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タロットの学び、孤独と仲間。

昨日は京都でのリーディング実践会でした。総勢14名の方に集まってもらい盛況でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。


京都もカルチャーセンターに始まり、さらにタロットの学びを深めたいという方も多くいらっしゃるようになって、タロットの学習だけではなく、受講者同士の交流も希望される方が増えてきました。


そうしたものも考慮しての学習会でした。リーディングもたくさんの事例を見ることにより、普段の発想をブレイクすることができ、懇親会も企画されることで、私が常々呼んでいる「趣縁」(趣味から始まるものの、もっと深く趣きのある縁)が形成されていきます。


昨日も、実はお互いがご近所であったとか、組になってリーディングしたお相手が同じ体験や悩みをされていたとか、タロット以外の同じ趣味志向があったとか、初めて会う方同士で意外な共通点が見つかっていました。こういう驚きもありますね。


タロット、特にこのマルセイユタロットを学習する場合は、単に占いをする集まりではなく、自分を総合的に向上・発展させていくことが目的ですので、自然、自分や人を深く見つめていくようになります。


ここに優れた象徴言語としてのマルセイユタロットを知識としても共有しておくと、タロットを通してお互いが普段の立場や社会的仮面(ペルソナ)を越えて、素の人間同士として語り合うことができるようになります。ここに年齢・職業・性別などを超えたつながりができるのですね。


たとえば自分の体験がマルセイユタロットの「13」で象徴することがあったとすれば、それがタロット仲間のほかの人にとっても、その当人とは体験自体は違うことであっても、「13」のカードの象徴を通して自分も理解することができるようになるのです。


それは単なる頭の理解ではなく、象徴というものがありますので、タロット的にいえば四大元素全部で体感するというものに近くなります。


つまりは実際の感覚に近くなるのです。ここがタロット体験と普通に見聞する知識的なものとの大きな違いです。(これはタロットと自分が通じ合えば合うほど、生身の体験に近くなっていきます)


これが単にカード一枚のことだけではなく、ソウル・パーソナル・イヤーと呼ばれるカードであったり、リーディングにおける展開であったり、大アルカナの全体図でも起こったりするので、本当にお互いの話が自分のことのようになるのですね。


世間ではタロットをしていると、「変な占いなんかに凝ったりして・・・」とか「おかしな宗教に関係しているんじゃない?」「そんな非科学的なことして・・・」など変な目で見られることもあるのですが、それだけに一緒に同じ学びを語り合える仲間や場というものは励ましにもなり、救いにもなるのです。


そもそも人間完成の道を歩むと象徴されるマルセイユタロットにおける「愚者」は、とても変わり者なのです。一般人や常識を超えた人です。


しかしだからこそ、霊的な向上の道を進むことができ、また自分自身は他人視線を気にすることもなく、楽しく希望をもって歩みを進めています。


それでも他のタロットカードが示すように孤独な時もあれば、そうでない時もあります。(「愚者」にも犬が描かれていることを忘れてはなりません)


普通人に世間では見せかけたり、「隠者」のように目立たず、隠れて知識や精神の体験を蓄積している者もいます。


そんな「隠者」においても、同じ数を持つカードに「太陽」があるのは注目すべき点です。


タロットを学んでいること、実践していることを公言しなければならないというルールはありませんし、絶対隠さなければならないということもありません。学び方は人それぞれです。


しかし、孤独よりも仲間がいたほうがいいのはこの世界では言えることです。


また、あなたがタロットの学びと実践を、どのように普段のあなた、または関心のない・理解のないほかの方々の間でやり過ごしていくか、調整・調和させていくのかも、いわば修行でありゲームなのです。


自分はほかの皆の知らない知識を知っていると独善的になるのも危険ですし、逆に普通とは違ってしまった、人に理解されないと嘆くのも不幸です。この折り合いをどうつけ、本当の意味で自分の喜びになるようタロットを学ぶのがよいのです。


そのための材料は実はいくらでも現実の世界に転がっています。ありすぎて困るくらいです。(笑)


