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学びのアンバランス
学びのアンバランスということが、今日はタロットを通じて浮かんできました。
これはいろいろな意味があるのですが、今回は学ぶ側と教える側という立場の違いで考えてみます。
もし、あなたが何かを学習していて、誰か先生に教えてもらっているとします。
あなたは好奇心に満ち、あれも知りたい、これも知りたいと思っていることでしょう。特に今自分が学んでいることについてはなおさらです。
そんな中で、あなたの質問に対して、先生は全部答えてくれることもあるでしょうが、そうではないこともあるはずです。
いわく「自分で考えなさい」などという言葉とともに。
こんな時は、学びの段階・理解度を先生は考慮していて、さらには自らで気がついてもらうということを重視しているのです。
そのほうが、どんな内容であれ、本当に自分で理解することにつながるからです。
ですから、何でもかでも、生徒が知りたいと思うこと、質問することについて、先生はすべてを答えてしまうわけではありません。
またたとえ答えを言ったとしても、それが本当の意味での「答え」として生徒が理解できるのかは、生徒当人の学びの進度(深度)にもよるのです。
高度な数学をいきなり教えても、算数がわかっていなければ、わけがわからないのと同じです。
一対一や、生徒のことをよく見ることのできる先生との関係にあればまだいいのですが、不特定多数のセミナー形式になりますと、人の価値観・レベルはまちまちなので、先生の語る内容を受け取るのでも、人によってまさに千差万別のものとなります。
この場合は、理解度の違いということもありますが、セミナー参加者が皆大人ということであるならば、価値観・正義(正しいと思っていること)感、関心の違いによるばらつきが大きくなると言えましょう。
理解度の格差が縦のアンバランスだとすれば、興味や関心・価値の違いは横のアンバランスだと考えられます。
学習においては、この両方のアンバランスがあることを、受ける側も考慮しておかねばなりません。
先生や講師の言っていることがさっぱりわからない、関心が起きないということは、もちろん先生自身の表現の問題もありますが、受けているあなたと先生側の、縦か横のアンバランスが生じている場合が多いのです。
先述したように縦のアンバランスは、先生とのラポール(親密な関係)がついている時、あるいは先生がとても優れていて観察力が鋭い場合は、そのアンバランスさをうまく学びの階梯(段階・はしご)として調整してくれます。
しかし横のアンバランスはそもそもの価値観が違いますので、自分と価値観の合う別の先生・内容のものを選び直す必要もあります。
講師や先生が、生徒や受講者の価値に合わせて変化させることはまずありません。
なぜならば、その先生はその先生の信じる価値観での講義がウリであり、それを行うのが仕事だからです。
ところでマルセイユタロットでは学びの伝達を意味するカードは数種ありますが(タロット自体がそれでもあります)、特に「法皇」はその意味において象徴的です。
「法皇」を観る場合、語っている法皇自体につい目が行きますが、その話を聴きに来ている人たちがいる(描かれている)ことも忘れてはなりません。
それが自分の場合もあるのです。そして、マルセイユタロットの場合、大アルカナの数の順序が、あらゆるものの段階を示していると取る説があります。
それによれば、「法皇」は5番目の数を持つので、少なくとも前に4つの段階が必要なことがわかります。
普通はこれを「法皇」、つまり人に何かを伝える法皇自身に達する段階でのことだと想定されるのですが、聴講している人たちもそうであると見なすことも可能なのです。
つまり、法皇の話を聴くのには、その資格のような段階(に達した者が聴けるという前提)があるのだということです。
