと明らかです。
先の服の例で言うならば、それほどの選択の時間をかけている結果、相手からよく思われたとか、仕事でよい影響があったとかならばいいのですが、何もよい成果が得られていないのならば、服に時間をかけることは検討が必要(人にコーディネートしてもらうという手もあります)になります。
もっとも、服を自分でじっくり選ぶのことが何より感情が満足するのだという人や、ファションが趣味や職業だという人はこれは次元の違う話になりすので、決断の問題とは別になります。
とにかく、自分が時間をかけなくていいものまで時間をかけていないか、特に選択の際に自分の価値観とともに見直してみるとよいでしょう。
マルセイユタロット発展コースにて気がつくこと
先週の日曜で、4月から始まった発展コースの日曜定期版が終わりを迎えました。
ただ正式にはまだあと一回の追加分が残っており、それが終了してからが本当の終わりとなります。
もっとも、タロットリーダーの実践としては、ここからがスタートで、いわば「∞」の象徴の通りです。(これはタロット講座を受講している人しかわからないかもですが)
発展コースはプロタロットリーダーになるための知識と技術を学ぶ講座ですが、単にタロットリーディングの能力を磨くだけではありません。
クライアントとのやり取り、コミュニケーション技術なども含めて、タロット使った総合対人援助技術を学習すると言ってよいものです。
また最後の方になりますと、やはり目標がプロタロットリーダーということになりますので、「仕事としてのタロット」という現実的なことも講座内容に入ってきます。
その中では自分をどう売り出していく(営業していく)のかということも項目にはあります。
そのためには、結局のところ、自分のことをもっとよく知らねばなりません。自分を知らずして、他人に自分を知らしめることはできないからです。
しかしながら、自分を知るというのは意外と難しいものです。そこで「客観」(他人目線、他人の思考・感情を通すこと)なのです。
自分自身の経験や生きてきた歴史は、もちろん自分が記憶しており、他人は家族・知人等が一部自分を知っているとはいえ、やはり自分より自分のデータを知り得ている者はいないでしょう。
そうして講座では自分(の人生)を改めて振り返ってもらうことをします。時にはタロットも使います。
そうして自分の記憶や印象のデータを自分なりに洗い出してみて、それを他人というフィルター装置にさらにかけてみると、自分でも気がつかなかったことがたくさん出てきます。
今回も発展コースの受講生にやってもらったのですが、他人目線になりますと、本当にお一人お一人、当人が思っているよりもはるかにドラマティックな人生だったのです。
それはもう、すばらしい映像作品を見ているかのようでした。
この時、私は他人目線ですので、いわば中立な視点に立ちます(厳密には私の価値観やモノの見方入りますが)。これは神目線とは言いませんが、天使(界)目線と言ってもいいでしょう。
ここでいう「天使」とはハイレベルな存在や本当の天使という意味ではなく、当人とは立ち位置の違ったところで見ているような者になると解釈してください。
すると、ふたつの大きなことが見えてきます。
1.当人の人生に必ず、同じパターンや傾向のものが見て取れること
2.当人には気付いていない(あとで気付いている場合あり)救済が起こっていること
1はマイナスなこともあればプラスのこともありますが、ポイントポイントで象徴的に同じ事件や人物傾向が出現し、それを結ぶと一本の糸やライン(道筋・ストーリー・意味)が見えてくるのです。
そして2は、自分ではとても苦しかったり、困難な事態だったりして、その時は誰も助けてくれなかった・・・というような思い(記憶)であったりするのですが、違う視点から見ますと、当人の気付いていない(その当時は)場所や次元で、救いの手が差し伸べられていることを発見できるのです。
これは実際には本当に当人は気がつきにくいものです。
言ってみれば、当人の映っている連続撮影情景フィルムを観客席から見ることで、「あ、こんなところに、あの人が!」「あんなところにあれが!」「このシーンはこの伏線だったのか!」と観客自体が気付くようなものです。
そして演じている本人は、全体のシナリオが知らされないまま、シーンだけその都度演技しているので、わからないのですね。
こうして1や2を総合して考察していくと、いわば自分の使命や天命のようなもの、今生で経験していることの意味がわかってくるのです。(それでも全部ではありませんが)
それらはたいてい自分があまり好ましくない記憶であったり、無理にやらされてきたことだったり、何かわからないけれどそうなってしまったというようなもので、実はそこに大きなヒントがあります。
このようにして自分の経験を見ていくと、レベルの違いはあっても、マルセイユタロットでいう22枚の大アルカナの体験をこなしていることに気がつかされます。
マルセイユタロットには、「世界」のカードは全部を経験した悟りの境地だという考えがひとつにはありますが、それが程度の差こそあれ、誰もが「世界」を体験し、一度は到達しているように思えてくるのです。
その「世界」は隣の数の「審判」と非常に大きな意味では関係し、いわば「審判」のための「世界」、「世界」のための「審判」を自分は今生で経験しているのだということが言えるのです。
人には自分の個性に基づく社会への活かし方が予定されており、それがひとつの「世界」で象徴されるのですが、その「世界」を表現するために、私たちは自分の人生での個性的な経験を重ねていくと考えられます。
ある程度自分の「世界」が表現できるレベルになれば、それは天命的なもの使命的なものとして、人々や社会に役立つ(直接的に役に立つという形だけではなく、個性を活かす表現・活動として、自分も気がつかないレベルで宇宙に役立っているという意味も含む)自分として生まれ変わるのです。
この意味においては、自分の活かした方がわかってくれば、当初自分が思っていたタロットリーダー像やタロットリーディングの方法、目標とは異なってきてもOKだということです。
それ(自分のことにさらに気がつくこと)こそが、このコースの裏の目的でもあるからです。