あなたのほしいものはほかの世界にあるのではなく、ほかの世界を知る目をもって、この世界を別の観点から見ることで、何でもないものが宝物に見えるようになって得られるのです。


マルセイユタロットの二番目のゲームとは。

マルセイユタロットはここで何度も伝えてきているように、(目的の意味で)占いをする道具ではないというのが私の見解です。


もちろん結果的にタロットで占いができるのは、タロットの種類に限らず、今もってタロットが占いの現場で活用され人気であることでわかります。


これはすなわち、占いに来られる相談者の期待に応えられていることを示すひとつの証明でもあります。


それはさておき、ではマルセイユタロットは何のために作られたのかといえば、私自身はひとつはゲームのためであろうと推測しています。


なんだ、そんなことか・・・と思われるかもしれませんが、ここで言う「ゲーム」とはふたつの意味があります


ひとつは文字通り、普通の遊技・遊びのゲーム(としての道具)。


そしてもうひとつは、この世界がゲームであることを知るゲーム(のためのツール)です。


これを一枚で象徴しているのが「手品師」です。だからこそマルセイユタロットの大アルカナ「1」を持つカードは魔術師(絵柄としても)ではなく、手品師なのです。


けれどもマジックということでは実は共通しているところがあります。(手品のマジックという意味だけではありません)


後世、マルセイユタロットをもとに様々なタロットが生み出されたと考えられますが、たとえばウェイト版を作成した、西洋魔法に精通し博学であったA.E.ウェイト氏も、当然そのようなことは知ったうえでの「ウェイト版」の制作だったと考えられます。


ということは、ウェイト版はあのような絵にする必要があったのだと想像されるのが妥当です。すべてのタロットは制作者の意図をもたされて作られているはずだからです。


翻ってマルセイユタロットの場合は、「この人がマルセイユタロットを作った」という特定の一人の制作者の名前が歴史的には見当たらず(何人かの版による違いの制作者の名前は伝わっています)、そうするとその意図はもっと複数の、あるいは大きなものが隠されていたと見ることもできるのです。


さて、そうしたマルセイユタロットのゲーム性でも二番目の意味、「この世界がゲームであることを知るための目的として使う」場合、そこには技術として占いも入ることはありますが、どちらかといえば、カードをこの宇宙・世界のシンボルとしてとらえ、私たちの通常の認識を一度壊して、再構成するために使う自他の認識のための象徴道具ということになるでしょう。


その意味では大アルカナの絵図を並べるということは非常に意味があります。当然タロットは78枚で一組なので、小アルカナを並べて観察することも意味を持ちます。


ただし、ゲームにはゲームのルールがあり、そのルールが何なのかを知らなければ、本当にタロットは遊びのゲーム道具、いわゆる日本人が思う「トランプ」となってしまいます。


先述の「手品師」のカードでいえば、これをただ絵柄の通り「手品」をしているんだと見れば普通のゲームのことになりますし、その絵柄に別の意味と象徴を見つけることができれば、手品師はまったく異なるカードになって、見る人に迫ってきます。これが二番目のゲームを知るということにつながります。


普通に見るだけでは、手品をしているとしか思えないようにしているのです。


ということは、そういうシステム(表裏の意味を知る構造・仕組み)がマルセイユタロットにはもともとあるのだと思うことができますし、誰かはわからないマルセイユタロットの制作者の意図も、それで見え隠れします。


そして私たちが普通に見ている(認識している)世界というものも、これとまったく同じ構造だと考えられます。


そう、この現実は現実であって現実ではなく、真実は別の見方にあるということが示唆されているのです。


それを知るのがタロットの二番目のゲームということになります。


ゲームですから難易度もありますし、楽しむことが大切となってきます。(笑)