マルセイユタロットでいえば、「手品師」が「法皇」の話を聴いても、手品師は手品師レベルの(学び・価値観)でしか受け取れないということになります。
とはいえ逆にいえば、「手品師」から「皇帝」(数では1から4番目)の段階を踏めば誰でも「法皇」になれますし、法皇の話の本質を聴くこともできる(法皇の語ることが本当の意味でわかる)ようになることが示唆されています。
学びのアンバランスは、冷静に見つめ直すと、結局自分のバランス回復に役立つのです。
マルセイユタロットの構造を知る
タロットには全部が1つで、1つが全部(全は一、一は全)であるという構造が隠されています。
これを知ること、実感することがタロットの活用のポイントでもあります。漫然とただタロット占いしていてもわかりません。
まずは基本的な、タロットの目に見える形での構造と構成を学び、その後は自己研鑽によってタロットそのものから世界の構造を知る努力(目に見えない領域を含む)をしていきます。
その過程においては、人にリーディングしたり、占ったりすることもありとなります。つまり、目的意識をもって実践することが大切なのです。
これは言ってみれば、人を占いにより援助するという目的と同時に、別の目的(タロットによって世界を知る)も内包させるということです。実践には二重の効果を持つことになるのです。
そしてこれ(多重の意味を持つ実践)こそがマルセイユタロットの「手品師」の意味するところでもあります。(マルセイユタロットの大アルカナ「1」を「魔術師」ではなく、「手品師」と呼ぶ理由もここにあります)
おそらく何を言っているのか、マルセイユタロットの解説を受けたことのない人にはわからないでしょう。
しかし「手品師」の絵の象徴について知っている人にはわかるはずです。こういう仕組みが口伝であり、アルカナとも呼ばれる伝授システムなのです。
さらにマルセイユタロットのすごいところは、その「手品師」の意味と絵柄がほかのカードとも有機的・象徴的・実的に関連を持ち、細部の部分まで工夫して図柄が描かれていることです。
いわば「手品師」一枚だけで「手品師」のカードが成立しているのではなく、「手品師」が「手品師」のカードとしてあるためには、ほかのカードがなくてはならず、逆にほかのカードも「手品師」のカードがないと成立しえないという構成になっているのです。
もし簡単にこの意味を知ろうとするのならば、身近にはトランプとゲームの関係を見てみるとよいでしょう。
もしトランプで、一枚でもあるカードが欠ければゲーム(全部を使うもの)はできません。
全部というゲームを楽しむためには、たった一枚でも重要です。
またカードそれぞれは個性(数や4つの組・スート)を持ち、それがそろうとひとつの全体としてのゲームが成立します。さらにいえば全体のカードを使うゲーム、それ自体にたくさんの種類(これがひとつの世界です)を持ちます。
こうしてみると、七並べなどは単純ですが、よいゲームだと言えます。
トランプもスートの意味や構成を知らされないと、単に遊びの道具ですが、タロットと同じ根があり、タロット的なスートと数の意味がわかれば、トランプはまったく違ったものとして登場してきます。
タロットに話を戻しますが、タロットを扱うと、私たちは偶然タロットが当たったり、タロットが世の中のことに当てはまったりするかのような感覚を覚えます。
しかしそれは偶然ではなく必然で、逆でもあるのです。
なぜならばタロット(特にマルセイユタロット)があらゆることに当てはまる型・図形をもともともっていて、意図的に描かれているからです。
簡単にいえばマルセイユタロットは宇宙の縮図であり、モデルなのです。
ですから、そのモデルの投影と表現である現実世界(目に見えない世界においても)とタロットはリンクするのです。
さらにいえば私たち(人間)自身もモデルの発展・個性表現です。
ですから、タロットの世界を探求することは自分につながり、自分(人間の構造)を知ることにもなってくるのです。
すべては自分のせいなのか?
スピリチュアルや精神世界の考え方ではよくありますが、「起こることのすべては、自分に意味や責任がある」というものがあります。
これも実は良し悪しがあります。
まずよいことは、発生している現象面そのままに解釈することをせず、別の側面や観点から物事を見ることが可能だという点です。
つまりは感情的に喜怒哀楽によって振り回されにくくなるということでもあります。
また特につらい体験や厳しい事柄に対して、肯定的・ポジティブにとらえることもできます。
しかしながら何事も悪い面はあり、すべて意味があるのだと考えすぎてしまうと思考やアイデアの罠にはまり、何が何だかわからなくなるばかりか、極端にいえば、世界のネガティブなことはすべて自分に原因があるということまで行き着いてしまうようになります。
となると心の解放どころか、その考え方に囚われ、必要以上に自分を責めるようなことにもなりかねません。
この世界は自分のモノの見方や思考、感情、その他自分の備わっているものによって認識され、再構成されて私たち自身が見ていると考えれば、仏教的にいえばすべて「空」で実体のないものになるのかもしれません。(個人の思いで認識方法が変わり、世界も変わるため)
ただ私個人としては「空」の概念は逆もまた真なりで、「何もない」という解釈とは違うと考えています。いわば空は別次元での実でもあると思っています。
それはともかく、私という「個人」の人間存在と、他の人という、これまた別の個人の存在とが交流・反発・反響など繰り返しながら世界は成り立っています。
この人間同士によって発生した関係は、また「縁」であるとも考えられ、この縁は複雑多岐に関連しあっているものと想像できます。
とすれば、個人一人だけの発想・思考・行動によってすべてが結果として出現するのではなく、多重なる縁によって結果も変化、実現していくと想定できます。
ということは、結果や現れている状態は、確かにあなたに起因しているかもしれませんが、すべてあなた個人で行われたわけではないのだと思うことができます。
むしろ、人のせいということすらあります。
たとえばあなたが、「人の役に立つよう使ってくれ」と誰かにお金を与えたとして、そのお金を受け取った人がもしも悪いことにそれを使えば、結果はあなたが思っていたこととは違うものが現れるでしょう。
これは確かにあなたがお金をあげたということは起因ですが、ここに何らかの縁が働き、悪人によってお金が使われたことであなたの思いや想像とは変わったものが現実化されたのです。
これをもともとお金を与えてしまったあなたのせいだということもできますし、悪用した人が悪いのであって、あなたのせいではないということもできます。
この場合は至極単純なケースなので、むしろ人を見抜く目がなかった自分が原因だと考えがちかもしれません。
しかし、この間々にたくさんの人や多くの事柄が入り、お金も善意の人に一部回って、そのまた一部はよからぬ考えの人に回っていくとなれば、さらに複雑になって、最初の人が結果に責任を持つべきなのかどうかわからなくなってくるでしょう。
ですからすべてを自分に帰することも、反対に人のせいや環境など外のせいにしてしまうのも、どちらも行きすぎは問題だということです。
ただ究極的には「縁」を発生させているのは、ほかならぬ自分(の奥にある種)だということが精神世界ではいわれることであり、その種の種は、実は自分というより人類全体の記憶庫のような無意識層にあるのだということが語られています。
肝心なのは、自分にすべて原因や責任があると見たり、他人に責任転嫁したりするのではなく、このようなことを考察することによって、縁を発生させる自分や人類の種・根、その仕組みを見ていくことにあると思います。
つまり、私たちの成長や発展のための考える材料、禅でいうところの「公案」(師から与えられる悟りのための問い・問題)なのです。
ですから、この点さえ意識していれば、時には人のせいにしてみたり、自分が原因だったりとしてもよいと私は思います。
特にスピリチュアルなことに関心のある人は、心のバランスを取るためにも、人のせい(のこともある)という考え方を取り入れたほうが、自分が楽になることがあります。
それは内向きばかりではなく、外向きに目を向けることで、逆に内なるものがよく見えるようになるからでもあります。
規則やルールを決めて、力を得る
マルセイユタロットの「正義」や「神の家」を見ていますと、ある力・パワーのことが浮かんできます。
あ、そういえば「力」という名前のカードもあって、それと関連させることもできますね。(その場合は数では隣の「吊るし」とセットで見るとわかりやすいです)
その力(パワー)とは、何か自分に決まり・ルールを設定し、それを遵守することで生まれる「力」です。
人は自由であれば大きな力が発揮できると思われがちですが、本当の意味で自由になることは難しいものです。