マルセイユタロットを習うと・・・

さて、今日はあまり難しいことは書かず、「いったい、マルセイユタロットを学習すると、どんなことになるのか」ということをシンプルに書いてみたいと思います。


まず、今私の行っているマルセイユタロット講座は大きくわけて3種類あります。


●カルチャーセンターの講座

●基礎コース

●発展コース


それぞれ簡単に言いますと、入門、基礎、発展(プロリーダー養成)的な内容で、まさにほとんど講座の名前の通りです。(^_^;) 詳しくはこのブログの上にありますメニューボタン「サービス内容」をクリックしてみください。

 

このうち、カルチャーではまずタロットになじんでもらうこと、さらには実はタロットは占いだけではなく、自分を見つめ向上させることに使えるのだということを知ってもらうことがメインとなります。


もちろんその結果として、リーディングや占いの入門的なことができるようになります。


そしてこの段階でもっとも大切なのは、普段あまり意識したことがないことを意識してみるということなのです。


それはつまるところ、自己洞察ということになります。ところが、自分を見つめることは他人を知ることにつながり、さらには世界や宇宙(ちょっと壮大ですが・・・)を知っていくことに関わってくるのです。


そうした思考方法や見つめ方を改めて感じ、知るのです。そうするとどうなるかと言えば、まずほとんどの人が「自分の内」に向かいますので、新たな自己の発見があります。


それだけではなく、なぜ自分がこのように感じたり、思ったりしているのかということの理由(理屈に近いですが)が、タロットを通じて直観的かつ論理的にもわかるようになります。


人は未知なもの、整理がつかないことに対しては不安や恐れを抱き、気持ち悪さも感じます。


タロットの作業は、内なる自分(これは外とつながっています)を、タロットの象徴と「絵」で取り出し、まさに実像(絵)として目の前にはっきりと確認することになりますので、それによって目に見えなかった得体の知れないもの(心)は整理されて、腑に落ちるようになるのです。


従って、たいていの人は気づきとともに、何か最初の頃よりも心の落ち着きを感じるようになります。


基礎講座の場合はさらに深くなり、知識的にも多くなりますので、自分の整理のための棚卸しがもっと大きく始まり、最初のあたりは大変なこともありますが、最終的にはかなりすっきりして穏やかになり、その分、実際的(現実的)な影響も大きくなります。(決断できたり、変わったりするということです)


つまりは分析と葛藤を繰り返し、一時的には混乱することはあっても、その整理がタロットによって行われるので、自分にとって世界がわかりやすく再構成されていくわけです。


もちろん問題や悩みはそれからも起こりますが、少なくとも象徴整理ツールとしてマルセイユタロットを知ったあとでは、確実に意識は前よりも進み、体験や経験を昇華・蓄積・意味づけしていくことはやりやすくなっているでしょう。


それでも、タロットを学んでさらに悩みが大きくなることもあります。しかしそれは以前の悩みとは次元の違うもので、新しいあなたにふさわしい課題として起こってくるものです。


おそらく以前のあなたはただ迷うだけだったかもしれませんが、タロットを知った今のあなたは好奇心に満ちて、もっと知りたい、もっと学びたいと思い、自分で問題を解決することに積極的に取り組む姿勢となっているでしょう。


その結果、また一段とあなた自身の成長が加速することになるのです。


またタロットの仲間も得て、自分や相手が困った時・悩んだ時にもサポートしあえる喜びにも巡りあえます。それは年齢や性別などを越えて、通常の友人関係とはまたひと味違ったものになります。(これを私は趣縁と称しています)


このように、マルセイユタロットを学べば得るものは大きなものがあるのです。


なお普段は私は関西で活動しておりますが、今夏、8月下旬スタートを目処に、関東・東京の皆さんにもそれがお伝えできたらと基礎講座を計画しております。またこちらでも詳細を発表いたします。


タロットとホドロフスキー氏の映画

マルセイユタロットの中でも日本ではカモワン版が著名になりました。


ところで、このタロットを作った(数百年前のマルセイユタロットを原盤として再構成した)のはその名前の通り、フィリップ・カモワン氏ですが、もう一人、共同制作者として映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏がいらっしゃいます。


ホドロフスキー氏はすでに高齢な方ですが、心理学をはじめあらゆることに造詣が深く(心理ワークを実際に行っていらっしゃいます)、タロットにおいても研究家・収集家としても知られている方です。


ホドロフスキー氏の日本語サイトを拝見しても、氏がタロットを使い、パリの町でボランティア的にリーディングしているという記載もあります。(余談ですが、氏のタロットの使い方に私はとても共鳴するところがあります)


そのホドロフスキー氏、本業は映画監督ですので、当然作品があります。中でも三部作といわれる「エル・トポ」「ホーリーマウンテン」「サンタサングレ」は氏が「私の息子たち」と称しているくらいですから、一見の価値はあります。


ただしカルト映画といわれるように、一部の人に熱狂的に受け入れられても、おそらく普通の方はちょっと映像的・内容的に鑑賞するのはつらいと思います。


あまりに強烈な映像・シーン・音楽が満載され、昔の映画ですから障害のある方をそのまま役者として登場させたり、グロテスクな残酷なシーンも結構あったりと、今ではまず放映禁止になるのではないかと思うところがかなり多い作品群です。ですから耐性覚悟のある方にしか、お勧めいたしません。


しかしながら、象徴としての解釈をしていくと、そのシーンの数々は魅力的かつグノーシス的ともいえるテーマにちりばめられており、マルセイユタロットの象徴をある程度知る者にとっては深く考えさせる作品ばかりです。


たとえば「サンタサングレ」


もちろんいろいろなことを作品から感じるのですが、一番思ったのは、今、母性や女性性の事柄(復活)が、特に精神世界やスピリチュアルに関心を持つ人の間では言われていますが、この母性も行きすぎると大変なことになるということです。


この作品では主人公の男性が、両親の関係に起因するある事件に遭遇したことから、精神を病み、母親に支配されるようなストーリーが展開されるのですが、この残酷性と解放の過程が極めて象徴的に描写されています。


もちろん男性性も含めて、何事も行きすぎたり、足りなさすぎたりすると問題が生じますが、一見精神世界ではよいと思われている母性的なことも、行きすぎるとその受容性によって、対象を取り込みすぎ、象徴的に言えば相手を自分の子宮の中に閉じこめ殺してしまうことになります。


子宮は本来産み育てるものですが、反対にその中から出さないとすれば、自由を奪うものとなります。


簡単に言えば過保護による相手への過干渉と支配ですが、これは愛というよりエゴに近くなりますね。


「サンタサングレ」では、強圧的な母親から息子の主人公を解放するのは、これまた女性の役割になっています。(実はほかにも「愚者」や「四大元素」を思わせる人たちも寄り添うのが印象的ですが)


この解放する女性と支配の母親との対比が見事で、一見かなりグロテスクですさまじい描写ですが、意図的な配置を双方にきちんとしているのがわかります。


これらはマルセイユタロットを学んでいると、非常に明確に理解することができます。(知識だけではなく、タロットが「絵」であるので、映画の映像とリンクさせやすいこともあります)


結局男性(性)をスポイルし堕落させるのも、解放し発展させるのも女性(性)なのです。当然ながら、その逆もまた真なりです。


女性性・男性性は、人としては男女として体現されますが、すべてはエネルギーと考えれば、結局その質の違いとバランスによって、人も世界も下降や上昇を繰り返すということになりますし、一切の解放もその真の合一にあることがわかります。


タロットや古代の象徴に興味のある方、また覚悟のある方(^_^;)は、ホドロフスキー氏の映画を見てみてください。


タロットリーディングの上達には。

何事も基礎からコツコツ積み上げることで、完成や一定のレベルに達することができます。


これはタロットリーディングにおいても同様です。それは「神の家」というタロットカード自体がよく表しています。


しかし最初からよく読める人もいないわけではありません。


その場合はたいてい現実的な理由と目に見えない精神的・霊的な理由があります。


現実的な理由というのは、ある技術や知識で相当なものがあり、いわばそれによって直観力がすでに備わっている人の場合です。


仕事ができる人、ある芸事に秀でた人などはこのタイプになります。


言ってみれば、自分のフィールドによって培われた経験によるカンがさえている人で、それは本質を見抜く目をもっていることになります。こういう人は実は何をやっても鋭くなります。