逆に何かの制限や決まりがあれば、そのことで集中力、あるいは圧縮するエネルギーが生まれ、爆発的なパワーを目的によっては注ぐことができます。
特に自分が快楽や楽しみだと思っているものにブレーキをかけると、その反動がエネルギーとなって現れます。
ゆえに昔から縛りや労苦をかけて、目的を達したり、自分を成長させたりするようなことが行われてきたのです。
ここで大事なのは、必ず決めたルールは守るという自分との約束(コミット)です。
これを破ると、溜めていたパワーのコントロールを失い、時に危険さえ伴いますし、守れなかった自分を責めることにもなりかねません
ですからいわば、この方法は諸刃の剣なのですが、自分にとって「これを制限させられるとつらいな」と思えるものであればあるほど、そしてその期間が長くなればなるほど、ルールが守られている限りは、とてつもない力を持つことになります。
この方法は悪い習慣などを止めたい時にも有効です。ただその分、必ず誘惑もあるので、注意が必要です。
私の経験から、この「ルールを決めて力を発揮することを行う」と決意した場合、誘惑や規則を破るような「間(魔)」が差すことは、大きなもので3回あると思います。
この3回をクリアーできたら、あとはかなりの面で自然に約束を守り続けることができるでしょう。
このうち3回目は、それまでの2回とは質の違うもので現れますので、相当な注意と覚悟が必要です。
それまでが比較的目につきやすく、わかりやすい形で誘惑が来るのに対し、3回目は一見それとはわからないもので来ますので、欺されるのです。(これはカードでいえば、まさに「悪魔」です)
いずれにしても、解放や自由ばかりが叫ばれる昨今ですが、自分に負荷をかけたり制限をかけたりすることで、力を得たり、成長したりする方法もあると覚えておかれるとよいでしょう。
明日の日食に向けて
明日は金環日食ですね。
一大天体ショーなので、近づくにつれ報道も増え、いろいろと巷でも話題になっています。
明日の観察に向けて準備万端の人もいらっしゃるでしょうし、グラスが入手できず、とりあえず待つだけという方もいらっしゃるでしょう。また「別に関係ない」として、普通の日常を過ごす方もおられるでしょう。
これはまさに個人の自由であり、どう受け取ろうがその人次第です。
さてそうした中で、やはりタロットの学習をされていらっしゃる方は、この天体の特別な並びに関心を寄せられている方は多く、敏感な人はすでに何かを感じ取られているかもしれません。
せっかくですから、前日の今日や当日に、タロットを展開してみるとよいでしょう。
その際、自分のことの問いをしてもよいですし、しなくてもよいです。展開方法も自由ですが、複雑なものより、シンプルなもののほうがメッセージを得たり、インスピレーションがわいたりして、わかりやすいと思います。
何とか意味を読み取ろうとするよりも、今回は、このような天体配列の特別な日・節目にタロットを引くこと自体に意味があると考えればよいでしょう。
これまでの期間においても、講座の場や受講生のために今回の日食をテーマにしてタロットを展開した場合、不思議と太陽と関連する配列のカードが出る(「太陽」そのものカードは逆に出にくいかもしれません)ことが多かったです。
また個人的には「月」のカードと日食は関連があると思っており、ずっと日食とタロットをイメージしていますと、「力」と「斎王」も背景に浮かんでくる気がしました。
「力」では「力」の女性もそうですが、彼女の抑えているライオンにもいろいろなことが関係しているように思えます。単純に「目」にも気をつけたほうがいいでしょう。
今回は天気が悪い予報が出ていますので、直接日食グラスを通してうまく観察される方は案外少ないのかもしれませんが、それだけに直接の観察ではない内的な観察というものの意味が深くなるような気がしております。
明日は事前に引いたカードともに日食の時間を過ごすのもよいでしょうし、周囲のざわめきとは別に、自らは静寂な観察を心がけてもよいと、イメージされるタロットからは伺えます。
少なくとも、多く人と一緒に観察していても、その瞬間は一人の時間を大切にするとよいでしょう。
私自身は日食グラスを入手できなかったこともありますが、もともと直接の観察意欲が不思議と少ないものでしたので、おそらくそうした内的な意味があると想像しています。
ですから報道や他の人の観察に惑わされず、自分自身の思いとやり方で(もちろん危険のない方法で)観測すればよいのだと感じます。
その意味では、「日食なんて関係ない」と思われる方はそれはそれでOKだと思います。そういう時は、まさにもっと重要なことがその人にはあるのです。
科学的で正しい判断と方法を心がけながら、選択と行動は自分の感性に任せるというのが、タロットを通じた私からの提案です。