ですが、逆にいえばタロットによってそれを身につけることもできるのです。


もうひとつの現実的・常識的理由ではないものですが、これは正しいかどうか証明は難しいのですが、過去生ということをふまえますと、過去に自分の魂が似たような経験をしてきているというものです。


魔女や修行系みたいな人が多いかもしれません。


こういうタイプの人は直感力が働くのですが、同時に何か「これをやってはいけない」というような抵抗感も生じることがあり、せっかくの才能(経験)を殺している(抑えている)場合が見受けられます。


おそらくタロットや霊的な何かを過去していて、魔女狩りとか不幸な体験をした記憶があるのでしょう。


ただ私は、魂の輪廻転生は霊的な考え方のひとつとして信じていますが、純粋にひとつの人間の心が繰り返し転生するとは思っておらず、いわばそれぞれの記憶・データ(人生経験)の一部が取捨選択・複合されてまた新たな魂に組み込まれると想像しています。


ですからタロットに関連する過去生があったとしても、それは今の自分というより、過去の誰かの記憶や体験を有して生まれ持っていると言えます。


しかしここが肝心なのですが、そのデータを入力されて生まれる理由があったということが大事なのです。これがカルマのようなものだとイメージできます。


それはともかく、こうした過去生的なものの記憶と経験により、タロットを読む時、直感力が働くので最初から読める人もいるのだということですね。


あとこれは現実的な理由になるのですが、タロットと似たような象徴ツールを使いこなしている人、理解のある人はやはりタロットリーディングにはなじみやすく、特に西洋占星術・カバラは根としては同じものを共有していますので、相性はよいでしょう。


ところが、それらでも表面的な知識だけでいて、さらにそれが凝り固まった状態の人は、かえってタロットが読みづらくなります。それは象徴を象徴として理解せず、ただ暗記のような形で物事を覚えてしまっているからです。


当然ながら、占星術でもカバラでもタロットとは相容れない解釈の部分も出てきます。


特にマルセイユタロットはマルセイユタロットとしての独自性・孤高性があるため、後世によくある、占星術・カバラ(の生命の木)になぞらえてタロットが作り直されたというようなものでないと考えられますので、それが顕著です。それでもそれぞれを象徴として理解していれば、融合させることも可能なのです。


話がそれましたが、このように初めからタロットになじみがあって、たとえ比較的よく読めたとしても、やはり積み上げがないままではやがてすぐ限界が来ます


うさぎと亀の競争ではないですが、結局は亀のようにコツコツ蓄積していったほうがよくリーディングできるようになります。


もともとなじやすい人の上に努力も続けられる人となると、相当すごいことになるでしょう。


しかしながらそういう人は、ほかの技術や分野で活躍することも多く、タロットそのものを極める時間と情熱はあまりないかもしれません。


いずれにしても、このように継続してタロットを追求いくわけですが、人によって蓄積されたものが爆発(解放)されるにはタイムラグ(時間のずれ)があります。


それが長い人もいれば、短い人もいます。


これは少しずつタロットが理解できたり、リーディングがうまくできたりするようなことだと思えるかもしれませんが、確かにそれはそうなのですが、リーディングの場合は、突如としてよく読めるようになることがあります。それに至る時間の(ズレの)ことなのです。


いわばコップに水を注いで、それがあふれ出すための時間ということになります。このあふれ出した瞬間こそが、突然にリーディングへの開花があったということを示します。


これはスポーツや芸事でのコツをつかむことにも似ています。


指導を受けながら努力を続け、それでもなかなかうまくいかない時もありますが、急にある瞬間にうまくできるようになる、コツがわかるというものなのです。それはもちろん積み重ねた努力あってのものです。


それゆえマルセイユタロットの「神の家」は内から爆発したようにも見えますし、外から衝撃を受けたようにもとらえられるうえに、下段からしっかりとしたブロックが積み上がっているのです。


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